丑寅辰巳会

 

「名門」小田原高校

 

私は人前でも自分の出身高校を「名門小田原高校」と呼びます。学生時代に、日比谷高校などの“全国区名門高校”の出身者が周辺に溢れていて、憐れな小田原高校は私自身がそう呼んであげなければ決して「名門」になれなかったからです。しかし、“地方区”ではありますが、小田原高校が名門であることは事実です。旧制中学時代、小田原高校は神奈川二中であり、一中であった希望ヶ丘高校、三中の厚木高校と並び称されていたのです。今年が創立100周年ですから、小田原高校から見れば神奈川県下有数の進学校と言われる湘南高校など、まだまだ「名門度」において足の元にも及びません。歴史だけでなくて、八幡山の坂を登って鬱蒼とした林の中にある正門の佇まいを見ておりますと文字通り「名門」なんだなと思えてきます。

 

よく遊びよく遊びの高校時代

 

幸か不幸か私には大学受験戦争に巻き込まれたという記憶がありません。もともと大学進学の意図がなかったせいか、気候温暖な小田原の風土そのままにのんびりとした高校生活を過ごしていたように思います。校庭や早川の海岸ではよくソフトボールをしました。当時強かった小田原高校軟庭部の影響を受けて、同好会に近い形の頻度と熱心さで軟式テニスに打ち込みもしました。その中で麻雀への入れ込みようも大変なものでした。夏休みともなると、藤井暉生(テルさん)宅に連日押しかけてのご開帳です。深夜になって帰宅する際に交番のお巡りさんに咎められて補導されかかったこともありました。そんな時「友達のところで一緒に宿題をやってきた」と偽りの弁明ができるように、教科書の類を携えていたのが流石です。

 

「丑寅辰巳」のいわれ

 

同期の麻雀グループに水口幸治がいて、その兄の水口健二さんも小田原高校同期生中心の仲間でよく麻雀や呑み会をやっていました。二つのグループのメンバーは水口宅で顔を合わせて卓を囲むうちにお互いに知り合うようになりました。この関係は、高校時代から大学時代、そして皆が社会人になるまでダラダラと続きました。ですから我々昭和15−6年生まれの水口幸治グループと昭和12−3年生まれの水口健二さんグループが「面倒くさいから一緒に懇親会をやっちゃおう」ということになったのも自然の流れの中でのことでした。かくて、かたや丑年に寅年生まれ、こなた辰年と巳年生まれが一緒くたになって、その名も恐ろしい「丑寅辰巳会」の誕生となった訳です。

 

牛虎に非ず

 

「丑寅辰巳会」として活動するのは、年に1回泊り込みの懇親会を開くだけです。最近はホテルマン・辰巳組の中澤秀夫が副支配人をしていた関係で熱海の「ニュー相模屋」に集まっていますが、以前は銘々の勤務先の保養所や箱根・熱海周辺の安宿を利用していたものです。やくざ集団かと間違えられがちな会の名前が名前だけに、ホテル等のカウンターでの「どちら様?」の質問に答えるのが気恥ずかしくて、私などは「そこ、そこに書いてあるの」と指差しして示すのが精一杯です。しかし、ある安宿では「牛虎辰巳会ご一行様」と書いてあって、「なんだ俺たちはギュウトラなのかよ」と丑寅組は痛く誇りを傷つけられた様子でした。皆若くて「牛虎の勢い?」盛んな頃の話でしたが。

 

無意味の意味

 

年に1回の懇親会にしても、酒を酌み交わして近況を伝え合うだけの話で、取り立てて意味のあるものではありません。中には、「丑寅辰巳人脈」活用を狙って入会してきたメンバーもおりますが、この会の意味の無さに気付くのに時間はかからなかったようです。しかし、何の損得勘定も無いやり取りの中に「異質の交流」の楽しさが感じられるせいでしょうか、脱落してゆくメンバーはほとんどありません。実際、辰巳組と丑寅組との間には境を画する一線があるように思えるほど「異質」が感じられます。辰巳組が高校を卒業した昭和34年に廃止された赤線がその線ではないかと勘繰っているのですが、丑寅組の特に酒色面での武勇伝は桁外れで、辰巳組には落語の世界の話を聞いているような気になってしまいます。

 

与太郎と秀才と

 

落語の世界風に全体を見ると、丑寅組が与太郎組で辰巳組が秀才組ということになりますが、よくみると丑寅組の中にも与太郎と秀才がいるようです。水口健二さんを筆頭に、出口順一さん、藤田昌弘さん、松本良治さんはどう見ても稚気愛すべき与太郎組で(失礼、かな?)、洲崎良和さんは「酸いも甘いも」といいますか「清濁併せ呑む」存在のように見えますが、永田有作さんと唯一の技術系の今泉奉さんはどこを叩いても埃が出そうにない秀才組ですし、新参の石田武さんも頂いている年賀状に描かれる風景画の精緻なタッチから判断して秀才組に違いないと思っています。こうした丑寅組少数派に全員が秀才組“的”な辰巳組が加わってようやくバランスが保てるのですから、丑寅与太郎組の“猛威”の程が分ります。

 

漁師あり浮世絵師あり

 

どんな集まりも永続させるためには面倒を厭わず他人のために尽くす「馬鹿役」が必要ですが、この丑寅辰巳会も永久幹事の山本哲照(テッショー)の存在が無ければこれほど続いたかどうか疑問です。テッショーは面倒見がよい上になかなかの文筆家です。都度送られてくる案内状も秀逸ですが、一昨年のメンバー・リストには笑ってしまいました。定年退職されて、魚釣に熱中されている松本良治さんと木版画に凝られている今泉奉さんの職業欄に、それぞれ「漁師」、「浮世絵師」とあったからです。早速私は、この丑寅組のお二人に弟子入りを申し入れるとともに、自分にもまじかに迫っていた定年退職の折にはこのアイデアをパクッて、「漁師」、「浮世絵師」を名乗ろうと心に決めたものでした。

 

辰巳組の結束力

 

個性の強さでは丑寅組に引けを取りますが、辰巳組の結束力の強さもなかなかのものです。特にその昔、水口幸治の持つ山中湖の別荘近辺で凸凹の砂利の坂道に佐々木の車がはまり込んでしまって、上に戻るどころか逆にずり下がってしまうという苦境に陥った際に示されたチームワークは見事なものでした。居合わせた水口、中澤、テッショー、テルさんに望月郁文(モッチャン)が、折からの豪雨もものかわ駆けつけてくれ、長時間にわたりずぶぬれになって、道路工事作業や車の牽引作業に献身してくれました。最後は横転の危険をも顧みぬテルさんの曲乗りによって車が凸凹道の凸部を際どく伝って窮地脱出に成功したのですが、あの時の期せずして沸いた成功を讃える拍手と歓声はいつまでも忘れることができません。

 

紀行文・奇行文に乞うご期待

 

技術系がいなかった辰巳組にも辻秀志が加わり丑寅組に並びました。今年はまた、モッチャンが長年の教育事業への寄与を讃えられて藍綬表彰を受けました。武勇伝や会社経営歴の面では丑寅組に一歩も二歩も譲らざるを得ませんが、勲章受章者を擁するというのは辰巳組の大きな誇りです。更に、昨年それぞれ最愛の細君と母君を亡くした水口・山本のMYコンビを軸に辰巳組の結束力が強まり、辰巳分科会の活動が活発になって参りました。これがこの度 (7/10-8/1)の、水口、中澤、テッショーと私の四名による「還暦記念米加西部ドライブ旅行」実現のための伏線となりました。

今回の紀行文やら、丑寅辰巳会を通じての奇行文やらを、ホームページで今後ご紹介してゆけるのを楽しみにしております。

 

還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行

 

以  上

 

                                 (2001・8・22)

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