テニスのページ

 

テニスと私

 

現役最多級の偉業(?)

 

東芝に勤務していた頃、毎週土日曜日に起きて最初にすることは決まっていた。それは窓を開けて天気を確認することである。ちょうど子供が遠足の当日にするように。「ああ、今日もテニスができる」…そして幸せな週末が始まるのであった。「休日はよほどのことがない限りテニス」と決めていたので、テニスを軸に私の余暇生活は回転していたと言ってよい。毎年合計120回に及ぶテニスコート通いを続けていた。いわき市平に居を移した現在でこそ週5回のプレイをして「平周五郎」を自称するほどになっているが、現役サラリーマン時代からして既に周二郎ないし周三郎であったわけである。1年は52週余だから土日曜日は合わせて104回にしかならず、しかもテニスのできる好天ばかりではない。祝祭日は勿論、1日で2箇所以上コートを代えての転戦や、平日の終業後のプレイがなければ、この年間120回という現役最多級の偉業(?)は達成できなかったところであった。余暇生活の過ごし方にも究極の解はない。これも「自分にとってテニスが考え得るベスト」とする“仮説”の賜だろうと思う。都度当日になって余暇の過ごし方を考えていたのではこうはいかない。

 

家族も顧みず

 

まだ幼い子供の面倒を見ることもせず、休日になるとラケットを抱えて家を“出奔”する私は、時として親しい友人達からさえ非難の的となった。だが、我が家には「家族メンバー間でお互いに不必要に束縛し合うべきではない」という家族関係仮説(私の独断?)があった。現に、私が家族の手前自分のしたいこともせずに家にいたとしても、家族に対して大した面倒見はできっこない。だから、通常の週末は思いきってテニスに出かけてしまい、その代わりに、家族サービス・デイと決めた日には、家族、特に子供の好きなように時間を過ごさせ、私はこれに100%サービスを尽くすことにしていた。とは言いながらも実は、家族をないがしろにしているという“世間の目”が気にならない訳がなく、内心に忸怩たる思いの部分があったのは事実であった。しかしやがて、これは杞憂であるということが分かった。子供が幼稚園で描いた父親像に私が高らかにラケットを掲げている絵が描かれていたのである。ちなみに、よそのお子さんのは、寝そべってテレビを見ている父親の絵が大半だったそうである。もし私が家族を慮って家にいたとしたら、きっと同じような絵を描かれていたことだろう。私のテニス姿と「お父さんテニス頑張って」といった類のメッセージは、引き続いて父の日や誕生日に寄せられた娘達からの手紙に現れた。きっと、子供達の目にも大切な時間を一生懸命に費やしている私の姿が好もしく見えたのだろう。ここでも私の家族関係仮説の正しさが検証されたと思っている。

 

汗を流し合って

 

「汗をかけなければスポーツではない」と言う説を私は支持している。ゴルフでも冷や汗はかくことはあるし、真夏のラウンドでは汗びっしょりになる。しかし、これはいずれも体を動かした結果の汗とは違うような気がする。そこへゆくとテニスは紛れもなくスポーツである。厳寒のシーズンであっても、最初のうちこそダルマのように着込んでいても、ほんの10分も動けば半袖シャツでプレイを続けることができる。一つのボールを打ち合う間柄には年齢、性別、役職等の隔てが一切ない。現に、テニスで知り合っただけの若者の結婚披露宴に招かれることがある。年恰好からすれば私は「上司」か「先輩」が相応なのだが、座席表には「友人」としてあり、そんな時には気恥ずかしくも誇らしくて嬉しい気持になる。しかし、お互いに勝負けを競いながら汗を流し合っているのだから、まさに「友人」関係でしかない訳である。そして、若い友人達から教えられ気付かされることが存外多い。例えば、「最近の若い者」の動向である。私達テンション世代にとっては、温泉は湯治場であったり団体旅行や登山の際に訪れたりするところでしかなかった。「ゆっくりと温泉で時を過ごしたい」という若者層が増えているのを知ったのは大分前のことである。それを知って、日本人の余暇感覚も欧米人のそれに近づいてきたんだなあと、時代の変遷を実感したものである。

 

先ずはテニススクールへ

 

私の出身校“名門”小田原高校はかつて軟式テニスが強かった。そんな影響もあって、高校時代はよく仲間と軟式テニスに打ち興じたものである。しかし、硬式テニスは、社会人になってから2-3回ラケットを握ったことがあるだけで殆ど私には無縁の存在であった。年120回ペースへのきっかけとなったのはある日新聞に折り込まれたテニススクールのチラシであった。「何か体を動かすことをしたい」と漠然と思っていた自分の目に、すぐ隣にある茅ヶ崎市のスーパーが催すテニススクールはなんとも魅力的に映った。そして、入会したテニススクールは実際に魅力的であった。35歳前後のことだったがスクールにはほぼ同世代の同志達がいて、密かにお互いにライバル意識をもって技術向上に励みあった。そして、次第に、お互いに予約できた市営コート等に誘い合わせるようになり、テニスを楽しむ機会も段々と増えてきた。また、たまに行なうアフターテニスの一杯会が底抜けに楽しいのだ。勿論、近在の仲間同士だから終電を気にする必要はないし、仕事の悩みや職場での人間関係に対する愚痴も一切なし。ひたすら好プレイを称え合い、珍プレイに話の花を咲かせる。実際、テニススクールに入ることがきっかけとなってできた交友関係は幅広く“元スクール・メート”の数は多い。「テニスを始めたければ先ずテニススクールへ」と私は勧めることにしている。

 

「飲む」ために「打つ」

 

毎週金曜日の夜は麻雀か呑み会かのどちらかに決まっていた。「金曜日の夜を健康に過ごしたい」という気持と「テニスがうまくなりたい」という気持が重なって、辻堂への帰宅の徒路JR川崎駅で降りての「アメリカン・テニス・スクール」通いが始まった。1986/8/22(金)のことで、御年45歳の時であった。「若い人ばかりの中で中高年の自分は一人だけ浮いた存在になっちゃうんだろうなあ」という危惧が的中して、しばしは誰との会話もない寂しい思いのスクール通いが続いた。しかし、回を重ねているうちに若者たちも「このオヤジ、害はなさそうだ」と瀬踏みしたのだろうか、ある時ためらいがちに「佐々木さん、僕たちスクールが終ってから一杯やるんですけど一緒にどうですか」と声をかけてきた。この誘いに乗って、“無害”ぶりが実地認証されたためか、私は以降アフターテニス呑み会の常連になった。何のことはない、毎週金曜日夜の呑み会を嫌ってテニス・スクール通いを始めたのに、飲み始める時間が遅くなっただけという結果になった。しかし、テニス・レッスンで一汗かいた後の一杯は何とも心地よいものである。そのうえ“スクール・メート”の若者たちとの団欒がとびきり楽しいのである。楽しさが講じて、そのうちに「トップスピン・テニスクラブ」なるチームが出来上がり、コートを代えての大会や合宿を行なうような運びになった。若者たちはただ一人中高年の私に分け隔てなく接してくれた。私の「新人類」に対する偏見がすっかり払拭されたのも「飲むために打つ」テニスのお陰だと思っている。

 

“非ステテコ文化”との出会いの衝撃も

 

そんなある金曜日の夕刻、「アメリカン・テニス・スクール」でいつものように着替えをしていた時、一人の若者(金箱省吾さん)が声をかけてきた。「佐々木さん、珍しい物を穿いておられますね。それって何ですか?」。問われて私「えっ?」。取り立てて珍しい物は身につけている覚えがないからだ。そこで若者の指差す先を見てみると何と普通のステテコであった。「普通のステテコだよ」と答えながら周囲を見回してみると、そこではそれが決して「普通」ではないことに気がついた。「最近の若い者は誰もステテコを穿いていない!」という発見は衝撃であり、これに気付かぬまま「珍しい物」を穿いている自分がひどく恥ずかしくなった。そこで、次の週の月曜日出社するやいなや、私より6年先輩の瀬戸さんにステテコの一件をご注進に及んだのだが「佐々木くん、今頃何を言っているんだい。我が家ではとっくにステテコを止めているよ」とのご託宣であった。どうやら、「最近の若い者」の息子さんのおられる瀬戸家では「家庭内ステテコ論争」が既に終っていたらしい。若者と先輩の狭間で取り残されてしまっていた自分を省みて「文化の伝達は必ずしもリニアではない」という仮説の正しさを感じた。“非ステテコ文化”の継承順は「息子世代→父親世代→叔父世代」であり年齢順に伝わったのではないのである。因みに、衝撃を受けてから23週の金曜日は俄か非ステテコ族になりすましてスクール通いをしたが、汗をかいた脚が直接ズボンの生地に触れるのが心地悪くて馴染めないので、すぐさま開き直ってステテコ族で通すこととした。何もかも無理して若者たちにあわせる必要はないのである。お互いの違いを認め合ってこそ気楽なお付き合いができるのだと思う。

 

 

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