ヨーロッパ三感トリップ |
66歳で6年ぶりの
実際には四感トリップであった |
☆☆☆ 奇行士たちの紀行録 ☆☆☆ |
ツンドラの上空を超えて |
さらばジャパン 思えば飛行機に乗るのも同じメンバーで行った「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」以来6年ぶりのことである。中華航空のボーイング機が那覇空港で炎上する事故を起こしたばかりでもあり、ボーイング737に乗り込む我々にも一抹の不安がよぎる。しかし、国籍も様々な人が乗り込んできて座席はほぼ満杯。BA(British Airways)008便は予定通り13:20成田を発った。さらばジャパン、16日間後また会う日まで。 窓際体験の分かち合い 我々が与えられたのは窓側の3列。山本の発案で、気分転換とエコノミークラス症候群を防ぐするため、2−3時間ごとに座席交換をすることにした。野球の7th inning stretchではないが、時折立ち上がって伸びをすることによってエコノミークラス症候群を防ぐとともに、幸運な窓際体験を分かち合おうというものだ。早速、窓際に座った山本が、なにやらナレーションを入れながら機窓からハンディ・カメラで離陸風景を撮っている。
整然とした住宅街
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UK is not OK. |
募る英国不信感 やがて、飛行機が着陸態勢をとろうとするころになって、入国手続き書類を準備するよう機内放送が流れた。機を見るに敏い山本が早速メモの手を走らせ始めたが、不意にその手が止まった。「“年金生活者”は英語でなんと言うのかなあ」とブツブツ。つまり、「職業」の欄に“無職”という選択肢が書き込まれていないのだった。何かい、イギリスってところは、定年退職者は来ちゃいけないってことなのかい?次いで、山本の手が止まったのは「宿泊ホテル」の項目であった。7月8日に熱海で行った事前ミーティングの際に水口が配布してくれたリストを持参してきたのだが、改めて見てみると、その中の英国滞在第一日目(8月26日)の欄に「予約済みだがホテル名はパリの自宅に忘れてきた」とあったからだ。おいおい、イギリスでは泊まるホテルまで報告しなきゃならないってのか? テロの脅威も自業自得 しかし、我々に募るイギリス不信感を取り除いてくれたのが、多少年配のようだが上品で優しい日本人スチュワデスであった。「職業」については”retired”、 「宿泊ホテル」については「友達が予約済み」でよろしいでしょうと丁寧に教えてくれたお陰で我々の小パニックはおさまった。すると、今度はイギリスのおかれている立場が冷静に見えてきて、「ああ、そうか、イギリスはテロを警戒しているから“宿泊ホテル”までチェックしなければならないのか」と分かったような気分になることができてきた。しかし、これも自らまいた種なんだぞ。米国ブッシュ(Bush)大統領の口車に乗って、ブレヤ(Blair)前首相がイラクに出兵したりするからこんなことになるのだ。同じく、アメリカのイラク侵攻に対して真っ先に支援の意を表した小泉(Koizumi)前首相と、ついでに北朝鮮の金(Kim)総書記を加えたBKBKカルテットを捉えて、「“馬鹿馬鹿しい”という言葉は“BKBKしい”に由来する」という珍説まであった(実は、made by myself)ほどなのだから。 ヒースローは超スロー そうこうするうちにBA機はほとんど予定時刻どおりに16:55ヒースローの滑走路に着陸。9,000キロ12時間近くの長旅なのに、ほぼオンタイムで成田からヒースローまで運航してきたのだからBAのパイロットの腕前は大したものだ。かつて、スペイン、ポルトガル、オランダなどと海上で覇を競った航海技術が脈々として航空技術に受け継がれているのであろうか。しかし、BAのスチュワデスとパイロットのお陰でイギリスの評価が上向いた矢先に再び鬱陶しい事態が始まった。他の乗客ともども席を立って通路に並ぼうとしている時に「搭乗口が不具合のなので少々お待ちください」というアナウンスが流れたのだ。しかも、その後、時をおいてそのアナウンスが繰り返されるだけで、「少々」が少々ではなくなって「焦燥」になってきた。水口が空港出口で我々を待ち焦がれているはずだからだ。 行く手を阻む「UK Border」 途中で機内放送の内容が「バスが参りますので少々…」に変わったのだが、そのバスも一向に姿を現さない。ようやく、BAのバスが飛行機の窓外に見えたのは、着陸後かれこれ1時間過ぎた頃であった。しかし、ヒースローの超スローぶりは、これにとどまるものではなかった。我々の向かった入国審査所に長蛇の列ができていたからだ。九十九折状に並ばされた長蛇の先に十数台の審査台が横に並んでいて、この背後の壁に「UK Border」の貼り紙が随所に貼ってある。従って、我々は行く手の「UK(United Kingdom:大英帝国)のBorder(国境)の壁」と対峙する形となる。しかも、審査台の一部にしか事務員がおらず大半の審査台が遊んでいるので、行列は遅々として進まず、結局我々がUKの厚い壁を潜り抜けるまでに更に1時間かかってしまった。飛行機の乗客数は予め分かっているはずなのに、入国審査の人員を十分配置せず、外来者を待たせるだけ待たせておくのが大英帝国の誇りだとでも言うのだろうか。UK is not OKだ!出口で待機しているはずの水口に連絡する手立てもないまま焦燥感を募らせていた我々は、UK Border越えを許されるや否や、つんのめるような足取りで空港出口に急いだ。 さて、ヒースロー空港出口 水口は、さぞ待ちくたびれていることだろう。先ずは、BA及び入国管理事務官に成り代わってお詫びをしなくちゃ。ところが、お詫びしようにも、水口の姿が出迎えの人々の輪の中に見えないのだ。待ちくたびれて帰えっちゃったのかなあ、まさか。それとも、連絡の手違い、いやー、そんなはずはない。脚を止めて思案していると、何かにつけて正義派の山本が「こんなところに立ち止まっていたら迷惑になる」と言って出迎えの輪の外に出ようとせっつく。中沢は中沢で、「電話連絡しなくちゃ!」と公衆電話の方を指差す。こんな時には動かず冷静にしているのが一番なのに。案の定、ビデオカメラを構えた水口が我々の前に姿を現したのは数十秒後のことであった。そして、にこやかに笑いながら「ドッキリカメラの真似をしていただけさ」と軽く一言。BA機乗客の遅れについては予め人づてに聞いていたらしく、また、入国事務に時間を要するのは日常茶飯事なので、ほとんど焦らず腹も立てずに待機していたのだそうだ。そうとも知らず、小パニックに陥ってしまった我々の姿は水口のビデオカメラの中に収められることとなったわけである。 |
ロンドン市街点描 |
初めて見るイギリスの景色
Let's do as Londoners do!
「世界一まずい料理」を試みる (2007/8/26) 「タウンハウス」も分家筋?
ロンドン市街の“八百屋”と長ネギ ハイド・パークに歩いて行く途中、“八百屋”が店開きしているのを見た。日本式の木造家屋ではなくビルの1階ではあるが、店構えは日本でよく見かける“八百屋”とまったく同じで、野菜や果実類を、店内から一部歩道にかかる低い棚の上に陳列している。「日本と品揃えもあまり違わないんだな」と思いながら並んだ野菜・果実類の上に目を走らせていると、その中に長ネギがあるのに気がついた。あれっ、長ネギは日本独特の野菜だったんじゃなかったっけ?すき焼きなどの日本料理としかイメージが結びつかないし、実際に長ネギを使った西洋料理にはお目にもお口にもかかったことがないので、これは日本が“本家”に違いないと思っていたのに。しかし、後日日本に帰ってから、「長ネギ」は英語で”Welch onion”というのだと知った。”Welch
(Welsh)”は「ウェールズの」という意味だから、UK(United
Kingdom)の中心ロンドンの“八百屋”の店頭に並べられていても何の不思議もなかったわけだ。また、”onion”が「玉ネギ」だけではなく「ネギ」にあたる場合もあるのだと分かった。
“我が家”と“我が街”
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ロンドン観光スポットめぐり |
2階建てバスに乗って
ライオンがいたトラファルガー広場
政治の中枢・首相官邸に国会議事堂
“ブランド中のブランド”ウェストミンスター寺院
超大きな古時計のビッグ・ベン
心休まるセント・ジェームス・パーク
バッキンガム宮殿は罰金ガム?
超大カバブはモッタイナイ
テムズ川リバー・クルーズとしゃれこんで
ロンドン塔と塔の橋タワーブリッジ
シティー出たり入ったり
紛らわしい「ソーホー」に「サーカス」
「節度」と「機能美」と
大英博物館に見る海外渡来の「国富」
王室御用達品に見る「用の美」 「大英博物館」を気ぜわしく駆け回った我々は、タクシーに乗り、「ウェッジウッド」のショップに向かった。ウェッジウッド(Wedgwood & Corporation Limited)社は世界最大の陶磁器メーカーの一つで、ジョサイア・ウェッジウッドなる人物によってによって1759年に設立されたのだそうだ。「陶磁器」と言えば英語で"China"とされるように、2000年の長きにわたって中国の陶磁器が世界のやきもの文化の源流であり“本家”なのだろう。日本でも有田焼が始まったのは1610年代からだそうだからと、「ウェッジウッド」の“歴史に感銘”というわけにはいかない。 しかし、日本の“皇室御用達品”と同じように、シャーロット王妃(ジョージ3世の妻)に納められ、「女王の陶器Queen's Ware」という名称の使用が1765年に許可されてから、「ウェッジウッド」は“王室御用達品”のブランド価値を確保したようだ。色彩の世界でも「ウェッジウッドブルー」という色があり「英王室で用いられるロイヤルセラミックスとして英国の美術陶器を代表するウェッジウッドの陶器の青を表す色名」とされている。 実際に、ショップ内に陳列されている高級食器類を見て回ると、創業者のジョサイア・ウェッジウッドが開発して好評を博したという緑色の釉薬を用いた陶器やエナメルを用いたクリーム色の陶器からの“進化”の過程も垣間見られ見る目を楽しませてくれる。後で知ったことだが、種の起源で有名なダーウィンはジョサイアの孫なのだそうだ。道理で“進化”しているはずだ。 ウェッジウッドの陶磁器は「用と美の極み」と称えられているそうだ。これは日本の茶道具でも重視されている「用の美」と一脈相通じていて、単なる造形美ではなくて「実際に用いられる中で引き出される美しさ」と「無駄のなさ」が評価されたものなのだろう。私自身がロンドンの観光スポット巡回を通してそこはかとなく感じていたイギリス文化の「節度」と「機能美」を、ここでも“王室御用達品”が実感させてくれた。 紳士の街に商魂の逞しさを見た 「ウェッジウッド」から次は歩いて「フォートナム・アンド・メイソン(Fortnum & Mason)」へ。18世紀のはじめ、アン女王の宮殿で蝋燭(ロウソク)を取り替えることを仕事とするしていたウィリアム・フォートナムという男がいて、彼は宮殿で燃え残った蝋燭を売って多少の財産を溜め込んでいた。そして、住んでいた家の家主ヒュー・メイソンと相談して始めた食料品店がこの店の始めなのだそうだ。いかに王室の“華燭”とはいえ、その燃え残りが売れたということは、当時の蝋燭の供給量がよほど限られていたということなのだろう。蝋燭の需給を見込んで財を成し、これを“燭食”転換させて、開業後300年も続く食料品店の開店と経営を成功させたフォートナム&メイソンには商魂逞しいものが感じられる。その商魂を受け継いだ末裔たちも商売上手だったらしく、19世紀初頭のナポレオン戦争の頃、戦場に出た将校たちは、その味覚を満足させるために「フォートナム・アンド・メイソン」に食料品を注文したのだそうだ。そして、全盛期のイギリスに君臨したヴィクトリア女王御用達の店となったというから大したものだ。王室の“公燭”をくすねて商売をしていた立場から王室に“公食”を提供する立場に転換したわけなのだから。ヴィクトリア女王御用達となってから、我先にとばかりにこの「フォートナム・アンド・メイソン」を訪れて食料品を求めるようになったという当時の上流階級の人々の真似をして、我々も我先にとばかりにギフトを物色し、立方体の缶入り紅茶「アールグレイ (Earl Grey)」5缶が私のバッグに収められることとなった。 フランス人遺恨の「ウォータールー」 「フォートナム・アンド・メイソン」を出てから、再び歩いて、ピカディリーサーカスにある中華料理店に行って鴨飯の昼食をとった私たちは、タクシーでホテルに戻り、そこで呼んだタクシーに大きな荷物を積み込んで「ウォータールー(Waterloo)駅」に向かった。いくら世界史音痴の私でも「ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)」という名前ぐらいは知っていた。しかし、フランスに渡るために私たちが乗る国際高速列車「ユーロスター (Eurostar)」の起点がこのウォータールー駅だったとは知らなかった。「ワーテルローの戦い」は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いであり、これを最後に歴史の舞台から身を引いたナポレオンの見事な敗戦振りから「完膚なきまでにやぶれた惨敗」の喩えにまでなっている程だから、フランスにとって「ウォータールー」は忌まわしい名前に違いない。実際に、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもウォータールー駅になって以来、フランス側が何回となく駅名の変更を求めたというが無理もない。
「ユーロスター」でユーロ圏へ 「ユーロスター」は、日本式の駄洒落によると、通貨の「ユーロ」圏(フランスとベルギー)と「スター」リング圏(イギリス)の間を結ぶ鉄道でもある。この「スターリング」は、"Pound sterling"で「ポンド」の別名だが、ある種の鋳造貨幣に小さな“星”印がつけられていたことから古英語の「星のついたもの」という意味のあるこの言葉でイングランドの金貨、銀貨を呼ぶようになったのだそうだから、日本式の駄洒落もまんざらっ捨てたものではない。 いずれにしても私たちは、「ユーロスター」に乗り込んで、短いながらも充実した滞在を楽しませてくれた「スター」リング・ポンドの世界に別れを告げて、「ユーロ」圏入りすることになった。 |
いざ“入るど”フランス |
“農業国”フランスの”土の匂い” いつの間にか、我々の乗った「ユーロスター」はドーバー海峡を越えていたらしい。「えっ、すると、もうここはフランス!?」と思ったのだが、窓外に展開する風景は広大な畑に次ぐ畑。たまに、牧場のようなものは見えるが、勝手に思い描いていた“おフランス”のイメージとは程遠い景色が延々として続く。考えてみれば、どこの国でも特に見所のない農業地帯はあって当たり前なのだが、第一印象というのは恐ろしいもので、単細胞の私の頭の中には「フランスは農業国なのだ」というイメージがすり込まれてしまって、その後のフランス滞在期間中を通して、この時に感じ取った“土の匂い”を吹き消すことができなかった。 フランスの首都圏”イル・ド・フランス” フランスの人口は6,200万人だから日本の約半分。一方、面積は55万kuで日本の約1.5倍だから、人口密度は日本の約1/3になる。しかし、その人口のうち、1,150万人超が首都パリを中心として半径100キロに広がる地域「イル・ド・フランス(Ile-de-France)」に集中している。フランスの首都圏なのだが、約人口1,000万人が集中しているパリ市の郊外部こそパリ市のベッドダウンとして機能しているが、「イル・ド・フランス」の周辺部は“土の匂い”の漂うフランス有数の穀倉地帯や森林地帯になっているのだそうだ。 なお、ここで「島」という意味のある“「イル(Ile)”」が用いられているのは、この地域がセーヌ川をはじめ、オワーズ川、マルヌ川などの川によって囲まれていて、島のような地形になっているかららしい。臨海地帯を中心に発展してきた日本の首都圏と違って、内陸部に首都圏「イル・ド・フランス」が発展してきたのには河川を利用した水運が大きく寄与し、フランス各地と「島」の間で船による物資の集散が行われたからだろう。河に浮かぶ船の絵がパリ市の紋章になっていることが、フランス首都圏生成の経緯を物語っているようだ。 更にパリの中のパリ「大パリ」へ さて、私たちの「ユーロスター」が着いたのは「パリ北駅」。ロンドンに「ロンドン駅」がないのと同様に、パリにも「パリ駅」という駅がない。事前に水口から受けていたレクチャーによると、その昔パリの街の周りをぐるりと取り巻いて郊外と街を隔てていた壁の跡地に「ぺリフェリック」と呼ばれている環状高速道路ができていて、その環状線内の300万人が住む周囲30kmの区域を「大パリ」と呼ぶのだそうだ。 フランス国有鉄道(SNCF: Societe Nationale des Chemins de fer Francais)の駅は、「大パリ」の周辺部、つまり、「ぺリフェリック」の近傍にあって、SNCFが運行するローカル列車や高速列車(TGV:Train a Grande Vitesse)などのターミナル駅の機能を果たしている。因みに、地図で「パリ北駅」のすぐ近くに「パリ東駅」があるので変だと思ったのだが、この駅名は、「パリの東側にある駅」ではなくて、「パリより東へ向かう列車が発着」するから「東駅」なのだそうだ。実際に、同じく「大パリ」には、「パリ東駅」よりもっと東に「リヨン駅」があるが、ここも「パリからリヨンへ向かう鉄道の起点」という意味であって、「リヨン市にはリヨン駅という名の駅がない」というのだから聊か分かり難い。 ICT(情報通信技術)先進国であった 「パリ北駅」で我々はタクシーを拾って水口宅に向かった。「ぺリフェリック」を東京の山手線に例えるなら、「中野駅」周辺に当たるのかもしれない。ロンドンでもそうだったが、ありがたいことにタクシーの運転手も決済用端末機を携帯しているので、PIN(Personal Identity Number:個人識別番号)コードさえ入力すれば、おおよそのところでカードによる支払いができる。ロンドンでは時折見かけた公衆電話が全く見受けられないのも、携帯電話の普及振りを物語るものであろう。また、第2世代の頃からSIM(Subscriber Identity Module Card)カードと携帯端末の組み合わせが自由にできる(日本に例えて言えば、東芝製でもどこ製の端末でもドコモのSIMカードで使え、ドコモ、au、ソフトバンクのSIMカードを同じ東芝製の端末で使い分けることができる)ので便利だ。 馬鹿の一つ覚えで、「フランスは、国営電話時代に“ミニテル”というビデオテックス専用の情報端末が配布されたために逆にインターネットがらみのIT(情報技術)の活用が遅れた」と高をくくっていた。しかし、非IT式のカードによる決済さえなかなか普及せず、携帯電話が第3世代の時代になっても、SIMカードを端末と分けて使用することができない(例えば、ある端末はドコモ限定のものであり、そこに組み込まれているSIMカードを取り外して、auやソフトバンク用の端末に挿し込んで使うことができない)日本に比べるとICT(情報通信技術)の活用は遥かに進んでいるのだと現地で痛感させられた。 パリの初夜は前後不覚 パリのアジトとして使わせてもらうことになった水口の家は、「大パリ」西北部のちょいと外にある。「ぺリフェリック」を東京の山手線に見立てるなら、「中野駅」周辺に当たるのかもしれない。到着するや否や、私たちは旅装を解いてキッチンに入り、水口が予め買い揃えておいてくれたソーセージやサーモン、チーズなどを使って夕食の準備にかかった。今日のシェフは山本だが、その「これだけあれば充分だな」という独り言に不吉な予感を感じる。山本といえば、“健康オタク”の異名があるくらい体に気を配っていて、驚くくらい少食なのだ。案の定、大食漢の私には充分であるはずもなく、固体の不足をブランディ、ビール、それに焼酎の液体で補うこととなった。そこに来て、更に“大宴会”が盛り上がってくるうちに、旅の疲れも出てきたのだろうか、パリの初夜は前後不覚ということになってしまった。 翌朝、二日酔いの中で目が覚めて、「ここはどこ?私は誰?」と自問してみると、自分がなんとパンツ一枚で水口のベッドに寝ているのに気がついた。どうやら、朦朧としたまま私の寝所としてあてがわれていた客室を出てトイレにたち、そのまま“方向音痴”の本領を発揮して水口の寝室に迷いこむやベッドに倒れこんで前後不覚の続きをしてしまっていたらしい。「あれっ」と驚きの声を発する私。しかし、その声で目覚めた水口の驚きようもなかった。「な、なんだ、お前は!」。後刻、PCの入力テストをしている水口の画面を覗き込んだところ、「愛人を抱こうと思ったら男だった」と書いてあった。 |
(2007/8/28) |
フランス観光スポットめぐり Part1 |
凱旋門はパリのスターなのだ
♪オー・シャンゼリゼ♪と“土の匂い”
“パリジェンヌ”に出会えないよ、オー・シャンゼリゼ 文化の薫り高いシャンゼリゼ通りを歩いていた文化的な素養を欠く私が♪街を歩く心軽く誰かに会えるこの道で…あなたを待つよシャンゼリゼ♪と鼻歌を歌いながら、密かに待っていたのはパリジェンヌとの出会いであった。しかし、かつてフランスの保護領(植民地?)の中近東系やアフリカ系と思しき女性には繁く行き交うものの、“パリジェンヌ”らしきものが一向に姿を現さない。「パリジェンヌってのはパリにはいないのかね?」と山本にこぼすと、「お前にとって、“パリジェンヌ”とはどのようなイメージなんだい?」と至極当然な逆質問が返ってきた。そこで、小柄で「小妖精」とも呼ばれ、「キュート」という言葉そのものの感があった往年のフランス女優「フランソワーズ・アルヌール」の名を例として出すと映画通の山本はすぐに分かってくれたが、今時の若者はフランソワーズ・アルヌールの後に出たブリジット・バルドー(BB:ベベ)の名前だって知らないだろう。ロンドンで“英国紳士”、そして、今ここで“パリジェンヌ”が見かけられないのは、東京の街角で“芸者”の姿を見かけにくいのと同じことなのかもしれない。ところで、帰国してから改めて「フランソワーズ・アルヌール」について調べてみたところ、実は、仏領時代のアンジェリアの出身であることが分かった。少年時代に見た映画から、フランソワーズ・アルヌールを「小柄でお茶目で可愛らしい生粋のパリっ子」ときめつけ、そしてそれを勝手に“パリジェンヌ”のモデルとしてイメージしていた我が身のオメデタサを改めて知らされてしまった。 「仏の国」は「法の国」 「小人閑居して不全をなす」というが、まさにその通りで、ボケッと銀ブラならぬ“シャン・ブラ”をしていた私の頭に浮かんできたのは、「仏教の国でもないのになぜここが“仏”国なんだろう」という極めてバカバカしい疑問であった。当然「フランス」に「仏蘭西」と当て字するところから来ているということは知っていたのだが、「花の都パリ」と「仏」が余りに似つかわしくなくて違和感を感じてしまったからだ。そして、シャンゼリゼで是行き交うフランス人達の顔を見ながら、「この人達は、まさか自国が仏呼ばわりされているとは知るまい。これがほんとの“知らぬが仏”だ」などと思っていると可笑しくて噴出しそうになってしまった。因みに中国語では、同じく当て字の「法蘭西」で「法国」と略称されるらしい。法・政治思想史上の大古典として著名な「法の精神」を輩出したフランスとしては、「仏の国」と呼ばれるのには仏頂面だが、「法の国」と呼ばれるのは法悦至極なのだろう。しかし、漢字しか使えない中国語に対して、仮名も使える日本語はとても便利だと思う。短く表現したい場合は、「南仏」、「渡仏」、「仏和/和仏辞典」などのように漢字「仏」を使い、あまり食べたり飲んだりしたい気が起こらない「仏料理」や「仏酒」には、それぞれ「フランス料理」、「フランス・ワイン」とカタカナを用いるように、マイペースで使い分けすることができるからだ。 歴史あるコンコルド広場にて せっかく「花の都パリ」に来ていながら“心ここにあらず”の“上の空状態”は、シャンゼリゼ通りから「コンコルド広場」に移った後も続いていた。ここには細長い記念碑(オベリスク)が聳えていて、美しい噴水や街灯などがあったのだが、“上の空状態”で向けたカメラはオペミスで、コンコルドのコの字のイメージも残さぬひどい画像になってしまった。ここ「コンコルド広場」は、当初「ルイ15世広場」と呼ばれていてルイ15世の騎馬像が設置されていたが、フランス革命の勃発により、その騎馬像も取り払われ名前も「革命広場」となって、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑もここのギロチン台で行われたのだそうだ。現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれるようになってからでも180年余も経つ“歴史がある広場”だとのことだが、歴史音痴の私には、そのような史実は“豚に真珠”。むしろ、かつて“上の空”を飛んでいた英仏共同開発による超音速旅客機「コンコルド」とこの広場の名称との関係について頭をめぐらせていた。しかし、これも“下手な考え休むに似たり”で、両者の間には一切関係がなく、「協調」とか「調和」という意味をもつフランス語の普通名詞"concorde"(英語では"concord")が単に使われているだけらしいということが分かった。“上の空”の方の「コンコルド」は、技術的な信頼性や運行コストの問題から、航空会社の経営と「協調・調和」がとれず姿を消すことになったが、「コンコルド広場」で食べたアイスクリームは、早くも旅行疲れに陥りかけていた私の心身と見事に「協調・調和」し私を“上の空状態”から脱却させてくれた。 オペラ座に見る進取の気象
日仏特産物のコラボ「鴨うどん」 オペラ座からほど遠からぬ所に、駅名がナポレオンによるエジプト遠征の勝利を記念して名付けられたというメトロ(地下鉄)「ピラミッド駅」がある。この駅付近は日本人街となっていて、ささやかながら日本料理店もの機を並べている。我々が入ったのは「国虎屋」で、衆議一決して選んだのは“鴨うどん”だった。パリに来て“うどん”を食べることになろうとは思ってもいなかったが、麺の歯ごたえもうどんつゆの仕立ても讃岐うどん風でなかなかのものであった。また、“鴨”の“フォア・グラ”(グラgras/肥大した+フォアfoie/肝臓)がフランスの特産品ならば“鴨”も当然フランス特産の筈で、実際にロンドンの中華料理店で食した“鴨飯”の“鴨”より遥かに美味であった。「日本特産の“讃岐うどん”とフランス特産の“鴨”がコラボする“鴨うどん”は相乗効果も加わって美味が倍加する筈」というのは、我々の俄か作りのコジツケ議論であったが、「フランス鴨」が日本の食品や料理の世界で珍重されていることは事実のようだ。但し、フォア・グラがらみで用いられる「鴨」とは、実は野生のマガモを家禽化した「アヒル」のことなのだが、フランス料理用語としては野生のカモと家禽のアヒルを訳し分けない慣行があるので「鴨」で通してきているのだそうだ。因みに、「鴨」は和英辞典によると"duck"だが、今度は英和辞典で"duck"を引くと真っ先に「アヒル」が出てくる。ディズニーの「ドナルド・ダック」も「アヒル」だし、「北京ダック」に使われているのも実は「アヒル」だそうだ。鶏肉(かしわ)を使って「鴨南蛮」と称するのと違って、「アヒル」をもって「鴨」となすのは決して“偽装”にはならないようだ。 さて、昼食を済ませた我々は、「ピラミッド駅」近辺の駐車場に戻ってから、セーヌ川に浮かぶ川中島「シテ島」にある「ノートルダム大聖堂Cathedrale Notre-Dame de Paris」に車を向けた。このローマ・カトリック教会の大聖堂は、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されたのだそうだ。なお「ノートルダム」とはフランス語で「我らが貴婦人」つまり「聖母マリア」を意味するものであるから、固有名詞ではなくて世界中にある“親戚筋の”「聖母信仰の教会」に共通して冠せられる普通名詞なのだそうだ。
ナポレオンは傷病兵だった?
“鉄の貴婦人”エッフェル塔
♪セーヌ川、流れる岸辺♪♪上り下りの舟人は♪
心酔わせる“花の都パリ”の夜
上品装い非上品なショーを楽しむ シヤンゼリー通りにある“世界一有名な”ナイトクラブ「リドLido」は、7,500uの面積と1,150の座席を擁するパノラマホールでディナー・ショーを楽しむことができる。ショーの開始は9:30なので、まだ客の入りもまばらで、特に高額料金の“砂かぶり席”はガラガラの状態である。そんな中、ステージで前座の女性歌手が歌っているのだが、夜目遠目で見ても、私が勝手に“パリジェンヌ”の典型と見なしているフランソワーズ・アルヌールに似ては見えない。むしろ、色白でふくよかな体に黒のドレスをまとった姿はマリリン・モンローに近い。大学講師として講義をしていて、聞き手からの反応が乏しいことに対して空しい思いをいやというほどしたことがある私としては、この“夜目遠目マリリンモンロー”が一曲歌い終えるごとにたった一人で精一杯の拍手をして、「大丈夫、聴いている人はいるんだよ」という心のメッセージを贈ってあげた。 やがて、ディナーが運ばれてきた。鶏肉料理とイチジクをあしらった料理は、「これぞフランス料理!」といった上品な見栄えであった。精一杯正装してきた私たちはこれを精一杯上品を装って食したのだが、味の方もなかなか上品なものであった。しかし、いかんせん、多くの場合にそうであるように“上品”には“ボリューム不足”がつき物なのだと思い知らされるものでもあった。やはり、大食漢の私には“上品”なフランス料理が似合わない。 この「リド」という名前の由来は、1946年に開業した際に、ヴェニスの有名な海岸リドをイメージして内装が施されたことによるのだそうだ。その後、ベル・エポック(Belle Epoque:良き時代:19世紀末から1914年に第一次世界大戦が勃発するまでのパリが繁栄した華やかな時代)にキャバレーとして人気を博した後に、全面改装されるとともに、当時は世界に一つしかないナイトクラブに生まれ変わったのだとか。それとともに、ディナーショーでのレビューという新しいスタイルが導入されたのだが、これに協力したのがブルーベルBluebellという名の女性だったようだ。やがてステージで繰り広げられた華やかな踊りと歌のショーに、「リド・ボーイダンサーズ」とともに「ブルーベル・ガールズ」が登場してきたわけがこれで分かった。しかし、この「ブルーベル・ガールズ」を初めステージに登場してきた女性たちは長身ぞろいで、小柄なフランソワーズ・アルヌールが持っていたような“上品さ”に乏しい。勝手に期待していたくせに、「“世界一有名な”ナイトクラブにも“パリジェンヌ”はいなかった」と、勝手に落胆してしまった。 “女性・愛するパリ・インドの伝説・星の夢”の4部構成のショーの中には、男性芸人によるジャグリングなども含めた曲芸も織り込まれていた。以前に見たことのあるラスヴェガスのイルージョンに比べると、スケールの大きさでは劣るものの、その代わりに、いずれも嘘っぽさがない力技でなかなか見ごたえのあるものであった。しかし、同時に、いずれも“上品”な感じがするものではなく、パリの夜とは異質なものを感じざるを得なかった。 |
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(2007/8/29) |
ヴェルサイユ宮殿観光 | ||
首都を出奔、前首都に入る フランス滞在三日目を迎えた我々は、フランスパンとハムエッグの朝食をとってから、パリを飛び出してヴェルサイユを訪れた。行政区分としては、「イヴリーヌ県」の中の「ヴェルサイユ郡」になるので、確かにパリ(一市単独で県を構成するコミューン、いわゆる、特別市)を飛び出すことにはなるのだが、パリの南西僅か約20km余でイル・ド・フランス地域圏の中央部にあるのだから、東京から横浜あたりに行く感覚に近い。1682にルイ14世が王政に反対する者で騒がしくなったパリからここに宮廷を移して以来1789年の大革命まで、ここがフランスの政治、文化、芸術の中心地だったのだそうだ。ここに建つ「ヴェルサイユ宮殿Chateau de Versailles」は、「朕は国家なり」と宣言し絶対王政を確立した“太陽王”ルイ14世が莫大な費用と半世紀の歳月を費やして建造した宮殿で、建物と庭園が世界文化遺産として登録されている。 ベルバラ物語第一話 このフランス絶対王政の最盛期の象徴とも言うべき「世界史上最高にして最大の宮殿」はまた、“世界史上最高にして最大”級の観光客誘致地らしく、私達が構内に入った時には、左右に長蛇の列ができていた。向かって左側の列は、建物の中にある入場券売り場に並ぶ列で、右側の方が、入場券を入手した人が今度は入場口に並んでいるようだった(下写真1段目右)。そこで、水口一人が左の列に並んで、山本と中沢と私が右の列に並んで、入場券が手に入ったらすぐ入場できるようにすることにした。ところが、建物の外に伸びて二重三重の輪ができている左側の列に比べて、右側の列は順調に入場口に吸い込まれていくために、私たち三人は入場口に近づいては最後尾に戻るということを繰り返す形になった。そうこうしているうちに、山本と中沢は何やら語り合ったらしく、私には断りなく、水口が待つ左側の列の方に去って行ってしまった。これが、私一人が置き去りにされたベルサイユ・バラバラ(略して“ベルバラ”)物語第一話の序章となった。 ベルサイユにいた“パリジェンヌ” 水口から手渡された入場券には、実は一番目の建物用と二番目の建物用と、もぎりの部分が二つ付いていたのだが、それを知らずにいた私は最初の建物に入った時点で異なれりとして、入場券をどこに保管したか失念してしまった。従って、二番目の建物への入場に当たって、他の3人が順調に改札を受けられたのに対して、私一人はポケットやバッグの中のあちこちを探さなければならない破目になってしまった。すると、あろうことか、「じゃ、ごゆっくり」と声をかけて、私一人を置き去りにして入場していこうとするではないか。そんな時に、もたもたしている私に、英語で「どうぞ入ってください」と声を掛けてくれた受付嬢がいた。一時は3人が戻ってくるまで館外で待っていることまで覚悟した私にとってはまさに地獄に仏。大体が親切な女性は美しく見えるものだが、見ると彼女は小柄で愛嬌たっぷり、往年のフランソワーズ・アルヌールを見たような気がした。こんなところにいたのかパリジェンヌ!…だが、私たちはパリを出奔して、ベルサイユに来ていたのだった。しかし、“このベルサイユ版パリジェンヌ”が機転を利かせてくれたお陰で、我々は“ベルバラ”にならずに済んだ。 “巨匠”の失踪 水口と山本、中沢は銘々にビデオカメラを持参してきていた。水口と山本がナレーションを入れながら撮影しているのに対して、中沢は無言のまま撮影しているので、私たちは中沢を“無声映画の巨匠”、または、これを略して“巨匠”と呼んでいた。しかし、館内に人がごった返す中で、迷子にならないようお互いの存在を確認しながら進んでいたのだが、“巨匠”の芸術的な探求心はもだしがたく常に中沢が先頭を突き進む形になり、遂に我々の視界から消えてしまった。ひとしきり“創作”活動をし終えた“巨匠”は、ふと我に返って“唯我独存”の状態に気が付いて大いに慌てたらしい。そして、てっきり我々三人に先を越されたものと思って、我々の姿を求めて逆に前の方に急いでしまったようだ。実は、そのうちに戻ってくるものと思っていた我々との距離が逆に開いてしまったわけである。我々としてもこの“ベルバラ”物語第二話に対応することができず、「最悪の場合でも駐車場で会えるのだから大丈夫」と自分に言い聞かせながら、ただ中沢の身を案じているしかなかった。しかし、これは「案ずるより産むが易し」で、キョロキョロしながら人の流れを遡ってくる“巨匠”の姿が再び我々の眼に入ったのは数刻後のことであった。 こみ上げてくるアホらしさ 中沢“巨匠”が“創作”活動にのめりこんで我を忘れてしまったのも無理はなく、この「世界史上最高にして最大の宮殿」の内装や調度品は豪華絢爛たるものであり、特に随所にある天井画は圧巻であった(下写真2段目中・右&3段目左)。2階にある「鏡の間」(下写真3段目右)は、西の回廊全体を使った長さ73mの大広間で、クリスタルのシャンデリアや黄金の燭台が豪華さを演出しており、ここの天井にもルイ14世をたたえる絵画が全面的に描かれている(儀式や外国の賓客を謁見するために使われたようだが、時代が下って、第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印されたのもこの場所だそうだ)。また、「王の寝室」 と「王妃の寝室」があるのだが、その天蓋といい、装飾といい、シャンデリアといい、ベッドといいゴージャスそのもの。過ぎたるは及ばざるが如しで、ゴージャス過ぎては安眠できなかったのではなかったのだろうかと余計な心配をするとともに、贅の限りが尽くされたこの宮殿に対して、なんだか急にアホらしい思いがこみ上げてきた。この宮殿の建設が国家財政赤字に拍車をかけ、これが王権の衰退と更にフランス革命勃発の引き金になったというが当たり前じゃないか。“太陽王”とやらは一体どのような神経をしていたのだろうか。いや、ノー天気な“太陽王”神経を持っていたなどと考える方がおかしいのかもしれない。ああ、アホクサ! 強烈な「土の匂い」 このヴェルサイユ宮殿には放縦の限りが尽くされていて、節度というものが全く見られない。“義憤”を感じた私に漂ってきたのは強烈な「土の匂い」であった。絶対王政のもとに中央集権的な官僚機構や常備軍ができあがり、これに対して国王が絶対的な権力を振るったが、役人や軍人はもとより何らかの生産活動を行うものではなく、国家財政のうちの「歳出」行為を担うものに過ぎない。「歳入」の根源になるものは封建領主としての土地所有権にあり、それぞれの土地で土地所有権を持たない農民が「土」にまみれながら農耕や牧畜などの生産活動が行うからこそ封建領主は「歳入」を確保することができるのだ。今、目の当たりにしている絢爛豪華な宮殿を建造するのにも巨額の「歳入」が充当・投入されたのだが、元はと言えば「土」から産み出された国富がここに濫用されたのに過ぎない。また、ルイ14世は軍制を整備し戦争によって領土を拡張した立役者ともされるが、その軍費に投入された「歳入」も所詮は「土」からもたらされたものであって、「朕は国家なり」などと戯言を言っている者は単にそれを「歳出」“させていただいた”だけなのだ(日本の政治家や官僚にももってほしいよ、この意識)。巨大な天井画を見上げて“勘違い国王”の暴挙に呆れながら、一方で、この“放縦な贅”の陰に“豊潤な税”の存在があるのを見てとり、それを生んだフランスの「土」が如何に広大で肥沃なものであったかということを改めて思い知らされた。 尾篭な話ながら ここに居住していて「土の匂い」を感じ取ることができなかったルイ14世は嗅覚についても無神経だったようだ。ヴェルサイユ宮殿に王族用以外のトイレがなかったという史実からこのことが“邪推”できる。貴婦人たちの傘のように開いたドレスは庭園でそのまましゃがんで生理的な用を足すために考案されたのだそうで、その用足しがバラ園の隅などで行われたため「花を摘みに行く」という隠語が生まれたのだとか。舞踏会の参加者は携帯便器を持参していたし、清潔好きの者は陶製の携帯用便器を使っていたそうだが、携帯便器のインプットも結局は“鬼は外”で“お庭”にアウトプットされることになったので、「花摘み場」がいつの間にか「鼻つまみ場」になり、当時のヴェルサイユ宮殿は「土の匂い」どころか物凄い悪臭を漂わせていたようだ。因みに、当時の紳士淑女の服は月1回洗濯できれば良い方で、服にカビが生えているのは当たり前だったそうだ。また、風呂やシャワーも全く利用しなかったというから体臭もひどかったのだろう。香水を大量にふりかける習慣ができたのは、このような匂いをごまかす必要があったからのようだ。清潔好きな日本女性が「芳香を放つおフランス香水」なぞ有り難がって買い求める必要はさらさらないのだ。 フランス標準がなぜ地球標準なのか このフランス絶対王政の象徴的建造物「ヴェルサイユ宮殿」で起居をともにしていたルイ14世をはじめとした王族とその臣下達の起居動作もまた、絶対王政下の日常生活の象徴、時には規範となるものとなった。そのため、「ヴェルサイユ宮殿」の中で生まれた様々まなルールやエチケット、マナーが実質的なDJS(:De Jure Standard:制定標準)となり、当時のフランス国民が従うべき「フランス標準」になったようだ。現在につながる洋食のテーブルマナーも、毎晩のようにヴェルサイユ宮殿で開かれていた王と貴族が出席する晩餐会に由来するものであり、これがフランス料理とともに世界中に広まって一緒のDJS:De Jure Standard:制定標準)になったようだ。「フランス標準こそグローバル・スタンダード(地球標準)なり」というような考え方が罷り通っていて、フランス料理風のテーブルマナーがありがたがられているが、元はと言えば、フランス絶対王政時代の化石のようなもの。フランス絶対王政を未だに支持しているのならともかく、そうでないのならフランス流テーブルマナーなんて、(尾篭な話のついでに言えば)糞食らえなのだ。“上品”なフランス料理が似合わない私は、内心でこのように“下品”な快哉を叫んだ。 |
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“自然”と調和の”文化”遺産 宮殿内では“アホらしさ”や“義憤”まで感じた私であったが、大庭園へ出てみると、まるでフランス革命によって絶対王政による圧政から解放された当時のフランス国民であるかのような解放感を感じた。この大庭園も、815ha(東京ドームの173倍)の広大なものであり、「フランス式庭園の最高傑作」と呼ばれるくらい手の込んだ造作が加えられたものだから、当然巨額の「歳入」が充当されていて、当然「土の匂い」が漂っているはずだ。しかし、豊かな緑や色とりどりの花壇が目に入ると途端にコロリと気分が変わってしまうのだから私の“義憤”もいい加減なものだと思う。一方、自然が育む緑と花は、歴史や地理を超えて、同じく自然界の動物でもあるヒトに対して満遍なく癒しを与えてくれるものだということも確かだと思う。 庭内は、幾何学模様を主体とした設計で、宮殿正面の「水の前庭」から望む壮大なパノラマの遠景には、横に走る小運河と十文字に交差し地平線に向かって延びる大運河がある。私たちは、あまりの広大さに気圧されて徒歩で頑張るのはあきらめて、大小のトリアノン離宮などを結ぶプチトラン(Petit Train:ミニ電車)に乗ってラクチン散策を決め込むことにした。随所で彩を添える花々、「緑の絨毯」と呼ばれる散歩道、その傍らにあるほとんど森に近い並木や随所に配置された彫像たち、それらが泉や池、運河の水の光景と“調和”して実に見事だ。この庭園は宮殿とともに世界“文化”遺産として登録されているが、“調和”の精神を欠く宮殿の方は“文化”でもなんでもない。寧ろ、“自然”遺産であるかのような“調和”を感じさせてくれるこの大庭園の方こそ世界“文化”遺産の名に相応しいのではないかとも思った。 |
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“清く正しく美しい”サクレ・クール寺院 |
「モンマルトル Montmartre」 はパリで一番高い丘で、セーヌ川をはさんで、南側の「モンパルナスMontparnasse」と相対峙しているように見える。私は、事前に「現場で描いている画家から絵を買う機会を作って欲しい」とリクエストしていたのだが、それに対して、「それじゃ、モンマルトルかモンパルナスがいいかな」と答えていた水口が、それを忘れないでいてくれた。そして、ヴェルサイユからの帰途にこの「モンマルトル」に立ち寄ってくれたのだった。モンマルトルの名は、『Mont
des Martyrs(殉教者の丘)』が由来だそうで、水口は駐車スペースを探して車を転がしながら、この地に伝わる殉教者にまつわるおどろおどろしい話を聞かせてくれた。 モンマルトルは坂道だらけで、小さな道と階段が複雑にからみあい、しかも急勾配になっているので、ようやく麓の部分に見つけた駐車スペースに車をおいてから登坂する我々にとっては少々しんどいエクササイズになった。しかし、やがてすると、12世紀の完成で、パリで最も古いゴシック建築の教会の一つとされる「サンピエール寺院」と、そのすぐ隣りに「サクレ・クール寺院」が見えてくる。「サクレ・クール」は「聖なる・心」という意味なのだそうだ。名前のせいか、とても“清く正しく美しく”見える。 |
公共交通機関を使ってモンマルトルの丘へ登ってくるのには、「モンマルトル・バス」を利用する他に、メトロの「アンヴェール駅」から「フニクレール」というケーブルカーで来る方法もあるようだ。このケーブルカー駅側が丘の南側になるのだが、ここからは、パリの市街を一望することができる。そして振り返ってみると、すぐ目の前に大聖堂「サクレ・クール寺院」が聳えているということになる。この聖堂は、何か他の建造物と違ってすっきりとして見えるのは、これがパリでは珍しい「ビザンチンスタイル」(ビザンチン様式とは、394〜1453年のギリシャなど地中海東側の建築、装飾、家具の様式のことで、ビザンチン様式では、平面の上にドームを架ける技術を完成させているとのこと)の教会だからのようだ。丸い聖堂が特徴のこの白亜の寺院は、普仏戦争に敗北した後に、フランスの未来に対する信頼のしるしとして、広く国民から集めた献金によって建てられることになったのだそうだから、“朕は国家なり”式で国費をジャブジャブとつぎ込んで建てられたヴェルサイユ宮殿とは対照的で、道理で“清く正しく美しく”見えるはずだ。なお、1876年着工で1914年に竣工と建築に時間を要したのは、鐘や資材の丘の上への運搬や地盤の補強などの難工事に悪戦苦闘を強いられたせいらしい。 |
“俄か画商”に変身 |
モンマルトルの丘は、かつて、ユトリロ、ロートレック、ゴッホ、ピカソなどの有名な画家達もアトリエを持ち、多くの芸術家達が集まる場所だったそうで、“いかにも画家の町”という雰囲気が漂っている。そして、その中心の「テルトル広場」は今でも、大勢の観光客で賑わい、画家達がキャンバスを広げて得意の筆を振るっている。周囲には画材や絵画を売る店舗とともにカフェが並んでいる。私たちも、往年の名画家達の真似をしてそのうちの一軒に入ってコーヒーをすすり憩いの一時をもった。 自作の絵を売ったり、似顔絵を描いたりしている未来のゴッホ/ユトリロたちの作品を見て回った私は、ヴァンダイク・ブラウン(画家ヴァンダイクが好んで用いた焦げ茶色)が基調で、ちょっとしたユトリロ・タッチのユニークな画風の作品が気に入って、そのうちの1点について“俄か画商”になることにした。この“ヴァンダイク風”で“ユトリロ風”の絵画を描いていたのは、小じゃれた服装を着こなしていた“パリジェンヌ風”の女性画家で、“俄か画商”が持ちかける値切り交渉に積極的に応じてくれた上に、おまけとしてツー・ショットの写真を撮らせてくれた。商談成立後もらったメールアドレスのメモには"Rodykka iLiesco"とあった。この苗字からすると、どうやら“パリジェンヌ”ではなくて東欧の出自らしい。しかし、彼女が、同じくモンマルトル出自のユトリロと同じような軌跡を辿って大ブレークするようなことになったら、この作品や写真の価値も凄いことになるのでは…と密かに期待している。 |
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ムール貝さん、ゴメンナサイ |
(2007/8/30) |
モン・サン・ミッシェル遠征 | |||
人間“カンナビ”頼りのロングドライブ ラーメンとコーヒーという妙な取り合わせの朝食をとってから、水口宅を発ち水口車で、「モン・サン・ミッシェルMont St. Michel」を目指す。モン・サン・ミッシェルは、フランス西北部のノルマンディー地方の南部でブルターニュとの境に近いところにあるから、当然「イル・ド・フランス」から出ての片道約360kmのロング・ドライブとなる。リムーバブル式のカーナビセットを取り付けたのだが、何しろ「モンMont」が「山」、「サンSt.」が「聖(人)」という意味のそれぞれフランスではごくありふれた普通名詞である上に、「ミッシェルMichel」(英語では、「マイケルMichael」)もご普通の男性名なので、目的地として特定して入力することができない。そこで、私が助手席で地図を見ながらナビをすることになったのだが、地図上の文字が小さい上に慣れないフランス語表記なので、水口が道路標識から読み取って伝える地名を地図上にプロットするのが容易ではなく、この日のために新調した遠近両用メガネも役立たずで終わってしまった。しかし、それでも、精一杯“勘ナビ”を働かせながら、24時間自動車レースで聞いたことのある「ル・マンLe Mans」や「レンヌRennes」などの地名を辿りながら、ローカル鉄道の最寄りの駅があるという「ポントルソンPontorson」に辿り着いた。 “生”で見る“天空の城”に感動ひとしお 更に、ポントルソンから田園地帯を通ってしばらく行くと、遠くから見てもそれと分かる物が行く手に現れ、やがてそれはテレビCMなどで見ていた通りの姿を見せてくれた(下写真中央)。画像や映像でもその景観を観賞することはできたのだが、こうして“生”モン・サン・ミッシェルの前に立ってみると、直接肌に語りかけてくるものが感じられ、感動もひとしおで万感の迫る思いがする。アニメの「天空の城ラピュタ」のモデルになったとも言われているが、巨匠・宮崎駿も異次元空間のものであるかのようなこの情景に心奪われたのだろう。 8世紀に、近辺の町に住んでいた大司教が、夢の中で大天使ミカエル(これがフランス語でサン・ミシェル)のお告げを受け、この小島に小さな礼拝堂が建てたのがこのモンサンミッシェルの歴史の始まりだそうだが、14世紀の英仏百年戦争の際には、英国からの侵入に備える要塞として使われたというから、実際に「城」でもあったのだが、このサン・マロ湾の小島に築かれた修道院は、「天空の城」と呼ぶのが寧ろ相応しいと思えるくらいの佇まいで風格と荘厳さを漂わせていた。 だって岩山なんだモン 満潮時には水面下に没することがあるという駐車場に車をとめて、島と陸地をつなぐ道路を歩いていって門をくぐりぬけると、修道院に続く狭い通りがあって両脇に飲食店や土産屋、宿泊施設などが軒をつらねている。これが参道グランド・リューGrande Rueでこの島のメインストリートとなるわけだが、観光客でにぎわっているところまで、様子が京都の清水寺に通じる坂道の門前町に似ている。その昔宿屋を営なんでいたプラールおばさんが始めたという老舗のレストラン「ラ・メール・プラール(La Mere Poulard)」もここにあって、巡礼者達の空腹と疲れを癒すためプラールおばさんが考え出したという特製のオムレツを求める観光客で店内がにぎわっていた。 この“清水坂”からは、尖塔が聳え立つ修道院を仰ぎ見ることができる(下写真1段目左端)これが初めて本格的に建設されたのは10世紀末になってのことで、その後、数世紀にわたって増改築が繰り返されて、次第に堅固な石積みの建物に拡張されてきたのだそうだ。「島」なのに「山(モンMont)」と呼ばれるのは、最初に建てられた小さな礼拝堂をはじめとする宗教関連の建物が、島の中央にある「墓の山(トンブ山)」とケルト人に呼ばれ信仰の対象となっていた岩山の上に建てられたからなのではないかと思われる。 ストイシズムの塊のような岩山の麓に、飲食店や宿泊施設などを営む人々の世俗の世界が僅かにあっただけなのだが、今は私たちのような世俗の民が世界中から押しよせて島全体を覆い尽くし、かつて静寂であった信仰の島が賑やかな一大観光地になっているわけである。しかし、島内にも住民が80人ほど住んでいて町長もいるのだそうだから、小ぶりながら島民、即ち、町民の住む生活圏としての部分も存続しているようだ。 偉大な共演者サン・マロ湾 モン・サン・ミッシェルが“浮かんでいた”サン・マロ湾は遠浅だから、干潮の時には干潟の上に引き潮が残していった自然の造詣を見ることができる(下写真1段目右端)。潮の干満の差が激しくて、しかも潮流が速いので、ギャロップ(馬の駆け足)の速さで潮が引いていって、海岸線が18kmも後退することがあるという。対岸と島の間の行き来も、かつては引き潮の時に自然に現れる陸橋によるしかなかったのだが、1877年に対岸との間に地続きの道路(下写真2段目左端)が作られてから潮の干満に関係なくできるようになったのだそうだ。しかし、この道路の建設は人間環境に便益をもたらす反面で自然環境に災厄をもたらしたようだ。これによって潮流がせき止められることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまたのだそうだ。このために、急速な陸地化が島の周囲で進行していて、かつては満潮の時に見られた「海に浮かぶ孤島」の景観が失われつつあるのだ。「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産に登録されていることからも分かるように、このサン・マロ湾は決してone of them の存在ではなくて偉大な共演者なのだ。そのため、もとの“浮かんでいる”状態に戻すために橋を架け替える計画が進められているのだそうだ。日本でも、同じく遠浅の有明海で、潮受堤防の締切りによって潮流が変わり、これによって漁業環境問題が発生するということがあった。洋の東西を問わず「潮流を読む」ことには難しさと重要さが伴っているようだ。 巨大で精巧堅牢な“寄石細工” 現在なら、大きな建築物を山に建てる場合には、頂きの部分を崩して平地にしてから箱ものを載せる形をとるのだろうが、モン・サン・ミッシェルの場合は、初めに作られた小さな修道院を取り囲むようにして、急斜面を土台とした建増しと建替えが繰り返されてきたようだ。当然全てが石造建築だから、全体としては一つの城砦のように見えるこの「天空の城」は、実は巨大な寄木細工ならぬ寄石細工なのだ。また、また、長い年月をかけて建築が進められてきただけあって、「石を積む」方法も様々で、ゴシック様式をはじめ様々な中世の建築様式が混ざり合っている。礼拝堂のには、見事に“迫持ちの原理”を活かしたゴシック様式と見られる壁と天井が見られ、精一杯大きく設えられた窓から精一杯の採光がなされていた(下写真4段目右端)。急傾斜の岩山にかくも精巧にして堅牢な建築が行われたのは「西洋の驚異」と称されるに値するところだが、一方で、何度も崩落を繰り返し、そのたびごとに壊れた部分が修復されてきたらしい。修道内の広間の壁には、珍しく竹材が用いられていたが((下写真4段目左から2枚目)、これも崩落を防ぐため精一杯壁の重量を軽くしようとする工夫が表れたものと考えられる。 ラ、メルヴェイユ、実に、ラ、メルヴェイユ 修道院の本堂を補完する形で、北側に「メルヴェイユ棟La Merevellie」が建てられていて、その3階建ての最上階に「庭園」と「回廊」が設えられている(下写真3段目右端)。岩山の傾斜地の上に建てられた石積みの建物ばかりを目にしながら登りつめてきた私たちの目には、庭園の緑や花が一段と爽やかに映り、一服の清涼剤のように思えた。何よりも苦心惨憺しながら積み上げてきた石の建造物の最上部にこのような癒しの“空中庭園”を設けた往時の人々の「心」の豊かさに対して「ラ、メルヴェイユ(驚異)!」の声を発したくなる。修道僧たちは、潮の干満に伴って大きく移ろい変わっていくサン・マロ湾の姿を柱の柱の間から見下ろして無常観を感じながら瞑想に耽っていたのであろう。 しかし、「ラ、メルヴェイユ(驚異)」の思いが更に極まったのは、「ここに積まれている石たちを、どうしてここまで引き上げることができたのだろう」とふと思い始めてからのことであった。何しろ、周りが潮流が速くて干満が激しい海である。どこかから切り出された石を船に載せ、満潮時を見計らって、全周が急斜面で囲まれた岩山のどこかに船着けしたのだろう。それだけでも大変な作業なのに、更に、不安定な場所で船から降ろした重たい石を、どのようにして急傾斜を重力に逆らいながら建築現場まで持ち上げたのだろうか。その建築現場でも、山を掘削するとともに足場を築きながら、一階、二階と高所に石を積み上げてきたのだろう。考えただけでも気が遠くなるような難工事の成就の陰に潜む信仰の力の強さをまざまざと見せつけられる思いがした。 修道院の去り際に、ハムスターを飼う時にケージに入れる回し車をどでかくしたような大車輪があった。この大車輪の中にハムスターよろしく入れられた7人の囚人が車輪を回し、この回転によって生まれた動力がロープに伝えられて石の運び上げに使われたのだそうだ。18世紀フランス革命時にモンサンミッシェルは一時牢獄としても使用されたとのことだから、囚人たちがこの「天空の城」の建築のために一翼を担っていたことは確かなのだろう。どことなく悲しげな空気感が漂っていたのは、そんな囚人たちの怨念のこもる暗い過去があったせいなのかもしれない。 |
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フランスの道路事情 モン・サン・ミッシェルからの帰途は、「カーンCaen」などを通る別ルートでパリに帰着した。往復で700kmだから、東京から名古屋までの日帰りロングドライブをしたようなものである。フランスの道路は大まかに高速自動車道(A)、国道(N)、地方道(D)に別れるが、このAを通行するのに料金がかかると知ったの時にはいささか驚いた。7年前にカナダ・アメリカ西部の9,000kmをドライブした際に道路交通料ゼロだったことから、「先進国で有料道路があるのは日本ぐらいのものだ」と思い込んでしまっていたからだ。 しかし、フランスの高速自動車道利用料は日本に比べると恐ろしく安いようだ。Aは都市近郊では無料だから単純な比較はできないが、東名高速道路の東京・名古屋間(343km)を往復すると14,200円かかるが、この日我々がパリとモン・サン・ミッシェルの間の往復走行のために支払った高速料は12ユーロ。1ユーロ162円で換算すると2,000円弱になるから日本の14%弱にしかならない。フランスにも、高速自動車の管理を委託された民間会社はあるらしいのだが、日本の道路会社のように多数の天下りを擁しながら「高速道路使用料を取ってビジネスを行う」といったコンセプトを持つことはなく、専ら徴収した高速道路使用料が道路のメインテナンスに充当されているのではないかと考えられる。また、フランスの高速道路には防護壁や街灯なども整備されておらずトンネルの数も少ない。日本における道路建設コストの高さも料金格差の一因となっているようだ。 道路のAかNかDかを問わず、フランスの道路上ではルノーを初め、プジョー、シトロエンの大手国産メーカーがしのぎを削りあっている。イギリスで、自国生産車がほとんど姿を消す“ウィンブルドン現象”(テニスのウィンブルドン大会においてイギリス人が活躍できなくなった現象になぞらえた表現)が起こっているのと好対照である。そして、フランスの国産メーカーのどれもが小型車を得意とするメーカーであることもあって小型車の割合が圧倒的に高い。同じく小型車を得意とする日本の自動車メーカーが進出した結果、大型の「アメ車」が路上から姿を消すまでに至ったアメリカとも違って、ここフランスには日本車の出番が少ないようだ。ルノーから日産にお出ましいただいたカルロス・ゴーン氏の教えを乞うたくらいだから無理もないことなのかもしれないが、行き交う車に「ホンダ」や「トヨタ」を見かけることは稀にしかない。 |
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(2007/8/31) |
ルーブル美術館詣で | ||
“歴史的怪挙”達成へ 水口が予め調達してくれていたお陰で、うな丼の朝食にありつけることになった。しかし、先日の「パリのウドン」もさることながら、「パリのウナドン」も全くの想定外で“まさか”と思われるものであった。しかも我々はこれから「ルーブル美術館」に行く。「朝っぱらからうな丼を食べて、その直後にルーブル美術館を訪れた人」となると、長い人類史の中でも僅かしかおるまい。“歴史的怪挙”達成へ向けて私たちは地下鉄に乗り込んで、「王宮・ルーブル美術館Palais Royal Musee du Louvre駅」に降り立った。 便利な地下鉄システム パリ交通公団の運営するメトロは全14線あって、パリ市内をくまなく網羅している。この点は、東京メトロと都営地下鉄がくまなぅ張り巡らされている東京都内と同じだが、実際に使ってみると便利さが大きく違っているのが分かる。東京では、行く先を告げて尋ねられても答えられないことが多いのだが、ここパリでは、プラットフォームまでの指示板にすべて「路線番号」と「終着駅名」が示されていて行きたい駅の方向も分かりやすくなっているので乗り間違えることがない。地下鉄切符カルネ(Carnet)で自動改札をして、乗り換える場合も降りたホームで「乗り換え(Correspomdance)の表示を探し、乗り換えるラインと方向に沿って行けば問題がない。「出口(Sortie)」の表示も分かりやすくて迷わずに済む。その代わりに、車内では、発車前も乗車中も一切なく、また、同じ路線ラインでも方向によって乗り場が違ったりすることがあるので注意を要する。 繰り返された再利用の歴史 |
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メトロの駅から僅か徒歩1分、セーヌ川のほとりに「ルーブル宮」はある。もともと12世紀にパリ城壁のセーヌに接する地点を防衛するために城砦として築かれたもの。「宮」と称しながら「城」のイメージを感じさせるのはこのためらしい。その後、パリ市域の拡大に伴って城壁内に取り込まれ、城塞から宮殿への改築大造営が始まり、これがルイ14世がヴェルサイユに宮廷を移す1680年まで断続的に続いたのだそうだ。そして、ヴェルサイユ宮殿の建築・造園が進められるようになってからは、この「ルーブル宮」は王宮としての役割を失なって、国の役所や芸術家の住居として使われるようになり、長い間、歴史の表舞台からは消え去ることになった。しかし、18世紀末にフランス革命が起きると、共和制政府は、ルーブル宮の再利用を考え付き、これを機として1801年から、美術館として一般の人々への公開が始まったという。現在は、一部が政府庁舎として使われているだけで,大部分は美術館として使用されているようだ。 | ||
“生”の“スター”に思い切りミーハー 「ルーブル美術館」は、フランス国立の博物館で、メトロポリタン美術館(アメリカ・ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の一つとされている。「ルーブル宮」としての歴史的な価値と美術館としての規模が評価されたのだろうか、ノートルダム大聖堂とともに、「パリのセーヌ河岸」として世界遺産に包括登録されているそうだ。建物は「コの字」型をしたつくりで、要の位置にあるシュリー翼とその北側のリシュリュー翼、南側のドノン翼で構成されている。シュリー翼にある「ミロのヴィーナス」やドノン翼にある「モナリザ」などの“スター”はさすがに人気があって人だかりがしていたが、しばらく待てば近づけるので、思い切りミーハーして、それぞれとのツーショット写真まで撮らせてもらった。しかし、このような超有名な作品は、これまでに何回も各種のメディアを通して見慣れているので、“生で”見る感懐も乏しく、撮った写真も“証拠写真”の域を出るものではなかった。“生”モン・サン・ミッシェルにあれほど感動したのに不思議なことである。 大作揃いに少々食傷 やはり、もと宮殿だけあって、シャンデリアや天井、壁の作りつけなど建物の造作が、メトロポリタン美術館などとは大きく違う(下写真下段中央)。大作の絵画が4面の壁一杯に所狭しと掲げられているところが多く(下写真下段右)、特にドノン翼の2階は、ドラクロワ作の「民衆を導く自由の女神」(下写真上段右)やダヴィード作の「ナポレオン皇帝戴冠式」(下写真上段中央)などのフランス絵画の大作がひしめいていて、ここを訪れた観光客たちは目の前の壁のような大画面の発する“生の”迫力に気圧されながら立ち尽くして臨場感に浸っている(下写真上段左)。中には、ほとんど壁自体がキャンバスになっているかのような壁画上の大作もある(下写真上段左)。こうなると、ルーブル美術館もヴェルサイユ宮殿も同じことじゃないか。そんな思いが頭をよぎった時、またしてもあの「土の匂い」が漂ってきた。これだけの華やかな“宮殿”を築くための財源も、煎じ詰めれば、農民たちが汗して土を耕して穀物を栽培したからこそ集積することができたのだろう。栄華の陰に「農業国・フランス」を支えてきた肥沃な土があったということを改めて感じさせられた。また、もともと人間的なスケールが小さい私には、このような大作揃いの絵画の鑑賞は不似合いなものでもあった。展示室が400室で所蔵作品が3万5千点を超えるとも言われるこの世界最大規模の美術館は、全てを見るのに1週間は要しようとも言われるのだが、少々食傷気味になってしまった私には半日間の行程がちょうど程良いものとなった。 |
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更に広がる“歴史的怪挙”の輪 |
次いで立ち寄ったのは、メトロ「オペラ駅」近傍にある「パリ三越」。私たちはそこで、オルセー美術館最寄のメトロ「ソルフェリーノ駅」への行き方を尋ねたのだが、田崎さんが出てきて、寧ろ「バス68番線」を利用するよう強く勧めてくれた。私たちは水口から地下鉄切符カルネ(Carnet)を“支給”されていたのでこだわったのだが、田崎さんは親切にもそれがバスの切符と共用なのだとも教えてくれた。フランス語ができずコミュニケーション能力がない“オノボリサン・トリオ”にとっては、この日本女性による親身になった助言がとても嬉しかった。同時に、「日本企業の提供するサービスは世界一」という認識を新たにした。こんな形で初めてフランスの路線バスに乗る機会もできたわけだが、我々の乗ったバスは、田崎さんが教えてくれた通り、セーヌ川を渡るとすぐに右折してオルセー美術館前まで私たちを乗せてきてくれた。 |
「オルセー美術館Musee d'Orsay」の建物は、もともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設された鉄道駅舎兼ホテルであったのだそうだ。アーチ型のガラス張り天井などはオルセー駅の面影を色濃く残すものなのだろう、宮殿が出自のルーブル美術館とは趣が違う。展示作品も印象派の画家の作品が中心で、野放図に大きい絵の並ぶルーブル美術館と違って、“節度のある”大きさの作品が揃っている。 エスカレーターに乗って上がっていくと、バルコニーに出ることができて、そこから先日訪れたモン・マルトルの丘に立つサクレ・クール大聖堂を遠望することができる(下写真左)。また、セーヌ川をはさんで対岸に見えるルーヴル美術館(下写真中央)とは、ポンピドゥーセンターの国立近代美術館とともに“パリ総合美術館トリオ”を形成しており、原則として2月革命のあった1848年から第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品をこのオルセー美術館、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品は国立近代美術館がそれぞれ展示するといった役割分担がなされているらしい。 日本の美術館と違って、ここでは作品に近づいて写真撮影することが許されているので、かねて“親しくさせていただいている”モネ、マネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、ドゥガ、ゴーギャンなどの巨匠たちと“お近づきになり”カメラの中にコレクションを作らせていただいた。中でも圧巻だったのは、ファンタン・ラ・トゥールの「読書する少女」との再会(下写真右)であった。学生時代に上野の美術館でこの絵に出遭った私は何故か心引かれ、複写版を買い求めて帰ってクレパスで模写するほどこの“少女”に惚れ込んでいたのだ。だから、オルセー美術館の一隅に探し当てた時には、「おお、ここにいたのか!」という思いで、無慮半世紀ぶりの再会に狂喜した。「どこかで会えるに違いない」と密かに願いながらオルセーにやってきただけの甲斐があった。 |
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係員と見えるスーツ姿の黒人がオルセー美術館の外にいて、私の片言英語を分かってくれたので、メトロ「ソルフェリーノ駅」までの道順を教えてもらって帰途に着いた。そして、サン・ラザールSt.
Lazare駅で乗り換えて、「門限7時」前の18:30 水口宅に無事生還、“パリ・オノボリサン・トリオ”の弥次喜多道中振りを内心半ば期待し半ば心配していたはずの水口が笑顔でドアを開けて迎え入れてくれた。 そして、休む間もなく、いつものスーパーと酒屋にみんなで出かけてソーセージ、サーモンとビール、樽ワインなどの仕入れを行った。私はここで、何回か水口宅の朝食に供されて「これは旨い」と思っていたチーズやムースなどをお土産用として買い込んだ。“地元”の人々にとっては何の変哲もない物が“よそ者”にとって存外大きな価値を持つことがある。スーパーでのお土産の調達は、安上がりにつくばかりでなく“地元”の生活感覚の一部を贈るのに役立つ(先刻、フォーションで仕入れたフォアグラともども検疫対策は考慮しなければならないが)。しかし、このようなことは普通のパッケージ・ツアーでは言うべくしてなかなかできるものではなく、水口の私宅に起居することができてこそのことだ。改めて「友に感謝」しなければ。 |
(2007/9/1) |
すいすい行かぬスイス入り |
2度目の列車による越境 惰眠を貪っていた私たちを、約束通り水口が5:30に起こしてくれた。さて、♪ロンドン、パリを股にかけ♪てきた我々は今日3国目のスイスに入る。大きなスーツケースに忍ばせてきた中型のバッグに着替え類を詰め込んで旅装を整えてから、クロワッサンに菓子パン、それに牛乳の朝食を摂って6:00に水口宅を出発。メトロを2−3回乗り継いで、「ガル・デ・リヨンGare de Lyon(リヨン駅)」に向かって、ここから高速列車TGV(Train/列車 a Grande/大きいVitesse/速度)に乗る。TGVは主にフランス国内の主要都市間を結んでいるのだが、フランス国有鉄道SNCFの経営だというのに、隣接したスイスやベルギーにまで“越境”している。この「リヨン駅」は“パリからリヨンへ向かう鉄道の起点”という本来の意味の通り、リヨン方面に向かうTGVの起点となっている他に“国有鉄道国際線”の起点にもなっているのだ。イギリスからフランスへ「ユーロスター」で越境してきた我々は、またしても3国目のスイスへと列車で越境することになる。 田園風景のオン・パレード
しばらく霧の世界が続いたが、やがて霧が晴れて、車窓に今度は緑の丘陵地の風景が広がってきた。丘陵の上には濃い緑の森が続き、羊や牛、馬が放牧されている緩やかな傾斜地のイェローグリーンとコントラストをなしている。時折、タイル屋根の家が集まった村落があり、その中に教会の尖塔を見ることもできる。TGVの車窓は、フランス画家が好んで描くような田園風景のオン・パレードで、ルーブル、オルセーに次ぐ“TGV美術展”を堪能させてくれた。 “あわや銃撃戦”の恐れと期待 やがて、針葉樹が増え、岩壁が車窓に迫るかと思うと、湖沼や渓流も見え始めて、大分スイスっぽくなってきたなと思える頃になって快調に疾走してきたTGVが急に止まって約10分間停車した。車内アナウンスではセキュリティー・チェックがどうのこうのと言っていたようだが、ピストルを腰にした屈強なポリスが3人、黒い犬を連れて我々の車両に乗り込んできたので、それが麻薬所持犯の捜査のためだということが分かった。「警官と犯人の間で銃撃戦が始まったらどうしようか」と中沢が聞くので、「そうなったらビデオ撮影のチャンスじゃないか」とこともなげに答えてやった。カナダ・アメリカ旅行の際には、米加国境の事務所内でビデオを撮ろうとして制されてしまったほどの中沢が「ビデオ」を思いつかないのを寧ろ不思議に思ったからだ。これまで熱心にビデを取り続けて“無声映画の巨匠”ぶりを発揮してきた中沢だが、どうやらこのあたりから“巨匠”としての意識を失ってしまっていたようだ。そうこうするうちに、TGVはいつの間にか国境を越えてスイスに入っていた。そして、銃撃戦には至らなかったものの、麻薬捜査のため遅れて「ローザンヌLausanne駅」に着いた我々は予定していたローカル電車に乗り換えそこなうことになり、次の電車の出発をそこで待たねばならない破目になった。これが「すいすい行かないスイス入り」のケチのつきはじめとなった。 消えたパスポート ローザンヌ駅を立ったローカル列車は、6人分の座席があるコンパートメント式で、私は窓際に座って、やたらに四角張ったアパートやポプラが目立つ市街地や丈の低い葡萄の畑の風景を見て楽しんでいた。しかし、やがて列車がレマン湖の畔にさしかかったので、「ここは動画撮影のチャンス」と思って隣の“巨匠”と席を替わってあげた。しかし、“巨匠”にとっては“撮るに足りない”風景だったのだろうか、ついにビデオを手にしようとしなかった。 その中沢のビデオが無くなっていることに気がついたのは、列車が「ジュネーブGeneva駅」に着いてから、レンタカー会社のAVISに行って貸借契約を済ませ、車の受け渡し手続きのためAVISと提携しているホテルのフロントに立ち寄っている時のことであった。「カメラのバッグにはパスポートも入っていたんだ」という中沢の発言は我々にとって大きな衝撃であった。“巨匠”の作品が取り戻せないどころか、今後の行程を中断せざるをえなくなるからだ。 事前の“巨匠”らしからぬ態度から考えて先ずアヤシイと思われたのは「列車内への置き忘れ」であった。そこで、ジュネーブ駅に歩いて戻ったのだが、我々は、そこで駅舎内の事務所と駅裏の遺失物取扱所との間で2回りほど盥回しされることになった。そうこうするうちに、やはり、AVISかホテルがアヤシイのではないかということになって、引き返してそれぞれで尋ねてみたたのだが埒が明かないので、再び駅舎内の警察署まで歩いていって警官にパスポート遺失証明書を作ってもらった。 しかし、ジュネーブ駅周辺を何べんもトボトボ行き来している私たちの姿を、何も知らずに見ている人がいたとしたら、「市中引き回し」の刑を受けている罪人のように見えたかもしれない。 いきなりアルプス最高峰が姿を パスポートを再発行してもらうのには数日を要しそうなので、スイス旅行を終えてから、中沢が予定されているリヨン・ニース行きをあきらめて、パリに戻ってフランス大使館で手続きしての水口宅で待機しているしかなさそうだ。しかし、中沢一人をパリに置いたままにするのは気の毒だし、中沢のことを心配しながらではリヨン・ニース旅行も楽しくなってしまう。「苦楽をともにしてこそ友達」と衆議一決して、計画を変更し、スイス旅行を終えてから、みんな揃ってパリに戻ることに決めた。 こんな風に割り切ってみると、後は精一杯スイス旅行を楽しむだけ。では、そんなこんなで大分時間が遅れてしまったが、いざアルプスの真っただ中へ向けてスタート。初めて見るスイスの景観に期待を膨らませながらレンタカーRunault Scenicの後ろ座席に…。しかし、水口からナビ役を仰せ付けられたのは、先ほどTGV車内で水口から“レクチャー”を受けていたはずの山本ではなくて私だった。ここから、助手席での遠近両用眼鏡を駆使しながらの、地図との苦闘が再び始まった。
“地理滅裂”なナビゲーター 更に、地図上に、「マルティニーMartigny」、「シオンSion」、「フィスプVisp」などをプロットしながらナビ役を再開すると、細い道路に両側に“関所”を思わせるような木枠が設えてあった。無人だったので素通りしたが、どうやらそこが国境であり、そこから再び我々はスイスに戻ってきたらしい。このように両国間で国境を越えて自由な行き来ができるのは、ヨーロッパ連合(EU:European Union)ができたお陰なのかなと一瞬思ったのだが、すぐに、フランスが原加盟国であるのに対してスイスは未だにEUに加盟していないという現実に思い当たった。要するに、大掛かりな国際的な協定などとはかかわりなく、両国間に信頼関係さえあれば、このように国境線の監視など一切無用になるのだ。 ところで、私がモンブランを眺めている時に、水口は本日の投宿先のホテルと携帯電話で交信していた。その会話を受けて、水口が「ケーブルカーの最終便」を気にしながら運転している様子だったので、「今日はホテルまでにしてケーブルに乗るのは明日にすればいいじゃん」と口を出したところ、「我々の目指すホテルのあるツェルマットZermattはケーブルカーに乗らなければ行けないんだよ」とのご託宣があった。TGV車内で水口から“レクチャー”を受けていなかった私は、とんでもない“地理滅裂”なナビゲーターだったわけである。 “アルプスの娘ハイジ”がいた フィスプで曲がると、道は細くなり登りの傾斜もきつくなってきたが、やがて、ケーブルカーの発着点「テッシュTosch」(この"o"にウムラウトがついているところからも、ここがドイツ語圏であることが分かる)に到着。私鉄BVZ(Brig-Visp-Zermatt)のテッシュ駅前の大きな駐車場に車をおいて、最終便に乗り遅れることなく無事ケーブルカーに乗ることができた。 昔からヨーロッパのアルペンリゾートであったツェルマットは,自然保護のためガソリン自動車の乗り入れは禁じられているのだ。そのため、ケーブルカーのツェルマット駅から乗ったタクシーも電気自動車であった。ツェルマットのメイン・ストリート「バーンホフ通り」を走って、教会のところを曲がると我らが投宿先の「ホテル・アラリンHotel Allalin」はもうすぐそこ。水口の電話交信ぶりを傍受していて予想していた通りの優しそうで快活なメートヒェンMadchen("a"にウムラウトがつく)が笑顔で私たちを迎え入れてくれた。“アルプスの少女ハイジ”が素直に育ってお淑やかになったようなこの“アルプスの娘ハイジ”は、明日から休暇を取って出かけるという旅行の準備のために帰宅を急ぎたかっただろうに、我々が無事到着するのを心配しながら待っていてくれたのだ。その上、「この辺りで一番旨くて安くて近いレストランを」という我々のリクエストにも快く応じて、バーンホフ通りにあるレストランとお奨めメニューまで紹介してくれた。 しかし、折角のアルプスの“メートヒェン”ハイジのお奨めにもかかわらず、パスポート紛失事件で疲れ果てていた私たちはバーンホフ通りまで出る気力が失せていて、ホテルのつい隣にあるレストランに入って、タンドリーチキンとビールで手っ取り早く飢えと渇きを癒すことになってしまった。 |
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(2007/9/2) |
マッターホルン観光 |
お洒落なシャレー 起床するや否やホテルの裏庭に飛び出してみると、我らがホテル・アラリンは朝靄煙る岩山のすぐ下にあることが分かった(下写真左)。「マッターホルンMatterhorn」の語源は良く分からないが、ドイツ語で"Matte"が「スイスアルプスの牧草地」、"Horn"が「角の形をした岩峰」という意味だから、"Matterhorn"は「麓の牧草地の上に聳える岩峰」という意味なのかな?マッターホルンの麓の町ツェルマットのこの名も知らぬ岩山のグレイと山裾の牧草地のグリーンがマッチした光景を見ているとそんな気がしてくる。 昨夜私達が到着してから自室の窓から見た時には、漆黒の闇の中で十字架を光らせていた教会もすぐ目の前にあり(下写真中央)今朝は、青空とあけ行く山肌を背に尖塔を聳やかせている。 建物はシャレー建築で(下写真右)、石組み、または、漆喰の地上階の上に木造の二階以上が載るという木造と石造の融合した構造がアルプス地方の伝統的建築広報らしい。実際に、ツェルマットの町にはこのようなシャレー建築が立ち並んでいてお洒落でメルヘンチックな雰囲気を醸し出している。なお、「シャレーchalet」は本来“山小屋”という意味だそうだが、これを模して建てられた大型の建物は寧ろ“山荘”に近いのではないかと思われる。 |
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癒しの“マイル・ビレッジ”ツェルマット このツェルマットは、スイス南部のヴァリスWallis州にある。後日訪れる予定のユングフラウ4158mはヴァリス州とベルン州にまたがっているのだが、マッターホルン4476mをはじめ、モンテ・ローザ4634m、ドーム4545mなど、スイスの高山ベスト15は全て「ヴァリスアルプス」に集中しているのだそうだ。これが、「ヴァリス州が山岳国家スイスを最もよく象徴している」とか、「スイスと言えばヴァリス州」とか「ヴァリスに行かずしてスイスを語る事なかれ」とか言われる所以なのだろう。 高峰が、南アルプスや中央アルプスにも分散しているところは聊か違うが、“本家”の「ヴァリスアルプス」は“日本アルプスの中の本家”である北アルプスに当たり、「ヴァリスアルプス」のスター的存在であるマッターホルンは、その形状が似ていることからも日本アルプス槍ヶ岳の本家筋に当たると考えてもよさそうだ。だから、ツェルマット村は分家筋の日本アルプス銀座のお膝元である長野県の穂高町あたりの本家筋と見られるのだが、実際には新潟県の妙高高原町(現・妙高市)と姉妹都市(村?)になっているとのことで、バーンホフ通りには「妙高Myoko」という名の寿司バーも見かけた。 ホテルで、ドイツ語、フランス語と英語を駆使して威勢良く立ち働いていたアルプスの“元少女”によると、ツェルマットの海抜は1,602mだそうだから、“マイル・シティ”と呼ばれる米国コロラド州デンバーとほぼ同じ高度だ。しかし、周辺も加えると人口250万人の大都市デンバー市と比べて、たかだか人口5,600人のツェルマット村のこの何と慎ましやかなことか。しかし、デンバーとは比べ物にならないほど豊かな自然環境に包まれたこの“マイル・ビレッジ”は、私たちに居心地の良い癒しの気持を与えてくれる。 |
急峻な“氷河のミルク”の流れ ツェルマットの村を流れるマッターフィスパ (Matter Vispa) 川は、川幅はさほど広くないが、氷河から流れ出してくる水を集めたせいかかなり流れが激しい。こんな調子で洪水にならないものだろうかと心配になるが、積雪が多かった年に実際に洪水になったことがあるそうだ。ドイツ語の"zer"は「分裂・破壊」という意味を持つ接頭辞だが、ことによると“Zermatt”の地名は「"zer"+"Matte"」が語源で、この川の洪水によって「“牧草地”の“分裂・破壊”」ガ繰り返された歴史に由来しているのかもしれない。 マッターフィスパ川の流れが、別名“氷河のミルク”と呼ばれているのは、ゴルナグラード氷河などからの溶け出した流水を集めているためで、氷河に含まれていた鉱物質が溶け込んで、青みがかった濃いミルク色の白濁色をしている。“氷河のミルク”は、ここツェルマットからテッシュに流れ落ち、そこからマッター谷を下って行って、フィスプでローヌ川(Rhone)と合流する。そのローヌ川は、いったんレマン湖に流れ込み、ジュネーブからフランスに向かって流れ出す。そして、フランス南部を流れて行って、リヨンあたりでソーヌ川と合流し、最終的には地中海に注ぐというから、目の前を流れている“氷河のミルク”の終着駅は地中海ということになる。 |
スキーヤーでないのは我らだけ 「ツェルマットといえばマッターホルン」とも言われ、このマッターホルン山麓の村を訪れる人はほとんど、孤高に凛として聳え立っているところから「スイスアルプスの女王」と称されるマッターホルンがお目当てなのだそうだ。私たちもご多分にもれず、女王様に見参するために、マッターフィスパ川に架かる橋を渡り、川沿いの道を進んで、ツェルマットの村はずれにあるロープウェイ乗り場に急いだ。しかし、そこで私たちが見たものは、家族連れも交えた夥しい数のスキーヤーたちであった。それぞれにスキーウェアを身にまとった完全装備でスキー板を抱えて立ち並んでいる。おいおい、今はまだ9月なんだぜ、スキーはオフ・シーズンじゃないのかい。我々の思い描いていた「マッターホルン詣での観光客用のロープウェイ」というイメージは完全に崩され、精々セーターやジャンパーを着込んだだけの我々4人だけが違和感を感じさせる存在になってしまった。 意外に気さくな女王様 最初に目指す「クライン・マッターホルン展望台」 へはロープウエーを乗り継いで行く。まず、途中駅の「フーリFuri」に向かう6人乗りの小さなゴンドラがふわりと浮かび上がるとすぐに、眼下に牧草地とハイキングコース、それに今渡ってきたばかりのマッターフィスパ川が見える。先ずは"Matte"(牧草地)観賞の部の始まり始まりと思いながら、目を前方に転ずると真っ白な装いの"Horn"(角の形をした岩峰)が見えた(下写真左)。しかし、この時には「さすがアルプス、“マッターホルンみたいな山”はどこにでもあるのだ」と思えただけで、それがご本尊様だとは気づかなかった。真打で登場されるのかと思いきや、「スイスアルプスの女王」様は存外気さくで、チェルマットの村からでも見ることができるのだということを後で知った。 あちこちに散在する丘陵地の斜面を利して建てられた農家や小屋の姿を俯瞰しながら(下写真中央)、自然と共生しつつ勤勉に働くスイス農民の生活ぶりを偲んでいると、"Matte"(牧草地)と"Horn"(角の形をした岩峰)が見事に調和した景観が現れた(下写真右)。やはり、"Matterhorn"の意味は「麓の牧草地の上に聳える岩峰」なんじゃないかと今にしてなお思う。 |
クライン・マッターホルン展望台 |
熟達アルピニストの境地に達す 海抜1867mのフーリで、今度は100名くらい乗れそうなゴンドラのロープウェイに乗り換えて、海抜2929mのトロッケナー・シュテーク Trockener Stegに向かう。かくも多数のスキーヤー(と僅か4人の我々観光客)を乗せた巨大ゴンドラを、一気に1000m以上も高いところに引き上げてしまうスイスのロープウェイ建設技術の凄さに感嘆しているうちに、"Matte"(牧草地)の光景が視界から消えて、雲の上の"Horn"(角の形をした岩峰)の世界に入って行く(下写真1段目左)。更に、トロッケナー・シュテークで、再びロープウェイを乗り継いで、「クライン・マッターホルンKlein Matterhorn展望台」へ向かうと氷河Gletscherの世界が広がってくる。熟達したアルピニストしか接することができないと思ってきた自然の造詣をこんなに間近に堪能することができるのもロープウェイのお陰だ。“クラインKlein”は“小さい”という意味だから、言葉としては「槍ヶ岳」に対する「小槍」のようなものだ。因みに、日本の『アルプス一万尺』という歌は、もともと『ヤンキードゥードゥル』という名のアメリカ合衆国民謡・愛国歌だったものだが、日本人が勝手に歌詞をつけて登山の歌にしたものだそうで、この歌の「アルプス」は日本アルプスで「一万尺」とはその高さを言うのだそうだ。歌詞では♪小槍の上でアルペン踊りをさあ踊りましょう♪となっているが、実際にはアルペン踊りを踊る広さもない「小槍」と違って、このクライン・マッターホルンは充分な大きさを持った独立した"Horn"(角の形をした岩峰)なのである。 軽い高山病に ロープウエーの駅は、クライン・マッターホルンの山頂のすぐ下の崖にはいつくばるように建てられている。幾多の困難を乗り越えて、良くぞこんなところにロープウェイの鉄塔に加え駅の建築までしてくれたものだ。駅に近づくにつれて勾配が急になり,駅の直前ではロープウエーのゴンドラがほとんど真上に引っ張られてエレベータ状態になる。さて、ロープウエーを降り他地点が標高3820m。そこから、トンネルの中を歩くと、イタリヤ方面への出口がある。更に、トンネルを出てから、しばらく登っていかなければならない。クライン・マッターホルン展望台は標高は3883mで、ロープウエーで行ける展望台としてはアルプスで最高地点にあるのだ。さすがに空気が薄いのがわかる。軽い頭痛がして足もともふらつきがちになって歩が進まない。軽い高山病なのだろうが、“マイル・ビレッジ”ツエルマットから僅か50分間ほどで一気に標高差2,300mのところを上がってきたのだから無理もない。私は、“マイル・シティ”デンバーでの1週間の滞在のうちに、パイクスピークPike's Peak4301mとエヴァンス山Mt. Evans4350mのアメリカン・ロッキーの4000m級高山2峰に登ったことがある(もちろん車で)が、その時には高山病症状になることはなかった。あの時は、車で時間をかけて上がっていったせいもあるが、数値こそ下回るものの、ここアルプスの方が遥かに高山らしい佇まいをしている。第一、随所に氷河が点在する「マッターホルン・グレイシャー・パラダイスMatterhorn glacier paradise」に車で来られる訳がない。 360度の壮大なパノラマを堪能 しかし、天空の中に突き出た形の展望台に辿り着くや、高山病症候群は一気に消し飛んで行ってしまった。360度の壮大なパノラマが眼前に展開したからだ。だが、「さすが、マッターホルン!なんという重量感なんだ!」と狂喜してシャッターを切った(下写真2段目右)時、みんなが逆方向にレンズを向けているのに気がついた。私一人だけマッターホルン4478mに背を向けてブライトホルンBreithorn,4164mを撮っていたのだ。ここから見る“スッピンのスイスアルプスの女王様”(下写真1段目中央)は、いささか普段の白粉仕立ての顔(かんばせ)と趣が違うので、そうとも気がつかず失礼してしまったのだ。そこで、機嫌を損ねられないうちにと女王様ご謁見の記念写真撮影ということになった(下写真3段目左)。 オーバー・ガーベルホルン4062m、チナールガーベル4221m、ヴァイスホルン4505mなど4000m級の"Horn"(角の形をした岩峰)連山の間に、遥か彼方にモンブラン4805mの白く大きな頂きまで遠望できる(下写真3段目中央)。また、「氷河パラダイス」の名に背くことなく、大きな氷河が目の前に横たわっていて(下写真2段目中央)、イタリア国境側には大きなスキーゲレンデがあってリフトが設えられていた(下写真2段目左)。 ♪行きは良い良い帰りは怖い♪…だが “マッターブラン登頂”に成功した我々は、クライン・マッターホルン駅から再びロープウェイ上の人となって、トロッケナー・シュテーク駅へと急降下していく(下写真左)。登ってきた時には、それこそ“上の空”足で、足もとにはあまり目がいかなかった。しかし、♪行きは良い良い帰りは怖い♪で、こうして否応なく“落下”先が見えてしまうとなると高所恐怖症飲みにはちと辛く足がすくんでしまう。しかし、行きと違って、スキー客が乗っていないので、ゴンドラの四方の窓から見たい放題で、"Horn"(角の形をした岩峰)たちと、対等の目線で対面したり(下写真中央)、至近距離で対峙したり(下写真右)することができた。 行き届いた造物主の造形 トロッケナー・シュテーク駅2929mで降りた我々は、今度はフーリ駅に戻るのではなく、シュバルツゼー駅2583m行きのロープウェイに乗り換える。途中のフルックFurgg 2432mまで下降していくと、岩肌もつぶさに見えるようになり、グレイ1色かと思いきや、実はブラウンも微妙に配色されており、純白かと思われていた氷河にも岩肌から削り取られた欠片が含まれているということが分かってきた(下写真左)。ロープウェイが下降するにつれて岩肌がゴツゴツとしてくるとともに、グレイやブラウンにも微妙なグラデュエーションが加わってくると、これだけでも一幅の絵画になる(下写真中央)。私は進化論者であって創造論者ではないのだが、このように細部まで細工を凝らした景観を目の当たりにすると造物主である神による造形かと思いたくなってしまう。更に、下がっていくと、"Horn"と岩肌の間に佇むゼーSeeが見えてきた(下写真右)。ドイツ語の"See"は英語の"lake"に当たり「湖」という意味だから、寧ろ英語の"pond"に当たる「池Teich」と称した方が良さそうにも思えるが、この手の「湖」は随所に存在していて、我々の次なる目的地「シュバルツゼー(黒いSchwarz/湖See)」もその一つらしい。こんな風に岩と氷河の世界に水の光景を加えるところにも造物主の心配りのようなものが感じられるような気がしてくる。 スイスの人々に「三感」 やがて我々は、再び雲海の下の世界に戻ってきた(下写真上段左)。このようにして雲の下と上の間を気軽に行き来できるのもロープウェイのお陰だが、そのロープは急傾斜地の岩盤上に建てられた鉄塔によって支えられているのだ(下写真上段中央)。精魂込めて資財を運搬し、岩を穿って鉄塔を打ち立てたスイスの人々は本当にエライしスゴイしアリガタイ。大自然だけでなく、スイスの人々に“感”銘、“感”動、“感”謝の「三感」をしているうちに、“懐かしい”マッターフィスパ川が姿を現した(下写真上段右)。更に、岩肌がグリーンがかってくると(下写真下段左)、私たちは"Matte"(牧草地)の世界に舞い戻った(下写真下段中央)。しかし、これも束の間で、フルックから再び高度が上がると、“Mutteの上に聳えるHorn”Matterhornが我々のすぐ目の前に大きな姿を現した(下写真下段右)。 |
シュバルツゼー展望台 |
女王ではなく歴戦の勇士の王なのだ ツエルマット地区には、先刻訪れたクラインマッターホルン周辺の「マッターホルン・グレイシャー・パラダイスMatterhorn glacier paradise」の他にも、「ロートホルン・パラダイスRothorn Paradise」、「スネガ・パラダイスSunnegga Paradise」、「シュバルツゼー・パラダイスSchwarzsee Paradise」と、パラダイス(天国)が合計四つもある。そして、マッターホルンに一番近づくことができる天国が、このシュバルツゼーパラダイスであり、すぐ目の前にその頂を仰ぎ見ることができる(下写真中央)。しかし、まじかに見るマッターホルンは、もはや「スイスアルプスの女王」と形容できるものではなく、孤高で荘重な風格を保つ「スイスアルプスの王」と呼ぶのが寧ろ相応しい。このアルプス山脈も、ヒマラヤ山脈、ロッキー山脈と同様に、中生代末期から新生代前期に起こったプレートの衝突による造山運動でつくられた大褶曲山脈だそうだが、この「スイスアルプスの王」の顔面の縦方向に走る何条もの線は造山運動の際に刻まれたものであろう、歴戦の傷跡を残す勇士の顔のようにも見える。すかさず、「王様と私」の2ショット写真(下写真上段左)を撮らせていただいてから、都度雲の装いによって変わる王者の風貌に感嘆の声を発しながら「天国」での一時を過ごした。 いずれも♪たった一つだけの♪天国 ここシュバルツゼー「天国」は、旅行ガイドなどでは、「展望台」というより寧ろ、マッターホルンへの登山口、または、トレッキング、ハイキング、スキーなどの拠点とされて位置づけられているようだ。しかし、それでも、マッターホルンをすぐ目の前に展望できるだけではなく、マッターホルンより高いモンテローザ(4634m)、リスカム(4527m)、ドーム(4545m)をはじめ、ターシェホルン(4491m)、ダン・ブランシェ(4357m)、ジナルロートホルン(4221m)、アルプヒューベル(4206m)、リムピッシュホルン(4199m)、ストラルホルン(4190m)、ブライトホルン(4164m)、オーバー・ガーベルホルン(4063m)などの4000m超のホルン(岩峰)や、ゴルナー氷河やテオドール氷河などを眺望することができる(下写真)。花でさえ♪世界にたった一つだけの花♪なのだ。どの「天国」がNumber 1か論ずるのが不遜なことであって、いずれの「天国」もそれぞれの美しさを持つOnly 1なのだ。 衣食も足って“天国気分” 確かにこのシュバルツゼー「天国」には、「これが展望台でございます」といったような施設は見当たらなかった"HOTEL RESTAURANT SCHWARZSEE 2583m"という標識のある施設のバルコニー(下写真左)が実質的な展望台に当たり、私たちはここでゆっくりと展望を楽しみながら、スイス名物のソーセージを用いた同一料理風の昼食をとった(下写真中央)。一般に気温は高度が100メートル下がると約0.6度上がると言われるから、クライン・マッターホルン展望台3883mと、この「天国」ではちょうど1.300m高度が違って、気温も8度近く上がっていることになる。実際に、同じ服装でいても心地よく、文字通り衣食も足って“天国気分”の一時を過ごすことができた。しかし、女心と山の空(?)で、俄かに雲が立ち込めてきた(下写真右)。山歩きの心得のある山本によると、一気に天気が悪化する可能性があるという。そこで、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、「スイスアルプスの王の最も近い天国」を後にすることにした。なお、「シュバルツゼー(黒い湖)」はゴンドラ駅のそばにあるらしいのだが、頭の中の“黒い霧”に包まれたままで、ついぞ所在地を確かめることもできなかった。後になって、ガイドブックを見てみると「7〜8月になると周辺は高山植物でいっぱいになる」とあった。知識の「“更改”先に立たず」で残念なことをした。 懐かしの“アルプスの麓”に帰還 ロープウエーから鮮明に見えてきた“懐かしい”ツェルマットの村(写真下左)は、氷河で削られたU字型の谷の底に広がっているように見える。ことによると“Zermatt”の地名は、「マッターフィスパ川が"Matte(牧草地)”を"zer(分裂)"する」のではなくて、「氷河によって峡谷が"zer(破壊)"された結果できた"Matte(牧草地)”」が語源なのかもしれないな。「大所高所から見ると物がよく見える」と言うが全くその通りだ…などと勝手に納得して悦に入る癖が頭をもたげる。更に、高度が下がってくると、同じ視線に山麓の農家が現れ(写真下中央)、やがて、ツェルマット村の人々と同じ視覚から、山肌の茶色がかったグレイとその下方の草木の濃淡のグリーン(写真下右)の織り成す“アルプスの麓”の光景が仰ぎ見られるようになる。 |
ゴルナーグラート展望台 |
メッカ中のメッカ「駅前通り」 昨晩通った時には閑散とした「バーンホフ通りBarnhof-strasse」は観光客で賑わっていた(下写真左)。"Barn"が「鉄道」で"Hof"が「広場」だから、さしずめ「駅前通り」となるのだろう、世界中から観光客が、氷河急行の走るマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点「ツェルマット駅」に集まり、スネガ展望台行きケーブルカー、ゴルナーグラート登山鉄道、クライン・マッターホルン展望台行きロープウェイのそれぞれの「ツェルマット駅」から山中に散っていくのだから、山岳観光のメッカと言われるツェルマット中でも、この「駅前通り」はメッカ中のメッカだと言える。建ち並んでいるホテルは、この地方伝来の民家建築である焦げ茶色の木造シャレーで、申し合わせたように、赤いゼラニュームが植えられてバルコニーを飾っている(下写真中央)。この木造シャレーの焦げ茶と赤が背景のグレイとグリーンとマッチし、ツェルマットならでは雰囲気を醸し出している。しかも、村内の移動に電気タクシーや馬車などしか使われていないこともあって空気に清浄感が感じられる(下写真右)。 マッターホルンの顔も三度まで ロープウェイの「ツェルマット駅」から「駅前通り」を抜けてゴルナーグラート登山鉄道の「ツェルマット駅」に向かった私たちは、今度は「ゴルナーグラート展望台Gornergrat (標高 3,130m)」を目指す。水口は、もう何回か来たことがあるというので今回はスキップ。山本、中沢、それに私の野次喜多トリオが、クライン・マッターホルン展望台、シュバルツゼー展望台に次いで、マッターホルンとの三度目の“公式対面”に臨むことになる。「仏の顔も三度まで」というが、それぞれ立場を変えて敬意を表しながら臨んでいるのだから「マッターホルンの顔も三度まで」は許してもらえるだろう。ところで、ガイドブックには「料金CHF72(往復)」とあったのに、CHF60しか取られなかった。「間違いじゃないの?」と聞いてみると、切符売り場の初老の女性は優しそうに笑いながら、「いいのよ、午後出発の場合は割引になるの」と教えてくれた。12スイスフラン得したから言うわけではないが、なんだか、会う人会う人、スイスの女性がみんな上品で優しく知的に見える。こちらのブロークン・イングリッシュにも聴き取りやすい英語で応じてくれた。 ヨーロッパ最高地上駅めざし急勾配を行く登山電車 ヴァリスアルプスは、ツェルマットの村を要として、複数の山系と氷河が扇子状に広がっている。扇子の右端は、シュバルツゼーの山系で、その奥にマッターホルンが聳えている。これからゴルナーグラートGornergratの"Grat"の「尾根」という意味で、最左端のロートホルン山系から2番目のゴルナーグラート山系の尾根筋にある。ゴルナーグラート登山鉄道は、山系の右斜面を登って行く(下写真上段左)から、車窓からは、すぐ目の下に牧草地Matte(下写真上段中央)そして“対岸”の山系とマッターホルンなどの岩峰Horn(下写真上段右)が展望できることになる。 日本にも箱根登山鉄道という山岳鉄道があり、この勾配は80/1000(80パーミリ:1,000m走る間に80mの高さを登る勾配)で世界第2位」とされているが、これは車輪とレールとの摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う「粘着式鉄道」の部での話。ここは、2本のレールの間にあるギザギザの歯型のレール(ラックレール)を敷設し、車両の床下に設置された歯車とかみ合わせることによって急勾配を登り下りする「ラック式鉄道」(よく耳にする“アプト式”もこの一種なのだとか)になっていて、「地上駅」(*)としてはヨーロッパ最高地点(標高3089m)とされる終点ゴルナーグラート駅めざして、最大勾配200パーミルという急坂をぐいぐいと登って行く。全長9.3kmというから平地では決して長くない行程だが、標高差が1400mもあるところを約40分で登りつめてしまうのだから大した高速クライマーだ。そのため、車窓の景色の移り変わりも速く、眼下に緑地が見えていたかと思うと(下写真下段左)、いつの間にか、ハイキング・コースが走る枯れ草の草原とよりり接近した岩峰の景色が見えるようになり(下写真下段中央)、更に、ローテンボーデン駅Rotenbodenくらいにまで高度が上がると、赤土と氷雪の世界へと変わってくる(下写真下段右)。
クール!マッターホルン眺めつつ飲むスイスのビール
山々と氷河が織り成すダイナミックな大パノラマ このゴルナーグラート展望台(標高 3,130m)は、ツェルマットで一番有名な展望台とされるが、それは遠方にマッターホルンが展望できるからというだけのことではない。つい目の前にスイスアルプス最高峰(ヨーロッパアルプス最高峰はフランス・イタリア国境のモンブラン)のモンテローザMonteRosa(4634m)(*)をはじめ、リスカムLiskamm(4527m)、カストールCastor(4228m)、ブライトホルンBreithorn(4164m)、ポリュックスPollux(4091m)などの4000mを越える山々が聳え立ち我が目を圧する。そして、山々の沢の部分にはそれぞれに氷河が張り出していて、それらが数条の支流をなして、つい眼下に見える本流のゴルナー氷河に流れ下っている。実際には、重力によって流動する氷河の流れは緩やかなものなのだろうが、ここでは様々な形状をした氷河たちが先を争うように雪崩落ちてきているように見える。山々の岩肌と氷河が織り成す大パノラマはダイナミックで息を呑むばかりだ。朝からずっと続いていた青空は消えていたが、このおどろおどろしいまでのスペクタクルの背景としては荒天模様の方がずっと似合いだと思った。天候の移り変わりのタイミングにも恵まれて、様々な視角からヴァリスアルプスの景観を心行くまで堪能することができた。
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パスポート紛失事件の顛末 Part2 ホテルに戻ってみると、私たち三人がゴルナーグラート展望台に行っている間に、水口がパスポート再取得の手順について調べてくれていたということが分かった。最近はパスポートの再発行に数日間を要するということはなくなり、パリの日本大使館に出頭すれば即日再発行してくれるのだそうだ。そういうことになると話が違って、リヨン・ニース旅行を中止する必要がなくなってくる。そこで、水口の提案どおり、スイス旅行が終わった時点で中沢一人がパリに戻って、パスポートの再交付を受けてからニースでリヨン経由の私たちにジョインすることになった。とはいえ、慣れないパリに一人赴くのは心細いことだろうと思い、中沢が入浴している間に、ガイドブックと首っ引きになって、地図から日本大使館の所在地を探し出して、メトロの最寄り駅と乗り継ぎ順序を調べてメモしたり、電話番号とともにタクシーを利用する場合に運転手に手交すれば分かるように、日本大使館のフランス語表記"Ambassde du Japan"をメモしたりして、ガイドブックから切り離したパリ市内地図とともに中沢に手渡した。困ったときはお互い様で、水口隊長にばかり面倒をかけるのは良くないと判断して自主的にしたことであったが、まさに「情けは人のためならず」で、この作業を通じて私自身がより一層“パリ通”になれたような気がした。実際、渡したメモや地図が中沢の役に立ったのかどうかも分からない。 名物に美味いものなし 「ポスト・スイス旅行」の段取りについて衆議一決したところで、私たちは空腹を癒しにバーンホフ通りに繰り出した。なかなか雰囲気が良くて、しかも、あまり高そうに見えないレストランがすぐに見つかって、まずは、いつものようにハイネケンで乾杯。私は、メニューの中から“スイスの味覚”とインプットしておいた「チーズ・フォンデュ」を迷わず選択してオーダーしたのだが、水口が「俺はこれにしておくよ」と選んだのは鱒料理であった。ツェルマットを流れるマッターフィスパ川の白濁の川相を見れば、この当たりの川や沢で鱒が釣れないのは明らかなことだ。それなのに、どうして“あんなに美味しいフォンデュ”を敬遠して鱒に走るのだろうか。スイス来訪の機会が多かったから“スイスの味覚”に食傷しているのだろうか。しかし、この謎はやがて解けた。運び込まれてきた「チーズ・フォンデュ」は、鍋に入れたチーズを白ワインで溶かしたもので、これをパンの小片でからめとって食べるという単調なものであり、“あんなに美味しいフォンデュ”とは別物だったのだ。思い返してみれば、私が「フォンデュ」を食したのはただの1度しかない。大学から東芝にかけての友人である浮貝純一兄宅でご馳走になった“あんなに美味しいフォンデュ”は実は「オイル・フォンデュ」であって、彩りも豊かな野菜類や魚介類(シロギスまで!)などの串刺しの食材を油で揚げて食するものだったのだ。ところが、この“スイスの味覚”ときたら、待てど暮らせど魚介類はおろか野菜類が運ばれてこず、パンを口に運ぶ手順の繰り返しばかりで退屈なこと夥しい限りだ。思い切り「名物に美味いものなし」を実感させられてしまったが、元はと言えば「一(オイル・フォンデュ)を知って十(フォンデュ全体)を知る」気でいた私のいつもの思い込み癖のせいだったのだ。 |
(2007/9/3) |
ホテルの窓からご対面
“おじいさんの4000m峰”アラリンホルンの如く 後日調べて分かったことだが、4000m級の38座のうちに「アラリンホルンAllalinhorn(標高4,027m)」というのがあって、そこにこの「アラリンホテル」の名が由来しているようだ。地図で見ると、右端がマッターホルン、そこから左にブライトホルン、モンテローザと続き、そこから大きなフィンデル氷河Findelgletscherを隔てた左端のところにアラリンホルンはあるから、ことによると昨日のマッターホルン観光の過程で私たちの視界に入っていたのかもしれない。アラリンホルンは、登るのが最も簡単な4000m峰の一つとされ、「おじいさんの4000m峰」と呼ばれて親しまれているそうだが、その頂上からの展望は芸術的なまでに美しいのだとか。このアラリンホテルも、アラリンホルンと同じように、旅人に親しまれるとともに美観を提供することを願って建てられ営まれているのに違いない。さりげなく花をあしらった玄関(下写真左)に気さくに迎え入れられた旅人は、彫刻が施された木製の天井が居心地の良い雰囲気を醸し出す客室(下写真中央)で夜をすごし、新鮮なフルーツやミルクなどが豊富にサービスされる朝食(下写真右)を供されて、また新しい旅に立っていく。 フィナーレはモルゲンロート
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ユングフラウ観光 |
船頭多くして車オカマを掘る アラリンホテルに電気自動車のタクシーを呼んだ我々は、バーンホフの駅でケーブルカーに乗って、ツェルマットに名残を惜しみながら「テッシュ」に下った。昨日は暗くて見えなかったが、左右両側に山壁があり、ケーブルカーは、その間にあるU字形の牧草地の傾斜を上り下りしていたのだと言うことがわかった。岩肌は針葉樹で覆われているが、崩れ石があちこちに散見される。こうして見ると、ツェルマットが氷河によってけずりとられてできたU字形の谷間の村なのだということを身をもって実感することができる。なお、右側には白濁したマッターフィスパ川が流れ下っており、その流れに沿って自動車道路が走っている。今日は、これから車で「フィスプ」に下るまで、このマッターフィスパ川による“伴走”が続くことになる。 さて、テッシュ駅に着いて駐車場で車を探し出して、ユング・フラウ観光へ向けていざ発進。ところが、ここでちょっとしたアクシデント発生。バック発進のためハンドルの切り替えしをしていたところ、誘導に立った中沢と後部座席の山本による「バック・オーライ」の時間差コーラスに運転の水口が惑わされてしまって、車の後部が真後ろの支柱にゴーンとぶつかってしまったのだ。「船頭多くして船山を登る」だが、車の場合も船頭が多いと「車オカマを掘る」結果になってしまう。幸先良からぬ出来事に、何やら不吉な予感がする出足となってしまった。 “ヨーロッパの分水嶺”に大接近 再び、一昨日曲がってきたフィスプの交差点まで降りた我々は、今度は来し方から方向を変えて右折し、ローヌ川沿いの道を行く。「シンプロンSimplon」の標識などは交じるものの、ナビゲーターとしての地図と標識の照合作業はここではさほど難しいものではなく、次の目標地点である「ブリークBrig」は難なく通過することができた。ところが、「フルカFuruka」の標識が見え始める頃になってから、ナビゲーションがややこしくなってきてしまった。我々の次の通過予定地の「グレッチュGletch」の標識がなかなか出てこず、しかも、「フルカ」との位置関係が分かり難かったからだ。 そこで、水口隊長得意の“勘ナビ”の出動するところとなり、「フルカ」との分岐点のところで我々は左に方向をとったのだが、実はこの「フルカ峠」が“大変な”所であるということを後になって知った。この峠には、ローヌ氷河を見下ろす展望所があり、この氷河がローヌ川の源流になっているのだそうだ。そして、峠の西側に降った雨や雪がローヌ渓谷を下り、レマン湖から地中海へ注ぐのに対して、東側に降った雨や雪はロイス川からライン川を経て北海に注ぐというから、「フルカ峠」が“ヨーロッパの分水嶺”になっているわけである。 また、かっての鉄道はラックレールを使ってフルカ峠までよじ登っていたそうな。今回我々はお世話にならなかったが、今や世界的に有名になっている「氷河特急」の“氷河”という名前は、ここからローヌ氷河が眺められたことに由来しているのだそうだ。現在では「フルカトンネル」が開通しているので、「氷河特急」の車内からは“氷河”を見ることができないという“氷河ない”状態になっているのだが、これをもって「偽装」だと非難する向きはいないようだ。 忽然と眼前に現れた“モンスター” 水口隊長得意の“勘ナビ"が当たって、無事グレッチュを通過することはできたものの、その頃になって、本日のスタートに当たって不吉な予感の方も当たって、天気が崩れ雨が降り出してきた。しかし、この「三感トリップ」が始まってから10日間ずっと好天気でいた方がラッキーだったのだと自らを慰めながら前に進む。すると、やがて前方、霧の中にぼんやりと、雪をいただく山が見えてきた。そして更に進むと、“そいつ”は、忽然として我々の眼前に、巨大な城砦の壁にも見える奇怪な姿を現した。我々の行く手を阻むかのように、目の前に立ちふさがっている“そいつ”の姿は、どう見ても「壁」であって「山」ではないのだが、よく見ると、“壁”面にジグザグのラインが走っていてここを車が登っている。要は、これが、避けては通れぬ「グリムゼル峠Grimselpass(標高2165m)」だったのだ。「あんなに高いところまで“ロッククライミング”しなければならないのか」と嘆息をつきながら、改めて見上げてみると、この“モンスター”の頭部はほとんど“真上”にあるように見える。標高差1,600mだというから、200m手前から見上げると、tanθ=1600/200となりθ≒83°となる計算だから、“真上”に見えるのも無理はない。 また訪れてみたい「グリムゼル」 しかし、自他共に名ドライバーと認める水口はひるむことなく、“ロッククライミング”にとりかかり、下からはジグザグ・ラインに見えた九十九折れ折れのヘヤピン・カーブを次々とこなしていく。高度が上がるに従って、雨が霙に変わり、更に雪がちらつき始め、これがまた牡丹雪状態に変わっていく。これとともに、3°Cを示していた車内の温度計も2°C、そして、遂に−1°Cに氷点下割れしてしまった。霧で視界はゼロだが、もとより眺望を楽しむゆとりもなく、むしろ路側に降り積む雪の量が段々と増してくるのを見て先を案ずるばかり。ようやく辿り着いた頂上で、我々の向かう先から登ってきた観光バスから降りて雪と寒さに戸惑ってようにしていた日本人観光客に聞いてみると、この先の雪量は大したことがないというので一安堵した。水口によると、以前この界隈を訪れた時には、自動車を載せた列車で来たという。この峠を車で通れるのは6月中旬から9月末までだけだとか。この“賞味期限”内に訪れて、しかも、“雪中行軍”の体験をすることができたのは寧ろ僥倖なのかもしれない。 峠を過ぎて少し行くと、向かって右側の斜面が大岩壁になっていて、そこに丸みを帯びた巨岩がいくつも並んでいるのが見える。岩々が苔むしているので、モス・グリーンとグレイ、黄土色が、えも言われず壮大にして洒脱な光景を織り成している。この世のものとも思えぬ奇景の迫力に圧され思わず息を呑む。ここは、車を止めて写真に収めたいところだが、雪道に気を配りながら運転している水口の手前、とてもそんなリクエストを口にすることはできない。霧の中でコバルト色に霞むグリムゼル湖らしきものの姿を見ることもできた。晴天ならば峠からの展望も絶佳なのだそうだ。これまでの旅程でも、「また来てみたい所」は幾つかあったが、マイナーながら「グリムゼル」は間違いなく私の「また来てみたい所番付」の上位に入る。 インターネットの魁?インターラーケン 峠を越えると、積雪も降雪も峠を越えて、下って「マイリンゲンMeiringen」を通るころにはすっかり雨になっており、更に、目指す「グリンデルワルトGrindelwald」への玄関口筋に当たる「インターラーケンInterlaken」に着いた時にはこれが大降りの雨になっていた。ところで、この「インターラーケン」は、トゥーン湖とブリエンツ湖の間に位置しているところからこの「湖(lake)の間(inter)」という名前がつけられたのだという甚だ分かりやすい説明を聞いていたのだが、後になって、この人口5700人弱の小都市がベルン州に属していてドイツ語圏なのだと知って疑問を感じた。ドイツ語で「湖」は"See"であって"lake"ではないからだ。調べてみると、1891年に解消されるまでは別の地名だったようだから、早くも19世紀末には当地で英語圏観光客の誘致を重点を置いた観光立地対策が練られていたのかもしれない。また、 最近でもスイスではバイリンガル教育が流行っており、その影響もあって、徐々に独仏語が英語にとって代わられてきているという。因みに英語の"Internet"はドイツ語でもフランス語でもそのまま"Internet"だ。情報通信技術の世界では、アメリカが圧倒的に先行しているため、アメリカ標準が実質的なグローバル・スタンダードになっている。英語というより米語がグローバル・スタンダード言語として幅を利かせてくるようになってきたのも無理はない。「インターラーケン」は、筋違いながら、「インターネット」の遠い魁なのかも。 チャーチルと同格なのだ “雪と雨を乗り越えて”「アルプスの首都」と呼ばれるグリンデンワルドに辿り着いた我々は、先ず、本日の投宿先である"Hotel Bellevue"を探し当てた。このホテルは当地で最も古く、かつては槙有恒や秩父宮、更には、チャーチルなどの有名人も泊ったことがある由緒あるホテルなのだそうだ。このあたりは、「ベルナー・オーバーランド地方(ベルン州の高地地方)」と呼ばれ、ユングフラウ(4158m)、メンヒ(4099m)とアイガー(3970m)が「ベルナーアルプス3山」(または「オーバーラント三山」)と呼ばれているらしい。アルピニストの槙有恒は、このうちのアイガーの東山稜を1912年に日本人として初めて登頂したのだそうだが、秩父宮がこのベルナーアルプス3山ばかりでなくマッターホルンも含むスイスの高峰を登頂しているという話には少々驚かされた。アルピニストでも体育会系の宮様でもない私たちはチャーチルと同格なのだから、登山で足腰を酷使することなく、ホテルの歴史に“感”銘し、ベルナーアルプスの自然に“感”動しながら、文化的に時を過ごせばよいのだ。 いざユングフラウ(乙女)とご対面 さて、この「グリンデルバルトGrindelwald」は「森と岩」という意味だという説がある。しかし、確かにドイツ語の"Wald"は「森」いう意味だが、「岩」という意味を持つ"Gridel"に近いドイツ語の単語は見当たらない。寧ろ、"Gridel"が「緑の」という意味のある"grun"("u"はウムラウト付き)から派生したのではないかと思われるほど豊かな緑が身近に感じられる。実際に登山電車に乗ってもわかることだが、山麓部分に当たるグリンデルバルト地区は、緑の森に囲まれた牧草地であり(下写真左)農家やカウベルを着けて放牧されている牛たちの姿は見かけらるが岩の姿は見当たらない。更に、登山電車が高度を高めてグリンデルバルト地区から山岳地帯に分け入って行っても、緑の世界がこれに伴ってくるので、白とグレイの世界と共生することになる。山々が切り立っているせいか、緑だけでなく白とグレイもここでは身近に感じられる。幸いなことに、天候もいつの間にか回復してきたようだ。「ユングJung」は「若い」で「フラウFrau」は「娘」だ。きっと、ユングフラウも純白の乙女の姿を身近に見せてくれることだろう。登山電車が高度を上げるのに連れて、我々のテンションも高まってきた。 明暗分けるクライネシャイデック
アイガー北壁の際に立つ
スイス人の“力技”の歴史に“感”銘 そっかー、今俺はアイガーの“山中”にいるのかあ!ガイドブックにあった「アイガーの岩壁をくり抜いて作ったトンネル」という解説が臨場感をもって実感できる。しかも、この“地下鉄登山電車”が開通したのが1912年(大正元年)だというから驚く。因みに日本初の地下鉄が開通したのは1927年(昭和2年)だそうだ。しかも浅草・上野間の2.2キロだから“登山電車”として要素は全くなかったわけである。 中学校の社会科では確か、「スイス=時計=精密工業」などという図式を覚えさせられた。しかし、それはスイスのほんの一面にしか過ぎないのだということがここにいるとよく分かる。日本は、精密工業の代表格である時計産業ではスイスを凌駕したと言えるだろう。しかし、こんな急傾斜地で岩盤を掘削し、しかも、その中に電車という重量物を持ち上げる軌道を敷いたスイス人の“力技”の凄さは日本人の遠く及ぶところではない。 本来なら本格的なアルピニストしか立ち入ることができない急峻な山岳地域に分け入ってきて、山にド素人の私達がこのように自然に対して“感”動できるのも、重厚長大な力仕事を完成させたスイス人のパワーの賜物なのだ。改めて、その“力技”の歴史に対して“感”銘を感ぜざるを得ない。 乙女は我らを見放したか!
♪乙女よさよなら また来る時には笑っておくれ♪
朝食前の一時を我々はグリンデルバルト散策としゃれてみた。山間の村への朝の訪れは遅く、まだ寝静まったままのシュレーや近傍の山々の彼方に青空を背にした雪山がようやく姿を現してくる(下写真左端)。それが、少し明けてきて目を転ずると、近くにも雪山があったのだということがわかってくる(下写真左から2枚目)。ここの標高は1.034mだから、標高1,602mのツェルマットより低地になるのだが、こちらの方が高山が見に迫って見える。いずれも、氷河期に削り取られたできた「U字谷」の底にあるのだろうが、グリンデルバルトの方がツェルマットより鋭い角度で削られていて、寧ろ「V字谷」に近い地形なのかもしれない。ツェルマットの村からは見ることができなかった氷河も身近に見える(下写真右から2枚目)。また、ここは「バルトWald」の名に相応しく、高木が密生しており、雪山の白とグレイと針葉樹のダークグリーンが織り成す風景を至る所で目にすることができる(下写真右端)。これもツェルマットと違っているところだ。カナディアン・ロッキーを訪れた時には、高木限界が高度2,200mと知ったが、ここスイス・アルプスではツェルマットの1,602mが高木限界に近いのかもしれない。 えっ、"MATSUMOTO"だって? グリンデルバルトの村は散策する私たちの目を飽きさせるようなことをしない。様々な山容の山々がコラボする景色を見せてくれるかと思うと(下写真左)、谷合に朝靄が立ち込める山岳風景に花が彩りを添えてくれるという一小間もある(下写真中央)。歩くのに攣れて変わる景色を楽しんでいる私たちの目に、"MATSUMOTO"と書かれた標識が飛び込んできた(下写真中央)。一瞬、矢印の先にこの日本的な名前の場所があるのかと思ったが、よく見ると"MATSUMOTO CITY 12,356KM"とあったので、これが長野県の松本市の方向を示しているものだと分かった。ツェルマットが新潟県の妙高高原町(現・妙高市)と姉妹関係になっているのに対して、ここグリンデルバルトは「信州安曇村」(現在は松本市に合併)と姉妹土地(?)になっているらしい。 “アイガーもと暗し”であった
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“お口直し”のジュネーブ再訪 |
“3首都踏破”を達成 グリンデンバルトから、インターラーケンに戻る途中で見た渓流は、昨日の雨のため白濁していた。しかし、インターラーケンから西に進路をとった我らがレンタカー「ルノー・セニックRunault Scenic」の車窓から見えたトゥーン湖は美しいコバルト・ブルーの水を湛えていた。そして、久方ぶりに乗った高速道路を疾走していくと、道はベルンBernの環状線につながっていて、その市街を掠めるようにして進んで行く。さすがにスイスの首都だけあってビルが多いが、きれいな青色をして流れる川と針葉樹の林の静かな佇まいを垣間見ることもできた。恐らく、こじんまりとした美しい都市なのだろう。いずれにしても、甚だ略儀ながらスイスの首都ベルンにも車上より挨拶を済ませ、我々はロンドン、パリと並んで“3首都踏破”を達成したことになる。 早くも秋への移ろいローザンヌ
「日本料理店」看板の危うさ さて、パスポート紛失事件発祥の地“悪夢”のジュネーブに到着。AVISでレンタカーを返却する際に尋ねたところ、9/2に借りてから今日までの4日間に我々が走行した距離は635kmだということであった。1日平均160km弱で、3週間で9,000kmを走破した「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」の1日平均430km弱には及ぶべくもないが、この間に我々はスイスの自然に“感”動し尽くしてきたために“悪夢”は消えかけ、「スイス」に対する印象は大きくプラスに転じていた。 後は「ジュネーブ」の“口直し”をしてからスイスを去るのみ。再びフランス入りするまでの残された時間を精一杯有効に使おうとジュネーブ観光に繰り出した。空腹に見舞われたこともあって、先ず我々の目が釘付けになったのは、パスポート紛失事件の際にも何回も前を通って気になっていたジュネーブ駅前の日本料理店「稲ぎく」の看板であった。しかし、早速、久方ぶりで日本語で馴染みの料理を発注できるぞと飛び込んでみたのだが、従業員は全員中国人で、結局は水口のフランス語で日本料理を注文する破目となった。実は、もう1軒、我々はこの手の“看板倒れ”を同じジュネーブの街で体験している。「すし」という日本語の看板が掲げられていながら日本人がおらず、しかも、この場合にはメニューに「寿司」が入っていなかったのだ。国は違うが、デュッセルドルフで日本料理店を経営して羽振りを利かせていた高校時代の友人が行方不明になっていることも思い出した。日本人の経営者または従業員による海外での日本料理店経営・運営には現地に馴染み難い何かがあるのだろうか。「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」の際にこの目で見てきた、中国人の経営者または従業員による中華料理店の津々浦々にまでへの定着振りと好対照のような気がする。 しかし、「稲ぎく」で供された天ぷら定食は、中国人の調理によるものであるにもかかわらず純日本的なものであった。天ぷらのネタは、イカ、なす、ピーマン、かぼちゃ、海老、赤ピーマン、米ナス、かき揚げに玉葱という堂々たるものであったし、味噌汁にも、油揚げ、豆腐、ワカメといった具が配されていた。こと料理に内容については、“看板倒れ”ではなくて“看板に偽りなし”と言ってもいいだろう。中沢などは、すっかり日本ムードに気を許してしまって、従業員さんに日本語で「お茶、お代わり」と口走って、「ここは日本じゃないんだぞ」と水口にたしなめられていた。確かに、日本国内のように“粗茶”を無償で提供するようなサービスはここでは期待するだけ無理というものだろう。 「永世中立国スイス」の立役者ジュネーブ
三国水陸制覇は成らず
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再びフランスに戻ってリヨンへ |
パスポートが見つかった・・・が さて、かねての打ち合わせ通り、中沢は大使館でパスポートの再交付を受けるために単身パリ行きTGV(高速列車:Train a Grande Vitesse)に乗って行く。ともに出国手続きを済ませてから、我々3人は中沢と袂を分かって、無事「9/6 19:15中沢ニース着」で再会できるよう祈りながらリヨン方面行きのTGVに乗りこんだ。そのTGVがジュネーブ駅を出発するかしないかのうちにジュネーブ日本総領事館の中島さんと名乗る男性から水口の携帯電話に、中沢の紛失したパスポートが届けられて来たという旨の連絡が入った。ビデオカメラや現金の入ったバッグは持ち去られていたというから、やはり、遺失したのではなくて盗難に遭ったのであり、犯人が精一杯の良心を示してパスポートだけは分かりやすい場所に放置して届け出させるようにしてくれたものと思える。 それにしても、当事者は中沢なのに、どうして水口宛に連絡が来たのだろう。この謎はすぐに解けて、中島さんが親切に、中沢がパスポートに書いておいた「日本の連絡先」に電話してくれて、中沢夫人から水口の携帯電話番号を聞きだしてくれたためだと分かった。実は、パスポート紛失事件について予め中沢夫人に連絡しておくべきかどうか迷っていたのだが、何のことはない、総領事館経由の“公式ルート”で中沢夫人に伝えられていたのである。 しかし、このパスポート発見は時既に遅しで当方はパスポート再交付を申請する方針に決め、当事者の中沢は既にパリに向かっているという旨水口が告げると、中嶋さんは「パスポートなしで、よくスイスを出国することができましたねえ」と感嘆の(呆れた?)声を発した。そう言えば、我々は、ジュネーブの警察で発行してもらった「パスポート遺失証明書」がパスポート代わりになるものと勝手に判断して、大手を振って出国管理事務所を通り過ぎてしまっていたのだ。“堂々たる密出国”だったわけだが、あまりに我々の態度が堂々としていたために当局の担当者も疑念をはさむ余地がなかったのだろう。 複雑な地殻構成思わせる車窓風景
フランスの大阪「食通の街リヨン」
“元祖フランス料理”をワイワイと
「ミシュラン」レストランvs「ゴ・ミヨー」ビストロ ところで、フランスのグルメ・ガイドブックといえばご存じ「ミシュラン」。フランスの世界最大級のタイヤ会社が、タイヤの宣伝を兼ねて自動車旅行者に有益な情報を提供するためのガイドブックとして無料配布されたのが「ミシュランガイドGuide Michelin」の始まり。それらのうちで代表的なものが、レストランの評価を星の数で現すことで知られるレストラン・ホテルガイドであり、これが装丁が赤色であることから赤本(ギド・ルージュ Le Guide Rouge)と通称されていて、この赤本で三つ星を得ることが世界中のシェフたちの夢なのだとか。 ところが、「食通の街リヨン」と言われながら、「ミシュランガイド」の三つ星がリヨン市内には一つもないのだそうだ。同誌の採点基準には、客室の雰囲気・豪華さの他にトイレの設備・広さ等も入っているようだから、格式の高い“おフランス料理”のレストランでなければ三つ星の取りようがないのだろう。 庶民派で、郷土色豊かな家庭料理の“味”を尊ぶリヨンっ子は、そんな「ミシュランガイド」は相手にせず、「ゴ・ミヨー Guide Gault Millau 誌」の方を高く評価しているのだそうだ。この「ゴ・ミヨー」は「ミシュラン」が伝統を重んじているのに対して、フランス料理の様々な流れも敏感にとらえていて、例えば「ビストロ」などを得意としているらしい。ビストロと言えば「居酒屋」または「食堂」くらいのニュアンスの言葉で、フランス各地の郷土料理で知られる店が多いのだそうだから、我々が郷土料理を楽しんだ店こそまさにビストロ。道理で「居酒屋」のような寛ぎを感じさせてくれたわけだ。 ところで、単身パリに行っている中沢のことが心配になっていたのだが、ようやく通じた携帯電話からは中沢の意外にも寛いだ感じの声が聞こえてきて、「今パリの“居酒屋”に入っている」とのことであった。案ずるより産むが易しの話であったが、何のことはない、パリとリヨンと場所を分かって、我々は同じ「ビストロ」に居座っていたわけである。 |
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(2007/9/5) |
コート・ダジュール紀行 |
ローヌ川とともに南下 リヨンから再びTGVに乗って南下してしばらくすると左遠方に雪をいただいた岩山の山脈が見える。恐らく、あのあたりが1968年に冬季オリンピックが行われたグルノーブルGrenobleで、アルプス山脈の西端になるのだろう。しかし、対照的に、目の前には広大な平野が広がっていて、ビールの原料として用いられるホップなどが栽培されているのが見える。アヴィニオンAvignon駅を通過する頃には広い川が顔を覗かせるが、これはローヌ川なのだろう。レマン湖から発してマドレーヌで地中海に注ぐまで、この川は私たちの旅は道連れになることになる。やがて、車窓の左右に低い茶色の台地が見えるが、ここでも、かたや縦方向に皺のある粘土質の絶壁、こなた横方向に地層の走る岩山という構図は変わらず地殻の複雑さをうかがい知らされる。そのうちに、全く想定外の「中南仏大地震」が起こるかもしれないよ、知らぬが仏の仏国の皆さん! 風光明媚なコート・ダジュール 更に南下して「マルセイユMarseille駅」に着くと、TGVはバックする形で進行方向を変え東に向かって海岸線沿いに進む。ここから在来線に乗り入れるのだろうか、スピードがぐんと下がって各駅停車になる。このあたり、つまりトゥーロンToulonを西端、イタリア国境を東端とするフランス南部の地中海沿岸の一帯が「コート・ダジュール(Cote d'Azur:紺碧海岸)」と呼ばれているらしい。実際に、初めて見た地中海は紺碧の水をたたえていた。この風光明媚な海岸には、夏季の長期休暇(バカンス)を過ごすフランス人をはじめ、北欧などの太陽に恵まれない地域から観光客が多数訪れるそうだ。車窓からも、随所にある入り江で泳ぐ人々やマリンハーバーに舫うクルーザーを見ることができる。 TGVがスピードを落としてくれるのも、私のような車窓風景愛好者にとっては嬉しいことだ。「カンヌCannes駅」を過ぎてから停まった「アンティーブAntibes駅」では蘇鉄と並び立つ龍舌蘭の白い花と咲き競う、百日紅、夾竹桃の姿を見ることもできた。ここは本場の地中海性気候の真っ只中にあるのだが、日本の“亜地中海性気候”の海岸地域と植生が何となく似ているような気がする。 トマト畑はいずこに ところで、車窓から私はある物を探し続けてきたのだが、「ニースNice駅」に着くまで、遂にそやつは私の前に姿を現さなかった。地中海性気候の地域では、夏は日ざしが強く乾燥するので乾燥に強いオリーブが栽培されると聞いていた通り、オリーブ畑で葉を白く光らせているオリーブの姿は随所に見ることができたのだが、探し求めていたトマト畑がどこにも見当たらないのだ。実は、パリの水口宅で食卓に繁く供せられていたトマトは新鮮で美味かったのだが、井桁状の茎に四つの真赤な実がつくという妙な形状をしていた。一体どのような形で栽培されているのかと疑問に思って注意してみていたのだが、フランスの他の地域では見かけることがなかったので、これは南フランス産でしかないと思っていたのだ。ハウス栽培されている様子も見受けられなかったので、水口に聞いてみたところ、フランス国内産ではなくてスペインで栽培されたものが輸入されてきているのだということであった。そう言えば、我々はイタリアと程近いコート・ダジュールにいるのだが、南西仏のスペインとの国境からもさほど遠からぬ位置にいるのだ。フランスとイタリアはヨーロッパ連合(EU)以来の原加盟国同士だが、1986年にスペインが加盟して以来、トマトの流通もより円滑に行われるようになったのであろう。 フランス料理は素材が新鮮だったのだ フランスは、アメリカ、カナダと並んで、世界でも有数の高食糧自給率国であるにもかかわらず、一方では、このトマトのように、EUなどを通じて提携関係を密接化させた近隣諸国から“新鮮さ”を輸入していたのだ。刺身に代表されるように、日本料理は素材に手を余り加えず、素材そのものの風味を引き立たせる素朴な調理法が尊重される。ところが、フランス料理の方は、ソースやドレッシングに凝りに凝っているように、恐ろしく加工度が高い。私は、これを素材の新鮮さの問題としてとらえ、「日本料理は乙女でフランス料理は熟女。乙女は素材が新鮮だから化粧がいらない。熟女が厚化粧をしなければならないのは素材が新鮮さを失っているからだ」などと言っていたが、パリの水口宅で日々であった野菜類などが新鮮味を極めているのを知って、私の言っていたことがとんでもない戯言だったと悟った。更に、昨日のリヨンの「ビストロ」では、フランス料理も様々であって、「素材そのものの風味を引き立たせる」フランス料理もあるのだとこの舌で知った。 ニースの“カリフォルニア”をウロチョロ さて、“在来線TGV”はニース駅に到着。「コート・ダジュール」は行政企画ではないから、日本で言えば「瀬戸内海沿岸地区」や「湘南地方」といった呼び方に近い。しかし、小なりとはいえ、モナコ公“国”まで縄張りに含めているから瀬戸内や湘南とはわけが違う。モナコばかりでなくて、ニース、アンティーヴ、カンヌなどの主要都市が国際的な観光都市となっているところも日本の有象無象と違うところだが、とりわけ、国際空港を持つニースが、コート・ダジュールの中心的な都市ということができそうだ。 ニース駅のレストラン(ビストロ?)で“新鮮素材”のムール貝料理の昼食を摂ってから、レンタカー屋でもらった地図を頼りに、本日の我らが投宿先 Hotel Citea Nice Magnan を探す。カリフォルニア・アベニュー沿いにあると教えられていたのだが、この通りが存外長く、ニース駅から近い所にあった Hotel Citea をついつい通り過ぎてしまっていた。戻って、探し当てたところは、"Hotel Citea"の名前から漠然と想像していたシティーホテルと違ってビジネスホテルの風情であった。"Hotels & Residences"とあったから、上層階は居住用のコンドミニアムなのかもしれない。 カリフォルニア・アベニューは、ホテルやオフィス用の中層ビルが建ち並んでいて、どこがカリフォルニア的なのかわからなかったが、空だけは紛れもない“カリフォルニアの青い空”であった。 城跡公園からニース市街を展望 パリから来てここで再び合流するはずの中沢を待つ間の時間を利用して、水口は山本と私を、ビーチのすぐ側にある「城跡公園(シャトー)Chateau」の丘に連れて行ってくれた。ニース観光において外せないスポットだそうだが、緑がきれいな丘の上には人工の滝が流れ、おしゃれなレストランもあって、ニース市民の憩いの場にもナっているようだ。ニース市内で最も高い場所にあるといわれるだけあって、ここからは街全体のパノラマを一望することができる(下写真左端)。すぐ目の下に見える旧市街の家々の屋根は、かつて画像や動画で見てきた地中海風景に特徴的なオレンジ色の屋根をしている(下写真左から2枚目)。小高い山並みにまで住宅地が広がり(下写真右から2枚目)、更にその先には険しい岩山があり、要塞の跡のようなものも展望できる。そう言えば、今私達が立っているここも城址だ。かつてニースは、海の向こうから侵略を企てようとする外的に対する砦の地だったのかもしれない。しかし今は、外部に対して開放的な国際都市になっている。眼下に望む、潮目によってマリンブルーとサファイアブルーに色分けされた海面が、穏やかで美しいニースを象徴するもののように見えた(下写真右端)。 朋あり遠方より戻る
地中海の渚にて 同室の中沢と誘い合わせて早朝の散歩に出かけた。「海が近いはずだ」という言葉に半信半疑でいたが、中沢の土地勘は素晴らしく、ホテルから徒歩5分程度で海岸に出た。「なんだか小田原の御幸が浜みたいだな」という中沢の言葉を受けて、「すると、あちらが真鶴岬」と見やった先は、緑の濃い真鶴岬と違って赤土の露わな絶壁続きの海岸線になっていた(下写真左端)。足元も玉砂利大の赤土の浜になっていて、渚で鴎が羽根を休めていた(下写真左から2枚目)。波は穏やかで、清く透き通った水が寄せては返しを繰り返していた(下写真右から2枚目)。初めて手を触れてみた地中海の水もひんやりとして掌に心地よかった。ホテルへの帰り際に見た街路樹は蘇鉄かと思いきや、中沢によると「カナリー椰子」というのだそうだ。“かなり”あ“やし”いが、中沢が勤めている熱海にも同じような街路樹があるというから間違いのないところなのだろう(下写真右端)。 変化に富む海岸線と海面の色調
謎多き“鷲の巣村”エズ コート・ダジュールには、サラセン人による攻撃を防ぐために岩山の頂に城壁で取り囲むようにして築かれた「鷲の巣村」と呼ばれる村が幾つもあるそうだ。断崖絶壁の頂上に貼り付くように作られていることが「鷲の巣村」の名の由来で、村自体が要塞になっているわけだが、ニースとモナコの間にある「エズEzu村」もそんな鷲の巣村の典型なのだとか。 駐車場から標高427Mだという頂上部を仰ぎ見てみると、どう見ても要塞にしか見えないが、一歩中に足を踏み入れてみると、それがまぎれもなく村であるということが分かる。敵の侵入や攻撃から守るために村の入り口を一つにしてあったり、人が行き違うのにも窮屈な程に細い石畳の路地が迷路のように設えられていたりするところはいかにも敵の侵入を防ぐように作られた要塞っぽいが、細い路地の両側に立ち並び中世の面影を今なお色濃く残している昔ながらの石造りの建物には、ブーゲンビリアや蔦が植え飾られたりしていて、明らかな生活感が感じられる。場違いがと思えるほど立派な教会があることもここが一つの共同体であることを物語っているようだ。 しかし、今ではすっかり観光スポットになっていて、土産物店が並んでいる他にハイクラスなホテルやレストランまで“村”の構成要素となっているから、どこまでが往時の生活用施設であり、どこからが観光用施設なのかが分からない。要塞の頂上部分は、今では入場料を買わなければ入れない熱帯公園になっているのだそうだ。ここで、「そうだ」というのは、石段交じりの坂道のあまりの急勾配に耐え兼ねて我々が途中で登頂を断念してしまったからである。頂上からは、「コート・ダジュールの海岸線にせり出した、切り立った山の上から地中海の絶景を見る」ことができる“そうだ”。 中世は戦いの時代だったという。しかし「鷲の巣村」をめぐる攻防の目的は何だったのだろうか。かつて、この“村”で暮らしていた人々がそれほど豊かな生活の糧を持っていたとは考えられない。サラセン人達は一体何を収奪したくてこの“村”を攻撃しようとしていたのだろうか。外部には、岩山の山肌に貼りつくようにして住宅が建てられ現代版の「鷲の巣村」が自然発生的に形成されている(下写真上段右端)。ここに住む人達の生活の糧は何なのだろうか。かつてサラセン人達が狙っていた“宝”がそのあたりに隠されているのかもしれない。
これが正しいフランス料理の食し方なのだ?
さて、明くる9月8日。今回の旅行日程の実質的な最終日に当る。この残る一日を如何に有効に使うか協議した際に全員が同意したのが「カンヌに行かずして南仏に行ったというなかれ」という言葉であった。そこで、レンタカーを地中海海岸線に沿って西方向に走らせて、ニースの西南約30kmにある「カンヌ(Cannes)」に向かった。 コート・ダジュールではニースに次ぐリゾート地だが、中世から19世紀頭までは、農業、水産業を中心とする村落であったらしい。1834年にイギリスのブルハム卿なる人がイタリアへの途上滞在したのをきっかけとして国内外の貴族がこの地域に別荘を建てはじめ、次第に高級リゾート地へと発展してきたのだとか。カナダ人宣教師のアレクサンダー・C・ショーがたまたま訪れたところが故郷のスコットランドと似ていると感じたことから1888年に別荘を設けて以来避暑地としての歴史が開かれた軽井沢とリゾート地化のきっかけはよく似ているのが、軽井沢の歴史より半世紀ほど古い。
シャガールの世界に浸る さて、ニースにとって返して、レンタ・カーを返す前の最後の訪問先としてこの町にある「シャガール美術館 Musee National du Message Biblique Marc Chagall」へ行ってみることにした。例によって、地図をトレースしそこなって一迷いした結果見つけ出したシャガール美術館は、ニースの高台の高級住宅街の一角にあった。 パリのオペラ座を訪れた際にその天井画を描いたのがマルク・シャガールMarc Chagall(1887年7月7日 - 1985年3月28日)だと聴いていたので、てっきりフランス人画家だと思い込んでいた。そのため、「フランス生粋の画家単独美術展鑑賞」をもって我々の旅のフィナーレとするのも一興かと考えていたのだが、シャガールはロシア(現・ベラルーシ)出身のユダヤ人だということが分かった。しかし、23歳の時に初めてパリに来て以来、フランスとの間の行き来を重ね、1950年から南仏に永住することを決意しフランス国籍を取得しているというから、“生粋の”を除けば我々の狙いもあながち的外れではないということになる。 美術館の正式名称に含まれている"Message Biblique"は「聖書に関するメッセージ」という意味で、シャガールが描いてフランス国家に寄贈した連作『聖書のメッセージ』に由来しているらしい。この連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設が推進され、ニース市が土地を提供する形で1973年のシャガール86歳の誕生日に開館されたのだそうだ。シャガール作品専用の美術館でありながら、"Musee National"(国立美術館)となっているのはこのためらしい。ユダヤ人迫害から逃れるためにアメリカに亡命するなど波乱万丈の人生を過ごす中で、人間として画家として自分を受け入れてくれたフランスに感謝しつつ、お気に入りの南仏に安住の地を求めることができたのだからシャガールの晩年は恵まれたものであったに違いない。 美術館の中に一歩足を踏み入れると、そこにはシャガール一色の世界が広がっていた。ルーブルやオルセーなど、多数の作家の作品が展示されている大きな美術館もさることながら、このような単独の画家の作品だけの美術館も、その作家の世界にとっぷりと浸れるので趣がある。独特な色調とデフォルメが施された幻想的な作品群(下写真上段左端&左から2−3枚目)は勿論、シャガール自身の設計によると言われるモダンなコンクリート造りの建物自体やステンドグラス(下写真下段左端)、壁画(下写真上段右端)にもシャガールの個性が表れている。美術館の中の小さなコンサートホールにあるチェンバロ(下写真下段左端)にもシャガールの絵が描かれていて、“シャガール・ワールド”はそこに浸る者を飽きさせようとしない。 しかし、“シャガール・ワールド”に浸っているのは我々外国人観光客だけではなかった。地元と思しき若者達が、あちこちの作品の前に佇んでシャガールと会話しているかのような光景(下写真下段左から2−3枚目)が特に印象的であった。もし、日本にこのような美術館があったとしたら、日本の若者達は同じように親しみを込めて作品に接するであろうか。 “シャガール・ワールド”を堪能してから外に出てみると、緑豊かな庭園になっていて(下写真下段右端)、そこに、夏と我らの旅の終わりを告げるかのように淡い紫色の花が密かに咲いていた。 コート・ダジュールにアデュー ニース駅前でレンタカーを返してから、フランス国有鉄道(SNCF)の列車に乗り込み、今度は地中海沿岸沿いに「マルセイユ駅」に向かう。進行方向に向かって右側の座席に座って、来た時とは違って山側の車窓風景を楽しんだ。比較的平地で、白壁でオレンジ色の屋根をした民家が密集している地区には喬木や若草色の植物も見える(下写真左端)が、丘陵の住宅地となるとオリーブなどの濃い緑色の潅木が支配的になり(下写真左から2枚目)、更に高地になると緑が乏しくなって(下写真右から2枚目)ついには赤土の荒涼とした岩山が現れる(下写真右端)。こうした山側の焦げ茶と濃緑を基調とした光景が海側のコート・ダジュール(青い海)とアンサンブルをなして“地中海沿岸に独特な風景”を織り成しているのだ。色々堪能しつくした南仏コート・ダジュール地方に別れを告げる私たちを、空も青く晴れ上がって見送ってくれた。 |
(2007/9/8) |
フランスTGVvs日本新幹線 |
「新幹線」は感心せん |
再びツンドラの上空を超えて |
中沢の君子豹変ぶり 帰路はユーロ・スターではなくて、ドゴール空港から空路ロンドンに戻って、そこから成田に帰る段取りが組まれていた。これも含めて全ての段取りを整えていてくれた水口がマイカーでドゴール空港まで送ってくれた上に、ヒースロー空港での“身の振り方”まで事細かに指導してくれてここでバイバイ。 しかし、水口の姿が見えなくなるかならないうちに中沢の顔から笑いが消え、急に(取り付きにくいほどに)毅然とした態度に変わった。水口隊長がいなくなった今、「自分が退潮代理としてしっかりせねば」とでも決意したのだろうか。それとも、水口のいる場でこそボケ役を演じていたが、「お前たちには道化役を演ずる必要がないのだ」という態度を示したかったのだろうか、山本が今まで通りの軽いノリでツッコミを入れたところ、厳しく切り返されてたじろぐという一小間もあった。見事に豹変したところを見ると中沢は君子だったのかもしれない。 ヒースロー空港内で、最後にもう一度とイギリスの代表的な料理とされるフィッシュ・アンド・チップスの昼食をとった時にもこの中沢君子節が響くことになった。ウェイトレスから受け取った伝票に"£40.50"とあり、その中に勝手に"GRATUITY (TIP)"が10%算入されているのが気に入らないので、ブツブツと「字が小さくて読めないが、G、RA…、TUI、TY…?」とツッコミを入れようとしたところ、「何をボケているんだ」とばかりに伝票を取り上げて、「ヨン、ゼロ点ゴー・ゼロ」と声高に読み上げて、“事務処理”を急かされてしまった。お陰で、続いて言おうと準備していた「GRATUITYを20%払いたかったのになあ」という台詞を発することができず、折角の英国紳士ばりの(?)皮肉を英語で言う機会を逸してしまった。 機上ヨーロッパ横断旅行を楽しむ イギリスとフランスは“身内”なので、ドゴール空港とヒースロー空港の間はほとんど国内便と同じ扱いで、セキュリティーチェックも軽いものであったが、さすがに“よそ者”日本の成田空港行きとなると話は別で、ヒースロー空港では靴まで脱がされ厳重なチェックをされてしまった。しかし、様々な想い出を胸に乗り込んだ私たちを乗せたBA(British Airways)機は10:50定刻にヒースロー空港を飛び立った。 来る時と同じ“座席三交代”をとったが、来る時より見晴らしがよく、機窓から見える風景を、「北海」、「アムステルダム北部」、「ハンブルグ北方」、「コペンハーゲン南方海上」、「バルト海」といったように前の座席の廃部に取りつけた目の前の詠唱モニターの地図上でプロットすることができる。時間を取り戻す形で東に向かっているため時の移ろいが早く、いつの間にか夜になっていた。トイレに立った際に窓から見下ろしてみると、漆黒の中に鮮やかな赤や緑、黄色の光を発する宝石箱のような島が見えた。座席に戻って液晶画面でチェックしてみたところ「タリンTallinn」とあった。更に後日インターネットで調べたところ、「タリンTallinn」はバルト三国のうちのエストニアの首都で、旧市街がユネスコの世界遺産に指定されている観光都市だということが分かった。タイミングよくトイレに立って窓を開けてみたおかげで「脳たりん(No Tallinn)と言われずに済んだ棲んだ。そうこうするうちに、やがて詠唱モニターが「モスクワ」上空を示す頃になると、急に睡魔が訪れてきて、深いまどろみの世界に誘われていった。 夜空に消えた山本(?) ふと、まどろみから覚めて目を開けると、窓際に座していた中沢が「山本君がいない」と言う。確かに左隣の席が空席になっているので、軽く「あ、ほんとだ」と返すと、中沢“新リーダー”殿お腹立ちの様子で、「今頃気がついたのか、ずっと戻ってきていないから心配していたんだぞ」と、ご自分の配慮ぶりを示し小生の“チームワーク意識欠如”を責められる。「そんなこと言ったって、飛行機の中のどこかにいるに決まっているんだから・・・」と内心思いながら、臨席に山本が戻るのを待っていた。きっとトイレに行って、出る物が出なくて時間がかかっているのだろう・・・考えられるのはこんなことしかないのだが、それにしても長すぎる。ことによると、トイレの中で何かアクシデントがあったのかもと思えてきた。そこで、「ほんとに帰ってこないなあ」と呟くと、“心配疲れ”でご自身は寝入っていた“新リーダー”殿からまた「なんだ、まだ探しに行っていなかったのか!」という叱責の声が飛んだ。 「あのー、隣席の友人が30-40分間も戻ってこないんですが・・・」という間抜けな訴えを聞いたスチュワーデスさんには私が“気の毒な寝ぼけ老人”に見えたことだろう。しかし、彼女にしても思いつくのはトイレだけ。実際に、様々なトラブルはトイレ内で起こるらしく、トイレ監視役のスチュワーデスが配置されていた。トイレのうちの二つが使用中になっていて、監視役のスチュワーデスがドアをノックすると、やがて、そのいずれからも用を済ませた英国人と思しき老婦人が不機嫌そうな様子をして姿を現した。そりゃそうだろう、“無我の境”をノックの音で破られたのだもの、不機嫌にもなるはずだ。 しかし、山本がトイレにいない!南下の弾みで飛行機から飛び出て、漆黒の夜空の闇に消えて行ってしまったのだろうか。「こんな満席の中では状態では関を間違えるわけもないしなあ」と思いながら、自席で立ち上がって暗い室内を目をこらして見回していると、通路を隔てた斜め後ろの席の乗客にジャケットの裾を引っ張られてしまった。目の前で突っ立ていたのが目障りで邪魔だったのかなと思って謝ろうとしたところ、なんと山本の「オレだよ、オレオレ」の声が返ってきた。液晶画面の不調を訴えたが直らないので、スチュワーデスさんに勧められて、たまたま空席になっていた後部座席に移っていたのだった。 とんだ馬鹿馬鹿しいお騒がせ劇ではあったが、長時間フライトの退屈しのぎとエコノミークラス症候群防止には大いに役立った出来事ではあった。 |