ヨーロッパ三感トリップ

66歳で6年ぶりの

「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」で3週間9,000kmを走って以来の海外旅行となる。メンバーもその時と同じ小田原高校時代からの悪友(「丑寅辰巳会」メンバー)の水口幸治、山本哲照と中澤秀夫に不肖私・佐々木洋のMYNSカルテット。本来ならこれに新たに望月郁文が加わってMYMNSカルテットになるところであったが、残念ながら望月の参加は直前に取りやめになった。還暦を迎えた時に冗談交じりで、「2度目の還暦を迎えるぞ」と言い合っていたのだが、あれから6年が経った。“早くも”2度目の還暦を迎えるまでの60年の1/10が過ぎたことになる。実際にみんな「今年66のおじいさん」になっていながらカクシャクとしていて、特に「舌鋒」の方は衰えることを知らない。

三感の旅

大自然を探訪した前回の「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」に比べると、「なんとミーハーな!」と思われてしまいそうだが、今回はパリに在住している水口の住居を根城として、歴史に“感”銘、自然に“感”動」しながらヨーロッパを旅行することになった。私は勝手に、「友に“感”謝」を加えて「三感の旅」と名づけた「丑寅辰巳会」小田原高校時代からだが、このうちのMYNSカルテットは城山中学校時代から、更に、水口幸治、山本哲照と中澤秀夫のMYNトリオに至っては城内小学校(現在は佐々木洋が卒業した本町小学校と併合して三の丸小学校になっている)からの幼馴染。長年にわたって交誼を続けてくれたこと自体が感謝ものだが、このような規格外海外旅行の経験ができるのも旧友のお陰と感謝している。

3カントリーの旅


私が勝手に「ヨーロッパ三感トリップ」と名づけたのは上記の「三感」を旅行先のイギリス、フランス、スイスの「“3カン”トリー」と、更に、この「カン“トリ”ー」を「“トリ”ップ」とそれぞれの語呂合わせをした駄洒落の産物だ。実際に、約半月間の間(2007/8/26-9/10)に我々が残してきた足跡を辿ると以下の表の如くになる。

Date Events Stay
8・26 13:20(日本時間)成田発 機内
8・26 成田よりBA機にてイギリス入国 ロンドン
8・27 ロンドン市内観光 ロンドン
8・28 ロンドン市内観光→ユーロスターにてフランス入国 パリ
8・29 パリ市内観光 パリ
8・30 ベルサイユ→パリ市内観光 パリ
8・31 モン・サン・ミッシェル パリ
9・01 パリ市内観光 パリ
9・02 TGVにてスイス入国 ツェルマット
9・03 マッターホルン観光 ツェルマット
9・04 ユングフラウ・ヨッホ観光 グリンデルバルト
9・05 ジュネーブ観光→TGVにて再びフランス入国 リヨン
9・06 ニース市内観光 ニース
9・07 エズ→モナコ観光 ニース
9・08 カンヌ→ニース市内観光 パリ
9・09 パリよりBA機にてロンドン経由成田へ 機内
9・10 11:45(日本時間)成田着 いわき

実際には四感トリップであった

山中湖畔にある水口隊長の別邸で行われた企画会議では、「行けたら行こう」という程度の位置づけになっていた「モナコ」が旅程に採りいれられたため、実際には、3カントリーではなくて4カントリーのトリップとなった。また、「三感」の方にも、私は密かに「妻への“感”謝」を加えて「四感」としている。9月下旬に開講する嘉悦大学の新講座に対する準備を出発する前に済ませておきたかった私には、気ばかりが焦っていて、旅装を整える精神的なゆとりがなかった。そんな時に「義を見てせざるは」とばかりに協力してくれたのが妻のカエちゃんであった。実際には、「協力」などというシロモノではなくて、私は持参品のリストを作るだけで、全てカエちゃんが手際よく取り揃えて、出立前夜には新調のスーツケースにきちんと収められていた。また、出立前夜の夕餉の宅には大好物のサンマの刺身が並び、出発当日の朝餉には西瓜、梨、桃が添えられていた。いずれも、「ヒロシさんが帰ってくる頃には食べられなくなってしまっているから」というカエちゃんの心尽くしによるものであった。



☆☆☆ 奇行士たちの紀行録 ☆☆☆

ツンドラの上空を超えて

さらばジャパン

思えば飛行機に乗るのも同じメンバーで行った「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」以来6年ぶりのことである。中華航空のボーイング機が那覇空港で炎上する事故を起こしたばかりでもあり、ボーイング737に乗り込む我々にも一抹の不安がよぎる。しかし、国籍も様々な人が乗り込んできて座席はほぼ満杯。BA(British Airways)008便は予定通り13:20成田を発った。さらばジャパン、16日間後また会う日まで。

窓際体験の分かち合い

我々が与えられたのは窓側の3列。山本の発案で、気分転換とエコノミークラス症候群を防ぐするため、2−3時間ごとに座席交換をすることにした。野球の7th inning stretchではないが、時折立ち上がって伸びをすることによってエコノミークラス症候群を防ぐとともに、幸運な窓際体験を分かち合おうというものだ。早速、窓際に座った山本が、なにやらナレーションを入れながら機窓からハンディ・カメラで離陸風景を撮っている。

なんたる天然爺さんボケ

高度が上がると、各自の前の座席の前の座席の背中に取り付けられた液晶モニターに地図が映し出され、そこに一路北へ向かうBA機の位置が示される。やがてすると、「ハバロフスク」の文字が画面に現れた。そして、山本の隣りから機窓を見下ろしていると、初めて目にするロシアの国土が眼下に現れた。海が穏やかで、海岸線に打ち寄せる波の線が白く細く見える。隣りで中沢が聞く。「ソ連の様子はどうだ?」なんたる歴史的時差ボケ。それとも天然爺さんボケ?。山本が調子を合わせて答える。「ソ連は雲ばかりだ」。なるほど、再び見下ろしてみると、機窓の下は、いつの間にか真っ白な雲に覆われていて陸地も海も見えなくなっていた。

ツンドラって白くないの?

私が窓際族になった頃には、スチュワードの指示によって、全ての窓のシャッターが下ろされていた。真っ白な雲に反射された光が入ってきて乗客の安眠を妨げるからだ。しかし、「ヤクーツク」や「イルクーツク」の文字が画面に現れると、矢も盾もなく覗いてみたくなった。中学校か高校の地理の時間に「ツンドラ地帯」と習っていたからだ。恐る恐る窓を開けてみると、見えました!眼下に広がる大地。緩やかに蛇行した2本の広い川が合流したY字形。そのY字形の周辺いたるところに池塘が見える。川が穏やかな水を湛えている様がはっきり見えるから、間違い平坦な荒野だ。しかし、「ツンドラは凍土で白く見える」の思惑は見事に外れて、荒野は黒に近い深緑色をしていた。

翼よ、あれがロンドンの地だ

日本・成田からロンドン・ヒースロー空港までの飛行距離は約9,000km。ちょうど、6年目の「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」、3週間かけて、カナダ・バンクーバーからカリフォルニア・ロサンゼルスまでドライブした距離と同じだ。この距離を僅か12時間で到達してしまうのだから、さすがに飛行機は早いことは速い。しかし、「たかが12時間」という気持ちにはとてもなれない。シートチェンジを何回か繰り返した後に、ようやくBA(British Airways)機はスカンジナビア半島上空にさしかかった。そして、白波一つなく、漁船や貨物船が静かに浮かぶ北海を越えると、いよいよやってきました英国本土。翼よ、あれがロンドンの地だ。僕は夢中になってFinePix S6000のシャッターを切った

貧脳による貧農観

ロンドン郊外の農地は土地が縦横にきちんと区画されているものと思いきや、寧ろ日本に似て不規則な形で細かく区切られていた。きっと、イギリスは、農業の生産性が低く、農民の暮らしも貧しかったのだろう。蒸気機関と自動織機の発明を契機として勃興した綿工業を主軸として産業革命が起こったのも、農村人口が流失していって工業資本の労働力需要を満たしたからなのだが、貧農(農業の生産性の低さ)がこれに拍車をかけていたに違いないと、貧脳ながら私は思う。いやはや、資本主義経済発祥の地・イギリスの上空にさしかかって、またしても“昔学校で習ったこと”を思い出し、勝手な想像をしてしまった。

整然とした住宅街

しかし、間もなく視界に入ってきた郊外の住宅地の姿は日本といささか違うものであった。日本では、大方がテンデバラバラに設計・建築された住宅が建ち並ぶ住宅街なのだが、ここでは地域開発の中で住宅建設がなされているせいか、よく似た設計の住宅が整然と並んで集落を形成している。しかも、住宅の列に沿って必ずといって良いほど樹木の植え込みのラインが出来上がっているのが特徴的だ。資本主義発祥の地ここイギリスでは都市開発資本もそれだけ早く立ち上がったのかもしれない。

UK is not OK.

募る英国不信感

やがて、飛行機が着陸態勢をとろうとするころになって、入国手続き書類を準備するよう機内放送が流れた。機を見るに敏い山本が早速メモの手を走らせ始めたが、不意にその手が止まった。「“年金生活者”は英語でなんと言うのかなあ」とブツブツ。つまり、「職業」の欄に“無職”という選択肢が書き込まれていないのだった。何かい、イギリスってところは、定年退職者は来ちゃいけないってことなのかい?次いで、山本の手が止まったのは「宿泊ホテル」の項目であった。78日に熱海で行った事前ミーティングの際に水口が配布してくれたリストを持参してきたのだが、改めて見てみると、その中の英国滞在第一日目(826日)の欄に「予約済みだがホテル名はパリの自宅に忘れてきた」とあったからだ。おいおい、イギリスでは泊まるホテルまで報告しなきゃならないってのか?

テロの脅威も自業自得

しかし、我々に募るイギリス不信感を取り除いてくれたのが、多少年配のようだが上品で優しい日本人スチュワデスであった。「職業」については”retired” 「宿泊ホテル」については「友達が予約済み」でよろしいでしょうと丁寧に教えてくれたお陰で我々の小パニックはおさまった。すると、今度はイギリスのおかれている立場が冷静に見えてきて、「ああ、そうか、イギリスはテロを警戒しているから“宿泊ホテル”までチェックしなければならないのか」と分かったような気分になることができてきた。しかし、これも自らまいた種なんだぞ。米国ブッシュ(Bush)大統領の口車に乗って、ブレヤ(Blair)前首相がイラクに出兵したりするからこんなことになるのだ。同じく、アメリカのイラク侵攻に対して真っ先に支援の意を表した小泉(Koizumi)前首相と、ついでに北朝鮮の金(Kim)総書記を加えたBKBKカルテットを捉えて、「“馬鹿馬鹿しい”という言葉は“BKBKしい”に由来する」という珍説まであった(実は、made by myself)ほどなのだから。

ヒースローは超スロー

そうこうするうちにBA機はほとんど予定時刻どおりに16:55ヒースローの滑走路に着陸。9,000キロ12時間近くの長旅なのに、ほぼオンタイムで成田からヒースローまで運航してきたのだからBAのパイロットの腕前は大したものだ。かつて、スペイン、ポルトガル、オランダなどと海上で覇を競った航海技術が脈々として航空技術に受け継がれているのであろうか。しかし、BAのスチュワデスとパイロットのお陰でイギリスの評価が上向いた矢先に再び鬱陶しい事態が始まった。他の乗客ともども席を立って通路に並ぼうとしている時に「搭乗口が不具合のなので少々お待ちください」というアナウンスが流れたのだ。しかも、その後、時をおいてそのアナウンスが繰り返されるだけで、「少々」が少々ではなくなって「焦燥」になってきた。水口が空港出口で我々を待ち焦がれているはずだからだ。

行く手を阻む「UK Border」

途中で機内放送の内容が「バスが参りますので少々…」に変わったのだが、そのバスも一向に姿を現さない。ようやく、BAのバスが飛行機の窓外に見えたのは、着陸後かれこれ1時間過ぎた頃であった。しかし、ヒースローの超スローぶりは、これにとどまるものではなかった。我々の向かった入国審査所に長蛇の列ができていたからだ。九十九折状に並ばされた長蛇の先に十数台の審査台が横に並んでいて、この背後の壁に「UK Border」の貼り紙が随所に貼ってある。従って、我々は行く手の「UK(United Kingdom:大英帝国)Border(国境)の壁」と対峙する形となる。しかも、審査台の一部にしか事務員がおらず大半の審査台が遊んでいるので、行列は遅々として進まず、結局我々がUKの厚い壁を潜り抜けるまでに更に1時間かかってしまった。飛行機の乗客数は予め分かっているはずなのに、入国審査の人員を十分配置せず、外来者を待たせるだけ待たせておくのが大英帝国の誇りだとでも言うのだろうか。UK is not OKだ!出口で待機しているはずの水口に連絡する手立てもないまま焦燥感を募らせていた我々は、UK Border越えを許されるや否や、つんのめるような足取りで空港出口に急いだ。

さて、ヒースロー空港出口

水口は、さぞ待ちくたびれていることだろう。先ずは、BA及び入国管理事務官に成り代わってお詫びをしなくちゃ。ところが、お詫びしようにも、水口の姿が出迎えの人々の輪の中に見えないのだ。待ちくたびれて帰えっちゃったのかなあ、まさか。それとも、連絡の手違い、いやー、そんなはずはない。脚を止めて思案していると、何かにつけて正義派の山本が「こんなところに立ち止まっていたら迷惑になる」と言って出迎えの輪の外に出ようとせっつく。中沢は中沢で、「電話連絡しなくちゃ!」と公衆電話の方を指差す。こんな時には動かず冷静にしているのが一番なのに。案の定、ビデオカメラを構えた水口が我々の前に姿を現したのは数十秒後のことであった。そして、にこやかに笑いながら「ドッキリカメラの真似をしていただけさ」と軽く一言。BA機乗客の遅れについては予め人づてに聞いていたらしく、また、入国事務に時間を要するのは日常茶飯事なので、ほとんど焦らず腹も立てずに待機していたのだそうだ。そうとも知らず、小パニックに陥ってしまった我々の姿は水口のビデオカメラの中に収められることとなったわけである。


ロンドン市街点描

初めて見るイギリスの景色

水口が予め用意していてくれた切符でパディントン駅(Paddington)へ。水口によると、この列車は「成田エクスプレスのようなもの」らしい。車内放送も何もないから、どこに向かって走っていて、どこの駅に止まるのかさっぱり分からない。しかし、初めて見るイギリスの窓外の景色にしばし見入っていた。植生も日本とあまり変わらないように見える。違っているところと言えば、石造りの集合住宅が多く、しかも、かつてスモッグの原因となる暖炉の煙を放出していた煙突がそれぞれの屋上に林立しているところくらいしかないように思えた。いずれにしても、「UK Border」では散々よそよそしさを感じさせてくれたイギリスも、懐に入ってしまえば意外と違和感がない。そんな親近感を感じさせ、英国に対する高感度を上向きにさせてくれるような車窓風景であった。

募る親近感

パディントン駅を降からホテルに向かってスーツケースを引きながら、初めて英国の市街を歩いていると、親近感は一層高まり懐かしささえ感じられるようになった。日本とは全く違う佇まいなのに、なんなのだろうか、この親近感は。「どこかで見た市街地風景ぞ?」と思い巡らせたが、思い起こしたのは、やはり日本の街ではなくて、再三訪れて我がお気に入りになっているボストンの市街であった。「ああ、ボストンにそっくりなんだ!」と一瞬思ったのだが、すぐに「待てよ」と思い返した。ボストンを中心としたマサチュセッツ州の辺りは、「ニューイングランド」と呼ばれている通り、イギリスからピューリタンたちが渡って行って街づくりをしたのだから、こちらの方が「本家」筋に当たるのだった。なんと、「東北の湘南」いわきから「本家湘南」の辻堂あたりに出て行って、「ここは湘南に似ている」と思うのと同じような勘違いをしていたことになる。


癒しの緑の空間

やがて、広い通りに出ると、道の両側に喬木が植えられていた。年輪を感じさせる街路樹はついぞボストンではお目にかかったことがないもので、さすがに「本家」の歴史の古さが偲ばれる。しかし、この喬木、どう見ても柏の木のようにしか見えない。柏の葉をデザインした校章をつけた学帽を3年間わたってかぶっていた我々が見立てているのだから間違いがない。更に、親近感を沸き立たせてくれる柏の並木道を少し歩いて行くと左側にスクウェアがある。スクウェアというのは、コの字型に立ち並ぶビルに囲まれた空間のことを言う。日本だったら「公園」と言っても良い広さなのだが、ここでは"Park"とは呼ばないらしい。べコニヤの花などが植えられていて癒しを感じさせてくれる空間だ。

Let's do as Londoners do!

我々の投宿先のクオリティ・ホテル(Quality)は、このスクウェアに面していて、玄関口にペチュニアの植わった鉢が下げられていた。ロンドン市民は、屋内を飾る日本人と違って、通り掛かりの人や外来者のために花を飾っているようだ。見知らぬ人(stranger)でもヨソモノ(stranger)扱いにしない優しさが感じられる。Let’s do as Londoners do!
ホテルQualityの受付にも花がいて、我々を笑顔で迎え入れてくれた。ルームは3階。しかし、日本式と違って、”3 rd Floor”は、「”Ground”(日本でいう1階)から登り始めて3番目の階」で、日本では4階に当たるから注意が必要だ。だから、”4 th Floor”を4階だと思うのは誤解で正階(正解)は5階なのだ。

「世界一まずい料理」を試みる

水口・中沢組、山本・佐々木組と分かれて入室して旅装を解いた我々は、程近くにあるレストラン”Sauyer's Arms”に行って、イギリスの代表的な料理だといわれるフィッシュ・アンド・チップスを食べた。白身魚を揚げたものとポテト・チップ、それにグリーン・ピースを添えただけのもので、これが代表的料理とされるところにイギリスが「世界一料理がまずい国」と称される所以がありそうだ。魚は、普段ならタラ(cod)を使うのだが、本日は無いので”cod”と紛らわしい「カッド」を使っているのだそうだ。タラよりもっと身の柔らかい白身の魚だった。総じて、大して美味いものではなかったが、“世界一料理がまずいと覚悟していた割にはなかなかの味付けであった。

さすがは King's English !?

「イギリスのビールは生ぬるいぞ」と、出掛けに誰かから聞いていたが、これも真実の一部でしかないということが分かった。イギリスで初めて口にした1パイントのビールは爽やかに我々の喉の渇きを癒してくれた。イギリスでの自分自身初めての買い物体験として買いに立ったギネスも冷えていて、決して“生ぬるい”ものではなかった。因みに、「パイントpint」は、ヤード・ポンド法における体積の単位だが、ジョッキ1杯が1パイントになっているから、「1杯」という感覚で”1 pint”と一言発するだけでことが足りる。しかし、ビールを注ぐ青年も、この変な外国人(strange stranger)をヨソモノ(stranger)扱いにせず、“流暢な”英語で話しかけてきた。「さすが、ロンドンっ子の英語はKing’s Englishで分かりやすい」と思いきや、会話の流れから、彼自身がブラジルから来ている外国人(stranger)だから英語は彼にとっても外国語なのだということが分かった。外国人同士で、学校で習った通りの英話で話していたから、分かりやすくて“流暢”に聞こえただけの話であった。黒人の存在が目立つニューヨークではまさに「人種の坩堝」が実感できたが、ここロンドンでもかなりの人種が密かに坩堝に溶け込んでいるのではないかと思わせるブラジル人青年との出会いであった。

26時間ぶりの就寝

ホテルに戻ると、壁に地図が貼ってあって、そこがハイド・パーク(Hyde Park)の近くにあるのだということが分かった。オーストラリアのシドニーに旅行した際に、同名の公園(今から思えば、これも“分家筋”のものだったのかもしれない)の近くに泊まりながら訪れることができなかったので、「明朝、朝飯前に散歩に行かないか」と勢い込んで提案した。しかし、三人から口々に「今日は初日だから良く寝て、明日の朝はゆっくりしようや」と却下されてしまった。そこで、「まあ、翌日もあることだし」と自分に言い聞かせて恭順の意を表し、明日は朝寝を決め込むことにして、部屋に戻って入浴してからベッドに就いた。日本出発の当日も、いつものように朝4時に起床していたから、実に26時間ぶりの就寝となったわけである。

(2007/8/26)

「タウンハウス」も分家筋?

安眠を貪っていると、突如ドアをたたく音が聞こえて目を覚まされてしまった。戸口に立っていたのは水口であった。どうやら、朝寝ができず、目が覚めて退屈してらしい。そして、昨晩自ら却下したはずの早朝散歩を思いなおして、誘いに来たのだった。勿論、この心変わりは望むところ。早速、洗面もそこそこに散歩に出かけた。
ホテルQualityの壁には「LTH組合の会員である」と書かれた額が掲げられていた。LTHは”London Town Hotel”の略だそうだが、ホテルQualityを出て“柏の並木”の大通りに出てみると、すぐに「なるほど」と、タウン・ホテルTown Hotel”の意味が分かったような気がした。この辺りでは、通りに面したビルディングの多くが、複数のホテルによってシェアされているのだ。だから、同じビルディングではあっても、入り口を間違えると、別のホテルに入ってしまうことになる。考えてみれば、日本の「タウン・ハウス」も、一つの家屋を複数の所帯で共有する形態である。ことによると、日本の「タウン・ハウス」も、ロンドンの「タウン・ホテル」の“分家筋”に当たるのかもしれない。

ロンドン市街の“八百屋”と長ネギ

ハイド・パークに歩いて行く途中、“八百屋”が店開きしているのを見た。日本式の木造家屋ではなくビルの1階ではあるが、店構えは日本でよく見かける“八百屋”とまったく同じで、野菜や果実類を、店内から一部歩道にかかる低い棚の上に陳列している。「日本と品揃えもあまり違わないんだな」と思いながら並んだ野菜・果実類の上に目を走らせていると、その中に長ネギがあるのに気がついた。あれっ、長ネギは日本独特の野菜だったんじゃなかったっけ?すき焼きなどの日本料理としかイメージが結びつかないし、実際に長ネギを使った西洋料理にはお目にもお口にもかかったことがないので、これは日本が“本家”に違いないと思っていたのに。しかし、後日日本に帰ってから、「長ネギ」は英語で”Welch onion”というのだと知った。”Welch (Welsh)”は「ウェールズの」という意味だから、UK(United Kingdom)の中心ロンドンの“八百屋”の店頭に並べられていても何の不思議もなかったわけだ。また、”onion”が「玉ネギ」だけではなく「ネギ」にあたる場合もあるのだと分かった。

ロンドン市街に息づく公僕精神

スクウェアやホテルの玄関先ばかりでなく、大通りの歩道にも、随所に色とりどりの花が植わった鉢が、さりげなく吊り下げられていて、朝の散策に彩を添えてくれる。ハイド・パーク(Hyde Park)から一旦ホテルに戻る時には、若者が市役所の清掃用車で街角を清掃している光景にもでくわした。言葉だけでなくて、目立たぬところで、市役所の関係者達が「街の美化」に意と力を尽くしているのであろう。「税金がきちんと使われていることがはっきり分かるような気がするなあ」と水口が口にしたが、まさに、ロンドン市街に息づく公僕精神の一端を見たような光景であった。「公」園にしても、文字通り、"Public"であって、ここで入園料を取られるようなことがない。天下の「公」道を走るのに料金がかかり、「民営化」企業がその料金徴収を事業としているどこかの国とは大きな違いだ。

我が家”と“我が街”

しかし、「街の美化」については、住民の意識が日英間で大きく違っているような気がする。節分の豆まきの際の「福は内鬼は外」が端的に表われているように、日本では“内(屋内=我が家)”が基調であって、害悪は“外(屋外=市街)”に追い出してしまえば良いとする傾向が強い。こういう風土だから、精一杯屋内を花で飾ることはしても、市街を通り掛かる人や外来者のために花を飾ることはなかなかしようとしないのだ。一方、ここロンドンでは、“我が家”ではなくて“我が街”を“内”とし合うようなコミュニティーが形成されていて、コミュニティーの住民達が“We”の意識を持って市街地全体として「福は内」を実現しようとしているように見える。だからこそ、地方公共団体の役人達も“We”の意識を分かち合って「街の美化」に取り組んでいるのだろう。日本でも、「街の美化」に取り組むボランティア活動などが行われるようになってきた。しかし、現状では精々、“外に出された鬼”(ゴミ)を取り払う「街の“清掃”」にとどまっており、“外にも福”をとして花を飾るような真の「街の美化」というところまで行っていないようだ。隣人同士が「よそ様」呼ばわりしあう“They”意識が強いところでは、住人と役人の間も「奴ら」の“They”呼ばわりがされるのも無理はない。住人達の“公徳心”と役人たちの“公僕精神”は、セットになって初めて発現するのではないかと、早朝のロンドン市外を散策しながらふと思った。

ロンドン観光スポットめぐり

2階建てバスに乗って

ハイド・パーク近くのハンバーガーショップで朝食をとり、一旦、ホテルに戻った我々は再びハイド・パークに引き返した。乗り降り自由の2階建て(ダブルデッカー)観光バスの発着場があって、その近くの「マーブル・アーチMarble Arch」を我々の「ホップオン・ホップオフ・ツアーHop-on Hop-off Tour」の起点にすることにしたからだ。赤い色のダブルデッカーに乗れば、日本語のガイドテープを聞きながら市内観光することができるし、青色のバスならガイドが乗り込んでいて身振り手振りもたっぷりに英語でガイドをしてくれる。ともに、屋根が無いので、上方を眺めるのにも良い。ロンドン名物とされる霧や雨の場合にはどうなってしまうのだろうと思えるが、今日も昨日に続いて快晴。かねて知ったる「英国紳士」に付きものの傘の出番はなさそうだ。
ハイド・パーク マーブル・アーチ バスのアッパー・デッキ

ライオンがいたトラファルガー広場

バスは先ず「ソーホーSoho」周辺に向かい、我々が最初にホップ・オフしたのは「トラファルガー広場Trafalgar Square」であった。そこには、高さ50mという円柱の塔があって、それを四方から守るかのようにして、巨大なトラではなくてライオン像が臥せっている。「おい、トラファルガーってなんなんだい?」と質問すると、「なんだ、トラファルガーも知らないのか」と三人の冷たい声と顔。更に、「世界史で勉強しただろうが」と追い討ちが来たが、いかんせん、三人と違って、小田原高校で私が取った社会科は日本史と地理だ。だから、「トラファルガー」は知らないが、「ツンドラ」だの「ヤクーツク」、「イルクーツク」は知っているのだ。それにしても、「トラファルガー」を知らなかったからといって、これまで人様に迷惑をかけたことも、社会人としてあるまじき行為をしたこともない。一体、日本で議論の対象になっている「必須科目」とはなんなんだろう。何のための「必須」なのか?ほとんど情報価値の無い雑学を記憶させるところが多過ぎるのではないだろうか?…と、妙なところで、日本の教育のあり方について考えさせられてしまった。ところで、日本の三越デパートのロゴはここのライオン像をモチーフにしたものだそうだ。これも雑学でしかないが、塔のてっぺんから銅像になって我々を見下ろしているネルソン提督がどうしたこうしたという話より身近な話題で世界史音痴の私にはウケる。

政治の中枢・首相官邸に国会議事堂

「トラファルガー広場」から「首相官邸」などの様々な建造物を見ながら歩く。ここでも、オフィスビルなのに花が飾られていて道行く人の心を和ませてくれているのが嬉しい。こんな“どうでもいい”光景に立ち止まってカメラを向けている私を置き去りにするようにして、ご三人様の足は“ブランド”観光スポットの多いウェストミンスター周辺目指して急ぐ。そして、最初に行きついた“ブランド”スポットは「国会議事堂Houses of Parliament」であった。もとは王の居城(ウェストミンスター宮殿)だったらしい。ゴシック様式の建物で、部屋数が1,000以上もあるそうで、魑魅魍魎が跋扈していそうな雰囲気を漂わせている。こんなところだから、イギリスのイラク派兵も安易に決められてしまったのだろう。

“ブランド中のブランド”ウェストミンスター寺院

「ウェストミンスター寺院Westminster Abbey」は、「国会議事堂」から道路を挟んですぐ斜め前のところにある。1,050年に建てられたノルマン様式の修道院を原型として13世紀にゴシック様式を加えて建て替えたものらしい。ほとんどすべての王の戴冠式がここで執り行われてきたとのことだから“ブランド中のブランド”と言っても良いのだろう。「国会議事堂」とともに、青空を背に聳える茶色系の威容を示す姿はさすがだが、“ノーブラ派”でヘソ曲がりの私は、“ブランド”ものに囲まれながら、ひっそりと白く清楚な姿を見せている「セント・マーガレット教会」の方に心を惹かれてしまった。

超大きな古時計のビッグ・ベン

「国会議事堂」に付属する時計塔「ビッグ・ベンBig Ben」も、「テムズ川River Thames」の河畔にあって、4面にある大きな文字盤でロンドン市民に時を知らせている。時計塔が完成したのが1858年だそうだから、♪150年休まずにチックタックチックタック♪と時を刻み続けてきたこの身長95mの「超大きな古時計」は、まさに大変な“お爺さん時計”であって、ロンドン市民に愛称で呼ばれるだけのものがある。
今でこそ電動式になっていて精度も高くなっていようが、往時は長大な時計針を頻繁に、しかも、手動で回して時間合わせをしなければならなっかのだろうから、さぞや大変なことだっただろうと、裏方の苦労について、またしても“どうでもいい”思いを寄せてしまった。なお、尾篭な話ながら、どうして「ビッグ・ベン」と名付けられているのか定かにせぬまま、爾来、我々四人の間では、トイレの小用ではない方を「ビッグ・ベン」と呼ぶようになった。

心休まるセント・ジェームス・パーク

我々のウォーキング・ラリーは続いて、「セント・ジェームス・パークSt. James Park」経由で「バッキンガム宮殿Buckingham Palace」へ。“ブランド派”の三人は、例によって“どうでもいい”経由地の光景には目もくれないで先を目指している。緑豊かで、池端の柳の風情も豊かで静謐なたたずまいのこの“ノーブラ”公園が気に入って、随所でシャッターを切る私は、またしても置き去りにされ、いつのまにか三人の姿が視界から消えていた。追いついて聞いてみると、“スモール・ベン”のし場所を見つけあぐねていたことも三人の歩調を速める原因の一つになっていたのだということが分かった。そこで、私の目にとまっていた”Lavatory”の標識のあるところまで戻って一斉に放水。すっきりしたところで、橋の上からパチリとまた1枚。遠く、「ロンドン・アイLondon Eye(大観覧車)」とゴシック式建築の尖塔群を望むイケメン(池面)の写真を物にすることにした。
尾篭な話ついでに一言すると、”Lavatory”(トイレ)は”Laboratory”(研究所)と紛らわしいのでご用心。実際に、某社の研究室長殿が、うっかり”Chief of Lavatory”としてしまった名刺を米国で大学教授に差し出して苦笑を買ってしまったという現場に居合わせたことがある。

バッキンガム宮殿は罰金ガム?

歴代の英国王がここに住まわれていると言われる「バッキンガム宮殿」は、11時半頃からという衛兵のパレードがもうすぐ見られるとあって、大変な人だかりであった。「さすがに、この当たりでは誰もガムを噛んでいないなあ」と呟くと、水口が「えっ!?」と聞きとがめたので、「ガム、罰金、ガム、罰金」と呪文のごとく繰り返して応答してみせた。「なんだ、駄洒落かよ」と水口は呆れたが、実際に、ここに限らず、ロンドンではガムを噛む人の姿をほとんど見かけなかった。“分家筋”アメリカのメジャー・リーグでは「ガム・カム・エブリバディ」の状態。これが日本のプロ野球にも伝わってきて、鼻の低い日本人には似合わないガム・クチャクチャ姿の映像が映しだされて、見ている方はガムならぬ砂を噛む思いをさせられている。いっそ、日本のプロ野球も“罰金ガム”にしたらどうだろう。このままだと、そのうちに、高校球児まで「プロの真似してなぜ悪い」ってことで、だらしないお口クチャクチャを始めちゃうよ。…そんなことを考えているうちに口元も凛々しい衛兵達がパレードを始めた。だが、沿道に並ぶ人々の頭越しにみた“観光資源”の光景よりも、背後の花壇にさりげなく植えられていた“どうでもいい”花々の姿の方に私の心は和まされた。

超大カバブはモッタイナイ

さて今度は、「バッキンガム」でホップオンして「ビクトリアVictoria」でホップオフ。二人の若者が忙しそうに立ち働いているショップでカバブを買って、近くのスクウェア(形状が四角ではなくて三角形に近かったが)の芝生に腰を下ろしてのランチタイムとあいなった。シシカバブshish kebabは、「西アジアの羊肉の串焼き料理」だが、ここのカバブは、天井から吊るしてある羊の丸焼きを殺ぎ切って、野菜とともにサンドイッチ風にパンではさんだもの。野菜ドッチャリでボリューム満点な上にポテトチップスが嫌になるほど付いてくるので、さすが大食漢の私もギブアップ。小麦粉や野菜を作ったイギリスのお百姓さん達に、日本語で「ゴメンナサイ」と謝りながら、残飯をスクウェアのごみ箱に中に捨てた。同じ日本語の「モッタイナイ」は、ケニア人で2004年ノーベル平和受賞者のワンガリ・マータイ女史が来日した際にこの言葉に出遭って、資源の「3R」(Reduce / Reuse / Recycle )にピッタリの言葉の文字だと感動して以来、世界語として広まりつつある。しかし、ここロンドンの街角で超大カバブを量産し続けている中東人風の若者にまではまだ「モッタイナイ」の精神が伝わってきていないようだ。「モッタイナイ」とともに、3Rに反する行為をしてしまった時の「ゴメンナサイ」が世界語になった時に初めて、京都議定書の精神が世界に発現するのだろうと思う。

テムズ川リバー・クルーズとしゃれこんで

ダブルデッカーで「ビクトリア」から「ウェストミンスター・ピアWestminster Pier」に向かった我々は、今度はそこで水上バスにホップオン。テムズ川リバー・クルーズの乗船券も1日乗車券one-day bus passに含まれているから便利だ。二階建てバスに乗って随所に花の彩がある街並みも見て回るのも素敵だが、かなり大きな船も行き交うテムズ川の川面から見た風景にはまた別の趣がある。さっき見たばかりのビッグベンも水のある光景に映え、これから「セント・ポールス大聖堂St.Paul's Cathedral」もテムズ川を下る我々の前に姿を現した。そして、なおも下ったタワー・ピアTower Pierの近く、船から見上げる「タワーブリッジTower Bridge」は圧巻であった。

ロンドン塔と塔の橋タワーブリッジ

しばし、船上からのロンドン観光を楽しんだ後、タワー・ピアで水上バスからホップオフ。ここから、我々のシティ・ロンドン塔地区の観光ラウンドが始まった。ピアから程近い「ロンドン塔Tower of London」は、もともと王室の居城として築城されたのだが、その後軍事要砦の形になり、牢獄や処刑場などとしても使われてきたらしい。「ロンドン塔」と称しながら「塔」らしきものがないのはおかしいじゃないかと思われたが、築城がホワイト・タワーWhite Towerという名の城郭から発足したから仕方がないことで、決して“偽装”ではないのだそうだ。
テムズ川河畔で、イギリス名物のアフターヌーン・ティーならぬアフタヌーン・アイスクリームで小休止した後、ほんのちょっとだけ歩いて「タワー・ブリッジTower Bridge」へ。全長260mのこの橋は跳開構造(はね橋)になっていて、大型船が通るときには橋げたの中央部分がハの字型に開閉する。かつては橋げたを上げるシーンが繁く見られたそうだが、現在では大潮の満潮時などに限られているそうだ。タワーブリッジという名前は、ロンドン「塔」Towerに因んでいるのだそうだが、この「橋」Bridge自身が2基のゴシック様式の「塔」Towerをもった「タワーブリッジ」でもあるのだ。高さ40mもある左右のタワーの間に架けられたブリッジの上を多数の自動車と歩行者が行き来していた。

シティー出たり入ったり

さて、我々の次なるターゲットは「セント・ポールス大聖堂St.Paul's Cathedral」で、これは同じシティー・オブ・ロンドンにあるのだが、タワーブリッジから歩くのは骨が折れる。そこで我々は、一旦「ロンドン・アイLondon Eye(大観覧車)」に戻って、そこでバスを乗り継いでシティー・オブ・ロンドン地区に戻るという手をとった。先ほど水上バスから目立って見えた「セント・ポールス大聖堂」は、建物の中央部に直径34mで高さ110mのドームが聳えているので、陸上バスでアプローチしていってもすぐに存在が分かる。なお、「セント・ポール」は「聖パウロ」の英語読みであり、立教大学は聖パウロが守護聖人となっているところから"St.Paul's"と呼ばれているのだそうだ。
セント・ポールス大聖堂近くの喫茶店「Ti」で、アフタヌーンならぬイブニング・ティーを摂って小休止してから、「シティCity」に脚を伸ばす。ここは、各国の金融機関が顔を揃える金融の街で、世界最古の銀行とされた「イングランド銀行」や「王立取引所」の建物も残されていて、現在はそれぞれショッピングモール及びオフィスビルとして使われている。
「シティCity」からセント・ポールス大聖堂に徒歩で引き返した我々は、そこでダブルデッカーに乗ってシティ・ロンドン塔地区から脱出。振り出し点のウェストミンスター地区の「ハイド・パーク」に戻った。

紛らわしい「ソーホー」に「サーカス」

「ハイド・パーク」に戻った我々の“健脚”はとどまるところを知らず、更に、徒歩にてソーホー地区の「ピカディリー・サーカスPicadilly Circus」に向かった。朝の散策も加えれば、歩行距離数は無慮14kmに達しようかというのに一人も脱落せず行動をともにできるのだからわれながら大したものだ。
ところで、「ソーホー(SOHO)」と言えば、ビジネスの世界では"Small Office Home Office"の略で、「コンピュータネットワークを活用して自宅や郊外の小さな事務所を仕事場にすること、あるいは、そこで事業を起こすこと」という意味の言葉になる。また、ニューヨークのマンハッタンにもSOHO地区があるが、これにも"Small SOuth of HOuston Street"という歴とした“原典”がある。当然、何事につけ折り目正しいロンドンのことだから、ここの「ソーホー」にも相応の由緒正しい謂れがあるに違いないと思っていたのだが、これは思い過ごしであったようだ。その昔農地だったこのあたりの土地をイングランド王家が取得して、ウェストミンスター宮殿に付属の狩猟地にしたのだそうで、「ソーホー」というのは狩の時に発する呼び声なんのだとか。
一方、ピカディリー・サーカス」という地名も紛らわしい。「サーカス」と言えば、大方の日本人にとっては旅興行をして回る「曲芸団」でしかないはずだ。ところが、いわゆる“英”語の"circus"には「(放射状街路が集まる)円形広場」という意味があり、これが「方形広場」の"square"に対する言葉なのだそうだ。因みに、「ピカディル」は襟や袖につけるフリルレースのことで、これを流行らせて財を成した仕立屋職人が建てた豪邸ピカディル・ホールがこのあたりにあったことに由来しているのだとか。
そんな故事来歴はともかくとして、ここ、ピカディリー・サーカスはロンドン一の繁華街なのだそうで、派手なネオンサインを掲げた商業施設のビルが建ち並んでいる。
東京で言えば池袋というイメージだが、我々は池袋にはない中華街に入り込んで、「金龍」で紹興酒と中華料理の夕食タイムを楽しんだ。ホテルQualityまでの帰途は、黒塗りのブラック・キャブのタクシー。かくして長くて充実したロンドンの一日が終わった。

(2007/8/27)

「節度」と「機能美」と

ホテルQualityで供してくれたのが「イングリッシュ・ブレックファスト。大きな皿に、トーストや、目玉焼き、ベーコン、焼きトマトなどが並べられただけの何の変哲もないものだが、これが「イギリスの味覚」の一つとしてリストアップされているところにこの国の人々の食文化、ひいて言えば、文化の特質があるように思える。昨日の観光スポット巡回でも随所で感じられたように、どこかに「節度」があって「機能美」がある。実際、この朝食も、見た目に美しいだけでなくボリューム豊かで僕たちの活動を支えてくれた。味付けもなかなかで、決して「世界一まずい」ものではなかった。
朝食を済ませた我々は、地下鉄に乗って、ソーホー地区の「大英博物館British Museum」最寄りの「トッテナム・コート・ロードTottenham Court Rd.駅」に行った。この地下鉄も"the Tube" という愛称があるように、チューブに似た形のトンネルが掘られていて、そこに殆どぎりぎりの大きさの電車が運行されるという、低建設費による合理的で機能的な運営がなされている。
地下鉄駅の近くにも小奇麗な「ソーホー・スクエアSoho Square」があって、そこで我々は「大英博物館」開館までの時間つぶしの爽やかな一時を過ごすことができた。

大英博物館に見る海外渡来の「国富」

世界最大級の博物館とされる「大英博物館」には、エジプト、メソポタミア、ローマ、ギリシャ、更に、ヨーロッパの各地からアジア、アフリカまで、世界中から貴重な歴史遺産が集められている。産業革命によって生産基盤を強化させたイギリスの「国富」は、当然、国内の市場活動を通して蓄積された部分も大きいのだろうが、こうして見ると「イギリスの国富は海外からもたらされた」という感が強くしてくる。更に、「国富」の中には、海外交易の成果としてばかりではなくて、戦利品として分捕ってきたものも多く含まれているとのことで、中には原在地の国から返還を求められているものもあるそうだ。

エジプト文字解読のきっかけになったと言われる石碑「ロゼッタ・ストーン」は、大英博物館の人気展示品の一つになっている。「ストーン」と言うと“石ころ”のような感じがするが、縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cmで重量760kgだから、ちょっとした“岩”である。上段、中段、下段と3層に分かれて異なる文字が記されていて、一番上がヒエログリフ(象形文字)、2段目がデモティク(民衆文字)、一番下がギリシア文字なのだそうだ。これが、エジプト文字の謎の解明に役立ったことから、英語では、「ロゼッタ・ストーン」が隠喩として使われ、「解読すること/翻訳/難問」などの意味を持ったり、「遺伝子学のロゼッタ・ストーン」といったように「重大な鍵であるもの」の隠喩としても使われるのだとか。ナポレオンがエジプトに遠征したときに、ナイル川の河口でのロゼッタという町の近くで発見された(1799年)のだそうだが、なぜかナポレオンの故国フランスのルーブル博物館ではなくイギリスの大英博物館に展示されている。イギリス軍が、石が発見された数年後にカイロへ侵攻してきて圧力をかけ(1801年)、その後、フランスとイギリスの間で渡す渡さないの押し問答が繰り広げられた結果イギリスの手に渡ったものらしい。気の毒に、当時のエジプト政府も所有権は主張したと思うのだが無視されてしまったのだろう。19世紀初頭における、英仏の「国富」調達をめざしての海外での跳梁ぶりがロゼッタ・ストーンの向こう側にも見えるような気がする。

王室御用達品に見る「用の美


「大英博物館」を気ぜわしく駆け回った我々は、タクシーに乗り、「ウェッジウッド」のショップに向かった。
ウェッジウッド(Wedgwood & Corporation Limited)社は世界最大の陶磁器メーカーの一つで、ジョサイア・ウェッジウッドなる人物によってによって1759年に設立されたのだそうだ。「陶磁器」と言えば英語で"China"とされるように、2000年の長きにわたって中国の陶磁器が世界のやきもの文化の源流であり“本家”なのだろう。日本でも有田焼が始まったのは1610年代からだそうだからと、「ウェッジウッド」の“歴史に感銘”というわけにはいかない。
しかし、日本の“皇室御用達品”と同じように、シャーロット王妃(ジョージ3世の妻)に納められ、「女王の陶器Queen's Ware」という名称の使用が1765年に許可されてから、「ウェッジウッド」は“王室御用達品”のブランド価値を確保したようだ。色彩の世界でも「ウェッジウッドブルー」という色があり「英王室で用いられるロイヤルセラミックスとして英国の美術陶器を代表するウェッジウッドの陶器の青を表す色名」とされている。
実際に、ショップ内に陳列されている高級食器類を見て回ると、創業者のジョサイア・ウェッジウッドが開発して好評を博したという緑色の釉薬を用いた陶器やエナメルを用いたクリーム色の陶器からの“進化”の過程も垣間見られ見る目を楽しませてくれる。後で知ったことだが、種の起源で有名なダーウィンはジョサイアの孫なのだそうだ。道理で“進化”しているはずだ。
ウェッジウッドの陶磁器は「用と美の極み」と称えられているそうだ。これは日本の茶道具でも重視されている「用の美」と一脈相通じていて、単なる造形美ではなくて「実際に用いられる中で引き出される美しさ」と「無駄のなさ」が評価されたものなのだろう。私自身がロンドンの観光スポット巡回を通してそこはかとなく感じていたイギリス文化の「節度」と「機能美」を、ここでも“王室御用達品”が実感させてくれた。


紳士の街に
商魂の逞しさを見た


「ウェッジウッド」から
次は歩いて「フォートナム・アンド・メイソン(Fortnum & Mason)」へ。18世紀のはじめ、アン女王の宮殿で蝋燭(ロウソク)を取り替えることを仕事とするしていたウィリアム・フォートナムという男がいて、彼は宮殿で燃え残った蝋燭を売って多少の財産を溜め込んでいた。そして、住んでいた家の家主ヒュー・メイソンと相談して始めた食料品店がこの店の始めなのだそうだ。いかに王室の“華燭”とはいえ、その燃え残りが売れたということは、当時の蝋燭の供給量がよほど限られていたということなのだろう。蝋燭の需給を見込んで財を成し、これを“燭食”転換させて、開業後300年も続く食料品店の開店と経営を成功させたフォートナム&メイソンには商魂逞しいものが感じられる。その商魂を受け継いだ末裔たちも商売上手だったらしく、19世紀初頭のナポレオン戦争の頃、戦場に出た将校たちは、その味覚を満足させるために「フォートナム・アンド・メイソン」に食料品を注文したのだそうだ。そして全盛期のイギリスに君臨したヴィクトリア女王御用達の店となったというから大したものだ。王室の“公燭”をくすねて商売をしていた立場から王室に“公食”を提供する立場に転換したわけなのだから。ヴィクトリア女王御用達となってから、我先にとばかりにこの「フォートナム・アンド・メイソン」を訪れて食料品を求めるようになったという当時の上流階級の人々の真似をして、我々も我先にとばかりにギフトを物色し、立方体の缶入り紅茶「アールグレイ (Earl Grey)」5缶が私のバッグに収められることとなった。

フランス人遺恨のウォータールー」

「フォートナム・アンド・メイソン」を出てから、再び歩いて、ピカディリーサーカスにある中華料理店に行って鴨飯の昼食をとった私たちは、タクシーでホテルに戻りそこで呼んだタクシーに大きな荷物を積み込んで「ウォータールー(Waterloo)駅」に向かった。いくら世界史音痴の私でも「ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)」という名前ぐらいは知っていた。しかし、フランスに渡るために私たちが乗る国際高速列車「ユーロスター (Eurostar)」の起点がこのウォータールー駅だったとは知らなかった。「ワーテルローの戦い」は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いであり、これを最後に歴史の舞台から身を引いたナポレオンの見事な敗戦振りから「完膚なきまでにやぶれた惨敗」の喩えにまでなっている程だから、フランスにとって「ウォータールー」は忌まわしい名前に違いない。実際に、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもウォータールー駅になって以来、フランス側が何回となく駅名の変更を求めたというが無理もない。
因みに、「ユーロスター」は、イギリス、フランス、ベルギー各国内の高速路線を使用して、ロンドンとリール、パリおよびブリュッセルを最高300km/hで結ぶ国際高速列車。ロンドン−パリ間の所要時間は、ドーバー海峡を渡ってパリ北駅まで3時間程度。
「星」に、フランス語の“エトワールEtoile”が使われていず、
フランス人が嫌うと言われる英語の“スターStar”が使われているところを見ると、「ユーロスター」運行の構想には、フランス側の便益の方がよほど大きかったものと考えられる。だからこそ、フランス人にとって忌まわしい「ウォータールー駅」を起点とすることも肯んざるを得なかったのではないだろうか。

「ユーロスター」でユーロ圏へ

「ユーロスター」は、日本式の駄洒落によると、通貨の「ユーロ」圏(フランスとベルギー)と「スター」リング圏(イギリス)の間を結ぶ鉄道でもある。この「スターリング」は、"Pound sterling"で「ポンド」の別名だが、ある種の鋳造貨幣に小さな“星”印がつけられていたことから古英語の「星のついたもの」という意味のあるこの言葉でイングランドの金貨、銀貨を呼ぶようになったのだそうだから、日本式の駄洒落もまんざらっ捨てたものではない。
いずれにしても私たちは、「ユーロスター」に乗り込んで、短いながらも充実した滞在を楽しませてくれた「スター」リング・ポンドの世界に別れを告げて、「ユーロ」圏入りすることになった。


いざ“入るど”フランス

農業国”フランスの”土の匂い”

いつの間にか、我々の乗った「ユーロスター」はドーバー海峡を越えていたらしい。「えっ、すると、もうここはフランス!?」と思ったのだが、窓外に展開する風景は広大な畑に次ぐ畑。たまに、牧場のようなものは見えるが、勝手に思い描いていた“おフランス”のイメージとは程遠い景色が延々として続く。考えてみれば、どこの国でも特に見所のない農業地帯はあって当たり前なのだが、第一印象というのは恐ろしいもので、単細胞の私の頭の中には「フランスは農業国なのだ」というイメージがすり込まれてしまって、その後のフランス滞在期間中を通して、この時に感じ取った“土の匂い”を吹き消すことができなかった。

フランスの首都圏”イル・ド・フランス”

フランスの人口は6,200万人だから日本の約半分。一方、面積は55万kuで日本の約1.5倍だから、人口密度は日本の約1/3になる。しかし、その人口のうち、1,150万人超が首都パリを中心として半径100キロに広がる地域「イル・ド・フランス(Ile-de-France)」に集中している。フランスの首都圏なのだが、約人口1,000万人が集中しているパリ市の郊外部こそパリ市のベッドダウンとして機能しているが、「イル・ド・フランス」の周辺部は“土の匂い”の漂うフランス有数の穀倉地帯や森林地帯になっているのだそうだ。
なお、ここで「島」という意味のある“「イル(Ile)”」が用いられているのは、この地域がセーヌ川をはじめ、オワーズ川、マルヌ川などの川によって囲まれていて、島のような地形になっているかららしい。臨海地帯を中心に発展してきた日本の首都圏と違って、内陸部に首都圏「イル・ド・フランス」が発展してきたのには河川を利用した水運が大きく寄与し、フランス各地と「島」の間で船による物資の集散が行われたからだろう。河に浮かぶ船の絵がパリ市の紋章になっていることが、フランス首都圏生成の経緯を物語っているようだ。

更にパリの中のパリ「大パリ」へ

さて、私たちの「ユーロスター」が着いたのは「パリ北駅」。ロンドンに「ロンドン駅」がないのと同様に、パリにも「パリ駅」という駅がない。事前に水口から受けていたレクチャーによると、その昔パリの街の周りをぐるりと取り巻いて郊外と街を隔てていた壁の跡地に「ぺリフェリック」と呼ばれている環状高速道路ができていて、その環状線内の300万人が住む周囲30kmの区域を「大パリ」と呼ぶのだそうだ。
フランス国有鉄道(SNCF: Societe Nationale des Chemins de fer Francais)の駅は、「大パリ」の周辺部、つまり、「ぺリフェリック」の近傍にあって、SNCFが運行するローカル列車や高速列車(TGV:Train a Grande Vitesse)などのターミナル駅の機能を果たしている。因みに、地図で「パリ北駅」のすぐ近くに「パリ東駅」があるので変だと思ったのだが、この駅名は、「パリの東側にある駅」ではなくて、「パリより東へ向かう列車が発着」するから「東駅」なのだそうだ。実際に、同じく「大パリ」には、「パリ東駅」よりもっと東に「リヨン駅」があるが、ここも「パリからリヨンへ向かう鉄道の起点」という意味であって、「リヨン市にはリヨン駅という名の駅がない」というのだから聊か分かり難い。

ICT(情報通信技術)先進国であった

「パリ北駅」で我々はタクシーを拾って水口宅に向かった。「ぺリフェリック」を東京の山手線に例えるなら、「中野駅」周辺に当たるのかもしれない。ロンドンでもそうだったが、ありがたいことにタクシーの運転手も決済用端末機を携帯しているので、PIN(Personal Identity Number:個人識別番号)コードさえ入力すれば、おおよそのところでカードによる支払いができる。ロンドンでは時折見かけた公衆電話が全く見受けられないのも、携帯電話の普及振りを物語るものであろう。また、第2世代の頃からSIM(Subscriber Identity Module Card)カードと携帯端末の組み合わせが自由にできる(日本に例えて言えば、東芝製でもどこ製の端末でもドコモのSIMカードで使え、ドコモ、au、ソフトバンクのSIMカードを同じ東芝製の端末で使い分けることができる)ので便利だ。 馬鹿の一つ覚えで、「フランスは、国営電話時代に“ミニテル”というビデオテックス専用の情報端末が配布されたために逆にインターネットがらみのIT(情報技術)の活用が遅れた」と高をくくっていた。しかし、非IT式のカードによる決済さえなかなか普及せず、携帯電話が第3世代の時代になっても、SIMカードを端末と分けて使用することができない(例えば、ある端末はドコモ限定のものであり、そこに組み込まれているSIMカードを取り外して、auやソフトバンク用の端末に挿し込んで使うことができない)日本に比べるとICT(情報通信技術)の活用は遥かに進んでいるのだと現地で痛感させられた。

パリの初夜は前後不覚

パリのアジトとして使わせてもらうことになった水口の家は、「大パリ」西北部のちょいと外にある。「ぺリフェリック」を東京の山手線に見立てるなら、「中野駅」周辺に当たるのかもしれない。到着するや否や、私たちは旅装を解いてキッチンに入り、水口が予め買い揃えておいてくれたソーセージやサーモン、チーズなどを使って夕食の準備にかかった。今日のシェフは山本だが、その「これだけあれば充分だな」という独り言に不吉な予感を感じる。山本といえば、“健康オタク”の異名があるくらい体に気を配っていて、驚くくらい少食なのだ。案の定、大食漢の私には充分であるはずもなく、固体の不足をブランディ、ビール、それに焼酎の液体で補うこととなった。そこに来て、更に“大宴会”が盛り上がってくるうちに、旅の疲れも出てきたのだろうか、パリの初夜は前後不覚ということになってしまった。
翌朝、二日酔いの中で目が覚めて、「ここはどこ?私は誰?」と自問してみると、自分がなんとパンツ一枚で水口のベッドに寝ているのに気がついた。どうやら、朦朧としたまま私の寝所としてあてがわれていた客室を出てトイレにたち、そのまま“方向音痴”の本領を発揮して水口の寝室に迷いこむやベッドに倒れこんで前後不覚の続きをしてしまっていたらしい。「あれっ」と驚きの声を発する私。しかし、その声で目覚めた水口の驚きようもなかった。「な、なんだ、お前は!」。後刻、PCの入力テストをしている水口の画面を覗き込んだところ、「愛人を抱こうと思ったら男だった」と書いてあった。
(2007/8/28)

フランス観光スポットめぐり
Part1

凱旋門はパリのスターなのだ
私が二日酔いでモヤモヤしているうちに、三人は揃ってフランスパンの仕入れに行ってきてくれたようだ。そのお詫びのしるしにとばかりに、今朝は私がシェフになってハムエッグを作って朝食に供した。そして朝食後しばらくゆっくりしてから10:30a.m.水口のマイカーでパリ市内観光に出かけた。
その名はかつて知ったる「ブローニュの森」は水口宅から程近いところにある。木立も美しい広大な森林公園だが、クラシック三冠馬・ディープインパクトが凱旋門賞レースに出場したことで日本でも有名になった
ロンシャン競馬場や毎年全仏オープンが開催されるテニス場「ローラン・ギャロス」もここにあるのだそうだ
水口からそんなこんなのガイドを受けながら、車窓の移り行くパリ市街の景色にキョロキョロしているうちに、アワー・カーは「シャルル・ド・ゴール広場(エトワール広場)」にタイヤを踏み入れてきた。そして降り立ってみれば、目の前に高さ50m幅45m程の白亜の「凱旋門」が青空を背に聳えていた。この凱旋門を中心に、「シャンゼリゼ大通り」を始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上「星=etoile」のように見えるのが、この広場の別名「エトワール広場(星の広場)」の由来らしい。

「星の広場」の中央に立つ「凱旋門」は、やはりパリのスターなのだ。ここから見通せるシャンゼリゼ大通りの路側にも、スターを訪ねる観光客を載せてきた2階建て観光バスが駐車しているのが見えた。

♪オー・シャンゼリゼ“土の匂い”


プラタナスやマロニエに縁取られた「シャンゼリゼ大通り」は、左右に瀟洒な商店が並んでいて、中には、日本の「風月堂」がそこから名前を取ったというから名前を取ったという伝統的なカフェ「ル・フーケッツLe Fouguet's」も凱旋門のそばにある(下左)。“花の都パリ”の目抜き通りで文化の香りが高いところのはずなのだが、私の原始的な鼻は、それでもそこはかとなく漂ってくる“土の匂い”を感じとってしまう。17世紀初めにマリー王妃のための遊歩道として整備され、ギリシャ神話にちなんで「楽園の野(シャンゼリゼ)」と呼ばれるようになったが、それまでこの土地は野原と泥地であったらしい。この“土の匂い”は、かつての「野」の面影が微かに伝わってくるせいなのかもしれない。

ところで、「オー・シャンゼリゼ」の「オー」は、てっきり感動詞「おお」だと思っていたのだが、実はそうではないらしい。フランス語では「Aux Champs-Elysees」となっていて、「オー」の部分は「シャンゼリゼ大通り」を意味する「Les Champs-Elysees」の冠詞「Les」と場所を表す前置詞「a」がリエゾンして「Aux」になったものだから、「オー・シャンゼリゼ」を日本語に訳せば「シャンゼリゼには」となるのだそうだ。歌詞には、♪いつも何か素敵なことがあなたを待つよシャンゼリゼ♪とあるが、“オー・シャンゼリゼ”素敵なことばかりでなく、通りの両サイドに全体として調和を保ちながらビルが建ち並んでいて、オフィスビル、ホテル、更にはマンションとして使われているようだ。特に、パリ市内では一戸建て住宅を建てることが許されていないので、どんなお金持ちでもコンドミニアム形式の共同住宅に住まなければならないのだそうだ。このように徹底して土地の有効利用が進められているのは、土地所有関係を基盤とする封建主義経済で強大な国家を築き上げてきたフランスらしさの名残を示すものなのかもしれない。

“パリジェンヌ”に出会えないよ、オー・シャンゼリゼ


文化の薫り高いシャンゼリゼ通りを歩いていた文化的な素養を欠く私が♪街を歩く心軽く誰かに会えるこの道で…あなたを待つよシャンゼリゼ♪と鼻歌を歌いながら、密かに待っていたのはパリジェンヌとの出会いであった。しかし、かつてフランスの保護領(植民地?)の中近東系やアフリカ系と思しき女性には繁く行き交うものの、“パリジェンヌ”らしきものが一向に姿を現さない。「パリジェンヌってのはパリにはいないのかね?」と山本にこぼすと、「お前にとって、“パリジェンヌ”とはどのようなイメージなんだい?」と至極当然な逆質問が返ってきた。そこで、小柄で「小妖精」とも呼ばれ、「キュート」という言葉そのものの感があった往年のフランス女優「フランソワーズ・アルヌール」の名を例として出すと映画通の山本はすぐに分かってくれたが、今時の若者はフランソワーズ・アルヌールの後に出たブリジット・バルドー(BB:ベベ)の名前だって知らないだろう。ロンドンで“英国紳士”、そして、今ここで“パリジェンヌ”が見かけられないのは、東京の街角で“芸者”の姿を見かけにくいのと同じことなのかもしれない。ところで、帰国してから改めて「フランソワーズ・アルヌール」について調べてみたところ、実は、仏領時代のアンジェリアの出身であることが分かった。少年時代に見た映画から、フランソワーズ・アルヌールを「小柄でお茶目で可愛らしい生粋のパリっ子」ときめつけ、そしてそれを勝手に“パリジェンヌ”のモデルとしてイメージしていた我が身のオメデタサを改めて知らされてしまった。

「仏の国」は「法の国」

「小人閑居して不全をなす」というが、まさにその通りで、ボケッと銀ブラならぬ“シャン・ブラ”をしていた私の頭に浮かんできたのは、「仏教の国でもないのになぜここが“仏”国なんだろう」という極めてバカバカしい疑問であった。当然「フランス」に「仏蘭西」と当て字するところから来ているということは知っていたのだが、「花の都パリ」と「仏」が余りに似つかわしくなくて違和感を感じてしまったからだ。そして、シャンゼリゼで是行き交うフランス人達の顔を見ながら、「この人達は、まさか自国が仏呼ばわりされているとは知るまい。これがほんとの“知らぬが仏”だ」などと思っていると可笑しくて噴出しそうになってしまった。因みに中国語では、同じく当て字の「法蘭西」で「法国」と略称されるらしい。法・政治思想史上の大古典として著名な「法の精神」を輩出したフランスとしては、「仏の国」と呼ばれるのには仏頂面だが、「法の国」と呼ばれるのは法悦至極なのだろう。しかし、漢字しか使えない中国語に対して、仮名も使える日本語はとても便利だと思う。短く表現したい場合は、「南仏」、「渡仏」、「仏和/和仏辞典」などのように漢字「仏」を使い、あまり食べたり飲んだりしたい気が起こらない「仏料理」や「仏酒」には、それぞれ「フランス料理」、「フランス・ワイン」とカタカナを用いるように、マイペースで使い分けすることができるからだ。

歴史あるコンコルド広場にて

せっかく「花の都パリ」に来ていながら“心ここにあらず”の“上の空状態”は、シャンゼリゼ通りから「コンコルド広場」に移った後も続いていた。ここには細長い記念碑(オベリスク)が聳えていて、美しい噴水や街灯などがあったのだが、“上の空状態”で向けたカメラはオペミスで、コンコルドのコの字のイメージも残さぬひどい画像になってしまった。ここ「コンコルド広場」は、当初「ルイ15世広場」と呼ばれていてルイ15世の騎馬像が設置されていたが、フランス革命の勃発により、その騎馬像も取り払われ名前も「革命広場」となって、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑もここのギロチン台で行われたのだそうだ。現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれるようになってからでも180年余も経つ“歴史がある広場”だとのことだが、歴史音痴の私には、そのような史実は“豚に真珠”。むしろ、かつて“上の空”を飛んでいた英仏共同開発による超音速旅客機「コンコルド」とこの広場の名称との関係について頭をめぐらせていた。しかし、これも“下手な考え休むに似たり”で、両者の間には一切関係がなく、「協調」とか「調和」という意味をもつフランス語の普通名詞"concorde"(英語では"concord")が単に使われているだけらしいということが分かった。“上の空”の方の「コンコルド」は、技術的な信頼性や運行コストの問題から、航空会社の経営と「協調・調和」がとれず姿を消すことになったが、「コンコルド広場」で食べたアイスクリームは、早くも旅行疲れに陥りかけていた私の心身と見事に「協調・調和」し私を“上の空状態”から脱却させてくれた。

オペラ座に見る進取の気象

我々が次に向かった「オペラ座」は、転々として変わってきたパリの王立(国立)オペラ劇団が公演する劇場としては13代目で、設計者の名から「ガルニエ宮」とも呼ばれているそうだ。ナポレオン3世の治政下、パリ大改造計画の一環として、まず1858年にオペラ広場ができ、ここから7本の道路が放射状に完成されてから、ナポレオン3世がここに、貴族や裕福な階級の社交場としてのオペラ座を計画したのだという。
劇場としては世界最大級と言われるこの建物を建てた当時のフランスの建築技術のレベルの高さもさることながら、先進的で大規模な都市計画が今から150年も前に行われていたという“歴史には感銘”せざるを得ない。
また、オペラ座建築に当たっては、現在では珍しいものではないが、当時としては斬新な設計コンペ(公開設計競技)が行われ、それまで無名であった建築家シャルル・ガルニエの設計が選ばれている。こうした進取の気象があったればこそ“花の都パリ”のインフラが整ってきたのだろう。当時メイン道路として建設されたものと考えられるオペラ通りは、行き交う車で賑わっていた。

日仏特産物のコラボ「鴨うどん」


オペラ座からほど遠からぬ所に、駅名がナポレオンによるエジプト遠征の勝利を記念して名付けられたというメトロ(地下鉄)「ピラミッド駅」がある。この駅付近は日本人街となっていて、ささやかながら日本料理店もの機を並べている。我々が入ったのは「国虎屋」で、衆議一決して選んだのは“鴨うどん”だった。パリに来て“うどん”を食べることになろうとは思ってもいなかったが、麺の歯ごたえもうどんつゆの仕立ても讃岐うどん風でなかなかのものであった。また、“鴨”の“フォア・グラ”(グラgras/肥大した+フォアfoie/肝臓)がフランスの特産品ならば“鴨”も当然フランス特産の筈で、実際にロンドンの中華料理店で食した“鴨飯”の“鴨”より遥かに美味であった。「日本特産の“讃岐うどん”とフランス特産の“鴨”がコラボする“鴨うどん”は相乗効果も加わって美味が倍加する筈」というのは、我々の俄か作りのコジツケ議論であったが、「フランス鴨」が日本の食品や料理の世界で珍重されていることは事実のようだ。但し、フォア・グラがらみで用いられる「鴨」とは、実は野生のマガモを家禽化した「アヒル」のことなのだが、フランス料理用語としては野生のカモと家禽のアヒルを訳し分けない慣行があるので「鴨」で通してきているのだそうだ。因みに、「鴨」は和英辞典によると"duck"だが、今度は英和辞典で"duck"を引くと真っ先に「アヒル」が出てくる。ディズニーの「ドナルド・ダック」も「アヒル」だし、「北京ダック」に使われているのも実は「アヒル」だそうだ。鶏肉(かしわ)を使って「鴨南蛮」と称するのと違って、「アヒル」をもって「鴨」となすのは決して“偽装”にはならないようだ。

さて、昼食を済ませた我々は、「ピラミッド駅」近辺の駐車場に戻ってから、セーヌ川に浮かぶ川中島「シテ島」にある「ノートルダム大聖堂Cathedrale Notre-Dame de Paris」に車を向けた。このローマ・カトリック教会の大聖堂は、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されたのだそうだ。なお「ノートルダム」とはフランス語で「我らが貴婦人」つまり「聖母マリア」を意味するものであるから、固有名詞ではなくて世界中にある“親戚筋の”「聖母信仰の教会」に共通して冠せられる普通名詞なのだそうだ。

ノートルダム大聖堂にて

中世の建築美に感銘・感動・感謝の落涙


通常は、余分な先入観を持たないように、予めガイドブックを精読することなく旅行に出かけるのだが、今回だけは“迫持ちの原理"に関する記述から目を離すことことができなかった。単細胞の私は、石造建築もコンクリート建築も同じようなものだと思い込んでいた。だから、分家筋に当たるカナダ・モントリオールのノートルダム大聖堂を訪れた時だって、そのデッカサに驚くことはなく、むしろ、「石造りだから簡単にできるのさ」などと高をくくっていた。そんな無知な私の目から鱗を取ってくれたのが、紅山雪夫氏が特にパリの「ノートルダム大聖堂」について書いた『中世の建築美に迫る』という記事の中の「“石造りなのに”広々とした建築空間が生み出されている」という一節であった。私の干からびかけた脳漿は、これに続く「楔形の石をアーチ状に積み上げると、“石と石が互いに押し合って”安定する。その上に重い石を載せても、重みによって“押し合う”力が強まり一層安定する。これが“迫持ちの原理"だ」とする一節を読んで大きな衝撃を受けたのだ。コンクリートやその強度を保つ鉄筋や鉄骨などの建築資材のなかった中世の石造建築で、“広々とした建築空間”が実現できているのは、広大な天井やそれを支える柱で“石と石が互いに押し合っている”からなのだと改めて知った時、私の中の“石造建築技術”は一挙に崇敬の対象となった。だから、本家「ノートルダム大聖堂」の前に立った時には、まさに歴史に“感銘”。それどころか“感動”となぜか“感謝”まで含めた“三感の思い”が一気に押し寄せてきて、大聖堂の内部に入る時にはほとんど落涙の状態であった。

無名な石工たちの歴史的な偉業

啓蒙してくれた紅山雪夫“師”のお陰で、私は以前の“木(石)を見ず森(建造物全体)のみ見ていた”自分から脱して、「ノートルダム大聖堂」の天井ばかりでなく柱一本一本を構成する石たちとその“押し合う”姿をいとおしみながら観賞することができた。そうすると不思議なことに、1163年に着工(完成は1320年)された当時ここで、苦心惨憺しながら石を積み上げていた人々のイメージが目の前に見えるような気がしてきた。まさに「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」で、感銘を誘う歴史的な建造物が「石を積む人、削る人、そのまた石材を掘った人」などなど、歴史には名を残さぬまま逝った人々の血と汗の結晶であるということが臨場感をもって伝わってくる。ところで、紅山師から習った「迫持ち」は、インターネットを検索しても「石材などを積み上げてアーチ状を作ること」という解説くらいしか得られない。ところが“我が師”は、「アーチ」にとどまらず、これを一回転させたものが「ドーム」で、アーチをずっと伸ばしたものが「ヴォールト」、更にこのヴォールトを互いに直角になるように組み合わせたのが「交差ヴォールト」で、「みなアーチと同じく迫持ちの原理により安定している」と見事な解説を加えておられる。「天井のすごく高い所に8本の線が交差したものが、ずらーと並んでいるのが分かる」という親切なガイドに“我が師の恩”の恩を感じながら、「ノートルダム大聖堂」の天井に我が目で見つけた「交差ヴォールト」を夢中になってカメラを向けた。ともすればドサーッと崩れがちな迫持ちを、どうしてあのような高い所に組み上げることができたのだろうか!“石造建築技術”に対する崇敬の念の中に、歴史的な偉業を成し遂げた無名の石工たちの“技能”に対する崇敬の念が割り込んできた。

「バラ窓」を裏で支える「バットレス」

我が師は、そのガイドブックの記事の中で、「ノートルダム大聖堂」を“ゴシック式大聖殿の精華”と称えておられる。一時代前のロマネスク式では半円形の円頭アーチが使われていたため、柱間距離によって高さが決まってくる。従って、円頭アーチを高くしようとすると柱間距離を長くせざるを得ず、それだけ迫持ちが崩落しやすくなる。しかし、ゴシック式では尖塔アーチなので、柱間距離に関係なく高さを決めることができる。従って、ゴシック式に進化するとともに、高さを競い合う建築が随所で行われるようになったのだそうだ。建築物自体の高さが高くなれば窓もそれだけ高く大きくすることができる道理で、ロマネスク式の小さい窓では映えなかったステンドグラスも多用されるようになったのだという。“12世紀ゴシック建築の最高峰”とも称されるこの「ノートルダム大聖堂」には巨大な円形の「バラ窓」があり、見事なステンドグラスが輝きを放っていた。また、窓の面積が激増することに伴う壁面の強度低下を補うために、ゴシック建築では、壁の外側に石造の“つっかい棒”ともいうべき「バットレス」が使われるという“裏事情”まで紅山雪夫氏は啓蒙してくださった。「バラ窓」の光の陰にも「バットレス」という陰の支えが必要だったのだ。通常、ガイドブックで提供されるのは雑学・雑識の類ばかりだが、我が師(勝手ながら私淑してしまったのだからこう表現するしかない)の場合には、広く「物の見方・考え方」までガイドしていただいたような気がしている。


ナポレオンは傷病兵だった?


ノートルダム大聖堂から程近いところにある「アンヴァリッド」は、「オテル・デ・ザンヴァリッド(l'Hotel des Invalides)の略称。“アンヴァリッド”は英語では"invalid"で「傷病兵」の意味。17世紀の国王ルイ14世の時代、ヨーロッパ各国と絶えず戦争を繰り広げていた領土を拡大していったフランスが、一方で、度重なる戦争で増えてきた増えてきた傷病兵を看護するためにこの施設が建てられたのだそうだ。現在も100人ほどの戦傷病兵が暮らしているという旧・軍病院にしては、派手な金色のドームがあるのが不自然に見えたが、これは兵士の教会とは別に建てられたドーム教会だとのこと。「ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩がアンヴァリッドにある」と聞いて、これも奇妙な取り合わせだと思っていたのだが、「余は、余のかくも愛せしフランス国民に囲まれ、セーヌ河畔に眠らんことを願う」というナポレオンの遺言を受けて「アンヴァリッドと同じ場所にあるドーム教会」が墓所として選ばれたというのが本当のところのようだ。
1789年7月14日、政治に不満をもつ民衆が、このアンヴァリッドを襲撃して武器を奪った後に、バスティーユ監獄を襲って弾薬を手に入れ、これがフランス革命の端緒になったのだそうだ。7月14日は日本では「パリ祭」が通称となっているが、これは、バスティーユ襲撃を背景としたルネ監督の映画の邦題が「巴里祭」であったことによるものらしい。フランスでは、祝日「革命記念日」であり、フランス人に「パリ祭」と言っても通じないとのことであった。

“鉄の貴婦人”エッフェル塔

フランス革命100周年を記念して1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のための目玉として建造された「エッフェル塔」は、フランス革命の起点となったアンヴァリッドに近いセーヌ河畔にある。この建造のための「建築コンクール」に入賞したのが、ギュスタフ・エッフェル社長を筆頭とするエッフェル社の技術者たちであったことからこの名がつけられたのだそうだが、エッフェルの発案によって、18,038個にものぼる練鉄の部品を工場で作りそれを建設現場で組み立てるという、いわばプレハブ工法が採用されたため、工事期間が大幅に短縮されて万国博覧会に間に合い、しかも工事期間中一人の死者も出さなかったというから立派なものだ。

「鉄の貴婦人」の異名を持つこのエッフェル塔は鉄骨むき出しで、石造りの建築が芸術とされていた当時は、「芸術にはほど遠く無用で醜悪なもの」と見る向きも多かったようだ。しかし、それまで世界最大の建造物とされていたアメリカのワシントン記念塔の高さ161mの2倍近い高さの301mに達するエッフェル塔は、パリ市内のどこにいても否が応でも目に入ってしまうので「エッフェル塔を見たくない者はエッフェル塔にくるしかない」とフランス人流のエスプリを交えて言われたのだとか。リンドバーグの「翼よ、あれがパリの灯だ」という名言の「パリの灯」も、1925年から1936年まで自動車メーカーのシトロエンがエッフェル塔に掲げていた巨大な電飾広告の事だと言われているそうだ。

エレベーターは3層構造になっていて、一番下の地階から1階まで行くガラス張りのエレベーターは、広がっている塔の脚の部分の斜面に沿ってに斜めに昇降している。「上下に昇降するのがエレベーター、斜めに昇降するのはエスカレーター」という定義は訂正する必要があるかもしれない。観光客が多くて、その“エスカレーター式エレベーター”に乗るのに時間がかかりそうだし、私たちは“エッフェル塔を見たくない者”でもないので“登頂”をあきらめて、“鉄の貴婦人”には失礼と思いながら、地階のスカートの中から仰いで、強風除けと強度確保のための工夫が凝らされた鉄の骨組みをカメラに収めただけでその場を立ち去った(右下)。

♪セーヌ川、流れる岸辺♪♪上り下りの舟人は♪

エッフェル塔の真下近くのセーヌ川河畔に観光船の船付け場があって、私たちはそこで停泊して客待ちしていた「パリの花嫁(Vedettes de Paris)号」に乗ってセーヌ・クルージングに出かけた。街中を川が流れているところは仙台や東京とと同じだが、♪広瀬川、流れる岸辺♪ならぬセーヌ川の流れる岸辺には歴史的な建造物が建ち並んでいて、隅田川と同じ乗りで♪上り下りの舟人♪になった私たちの目を楽しませてくれた。
今真下にいたばかりのエッフェル塔も川面から見ると趣が違う。我々を乗せた「パリの花嫁号」は、先ずセーヌ川を上り、「ルーブル美術館」や「オルセー美術館」などを左右に見ながら、幾つかの橋をくぐって、「ノートルダム大聖堂」のある「シテ島」に遡っていく。「シテ島」は、セーヌ川の中州であり、パリはここから発達した町なのだそうだ。パリを中心とした首都圏「イル・ド・フランス」と「大パリ」の原点は、この“イル・ド・パリ”にあり、このセーヌ川を利用した水運が経済的基盤の形成に大きく寄与していたのだろう。
「セーヌはどぶ川」などと酷評する向きもいるが、「パリのセーヌ河岸」として世界遺産に登録されているところから見ても一定の清潔度は保たれているのだろう。実際に、釣り糸をたれているパリジャンの姿も何回か見かけたし、河畔で憩う市民も随所にいた。水運で寄与したこの川は、今やパリの重要な観光資源となるとともに、しっかりと市民生活の中に溶け込んでいるように見える。

心酔わせる“花の都パリ”の夜

エッフェル塔近くの船着場で下船してから、私たちはセーヌ川を渡って、エッフェル塔の対岸にある「トロカデルの丘」に立ち寄った。ここは若者たちに人気があるスポットと見えて、パフォーマンスをしたりカップルで身を寄せ合って語り合ったりしている若者たちで賑わっていた。
エッフェル塔ばかりでなく、「陸軍の士官学校Ecole Millitaire」や、先ほど訪れたてきた「アンヴァリッド」が一望できるこの丘で小休止してから我々は帰途につき、再び「凱旋門」のお目にかかりながら水口宅へと家路を急いだ。そして、近所のスーパーと酒屋に立ち寄って飲食物の仕入れをしてから、水口宅にいったん戻って、スーツケースから、この時のために持参してきていたジャケットやネクタイなどを取り出して、“最大限可能なベスト・ドレス”を着こんで精一杯のお洒落をしナイトクラブ「リド」に臨む準備をした。
クラブ「リド」はメトロの「シャルル・ド・ゴール・エトワール駅」からほど近いところにある。「エトワール」は「星」という意味だが、このように広場や駅(空港まで)にその名が冠せられているシャルル・ド・ゴールもフランス人にとって「スター」だったのだろう。
メトロの駅を出てみると、三度目にお目にかかった「凱旋門」もライトアップされた夜の装いになっていて、精一杯正装した私たちを迎えてくれた。
「シャンゼリゼ大通り」もすっかりと衣替えしていて、華やかでいて、どこか優雅さの漂う夜の“花の都パリ”が私たちの心を酔わせてくれた。

上品装い非上品なショーを楽しむ


シヤンゼリー通りにある“世界一有名な”ナイトクラブ「リドLido」は、7,500uの面積と1,150の座席を擁するパノラマホールでディナー・ショーを楽しむことができる。ショーの開始は9:30なので、まだ客の入りもまばらで、特に高額料金の“砂かぶり席”はガラガラの状態である。そんな中、ステージで前座の女性歌手が歌っているのだが、夜目遠目で見ても、私が勝手に“パリジェンヌ”の典型と見なしているフランソワーズ・アルヌールに似ては見えない。むしろ、色白でふくよかな体に黒のドレスをまとった姿はマリリン・モンローに近い。大学講師として講義をしていて、聞き手からの反応が乏しいことに対して空しい思いをいやというほどしたことがある私としては、この“夜目遠目マリリンモンロー”が一曲歌い終えるごとにたった一人で精一杯の拍手をして、「大丈夫、聴いている人はいるんだよ」という心のメッセージを贈ってあげた。
やがて、ディナーが運ばれてきた。鶏肉料理とイチジクをあしらった料理は、「これぞフランス料理!」といった上品な見栄えであった。精一杯正装してきた私たちはこれを精一杯上品を装って食したのだが、味の方もなかなか上品なものであった。しかし、いかんせん、多くの場合にそうであるように“上品”には“ボリューム不足”がつき物なのだと思い知らされるものでもあった。やはり、大食漢の私には“上品”なフランス料理が似合わない。
この「リド」という名前の由来は、1946年に開業した際に、ヴェニスの有名な海岸リドをイメージして内装が施されたことによるのだそうだ。その後、ベル・エポック(Belle Epoque:良き時代:19世紀末から1914年に第一次世界大戦が勃発するまでのパリが繁栄した華やかな時代)にキャバレーとして人気を博した後に、全面改装されるとともに、当時は世界に一つしかないナイトクラブに生まれ変わったのだとか。それとともに、ディナーショーでのレビューという新しいスタイルが導入されたのだが、これに協力したのがブルーベルBluebellという名の女性だったようだ。やがてステージで繰り広げられた華やかな踊りと歌のショーに、「リド・ボーイダンサーズ」とともに「ブルーベル・ガールズ」が登場してきたわけがこれで分かった。しかし、この「ブルーベル・ガールズ」を初めステージに登場してきた女性たちは長身ぞろいで、小柄なフランソワーズ・アルヌールが持っていたような“上品さ”に乏しい。勝手に期待していたくせに、「“世界一有名な”ナイトクラブにも“パリジェンヌ”はいなかった」と、勝手に落胆してしまった。
“女性・愛するパリ・インドの伝説・星の夢”の4部構成のショーの中には、男性芸人によるジャグリングなども含めた曲芸も織り込まれていた。以前に見たことのあるラスヴェガスのイルージョンに比べると、スケールの大きさでは劣るものの、その代わりに、いずれも嘘っぽさがない力技でなかなか見ごたえのあるものであった。しかし、同時に、いずれも“上品”な感じがするものではなく、パリの夜とは異質なものを感じざるを得なかった。
(2007/8/29)

ヴェルサイユ宮殿観光

首都を出奔、前首都に入る


フランス滞在三日目を迎えた我々は、フランスパンとハムエッグの朝食をとってから、パリを飛び出してヴェルサイユを訪れた。行政区分としては、「イヴリーヌ県」の中の「ヴェルサイユ郡」になるので、確かにパリ(一市単独で県を構成するコミューン、いわゆる、特別市)を飛び出すことにはなるのだが、パリの南西僅か約20km余でイル・ド・フランス地域圏の中央部にあるのだから、東京から横浜あたりに行く感覚に近い。1682にルイ14世が王政に反対する者で騒がしくなったパリからここに宮廷を移して以来1789年の大革命まで、ここがフランスの政治、文化、芸術の中心地だったのだそうだ。ここに建つ「ヴェルサイユ宮殿Chateau de Versailles」は、「朕は国家なり」と宣言し絶対王政を確立した“太陽王”ルイ14世が莫大な費用と半世紀の歳月を費やして建造した宮殿で、建物と庭園が世界文化遺産として登録されている。

ベルバラ物語第一話

このフランス絶対王政の最盛期の象徴とも言うべき「世界史上最高にして最大の宮殿」はまた、“世界史上最高にして最大”級の観光客誘致地らしく、私達が構内に入った時には、左右に長蛇の列ができていた。向かって左側の列は、建物の中にある入場券売り場に並ぶ列で、右側の方が、入場券を入手した人が今度は入場口に並んでいるようだった(下写真1段目右)。そこで、水口一人が左の列に並んで、山本と中沢と私が右の列に並んで、入場券が手に入ったらすぐ入場できるようにすることにした。ところが、建物の外に伸びて二重三重の輪ができている左側の列に比べて、右側の列は順調に入場口に吸い込まれていくために、私たち三人は入場口に近づいては最後尾に戻るということを繰り返す形になった。そうこうしているうちに、山本と中沢は何やら語り合ったらしく、私には断りなく、水口が待つ左側の列の方に去って行ってしまった。これが、私一人が置き去りにされたベルサイユ・バラバラ(略して“ベルバラ”)物語第一話の序章となった。

ベルサイユにいた“パリジェンヌ”

水口から手渡された入場券には、実は一番目の建物用と二番目の建物用と、もぎりの部分が二つ付いていたのだが、それを知らずにいた私は最初の建物に入った時点で異なれりとして、入場券をどこに保管したか失念してしまった。従って、二番目の建物への入場に当たって、他の3人が順調に改札を受けられたのに対して、私一人はポケットやバッグの中のあちこちを探さなければならない破目になってしまった。すると、あろうことか、「じゃ、ごゆっくり」と声をかけて、私一人を置き去りにして入場していこうとするではないか。そんな時に、もたもたしている私に、英語で「どうぞ入ってください」と声を掛けてくれた受付嬢がいた。一時は3人が戻ってくるまで館外で待っていることまで覚悟した私にとってはまさに地獄に仏。大体が親切な女性は美しく見えるものだが、見ると彼女は小柄で愛嬌たっぷり、往年のフランソワーズ・アルヌールを見たような気がした。こんなところにいたのかパリジェンヌ!…だが、私たちはパリを出奔して、ベルサイユに来ていたのだった。しかし、“このベルサイユ版パリジェンヌ”が機転を利かせてくれたお陰で、我々は“ベルバラ”にならずに済んだ。

巨匠”の失踪

水口と山本、中沢は銘々にビデオカメラを持参してきていた。水口と山本がナレーションを入れながら撮影しているのに対して、中沢は無言のまま撮影しているので、私たちは中沢を“無声映画の巨匠”、または、これを略して“巨匠”と呼んでいた。しかし、館内に人がごった返す中で、迷子にならないようお互いの存在を確認しながら進んでいたのだが、“巨匠”の芸術的な探求心はもだしがたく常に中沢が先頭を突き進む形になり、遂に我々の視界から消えてしまった。ひとしきり“創作”活動をし終えた“巨匠”は、ふと我に返って“唯我独存”の状態に気が付いて大いに慌てたらしい。そして、てっきり我々三人に先を越されたものと思って、我々の姿を求めて逆に前の方に急いでしまったようだ。実は、そのうちに戻ってくるものと思っていた我々との距離が逆に開いてしまったわけである。我々としてもこの“ベルバラ”物語第二話に対応することができず、「最悪の場合でも駐車場で会えるのだから大丈夫」と自分に言い聞かせながら、ただ中沢の身を案じているしかなかった。しかし、これは「案ずるより産むが易し」で、キョロキョロしながら人の流れを遡ってくる“巨匠”の姿が再び我々の眼に入ったのは数刻後のことであった。

こみ上げてくるアホらしさ

中沢“巨匠”が“創作”活動にのめりこんで我を忘れてしまったのも無理はなく、この「世界史上最高にして最大の宮殿」の内装や調度品は豪華絢爛たるものであり、特に随所にある天井画は圧巻であった(下写真2段目中・右&3段目左)。2階にある「鏡の間」(下写真3段目右)は、西の回廊全体を使った長さ73mの大広間で、クリスタルのシャンデリアや黄金の燭台が豪華さを演出しており、ここの天井にもルイ14世をたたえる絵画が全面的に描かれている(儀式や外国の賓客を謁見するために使われたようだが、時代が下って、第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印されたのもこの場所だそうだ)。また、「王の寝室」 と「王妃の寝室」があるのだが、その天蓋といい、装飾といい、シャンデリアといい、ベッドといいゴージャスそのもの。過ぎたるは及ばざるが如しで、ゴージャス過ぎては安眠できなかったのではなかったのだろうかと余計な心配をするとともに、贅の限りが尽くされたこの宮殿に対して、なんだか急にアホらしい思いがこみ上げてきた。この宮殿の建設が国家財政赤字に拍車をかけ、これが王権の衰退と更にフランス革命勃発の引き金になったというが当たり前じゃないか。“太陽王”とやらは一体どのような神経をしていたのだろうか。いや、ノー天気な“太陽王”神経を持っていたなどと考える方がおかしいのかもしれない。ああ、アホクサ!

強烈な「土の匂い」


このヴェルサイユ宮殿には放縦の限りが尽くされていて、節度というものが全く見られない。“義憤”を感じた私に漂ってきたのは強烈な「土の匂い」であった。絶対王政のもとに中央集権的な官僚機構や常備軍ができあがり、これに対して国王が絶対的な権力を振るったが、役人や軍人はもとより何らかの生産活動を行うものではなく、国家財政のうちの「歳出」行為を担うものに過ぎない。「歳入」の根源になるものは封建領主としての土地所有権にあり、それぞれの土地で土地所有権を持たない農民が「土」にまみれながら農耕や牧畜などの生産活動が行うからこそ封建領主「歳入」を確保することができるのだ。今、目の当たりにしている絢爛豪華な宮殿を建造するのにも巨額の「歳入」が充当・投入されたのだが、元はと言えば「土」から産み出された国富がここに濫用されたのに過ぎない。また、ルイ14世は軍制を整備し戦争によって領土を拡張した立役者ともされるが、その軍費に投入された「歳入」も所詮は「土」からもたらされたものであって、「朕は国家なり」などと戯言を言っている者は単にそれを「歳出」“させていただいた”だけなのだ(日本の政治家や官僚にももってほしいよ、この意識)。巨大な天井画を見上げて“勘違い国王”の暴挙に呆れながら、一方で、この“放縦な贅”の陰に“豊潤な税”の存在があるのを見てとり、それを生んだフランスの「土」が如何に広大で肥沃なものであったかということを改めて思い知らされた。

尾篭な話ながら

ここに居住していて「土の匂い」を感じ取ることができなかったルイ14世は嗅覚についても無神経だったようだ。ヴェルサイユ宮殿に王族用以外のトイレがなかったという史実からこのことが“邪推”できる。貴婦人たちの傘のように開いたドレスは庭園でそのまましゃがんで生理的な用を足すために考案されたのだそうで、その用足しがバラ園の隅などで行われたため「花を摘みに行く」という隠語が生まれたのだとか。舞踏会の参加者は携帯便器を持参していたし、清潔好きの者は陶製の携帯用便器を使っていたそうだが、携帯便器のインプットも結局は“鬼は外”で“お庭”にアウトプットされることになったので、「花摘み場」がいつの間にか「鼻つまみ場」になり、当時のヴェルサイユ宮殿は「土の匂い」どころか物凄い悪臭を漂わせていたようだ。因みに、当時の紳士淑女の服は月1回洗濯できれば良い方で、服にカビが生えているのは当たり前だったそうだ。また、風呂やシャワーも全く利用しなかったというから体臭もひどかったのだろう。香水を大量にふりかける習慣ができたのは、このような匂いをごまかす必要があったからのようだ。清潔好きな日本女性が「芳香を放つおフランス香水」なぞ有り難がって買い求める必要はさらさらないのだ。

フランス標準がなぜ地球標準なのか

このフランス絶対王政の象徴的建造物「ヴェルサイユ宮殿」で起居をともにしていたルイ14世をはじめとした王族とその臣下達の起居動作もまた、絶対王政下の日常生活の象徴、時には規範となるものとなった。そのため、「ヴェルサイユ宮殿」の中で生まれた様々まなルールやエチケット、マナーが実質的なDJS(:De Jure Standard:制定標準)となり、当時のフランス国民が従うべき「フランス標準」になったようだ。現在につながる洋食のテーブルマナーも、毎晩のようにヴェルサイユ宮殿で開かれていた王と貴族が出席する晩餐会に由来するものであり、これがフランス料理とともに世界中に広まって一緒のDJS:De Jure Standard:制定標準)になったようだ。「フランス標準こそグローバル・スタンダード(地球標準)なり」というような考え方が罷り通っていて、フランス料理風のテーブルマナーがありがたがられているが、元はと言えば、フランス絶対王政時代の化石のようなもの。フランス絶対王政を未だに支持しているのならともかく、そうでないのならフランス流テーブルマナーなんて、(尾篭な話のついでに言えば)糞食らえなのだ。“上品”なフランス料理が似合わない私は、内心でこのように“下品”な快哉を叫んだ。
“自然”と調和の”文化”遺産

宮殿内では“アホらしさ”や“義憤”まで感じた私であったが、大庭園へ出てみると、まるでフランス革命によって絶対王政による圧政から解放された当時のフランス国民であるかのような解放感を感じた。この大庭園も、815ha(東京ドームの173倍)の広大なものであり、「フランス式庭園の最高傑作」と呼ばれるくらい手の込んだ造作が加えられたものだから、当然巨額の「歳入」が充当されていて、当然「土の匂い」が漂っているはずだ。しかし、豊かな緑や色とりどりの花壇が目に入ると途端にコロリと気分が変わってしまうのだから私の“義憤”もいい加減なものだと思う。一方、自然が育む緑と花は、歴史や地理を超えて、同じく自然界の動物でもあるヒトに対して満遍なく癒しを与えてくれるものだということも確かだと思う。
庭内は、幾何学模様を主体とした設計で、宮殿正面の「水の前庭」から望む壮大なパノラマの遠景には、横に走る小運河と十文字に交差し地平線に向かって延びる大運河がある。私たちは、あまりの広大さに気圧されて徒歩で頑張るのはあきらめて、大小のトリアノン離宮などを結ぶプチトラン(Petit Train:ミニ電車)に乗ってラクチン散策を決め込むことにした。随所で彩を添える花々、「緑の絨毯」と呼ばれる散歩道、その傍らにあるほとんど森に近い並木や随所に配置された彫像たち、それらが泉や池、運河の水の光景と“調和”して実に見事だ。この庭園は宮殿とともに世界“文化”遺産として登録されているが、“調和”の精神を欠く宮殿の方は“文化”でもなんでもない。寧ろ、“自然”遺産であるかのような“調和”を感じさせてくれるこの大庭園の方こそ世界“文化”遺産の名に相応しいのではないかとも思った。

“清く正しく美しい”サクレ・クール寺院

「モンマルトル Montmartre」 はパリで一番高い丘で、セーヌ川をはさんで、南側の「モンパルナスMontparnasse」と相対峙しているように見える。私は、事前に「現場で描いている画家から絵を買う機会を作って欲しい」とリクエストしていたのだが、それに対して、「それじゃ、モンマルトルかモンパルナスがいいかな」と答えていた水口が、それを忘れないでいてくれた。そして、ヴェルサイユからの帰途にこの「モンマルトル」に立ち寄ってくれたのだった。モンマルトルの名は、『Mont des Martyrs(殉教者の丘)』が由来だそうで、水口は駐車スペースを探して車を転がしながら、この地に伝わる殉教者にまつわるおどろおどろしい話を聞かせてくれた。
モンマルトルは坂道だらけで、小さな道と階段が複雑にからみあい、しかも急勾配になっているので、ようやく麓の部分に見つけた駐車スペースに車をおいてから登坂する我々にとっては少々しんどいエクササイズになった。しかし、やがてすると、12世紀の完成で、パリで最も古いゴシック建築の教会の一つとされる「サンピエール寺院」と、そのすぐ隣りに「サクレ・クール寺院」が見えてくる。「サクレ・クール」は「聖なる・心」という意味なのだそうだ。名前のせいか、とても“清く正しく美しく”見える。
公共交通機関を使ってモンマルトルの丘へ登ってくるのには、「モンマルトル・バス」を利用する他に、メトロの「アンヴェール駅」から「フニクレール」というケーブルカーで来る方法もあるようだ。このケーブルカー駅側が丘の南側になるのだが、ここからは、パリの市街を一望することができる。そして振り返ってみると、すぐ目の前に大聖堂「サクレ・クール寺院」が聳えているということになる。この聖堂は、何か他の建造物と違ってすっきりとして見えるのは、これがパリでは珍しい「ビザンチンスタイル」(ビザンチン様式とは、394〜1453年のギリシャなど地中海東側の建築、装飾、家具の様式のことで、ビザンチン様式では、平面の上にドームを架ける技術を完成させているとのこと)の教会だからのようだ。丸い聖堂が特徴のこの白亜の寺院は、普仏戦争に敗北した後に、フランスの未来に対する信頼のしるしとして、広く国民から集めた献金によって建てられることになったのだそうだから、“朕は国家なり”式で国費をジャブジャブとつぎ込んで建てられたヴェルサイユ宮殿とは対照的で、道理で“清く正しく美しく”見えるはずだ。なお、1876年着工で1914年に竣工と建築に時間を要したのは、鐘や資材の丘の上への運搬や地盤の補強などの難工事に悪戦苦闘を強いられたせいらしい。

“俄か画商”に変身

モンマルトルの丘は、かつて、ユトリロ、ロートレック、ゴッホ、ピカソなどの有名な画家達もアトリエを持ち、多くの芸術家達が集まる場所だったそうで、“いかにも画家の町”という雰囲気が漂っている。そして、その中心の「テルトル広場」は今でも、大勢の観光客で賑わい、画家達がキャンバスを広げて得意の筆を振るっている。周囲には画材や絵画を売る店舗とともにカフェが並んでいる。私たちも、往年の名画家達の真似をしてそのうちの一軒に入ってコーヒーをすすり憩いの一時をもった。
自作の絵を売ったり、似顔絵を描いたりしている未来のゴッホ/ユトリロたちの作品を見て回った私は、ヴァンダイク・ブラウン(画家ヴァンダイクが好んで用いた焦げ茶色)が基調で、ちょっとしたユトリロ・タッチのユニークな画風の作品が気に入って、そのうちの1点について“俄か画商”になることにした。この“ヴァンダイク風”で“ユトリロ風”の絵画を描いていたのは、小じゃれた服装を着こなしていた“パリジェンヌ風”の女性画家で、“俄か画商”が持ちかける値切り交渉に積極的に応じてくれた上に、おまけとしてツー・ショットの写真を撮らせてくれた。商談成立後もらったメールアドレスのメモには"Rodykka iLiesco"とあった。この苗字からすると、どうやら“パリジェンヌ”ではなくて東欧の出自らしい。しかし、彼女が、同じくモンマルトル出自のユトリロと同じような軌跡を辿って大ブレークするようなことになったら、この作品や写真の価値も凄いことになるのでは…と密かに期待している。

ムール貝さん、ゴメンナサイ

夕食は「レモRemo」という名のレストランに入って、ムール貝料理をとることになった。最初私は「ムール(moule)」と聞いて「えっ!!??」と思ってしまった。ボストンのシーフードレストランに足繁く通ったことがあり、そこにもムール(英語では"mussel")料理があったことはあったのだが、都度都度の同行者も含めて一度もこれを注文したことがなかった。値段が極端に安いこともあって、わざわざ海外に来てまで食す価値はなしと考えたからでもあるが、なにより、「日本の海岸のどこにでもいるこんなカラス貝如きをメニューに載せるなんて」とアメリカ人のセンスを疑ってかかっていたからでもあった。しかし、水口によると、この美食大国のフランスでは「ムール」が食材として愛用されているのだという。そう言われて見回してみると、先客の中にも、バケツ上の容器で大盛りに供されたムール貝料理を美味しそうに食べている人がいた。そして、私自身に運ばれてきたムール貝料理も掛け値なしで旨いものであり、瞬く間に容器の中が貝殻だけになってしまった。後日調べたところ「カラス貝」は“イシガイ科”に属するものであって、)や“シオサザナミガイ科”に属する「ムール貝」とは全くの別種であるということが分かった。なお、「ムール貝」は「ムラサキイガイ(紫貽貝)」の食用種なのだとか。「貽」には「贈る」という意味があるから、意外なことに貽貝は贈り物としてさえ使われていたのかもしれない。そうとも知らず、食わず嫌いでいたりカラス呼ばわりしたりして、ムール貝さん、ほんとうにゴメンナサイ。

(2007/8/30)

モン・サン・ミッシェル遠征

人間“カンナビ”頼りのロングドライブ

ラーメンとコーヒーという妙な取り合わせの朝食をとってから、水口宅を発ち水口車で、「モン・サン・ミッシェルMont St. Michel」を目指す。モン・サン・ミッシェルは、フランス西北部のノルマンディー地方の南部でブルターニュとの境に近いところにあるから、当然「イル・ド・フランス」から出ての片道約360kmのロング・ドライブとなる。リムーバブル式のカーナビセットを取り付けたのだが、何しろ「モンMont」が「山」、「サンSt.」が「聖(人)」という意味のそれぞれフランスではごくありふれた普通名詞である上に、「ミッシェルMichel」(英語では、「マイケルMichael」)もご普通の男性名なので、目的地として特定して入力することができない。そこで、私が助手席で地図を見ながらナビをすることになったのだが、地図上の文字が小さい上に慣れないフランス語表記なので、水口が道路標識から読み取って伝える地名を地図上にプロットするのが容易ではなく、この日のために新調した遠近両用メガネも役立たずで終わってしまった。しかし、それでも、精一杯“勘ナビ”を働かせながら、24時間自動車レースで聞いたことのある「ル・マンLe Mans」や「レンヌRennes」などの地名を辿りながら、ローカル鉄道の最寄りの駅があるという「ポントルソンPontorson」に辿り着いた。

“生”で見る“天空の城”に感動ひとしお

更に、ポントルソンから田園地帯を通ってしばらく行くと、遠くから見てもそれと分かる物が行く手に現れ、やがてそれはテレビCMなどで見ていた通りの姿を見せてくれた(下写真中央)。画像や映像でもその景観を観賞することはできたのだが、こうして“生”モン・サン・ミッシェルの前に立ってみると、直接肌に語りかけてくるものが感じられ、感動もひとしおで万感の迫る思いがする。アニメの「天空の城ラピュタ」のモデルになったとも言われているが、巨匠・宮崎駿も異次元空間のものであるかのようなこの情景に心奪われたのだろう。
8世紀に、近辺の町に住んでいた大司教が、夢の中で大天使ミカエル(これがフランス語でサン・ミシェル)のお告げを受け、この小島に小さな礼拝堂が建てたのがこのモンサンミッシェルの歴史の始まりだそうだが、14世紀の英仏百年戦争の際には、英国からの侵入に備える要塞として使われたというから、実際に「城」でもあったのだが、このサン・マロ湾の小島に築かれた修道院は、「天空の城」と呼ぶのが寧ろ相応しいと思えるくらいの佇まいで風格と荘厳さを漂わせていた。

だって岩山なんだモン

満潮時には水面下に没することがあるという駐車場に車をとめて、島と陸地をつなぐ道路を歩いていって門をくぐりぬけると、修道院に続く狭い通りがあって両脇に飲食店や土産屋、宿泊施設などが軒をつらねている。これが参道グランド・リューGrande Rueでこの島のメインストリートとなるわけだが、観光客でにぎわっているところまで、様子が京都の清水寺に通じる坂道の門前町に似ている。その昔宿屋を営なんでいたプラールおばさんが始めたという老舗のレストラン「ラ・メール・プラール(La Mere Poulard)」もここにあって、巡礼者達の空腹と疲れを癒すためプラールおばさんが考え出したという特製のオムレツを求める観光客で店内がにぎわっていた。
この“清水坂”からは、尖塔が聳え立つ修道院を仰ぎ見ることができる(下写真1段目左端)これが初めて本格的に建設されたのは10世紀末になってのことで、
その後、数世紀にわたって増改築が繰り返されて、次第に堅固な石積みの建物に拡張されてきたのだそうだ。「島」なのに「山(モンMont)」と呼ばれるのは、最初に建てられた小さな礼拝堂をはじめとする宗教関連の建物が、島の中央にある「墓の山(トンブ山)」とケルト人に呼ばれ信仰の対象となっていた岩山の上に建てられたからなのではないかと思われる。
ストイシズムの塊のような岩山の麓に、飲食店や宿泊施設などを営む人々の世俗の世界が僅かにあっただけなのだが、今は私たちのような世俗の民が世界中から押しよせて島全体を覆い尽くし、かつて静寂であった信仰の島が賑やかな一大観光地になっているわけである。しかし、島内にも住民が80人ほど住んでいて町長もいるのだそうだから、小ぶりながら島民、即ち、町民の住む生活圏としての部分も存続しているようだ。

偉大な共演者サン・マロ湾

モン・サン・ミッシェルが“浮かんでいた”サン・マロ湾は遠浅だから、干潮の時には干潟の上に引き潮が残していった自然の造詣を見ることができる(下写真1段目右端)。潮の干満の差が激しくて、しかも潮流が速いので、ギャロップ(馬の駆け足)の速さで潮が引いていって、海岸線が18kmも後退することがあるという。対岸と島の間の行き来も、かつては引き潮の時に自然に現れる陸橋によるしかなかったのだが、1877年に対岸との間に地続きの道路(下写真2段目左端)が作られてから潮の干満に関係なくできるようになったのだそうだ。しかし、この道路の建設は人間環境に便益をもたらす反面で自然環境に災厄をもたらしたようだ。これによって潮流がせき止められることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまたのだそうだ。このために、急速な陸地化が島の周囲で進行していて、かつては満潮の時に見られた「海に浮かぶ孤島」の景観が失われつつあるのだ。「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産に登録されていることからも分かるように、このサン・マロ湾は決してone of them の存在ではなくて偉大な共演者なのだ。そのため、もとの“浮かんでいる”状態に戻すために橋を架け替える計画が進められているのだそうだ。日本でも、同じく遠浅の有明海で、潮受堤防の締切りによって潮流が変わり、これによって漁業環境問題が発生するということがあった。洋の東西を問わず「潮流を読む」ことには難しさと重要さが伴っているようだ。

巨大で精巧堅牢な“寄石細工”

現在なら、大きな建築物を山に建てる場合には、頂きの部分を崩して平地にしてから箱ものを載せる形をとるのだろうが、モン・サン・ミッシェルの場合は、初めに作られた小さな修道院を取り囲むようにして、急斜面を土台とした建増しと建替えが繰り返されてきたようだ。当然全てが石造建築だから、全体としては一つの城砦のように見えるこの「天空の城」は、実は巨大な寄木細工ならぬ寄石細工なのだ。また、また、長い年月をかけて建築が進められてきただけあって、「石を積む」方法も様々で、ゴシック様式をはじめ様々な中世の建築様式が混ざり合っている。礼拝堂のには、見事に“迫持ちの原理”を活かしたゴシック様式と見られる壁と天井が見られ、精一杯大きく設えられた窓から精一杯の採光がなされていた(下写真4段目右端)。急傾斜の岩山にかくも精巧にして堅牢な建築が行われたのは「西洋の驚異」と称されるに値するところだが、一方で、何度も崩落を繰り返し、そのたびごとに壊れた部分が修復されてきたらしい。修道内の広間の壁には、珍しく竹材が用いられていたが((下写真4段目左から2枚目)、これも崩落を防ぐため精一杯壁の重量を軽くしようとする工夫が表れたものと考えられる。

ラ、メルヴェイユ、実に、ラ、メルヴェイユ

修道院の本堂を補完する形で、北側に「メルヴェイユ棟La Merevellie」が建てられていて、その3階建ての最上階に「庭園」と「回廊」が設えられている(下写真3段目右端)。岩山の傾斜地の上に建てられた石積みの建物ばかりを目にしながら登りつめてきた私たちの目には、庭園の緑や花が一段と爽やかに映り、一服の清涼剤のように思えた。何よりも苦心惨憺しながら積み上げてきた石の建造物の最上部にこのような癒しの“空中庭園”を設けた往時の人々の「心」の豊かさに対して「ラ、メルヴェイユ驚異)!」の声を発したくなる。修道僧たちは、潮の干満に伴って大きく移ろい変わっていくサン・マロ湾の姿を柱の柱の間から見下ろして無常観を感じながら瞑想に耽っていたのであろう。
しかし、ラ、メルヴェイユ驚異)」の思いが更に極まったのは、「ここに積まれている石たちを、どうしてここまで引き上げることができたのだろう」とふと思い始めてからのことであった。何しろ、周りが潮流が速くて干満が激しい海である。どこかから切り出された石を船に載せ、満潮時を見計らって、全周が急斜面で囲まれた岩山のどこかに船着けしたのだろう。それだけでも大変な作業なのに、更に、不安定な場所で船から降ろした重たい石をどのようにして急傾斜を重力に逆らいながら建築現場まで持ち上げたのだろうか。その建築現場でも、山を掘削するとともに足場を築きながら、一階、二階と高所に石を積み上げてきたのだろう。考えただけでも気が遠くなるような難工事の成就の陰に潜む信仰の力の強さをまざまざと見せつけられる思いがした。
修道院の去り際に、ハムスターを飼う時にケージに入れる回し車をどでかくしたような大車輪があった。この大車輪の中にハムスターよろしく入れられた7人の囚人が車輪を回し、この回転によって生まれた動力がロープに伝えられて石の運び上げに使われたのだそうだ。
18世紀フランス革命時にモンサンミッシェルは一時牢獄としても使用されたとのことだから、囚人たちがこの「天空の城」の建築のために一翼を担っていたことは確かなのだろう。どことなく悲しげな空気感が漂っていたのは、そんな囚人たちの怨念のこもる暗い過去があったせいなのかもしれない。

フランスの道路事情

モン・サン・ミッシェルからの帰途は、「カーンCaen」などを通る別ルートでパリに帰着した。往復で700kmだから、東京から名古屋までの日帰りロングドライブをしたようなものである。フランスの道路は大まかに高速自動車道(A)、国道(N)、地方道(D)に別れるが、このAを通行するのに料金がかかると知ったの時にはいささか驚いた。7年前にカナダ・アメリカ西部の9,000kmをドライブした際に道路交通料ゼロだったことから、「先進国で有料道路があるのは日本ぐらいのものだ」と思い込んでしまっていたからだ。
しかし、フランスの高速自動車道利用料は日本に比べると恐ろしく安いようだ。Aは都市近郊では無料だから単純な比較はできないが、東名高速道路の東京・名古屋間(343km)を往復すると14,200円かかるが、この日我々がパリとモン・サン・ミッシェルの間の往復走行のために支払った高速料は12ユーロ。1ユーロ162円で換算すると2,000円弱になるから日本の14%弱にしかならない。フランスにも、高速自動車の管理を委託された民間会社はあるらしいのだが、日本の道路会社のように多数の天下りを擁しながら「高速道路使用料を取ってビジネスを行う」といったコンセプトを持つことはなく、専ら徴収した高速道路使用料が道路のメインテナンスに充当されているのではないかと考えられる。また、フランスの高速道路には防護壁や街灯なども整備されておらずトンネルの数も少ない。日本における道路建設コストの高さも料金格差の一因となっているようだ。
道路のAかNかDかを問わず、フランスの道路上ではルノーを初め、プジョー、シトロエンの大手国産メーカーがしのぎを削りあっている。イギリスで、自国生産車がほとんど姿を消す“ウィンブルドン現象”(テニスのウィンブルドン大会においてイギリス人が活躍できなくなった現象になぞらえた表現)が起こっているのと好対照である。そして、フランスの国産メーカーのどれもが小型車を得意とするメーカーであることもあって小型車の割合が圧倒的に高い。同じく小型車を得意とする日本の自動車メーカーが進出した結果、大型の「アメ車」が路上から姿を消すまでに至ったアメリカとも違って、ここフランスには日本車の出番が少ないようだ。ルノーから日産にお出ましいただいたカルロス・ゴーン氏の教えを乞うたくらいだから無理もないことなのかもしれないが、行き交う車に「ホンダ」や「トヨタ」を見かけることは稀にしかない。
(2007/8/31)

ルーブル美術館詣で

“歴史的怪挙”達成へ

水口が予め調達してくれていたお陰で、うな丼の朝食にありつけることになった。しかし、先日の「パリのウドン」もさることながら、「パリのウナドン」も全くの想定外で“まさか”と思われるものであった。しかも我々はこれから「ルーブル美術館」に行く。「朝っぱらからうな丼を食べて、その直後にルーブル美術館を訪れた人」となると、長い人類史の中でも僅かしかおるまい。“歴史的怪挙”達成へ向けて私たちは地下鉄に乗り込んで、「王宮・ルーブル美術館Palais Royal Musee du Louvre駅」に降り立った。

便利な地下鉄システム

パリ交通公団の運営するメトロは全14線あって、パリ市内をくまなく網羅している。この点は、東京メトロと都営地下鉄がくまなぅ張り巡らされている東京都内と同じだが、実際に使ってみると便利さが大きく違っているのが分かる。東京では、行く先を告げて尋ねられても答えられないことが多いのだが、ここパリでは、プラットフォームまでの指示板にすべて「路線番号」と「終着駅名」が示されていて行きたい駅の方向も分かりやすくなっているので乗り間違えることがない。地下鉄切符カルネ(Carnet)で自動改札をして、乗り換える場合も降りたホームで「乗り換え(Correspomdance)の表示を探し、乗り換えるラインと方向に沿って行けば問題がない。「出口(Sortie)」の表示も分かりやすくて迷わずに済む。その代わりに、車内では、発車前も乗車中も一切なく、また、同じ路線ラインでも方向によって乗り場が違ったりすることがあるので注意を要する。

繰り返された再利用の歴史

メトロの駅から僅か徒歩1分、セーヌ川のほとりに「ルーブル宮」はある。もともと12世紀にパリ城壁のセーヌに接する地点を防衛するために城砦として築かれたもの。「宮」と称しながら「城」のイメージを感じさせるのはこのためらしい。その後、パリ市域の拡大に伴って城壁内に取り込まれ、城塞から宮殿への改築大造営が始まり、これがルイ14世がヴェルサイユに宮廷を移す1680年まで断続的に続いたのだそうだ。そして、ヴェルサイユ宮殿の建築・造園が進められるようになってからは、この「ルーブル宮」は王宮としての役割を失なって、国の役所や芸術家の住居として使われるようになり、長い間、歴史の表舞台からは消え去ることになった。しかし、18世紀末にフランス革命が起きると、共和制政府は、ルーブル宮の再利用を考え付き、これを機として1801年から、美術館として一般の人々への公開が始まったという。現在は、一部が政府庁舎として使われているだけで,大部分は美術館として使用されているようだ。

“生”の“スター”に思い切りミーハー


「ルーブル美術館」は、フランス国立の博物館で、メトロポリタン美術館(アメリカ・ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の一つとされている。「ルーブル宮」としての歴史的な価値と美術館としての規模が評価されたのだろうか、ノートルダム大聖堂とともに、「パリのセーヌ河岸」として世界遺産に包括登録されているそうだ。建物は「コの字」型をしたつくりで、要の位置にあるシュリー翼とその北側のリシュリュー翼、南側のドノン翼で構成されている。シュリー翼にある「ミロのヴィーナス」やドノン翼にある「モナリザ」などの“スター”はさすがに人気があって人だかりがしていたが、しばらく待てば近づけるので、思い切りミーハーして、それぞれとのツーショット写真まで撮らせてもらった。しかし、このような超有名な作品は、これまでに何回も各種のメディアを通して見慣れているので、“生で”見る感懐も乏しく、撮った写真も“証拠写真”の域を出るものではなかった。“生”モン・サン・ミッシェルにあれほど感動したのに不思議なことである。

大作揃いに少々食傷


やはり、もと宮殿だけあって、シャンデリアや天井、壁の作りつけなど建物の造作が、メトロポリタン美術館などとは大きく違う(下写真下段中央)。大作の絵画が4面の壁一杯に所狭しと掲げられているところが多く(下写真下段右)、特にドノン翼の2階は、ドラクロワ作の「民衆を導く自由の女神」(下写真上段右)やダヴィード作の「ナポレオン皇帝戴冠式」(下写真上段中央)などのフランス絵画の大作がひしめいていて、ここを訪れた観光客たちは目の前の壁のような大画面の発する“生の”迫力に気圧されながら立ち尽くして臨場感に浸っている(下写真上段左)。中には、ほとんど壁自体がキャンバスになっているかのような壁画上の大作もある(下写真上段左)。こうなると、ルーブル美術館もヴェルサイユ宮殿も同じことじゃないか。そんな思いが頭をよぎった時、またしてもあの「土の匂い」が漂ってきた。これだけの華やかな“宮殿”を築くための財源も、煎じ詰めれば、農民たちが汗して土を耕して穀物を栽培したからこそ集積することができたのだろう。栄華の陰に「農業国・フランス」を支えてきた肥沃な土があったということを改めて感じさせられた。また、もともと人間的なスケールが小さい私には、このような大作揃いの絵画の鑑賞は不似合いなものでもあった。展示室が400室で所蔵作品が3万5千点を超えるとも言われるこの世界最大規模の美術館は、全てを見るのに1週間は要しようとも言われるのだが、少々食傷気味になってしまった私には半日間の行程がちょうど程良いものとなった。

更に広がる“歴史的怪挙”の輪

昼食は再びメトロ「ピラミッド駅」近辺の日本料理店街に行って、「札幌ラーメン2」でラーメンと餃子のセットメニュー。実は、水口には明日からのスイス行きの準備のため帰宅する必要があるので、今日の午後は、山本、中沢と私の“パリ研修生トリオ”が“庇護者”水口から独立して自由行動をとることになっていた。そこで、ラーメンをすすりながら、午後の行動について鳩首会談ということになった。中沢は、先日足もとにまで行きながら登れなかったエッフェル塔に行きたいと言ったが、私はルーブル美術館の口直しに「オルセー美術館Musee d'Orsay」に行って印象派の絵画を見たかったので、「じゃ、3人別々に行動することにしようや」と提案した。水口は「1日にルーブル美術館とオルセー美術館を見るのはシンドイぞ」とアドバイスしてくれたが、山本が単独行を辞そうとしない私を気遣って(もてあまして? )「みんなでオルセーに行こう」と話を纏めてくれた。ルーブルとオルセーの“はしご”をする人は滅多にいないそうだから、我々の“歴史的怪挙”の輪は更に、「うな丼→ルーブル美術館→ラーメン・餃子→オルセー美術館」と広がることになった。

“パリ・オノボリサン・トリオ”行動開始

昼食後、水口に連れられてマドレーヌ広場にある「フォーションFauchon」に行った。120年の歴史を刻む老舗で、フランスでも一番有名な高級食品店だそうだ。ここで私たちは、水口のアドバイスを受けながら、お土産物のショッピング。私は、花びら入りの紅茶と小瓶入りのフォアグラを仕入れた。そして、ここで一人帰宅する水口とバイバイ。我々“パリ・オノボリサン・トリオ”は、迷子対策にと携帯電話を託されながらも、「門限7時」を厳守すべく“独立独歩”の行動を開始することなった。
次いで立ち寄ったのは、メトロ「オペラ駅」近傍にある「パリ三越」。私たちはそこで、オルセー美術館最寄のメトロ「ソルフェリーノ駅」への行き方を尋ねたのだが、田崎さんが出てきて、寧ろ「バス68番線」を利用するよう強く勧めてくれた。私たちは水口から地下鉄切符カルネ(Carnet)を“支給”されていたのでこだわったのだが、田崎さんは親切にもそれがバスの切符と共用なのだとも教えてくれた。フランス語ができずコミュニケーション能力がない“オノボリサン・トリオ”にとっては、この日本女性による親身になった助言がとても嬉しかった。同時に、「日本企業の提供するサービスは世界一」という認識を新たにした。こんな形で初めてフランスの路線バスに乗る機会もできたわけだが、我々の乗ったバスは、田崎さんが教えてくれた通り、セーヌ川を渡るとすぐに右折してオルセー美術館前まで私たちを乗せてきてくれた。

オルセーで半世紀ぶり再会

「オルセー美術館Musee d'Orsay」の建物は、もともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設された鉄道駅舎兼ホテルであったのだそうだ。アーチ型のガラス張り天井などはオルセー駅の面影を色濃く残すものなのだろう、宮殿が出自のルーブル美術館とは趣が違う。展示作品も印象派の画家の作品が中心で、野放図に大きい絵の並ぶルーブル美術館と違って、“節度のある”大きさの作品が揃っている。
エスカレーターに乗って上がっていくと、バルコニーに出ることができて、そこから先日訪れたモン・マルトルの丘に立つサクレ・クール大聖堂を遠望することができる(下写真左)。また、セーヌ川をはさんで対岸に見えるルーヴル美術館(下写真中央)とは、ポンピドゥーセンターの国立近代美術館とともに“パリ総合美術館トリオ”を形成しており、原則として2月革命のあった1848年から第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品をこのオルセー美術館、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品は国立近代美術館がそれぞれ展示するといった役割分担がなされているらしい。

日本の美術館と違って、ここでは作品に近づいて写真撮影することが許されているので、かねて“親しくさせていただいている”モネ、マネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、ドゥガ、ゴーギャンなどの巨匠たちと“お近づきになり”カメラの中にコレクションを作らせていただいた。中でも圧巻だったのは、ファンタン・ラ・トゥールの「読書する少女」との再会(下写真右)であった。学生時代に上野の美術館でこの絵に出遭った私は何故か心引かれ、複写版を買い求めて帰ってクレパスで模写するほどこの“少女”に惚れ込んでいたのだ。だから、オルセー美術館の一隅に探し当てた時には、「おお、ここにいたのか!」という思いで、無慮半世紀ぶりの再会に狂喜した。「どこかで会えるに違いない」と密かに願いながらオルセーにやってきただけの甲斐があった。

地元の生活感覚をギフトに込めて

係員と見えるスーツ姿の黒人がオルセー美術館の外にいて、私の片言英語を分かってくれたので、メトロ「ソルフェリーノ駅」までの道順を教えてもらって帰途に着いた。そして、サン・ラザールSt. Lazare駅で乗り換えて、「門限7時」前の18:30 水口宅に無事生還、“パリ・オノボリサン・トリオ”の弥次喜多道中振りを内心半ば期待し半ば心配していたはずの水口が笑顔でドアを開けて迎え入れてくれた。
そして、休む間もなく、いつものスーパーと酒屋にみんなで出かけてソーセージ、サーモンとビール、樽ワインなどの仕入れを行った。私はここで、何回か水口宅の朝食に供されて「これは旨い」と思っていたチーズやムースなどをお土産用として買い込んだ。“地元”の人々にとっては何の変哲もない物が“よそ者”にとって存外大きな価値を持つことがある。スーパーでのお土産の調達は、安上がりにつくばかりでなく“地元”の生活感覚の一部を贈るのに役立つ(先刻、フォーションで仕入れたフォアグラともども検疫対策は考慮しなければならないが)。しかし、このようなことは普通のパッケージ・ツアーでは言うべくしてなかなかできるものではなく、水口の私宅に起居することができてこそのことだ。改めて「友に感謝」しなければ。
(2007/9/1)

すいすい行かぬスイス入り

2度目の列車による越境

惰眠を貪っていた私たちを、約束通り水口が5:30に起こしてくれた。さて、♪ロンドン、パリを股にかけ♪てきた我々は今日3国目のスイスに入る。大きなスーツケースに忍ばせてきた中型のバッグに着替え類を詰め込んで旅装を整えてから、クロワッサンに菓子パン、それに牛乳の朝食を摂って6:00に水口宅を出発。メトロを2−3回乗り継いで、「ガル・デ・リヨンGare de Lyon(リヨン駅)」に向かって、ここから高速列車TGV(Train/列車
a Grande/大きいVitesse/速度)に乗る。TGVは主にフランス国内の主要都市間を結んでいるのだが、フランス国有鉄道SNCFの経営だというのに、隣接したスイスやベルギーにまで“越境”している。この「リヨン駅」は“パリからリヨンへ向かう鉄道の起点”という本来の意味の通り、リヨン方面に向かうTGVの起点となっている他に“国有鉄道国際線”の起点にもなっているのだ。イギリスからフランスへ「ユーロスター」で越境してきた我々は、またしても3国目のスイスへと列車で越境することになる。

田園風景のオン・パレード

リヨン駅を出るとTGVは、地平線まで見渡せる広い穀倉地帯の中を突っ走っていく。小麦の収穫が終わったのだろうか、ほとんど黄土色だが、時折、緑の畑地が見える。ヘイ・キューブが随所に見られるところからすると牧草地なのだろう。「農業国フランス」は「牧畜国フランス」でもあったのだ。
シートは4人用のボックスシートで、私と中沢と向き合う形で、水口と山本が並んで腰掛け、地図を広げてスイスの地名を確認しあっている。有り難い、今度は山本がナビ役を務めてくれるらしい。二人の“友に感謝”しながら次々と移り変わる窓外の景色を楽しんでいるうちにウトウト居眠りしてしまった。
リヨン駅を出て1時間半くらい経った頃目が覚めても窓外の景色は変わらず、ライトブルーの空を背に大草原の茶色と緑の世界が広がっていた。今日も好天気だ。しかし、「友だけでなく天気にも感謝しなくちゃ」と思った矢先にTGVは深い霧に包まれた。「大分高度が上がってきたんだ」という隣りの中沢の声で霧の謎が解けたような気がした。
しばらく霧の世界が続いたが、やがて霧が晴れて、車窓に今度は緑の丘陵地の風景が広がってきた。丘陵の上には濃い緑の森が続き、羊や牛、馬が放牧されている緩やかな傾斜地のイェローグリーンとコントラストをなしている。時折、タイル屋根の家が集まった村落があり、その中に教会の尖塔を見ることもできる。TGVの車窓は、フランス画家が好んで描くような田園風景のオン・パレードで、ルーブル、オルセーに次ぐ“TGV美術展”を堪能させてくれた。

“あわや銃撃戦”の恐れと期待

やがて、針葉樹が増え、岩壁が車窓に迫るかと思うと、湖沼や渓流も見え始めて、大分スイスっぽくなってきたなと思える頃になって快調に疾走してきたTGVが急に止まって約10分間停車した。車内アナウンスではセキュリティー・チェックがどうのこうのと言っていたようだが、ピストルを腰にした屈強なポリスが3人、黒い犬を連れて我々の車両に乗り込んできたので、それが麻薬所持犯の捜査のためだということが分かった。「警官と犯人の間で銃撃戦が始まったらどうしようか」と中沢が聞くので、「そうなったらビデオ撮影のチャンスじゃないか」とこともなげに答えてやった。カナダ・アメリカ旅行の際には、米加国境の事務所内でビデオを撮ろうとして制されてしまったほどの中沢が「ビデオ」を思いつかないのを寧ろ不思議に思ったからだ。これまで熱心にビデを取り続けて“無声映画の巨匠”ぶりを発揮してきた中沢だが、どうやらこのあたりから“巨匠”としての意識を失ってしまっていたようだ。そうこうするうちに、TGVはいつの間にか国境を越えてスイスに入っていた。そして、銃撃戦には至らなかったものの、麻薬捜査のため遅れて「ローザンヌLausanne駅」に着いた我々は予定していたローカル電車に乗り換えそこなうことになり、次の電車の出発をそこで待たねばならない破目になった。これが「すいすい行かないスイス入り」のケチのつきはじめとなった。

消えたパスポート

ローザンヌ駅を立ったローカル列車は、6人分の座席があるコンパートメント式で、私は窓際に座って、やたらに四角張ったアパートやポプラが目立つ市街地や丈の低い葡萄の畑の風景を見て楽しんでいた。しかし、やがて列車がレマン湖の畔にさしかかったので、「ここは動画撮影のチャンス」と思って隣の“巨匠”と席を替わってあげた。しかし、“巨匠”にとっては“撮るに足りない”風景だったのだろうか、ついにビデオを手にしようとしなかった。
その中沢のビデオが無くなっていることに気がついたのは、列車が「ジュネーブGeneva駅」に着いてから、レンタカー会社のAVISに行って貸借契約を済ませ、車の受け渡し手続きのためAVISと提携しているホテルのフロントに立ち寄っている時のことであった。「カメラのバッグにはパスポートも入っていたんだ」という中沢の発言は我々にとって大きな衝撃であった。“巨匠”の作品が取り戻せないどころか、今後の行程を中断せざるをえなくなるからだ。
事前の“巨匠”らしからぬ態度から考えて先ずアヤシイと思われたのは「列車内への置き忘れ」であった。そこで、ジュネーブ駅に歩いて戻ったのだが、我々は、そこで駅舎内の事務所と駅裏の遺失物取扱所との間で2回りほど盥回しされることになった。そうこうするうちに、やはり、AVISかホテルがアヤシイのではないかということになって、引き返してそれぞれで尋ねてみたたのだが埒が明かないので、再び駅舎内の警察署まで歩いていって警官にパスポート遺失証明書を作ってもらった。
しかし、ジュネーブ駅周辺を何べんもトボトボ行き来している私たちの姿を、何も知らずに見ている人がいたとしたら、「市中引き回し」の刑を受けている罪人のように見えたかもしれない。

いきなりアルプス最高峰が姿を

パスポートを再発行してもらうのには数日を要しそうなので、スイス旅行を終えてから、中沢が予定されているリヨン・ニース行きをあきらめて、パリに戻ってフランス大使館で手続きしての水口宅で待機しているしかなさそうだ。しかし、中沢一人をパリに置いたままにするのは気の毒だし、中沢のことを心配しながらではリヨン・ニース旅行も楽しくなってしまう。「苦楽をともにしてこそ友達」と衆議一決して、計画を変更し、スイス旅行を終えてから、みんな揃ってパリに戻ることに決めた。
こんな風に割り切ってみると、後は精一杯スイス旅行を楽しむだけ。では、そんなこんなで大分時間が遅れてしまったが、いざアルプスの真っただ中へ向けてスタート。初めて見るスイスの景観に期待を膨らませながらレンタカーRunault Scenicの後ろ座席に…。しかし、水口からナビ役を仰せ付けられたのは、先ほどTGV車内で水口から“レクチャー”を受けていたはずの山本ではなくて私だった。ここから、助手席での遠近両用眼鏡を駆使しながらの、地図との苦闘が再び始まった。
先ず、レマン湖の橋を渡る。後部座席から、山本と中沢の歓声が聞こえる。噴水がきれいなんだとか。しかし、慌てて地図から目を上げた私の目に映ったのはヨットが浮かぶレマン湖の姿だけであった。それでも、車が山道に分け入ってくる頃には少しはゆとりができ、次第にアルプスらしさを増していく車窓の風景を楽しむことができるようになってきた。
そして、ヨーロッパ・アルプスの最高峰とされる「モンブランMont Blanc」が私たちの前にいきなり姿を現したのは、しばらく山道をドライブしてからパーキング・エリアに立ち寄った時のことであった(右写真)。
標高4,810.9mのこの「白い山」(Mont:山/Blanc:白)の人気の高さは、この形に似せて作られたケーキ「モンブラン」が知れ渡り愛されているところからもうかがい知ることができるが、実は「モンテブランコMonte Bianco」というイタリア語の別名を持っているらしい。
後で調べて分かったことだが、モンブランはフランスとイタリアの国境に位置していて、その頂上は両国が共有している形になっているから、フランスの最高峰であるとともにイタリアの最高峰でもあるのだ。いずれにしても、これは「モンブラン」ないしは「モンテブラン」であって、スイスのものではない。
そして、私たちがモンブランを見上げているのも、モンブランに最も近いフランス側の町とされる「シャモニーChamonix」なのだから、「スイスの景観」を楽しんでいるうちに、我々の車は、いつの間にか国境を越えは、スイスからフランスに戻っていたことになる。
世界でも有数のスキーリゾートで冬季オリンピックの発祥の地とされているこのシャモニーの馳を訪れた人々は、聳え立つ岩山を背にした“スイスっぽい”山村の風景(右写真)を堪能したことだろう。

“地理滅裂”なナビゲーター


更に、地図上に、「マルティニーMartigny」、「シオンSion」、「フィスプVisp」などをプロットしながらナビ役を再開すると、細い道路に両側に“関所”を思わせるような木枠が設えてあった。無人だったので素通りしたが、どうやらそこが国境であり、そこから再び我々はスイスに戻ってきたらしい。このように両国間で国境を越えて自由な行き来ができるのは、ヨーロッパ連合(EU:European Union)ができたお陰なのかなと一瞬思ったのだが、すぐに、フランスが原加盟国であるのに対してスイスは未だにEUに加盟していないという現実に思い当たった。要するに、大掛かりな国際的な協定などとはかかわりなく、両国間に信頼関係さえあれば、このように国境線の監視など一切無用になるのだ。
ところで、私がモンブランを眺めている時に、水口は本日の投宿先のホテルと携帯電話で交信していた。その会話を受けて、水口が「ケーブルカーの最終便」を気にしながら運転している様子だったので、「今日はホテルまでにしてケーブルに乗るのは明日にすればいいじゃん」と口を出したところ、「我々の目指すホテルのあるツェルマットZermattはケーブルカーに乗らなければ行けないんだよ」とのご託宣があった。TGV車内で水口から“レクチャー”を受けていなかった私は、とんでもない“地理滅裂”なナビゲーターだったわけである。

“アルプスの娘ハイジ”がいた

フィスプで曲がると、道は細くなり登りの傾斜もきつくなってきたが、やがて、ケーブルカーの発着点「テッシュTosch」(この"o"にウムラウトがついているところからも、ここがドイツ語圏であることが分かる)に到着。私鉄BVZ(Brig-Visp-Zermatt)のテッシュ駅前の大きな駐車場に車をおいて、最終便に乗り遅れることなく無事ケーブルカーに乗ることができた。
昔からヨーロッパのアルペンリゾートであったツェルマットは,自然保護のためガソリン自動車の乗り入れは禁じられているのだ。そのため、ケーブルカーのツェルマット駅から乗ったタクシーも電気自動車であった。ツェルマットのメイン・ストリート「バーンホフ通り」を走って、教会のところを曲がると我らが投宿先の「ホテル・アラリンHotel Allalin」はもうすぐそこ。水口の電話交信ぶりを傍受していて予想していた通りの優しそうで快活なメートヒェンMadchen("a"にウムラウトがつく)が笑顔で私たちを迎え入れてくれた。“アルプスの少女ハイジ”が素直に育ってお淑やかになったようなこの“アルプスの娘ハイジ”は、明日から休暇を取って出かけるという旅行の準備のために帰宅を急ぎたかっただろうに、我々が無事到着するのを心配しながら待っていてくれたのだ。その上、「この辺りで一番旨くて安くて近いレストランを」という我々のリクエストにも快く応じて、バーンホフ通りにあるレストランとお奨めメニューまで紹介してくれた。
しかし、折角のアルプスの“メートヒェン”ハイジのお奨めにもかかわらず、パスポート紛失事件で疲れ果てていた私たちはバーンホフ通りまで出る気力が失せていて、ホテルのつい隣にあるレストランに入って、タンドリーチキンとビールで手っ取り早く飢えと渇きを癒すことになってしまった。
(2007/9/2)

マッターホルン観光

お洒落なシャレー

起床するや否やホテルの裏庭に飛び出してみると、我らがホテル・アラリンは朝靄煙る岩山のすぐ下にあることが分かった(下写真左)。「マッターホルンMatterhorn」の語源は良く分からないが、ドイツ語で"Matte"が「スイスアルプスの牧草地」、"Horn"が「角の形をした岩峰」という意味だから、"Matterhorn"は「麓の牧草地の上に聳える岩峰」という意味なのかな?マッターホルンの麓の町ツェルマットのこの名も知らぬ岩山のグレイと山裾の牧草地のグリーンがマッチした光景を見ているとそんな気がしてくる。
昨夜私達が到着してから自室の窓から見た時には、漆黒の闇の中で十字架を光らせていた教会もすぐ目の前にあり(下写真中央)今朝は、青空とあけ行く山肌を背に尖塔を聳やかせている。
建物はシャレー建築で(下写真右)、石組み、または、漆喰の地上階の上に木造の二階以上が載るという木造と石造の融合した構造がアルプス地方の伝統的建築広報らしい。実際に、ツェルマットの町にはこのようなシャレー建築が立ち並んでいてお洒落でメルヘンチックな雰囲気を醸し出している。なお、「シャレーchalet」は本来“山小屋”という意味だそうだが、これを模して建てられた大型の建物は寧ろ“山荘”に近いのではないかと思われる。

癒しの“マイル・ビレッジ”ツェルマット

このツェルマットは、スイス南部のヴァリスWallis州にある。後日訪れる予定のユングフラウ4158mはヴァリス州とベルン州にまたがっているのだが、マッターホルン4476mをはじめ、モンテ・ローザ4634m、ドーム4545mなど、スイスの高山ベスト15は全て「ヴァリスアルプス」に集中しているのだそうだ。これが、「ヴァリス州が山岳国家スイスを最もよく象徴している」とか、「スイスと言えばヴァリス州」とか「ヴァリスに行かずしてスイスを語る事なかれ」とか言われる所以なのだろう。
高峰が、南アルプスや中央アルプスにも分散しているところは聊か違うが、“本家”の「ヴァリスアルプス」は“日本アルプスの中の本家”である北アルプスに当たり、「ヴァリスアルプス」のスター的存在であるマッターホルンは、その形状が似ていることからも日本アルプス槍ヶ岳の本家筋に当たると考えてもよさそうだ。だから、ツェルマット村は分家筋の日本アルプス銀座のお膝元である長野県の穂高町あたりの本家筋と見られるのだが、実際には新潟県の妙高高原町(現・妙高市)と姉妹都市(村?)になっているとのことで、バーンホフ通りには「妙高Myoko」という名の寿司バーも見かけた。
ホテルで、ドイツ語、フランス語と英語を駆使して威勢良く立ち働いていたアルプスの“元少女”によると、ツェルマットの海抜は1,602mだそうだから、“マイル・シティ”と呼ばれる米国コロラド州デンバーとほぼ同じ高度だ。しかし、周辺も加えると人口250万人の大都市デンバー市と比べて、たかだか人口5,600人のツェルマット村のこの何と慎ましやかなことか。しかし、デンバーとは比べ物にならないほど豊かな自然環境に包まれたこの“マイル・ビレッジ”は、私たちに居心地の良い癒しの気持を与えてくれる。

急峻な“氷河のミルク”の流れ

ツェルマットの村を流れるマッターフィスパ (Matter Vispa) 川は、川幅はさほど広くないが、氷河から流れ出してくる水を集めたせいかかなり流れが激しい。こんな調子で洪水にならないものだろうかと心配になるが、積雪が多かった年に実際に洪水になったことがあるそうだ。ドイツ語の"zer"は「分裂・破壊」という意味を持つ接頭辞だが、ことによると“Zermatt”の地名は「"zer"+"Matte"」が語源で、この川の洪水によって「“牧草地”の“分裂・破壊”ガ繰り返された歴史に由来しているのかもしれない。
マッターフィスパ川の流れが、別名“氷河のミルク”と呼ばれているのは、ゴルナグラード氷河などからの溶け出した流水を集めているためで、氷河に含まれていた鉱物質が溶け込んで、青みがかった濃いミルク色の白濁色をしている。“氷河のミルク”は、ここツェルマットからテッシュに流れ落ち、そこからマッター谷を下って行って、フィスプでローヌ川(Rhone)と合流する。そのローヌ川は、いったんレマン湖に流れ込み、ジュネーブからフランスに向かって流れ出す。そして、フランス南部を流れて行って、リヨンあたりでソーヌ川と合流し、最終的には地中海に注ぐというから、目の前を流れている“氷河のミルク”の終着駅は地中海ということになる。

スキーヤーでないのは我らだけ

「ツェルマットといえばマッターホルン」とも言われ、このマッターホルン山麓の村を訪れる人はほとんど、孤高に凛として聳え立っているところから「スイスアルプスの女王」と称されるマッターホルンがお目当てなのだそうだ。私たちもご多分にもれず、女王様に見参するために、マッターフィスパ川に架かる橋を渡り、川沿いの道を進んで、ツェルマットの村はずれにあるロープウェイ乗り場に急いだ。しかし、そこで私たちが見たものは、家族連れも交えた夥しい数のスキーヤーたちであった。それぞれにスキーウェアを身にまとった完全装備でスキー板を抱えて立ち並んでいる。おいおい、今はまだ9月なんだぜ、スキーはオフ・シーズンじゃないのかい。我々の思い描いていた「マッターホルン詣での観光客用のロープウェイ」というイメージは完全に崩され、精々セーターやジャンパーを着込んだだけの我々4人だけが違和感を感じさせる存在になってしまった。

意外に気さくな女王様

最初に目指す「クライン・マッターホルン展望台」 へはロープウエーを乗り継いで行く。まず、途中駅の「フーリFuri」に向かう6人乗りの小さなゴンドラがふわりと浮かび上がるとすぐに、眼下に牧草地とハイキングコース、それに今渡ってきたばかりのマッターフィスパ川が見える。先ずは"Matte"(牧草地)観賞の部の始まり始まりと思いながら、目を前方に転ずると真っ白な装いの"Horn"(角の形をした岩峰)が見えた(下写真左)。しかし、この時には「さすがアルプス、“マッターホルンみたいな山”はどこにでもあるのだ」と思えただけで、それがご本尊様だとは気づかなかった。真打で登場されるのかと思いきや、「スイスアルプスの女王」様は存外気さくで、チェルマットの村からでも見ることができるのだということを後で知った。
あちこちに散在する丘陵地の斜面を利して建てられた農家や小屋の姿を俯瞰しながら(下写真中央)、自然と共生しつつ勤勉に働くスイス農民の生活ぶりを偲んでいると、"Matte"(牧草地)と"Horn"(角の形をした岩峰)が見事に調和した景観が現れた(下写真右)。やはり、"Matterhorn"の意味は「麓の牧草地の上に聳える岩峰」なんじゃないかと今にしてなお思う。


クライン・マッターホルン展望台

熟達アルピニストの境地に達す

海抜1867mのフーリで、今度は100名くらい乗れそうなゴンドラのロープウェイに乗り換えて、海抜2929mのトロッケナー・シュテーク Trockener Stegに向かう。かくも多数のスキーヤー(と僅か4人の我々観光客)を乗せた巨大ゴンドラを、一気に1000m以上も高いところに引き上げてしまうスイスのロープウェイ建設技術の凄さに感嘆しているうちに、"Matte"(牧草地)の光景が視界から消えて、雲の上の"Horn"(角の形をした岩峰)の世界に入って行く(下写真1段目左)。更に、トロッケナー・シュテークで、再びロープウェイを乗り継いで、「クライン・マッターホルンKlein Matterhorn展望台」へ向かうと氷河Gletscherの世界が広がってくる。熟達したアルピニストしか接することができないと思ってきた自然の造詣をこんなに間近に堪能することができるのもロープウェイのお陰だ。“クラインKlein”は“小さい”という意味だから、言葉としては「槍ヶ岳」に対する「小槍」のようなものだ。因みに、日本の『アルプス一万尺』という歌は、もともと『ヤンキードゥードゥル』という名のアメリカ合衆国民謡・愛国歌だったものだが、日本人が勝手に歌詞をつけて登山の歌にしたものだそうで、この歌の「アルプス」は日本アルプスで「一万尺」とはその高さを言うのだそうだ。歌詞では♪小槍の上でアルペン踊りをさあ踊りましょう♪となっているが、実際にはアルペン踊りを踊る広さもない「小槍」と違って、このクライン・マッターホルンは充分な大きさを持った独立した"Horn"(角の形をした岩峰)なのである。

軽い高山病に

ロープウエーの駅は、クライン・マッターホルンの山頂のすぐ下の崖にはいつくばるように建てられている。幾多の困難を乗り越えて、良くぞこんなところにロープウェイの鉄塔に加え駅の建築までしてくれたものだ。駅に近づくにつれて勾配が急になり,駅の直前ではロープウエーのゴンドラがほとんど真上に引っ張られてエレベータ状態になる。さて、ロープウエーを降り他地点が標高3820m。そこから、トンネルの中を歩くと、イタリヤ方面への出口がある。更に、トンネルを出てから、しばらく登っていかなければならない。クライン・マッターホルン展望台は標高は3883mで、ロープウエーで行ける展望台としてはアルプスで最高地点にあるのだ。さすがに空気が薄いのがわかる。軽い頭痛がして足もともふらつきがちになって歩が進まない。軽い高山病なのだろうが、“マイル・ビレッジ”ツエルマットから僅か50分間ほどで一気に標高差2,300mのところを上がってきたのだから無理もない。私は、“マイル・シティ”デンバーでの1週間の滞在のうちに、パイクスピークPike's Peak4301mとエヴァンス山Mt. Evans4350mのアメリカン・ロッキーの4000m級高山2峰に登ったことがある(もちろん車で)が、その時には高山病症状になることはなかった。あの時は、車で時間をかけて上がっていったせいもあるが、数値こそ下回るものの、ここアルプスの方が遥かに高山らしい佇まいをしている。第一、随所に氷河が点在する「マッターホルン・グレイシャー・パラダイスMatterhorn glacier paradise」に車で来られる訳がない。

360度の壮大なパノラマを堪能


しかし、天空の中に突き出た形の展望台に辿り着くや、高山病症候群は一気に消し飛んで行ってしまった。360度の壮大なパノラマが眼前に展開したからだ。だが、「さすが、マッターホルン!なんという重量感なんだ!」と狂喜してシャッターを切った(下写真2段目右)時、みんなが逆方向にレンズを向けているのに気がついた。私一人だけマッターホルン4478mに背を向けてブライトホルンBreithorn,4164mを撮っていたのだ。ここから見る“スッピンのスイスアルプスの女王様”(下写真1段目中央)は、いささか普段の白粉仕立ての顔(かんばせ)と趣が違うので、そうとも気がつかず失礼してしまったのだ。そこで、機嫌を損ねられないうちにと女王様ご謁見の記念写真撮影ということになった(下写真3段目左)。
オーバー・ガーベルホルン4062m、チナールガーベル4221m、ヴァイスホルン4505mなど4000m級の"Horn"(角の形をした岩峰)連山の間に、遥か彼方にモンブラン4805mの白く大きな頂きまで遠望できる(下写真3段目中央)。また、「氷河パラダイス」の名に背くことなく、大きな氷河が目の前に横たわっていて(下写真2段目中央)、イタリア国境側には大きなスキーゲレンデがあってリフトが設えられていた(下写真2段目左)。

♪行きは良い良い帰りは怖い♪…だが

“マッターブラン登頂”に成功した我々は、クライン・マッターホルン駅から再びロープウェイ上の人となって、トロッケナー・シュテーク駅へと急降下していく(下写真左)。登ってきた時には、それこそ“上の空”足で、足もとにはあまり目がいかなかった。しかし、♪行きは良い良い帰りは怖い♪で、こうして否応なく“落下”先が見えてしまうとなると高所恐怖症飲みにはちと辛く足がすくんでしまう。しかし、行きと違って、スキー客が乗っていないので、ゴンドラの四方の窓から見たい放題で、"Horn"(角の形をした岩峰)たちと、対等の目線で対面したり(下写真中央)、至近距離で対峙したり(下写真右)することができた。

行き届いた造物主の造形

トロッケナー・シュテーク駅2929mで降りた我々は、今度はフーリ駅に戻るのではなく、シュバルツゼー駅2583m行きのロープウェイに乗り換える。途中のフルックFurgg 2432mまで下降していくと、岩肌もつぶさに見えるようになり、グレイ1色かと思いきや、実はブラウンも微妙に配色されており、純白かと思われていた氷河にも岩肌から削り取られた欠片が含まれているということが分かってきた(下写真左)。ロープウェイが下降するにつれて岩肌がゴツゴツとしてくるとともに、グレイやブラウンにも微妙なグラデュエーションが加わってくると、これだけでも一幅の絵画になる(下写真中央)。私は進化論者であって創造論者ではないのだが、このように細部まで細工を凝らした景観を目の当たりにすると造物主である神による造形かと思いたくなってしまう。更に、下がっていくと、"Horn"と岩肌の間に佇むゼーSeeが見えてきた(下写真右)。ドイツ語の"See"は英語の"lake"に当たり「湖」という意味だから、寧ろ英語の"pond"に当たる「池Teich」と称した方が良さそうにも思えるが、この手の「湖」は随所に存在していて、我々の次なる目的地「シュバルツゼー(黒いSchwarz/湖See)」もその一つらしい。こんな風に岩と氷河の世界に水の光景を加えるところにも造物主の心配りのようなものが感じられるような気がしてくる。

スイスの人々に「三感」

やがて我々は、再び雲海の下の世界に戻ってきた(下写真上段左)。このようにして雲の下と上の間を気軽に行き来できるのもロープウェイのお陰だが、そのロープは急傾斜地の岩盤上に建てられた鉄塔によって支えられているのだ(下写真上段中央)。精魂込めて資財を運搬し、岩を穿って鉄塔を打ち立てたスイスの人々は本当にエライしスゴイしアリガタイ。大自然だけでなく、スイスの人々に“感”銘、“感”動、“感”謝の「三感」をしているうちに、“懐かしい”マッターフィスパ川が姿を現した(下写真上段右)。更に、岩肌がグリーンがかってくると(下写真下段左)、私たちは"Matte"(牧草地)の世界に舞い戻った(下写真下段中央)。しかし、これも束の間で、フルックから再び高度が上がると、“Mutteの上に聳えるHorn”Matterhornが我々のすぐ目の前に大きな姿を現した(下写真下段右)

シュバルツゼー展望台

女王ではなく歴戦の勇士の王なのだ

ツエルマット地区には、先刻訪れたクラインマッターホルン周辺の「マッターホルン・グレイシャー・パラダイスMatterhorn glacier paradise」の他にも、「ロートホルン・パラダイスRothorn Paradise」、「スネガ・パラダイスSunnegga Paradise」、シュバルツゼー・パラダイスSchwarzsee Paradise」、パラダイス(天国)が合計四つもある。そして、マッターホルンに一番近づくことができる天国が、このシュバルツゼーパラダイスであり、すぐ目の前にその頂を仰ぎ見ることができる(下写真中央)。しかし、まじかに見るマッターホルンは、もはや「スイスアルプスの女王」と形容できるものではなく、孤高で荘重な風格を保つ「スイスアルプスの王」と呼ぶのが寧ろ相応しい。このアルプス山脈も、ヒマラヤ山脈、ロッキー山脈と同様に、中生代末期から新生代前期に起こったプレートの衝突による造山運動でつくられた大褶曲山脈だそうだが、この「スイスアルプスの王」の顔面の縦方向に走る何条もの線は造山運動の際に刻まれたものであろう、歴戦の傷跡を残す勇士の顔のようにも見える。すかさず、「王様と私」の2ショット写真(下写真上段左)を撮らせていただいてから、都度雲の装いによって変わる王者の風貌に感嘆の声を発しながら「天国」での一時を過ごした。

いずれも♪たった一つだけの♪天国


ここシュバルツゼー「天国」は、旅行ガイドなどでは、「展望台」というより寧ろ、
マッターホルンへの登山口または、トレッキング、ハイキング、スキーなどの拠点とされて位置づけられているようだ。しかし、それでも、マッターホルンをすぐ目の前に展望できるだけではなく、マッターホルンより高いモンテローザ(4634m)、リスカム(4527m)、ドーム(4545m)をはじめ、ターシェホルン(4491m)、ダン・ブランシェ(4357m)、ジナルロートホルン(4221m)、アルプヒューベル(4206m)、リムピッシュホルン(4199m)、ストラルホルン(4190m)、ブライトホルン(4164m)、オーバー・ガーベルホルン(4063m)などの4000m超のホルン(岩峰)や、ゴルナー氷河やテオドール氷河などを眺望することができる(下写真)。花でさえ♪世界にたった一つだけの花♪なのだ。どの「天国」がNumber 1か論ずるのが不遜なことであって、いずれの「天国」もそれぞれの美しさを持つOnly 1なのだ。


衣食も足って“天国気分”

確かにこのシュバルツゼー「天国」には、「これが展望台でございます」といったような施設は見当たらなかった"HOTEL RESTAURANT SCHWARZSEE 2583m"という標識のある施設のバルコニー(下写真左)が実質的な展望台に当たり、私たちはここでゆっくりと展望を楽しみながら、スイス名物のソーセージを用いた同一料理風の昼食をとった(下写真中央)。一般に気温は高度が100メートル下がると約0.6度上がると言われるから、クライン・マッターホルン展望台3883mと、この「天国」ではちょうど1.300m高度が違って、気温も8度近く上がっていることになる。実際に、同じ服装でいても心地よく、文字通り衣食も足って“天国気分”の一時を過ごすことができた。しかし、女心と山の空(?)で、俄かに雲が立ち込めてきた(下写真右)。山歩きの心得のある山本によると、一気に天気が悪化する可能性があるという。そこで、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、「スイスアルプスの王の最も近い天国」を後にすることにした。なお、「シュバルツゼー(黒い湖)」はゴンドラ駅のそばにあるらしいのだが、頭の中の“黒い霧”に包まれたままで、ついぞ所在地を確かめることもできなかった。後になって、ガイドブックを見てみると「7〜8月になると周辺は高山植物でいっぱいになる」とあった。知識の「“更改”先に立たず」で残念なことをした。


懐かしの“アルプスの麓”に帰還

ロープウエーから鮮明に見えてきた“懐かしい”ツェルマットの村(写真下左)は、氷河で削られたU字型の谷の底に広がっているように見える。ことによると“Zermatt”の地名は、「マッターフィスパ川が"Matte(牧草地)”を"zer(分裂)"する」のではなくて、「氷河によって峡谷が"zer(破壊)"された結果できた"Matte(牧草地)”」が語源なのかもしれないな。「大所高所から見ると物がよく見える」と言うが全くその通りだ…などと勝手に納得して悦に入る癖が頭をもたげる。更に、高度が下がってくると、同じ視線に山麓の農家が現れ(写真下中央)、やがて、ツェルマット村の人々と同じ視覚から、山肌の茶色がかったグレイとその下方の草木の濃淡のグリーン(写真下右)の織り成す“アルプスの麓”の光景が仰ぎ見られるようになる。


ゴルナーグラート展望台

メッカ中のメッカ「駅前通り」

昨晩通った時には閑散とした「バーンホフ通りBarnhof-strasse」は観光客で賑わっていた(下写真左)。"Barn"が「鉄道」で"Hof"が「広場」だから、さしずめ「駅前通り」となるのだろう、世界中から観光客が、氷河急行の走るマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点「ツェルマット駅」に集まり、スネガ展望台行きケーブルカー、ゴルナーグラート登山鉄道、クライン・マッターホルン展望台行きロープウェイのそれぞれの「ツェルマット駅」から山中に散っていくのだから、山岳観光のメッカと言われるツェルマット中でも、この「駅前通り」はメッカ中のメッカだと言える。建ち並んでいるホテルは、この地方伝来の民家建築である焦げ茶色の木造シャレーで、申し合わせたように、赤いゼラニュームが植えられてバルコニーを飾っている(下写真中央)。この木造シャレーの焦げ茶と赤が背景のグレイとグリーンとマッチし、ツェルマットならでは雰囲気を醸し出している。しかも、村内の移動に電気タクシーや馬車などしか使われていないこともあって空気に清浄感が感じられる(下写真右)。

マッターホルンの顔も三度まで

ロープウェイの「ツェルマット駅」から「駅前通り」を抜けてゴルナーグラート登山鉄道の「ツェルマット駅」に向かった私たちは、今度は「ゴルナーグラート展望台Gornergrat (標高 3,130m)」を目指す。水口は、もう何回か来たことがあるというので今回はスキップ。山本、中沢、それに私の野次喜多トリオが、クライン・マッターホルン展望台、シュバルツゼー展望台に次いで、マッターホルンとの三度目の“公式対面”に臨むことになる。「仏の顔も三度まで」というが、それぞれ立場を変えて敬意を表しながら臨んでいるのだから「マッターホルンの顔も三度まで」は許してもらえるだろう。ところで、ガイドブックには「料金CHF72(往復)」とあったのに、CHF60しか取られなかった。「間違いじゃないの?」と聞いてみると、切符売り場の初老の女性は優しそうに笑いながら、「いいのよ、午後出発の場合は割引になるの」と教えてくれた。12スイスフラン得したから言うわけではないが、なんだか、会う人会う人、スイスの女性がみんな上品で優しく知的に見える。こちらのブロークン・イングリッシュにも聴き取りやすい英語で応じてくれた。

ヨーロッパ最高地上駅めざし急勾配を行く登山電車

ヴァリスアルプスは、ツェルマットの村を要として、複数の山系と氷河が扇子状に広がっている。扇子の右端は、シュバルツゼーの山系で、その奥にマッターホルンが聳えている。これからゴルナーグラートGornergratの"Grat"の「尾根」という意味で、最左端のロートホルン山系から2番目の
ゴルナーグラート山系の尾根筋にある。ゴルナーグラート登山鉄道は、山系の右斜面を登って行く(下写真上段左)から、車窓からは、すぐ目の下に牧草地Matte下写真上段中央)そして“対岸”の山系とマッターホルンなどの岩峰Horn(下写真上段右)展望できることになる。

日本にも箱根登山鉄道という山岳鉄道があり、この勾配は80/1000(80パーミリ:1,000m走る間に80mの高さを登る勾配)で世界第2位」とされているが、これは車輪とレールとの摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う「粘着式鉄道」の部での話。ここは、2本のレールの間にあるギザギザの歯型のレール(ラックレール)を敷設し、車両の床下に設置された歯車とかみ合わせることによって急勾配を登り下りする「ラック式鉄道」(よく耳にする“アプト式”もこの一種なのだとか)になっていて、「地上駅」(*)としてはヨーロッパ最高地点(標高3089m)とされる終点ゴルナーグラート駅めざして、最大勾配200パーミルという急坂をぐいぐいと登って行く。全長9.3kmというから平地では決して長くない行程だが、標高差が1400mもあるところを約40分で登りつめてしまうのだから大した高速クライマーだ。そのため、車窓の景色の移り変わりも速く、眼下に緑地が見えていたかと思うと(下写真下段左)、いつの間にか、ハイキング・コースが走る枯れ草の草原とよりり接近した岩峰の景色が見えるようになり(下写真下段中央)、更に、ローテンボーデン駅Rotenbodenくらいにまで高度が上がると、赤土と氷雪の世界へと変わってくる(下写真下段右)。

* 実際には、終点のゴルナーグラート駅は、ユングフラウヨッホに次いでアルプスで2番目に高い(標高)鉄道駅なのだが、ユングフラウ鉄道がほとんど「地下」を走るので、“「地上」の鉄道としては、ゴルナーグラート鉄道がヨーロッパ1なのだ!”という説を依怙贔屓(エコヒイキ)してそのまま引用したもの。


クール!マッターホルン眺めつつ飲むスイスのビール

クライン・マッターホルン展望台では同じ高さの目線で相対峙する形で、シュバルツゼーでは直近から見上げて、それぞれ眺めたマッターホルンだが、ここからは距離をおいて遠方に雄雄しく屹立した姿を眺望することができる。駅から少し登ると天文台を備えたホテルがあって(下写真右)、自然と人工の取り合わせの妙が目を楽しませてくれる。
いたずら心を起こして、マッターホルンを眺めながらスイス産カランダKALANDAビールを飲み干し、自然と人工の取り合わせの妙(Cool!)で喉も楽しませてから、マッターホルンとカランダ・ビールの2ショット写真をカメラに収めた(右写真)。ビール缶には"Chur"という表記があった。スイス西部にあるクール地方の産なのだろう。名実ともに“クール”な体験であった。

山々と氷河が織り成すダイナミックな大パノラマ

このゴルナーグラート展望台(標高 3,130m)は、ツェルマットで一番有名な展望台とされるが、それは遠方にマッターホルンが展望できるからというだけのことではない。つい目の前にスイスアルプス最高峰(ヨーロッパアルプス最高峰はフランス・イタリア国境のモンブラン)のモンテローザMonteRosa(4634m)(*)をはじめ、リスカムLiskamm(4527m)カストールCastor(4228m)、ブライトホルンBreithorn(4164m)ポリュックスPollux(4091m)などの4000mを越える山々が聳え立ち我が目を圧する。そして、山々の沢の部分にはそれぞれに氷河が張り出していて、それらが数条の支流をなして、つい眼下に見える本流のゴルナー氷河に流れ下っている。実際には、重力によって流動する氷河の流れは緩やかなものなのだろうが、ここでは様々な形状をした氷河たちが先を争うように雪崩落ちてきているように見える。山々の岩肌と氷河が織り成す大パノラマはダイナミックで息を呑むばかりだ。朝からずっと続いていた青空は消えていたが、このおどろおどろしいまでのスペクタクルの背景としては荒天模様の方がずっと似合いだと思った。天候の移り変わりのタイミングにも恵まれて、様々な視角からヴァリスアルプスの景観を心行くまで堪能することができた。

* 正確には「モンテ・ローザ」とはピーク群の総称であって、その最高峰が標高4634mの「デュフォーシュピッツエDufourspitze」なのだそうだ。


パスポート紛失事件の顛末 Part2

ホテルに戻ってみると、私たち三人がゴルナーグラート展望台に行っている間に、水口がパスポート再取得の手順について調べてくれていたということが分かった。最近はパスポートの再発行に数日間を要するということはなくなり、パリの日本大使館に出頭すれば即日再発行してくれるのだそうだ。そういうことになると話が違って、リヨン・ニース旅行を中止する必要がなくなってくる。そこで、水口の提案どおり、スイス旅行が終わった時点で中沢一人がパリに戻って、パスポートの再交付を受けてからニースでリヨン経由の私たちにジョインすることになった。とはいえ、慣れないパリに一人赴くのは心細いことだろうと思い、中沢が入浴している間に、ガイドブックと首っ引きになって、地図から日本大使館の所在地を探し出して、メトロの最寄り駅と乗り継ぎ順序を調べてメモしたり、電話番号とともにタクシーを利用する場合に運転手に手交すれば分かるように、日本大使館のフランス語表記"Ambassde du Japan"をメモしたりして、ガイドブックから切り離したパリ市内地図とともに中沢に手渡した。困ったときはお互い様で、水口隊長にばかり面倒をかけるのは良くないと判断して自主的にしたことであったが、まさに「情けは人のためならず」で、この作業を通じて私自身がより一層“パリ通”になれたような気がした。実際、渡したメモや地図が中沢の役に立ったのかどうかも分からない。

名物に美味いものなし

「ポスト・スイス旅行」の段取りについて衆議一決したところで、私たちは空腹を癒しにバーンホフ通りに繰り出した。なかなか雰囲気が良くて、しかも、あまり高そうに見えないレストランがすぐに見つかって、まずは、いつものようにハイネケンで乾杯。私は、メニューの中から“スイスの味覚”とインプットしておいた「チーズ・フォンデュ」を迷わず選択してオーダーしたのだが、水口が「俺はこれにしておくよ」と選んだのは鱒料理であった。ツェルマットを流れるマッターフィスパ川の白濁の川相を見れば、この当たりの川や沢で鱒が釣れないのは明らかなことだ。それなのに、どうして“あんなに美味しいフォンデュ”を敬遠して鱒に走るのだろうか。スイス来訪の機会が多かったから“スイスの味覚”に食傷しているのだろうか。しかし、この謎はやがて解けた。運び込まれてきた「チーズ・フォンデュ」は、鍋に入れたチーズを白ワインで溶かしたもので、これをパンの小片でからめとって食べるという単調なものであり、“あんなに美味しいフォンデュ”とは別物だったのだ。思い返してみれば、私が「フォンデュ」を食したのはただの1度しかない。大学から東芝にかけての友人である浮貝純一兄宅でご馳走になった“あんなに美味しいフォンデュ”は実は「オイル・フォンデュ」であって、彩りも豊かな野菜類や魚介類(シロギスまで!)などの串刺しの食材を油で揚げて食するものだったのだ。ところが、この“スイスの味覚”ときたら、待てど暮らせど魚介類はおろか野菜類が運ばれてこず、パンを口に運ぶ手順の繰り返しばかりで退屈なこと夥しい限りだ。思い切り「名物に美味いものなし」を実感させられてしまったが、元はと言えば「一(オイル・フォンデュ)を知って十(フォンデュ全体)を知る」気でいた私のいつもの思い込み癖のせいだったのだ。
(2007/9/3)
ホテルの窓からご対面

起きがけに、何気なく窓のカーテンを開けた私の寝ぼけ眼に、思いもかけず青空を背にしたマッターホルンの姿が飛び込んできた。思わず「すごい!」と声を発し、この“発見”の喜びを分かち合うべく、同室の中沢に「見て見て」と勧めてみたのだが、中沢は“なんだ、ようやく気がついたのか”と言わんばかりに、「それがツェルマットのホテルの売り物なんだよ」と、感激のそぶりも見せず受け流すのみで、体を窓際に運ぼうともしなかった。なんだ、もう知っていたのかよ。しかし、中沢は、こればかりでなく「アルプスには4000m級の山が38座もあるんだぞ」と博学振りを示してくれた。

“おじいさんの4000m峰”アラリンホルンの如く

後日調べて分かったことだが4000m級の38座のうちに「アラリンホルンAllalinhorn(標高4,027m)」というのがあって、そこにこの「アラリンホテル」の名が由来しているようだ。地図で見ると、右端がマッターホルン、そこから左にブライトホルン、モンテローザと続き、そこから大きなフィンデル氷河Findelgletscherを隔てた左端のところにアラリンホルンはあるから、ことによると昨日のマッターホルン観光の過程で私たちの視界に入っていたのかもしれない。アラリンホルンは、登るのが最も簡単な4000m峰の一つとされ、「おじいさんの4000m峰」と呼ばれて親しまれているそうだが、その頂上からの展望は芸術的なまでに美しいのだとか。このアラリンホテルも、アラリンホルンと同じように、旅人に親しまれるとともに美観を提供することを願って建てられ営まれているのに違いない。さりげなく花をあしらった玄関(下写真左)に気さくに迎え入れられた旅人は、彫刻が施された木製の天井が居心地の良い雰囲気を醸し出す客室(下写真中央)で夜をすごし、新鮮なフルーツやミルクなどが豊富にサービスされる朝食(下写真右)を供されて、また新しい旅に立っていく

フィナーレはモルゲンロート

朝食サービスの始まる7時より早くレストランのある1階に下りてみると、誰かが「すごい」と声を発しながら橋の方から引き返してきた。何事ならんと外に出てみると、橋の上に人が群がっており、人々の目線の先に朝焼けのマッターホルンが見えた。これが、あの「モルゲンロートMorgenrot」(Morgen[朝]+Rot[赤]/朝日をうけて雲が赤く染まること)なのか。我々は、思わぬところで、頬紅さした“スイスアルプスの女王”の薄化粧姿にめぐり合う僥倖に恵まれた。マッターホルンはフィナーレを飾ることを忘れずにいてくれたのだ。
また、後で知ったことだが、我々がたまたま来合わせたこの場所、つまり、マッターフィスパ川に架かるこの橋の上が、ツェルマットで最高のビューポイントなのだそうだ。しかし、“ご来光”を拝みに来ているいるのは日本人だけであった。

ユングフラウ観光

船頭多くして車オカマを掘る

アラリンホテルに電気自動車のタクシーを呼んだ我々は、バーンホフの駅でケーブルカーに乗って、ツェルマットに名残を惜しみながら「テッシュ」に下った。昨日は暗くて見えなかったが、左右両側に山壁があり、ケーブルカーは、その間にあるU字形の牧草地の傾斜を上り下りしていたのだと言うことがわかった。岩肌は針葉樹で覆われているが、崩れ石があちこちに散見される。こうして見ると、ツェルマットが氷河によってけずりとられてできたU字形の谷間の村なのだということを身をもって実感することができる。なお、右側には白濁したマッターフィスパ川が流れ下っており、その流れに沿って自動車道路が走っている。今日は、これから車で「フィスプ」に下るまで、このマッターフィスパ川による“伴走”が続くことになる。
さて、テッシュ駅に着いて駐車場で車を探し出して、ユング・フラウ観光へ向けていざ発進。ところが、ここでちょっとしたアクシデント発生。バック発進のためハンドルの切り替えしをしていたところ、誘導に立った中沢と後部座席の山本による「バック・オーライ」の時間差コーラスに運転の水口が惑わされてしまって、車の後部が真後ろの支柱にゴーンとぶつかってしまったのだ。「船頭多くして船山を登る」だが、車の場合も船頭が多いと「車オカマを掘る」結果になってしまう。幸先良からぬ出来事に、何やら不吉な予感がする出足となってしまった。


“ヨーロッパの分水嶺”に大接近

再び、一昨日曲がってきたフィスプの交差点まで降りた我々は、今度は来し方から方向を変えて右折し、ローヌ川沿いの道を行く。「シンプロンSimplon」の標識などは交じるものの、ナビゲーターとしての地図と標識の照合作業はここではさほど難しいものではなく、次の目標地点である「ブリークBrig」は難なく通過することができた。ところが、「フルカFuruka」の標識が見え始める頃になってから、ナビゲーションがややこしくなってきてしまった。我々の次の通過予定地の「グレッチュGletch」の標識がなかなか出てこず、しかも、「フルカ」との位置関係が分かり難かったからだ。
そこで、水口隊長得意の“勘ナビ”の出動するところとなり、「フルカ」との分岐点のところで我々は左に方向をとったのだが、実はこの「フルカ峠」が“大変な”所であるということを後になって知った。この峠には、ローヌ氷河を見下ろす展望所があり、この氷河がローヌ川の源流になっているのだそうだ。そして、峠の西側に降った雨や雪がローヌ渓谷を下り、レマン湖から地中海へ注ぐのに対して、東側に降った雨や雪はロイス川からライン川を経て北海に注ぐというから、「フルカ峠」が“ヨーロッパの分水嶺”になっているわけである。
また、かっての鉄道はラックレールを使ってフルカ峠までよじ登っていたそうな。今回我々はお世話にならなかったが、今や世界的に有名になっている「氷河特急」の“氷河”という名前は、ここからローヌ氷河が眺められたことに由来しているのだそうだ。現在では「フルカトンネル」が開通しているので、「氷河特急」の車内からは“氷河”を見ることができないという“氷河ない”状態になっているのだが、これをもって「偽装」だと非難する向きはいないようだ。

忽然と眼前に現れた“モンスター”

水口隊長得意の“勘ナビ"が当たって、無事グレッチュを通過することはできたものの、その頃になって、本日のスタートに当たって不吉な予感の方も当たって、天気が崩れ雨が降り出してきた。しかし、この「三感トリップ」が始まってから10日間ずっと好天気でいた方がラッキーだったのだと自らを慰めながら前に進む。すると、やがて前方、霧の中にぼんやりと、雪をいただく山が見えてきた。そして更に進むと、“そいつ”は、忽然として我々の眼前に、巨大な城砦の壁にも見える奇怪な姿を現した。我々の行く手を阻むかのように、目の前に立ちふさがっている“そいつ”の姿は、どう見ても「壁」であって「山」ではないのだが、よく見ると、“壁”面にジグザグのラインが走っていてここを車が登っている。要は、これが、避けては通れぬ「グリムゼル峠Grimselpass(標高2165m)」だったのだ。「あんなに高いところまで“ロッククライミング”しなければならないのか」と嘆息をつきながら、改めて見上げてみると、この“モンスター”の頭部はほとんど“真上”にあるように見える。標高差1,600mだというから、200m手前から見上げると、tanθ=1600/200となりθ≒83°となる計算だから、“真上”に見えるのも無理はない。

また訪れてみたい「グリムゼル」

しかし、自他共に名ドライバーと認める水口はひるむことなく、“ロッククライミング”にとりかかり、下からはジグザグ・ラインに見えた九十九折れ折れのヘヤピン・カーブを次々とこなしていく。高度が上がるに従って、雨が霙に変わり、更に雪がちらつき始め、これがまた牡丹雪状態に変わっていく。これとともに、3°Cを示していた車内の温度計も2°C、そして、遂に−1°Cに氷点下割れしてしまった。霧で視界はゼロだが、もとより眺望を楽しむゆとりもなく、むしろ路側に降り積む雪の量が段々と増してくるのを見て先を案ずるばかり。ようやく辿り着いた頂上で、我々の向かう先から登ってきた観光バスから降りて雪と寒さに戸惑ってようにしていた日本人観光客に聞いてみると、この先の雪量は大したことがないというので一安堵した。水口によると、以前この界隈を訪れた時には、自動車を載せた列車で来たという。この峠を車で通れるのは6月中旬から9月末までだけだとか。この“賞味期限”内に訪れて、しかも、“雪中行軍”の体験をすることができたのは寧ろ僥倖なのかもしれない。
峠を過ぎて少し行くと、向かって右側の斜面が大岩壁になっていて、そこに丸みを帯びた巨岩がいくつも並んでいるのが見える。岩々が苔むしているので、モス・グリーンとグレイ、黄土色が、えも言われず壮大にして洒脱な光景を織り成している。この世のものとも思えぬ奇景の迫力に圧され思わず息を呑む。ここは、車を止めて写真に収めたいところだが、雪道に気を配りながら運転している水口の手前、とてもそんなリクエストを口にすることはできない。霧の中でコバルト色に霞むグリムゼル湖らしきものの姿を見ることもできた。晴天ならば峠からの展望も絶佳なのだそうだ。これまでの旅程でも、「また来てみたい所」は幾つかあったが、マイナーながら「グリムゼル」は間違いなく私の「また来てみたい所番付」の上位に入る。

インターネットの魁?インターラーケン

峠を越えると、積雪も降雪も峠を越えて、下って「マイリンゲンMeiringen」を通るころにはすっかり雨になっており、更に、目指す「グリンデルワルトGrindelwald」への玄関口筋に当たる「インターラーケンInterlaken」に着いた時にはこれが大降りの雨になっていた。ところで、この「インターラーケン」は、トゥーン湖とブリエンツ湖の間に位置しているところからこの「湖(lake)の間(inter)」という名前がつけられたのだという甚だ分かりやすい説明を聞いていたのだが、後になって、この人口5700人弱の小都市がベルン州に属していてドイツ語圏なのだと知って疑問を感じた。ドイツ語で「湖」は"See"であって"lake"ではないからだ。調べてみると、1891年に解消されるまでは別の地名だったようだから、早くも19世紀末には当地で英語圏観光客の誘致を重点を置いた観光立地対策が練られていたのかもしれない。また、 最近でもスイスではバイリンガル教育が流行っており、その影響もあって、徐々に独仏語が英語にとって代わられてきているという。因みに英語の"Internet"はドイツ語でもフランス語でもそのまま"Internet"だ。情報通信技術の世界では、アメリカが圧倒的に先行しているため、アメリカ標準が実質的なグローバル・スタンダードになっている。英語というより米語がグローバル・スタンダード言語として幅を利かせてくるようになってきたのも無理はない。「インターラーケン」は、筋違いながら、「インターネット」の遠い魁なのかも。

チャーチルと同格なのだ

“雪と雨を乗り越えて”「アルプスの首都」と呼ばれるグリンデンワルドに辿り着いた我々は、先ず、本日の投宿先である"Hotel Bellevue"を探し当てた。このホテルは当地で最も古く、かつては槙有恒や秩父宮、更には、チャーチルなどの有名人も泊ったことがある由緒あるホテルなのだそうだ。このあたりは、「ベルナー・オーバーランド地方(ベルン州の高地地方)」と呼ばれ、ユングフラウ(4158m)、メンヒ(4099m)とアイガー(3970m)が「ベルナーアルプス3山」(または「オーバーラント三山」)と呼ばれているらしい。アルピニストの槙有恒は、このうちのアイガーの東山稜を1912年に日本人として初めて登頂したのだそうだが、秩父宮がこのベルナーアルプス3山ばかりでなくマッターホルンも含むスイスの高峰を登頂しているという話には少々驚かされた。アルピニストでも体育会系の宮様でもない私たちはチャーチルと同格なのだから、登山で足腰を酷使することなく、ホテルの歴史に“感”銘し、ベルナーアルプスの自然に“感”動しながら、文化的に時を過ごせばよいのだ。

いざユングフラウ(乙女)とご対面

さて、この「グリンデルバルトGrindelwald」は「森と岩」という意味だという説がある。しかし、確かにドイツ語の"Wald"は「森」いう意味だが、「岩」という意味を持つ"Gridel"に近いドイツ語の単語は見当たらない。寧ろ、"Gridel"が「緑の」という意味のある"grun"("u"はウムラウト付き)から派生したのではないかと思われるほど豊かな緑が身近に感じられる。実際に登山電車に乗ってもわかることだが、山麓部分に当たるグリンデルバルト地区は、緑の森に囲まれた牧草地であり(下写真左)農家やカウベルを着けて放牧されている牛たちの姿は見かけらるが岩の姿は見当たらない。更に、登山電車が高度を高めてグリンデルバルト地区から山岳地帯に分け入って行っても、緑の世界がこれに伴ってくるので、白とグレイの世界と共生することになる。山々が切り立っているせいか、緑だけでなく白とグレイもここでは身近に感じられる。幸いなことに、天候もいつの間にか回復してきたようだ。「ユングJung」は「若い」で「フラウFrau」は「娘」だ。きっと、ユングフラウも純白の乙女の姿を身近に見せてくれることだろう。登山電車が高度を上げるのに連れて、我々のテンションも高まってきた。

明暗分けるクライネシャイデック

更に登山電車が登って行くと、青さを取り戻した空を背景に、山々の巍巍とした稜線と入り組んだ岩肌の姿が車窓に迫ってくるようになってきた(右写真上)。しかし、好事魔多しで、更に高度が上がって「クライネシャイデックKleine Scheidegg」駅に着くころには、ガスが立ち込め霙さえ降り始めてきた。
実は、ユングフラウ周辺には、三つ鉄道があって、「ユングフラウ鉄道」はその総称として用いられているが、狭義としては、クライネシャイデック駅で乗り換えて、ユングフラウの途中にある「ユングフラウヨッホJungfrauyoch」駅(標高3,454m)まで登る鉄道のことを言うらしい。
ユングフラウ鉄道は、アイガー、メンヒ両山の山中をくり抜いて造ったトンネル内を走る。だから、クライネ・シャイデック駅を出発すると、地下鉄状態になってしまう。天候・車窓風景ともクライネシャイデック駅を境にしてし“暗いね”に転じてしまったわけである。

トンネルの全長は約7kmで、勾配が最大で250パーミル(1000m進む間に250m高度がアップする)だというから只者ではない。2本のレールの間にあるギザギザの歯型のレール(ラックレール)が、この世界有数のクライマーの足腰を支えているのだ(右写真下)

アイガー北壁の際に立つ

“地下鉄登山電車”が「アイガーヴァントEigerwand」駅で止まって5分間停車するというので、何気なく大きなガラス窓に近づいてみた。外は雪が降っている様子で窓は全体的に曇っていたが、なぜか下の左右の部分だけ透けて見えているので、窓際まで足を運んで覗き込んでみた。すると、そこは左側(左写真)も右側(右写真)も足元に何も見えない。ヒエー!ガラス窓1枚隔てた外側は絶壁になっていたのだ!ここから落ちたら一気に奈落の底までに落下してしまうという恐怖感に襲われ思わず足がすくんでしまった。「ヴァントWand」は「壁」。なんと私は、幾多のクライマー達の奪ったアイガー北「壁」の壁際に立っていたのだった。
この窓は、トンネル工事の際の土砂の排出や、登山者の救助のアクセスポイントとしても使用されてきたそうだが、よくぞこんな場所に幅が3mほどもありそうな大きな窓が取り付けられたものだ。何億円の報酬が得られたとしても、高所恐怖症の私にはとても請け負える仕事ではない。

スイス人の“力技”の歴史に“感”銘


そっかー、今俺はアイガーの“山中”にいるのかあ!ガイドブックにあった「アイガーの岩壁をくり抜いて作ったトンネル」という解説が臨場感をもって実感できる。しかも、この“地下鉄登山電車”が開通したのが1912年(大正元年)だというから驚く。因みに日本初の地下鉄が開通したのは1927年(昭和2年)だそうだ。しかも浅草・上野間の2.2キロだから“登山電車”として要素は全くなかったわけである。
中学校の社会科では確か、「スイス=時計=精密工業」などという図式を覚えさせられた。しかし、それはスイスのほんの一面にしか過ぎないのだということがここにいるとよく分かる。日本は、精密工業の代表格である時計産業ではスイスを凌駕したと言えるだろう。しかし、こんな急傾斜地で岩盤を掘削し、しかも、その中に電車という重量物を持ち上げる軌道を敷いたスイス人の“力技”の凄さは日本人の遠く及ぶところではない。
本来なら本格的なアルピニストしか立ち入ることができない急峻な山岳地域に分け入ってきて、山にド素人の私達がこのように自然に対して“感”動できるのも、重厚長大な力仕事を完成させたスイス人のパワーの賜物なのだ。改めて、その“力技”の歴史に対して“感”銘を感ぜざるを得ない。

乙女は我らを見放したか!

クライネ・シャイデックから2回の停車時間を含めて50分ほどトンネル内を登って行くと、ヨーロッパで一番高い位置にある鉄道駅(標高3,454m)とされる終点の「ユングフラウヨッホJungfraujoch」駅に着く。「ヨッホJoch」とは「山のピークとピークの間の鞍部」を指す言葉だが、実際にここは、ユングフラウ (4,158m)とメンヒ(4,107m)を結ぶ稜線上の鞍部に位置している。
更に、エレベーターで頂上にあるスフィンクス展望台へと上がると、なんとそこは標高3,573mで、誇らしげに「トップ・オブ・ヨーロッパ Top of Europe」と表示されている。
360度の大パノラマが広がる展望台からは、世界遺産アレッチ氷河やベルナーアルプスを一望できる」という触れ込みであったが我々のであった現実は右の写真の通り。
写真がボケているのはピンボケでも、被写体のボケのせいでもない。雪が降りしきっていて視界が遮られていて、ユングフラウ(乙女)の姿どころか、2-3m先もこの程度にしか見えないのだ。八甲田山雪中行軍では「天は我を見放したか!」だが、我々は不吉な予感が的中して、「乙女は我らを見放したか!」の状態になってしまったのだ。因みに、温度表示はマイナス9℃とあった。いくら乙女が高齢者に無縁だとは家、これではあまりに冷たく心寒いではないか。

♪乙女よさよなら また来る時には笑っておくれ♪

ユングフラウの冷たい仕打ちに気落ちして、♪山よさよなら ご機嫌宜しゅう また来る時に“は”笑っておくれ♪と「雪山“惨歌”」を口ずさみながら“下山列車”に乗り込んだ気の毒な私たち。しかし、車窓風景と天気は、クライネシャイデック駅を境にして、今度は天気もろとも暗から明に転じた。青空が蘇り、「ちょっとだけよ」と言わんばかりに、ユングフラウの一角が姿を見せたのだ(下写真左&中央)。更に、「アプリグレンApliglen」まで下ってくると、一面の針葉樹林の“グリュンバルト”(grun Wald 緑の森)の世界が眼下に広がり我々を癒してくれた(下写真右)。
(2007/9/4)
グリンデルバルト朝景色

朝食前の一時を我々はグリンデルバルト散策としゃれてみた。山間の村への朝の訪れは遅く、まだ寝静まったままのシュレーや近傍の山々の彼方に青空を背にした雪山がようやく姿を現してくる(下写真左端)。それが、少し明けてきて目を転ずると、近くにも雪山があったのだということがわかってくる(下写真左から2枚目)。ここの標高は1.034mだから、標高1,602mのツェルマットより低地になるのだが、こちらの方が高山が見に迫って見える。いずれも、氷河期に削り取られたできた「U字谷」の底にあるのだろうが、グリンデルバルトの方がツェルマットより鋭い角度で削られていて、寧ろ「V字谷」に近い地形なのかもしれない。ツェルマットの村からは見ることができなかった氷河も身近に見える(下写真右から2枚目)。また、ここは「バルトWald」の名に相応しく、高木が密生しており、雪山の白とグレイと針葉樹のダークグリーンが織り成す風景を至る所で目にすることができる(下写真右端)。これもツェルマットと違っているところだ。カナディアン・ロッキーを訪れた時には、高木限界が高度2,200mと知ったが、ここスイス・アルプスではツェルマットの1,602mが高木限界に近いのかもしれない。

えっ、
"MATSUMOTO"だって?


グリンデルバルトの村は散策する私たちの目を飽きさせるようなことをしない。様々な山容の山々がコラボする景色を見せてくれるかと思うと(下写真左)、谷合に朝靄が立ち込める山岳風景に花が彩りを添えてくれるという一小間もある(下写真中央)。歩くのに攣れて変わる景色を楽しんでいる私たちの目に、"MATSUMOTO"と書かれた標識が飛び込んできた(下写真中央)。一瞬、矢印の先にこの日本的な名前の場所があるのかと思ったが、よく見ると"MATSUMOTO CITY 12,356KM"とあったので、これが長野県の松本市の方向を示しているものだと分かった。ツェルマットが新潟県の妙高高原町(現・妙高市)と姉妹関係になっているのに対して、ここグリンデルバルトは「信州安曇村」(現在は松本市に合併)と姉妹土地(?)になっているらしい。

“アイガーもと暗し”であった


散策を済ませてホテルに戻ってみると朝食の準備ができていて、スイス人にしては長身の(多分そうだと思う)ユングフラウが私たちを優しい笑顔で食堂に案内してくれた。この"Hotel Bellevue"は、コテージ風の小さなホテルで、食堂からもすぐ外に出られる。食後、何気なくドアを開けて外に出て見ると、すぐ目の前に屹立する山々が見えた(右写真)。不覚にも、こんなにすごい山々が見えるのに気づかずにいたのだ。「一体何ヤツなんだ、こいつらは」と思って食堂に戻ってユングフラウに教えを請うと、仕事の手を止め食堂から出てきてくれて、「あれがアイガー、これがベッターホルン…」と一つ一つ指差しながら丁寧に教えてくれた。
昨日我々を冷たくあしらった山娘(ユングフラウ)に比べて、この村娘(ユングフラウ)はなんと優しくて親切で純朴で気さくなんだ。美しいユングフラウ(優しい人は美しいものなのだ)によると、向かって左から、ヴェッターホルン(3701M)、マッテンベルク(3104M)、フィーシャー・ホル(4049M)、アイガー(3,970M)と並んでいるらしい。それにしても、あの音に聞こえたアイガーのすぐ足元にいながらそれに気づかず“アイガーもと暗し”の状態で、私たちはグリンデルバルトの村を彷徨っていたわけだ。

“お口直し”のジュネーブ再訪

“3首都踏破”を達成

グリンデンバルトから、インターラーケンに戻る途中で見た渓流は、昨日の雨のため白濁していた。しかし、インターラーケンから西に進路をとった我らがレンタカー「ルノー・セニックRunault Scenic」の車窓から見えたトゥーン湖は美しいコバルト・ブルーの水を湛えていた。そして、久方ぶりに乗った高速道路を疾走していくと、道はベルンBernの環状線につながっていて、その市街を掠めるようにして進んで行く。さすがにスイスの首都だけあってビルが多いが、きれいな青色をして流れる川と針葉樹の林の静かな佇まいを垣間見ることもできた。恐らく、こじんまりとした美しい都市なのだろう。いずれにしても、甚だ略儀ながらスイスの首都ベルンにも車上より挨拶を済ませ、我々はロンドン、パリと並んで“3首都踏破”を達成したことになる。

早くも秋への移ろいローザンヌ

ベルンから南西に進路をとり、イベルドンYveldonを経由して、レマン湖の北岸のローザンヌLausanneに着いた。ヴォー州の州都だそうだが、北東のベルンから約80キロ、レマン湖に沿って南西にあるジュネーヴから約50キロというところに位置していて、もうここはフランス語圏になっている。湖面が海抜380mというレマン湖の湖畔にあるこの「ジュネーブ〜ローザンヌ」地区がスイスでは一番海抜が低いことになるが、確かにローザンヌ郊外で立ち寄ったコーヒースタンドの外に立ち並ぶ樹木を見ても広葉樹が圧倒的に多くなっている(右写真)。まだ9月上旬だというのに、“スイス晴れ”の青空を背にした木々たちはほんのりと黄色みを帯び、早くも秋の装いに移ろいゆく姿を見せていた。

「日本料理店」看板の危うさ


さて、パスポート紛失事件発祥の地“悪夢”のジュネーブに到着。AVISでレンタカーを返却する際に尋ねたところ9/2に借りてから今日までの4日間に我々が走行した距離は635kmだということであった。1日平均160km弱で、3週間で9,000kmを走破した「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」
1日平均430km弱には及ぶべくもないが、この間に我々はスイスの自然に“感”動し尽くしてきたために“悪夢”は消えかけ、「スイス」に対する印象は大きくプラスに転じていた。
後は「ジュネーブ」の“口直し”をしてからスイスを去るのみ。再びフランス入りするまでの残された時間を精一杯有効に使おうとジュネーブ観光に繰り出した。空腹に見舞われたこともあって、先ず我々の目が釘付けになったのは、パスポート紛失事件の際にも何回も前を通って気になっていたジュネーブ駅前の日本料理店「稲ぎく」の看板であった。しかし、早速、久方ぶりで日本語で馴染みの料理を発注できるぞと飛び込んでみたのだが、従業員は全員中国人で、結局は水口のフランス語で日本料理を注文する破目となった。実は、もう1軒、我々はこの手の“看板倒れ”を同じジュネーブの街で体験している。「すし」という日本語の看板が掲げられていながら日本人がおらず、しかも、この場合にはメニューに「寿司」が入っていなかったのだ。国は違うが、デュッセルドルフで日本料理店を経営して羽振りを利かせていた高校時代の友人が行方不明になっていることも思い出した。日本人の経営者または従業員による海外での日本料理店経営・運営には現地に馴染み難い何かがあるのだろうか。「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」の際にこの目で見てきた、中国人の経営者または従業員による中華料理店の津々浦々にまでへの定着振りと好対照のような気がする。
しかし、「稲ぎく」で供された天ぷら定食は、中国人の調理によるものであるにもかかわらず純日本的なものであった。
天ぷらのネタは、イカ、なす、ピーマン、かぼちゃ、海老、赤ピーマン、米ナス、かき揚げに玉葱という堂々たるものであったし、味噌汁にも、油揚げ、豆腐、ワカメといった具が配されていた。こと料理に内容については、“看板倒れ”ではなくて“看板に偽りなし”と言ってもいいだろう。中沢などは、すっかり日本ムードに気を許してしまって、従業員さんに日本語で「お茶、お代わり」と口走って、「ここは日本じゃないんだぞ」と水口にたしなめられていた。
確かに、日本国内のように“粗茶”を無償で提供するようなサービスはここでは期待するだけ無理というものだろう。

「永世中立国スイス」の立役者ジュネーブ

ジュネーブの街も、改めて見てみると、地味ながら洗練された佇まいをしている。ビルの高さも統一されているのか凸凹がなく、その中層ビル街の狭間を3両編成のトラム・カーが走っている(下写真左)。レマン湖の畔のブランズウィック卿記念碑広場も、外塀周りにさりげなく花を施した公園に設えられていて、市民の憩いの場となっている(下写真中央)。また、モンブラン橋を渡った対岸のイギリス公園からみると、湖岸に高級なホテルが立ち並んでいるのが見える(下写真右)。
人口からすると、チューリッヒ、バーゼルに次ぐスイス第3の都市なのだそうだが、 国際電気通信連合 (ITU) 、国際労働機関 (ILO)、世界保健機関 (WHO)、赤十字国際委員会 (ICRC) 等々数多くの国際機関が所在し様々な国際会議もここで行われている。国際都市ジュネーブこそ「永世中立国スイス」の陰の立役者であると言っても過言ではなさそうだ。

三国水陸制覇は成らず

レマン湖 Lac Lemanは、中部ヨーロッパ最大の湖だそうだが大きさは大体琵琶湖に近い。クロワッサンの形をしているが、スイスとフランスの国境にまたがっているので、湖面の60%はスイスだが、残り40%はフランスに属している。東端からローヌ川が流入し、南西端岸に位置するここジュネーブからフランス更に地中海へ向けてまたローヌ川として流れ出て行く。ローヌ川がアルプスの氷河から集めて運んできた鉱物質が溶け込んでいるためか、マリンブルーの美しい湖面でマリン・スポーツの拠点にもなっているようだ。
湖岸にはホテル(下写真左)やリゾート・コンドミニアム(下写真中央)が立ち並んでいるのもくっきりと見え、天気晴朗にして波静か。しかし、モンブラン橋の橋げたに掲げられた旗が引きちぎられんばかりに棚引いている(下写真右)ところからも分かるように本日はものすごい強風。そのため、乗ろうとしていた観光船は全て休航。そのため、テームズ川(イギリス)、セーヌ川(フランス)に次いでレマン湖(スイス)の水上観光を行うことによって果たそうとした“三国水陸制覇”は成し遂げることができなかった。
ところで、ツェルマットに向かう際にレンタカーで渡り、今日また徒歩で行き来した「モンブラン橋」の名前の由来は、「ここからヨーロッパ最高峰のモンブランが見える」というところから来ているらしい。日本で言えば、さしずめ「富士見橋」と言ったところなのだろうが、橋上では強風のため吹き飛ばされそうな帽子を押さえるのに手一杯になっていて、残念ながらモンブランの姿を確認する余裕がなかった。

再びフランスに戻ってリヨンへ

パスポートが見つかった・・・が

さて、かねての打ち合わせ通り、中沢は大使館でパスポートの再交付を受けるために単身パリ行きTGV(高速列車:Train a Grande Vitesse)に乗って行く。ともに出国手続きを済ませてから、我々3人は中沢と袂を分かって、無事「9/6 19:15中沢ニース着」で再会できるよう祈りながらリヨン方面行きのTGVに乗りこんだ。そのTGVがジュネーブ駅を出発するかしないかのうちにジュネーブ日本総領事館の中島さんと名乗る男性から水口の携帯電話に、中沢の紛失したパスポートが届けられて来たという旨の連絡が入った。ビデオカメラや現金の入ったバッグは持ち去られていたというから、やはり、遺失したのではなくて盗難に遭ったのであり、犯人が精一杯の良心を示してパスポートだけは分かりやすい場所に放置して届け出させるようにしてくれたものと思える。
それにしても、当事者は中沢なのに、どうして水口宛に連絡が来たのだろう。この謎はすぐに解けて、中島さんが親切に、中沢がパスポートに書いておいた「日本の連絡先」に電話してくれて、中沢夫人から水口の携帯電話番号を聞きだしてくれたためだと分かった。実は、パスポート紛失事件について予め中沢夫人に連絡しておくべきかどうか迷っていたのだが、何のことはない、総領事館経由の“公式ルート”で中沢夫人に伝えられていたのである。
しかし、このパスポート発見は時既に遅しで当方はパスポート再交付を申請する方針に決め、当事者の中沢は既にパリに向かっているという旨水口が告げると、中嶋さんは「パスポートなしで、よくスイスを出国することができましたねえ」と感嘆の(呆れた?)声を発した。そう言えば、我々は、ジュネーブの警察で発行してもらった「パスポート遺失証明書」がパスポート代わりになるものと勝手に判断して、大手を振って出国管理事務所を通り過ぎてしまっていたのだ。“堂々たる密出国”だったわけだが、あまりに我々の態度が堂々としていたために当局の担当者も疑念をはさむ余地がなかったのだろう。

複雑な地殻構成思わせる車窓風景

リヨンを目指して南下するTGVの車窓には、イル・ド・フランスフランスでは見ることのできなかった風景が展開する。しかも、進行方向に向かって右手と左手で、かたや縦方向に皺のある粘土質の絶壁と潅木、こなた横方向に層を成した水成岩の隆起と見られる岩山と喬木といったように、それぞれ異なった地勢が観察できる。
恐らくこのあたりの地殻は複雑な構成になっているのだろう。過去に何回も地盤の隆起や沈下による地殻間の軋み合いがあったものと思われ、「地震の巣」になっていても不思議なさそうに見えるのだが、「中仏大地震」などという報道にはついぞお目にかかったことがない。こんな風に目に見えない地殻にまで思いを馳せてしまうのは、地震大国日本国民の“地殻過敏”のせいなのかも知れない。

フランスの大阪
「食通の街リヨン」

リヨンLyonは、フランスの南東部に位置する都市で、フランス第二の規模の都市圏を構成している。パリを東京とするなら、さしずめ大阪に当り、日本の新幹線が初めて東京・新大阪間に開通通した(1964年)と同様に、TGVもパリとリヨンとを結びんで初めて開通している(1981年)。
北東から流れ込むローヌ川と、北から流れ込むソーヌ川がリヨンの南部で合流している。淀川水系を利用した物資の運搬により「水の都」として発達してきた大阪と同じように、リヨンもこの2本の川の水運をベースとして発展してきたのだろう。ソーヌ川の西側は石畳の街並みの残る旧市街で、リヨンの象徴ノートルダム大聖堂の建つフルヴィエールの丘があるのだそうだが、私たちは脚を伸ばさなかった。日が暮れつつあることもあったが、何よりここが「食通の街リヨン」だからなのだ。この点でもリヨンは「食い倒れの街・大阪」と似たところがある。
繰り返しになるが、リヨン市にはリヨン駅という名の駅がない。「パールデュー駅(Part-Dieu)」で降りてからタクシーで向かったのは「ホテル・ルーズベルト」。よほど古いホテルなのだろうか、エレベーターのドアも「かご」も木製なので驚いたが、客室内にホテル名の入った傘が開いておいてあるのもユニークだった。

“元祖フランス料理”をワイワイと

「フランスがまだヨーロッパの片田舎であった頃、文化の中心地イタリアのメディチ家仕込みの宮廷料理をリヨンは我が物とした」と聞き及んでいたので、我々は威儀を正してスーツ・ネクタイを着用して臨んだのだが、我々の飛び込んだレストランは“宮廷料理”とは程遠い庶民的な雰囲気であった。
リヨンは宮廷料理を片田舎風にアレンジして我が物としたのに違いない。店主も田舎気質むき出しの愉快な人で、「これ自家製のピクルス」などと言いながら勝手に自慢の品を運んでくる。お世辞抜きに美味いから褒めると「これも」「これも」という運びになる。ワインにしても然りで、「これハウスワイン」から「これも」「これも」という流れになる。メインディッシュも右上写真の通り、全くパリ風の気取った”おフランス料理”的なところだない。パリ流は、リヨンが片田舎風にアレンジして開発した元祖フランス料理を再び宮廷料理風に戻した亜流なのではないだろうか。
リヨンはワインの大量消費地なので、ワインは「リヨンを流れる3番目の川」とおどけて言われるそうだ。隣席にポアチエ地方という田舎から来たという三人組がいて甲高い声で話しているのが気になっていたのだが、いつの間にか「3番目の川」でつながり、最後には右下上写真のような”おフランス料理店”にはあるまじきポーズを撮り撮られる間柄となった。

「ミシュラン」レストランvs「ゴ・ミヨー」ビストロ


ところで、フランスのグルメ・ガイドブックといえばご存じ「ミシュラン」。フランスの世界最大級のタイヤ会社が、タイヤの宣伝を兼ねて自動車旅行者に有益な情報を提供するためのガイドブックとして無料配布されたのが「ミシュランガイドGuide Michelin」の始まり。それらのうちで代表的なものが、レストランの評価を星の数で現すことで知られるレストラン・ホテルガイドであり、これが装丁が赤色であることから赤本(ギド・ルージュ Le Guide Rouge)と通称されていて、この赤本で三つ星を得ることが世界中のシェフたちの夢なのだとか。
ところが、「食通の街リヨン」と言われながら、「ミシュランガイド」の三つ星がリヨン市内には一つもないのだそうだ。同誌の採点基準には、客室の雰囲気・豪華さの他にトイレの設備・広さ等も入っているようだから、格式の高い“おフランス料理”のレストランでなければ三つ星の取りようがないのだろう。
庶民派で、郷土色豊かな家庭料理の“味”を尊ぶリヨンっ子は、そんな「ミシュランガイド」は相手にせず、「ゴ・ミヨー Guide Gault Millau 誌」の方を高く評価しているのだそうだ。この「ゴ・ミヨー」は「ミシュラン」が伝統を重んじているのに対して、フランス料理の様々な流れも敏感にとらえていて、例えば「ビストロ」などを得意としているらしい。ビストロと言えば「居酒屋」または「食堂」くらいのニュアンスの言葉で、フランス各地の郷土料理で知られる店が多いのだそうだから、我々が郷土料理を楽しんだ店こそまさにビストロ。道理で「居酒屋」のような寛ぎを感じさせてくれたわけだ。
ところで、単身パリに行っている中沢のことが心配になっていたのだが、ようやく通じた携帯電話からは中沢の意外にも寛いだ感じの声が聞こえてきて、「今パリの“居酒屋”に入っている」とのことであった。案ずるより産むが易しの話であったが、何のことはない、パリとリヨンと場所を分かって、我々は同じ「ビストロ」に居座っていたわけである。
(2007/9/5)

コート・ダジュール紀行

ローヌ川とともに南下

リヨンから再びTGVに乗って南下してしばらくすると左遠方に雪をいただいた岩山の山脈が見える。恐らく、あのあたりが1968年に冬季オリンピックが行われたグルノーブルGrenobleで、アルプス山脈の西端になるのだろう。しかし、対照的に、目の前には広大な平野が広がっていて、ビールの原料として用いられるホップなどが栽培されているのが見える。アヴィニオンAvignon駅を通過する頃には広い川が顔を覗かせるが、これはローヌ川なのだろう。レマン湖から発してマドレーヌで地中海に注ぐまで、この川は私たちの旅は道連れになることになる。やがて、車窓の左右に低い茶色の台地が見えるが、ここでも、かたや縦方向に皺のある粘土質の絶壁、こなた横方向に地層の走る岩山という構図は変わらず地殻の複雑さをうかがい知らされる。そのうちに、全く想定外の「中南仏大地震」が起こるかもしれないよ、知らぬが仏の仏国の皆さん!

風光明媚なコート・ダジュール

更に南下して「マルセイユMarseille駅」に着くと、TGVはバックする形で進行方向を変え東に向かって海岸線沿いに進む。ここから在来線に乗り入れるのだろうか、スピードがぐんと下がって各駅停車になる。このあたり、つまりトゥーロンToulonを西端、イタリア国境を東端とするフランス南部の地中海沿岸の一帯が「コート・ダジュール(Cote d'Azur:紺碧海岸)」と呼ばれているらしい。実際に、初めて見た地中海は紺碧の水をたたえていた。この風光明媚な海岸には、夏季の長期休暇(バカンス)を過ごすフランス人をはじめ、北欧などの太陽に恵まれない地域から観光客が多数訪れるそうだ。車窓からも、随所にある入り江で泳ぐ人々やマリンハーバーに舫うクルーザーを見ることができる。
TGVがスピードを落としてくれるのも、私のような車窓風景愛好者にとっては嬉しいことだ。「カンヌCannes駅」を過ぎてから停まった「アンティーブAntibes駅」では蘇鉄と並び立つ龍舌蘭の白い花と咲き競う、百日紅、夾竹桃の姿を見ることもできた。ここは本場の地中海性気候の真っ只中にあるのだが、日本の“亜地中海性気候”の海岸地域と植生が何となく似ているような気がする。

トマト畑はいずこに


ところで、車窓から私はある物を探し続けてきたのだが、「ニースNice駅」に着くまで、遂にそやつは私の前に姿を現さなかった。地中海性気候の地域では、夏は日ざしが強く乾燥するので乾燥に強いオリーブが栽培されると聞いていた通り、オリーブ畑で葉を白く光らせているオリーブの姿は随所に見ることができたのだが、探し求めていたトマト畑がどこにも見当たらないのだ。実は、パリの水口宅で食卓に繁く供せられていたトマトは新鮮で美味かったのだが、井桁状の茎に四つの真赤な実がつくという妙な形状をしていた。一体どのような形で栽培されているのかと疑問に思って注意してみていたのだが、フランスの他の地域では見かけることがなかったので、これは南フランス産でしかないと思っていたのだ。ハウス栽培されている様子も見受けられなかったので、水口に聞いてみたところ、フランス国内産ではなくてスペインで栽培されたものが輸入されてきているのだということであった。そう言えば、我々はイタリアと程近いコート・ダジュールにいるのだが、南西仏のスペインとの国境からもさほど遠からぬ位置にいるのだ。フランスとイタリアはヨーロッパ連合(EU)以来の原加盟国同士だが、1986年にスペインが加盟して以来、トマトの流通もより円滑に行われるようになったのであろう。

フランス料理は素材が新鮮だったのだ

フランスは、アメリカ、カナダと並んで、世界でも有数の高食糧自給率国であるにもかかわらず、一方では、このトマトのように、EUなどを通じて提携関係を密接化させた近隣諸国から“新鮮さ”を輸入していたのだ。刺身に代表されるように、日本料理は素材に手を余り加えず、素材そのものの風味を引き立たせる素朴な調理法が尊重される。ところが、フランス料理の方は、ソースやドレッシングに凝りに凝っているように、恐ろしく加工度が高い。私は、これを素材の新鮮さの問題としてとらえ、「日本料理は乙女でフランス料理は熟女。乙女は素材が新鮮だから化粧がいらない。熟女が厚化粧をしなければならないのは素材が新鮮さを失っているからだ」などと言っていたが、パリの水口宅で日々であった野菜類などが新鮮味を極めているのを知って、私の言っていたことがとんでもない戯言だったと悟った。更に、昨日のリヨンの「ビストロ」では、フランス料理も様々であって、「素材そのものの風味を引き立たせる」フランス料理もあるのだとこの舌で知った。

ニースの“カリフォルニア”をウロチョロ


さて、“在来線TGV”はニース駅に到着。「コート・ダジュール」は行政企画ではないから、日本で言えば「瀬戸内海沿岸地区」や「湘南地方」といった呼び方に近い。しかし、小なりとはいえ、モナコ公“国”まで縄張りに含めているから瀬戸内や湘南とはわけが違う。モナコばかりでなくて、ニース、アンティーヴ、カンヌなどの主要都市が国際的な観光都市となっているところも日本の有象無象と違うところだが、とりわけ、国際空港を持つニースが、コート・ダジュールの中心的な都市ということができそうだ。
ニース駅のレストラン(ビストロ?)で“新鮮素材”のムール貝料理の昼食を摂ってから、レンタカー屋でもらった地図を頼りに、本日の我らが投宿先 Hotel Citea Nice Magnan を探す。カリフォルニア・アベニュー沿いにあると教えられていたのだが、この通りが存外長く、ニース駅から近い所にあった Hotel Citea をついつい通り過ぎてしまっていた。戻って、探し当てたところは、"Hotel Citea"の名前から漠然と想像していたシティーホテルと違ってビジネスホテルの風情であった。"Hotels & Residences"とあったから、上層階は居住用のコンドミニアムなのかもしれない。
カリフォルニア・アベニューは、ホテルやオフィス用の中層ビルが建ち並んでいて、どこがカリフォルニア的なのかわからなかったが、空だけは紛れもない“カリフォルニアの青い空”であった。

城跡公園からニース市街を展望

パリから来てここで再び合流するはずの中沢を待つ間の時間を利用して、水口は山本と私を、ビーチのすぐ側にある「城跡公園(シャトー)Chateau」の丘に連れて行ってくれた。ニース観光において外せないスポットだそうだが、緑がきれいな丘の上には人工の滝が流れ、おしゃれなレストランもあって、ニース市民の憩いの場にもナっているようだ。ニース市内で最も高い場所にあるといわれるだけあって、ここからは街全体のパノラマを一望することができる(下写真左端)。すぐ目の下に見える旧市街の家々の屋根は、かつて画像や動画で見てきた地中海風景に特徴的なオレンジ色の屋根をしている(下写真左から2枚目)。小高い山並みにまで住宅地が広がり(下写真右から2枚目)、更にその先には険しい岩山があり、要塞の跡のようなものも展望できる。そう言えば、今私達が立っているここも城址だ。かつてニースは、海の向こうから侵略を企てようとする外的に対する砦の地だったのかもしれない。しかし今は、外部に対して開放的な国際都市になっている。眼下に望む、潮目によってマリンブルーとサファイアブルーに色分けされた海面が、穏やかで美しいニースを象徴するもののように見えた(下写真右端)。

朋あり遠方より戻る

「9/6 19:15中沢ニース着」のメモを確認してからニース駅に出迎えに向かった3人はそこでもどかしい思いをさせられることになった。待てど暮らせど19:15着の列車が来ないのだ。水口が確認したところ、沿線火災のため延着だとのこと。結局1時間ほど待たされてようやく“懐かしの再対面”となった。
早速、ホテルの近くのレストラン(ビストロ?)に飛び込んで、二日ぶり4人揃っての夕食。やはり全員揃い踏みがなにより最高、牛生肉と魚スープの“新鮮素材のフランス料理”も最高。カイゼル髭というのだろうか、逆"へ"の字の形の口髭をたくわえた、往年の怪優・大泉滉にチョイ似のオーナーに、再会して最高の笑みを浮かべる4人の姿を撮ってもらった。
(2007/9/6)

地中海の渚にて


同室の中沢と誘い合わせて早朝の散歩に出かけた。「海が近いはずだ」という言葉に半信半疑でいたが、中沢の土地勘は素晴らしく、ホテルから徒歩5分程度で海岸に出た。「なんだか小田原の御幸が浜みたいだな」という中沢の言葉を受けて、「すると、あちらが真鶴岬」と見やった先は、緑の濃い真鶴岬と違って赤土の露わな絶壁続きの海岸線になっていた(下写真左端)。足元も玉砂利大の赤土の浜になっていて、渚で鴎が羽根を休めていた(下写真左から2枚目)。波は穏やかで、清く透き通った水が寄せては返しを繰り返していた(下写真右から2枚目)。初めて手を触れてみた地中海の水もひんやりとして掌に心地よかった。ホテルへの帰り際に見た街路樹は蘇鉄かと思いきや、中沢によると「カナリー椰子」というのだそうだ。“かなり”あ“やし”いが、中沢が勤めている熱海にも同じような街路樹があるというから間違いのないところなのだろう(下写真右端)。

変化に富む海岸線と海面の色調

さて、旅程も残り僅か2日となった今日は、文字通り東奔西走して、コート・ダジュールを満喫しつくしてしまおうという算段である。そこで、先ずは、モナコ方面目指して東奔してニース市街を出ると、海沿いの峠路にさしかかる。
進行方向左手は、かなりの急斜面な丘陵地になっているが、こんな所にまでオレンジ色の屋根の家が建て込まれていて“地中海沿岸”の景観を演出している(写真右)。右手に見下ろす海の景色は、所によって地形や色合いを変えて“紺碧海岸”の諸相を見せ我々の目を楽しませてくれる。


謎多き“鷲の巣村”エズ


コート・ダジュールには、サラセン人による攻撃を防ぐために岩山の頂に城壁で取り囲むようにして築かれた「鷲の巣村」と呼ばれる村が幾つもあるそうだ。断崖絶壁の頂上に貼り付くように作られていることが「鷲の巣村」の名の由来で、村自体が要塞になっているわけだが、ニースとモナコの間にある「エズEzu村」もそんな鷲の巣村の典型なのだとか。
駐車場から標高427Mだという頂上部を仰ぎ見てみると、どう見ても要塞にしか見えないが、一歩中に足を踏み入れてみると、それがまぎれもなく村であるということが分かる。敵の侵入や攻撃から守るために村の入り口を一つにしてあったり、人が行き違うのにも窮屈な程に細い石畳の路地が迷路のように設えられていたりするところはいかにも敵の侵入を防ぐように作られた要塞っぽいが、細い路地の両側に立ち並び中世の面影を今なお色濃く残している昔ながらの石造りの建物には、ブーゲンビリアや蔦が植え飾られたりしていて、明らかな生活感が感じられる。場違いがと思えるほど立派な教会があることもここが一つの共同体であることを物語っているようだ。
しかし、今ではすっかり観光スポットになっていて、土産物店が並んでいる他にハイクラスなホテルやレストランまで“村”の構成要素となっているから、どこまでが往時の生活用施設であり、どこからが観光用施設なのかが分からない。要塞の頂上部分は、今では入場料を買わなければ入れない熱帯公園になっているのだそうだ。ここで、「そうだ」というのは、石段交じりの坂道のあまりの急勾配に耐え兼ねて我々が途中で登頂を断念してしまったからである。頂上からは、「コート・ダジュールの海岸線にせり出した、切り立った山の上から地中海の絶景を見る」ことができる“そうだ”。
中世は戦いの時代だったという。しかし「鷲の巣村」をめぐる攻防の目的は何だったのだろうか。かつて、この“村”で暮らしていた人々がそれほど豊かな生活の糧を持っていたとは考えられない。サラセン人達は一体何を収奪したくてこの“村”を攻撃しようとしていたのだろうか。外部には、岩山の山肌に貼りつくようにして住宅が建てられ現代版の「鷲の巣村」が自然発生的に形成されている(下写真上段右端)。ここに住む人達の生活の糧は何なのだろうか。かつてサラセン人達が狙っていた“宝”がそのあたりに隠されているのかもしれない。

モ ナ コ 駆 け あ る 記
人口密度高いミニ国家

「モナコ公国Principality of Monaco」、通称「モナコMonaco」が、首都モナコ市がそのまま全領土となっている都市国家で、バチカン市国に次いで世界で2番目、国連加盟国の中では最小のミニ国家だということくらいは学校の地理の授業で聴いて知っていた。しかし、それが、コート・ダジュールの最東端のイタリアとの国境の近くに位置していて、サンレモ音楽祭が開かれるイタリア西南端の都市「サン・レモSan Remo」とつい目と鼻の先の位置関係にあるとは知らなかった。
旧市街地と新市街地があり、旧市街を「モナコ ビル」、新市街を「モンテカルロ」と呼ぶのだそうだ。「モンテカルロ」と「モナコ」の関係についても曖昧なままでいたが、現地に臨むに及んでようやく分かった。「百聞は一見にしかず」と言われるが、「一見」する立場になって初めて、今まで関心外であったために馬の耳に念仏であった「百聞」が意識できるようになるというのも確かなことだと思う。
平地の面積は極端に少なく、少ない平地を山と海に挟まれたような形になっている。人口は僅か32,700人(2007年、国連統計部)だが、これが歩いてでも縦断と横断ができてしまう狭い国土にひしめいているために、世界的に見ても最高級に人口密度が高いのだそうだ。地中海に面した面積の限られた平地にビルが建ち並んでいるだけでなく、市街の後背地に当る山側の急傾斜地にも住宅などが貼りつくように立ち並べており、大規模な“鷲の巣村”を形成している。

フランスの一部のようでありそでなさそで

南側が地中海に面している他は、3方をフランスで囲まれていることが示唆している通り、フランスの影響を強く受けてきているようだ。かつては(2005年にフランスとの間に新条約が締結されるまで)フランスがモナコの外交の責任を持っており、モナコ大公の即位継承にはフランスの同意が必要で、また大公家が断絶した場合はフランスに編入されることになっていたらしい。当然、「国家主権の制限」と見なされたため、日本との間に正式な外交関係が樹立されのも新条約締結後の2006年12月になってのことだったのだそうだ。モナコが、日本の承認している国の中で、正式な外交関係を有していない唯一の国であったなどとは思っても見なかった。軍事的にも、未だにフランスの庇護下にあり、“いざモナコ”という事態になった場合にはフランス軍が駆けつけてくれるようになっているようだ。
フランスとの通商関係も緊密で、欧州連合(EU)の加盟国ではないが、フランスと同じ通貨ユーロを使用している。モナコ国内の鉄道も、モナコ政府ではなくフランス国鉄(SNCF)によって運営されている。但し、マルセイユ〜ニース〜モンテカルロ〜マントン〜ヴェンティミーリア(イタリア)間の路線の中でモナコ国内の鉄道路線は僅か約1.7kmのみだそうだ。モナコを通ってすぐまたフランス圏内に入り更にイタリアへと続く高速自動車道路も当然フランスが建設したものと考えられる。
極めてフランスに対する依存度が高いということは、両国間国境に検問所らしきものがないということからも見てとれる。意識としては違う国なのに国境が見えず、フランスの一部のようでいてそうでもなさそうなといった不思議な感覚を覚える。

どこまで天国でいられるのか

そして、これは美しいマリーン・ハーバーに舫う何隻ものクルーザーやハーバー際に立ち並ぶ高級コンドミニアムを見ると、かねて持っていた「モナコは億万長者の住む所」というイメージが間違っていなかったというような気がする。しかし、億万長者達はモナコの中で財を成したのではなくて、モナコ国外で財を成した億万長者達が“タックスへブン”(税金天国:租税の義務を回避できる地区)のモナコに流入してきているのだと分かった。住民は外国籍者(フランス国籍47%、イタリア国籍16%、その他21%)が84%、モナコ国籍者は16%に過ぎないのだそうだ。外国籍者のすべてが億万長者というわけでは無論ないのだろうが、モナコが「海外から移り住んできたお金持ちにとって住みやすい国」になっているのは事実のようだ。
しかし、税金がかからないということだけではお金持ちにとって住みやすい国にならないはずだ。金持ちは当然安全を求める。金銀・宝石をピカピカさせながら街を練り歩けたり、ロールスロイスやフェラーなどの高級車をを乗りまわせたりするのも、強盗や泥棒などがいないという安全な環境が整ってこそできることだからだ。そうなると、少なくとも警察などに対する行政投資が必要になるはずなのに、税収無しだというのならどこにその財源を求めているのだろうか。19世紀の一時期にはカジノが国家収入の9割を占めていたこともあるが、現在では5%以下となっており、経営も半官半民の企業に移管されて移管されているそうだ。モナコでは大公の権益が強大で、レニエ前大公の財産も十数億ユーロに上っていたという。モナコの年間予算のうち約半分は大公の個人的出費だという説があるが満更的外れでもなさそうだ。
しかし、大公の地位が低下した場合はどうなるのだろうか。また、経済協力開発機構(OECD)や国際通貨基金(IMF)も、リベリア、マーシャル諸島などともにモナコを、財政情報の公開や提供に協力的でない「悪名高いタックスヘブン」としてブラックリストに載せているそうだ。モナコも何時までも天国(ヘブン)気分でいられないかもしれない。

モナコのカジノは“ゲーム”の場?

「カジノを試みずしてモナコに来たと言うなかれ」と誰かが言うものだから、グランカジノに渋々ついて入ってみると、同じカジノでもアメリカのラスベガスとは様子が大分違っているので少々驚いた。 ここには、ラスベガスのような街全体がカジノといったような派手さや放縦さがなく、こじんまりとしていて管理が行き届いている感じがする。入館に当って、カメラなども手荷物預かり所に一括して預けさせられてしまった。
また、ラスベガスで大儲けをしたという話はよく聞くが、モナコのカジノで大金を当てた人というニュースは聞いたことがない。ここは、射幸心の強い人が“ギャンブル”で一攫千金を目論む所ではなくて、既に財をなした人達が、よく管理された環境でマネー“ゲーム”を楽しむ所なのかも知れない。
私達も銘々にスロットマシーンに取り組んだ。山本は好調で、たまったコインを換金して“ギャンブル”に成功したが、あれはモナコ流ではないと思う。投じた10ユーロが一時は山本を遥かに上回る額に達しながら、それを換金せず、無に帰するまでの盛衰を楽しんだ私の方こそモナコのお金持ち流なんじゃないだろうかと思う。彼らは、お金を“稼ぐ”ことには飽き飽きとしていて、お金を“使って”、賭け金の浮き沈みに人生ゲームを模して楽しむためにここに足を運んでいるだよ、きっと。よりギャンブル性が高そうに見えるルーレット代も僅か3台しか見当たらなかった。

街に漂うグレースな雰囲気


海洋博物館の前から出ているプチトレイン(下写真右から2枚目)に乗れば、モンテカルロ港、カジノの前、王宮広場などを通って出発地点に戻るまでおよそ30分ほどで、プチ国家モナコの主要観光スポットを見て回れる。汽車の形はしているが走るのは普通の道路で、「F1モナコグランプリ」もプチトレインが通っているのと同じモンテカルロ市街地を走るというから少々驚きかつ呆れた。何もこんな狭い道で、タイヤを軋ませ轟音を立てながらスピードを競わせることもあるまいにと思うのだが、お金持ち達が好んですることだから、こちとらには計り知れない醍醐味があるのだろう。
モナコの国教はカトリックで、1875年に建設された「大聖堂Cathedral」(下写真左から2枚目)で大公一家の行事はここで行われていて、今は亡きグレース・ケリーのお墓もこのカテドラルの中にあるそうだ。そう言えば市街のあちこちにも、グレース・ケリーの影響を受けてか、grace(優雅)な雰囲気が漂っている。同じカジノの街とは言っても、ピラミッドやスフィンクス、ニューヨーク・エンパイヤ・ステート・ビル等々“ブランドもの”の建造物のミニチュアが街の随所に設えられていて限りなく嘘っぽく見えるラスベガスとは全く違うところだ。

グレース・ケリーと我らが身の往時をしのぶ


ところで、モナコ公妃になったグレース・ケリーが、モナコ国内での不慮の自動車事故によって53年の人生に突然幕を下ろしたのが1982年。没後25周年に当る本2007年が「グレース・ケリー・イヤー」とされていたので、我々はモンテカルロ地区に海を臨んで建つコンベンション・センターグリマルディ・フォーラム(Grimaldi Forum)まで足を運んで、たまたま7月12日から9月23日まで開かれていた「グレース・ケリー・イヤー展」を見るという僥倖に恵まれた。
50年代のアメリカ・ハリウッド映画界に現れて、巨匠ヒッチコックの作品出演を機にスターダムを駆け上ったグレース・ケリーは、その上品で洗練された雰囲気で世界中の人を魅了していたが、往時の山本青年も相当な思い入れを持っていたようで、「グレース・ケリーは俺のモトカノ(元彼女)なんだ」などと若者言葉を口にしながら、展示されたグレース・ケリーゆかりの品々に愛おしそうに見入っていた。そして、モトカノを奪った“仇敵”レニエ3世の画像の前に立つや、「こんな髭面の醜男と結婚するなんて!」と積年の“恨み”が山本の口をついて出た。聞き流せばよいものを、水口が画像と山本の顔を見比べながら、「醜男どころかなかなかハンサムじゃないか」とレーニエ3世の方を持ち上げていた。
実は私自身も、一般には“シンデレラストーリー”とされるレニエ3世との結婚(1956年)を快く思っておらず、憎からず思っていたグレース・ケリーに対する評価を“巨万の富に身を売る女優”というところにまで下げ、「何がグレース(優雅)なんだ」という憤りの気持を抱くまでになっていた。しかし、カジノ一辺倒であったモナコの改革を進めたレニエ3世を支えた内助の功や、今なおモナコ国民から愛され続けている様子を垣間見て、少しはグレース・ケリーとレニエ3世を再評価しなければと思えるような気分になってきた。

ここもグレースの日本庭園

“犬も歩けば棒に当る”で望外の「グレース・ケリー・イヤー展」に遭遇した我々は、そこからの帰途に2回目の“犬棒”体験をすることになる。駐車してあるカジノ前まで汗水たらしながら(後刻、駐車中の車の温度計を見てみたら35.5℃を示していた)歩いている我々の前に突如癒しの空間が現れたのだ。「えっ、モナコに日本庭園?」と一瞬訝ったのだが、紛れもなくそうであり、しかも、数々あるまがい物や手入れ不足の“日本庭園”と違って、本格的な造園がされている上に手入れも行き届いた日本庭園であるということが分かった。
木々の間から地中海のマリーンブルーが顔をのぞかせたり、隣接するモンテカルロ港に停泊している豪華客船が見えたりするところは如何にも“モナコの日本庭園”だが、モナコと日本の接点が奈辺にあるのかということは、この日本庭園がプリンセス・グレース通り沿いにあるということからようやく分かった。グレース公妃は意外と日本びいきで、生前から「モナコに日本庭園が欲しい」とレーニエ3世におねだりをしていたようだ。レニエ公がその希望を叶える為に造園を命じ、開園式が行われたのが1992年だそうだからグレース公妃没後10年ということになる。貴公のモトカノを奪った髭面ハンサムのレニエ公は、心の中にもハンサムなところがあって、モトヨメに純愛を寄せていたんだよ、山本さん。「欧州初の本格的な日本庭園」と評する向きがいるだけあって、グレースな雰囲気を醸し出している日本庭園を造ったことに免じてレニエ3世を再評価してあげようじゃないか。

これが正しいフランス料理の食し方なのだ?

ニースに戻った我々は、ホテルの近くの昨日と同じレストラン(ビストロ?)に飛び込んだ。一刻も早く、渇きと飢えを癒したかったこともあるが、昨日ここで食した“真正フランス料理”がいたく気に入っていたからだ。逆"へ"の字髭のオーナーや従業員さんたちも我々を覚えていて再来を歓迎してくれた。
そして先刻「えっ、モナコに日本庭園?」と訝った我々は、今度はメニューを見て「えっ、フランスで魚の塩焼き!」というサプライズに見舞われた。スペインやポルトガルには焼き魚を食す風習があることということを知っていたが、「フランス」と「焼き魚」は無縁だと思い込んでいたからだ。しかし、実際にタイとスズキの塩焼きが目の前に運ばれてくる(右写真上)に及んで、リヨン以来育まれてきた私の“真正フランス料理”に対するイメージが更に大きく拡充された。特に、大きく膨らんできたのが、「新鮮な素材の味を大切にしつつ大らかに食す」という日本の庶民派料理との類似点であった。そして、ついには「これが正しいフランス料理の食べ方なのだ」とほざきながら、魚スープの入った食器を手にとってガブ飲みをするという“蛮行”までしでかしてしまった(右写真下)。
しかし、改めて考えてみれば、日本食もフランス料理も様々で、手の込んだ調理の懐石料理が上品なテーブルマナー通りに食すパリ風“おフランス料理”に近くて、リヨン・ニース風の“真正フランス料理”は日本の磯料理や漁師料理に近いのかも知れない。いずれにせよ、“おフランス料理”がフランス料理の全てではなくて、庶民にも親しみやすい“真正フランス料理”があるということを知ったのは今回の旅行の大きな収穫の一つであった。
(2007/9/7)
カンヌに行かずして南仏に行ったというなかれ

さて、明くる9月8日。今回の旅行日程の実質的な最終日に当る。この残る一日を如何に有効に使うか協議した際に全員が同意したのが「カンヌに行かずして南仏に行ったというなかれ」という言葉であった。そこで、レンタカーを地中海海岸線に沿って西方向に走らせて、ニースの西南約30kmにある「カンヌ(Cannes)」に向かった。
コート・ダジュールではニースに次ぐリゾート地だが、中世から19世紀頭までは、農業、水産業を中心とする村落であったらしい。1834年にイギリスのブルハム卿なる人がイタリアへの途上滞在したのをきっかけとして国内外の貴族がこの地域に別荘を建てはじめ、次第に高級リゾート地へと発展してきたのだとか。カナダ人宣教師のアレクサンダー・C・ショーがたまたま訪れたところが故郷のスコットランドと似ていると感じたことから1888年に別荘を設けて以来避暑地としての歴史が開かれた軽井沢とリゾート地化のきっかけはよく似ているのが、軽井沢の歴史より半世紀ほど古い。
しかし、カンヌをカンヌならしめているのは、なんと言っても、ここで毎年行われている「カンヌ国際映画祭」であろう。ベルリン国際映画祭、トロント国際映画祭と並んで、世界三大映画祭の一つとされているようだが、他の2者より遥かに知名度も高く権威もあり、映画祭会場にある「レッドカーペット」を踏むことが映画人の夢になっているようだ。常日頃から、映画をこよなく愛し、映画人に対するリスペクトを持ち続けている山本が柄にもなく遠慮がちに「レッドカーペット」の端っこを踏んで階段を登っているいる姿(右写真上)が微笑ましく映る。しかし、フランスでは、“レッドカーペット”に当る言葉より“monter les marches(ステップを上る)”という表現が多く使われているようだ。最終目的として「レッドカーペット」を“踏む”ことよりも映画人としての一層の“ステップアップ”のための場としての側面をより重視しているのだろう。良い表現だと思う。
ビーチ沿いに走る目抜き通りのラ・クロワゼット通り(Bd. de la Croisette)には、世界から集まる映画人などの著名人が宿泊する超高級ホテルをはじめ、高級レストラン、ブティックなどの瀟洒な建物が建ち並んでいる。国際映画祭会場の木の植え込みのすぐ外も地中海のマリンブルーの世界。いかにも高級で開放的なリゾート地といった風情が感じられる。

シャガールの世界に浸る


さて、ニースにとって返して、レンタ・カーを返す前の最後の訪問先としてこの町にある「シャガール美術館 Musee National du Message Biblique Marc Chagall」へ行ってみることにした。例によって、地図をトレースしそこなって一迷いした結果見つけ出したシャガール美術館は、ニースの高台の高級住宅街の一角にあった。
パリのオペラ座を訪れた際にその天井画を描いたのがマルク・シャガールMarc Chagall(1887年7月7日 - 1985年3月28日)だと聴いていたので、てっきりフランス人画家だと思い込んでいた。そのため、「フランス生粋の画家単独美術展鑑賞」をもって我々の旅のフィナーレとするのも一興かと考えていたのだが、シャガールはロシア(現・ベラルーシ)出身のユダヤ人だということが分かった。しかし、23歳の時に初めてパリに来て以来、フランスとの間の行き来を重ね、1950年から南仏に永住することを決意しフランス国籍を取得しているというから、“生粋の”を除けば我々の狙いもあながち的外れではないということになる。
美術館の正式名称に含まれている"Message Biblique"は「聖書に関するメッセージ」という意味で、シャガールが描いてフランス国家に寄贈した連作『聖書のメッセージ』に由来しているらしい。この連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設が推進され、ニース市が土地を提供する形で1973年のシャガール86歳の誕生日に開館されたのだそうだ。シャガール作品専用の美術館でありながら、"Musee National"(国立美術館)となっているのはこのためらしい。ユダヤ人迫害から逃れるためにアメリカに亡命するなど波乱万丈の人生を過ごす中で、人間として画家として自分を受け入れてくれたフランスに感謝しつつ、お気に入りの南仏に安住の地を求めることができたのだからシャガールの晩年は恵まれたものであったに違いない。
美術館の中に一歩足を踏み入れると、そこにはシャガール一色の世界が広がっていた。ルーブルやオルセーなど、多数の作家の作品が展示されている大きな美術館もさることながら、このような単独の画家の作品だけの美術館も、その作家の世界にとっぷりと浸れるので趣がある。独特な色調とデフォルメが施された幻想的な作品群(下写真上段左端&左から2−3枚目)は勿論、シャガール自身の設計によると言われるモダンなコンクリート造りの建物自体やステンドグラス(下写真下段左端)、壁画(下写真上段右端)にもシャガールの個性が表れている。美術館の中の小さなコンサートホールにあるチェンバロ(下写真下段左端)にもシャガールの絵が描かれていて、“シャガール・ワールド”はそこに浸る者を飽きさせようとしない。
しかし、“シャガール・ワールド”に浸っているのは我々外国人観光客だけではなかった。地元と思しき若者達が、あちこちの作品の前に佇んでシャガールと会話しているかのような光景(下写真下段左から2−3枚目)が特に印象的であった。もし、日本にこのような美術館があったとしたら、日本の若者達は同じように親しみを込めて作品に接するであろうか。
“シャガール・ワールド”を堪能してから外に出てみると、緑豊かな庭園になっていて(下写真下段右端)、そこに、夏と我らの旅の終わりを告げるかのように淡い紫色の花が密かに咲いていた。

コート・ダジュールにアデュー

ニース駅前でレンタカーを返してから、フランス国有鉄道(SNCF)の列車に乗り込み、今度は地中海沿岸沿いに「マルセイユ駅」に向かう。進行方向に向かって右側の座席に座って、来た時とは違って山側の車窓風景を楽しんだ。比較的平地で、白壁でオレンジ色の屋根をした民家が密集している地区には喬木や若草色の植物も見える(下写真左端)が、丘陵の住宅地となるとオリーブなどの濃い緑色の潅木が支配的になり(下写真左から2枚目)、更に高地になると緑が乏しくなって(下写真右から2枚目)ついには赤土の荒涼とした岩山が現れる(下写真右端)。こうした山側の焦げ茶と濃緑を基調とした光景が海側のコート・ダジュール(青い海)とアンサンブルをなして“地中海沿岸に独特な風景”を織り成しているのだ。色々堪能しつくした南仏コート・ダジュール地方に別れを告げる私たちを、空も青く晴れ上がって見送ってくれた。
マルセイユ駅を過ぎると列車は再びTGVに変身し、パリ目指してまっしぐら。「リヨン駅」からタクシーに乗って通り過ぎるパリの街がとても懐かしく感じられた。数えてみれば、9月2日にスイスに向けて“出奔”してから、ちょうど1週間パリの水口宅を空けていたことになる。一日一日が充実していたせいで、えらく長い1週間だったような気がする。
(2007/9/8)

フランスTGVvs日本新幹線

「新幹線」は感心せん

「TGV(Train a Grande Vitesse : Train/列車 a Grande/大きいVitesse/速度)」は「超高速列車」などと“拡張解釈”されることがあるが、日本の新幹線の速度記録を世界で初めて塗り替えた上に、その後も最高速度を更新し、現在の最高時速320km/hを誇るというからなまじ僭称とも言い切れない。実際に、例えば、パリから南仏のアヴィニヨンまでの742キロをたった2時間40分で行くという(東京大阪は約550キロ)。いずれにしても「TGV」は「高速輸送のサービスを提供する」ということを示していて利用者にわかりやすいネーミングになっている。
一方、「新幹線」の“幹線”は“支線”に対するネットワーク用語で、利用者にはわかり難い輸送事業者向けのネーミングになっている。英米人にも、"New Trunk Line"と言ってもなかなか分かってもらえず、高速性を誇張した表現の"Bullet Train"(弾丸列車”と言った方がよほど分かりやすい。一方、「新幹線」の“新”は、技術的な観点からの新規性を強調して付けたのだろうが、長期的な展望を欠いたネーミングのように思える。お陰で、1964年開業後半世紀近く経とうとしているのに依然として「東海道“新”幹線」の名前が罷り通っている。
ネーミングにおける違いは、ただそれにとどまらず、日仏の当事者間の精神的な姿勢の違いと、以下に掲げるような様々な側面での彼我の差を生む諸事情を浮き彫りにしたもののように見える。

実施的料金格差を拡大する多彩な割引制度

料金は、今回中沢が買ったジュネーブ発パリ行きのTCVの切符が97スイスフランだから、1スイスフラン=0.611ユーロ/1ユーロ=162円で換算すると59.3ユーロで約0,600円になる。ジュネーブ・パリ間の所要時間は3時間39分で、日本の新幹線の東京・岡山間の3時間49分とほぼ同じで、こちらは料金が10,590円だから対TGVは110.3%割高になる程度だ。しかし、我々の場合は、水口が2ヶ月以上前に前売り割引き切符を買っていてくれたためにパリ・ジュネーブ間のTGVを40ユーロの切符で利用できているから。同じレートで換算すると6,480円で新幹線/TGV料金格差が163.4%に拡大することになる。
このように、各種の割引制度が整っていて、
乗客の4人に3人が何らかの割引運賃を利用しているところが、TGVと新幹線の実質的価格格差を拡大させているようだ(ユーロ高の現状がユーロやスに転ずれば更に格差が拡大する)。学生割引、シニア割引は勿論のこと、26歳以上60歳未満の本当なら何の恩恵にも浴せないような人にも、年間いくらか払えば、全ての列車が25%割引になるようなシステムがあったり、1年間フランス国中の列車が半額になるパスが売られていたりするのだとか。この他にも、「最後の瞬間切符?」などというのがあって、毎週火曜日に、それからの1週間分で、あまり売れてない路線を半額以下で売り出されるというから羨ましい限りだ。
この他に、例えば
パリから南仏のアヴィニヨンまでの2等正規運賃の場合、ピーク時は79ユーロだがオフピーク時は65ユーロになるといったような弾力的な価格政策がTGVでは採られているので、ピーク時を避けて経済的に列車旅行することができるが、これは盆や正月のピーク時に一斉に“民族大移動”が起こる日本では採用したとしても効果が少ないかもしれない。しかし、勤労者が1年に1回鉄道を半額で利用できるという「勤労者割引」が日本でも導入されたら、新幹線を利用する旅行客も大幅に増大することだろう。先ず、日本国民が観光を楽しむ条件が整備されなければ、念仏のように“観光立国”を唱えていても実現は覚束ないのではないかと思う。

建設投資抑制

我々がコート・ダジュールに赴いた時、TGVはマドレーヌからそのまま在来線に乗り入れた。乗り入れたということはもしやと思って後日調べたところ、レールの軌間は1,435mm(標準軌)で在来路線と同じ、車両限界なども在来線とほぼ共通の設計になっているから乗り入れが可能なのだということがわかった(我々がTGVでジュネーブにいけたのも、TGVで標準軌が採用されていて他国に直通運転することが可能だからこそだったのだ!)。要するに、TGVにその性能を発揮し高速走行させる必要があるところだけ専用軌道LGV(Ligne a Grande Vitesse:高速線の意)を敷設すればよく、高速走行のニーズが低かったり用地買収が難し買ったりする地区へは新線を敷設せず在来線を利用すれば済むすむということになる。このため都心では既存の線路を走行し、市街地を出ると線形の良いLGVに乗って高速走行するといったことが行われており、ターミナル駅も在来線と共用して使いやすくなっている。
また、TGVには日本の新幹線と違って高架の部分やトンネルが殆ど無い。更に驚いたことには、日本の新幹線のように専用の防護柵で守られておらず、日本の在来線の特急と同じような環境で最大時速300kmの高速運転がなされているのだ。日本のように、新幹線のためにだけトンネルを掘りまくったり、高架橋や防護柵を張り巡らしたりするのと違って、TGVの初期投資は極めて低いレベルに抑えられていそうだ。車両の外装と内装も、日本の新幹線のように豪華ではなく比較的質素で、日本の新幹線をミシュランの三つ星レストランとすると、TGVはゴ・ミヨーで評価されるビストロに近く、庶民的で質実剛健なところがある。利用者が低価格で高速輸送サービスの提供を受けられる根拠がここにもありそうだ。

省力化効果の還元

日本と違って駅舎の中には改札口が
無く誰でも自由にホームまで入れる。列車に乗る人が買った切符をホームへの入り口にある自動改札スタンドに通すと,日付け、時間、駅のナンバーが刻印される。車内で検札が行われるだけで、目的の駅でホームから出るときはフリーで切符は持ったまま駅を出る仕組みになつている。このため駅では駅員の姿を余り見かけない。こんな合理的な方法で駅員を少なくしているのも、運賃の安さに結びついているのではないかと思う。
日本でも、自動改札機や切符販売の自動化などによって駅員の数は大幅に減少しているが、これが運賃の低下という形で利用者に還元されることはなく、民営企業JRの利益増にしかつながっていない。スイカなどの非接触式ICカードも然りで、これの導入による省力化・資金繰り効果は多大なはずなのに、民営化後もJRは一向に運賃(C:Cost)を下げようとしていないし、浮いた経費を運輸サービスの質(Q:Quality)や便宜性(D:Delivery)の改善に振り向けようともしていない。一般の民間企業なら、他社と競って商品のQCDを必死になって改善して顧客満足度を高めることによって収益の拡大を図り市場における地位を維持・向上させていくものだ。これは、ETCを導入した高速自動車会社にも言えることであり、ともに「顧客満足度向上が収益拡大の根源」という民間企業の原点に立てていないことの何よりの証拠だと思う。通常は、機能や性能が優れている(Q)のに、手頃な価格(C)でタイムリーに手に入れられる(D)高QCD商品の顧客満足度が高くて収益が上がるのに対して、低QCD(渋滞で“高速”かつ快適な通行ができない)渋滞常習の首都高速道路などが高速自動車会社の最大の収益源となっているのだから呆れるしかない。

国土の活性化とネットワークの視点

パリから大西洋岸であるボルドーやナントを結ぶ路線として開業し、営業最高時速も世界で初めて300kmを達成したアトランティック線をはじめ、パリからリヨン、グルノーブルからローザンヌに伸びる南東線、パリからマルセイユ、ニースに続く地中海線などパリを基点とした路線が展開しているのは、東京を基点とした各路線が展開している日本の新幹線と同じだが、TGVには地方都市線というのがあって、リヨン、グルノーブル、マルセイユ、ニースなど、地方都市と地方都市の間をつないでいる。地方都市のネットワーク化による国土の活性化への寄与という面でもTGVは日本の新幹線の上を行っているようだ。
また、先に述べたように、TGVは在来線に乗り入れる形になっており、鉄道ネットワークの中に物理的にも組み込まれている。一方、新幹線の方は、“幹線”というネットワーク用語を用いていながら“支線”と物理的に接続しておらず、全体としての鉄道ネットワークが形成されていない。
更に、TGVでは標準機を採用することによって、フランスの200を越える都市の間の国内ネットワークを、ジュネーブやブリュッセルといった隣接する国の主要都市を結ぶ国際ネットワ−クに結び付けている。これによって実現される国際交易もまたフランスの国土の活性化の促進に役立っているものと見られる。
日本にも「国土交通省」という名の官庁はあるが、鉄道業、道路・港湾土建業、航空業などの関連産業を縦割りに管理しているだけであって、「“交通ネットワーク”によって“国土”を活性化する」という基本的な視点が欠けているようにしか思えない。
国鉄や道路公団の民営化により、この「“国”土活性化」の視点は更に弱まってしまったものと考えざるを得ない。

大きなメリットと小さなデメリット


時刻厳守(punctuality)の面では圧倒的に日本の新幹線の方が勝っているようだ。実際、中沢のニース到着も大幅に遅れたが、TGVでは遅れることが日常茶飯事だそうだ。その上、車両故障で動かなくなったり、ストライキによって運行停止になったりすることも結構あるらしい。また、TGVの車両は新幹線車両に比べて通路が狭いので、乗り降りやトイレに立つ際の行き来に窮屈な“片側通行”を強いられ時間を要する。座席間も狭くて体が小さい日本人でも窮屈に感じる。リクライニング機能が付いておらず、座席が固定されていて回転できないので、日本の新幹線とか特急列車みたいに列車の進行方向に合わせてシートの向きを変えることもできない。両方の出入り口を背にして車両の真ん中に向き合う固定座席なので、常に乗客の半分は後ろ向きに走ることを強いられてしまうわけである。もちろん、席を回して4人で談笑したりゲームをしたりすることはできるわけがない。乗り心地という点でも日本の新幹線に軍配が上がる。
TGVには車内販売がない。買いたい物があれば物品販売が行われている車両まで自ら足を運ばなければならない。また、パリのメトロもそうであったが、車内アナウンスがほとんどないので、うっかりしていると乗りそこないや降りそこないをしがちになる。自己責任に委ねるところの多いフランスの鉄道に対して、日本の鉄道では、過保護ではないかと思われるほど親切に「お降りの際にはお忘れ物がありませんように」などということまでアナウンスしてくれる。
しかし、低料金という大きなメリットを考えてみれば、こうしたTGVのマイナス点(デメリット)は、いずれも我慢できる範囲内なのであろう。いや、新幹線に慣れ親しんできた我々日本人だからこそそう思うのであって、フランス人にとっては「我慢」でもなんでもなく、車両の揺れや騒音が少ない快適な乗り心地のTGVに対して何の不満も感じていないのかもしれない。

TGV利用者から見れば、新幹線利用者は過剰サービス(小さなメリット)を押し付けられた上に、不等に高い料金(大きなデメリット)を払わされているように見えるに違いない。

最大ヒット数誇るSMCFホームページ

ある統計によると、SMCFのホームページがフランスで一番ヒット数の多いサイトだそうだ。格安チケットを求める利用者は、競ってホームページにアクセスして、TGVの多彩な割引制度についての情報を得ているわけである。また、料金や時刻表を確認するとともにチケットの購入や代金決済もそのままホームページででき、しかも、決済する時にチケット受け取り方法を「プリントアウト」で指定すれば自分宛のメールに送られてくるのでそれをダウンロードしてプリントアウトし、それを持って行けば良く、駅で切符売り場に行く必要がない。このようにICT(情報通信技術)を駆使することによって利用者の期待に応えながら、情報発信や切符販売にかかるコストを下げ、これがまた低運賃運営の支えになってもいるのだ。
また、SMCFのサイトが鉄道だけでなく、飛行機やホテル、レンタカーの手配など旅行会社としての機能も果たしているとののことだから驚きだ。鉄道の時刻を調べたり、切符を予約・購入しようとしてアクセスする利用者が、鉄道以外の旅行関係のサービスにも興味を持ち利用できるようになっているという。見込み客を、特定の商品の「消費者」としてとらえるのではなくて「生活者」としてとらえるべきだというマーケティング理論をSMCFは見事に実践していて、サイト訪問者を「鉄道利用者」としてでなく「旅行者」としてとらえているわけだ。SMCFのホームページが「旅行者」にとって人気が高い秘密は、旅行に関する情報が一度に入手できるところにあり、飛行機やホテル、レンタカーなどの集客効果と相乗する形で「鉄道利用者」が増大し、結果として、SMCFの稼働率向上と採算維持に役立っているのだと思う。

国有鉄道SNCFvs民営企業JR

注目すべきは、マーケティング・センスの豊かなTGVを運営しているのがフランス国有鉄道(SNCF: Societe Nationale des Chemins de fer Francais)だということだ。
国営企業であっても、このように顧客満足度を高めることによって稼働率を高めて自らの採算性を改善することができるのだ。企業の所有形態が国有であろうと民営であろうと、市場に競争原理が働かない場合は、独占体質に根ざした保守的な組織防衛の志向が支配的になり、組織に顧客志向の革新的な機運が乏しくなる。
TGVの場合は、鉄道事業という面では国鉄SNCFの独占となるが、陸運サービスという面では自動車関連事業者がライバルとしてTGVの前に立ちふさがることになる。例えば、パリから鉄道でモンサンミッシェルまで鉄道で行くとすると、パリ−レンヌ間
のTGV一般席料金だけで片道45ユーロ、往復では90ユ−ロかかる。私達が水口のマイカーで行った際のガソリン代は往復で142ユーロ(パリ市街観光分も一部含む)と高速道路代12ユーロの計154ユーロだから1人当り38.4ユーロに当る。だから国営企業SNCFには列車離れを食い止めるための料金割引政策の展開に拍車がかかることになる。一方、新幹線の場合、パリ−レンヌ間(330キロ)とほぼ同じ距離に当る東京−名古屋間の料金が片道11,580円(1ユーロ=162円で換算すると71ユーロ)という割高料金で押し通せているのは、自動車をした場合でも、東名高速自動車道の東京−名古屋間の通行料だけで7,100円かかるので列車離れにドライブがかからないからなのだろう。民営企業のJRと高速自動車会社が競合しあうどころか、お互いに他の割高な料金のお陰で、悠然と共存できているというのが日本の実態なのではないだろうか。

“公共性”と“事業性”

フランスの鉄道がごく一部の観光登山列車を除いて、フランス国鉄SNCFによって運営されているのに対して、日本が国鉄の民営化よって鉄道運営が全面的に民間セクターに委ねられていることの背景には、日仏間で鉄道運営に関するコンセプトの違いがあるように思える。TGVについて考えれば考えるほど、フランスでは「高速列車輸送サービス」は国民にとって“必需品”であり、必需品を提供するインフラストラクチャを構築・運営するのは国家の責務であるという“公共性”を重視した考え方が貫かれているような気がしてくる。
一方、日本の新幹線は、国鉄の時代に開設されていながら、「高速列車輸送サービス」が清潔さ快適さ、デザイン性を重視した“奢侈品”として開発され、高運賃の負担能力があるリッチな旅行客や企業のビジネス用ユーザーを主要顧客として運営されてきた極めて“事業性”の高いもののように思える。
このことは自動車も事情は全く同じであり、今や広い範囲で“必需品”となりつつある自動車が、酒税や煙草税と同じように高率のガソリン税が課せられていることからも分かるように、日本では未だに“奢侈品”として取り扱われている。高速自動車道路も“奢侈品”としての自動車ようとして構築・運営されているから、通行料金が高く設定されていて、リッチなドライバーや輸送料金収入が期待できる運輸業用車両でないと使い難いものとなっている。そしてこちらの方も、道路公団の民営化によって高速自動車道路の運営が“事業性”を重視されるようになり、“公共性”、つまり、国家として国民の生活を支えるインフラストラクチャを構築・運営する責務が等閑視されるようになってしまった。どう見ても国民・企業の経済活動の円滑化や拡大に寄与しているようには見えない立派な料金所の施設や従業員達が自動車の高速通行を堰き止めているのを見ると、日本では高速自動車道路が経済活動を支えるインフラストラクチャとして機能しているどころではなくて、むしろ経済活動の円滑化や拡大を阻害しているようにしか見えない。

リストラ流JRとドット・コム企業流SNCF

一時世界市場で Japan as No.1と評価されていた日本企業の勢力が退潮し、逆に閉塞状態にあったアメリカ企業が息を吹き返したのは、経営“改革”を実践したか否かの差によるものと考えられる。大方の日本企業は、“リストラ”という名の経費削減策によって収支バランスを“改善”するに止まっていて、企業内、対顧客間、企業間のビジネスプロセス(仕事のやり方)を抜本的に“改革”することをしていない。この間、アメリカ企業は、アマゾンをはじめとするドットコム企業に代表的に見られるように、インターネットやイントラネットなどの革新的なICT(情報通信技術)を用いてビジネスプロセスを抜本的に革新している(BPR:ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)
経費削減を主体とする“リストラ”では、経営コストの削減はできるが、その分だけ顧客に与える満足度も低下しがちになる。05年4月にJR福知山線で起こった脱線事故が典型的な例であり、新型の自動列車停止装置(ATS)設置という安全投資を怠ったため、収支バランスは改善できたものの、鉄道輸送サービス商品として最も重視すべき「安全性」というQ(Quality)を犠牲にして顧客満足度向上どころではない事態を現出してしまっている。
一方の、ドットコム企業流のBPRでは、大幅に経営コストを下げると同時に顧客満足度の大幅な向上を実現している。
割引料金などの販売促進情報をインターネットで発信し、それをクリック・アンド・クリックのシームレスな形で乗車券のオンラインセールスにつなげているSNCFの方法はまさにドットコム企業流経営“改革”と言える。依然として、“緑の窓口”を構え、旧態依然とした対湖客(“顧客”と見られているかどうか疑問に思われることさえある)対応をしているJRは、どう見ても経営“改革”を実践しているようには見えない。“事業性”という面で見ても、民営企業JRが国営企業SNCFに対して見劣りしているように思えてならない。


再びツンドラの上空を超えて

中沢の君子豹変ぶり

帰路はユーロ・スターではなくて、ドゴール空港から空路ロンドンに戻って、そこから成田に帰る段取りが組まれていた。これも含めて全ての段取りを整えていてくれた水口がマイカーでドゴール空港まで送ってくれた上に、ヒースロー空港での“身の振り方”まで事細かに指導してくれてここでバイバイ。
しかし、水口の姿が見えなくなるかならないうちに中沢の顔から笑いが消え、急に(取り付きにくいほどに)毅然とした態度に変わった。水口隊長がいなくなった今、「自分が退潮代理としてしっかりせねば」とでも決意したのだろうか。それとも、水口のいる場でこそボケ役を演じていたが、「お前たちには道化役を演ずる必要がないのだ」という態度を示したかったのだろうか、山本が今まで通りの軽いノリでツッコミを入れたところ、厳しく切り返されてたじろぐという一小間もあった。見事に豹変したところを見ると中沢は君子だったのかもしれない。
ヒースロー空港内で、最後にもう一度とイギリスの代表的な料理とされるフィッシュ・アンド・チップスの昼食をとった時にもこの中沢君子節が響くことになった。ウェイトレスから受け取った伝票に"£40.50"とあり、その中に勝手に"GRATUITY (TIP)"が10%算入されているのが気に入らないので、ブツブツと「字が小さくて読めないが、G、RA…、TUI、TY…?」とツッコミを入れようとしたところ、「何をボケているんだ」とばかりに伝票を取り上げて、「ヨン、ゼロ点ゴー・ゼロ」と声高に読み上げて、“事務処理”を急かされてしまった。お陰で、続いて言おうと準備していた「GRATUITYを20%払いたかったのになあ」
という台詞を発することができず、折角の英国紳士ばりの(?)皮肉を英語で言う機会を逸してしまった。

機上ヨーロッパ横断旅行を楽しむ

イギリスとフランスは“身内”なので、ドゴール空港とヒースロー空港の間はほとんど国内便と同じ扱いで、セキュリティーチェックも軽いものであったが、さすがに“よそ者”日本の成田空港行きとなると話は別で、ヒースロー空港では靴まで脱がされ厳重なチェックをされてしまった。しかし、様々な想い出を胸に乗り込んだ私たちを乗せたBA(British Airways)機は10:50定刻にヒースロー空港を飛び立った。
来る時と同じ“座席三交代”をとったが、来る時より見晴らしがよく、機窓から見える風景を、「北海」、「アムステルダム北部」、「ハンブルグ北方」、「コペンハーゲン南方海上」、「バルト海」といったように前の座席の廃部に取りつけた目の前の詠唱モニターの地図上でプロットすることができる。時間を取り戻す形で東に向かっているため時の移ろいが早く、いつの間にか夜になっていた。トイレに立った際に窓から見下ろしてみると、漆黒の中に鮮やかな赤や緑、黄色の光を発する宝石箱のような島が見えた。座席に戻って液晶画面でチェックしてみたところ「タリンTallinn」とあった。更に後日インターネットで調べたところ、「タリンTallinn」はバルト三国のうちのエストニアの首都で、旧市街がユネスコの世界遺産に指定されている観光都市だということが分かった。タイミングよくトイレに立って窓を開けてみたおかげで「脳たりん(No Tallinn)と言われずに済んだ棲んだ。そうこうするうちに、やがて詠唱モニターが「モスクワ」上空を示す頃になると、急に睡魔が訪れてきて、深いまどろみの世界に誘われていった。

夜空に消えた山本(?)

ふと、まどろみから覚めて目を開けると、窓際に座していた中沢が「山本君がいない」と言う。確かに左隣の席が空席になっているので、軽く「あ、ほんとだ」と返すと、中沢“新リーダー”殿お腹立ちの様子で、「今頃気がついたのか、ずっと戻ってきていないから心配していたんだぞ」と、ご自分の配慮ぶりを示し小生の“チームワーク意識欠如”を責められる。「そんなこと言ったって、飛行機の中のどこかにいるに決まっているんだから・・・」と内心思いながら、臨席に山本が戻るのを待っていた。きっとトイレに行って、出る物が出なくて時間がかかっているのだろう・・・考えられるのはこんなことしかないのだが、それにしても長すぎる。ことによると、トイレの中で何かアクシデントがあったのかもと思えてきた。そこで、「ほんとに帰ってこないなあ」と呟くと、“心配疲れ”でご自身は寝入っていた“新リーダー”殿からまた「なんだ、まだ探しに行っていなかったのか!」という叱責の声が飛んだ。
「あのー、隣席の友人が30-40分間も戻ってこないんですが・・・」という間抜けな訴えを聞いたスチュワーデスさんには私が“気の毒な寝ぼけ老人”に見えたことだろう。しかし、彼女にしても思いつくのはトイレだけ。実際に、様々なトラブルはトイレ内で起こるらしく、トイレ監視役のスチュワーデスが配置されていた。トイレのうちの二つが使用中になっていて、監視役のスチュワーデスがドアをノックすると、やがて、そのいずれからも用を済ませた英国人と思しき老婦人が不機嫌そうな様子をして姿を現した。そりゃそうだろう、“無我の境”をノックの音で破られたのだもの、不機嫌にもなるはずだ。
しかし、山本がトイレにいない!南下の弾みで飛行機から飛び出て、漆黒の夜空の闇に消えて行ってしまったのだろうか。「こんな満席の中では状態では関を間違えるわけもないしなあ」と思いながら、自席で立ち上がって暗い室内を目をこらして見回していると、通路を隔てた斜め後ろの席の乗客にジャケットの裾を引っ張られてしまった。目の前で突っ立ていたのが目障りで邪魔だったのかなと思って謝ろうとしたところ、なんと山本の「オレだよ、オレオレ」の声が返ってきた。液晶画面の不調を訴えたが直らないので、スチュワーデスさんに勧められて、たまたま空席になっていた後部座席に移っていたのだった。
とんだ馬鹿馬鹿しいお騒がせ劇ではあったが、長時間フライトの退屈しのぎとエコノミークラス症候群防止には大いに役立った出来事ではあった。


即席ラーメンの匂いが充満

窓際の座席を長時間にわたって占拠していた中沢は、「変ろうか」とtち上がって通路側座席に移りしな、ヨタヨタした歩きで前方に向かうや、お湯の入った即席カップラーメンを大切そうに持ち帰ってきた。羨ましげに「あれっ、そんなの持って来てたの?」と聞くと、「いや、そこのスナックで・・・」とのお言葉。「そうか、飛行機会社も経営が悪化して、スナック販売までしなければならなくなったのか」と妙なところで述懐した。
中沢が「3分間待つのだぞ」と言い聞かせているうちに、即席ラーメンの食欲をそそる匂いが当りに立ち込めてきた。すると、それに誘われるようにして、周辺の乗客が即席ラーメンを求めて次々と“スナック”の方に入って行った。私も、誘惑に耐え切れず、矢も盾もたまらず立ち上がろうとしたが、現金は棚の中のバッグにあってとり下ろし難く手元には小銭しかないことが分かった。そこで、中沢に「即席ラーメンいくらだった?」と聞くと、にべもなく「スナックだからタダに決まっているだろうが」と水口“前リーダー”を遥かに凌ぐ毅然とした一言だけ返してきた。“スナック”とは売り場ではなくて、スチュワデスが乗客に配る軽食のことだったのだ。しかし、水口ならこんな場合、「ラーメンを食うぞ。お前もどうだ」と声をかけるところだろうが、“新リーダー”は全て個人の自主性に委ねるところが違う。私も、水口流を真似て、「お前もどうだ」と声をかけたのだが、予想したとおり「オレは結構」の答えが返ってきた。この男は驚くほど口がきれいだ。贅肉が取れ縦方向に割れた腹と横方向に段のついたメタボ腹との彼我の差が生じるはずだ。
とにかく、“新リーダー”殿の不言実行率先垂範行動によって、客室全体に即席ラーメンの匂いが充満することとなった。“新リーダー”は客室全体の“即席ラーメン・リーダー”でもあったわけだ。しかし、機内、しかも英国のエアラインの機内にラーメンの匂いが立ち込めるとは時代も変ったものだ。しかし、ラーメンの匂いは存外強烈だから、ひょっとするとそのうちに、禁煙席ならぬ禁ラーメン席が設けられるようなことになるかもしれない。

そして成田で「四感トリップ」大団円

液晶画面が「ヤクーツク」南部の「アルダン高地」上空通過中を告げる頃になると、眼下に再びツンドラの世界が見えてきた。湖沼の水面はブルーだが、水深がないせいか、そこここに浮島があってその周りには薄氷が白く張っているが、モスグリーンと黄土色を基調とした土地には起伏があって、丘陵部が朝日を浴びてその影を宿している。蛇行した川の水色は濃紺で川面に白い部分が見えないところをみると、穏やかな流れで存外深いのかもしれない。
“果てしなく続くツンドラ”と思っていたら急に集落が見えてきた。住宅は総じて小ぶりで屋根も地味なグレイで質素に見える。液晶画面によると私たちはもう「ハバロフスク」上空にきているのであった。やがて、機はオホーツク海上空に差し掛かり液晶画面から陸地が消え、しばらくしてから画面の右側に北海道南部が映し出された。ようやく日本に帰ってきた。旅の最終章を告げるかのように、屋外の気温も−59℃から−50℃に“上昇”し飛行機が高度を徐々に“下降”させつつあることを示していた。
そして成田。銘々に歴史に“感”銘、自然に“感”動した想い出を胸に、旅の道連れをしてくれた友に“感”謝し合って我々の「三感の旅」は終わった。しかし、連れ立って小田原に戻る山本と中沢に別れを告げた私には「四感」目が待っていた。成田空港に来る時には、いわきから車を運転してきたのだが、「長旅の後の運転は危険」と心配して、駐車場まで妻のカエチャンが迎えに来てくれていたのだ。"If I were my wife, …"と反実仮想をしたとしても、"I would nor could never"の言葉しか出て来ない。実際に訪れた国もイギリス、フランス、スイスの3カントリーではなくて、モナコを加えた4カントリーであった。私の場合は「妻に“感”謝」が加わった“四感トリップ(四感カントリートリップ)”となった。そのうちに妻から感謝“される”トリップを"I could and thus should"と強く思っている
(2007/9/9-10)
(2008/9/24 Ver.1)


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