「馬鹿論」再考

 

EQ(Emotional Quotient)について

 

綺麗で上品な古閑博美助教授が「嘉悦大学研究論集」に、EQに関わる論文を掲載されております。EQ(Emotional Quotient)とは、もともとEI(Emotional Intelligence)という言葉をもって提唱されたのですが、IQ(知能指数:Intelligence Quotient)に対応する言葉として広く用いられるようになってきています。もともとのI(Intelligence)に因んで、「心の知能指数」、「心の知性」、「感じる知性」、「社会的知性」などと、“知”がらみの訳語が充てられているようですが、私はEQ(Emotional Quotient)そのままに「情緒指数」と翻訳した方がよいのではないかとかねがね思っています。“知”の軸とは違った“情”の軸の尺度だと考えるからです。

 

美なるカナリヤ声また清し

 

論文の中で古閑博美さんは、「EQの高い人は、人のため大義のために身を投げ出す気持ちがあり、責任感や倫理観がしっかりしている」ことを確認されたうえで、「EQは、相手をおもんばかる能力、コミュニケーション能力と豊かな感性の函数である」という旨の発言をされています。その上で更に、EQの主要変数であるコミュニケーション能力に触れて、「コミュニケーション能力が未熟であったり稚拙であったりすることが、社会不安を招く一因となっている。それは、相手の思いや痛みが分からない姿であり、ものごとのありように気づかない(気づこうともしない)姿である」と指摘されています。どうですか、綺麗で上品な女性の言は、やはり清くて美しいものでしょ。美なるカナリヤ声また清し。もっとも、カケスもどきで姿も声も不美なる不肖私も「コミュニケーションの結果授受される情報には“情に報いる”の側面がある」という清くて美しいカナリヤ調のつもりの声を発したことがあるのですが誰もカケスの鳴き声には耳を傾けてくれなかったようですね。コンニャロメ。美醜差別だ、訴えてやる!

 

馬鹿原論

 

綺麗でも上品でもない不肖佐々木洋非常勤講師はまた、迷著マイホームページ「東芝38年生の酒記―六馬鹿会」で、合理性を指標とする「利巧⇔馬鹿」軸と自主的な思考・行動力で測られる「虚⇔実」軸があり、人の特性を「利巧・実」、「利巧・虚」、「馬鹿・実」と「馬鹿・虚」の四象限で捉えています。そして、ペーパーテストのよくできる“秀才”は、合理的に知識を記憶して合理的にそれを検索できる「利巧」には違いないが、必ずしも創造力があり問題解決力のある「実」ではなく、「利巧・虚」のカテゴリーに落ちるケースがあることを指摘しています。一方、「馬鹿」にも「馬鹿・実」と「馬鹿・虚」があり、自主的な思考力や行動力を欠く愚行を繰り返す「馬鹿・虚」が「馬鹿」と蔑まれても仕方ない存在であるのに対して、“割の悪いこと”に対しても誠心誠意とり組もうという側面をもつ「馬鹿・実」こそ我らの目指す“貴い馬鹿”であるとしています。

 

愛軸と知軸

 

その後、養老孟司著「バカの壁」が大ヒットしたため、もともと薄かった我らの「馬鹿」の影が一層薄くなってしまいました。「馬鹿の尊厳」を保つために、なんとか座標軸を設定しなおして、「バカ」と「馬鹿」の間にしっかりとした壁を築かなければならないと腐心していた時に出会ったのが古閑博美さんのEQ関連論文でした。そこから、「利巧⇔馬鹿」軸に「虚⇔実」軸というカケス調の不恰好な座標軸を、それぞれ「IQ軸」と「EQ軸」というカケス調の座標軸に改めたらよいのではないかという啓示を受けたのです。更に、分かりやすく、「IQ軸」を「知軸」、「EQ軸」を「情軸」としたかったのですが、二つを併せた「知情」を「痴情」と勘違いするヤカラがいること必定と考え、後者の方は「愛軸」とすることにしました。「愛」と「知」、どこかで聞いたことがあるなと思ったら、我が家の長女・愛子と次女・知子のことでした。ともに親の願望を込めて付けた名前なのですが、愛情豊かな人に育って欲しいと願った方は知に走りがちになり、逆に、知的な人間になって欲しいと願った方は知の道を進まずで、なかなかうまくいかないものです。…えーと、何の話をしてたんでしたっけ。

 

「知軸」上の「バカの壁」

 

どうも養老先生は、IQ(知能指数:Intelligence Quotient)を尺度とする「知軸」の上に「壁」を築かれたようですね。そして、低IQを「常識」から外れた「バカ」とされているようですから、高IQは「利巧」であり、「バカ」は「非常識」の世界の住人だということになります。ところで、「知軸」上の「壁」は奈辺にあるのでしょうか。昔でしたら、「学士」であるかどうかがクライテリアであり、「学士力士」などがもてはやされていましたが、今や相撲界にも「学士」はウジャウジャ。最近相次いだ大学の名門スポーツクラブでの不祥事が見事に裏づけしているように、「学士」のデノミによって、むしろ「学士の大半はバカ」といった状態になってしまいました。IQの高低を分ける「壁」は高くて、「学士」の中でも、例えば「高級国家公務員試験合格」のIQレベル以上でなくては「利巧」と言えないのではないでしょうか。そして、大学で言えば、「助教授」以上が「利巧」。「講師」しかも「非常勤」となると、これはもう紛れもない「バカ」。「非常勤」が「非常識」と揶揄されるのも仕方ありません。この高くて厚い「壁」によって、カナリヤ助教授とカケス非常勤講師は別世界に袂を分かつことになるのです。

 

「愛軸」上の「バカの壁」

 

しかし、「愛軸」上にも高EQと低EQとがあってここにも「バカの壁」があるはずです。前述のように、古閑カナリヤ論によると高EQの要件は以下の通りですから、並大抵のEQレベルでは「愛軸」上の「バカの壁」を超えられないということが分かります。そして、カナリヤとカケスは、ここでも壁を挟んで泣き別れ。それでも、壁超えに挑もうとしているカケスが愛おしく思われ…ませんかね?

  ・ 人のため大義のために身を投げ出す気持ちがあること

     責任感や倫理観がしっかりしていること

     相手をおもんばかる能力があること

     コミュニケーション能力と豊かな感性があること

従って、同じ低IQでも、世のため人のためになる高EQの世界があることになり、我らの目指す“貴い「馬鹿」”はまさにこの低IQ高EQの領域に位置づけられるということになります。しかも、この領域は責任感や倫理観が不在の「非常識」の世界ではありません。定理、公式、経験則なども含めた既存情報の多寡が物を言う「常識」の世界とも違います。むしろ、大義追求のために自主的に「常識」にとらわれない新規情報を仮説として構築しこれに基づいて行動できるのですから、「馬鹿」はまさしく「不常識」の世界の住人であるということができます。ですから、「馬鹿」の「不常識」の世界があるということを見逃しておられるところが養老先生ご自身の「バカの壁」なのではないかと思えるのです。

 

「愛」と「知」のマトリックス

 

テキスト ボックス: IQ(知能指数)X軸をEQ(情緒指数:Emotional Quotient)を尺度とする「愛軸」とし、Y軸をIQ(知能指数:Intelligence Quotient)を尺度とする「知軸」とすると、それぞれの高低によって左の図のように4象限ができます。これぞ、新仮説「愛と知のマトリックス」!そして、このマトリックス上の低EQ高IQが「常識」豊かな「利巧」、高EQ低IQは「不常識」な言動ができる「馬鹿」で、低EQ低IQが「非常識」な「バカ」のそれぞれ領域だということになります。そして、高EQ高IQは愛知兼人の「賢人」で、ここは世俗的な「常識」を超えた「超常識」の世界になります。ここから、綺麗で上品なカナリア「賢人」と、そのどちらでもないカケス「バカ」が対極的な位置関係にあるのだということが改めて身にしみて分かるわけです。

 

 

 

バカ達の群像

 

「大義」をわきまえずイラク侵攻に走ったブッシュと、そのポチ役の小泉サンとのBKコンビは低EQで、ともにIQレベルも高くないので当然「バカ」ということになります。そう言えば、イギリスのブレヤーもB、北朝鮮の金もBとK。BKカルテットこそ“バカの枢軸”。「バカバカしい」という言葉は「BKBKしい」が語源なんでしょうね、きっと。バカの特質は臆面もなく「非常識」な“捏造”をするところにあります。「戦争の大義」を“捏造”したブッシュが大バカならなら、遺骨まで“捏造”して 小泉サンを小バカにしている金正日はさしずめ中バカというところでしょうか。なにしろ、“捏造”というものは、論理性もなく独善的に行われるものですから、これをもって相手と「コミュニケーション」できるわけがありません。「我らが親族を殺害した“英霊”を祀る靖国を参拝するのはやめてくれ」という中韓からの申し入れに対しても「バカの壁」で耳を貸さないところは、小泉サンが低EQ「相手をおもんばかる能力がない」ところを見事に立証していますが、この問題についても論理性の欠如が見られます。「二度と戦争を繰り返さないということを誓うための靖国参拝なのだ」などという説明をしていますが、その一方で、アメリカのイラク“戦争”を真っ先に支持しているのですから支離滅裂です。もっとも、「アメリカの軍事行動は“戦争”ではなくてイラク国民の人道復興支援の活動である」などと、バカなりに詭弁を“捏造”しているのかもしれませんが。

 

バカ宰相とバカ国民

 

国会の党首討議で、自衛隊派遣の要件となっている「非戦闘地域」の定義を問われた際に小泉サンが臆面もなく「自衛隊が行動しているところが非戦闘地域なのです」と答えた時には唖然としてしまいました。論理学の初歩を学ぶまでもなく詭弁だとわかる言を一国の宰相が白昼堂々と弄しようとは!もともと「国民に対する説明が足りない」と評される御仁ですが、思考に論理性がなくて「コミュニケーション能力」がない低EQのバカだから説明はしたくてもできないというのが実態なんじゃないでしょうか。しかし、バカな宰相を結果的に選んだのですから、所詮は日本国民がバカ優勢の集団なのだということになるのでしょう。小泉サンがバカ振りを謳歌していれば、国民も負けてはならじのバカ三昧。将軍とサンバという超低IQ的な取り合わせの「マツケンサンバ」に踊り狂っている様をみていると、もはや日本国民が自暴自棄状態になっているとしか思われません。一方で、「相手をおもんばかる」高EQの日本国民今いずこ。相次ぐ幼児虐待・殺害事件の発生は、「相手の思いや痛みが分からない」で、「ものごとのありように気づかない(気づこうともしない)」低EQの窮みの証で、これは“愛”国心“教育”がどうだこうだという問題ではありません。大体において、「愛する」ことは「教育」できるものではないんじゃないかとかねがね思っているんですが。

 

「利巧」の壁

 

遺骨まで捏造してしまう「非常識」ヤクザ国家・北朝鮮のお相手をさせられている外務省高官の藪中さんを見ていると気の毒になりますね。外交官試験に受かったほどですからIQは間違いなく高いのでしょうが、例えば高EQの要件の一つである「人のため大義のために身を投げ出す気持ちがあること」などかけらも感じられません。僅かな捏造資料を与えられただけでおめおめと日本に帰ってきてしまってはいけません。「このままでは拉致被害者家族に合わせる顔がない」とでも言って、“身を投げ出して”平壌に居座るくらいの構えを示したら北朝鮮側に“対話”による“圧力”をかけることができたでしょうに。ヤクザとて人間ですから、「常識」では動かせませんが「情」にはもろい。一体、“対話”ができているんでしょうかね。外国語“会話”能力があるからといって“対話能力”があるとは限りません。“対話能力”は高EQの一要件である“コミュニケーション能力”そのものなのですから。まあ、大方の高級官僚はIQの高さをペーパーテストで確認されているだけですから、EQが低いのを責めるのは酷というものです。所詮は、前例に関する知識の集合体でしかない「常識」に依存せざるを得ないところが、「利巧の壁」であって、前例踏襲を旨とする能吏流問題処理方式の限界というべきなのだと思います。

 

「賢人」は愛知兼人

 

「常識」の持ち主で、そつなく問題を“処理”することができる能吏の典型の川口順子さんが外務大臣ならぬ害務大臣に留まり、北朝鮮問題についてさしたる問題も“解決”できずに終わったのも愛軸上の“バカの壁”を乗り越えられていないことの証だと思います。そこにいくと、内閣官房参与であった中山恭子さんは凄い。「相手(蘇我ひとみさん)をおもんばかって」、ジェンキンスさんの北京行きを回避してジャカルタに連行し、その上で日本に“拉致”してきてしまったのですから。「常識」を超えて「人のため大義のため」、「コミュニケーション能力」を駆使して、自ら考えだした「超常識」があったればこそ問題が解決できたのでしょう。古閑カナリヤ先生も然りですが、「綺麗で上品」ということは内面における「高IQかつ高EQ」の“愛知兼備”の外的発露に過ぎないのかもしれません。経営学「教授」となることによって知軸上のバカの壁、「モンゴル人のために身を投ずる」ことによって愛軸上のバカの壁をそれぞれ越えて一気に「賢人」に昇華した吉武シンゴ兄の挙措動作も、その気になってみれば「綺麗で上品」に見えるはずですよ、きっと。

 

やはり「貴い馬鹿」目指して

 

高IQ低EQの「利巧」と対極的な低IQ高EQの「馬鹿」の世界の言動では「不常識」が大きな役割を果たします。「不常識」は、「利巧」の世界で受動的に教育される「常識」と違って、コミュニケーション能力(つまり情報リテラシイ)の高さを駆使して自らが情報として創造するものですから「情識」と言い換えることもできそうです。しかも、人に対する「愛」「情」に駆られて模索した結果得られる「情識」であって、学校教育などによってもたらされるものではありません。既存の「常識」をベースとする「利巧」の世界の言動がソツがなくて効率的なのに対して、「馬鹿」の言動は低IQがたたってソツだらけの結果になる可能性もあります。でも、この方がよほど人間的ではありませんか。実際、関東人の「馬鹿だなあ」という表現には、「そんな割の悪いことに一生懸命になって、本当にいいヤツなんだなあお前って」といったニュアンスが含まれているように思えます。「馬鹿」は「バカ」と違って、蔑みの言葉ではなく、小利巧な者には感じることのできない「馬鹿馬鹿しい」までのひたむきさに対する賛辞なのではないかと思われます。つまり、座標軸を変えて再考してみても、結論は「馬鹿原論」と同じ。「野卑なバカ」を脱して「貴い馬鹿」を目指そうではありませんか。

 

以  上

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