さくら狩人

福島ふとどき風土記

 

To be or not to be福島県人

「本家・湘南」の辻堂から「東北の湘南」いわきに移転してきてから3年が経ちました。精々2年間と思っていたのに、居着いてしまったかのような感があります。このまま、ずるずると福島県人になって良いものやら、覚悟の決め時のように思えます。To be or not to be福島県人?しかし、「いわき市民」ならいざ知らず、福島県人になるにはあまりに「福島県」のことを知らなさすぎます。愛車シビックもいつの間にか総走行距離が10万キロを超えましたが、このところは「両湘南」間の行き来が中心で、湘南ナンバーがまだ乗り入れたことのない福島県市町村の数が多すぎるような気がします。マイカーちゃんのカエちゃん(佳惠子)だって、いわき出身(内郷生まれ)のくせして、同じ福島県でも中通りや会津地区はおろか浜通り北部のこともあまり知っていないんですから。

心乱す花の便り 

そんな時に目に触れたのが、インターネットの「福島の桜名所・開花情報」でした。ちなみに、桜名所をマッピングしてみますと、福島県全土に広がっています。「よし、満開の桜を追っかけていけば未知の福島県各地の風土に触れることができるぞ」と思い立ったのはこの時でした。「花の命は短いものよ」とも「三日見ぬ間の桜かな」とも言います。あちこちからの「桜咲くらん」情報に錯乱されることを覚悟で、以下のインターネット検索エンジンから満開予想時期情報を得て「福島さくら探訪計画」を立てました。

OCN http://www.ocn.ne.jp/weather/sakura/s1010.html

goo    http://channel.goo.ne.jp/weather/sakura/p0013.html

nifty   http://travel.nifty.com/sakura2004/ichiran/fukushima.htm

いざ“全豪”制覇へ

桜名所のマッピングに用いたのは、これもインターネット(http://map.yahoo.co.jp/)からの以下の地図でした。いつ見ても思うのですが、福島県の地形は本当にオーストラリアによく似ています。太平洋岸の“東オーストラリア”は「浜通り地方」、東北新幹線と東北自動車道が通る“中央オーストラリア”は「中通り地方」、“西オーストラリア”は「会津地方」と呼ばれています。明治4年に廃藩置県が行われ、明治9年に「福島県」に統合される前は、「磐前県」、「()福島県」、「若松県」に“3県分立”していたそうなのですが、それがそのままそれぞれ「浜通り地方」、「中通り地方」、「会津地方」の位置関係になっています。地図の白っぽいところが10市からなる「市部」で、茶色っぽいところが5228村からなる「郡部」です。「市部」が福島県全体に占める面積は30%で、ここに全体人口の64%が集中しているのですから、福島県は「適当に田舎っぽくて適当に都会っぽい」土地柄と言えそうで、この点もオーストラリアによく似ているような気がします。さて、さくら狩人となって、日本のオーストラリア全土制覇へ。

ホームページに花を

 以前、三井銀行が「さくら銀行」と改称した時に、三井系企業の仲間の集まりで、「この際に三井系企業は全て“さくら”を冠するようににしたらどうだろうか」という冗談交じりの提案がありました。例えば、「三井物産」は「さくら物産」で、「三井建設」は「さくら建設」エトセトラ。しかし、どうにも、この冗談提案を受け入れられない会社がありました。それは「富士写真フィルム」です。これが「さくら写真フィルム」となってしまったら、それこそ「サクラ錯乱」になってしまいますもの。しかし、「さくら」とくれば「写真」。さくら狩人としてはカメラの携帯を欠かすことができません。「よし、この際に花の写真を撮って、今まで文字ばかりだったマイホームページに花を添えることにしよう」と思い立ち、大枚はたいて「富士」のデジカメFinePixを購入して「さくら」を撮りまくることにしました。カエちゃんも「気に入ったところならついて行ってアゲル」とのご託宣です。これにて、マイカー、マイカメラ、マイカーちゃんの揃い踏み。さくら狩人堂々出陣の準備が整いました。

T.いわき平地区

 

松ヶ岡公園(2004/4/5 Mon)

平ならざる平地区

いわき平地区には、若葉台、中央台(湘南台も!)などといった“台”地や、私が住んでいる自由が丘(!)や郷が丘といった“丘”陵地に住宅街が開発されているところが多く、こうした台や丘に住む“高台民族”が主流を占めてきているようです。このことからも、移転してきたばかりの時には一見して平坦に見えた平地区が、実はなだらかで微妙なアンジュレーションの豊かな土地であったのだということが分かります。私の桜ハンティングのスタート点に決めた松ヶ岡公園も、“岡”の名が示すとおり、そうした高台の一つです。但し、“岡”は“丘”と違って裾野が狭いのでしょうか、松ヶ岡は小高い岡であって上部に住宅街が開けるほどの広さはとてもなく、市内で最も古い歴史を有する公園があるだけです。ここの桜が福島一番桜。「満開」の報を得て、駆けつけたのは4月5日(月)。前日に降った名残雪が、平ならざる平地区の遠景に見える頂上部が「平」でなだらかな水石山の山肌に残る晴天の朝のことでした。

先ずは天田愚庵との出会い

74台収容できるという無料駐車場を出ると、すぐその並びに庵状の建物と小さな池があって、そこに満開の桜が一本。紅葉もそうですが、桜だけでも充分美しいのですが、このような人工の造作物と取り合わされると一際情緒が増すというものです。建物は天田愚庵邸であり、その脇にある彫像が愚庵を模したものであるということが分かりました。説明看板によると、愚庵は磐城平藩主對馬守安藤信正の家臣・甘田平太郎の五男として生まれ、長じて京都に上って漢詩に異彩を放ち万葉調の歌人としても名を馳せたのだそうです。この建物も京都の清水に建てられていたものがここに移築されたとのことで、京都では正岡子規や高浜虚子とも接触があり、特に正岡子規には強い影響力を与えたとのことですから、正岡子規ご贔屓の向きは、徒や疎かに甘田愚庵を生んだ「いわき」の地を軽んじてはいけません。自らを「“愚”庵」と称しているのが気に入りました。「大愚大賢に通ず」ですから「自らを愚となすは大賢の始めなり」に違いありません。愚庵先生がご存命なら、自らを“馬鹿”となす我ら「六馬鹿会」メンバーと意気投合することができそうです。まずは、福島全域さくらチェースという愚行の開始に当たり幸先のよい愚公との出会いでした。

 “花見”の絶好地

岡の斜面の遊歩道を、桜を愛でながら登って行き、頂上の開けた平地に出るとそこが公園です。高い枝の桜があるかと思うと、すぐ目の前にたわわな花びらを見せる低い枝振りの桜ありで、ソメイヨシノを中心とする桜の総数は約250本だとか。サツキ、ツツジの名所にもなっており、5月になると市民の憩いの公園になりますが、交通の便が良い上に、飲食物売店が目立ちすぎるほど整っているところから見ると、桜のシーズンには静かに桜を見る花見より“花飲み”(これぞ日本人の大半にとっての“花見”)のための絶好地と見受けました。園内には豆汽車やメリーゴーランドなど子供向けの遊具施設も整備されていますので家族連れで訪れる市民も多く、子供達の上げる歓声が聞こえますが、桜がライトアップされる夜間ともなると、これが平地区の勤め人達の上げる嬌声や蛮声に取って代わられるものと思われます。

平藩主・安藤信正はエライ人?

公園の一隅に痩身で長躯の武家姿の銅像があります。痩身で長躯と言えば、太身で短躯の我が体形の対極ですから、はなから親近感を持てるものではありません。その上、それこそ足元にも及ばないほどの高さのところから突っ立っていて見下ろしているのですから感じの悪いこと夥しい限りです。「エラソーにしているコヤツは一体誰なんだ」と確かめてみると、これが磐城平藩主對馬守安藤信正でした。なんで、こんなにエラソーにしているのか調べてみたところ「桜田門外の変で井伊直弼大老が暗殺された後、老中首座として幕閣を取り纏めた」とありました。「アメリカ公使ハリスの信も得ていた」ということですから外交手腕も優れていたのでしょう。平藩という僅か五万石という小藩の出自で、実質的に現在の総理大臣と外務大臣を兼任するほどの位にまで登りつめたのですから、島根の小選挙区から出て総理大臣にまで登りつめた竹下登サンも顔真っ青の権謀術数の大家だったに違いありません。将軍徳川家茂の正室に皇女和宮の降嫁を奏請して実現に導いたのもこの人。しかしこれが尊皇攘夷派の反目を招いて、江戸城坂下門外で水戸浪士に襲撃されるという事件が起こり(坂下門外の変)、これがきっかけとなって蟄居を命ぜられる羽目になった。更に、戊辰戦争勃発の折には、行きがかり上か奥羽越列藩同盟側に立たざるを得なくなり、新政府軍に攻められて平城が落ちた際には城を焼いて仙台に走ったということですから、晩年は決してエラソーにはしていなかったはずです。

今にありせば

かの大隈重信サンは「幕府の終末、尊攘開鎖の論盛の中に、大局をリードして国運を大過なくみちびいた信正は、気略・勇断の非凡なる英雄であり、偉人である」と絶賛しているそうですが、エライ人同士のエールの交換なぞは眉唾物に決まっています。しかし、現代の、あまりエライ人ではなさそうな(マリンスポーツ愛好家と思しき)方がホームページで「小笠原諸島は幕末に彗星の如く登場し諸外国との平和外交につとめた安藤対馬守が日本の領土とさだめたといわれております。彼が外交に当たらなければ、どこかの国の植民地になっていた」と高く評価されているところをみるとホンマモンだったのかとも思えます。実際に、イギリス公使オールコックと歓談中「小笠原はいずれの国の領有にすべきであるか」と質問されたのを機会に、間髪を入れずに応対して現地調査などの行動を起こし、小笠原が本土領海内であり日本領土であることを認めさせたということです。安藤信正、今にありせば、尖閣諸島問題どころか埒の明かない拉致問題さえもたちどころに解決できるのではないかと思うほどに見直しております。

桜ヶ丘高校(2004/4/5  Mon

インターネット桜情報にも載っていないものの、“松”ヶ岡でさえこのくらいの満開ぶりなのだから“桜”ヶ丘ともなればさぞや当然…という法外な期待を胸に抱いて、行きがけの駄賃とばかり、カエちゃんのナビに従って旧バンジョへの道を辿ります。バンジョはご存知「“磐”城“女”子高校」の愛称で、女優の秋吉久美子のようなキュートな桜やプロゴルファーの小林ひろみのようなタフな桜も輩出した“知る人しか知らない”名門校で、何とかザクラのカエちゃんも不肖の先輩の一人だってわけなのです。文字通り、女子だけの桜の園が男女共学校になって、むくつけき男子が出入りし始めることになったので、さすがにバンジョは改名を余儀なくされることになり、かくて「桜ヶ丘高校」誕生となったわけです。但し、「桜ヶ丘」というのは地名ではないそうで、カエちゃんの解説によると、もともと桜の木の多い丘陵地であったこと、または、かつてバンジョにあった桜丘会館に由来して「桜ヶ丘」の名を冠したのではないかということでした。事実、校門の周辺には満開の桜が見られましたが、「松ヶ岡」ほどの本数はなく「桜ヶ丘」は僭称なのではないかと、落花を前にチラホラ思いました。校門を出入りする男子生徒の姿を見て、「我が母校だとは思えなくなってしまった」と呟いていたカエちゃんの気持が分かるような気がします。いくら昔よりずっとジャニーズっぽくなっているからといっても、男子生徒ではどう見ても桜には見えませんもの。

夏井川河畔(2004/4/8 Thu)

これもインターネット桜情報番外編なのですが、市内を流れている夏井川の河畔の桜がきれいだと言うカエちゃん情報に誘われて早速参上しました。夕刻、暮れなずもうとするあたりに、人知れず咲き並ぶ桜並木の姿も寂しさが漂っていて好いものです。仙台の市外には広瀬川が流れていて、住んでいた時には、通勤する前や帰宅した後で鮎釣に行ったこともあります。いわきも、結婚した頃に訪れた時には、いかにも炭鉱町というイメージが残っていて、押しなべてグレイがかった光景が多かったのですが、今ではすっかり緑が増し、仙台を凌ぐ杜の都になっています。しかし、いかんせん、夏井川は広瀬川ほどの川幅がなく、鮎も棲んではいないようです。しかし、ここの桜並木は広瀬川河畔には見受けられないものです。さとう宗幸は仙台を「青葉城恋歌」で「♪♪♪広瀬川流れる岸辺♪♪♪」と唄っていますが、ここでも「♪♪♪夏井川流れる岸辺♪♪♪」とかなんとか「さくら並木恋歌」でも唄って欲しいものです。大方の人には知られざる事実なのですが、いわき市は仙台市に次いで人口が多い東北第二の都市なんですよ。仙台だけを歌にするなんて法外な差別でありエコ贔屓というものじゃありませんか。ちなみに、いわき市は20034月に静岡市と清水市が合併するまでは日本一面積が広い市(1,231平方キロメートル)だったんですから、東北でも当然、仙台なんて目じゃなくてナンバーワン。福島県でも2位の郡山市(757平方キロメートル)から見たら遠く雲の上の存在なんですよ。更に、年間日照時間が日本一とかで“サンシャインいわき”なんて言ってる人もあるくらいですから、これも全国区レベルで他の福島県勢の遠く及ぶところではありません。福島県では、人口、面積、日照時間で、堂々の三冠王なんですよ。 

福島高専(2004/4/9  Fri)

自由が丘の我が家の北側の窓からは、すぐ目の前に福島高専のグラウンドを見下ろすことができます。ですから、体育の時間や野球部などのクラブ活動の最中には、元気な掛け声や歓声が直接耳に伝わってきます。そんな訳で、福島高専への行き来にはシビックも不要で、ちょうど良いエクササイズができる距離になります。そこで、まだ人影もない早朝にキャンパスに無断で潜入して、共犯者カエちゃんとともに桜の盗み見と盗撮をしでかしてしまいました。しかし、「これより中は関係者以外立ち入り禁止」という主旨の立て看板を見かけましたから、“これより外”のキャンパスは関係者以外でも、潜入ごっこなどしないで大手を振って立ち入りできることになっているのかもしれません。アメリカの学校は概ね地域住民にキャンパスを開放しているようで、僕自身もニューヨーク郊外の友人宅に泊った時に近くの学校のテニスコートを使わせてもらったり、その際に何組もの老カップルがキャンパスをゆっくりと散歩している姿を目撃したりしたことがあります。日本の学校も、もっとオープンになっていることをPRして、進んで地元住民をキャンパスに招じ入れるようにしたらいいのに。キャンパスに咲く見事な桜を、勿体なくも、潜入カップルだけで占有しながらふと思いました。

小名浜運動公園(2004/4/ 10  Sat)

土曜日の朝には決まって小名浜カントリーの近くに開かれる「いわき農産物直売所」に夫婦揃って出かけて行って1週間分の野菜を買い込んでおくことにしています。しかし、今日はカエちゃんが「本家・湘南」の辻堂宅に帰っているので単独行です。次々と小型トラックが到着し、取れたての野菜が運び込まれて出品されてきますので、あれこれと物色するのがとても楽しい時間となります。そんな時にふと小耳に挟んだのが「桜」の会話。常連のおばさん(「あんたにオバサン呼ばわりされたくないわ」と言われてしまいそうですが)にも同好の桜チェーサーがいる様子です。そこで、井戸端ならぬ野菜端会議に割り込んで教えを乞うたところ、小名浜運動公園の桜が見ごろだというホットな情報を得ることができました。コンピューターのネットワークであるインターネットもさることながら、人的ネットワークであるオバネット(オーバーネットとなると出過ぎという感じになりますが)もなかなか有り難いものです。そこで、野菜狩が転じて即桜狩へ、同じ小名浜でも大きな小名浜港の長い岸壁ラインを隔てた西部にある小名浜運動公園にシビックを走らせます。この公園は、以前にも外部から見かける機会は何回もあったのですが、こんなに広くて奥行きがあったとは知りませんでした。広くて平らな土地が、いかにも「港町・小名浜」といった感じのオープンな雰囲気のする公園に設計されていて、満開の桜が散歩道の両側に咲き競って春爛漫の空気を漂わせています。青空の下、若い桜たちの織り成す華やかな絵図に、ユキヤナギの白、レンギョウの黄色もアクセントをつけ、まさに春うらら。家族連れも、芝生にシートを敷いて、華に囲まれた一時を楽しんでいました。ここは、オバネットならではの一押しの穴場じゃないかと思います。平地区での満足度ナンバーワンでした。

いわきニュータウン・テニス倶楽部(2004/4/14  Wed)

名前の通り、「ニュータウン」は比較的新しく開発された住宅街で中央台の台地上部に広く展開されているのですが、我らがテニスクラブは中央台の裾野の部分にあります。しかも、車の通行の多い鹿島街道から、細くて曲がった坂道を登って降りていった目立たない場所にあります。ですから、3年前に入会したくて初めて訪れた時には、所在地が突きとめられなくて右往左往してしまいました。しかし、大通りからの直線距離は短いのにもかかわらず、森に囲まれていて静かな環境は素晴らしく、平地区の素浪人である私は週に5回も通い「平周五郎」を自称するまでになってしまいました。この緑豊かな環境も、桜の季節が訪れると華やかな彩が加わります。そして、毎年恒例の花見の会。桜舞い散るコート上でテニスを楽しみながらの昼食兼昼飲会で、今年は3月にご主人の転勤のため須賀川市に移転して行ったばかりの鈴木ひとみさんをゲストに迎えての一席でした。「須賀川の釈迦堂川の桜も今満開」とひとみさん。「えっ、インターネットではまだ8分咲きってなってたんだけどなあ。2−3日後に行く予定になっているから、それまでもつように須賀川の桜さんたちに伝えておいてよ」と横車を押す私に、「よっしゃ、そう言っといてあげるわ」とひとみさん。相変わらず軽いノリだなあ。しかし、ここで芽生えたインターネット情報に対する不信感。なにとぞ、私の須賀川行きがスカの結果に終わりませんように。

U.楢葉町・富岡町・相馬市・福島市

(April 11,  Sun)

走行距離340km

上繁岡大堤の桜(楢葉町)

“東北の北海道”も

 浜通りを北に走って、いわき市の境を出るとそこが広野町です。ここは、文部省唱歌「汽車」でも「♪♪♪今は山中今は浜、今は鉄橋わたるぞと思う間もなくトンネルのやみを通って“広野”原♪♪♪」と歌われているほどの“由緒正しい”町ですが、“広”野たってそれほど広いわけではありません。福島県52町のうち面積では35位なんですから(人口順位では43位)。しかし、2002年のサッカー・ワールドカップ開催の際にアルゼンチンの合宿地となったJビレッジができたせいか、道路が整備されていてドライブは快適。すぐに“狭”野を過ぎて楢葉町に入ってしまいます。この町も、人口順位33位面積順位20位ですから、取り立てて大きい町だとは言えません。しかし、ヒロノに並ぶナラハの語感がとても優しくて気に入っています。更に、秋になると、ここを流れる木戸川に鮭が遡上してきて“東北の北海道”の様相を呈しますし、天神岬には肌に滑らかな天神の湯があって大海原を眺めながら露天風呂に浸かることもできますので、もうここには何度となく足を運んでいます。

「堤」よいずこ

さて「上繁岡大堤の桜」ですが、これもインターネット情報に載っていた花見ポイントではありません。家に掛けられていた「いわき信用金庫」のカレンダーの写真を見て「これは是非桜狩ツアーのコースに組み入れなくちゃ」と思ったのです。従って、カレンダーからインプットされたキーワードは「楢葉」と「堤」の二つだけだったのです。そして、頭の中には、楢葉=木戸川」の方程式が組み込まれていましたので、ごく自然に「堤=川=木戸川」という連立方程式(?)が成り立つことになり、闇雲に鮭もかくやと思われるほどの勢いで木戸川沿いを遡上して「大堤の桜」を目指す羽目となったのです。しかし、行けども行けども、それらしい桜の姿は見えず。どこに産卵したらいいのか分からず錯乱している鮭のような状態になってしまいました。実際には、川だけでなくて池の類にも「堤」がありえたんですね。錯乱しながらウロチョロして、木戸川筋からも外れてしまってウロ絶えている時に出会って上繁岡大堤の場所を親切に教えてくれたウバ桜さんがとても綺麗に見えました。心優しければ姿美しですかね。「綺麗な人は綺麗に、それなりの人もそれなりに」というCMのフレーズがありますが、それなりの人でも心根次第で綺麗に見えるんですよ。

野生にも優しい楢葉ならば

行き着いたのは「上繁岡溜池」でした。もともとは灌漑用につくられた溜池なんでしょうか、豊かな水が湛えられた池の周辺の半分ほどを土手が囲んでいて、この土手が「大堤」の正体なのだと分かりました。土手の上にはソメイヨシノが咲き並んでいて、水面に満開の姿を映しています。早くも散り始めたのでしょうか、花びらも僅かに水に浮かんで「桜と水」の景色に趣を添えています。この溜池は「上繁岡の堰」とも称されているようで、福島県では最大の白鳥の飛来地として知られているそうです。楢葉町の名は人ばかりでなく、鮭にも白鳥にも優しく響くのでしょうかね。なにより、野生を呼び寄せるだけの自然環境が保たれているということは確かな事実のようです。そんな自然環境から国道6号線に戻って、ふと見ると「上繁岡」という交差点の標識が目に入りました。最初から地図を調べておけば迷わず溜池にいけたものを。酒飲みのくせに鮭の身になったような気になったり、「悲しからずや」などと白鳥の心根の真似をしたりするようなことをするから道に迷ってしまったわけです。

夜の森公園(富岡町)

昼に見る夜

夜ノ森公園は、楢葉町の北隣にある富岡町にあります。去年(2003)は、それこそ“夜”に訪れて、ライトアップされた桜の幻想的なシーンに感動しました。夜目遠目笠の内などと申します。ライトの下だからこそ夜の蝶は妖しいのであって、昼の素顔は怪しいものなのではないかという不吉な思いもチラッとします。しかし、あの幻想的なシーンが昼にはどのように見えるのか、光の演出効果を確かめるためにも昼の夜ノ森に迫ってみたいものです。

桜並木のトンネルは吉永小百合

いやあ、夜見て美しいものは昼見てもやっぱり美しいものなんですね。夜の化粧姿を見ても昼の素顔を見ても吉永小百合はやはり吉永小百合なんです。道路沿い両側に、樹齢100年以上のソメイヨシノが約1500本咲き競っていて、随所に桜並木のトンネルができています。特に、富岡二中東側の桜トンネルは見事なもので、トンネルの下から見上げると、ライトアップされていた時の幻想的な美しさがバーチャルぽかったのに対して、青空を背景にリアルな桜そのものの美しさを堪能することができます。公園は並木通りから少し外れたところにあって地元のお年寄りが大勢でゲートボールに興じておられました。小ぎれいな池も設えてあって、ここの桜も満開で、その淡いピンクとユキヤナギの白とが春たけなわの明るい公園風景を演出しておりました。この公園の分も合せると町内には全部で約2,000本も桜が植えられているそうです。

荒れ野を変えた男のロマン

「富岡」の地名からここの土地は肥沃なんだろうなと勝手に思っていたのですが、明治33年に半谷清寿さんという方が農村開発の理想に燃えて開拓に乗り込んで来られた時には「富岡」どころかとんでもない荒れ野だったようです。そして、その時に、入植の記念にと300本のソメイヨシノを植えたのが現在目の当たりにしている桜並木のルーツだということを、立て看板を読んで知りました。昨年来た時にも、この桜は誰が何のために植えたのだろうと疑問に思ったものです。学校や工場、公園などの施設がその構内を桜で飾って自ら楽しみたいという気持は分かるのですが、ここの桜はほとんどが道路沿いに植えられていて、道路を通行する者しか鑑賞することができないからです。厳しい開墾の仕事に苦闘しながらも、この一体が桜の名所となる日を夢見て植樹されたという話には男のロマンを感じざるを得ませんでした。更に、半谷清寿さんの志を継いで、昔日の荒れ野を花の街に生まれ変わらせた地元住民の皆さんの心根が見事だと思いました。今日も、禄にお金を地元に落として行くでもない私のような外来者に対して、実に丁寧に駐車場案内などのサービスをしてくれていました。入植時代以来、心の花として育まれてきた公徳心こそが「富岡」を築き上げた原点なのかもしれません。

中村城跡公園 馬陵公園 (相馬市)

原町市>相馬市だった

富岡町から仙台へ向けて国道6号線を北上しますと、大熊町、双葉町、浪江町、小高町といった町々が続きます。この辺りは、浜通りでも「相双地区」と呼ばれますが、浪江町までの双葉郡が「双」で小高町以北の相馬郡と相馬市が「相」の部分に当たります。いわき市エリアを出て相双エリアの町々をドライブしていても、窓外の風景がいわき市北部の久ノ浜辺りとあまり違わないので、「市なんだか町なんだかわからない」ような気分になるのですが、小高町を過ぎると鹿島町との間に名前からして「市なんだか町なんだかわからない」原町市というのが現われて来るから愉快です。しかし、この原町市、馬鹿にしたものではなくて、福島10市中で人口では6位、面積では5位で、それぞれ8位と6位の相馬市を上を行っているのです。「浜通り北部の中心都市は相馬市」とばかり思い込んでいた私めが愚かでした。いずれにしても、常磐自動車道が富岡まで延びたのはつい最近の話で、仙台まではこの国道6号線でゆくかJR常磐線で行くしかありません。常磐線もこの辺りでは単線になりますので、本数も少なく、時間がかかること夥しい限りです。仙台市は東北の中心都市としての求心力が強く、中央官公庁や大企業の東北の拠点はほとんどここに配置されていますが、こと、いわき市に関しては東北の一隅でありながら、仙台より東京の求心力の方が強く作用しているようです。

野馬追の町・相馬

そんなこんなで、ようやく相馬市に入りました。今日は地図の備えもない上に、ナビ役のカエちゃんも「本家・湘南」の方に帰っちゃっていますから助手席に人がなく、闇雲に「中村城跡公園 馬陵公園」の標識を探しながら走るしかありません。ところが、いわき市内なら「塩屋崎」だの「白水阿弥陀堂」だのが交通標識に示されているのですが、ここは相馬、そうま問屋が卸しません(?)。仕方なく、「城」っぽいところ、「公園」っぽいところを捜し求めて右折と左折の繰り返し。ようやく、お堀端っぽいものが見つかったところが「中村城跡公園」でした。堀沿いの土手に立ち並び、水面上に満開の枝を広げている桜。やはり、桜はお堀にお似合いです。僕が生まれ育った小田原もお堀端の桜並木が見事でしたので、一層そう思えるのかもしれません。大鳥居が建ち、石灯籠が並ぶ道の左側にはサッカーグラウンドがあって、高校生と思しき少年達が白熱したゲームを展開しています。激しくボールを争い合う音、ボールを蹴る音は聞こえますが、両チームの選手とも黙々とサッカーに打ち込んでいる姿は武道者を思わせ、さすが相馬野馬追の町なんだなあという気持がしてきます。黙々と励んでこそ男のスポーツ。男だてらにポイントごとにキャーキャーしている男子バレーボール選手に見せてあげたいくらいです。

二宮尊徳がなぜ相馬なの?

「中村城」は一名「馬陵城」とも呼ばれるのだということが初めて分かりました。ああ、それで「中村城跡公園 馬陵公園」だったのか。慶長16(1611)に相馬利胤さんが築城して小高城からここに移って以来、明治初年に廃されるまで約300年にわたって相馬氏歴代藩主の居城としてここが藩政の中心となったとあります。城跡一帯には藩政時代をしのばせる桜の古木が500600本もあり一斉に咲き競っています。お堀もさることながら、城に特有な杉等の常緑樹の深い緑との取り合わせも見事です。なおも、城址の散策を続けていますと、「二宮尊徳と相馬の仕法」と書かれた看板が目に入りました。あれれ、二宮尊徳は我が故郷・小田原ゆかりの人のはず。お堀端から程近いところに二宮神社があって我が母校・本町小学校(現在は城内小学校と併合して三の丸小学校)の校歌にも「♪♪♪二宮神社の銀杏の若葉♪♪♪」という一節があったはず。書かれているところによれば、相馬藩が財政上の危殆に瀕していた時に二宮尊徳の説く「興国安民の法」(これを相馬では「御仕法」と呼んだ由)を採用したことが相馬中村藩の人々に生きる力と光を与えたのだそうです。

♪♪♪手本は二宮金次郎♪♪♪

二宮尊徳の方法とは、単なる農村の改良などという程度のものではなく、広い世界観と人生観の中から生まれた得を以って得に報いる「報徳」というおおらかな指導理念に基づくものだったということです。理念に基づいて確固たる指導方針を打ち出した政府コンサルタント(二宮尊徳)も偉ければ、それを率先して採り入れ徹底して実践した地方公共団体の首長(相馬藩主)も同じく偉かったのだと思います。翻って、ポピュリストの小泉サンが説き、竹中先生がコンサルタント役を務めておられるカイカク路線に理念らしいものが感じられるでしょうか。同じくポピュリストで「脱ダム宣言」で名を売った田中康夫クンに率先垂範して実践する力と意欲はあるのでしょうか。やはり日本人の「♪♪♪手本は二宮金次郎♪♪♪」。「興国安民の法」、これじゃないかな、今の日本に求められているのは。小泉サンも靖国神社なんて参拝していないで、小田原の二宮神社に勉強にいらっしゃいよ。

桜の園の球児たち

更に歩を進めるとフェンスの外壁をぐるりと満開の桜に囲まれた野球場があり、少年野球の試合が行われていました。一塁側ベンチの横を見ると「中一中」と書かれた応援旗が立てかけられていました。「なんだか山本山みたいだな」なんて笑って見ていた人が見物席の隣にいましたが、これは「中村第一中学」の略称であり、この城址のある地区の名前が「中村」なんだということが分かりました。地元の相馬高校からジャイアンツ入りした鈴木尚弘選手の後を追ってプロ野球入りすることを夢見ているのでしょうか、桜に囲まれてプレイしている少年達の表情が生き生きとして見えました。しかし、「鈴木先輩のようにジャイアンツに入っちゃダメだよ。大砲部隊に入ったって駿馬のような俊足は宝の持ち腐れにされちゃうんだから」と無用な心配もちらりと。そうですね、ピッチャーとキャッチャー以外は恐ろしく運動量が少ない野球よりも、みんなの動きが多くて速いサッカーの方が相馬野馬追の地にはずっと相応しいのかもしれませんね。

浜通りの南北問題

我が「いわきニュータウン・テニス倶楽部」の宗像コーチも、この城址から程近い中村地区内にお住まいで、ここから倶楽部に通われているのだということを後になって知りました。宗像さんのお話によると、相馬野馬追のルーツはあの平将門にあるのだそうです。私が東芝在職時代から繁く足を運んだ東京・大手町の三井物産本社ビルのすぐ脇に平将門の首塚があるのは知っていたのですが、まさか相馬と関わり合いがあろうとは知りませんでした。相馬市のすぐ南の鹿島町には、今でも「平」姓のお家が何軒かあるそうです。もしかしたら、「いわき」市に併合される前の「平」市の名前も平将門に由来しているのかも。しかし、相馬市民の「平」地区志向度はあまり強くないようです。常磐自動車道の相馬までの早期延長を訴える野立看板を何回も目にしましたので、宗像さんに聞いてみますと、「常磐自動車道でつながっても、“平”地区まで買い物に行く人はまずいないでしょうね。仙台に行ったほうがずっと便利ですもの」というお話でした。そうか、同じ浜通りでも、南部は首都経済圏なのに対して北部は宮城経済圏なんだ。

分水嶺越え

相馬市は、仙台市だけではなくて、福島県庁所在地の福島市までも至近距離にあります。浜通りの相馬市から中通りの福島市に至る山道は伊達郡「霊山(りょうぜん)町」のテリトリーになっています。「りょうぜん漬け」が名産で、秋には紅葉が見事だそうですが、ここのドライブインでは秋までまだ間があるのにリンゴが売られていました。それを見てすぐにまた思い込み癖が頭をもたげて、「これは新地のリンゴだな」と思いました。いつか、例の「いわき農産物直売所」で、オバサン間で評判の良かった新地町産のリンゴを真似して買って食べてみて、本当に美味しかったのを覚えています。そして、「新地町」と言えば、今出てきたばかりの相馬市のすぐ北にある宮城県との県境にある町ですので、「霊山→リンゴ→新地町」の短絡回路が出来上がってしまうのも無理ありません。そこで、知ったかぶりをして「これ、新地のでしょ」と聞いてみたところ、売店のお姐さんの答えは「いいえ、新地のリンゴは海風に当たるから独特の味がするのですが、これは、もう少し福島市寄りに坂を下っていった小国というところで獲れた普通の福島のリンゴです」というものでした。きっと、霊山町のドライブインのある峠の辺りが、浜通りと中通りを分ける分水嶺に当たるのでしょう。

信夫山公園(福島市)

福島県随一の都会は保原町(?)

霊山町からの坂道を下っていきますと、忽然として福島市の市街が現われてきます。さすがに県庁所在地だけあって「都会」の様をなしており、小規模ながら、アメリカの都市でいう「ダウンタウン」っぽいところも見られます。人口と面積の面では、福島10市中、それぞれ3位で、いずれも1位の「いわき市」に及びませんが、人口密度の面では1平方キロメートル当たり294人の「いわき市」を、389人と大きく引き離しています。やっぱり、「都会度」を測るメジャーはこの人口密度なんでしょうか。どことなく「田舎」っぽい「いわき」と「都会」っぽい福島市を比べてみると、それが正しいような気がしてきます。この“都会っぽい”福島市に初めて来た時に目に入ったのが、市街地に突き出て見える信夫山の姿でした。そして僕が「のぶお山」ではなくて「しのぶ山」と読むことができたのは、関脇まで登りつめた名力士・信夫山の活躍ぶりをかねて知っていたからでした。両差しの名人で、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞6回という戦歴の持ち主です。風貌も「都会」的でしたので、例によって思い込みをしていて、福島市出身とばかり決め付けていたのですが、今回改めて調べてみると福島市の東隣にある保原町の出身だと分かりました。保原町は面積では福島52町の中で43位の小さな町ですが、人口は町の部堂々の1位で、更に人口密度は、市の部で信夫のある福島市どころか、ナンバーワンの郡山市の1平方キロメートル当たり440人をはるかに凌ぐ594人を誇る福島県随一の都会なのです。今回は時間の都合で、予定していた梁川町の「やながわ希望の森公園」を行程から外してしまったために、経由するはずの保原町にも足を踏み入れることができなかったのですが、訪れる機会があったなら、ぜひその「都会」ぶりを拝見したいと思っています。

信夫山偲ぶあてどないドライブ

さて、憧れの信夫山なのですが、どのようにアクセスして良いのかさっぱり分かりません。人口密度が低い「いわき市」では、標識等も用いて観光スポットへ人々を積極的に誘致しているのですが、人口密度が高いこの地では観光スポットに人が集中するのが迷惑になるのでしょうか。わざと所在地を分かりにくくしているのではないかと思われるほどです。ようやく探し当てた「信夫山」は、桜こそ随所に咲いていますが、スポーツ・グラウンド状になっていて、どう見ても「山」ではありません。そして、第一駐車場が満車で、そこの案内に従って回った第二駐車場も満杯で、挙句の果てに「河川敷の駐車場をご利用ください」とありました。なぜ「河川敷」が「山」なんだ。やはり、そこは僕が目指してきた「信夫山」はここじゃなかったんだとようやく気が付いて、再び「信夫山」偲ぶあてどないドライブの段となりました。そして、信夫山と思しき山の麓にある岩谷神社の桜の美しさに目と車を止めてデジカメでぱちり。これが結果的には、唯一の福島市の桜の写真になってしまいました。

 決まり手「裾払い」で一蹴さる

信夫山の駐車場への道は細い上に、駐車場が満車状態で、しかも対向車線からしか入れません。ですから、対向車線で駐車場の空きを待っている数珠繋ぎの車が少しも動かないばかりでなく、この混雑振りに断念し抜け出そうとしても二進も三進もいかない有様です。「今日は日曜日。しかし、県庁職員を初め、会社員などの勤め人は、明日からの勤務に備えるため、午後は外出を差し控えるはずだ」という予測をして敢えてこんな夕刻に訪れたのに一体この混雑ぶりは何なんだ!福島市の勤め人たちは真剣に仕事に取り組んでいると言えるのか!信夫山に両差し」ならぬ山麓での「裾払い」で一蹴され、くやしまぎれの場違い筋違いの八つ当たりです。山全体では3,000本もの桜があり、公園内の噴水の周辺と護国神社の辺りがビューポイントだ“そうです”。ほんの足もとまで足を運びながら、こんな伝聞形の文章を書かなければならないのが本当に残念ですが、ここは悔しさを「忍ぶ(信夫)」しかありません。

花見山公園ほか福島市のあれやこれや

「河川好き」に怒り心頭

信夫山がこの調子なら、第二予定地の花見山公園は先ず無理だろうと、半ばあきらめながら駐車場を探すと、案の定、第一が満車で第二も満杯、最後は河川敷というところまで全く同じことの繰り返しになってしまいました。よっぽど、福島市の人は「河川敷」が好きなんだなあ。もしかすると「河川敷」じゃなくて、ほんとは東北なまりの「河川好き」じゃないのかい。よくないよ、地元民だけで桜を「寡占」しようって魂胆は。ともかく、「臨時駐車場」の標識に従って着いたところは阿武隈川のほとりでした。ゆったりと流れていて「白鳥飛来地」とも書かれている大きな川が市内を流れている福島市は素敵だなとは思ったのですが、平坦で広い臨時駐車場の周辺には花見「山」らしい雰囲気がありません。聞けば、ここで駐車してから有料のシャトルバスに乗らないと花見山にはいけないとのこと。「えっ、第一から第二、第二から臨時駐車場へと人を引きずり回しておいてから、今度はシャトルバス乗換えだと!」もう、ここで完全に切れてしまいました。福島市も県庁所在地なら県庁所在地らしくしろってんだ!遠来の県民も大事にしないくらいなら福島県民になってやるもんか!

「福島」という地名の由来

ちなみに、「福島」という地名の由来を調べてみたところ、福島市の周辺一帯は、昔は湖であり、湖の中心に信夫山があってちょうどそれが浮いている島のように見えたので人々が「浮く島」と言ったところから付いた名前なんだという説がインターネットに紹介されていました。まやかしっぽい感じもしましたが、別説として「“福”は中・近世の城下町名で多用されているおめでたい文字。“島”は盆地にそびえたつ信夫山の意味」というのがあり、更に、「かつてこの地方が湖沼で、泥沼から信夫山が吹き出し、”吹く島”になった」という説もありましたから、「福島という地名は信夫山に由来している」という仮説が有力なようです。確かに、福島市内のどこから見ても信夫山は秀でて見えますから、これを「福島市のシンボル」と呼ぶ気持はよく分かります。しかし、福島市のシンボル即ち福島県のシンボルってことにはならないでしょう。いわき市内からだって、郡山市内からだって信夫山の姿かたちは見えやしません。見えもしない山の名前に由来する地名を冠して「福島県」とするのは面白くない。だから、福島市民だけで桜を“寡占”するようなエゴイズムがのさばるようなことになるのだ。これじゃ福島じゃなくて不服島だなんて思っている県民は…あまりいないんでしょうね。ついでに、「信夫」の語源を調べてみると、「偲(しのぶ)の意」、「忍(しのぶ)で隠れた所の意」、「シノ(篠)・フ(生える)の意」や「シノ(湿地)・フ(処)の意」などなど諸説紛々ですが、中には「ニュージーランドのマオリ語のチノ・プ(中心の丘、または、その丘を中心とする地方)」というすごい説がありました。「古代に南方から渡来したのだ」そうですが、これで福島県の地形がオーストラリアでなくてニュージーランドに似ていたりしたら、もっとまことしやかに思えたかもしれませんね。

福島市のニュー・チャレンジだったのだ

いずれにせよ、怒り心頭に達し、第三予定地の大森城山もすっ飛ばして“外来者に冷たい”福島市を後にしました。「だが、待てよ、アメリカの国立公園でもシャトルバスを使っていたじゃないか」という記憶が蘇ってきたのは、帰路に選んだ国道114号線の川俣町に入ってからのことでした。そうそう、マイカーの乗り入れを禁止してシャトルバスに一本化することによって、観光スポットの道路の渋滞をなくしていたっけなあ、あちらでもこちらでも。そうか、福島市はシャトルバスの利用という最先端の方法にチャレンジしていたんだ。それならそれで、駐車場を「第一」だの「第二」だの「臨時」だのと分けないで「河川敷」に統合し、信夫山だろうと花見山だろうとマイカー乗り入れは禁止してシャトルバスに一本化すればすっきりするものを。アメリカでは取られる国立公園入園料をここでは払わなくて済むのだから、シャトルバスが有料だって構わないんですよね。惜しいなあ、もうチョイのところで「さすが県庁所在地」と言えるのに。

ネットワーク観欠く「国土」「交通」省

国道114号線を進んでいくと、道の左手に「TOSHIBA」の大きな看板が見えました。ああ、ここが東芝の関連会社「川俣精機」なんだ。それにしても、随分と人里はなれたところにあるんだなあ。従業員には通勤時間はかかるだろうし、交通費や物流コストの負担が嵩んで大変だろうと経営者の苦労のほどがしのばれます。こういう立地でもアメリカなら高速道路が通っていて、しかもそれを無料で利用できるのですから、物流費用も合わせた企業経営コストに彼我の差ができてしまいます。「国土交通省」というのは、「国土」を活性化するために「交通」ネットワークを構築するのが本来の仕事じゃありませんか。高速道路の使用料を取ってビジネスをしている道路公団を民営化するようなセコイことをしても、小泉流カイカクならまだしも、本来の“改革”はできませんよ。猪瀬なんとかさんも、眉間にしわを寄せてばかりいないで、アメリカの道路事情でも勉強してきなさいよ。私が還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」随想「道にありて道に思う」に書いたことが嘘じゃなってことがきっと分かるから。経済産業省のご歴々にしたってそうですよ。「道路問題は当省の管轄ではございません」なんて言ってちゃダメですよ。地方経済・産業を活性化するためには道路、鉄道、航空、海運の交通ネットワークはどうあるべきか総合的に検討して、国土交通省にネットワーク整備をチャレンジしなくては。民営化させた道路公団を「道路交通サービス産業」などというヘンテコリンなカテゴリーに押し込んでおくだけじゃ児戯にも悖るってもんでっせ。それに、農林水産省。大体、これが経済産業省と別立てにされているのは、「農林水産業は非経済産業でございます」ってことなんだろうか。いずれにしても、農林水産業の活性化にとっても交通ネットワークは重大な問題なんだから、もっと国土交通省に問題提起してくださいよ。

「とんだ県道違い」パート1

川俣町を南東方向に国道114号線で突っ切ると浪江町に出ます。川俣町が福島県52町のうち人口で11位、面積で15位と中堅上位の町であるのに対して、浪江町はそれぞれ3位と7位で川俣町よりは格上、堂々準々決勝進出クラスのハイランカーです。この町も、川俣町と同じく北西から南東への距離が長く、太平洋岸から深く内陸部に切れ込んでいます。中央部は、葛尾村が南西方向から、東部は双葉町が南方向から食い込んでいますので、とても入り組んだ地形をしています。縄張りをめぐって、よほどの角逐か何かがあったのでしょうか。ここにも天然の鮭が遡上してくる請戸川がありますので、水利権や鮭の漁業権かなんかでいざこざがあって、出入りが繰り返されているうちにこのような形になってしまったんでしょうね、きっと。いずれにしても、いわき地内の草野とを結ぶ県道「いわき浪江線」がどこかから走っているはずです。この県道は静かな林道という風情をしていて、楢葉町と草野の間は何回も行き来しているのですが、浪江から楢葉までの間は未踏の区間になっています。しかも、「いわき浪江線」を通れば今日の行程が一筆書きで終わることになります。そこで「いわき」または「草野」の標識を探しながら愛車シビックに鞭を入れていたのですが、ついに見つからぬまま国道6号線に出てしまいました。思えば「双葉」という標識はあったのですが、「違うんじゃないか」とたった一度だけ迷って通り過ぎてきてしまったのです。双葉亭四迷(?)というくらいですから、もっともっと迷ってからことを決するべきでした。「とんだ県道違い」のパート1を演じてしまったおかげで、「今朝来たこの道」の国道6号線を逆方向目指して「帰りゃんせ」という結果になってしまいました。

V.勿来・矢祭町・塙町

April 13, Tsu

走行距離 202km

勿来の関

「来る勿れ」とは言う勿れ

「勿来」は、古くは、「勿来市」として平市・磐城市・常磐市・内郷市と並んで威勢を張っていたのですがいまでは「いわき市勿来町」に成り下がっています。もっともっと古くは、白河の関・念珠関とともに東北三大古関(奥州三古関)の一つに数えられる「勿来の関」を擁する要衝の地だったのを考え合わせますと、なんとも情けない凋落ぶりです。「勿来」すなわち「来る勿れ」と呼んだのは平安中期の頃からのことで、北方の蝦夷の南下をせき止めるためにこの名前が付けられたのだそうです。よほど、蝦夷の侵入が怖かったのでしょうが、北の脅威がなくなった後も「勿来」で通しているものだから、今度は蝦夷地じゃなくて江戸地の人々が「来る勿れ」と言われているような気がして、この地に足を踏み入れなくなり、それが東北地区の開発を遅らせる結果になったんじゃ…ないかな。今でも、そんな誤解を持っている人が多いんじゃないかと思って、私などは「勿来ようこそプロジェクト」やらなにやらを企画実施して首都圏から知己・悪友どもを呼び寄せたりしております。“だまされたと思って”勿来を越えて「いわき」にやってきた人たちは「なかなかいい所じゃないか」と口々に満足の意を表して帰っていっています。いっそのこと、ひらがな表記に変えちゃって「いわき市ようこそ町」か何かに改称すれば良いものを。

源義家感動の光景を心眼で見る

肝心の桜はイマイチと言うかイマニというか…でした。ソメイヨシノこそインターネット情報通り満開でしたが、ここの花形選手のヤマザクラが未だ7分程度の仕上がり状態であったためでもありましょうが、一部人脈ネットを通じて伝え聞いていた通り「ヒヨドリに花芽をすっかり食われてしまっているから今年はダメ」というのが正しかったようです。だって、そりゃそうでしょうよ。平安中期の頃のヒヨドリなら分かるでしょうが、今時の若いヒヨッコに「来る勿れ」なんて古文で注意したって通用するわけがありません。しかし、心眼をもって見れば「吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな」と詠われた情景を彷彿としてきます。板書には「後三年の役の時に、陸奥守源義家が北方の蝦夷を平定するため奥州に下向する途中にさしかかると、おりしも山桜が春の山風に舞いながら路上に散り敷いていた」とあります。そして、「行く春を惜しむかのように武将の鉄衣に舞いかかる桜の花にさすがの義家も今はあまりの美しさに駒をとどめて」この歌を詠んだのだそうです。とってもよく分かるなあ義家さんの心境。しかし我がデジカメFinePixには“心眼レンズ”が装着されていませんので、撮れたイマイチイマニ写真は掲載しないことにしておきましょう。

「古関」は福島県の宝

奥州三古関のうちの白河の関は福島県内ですから、後日きちんと“ご挨拶”に参上することになりますが、もう一つの念珠関址というのはお隣の山形県の日本海沿岸の音海町にあります。義経・弁慶の「歓進帳」の舞台と言われているのは石川県小松市にある安宅ノ関が本命ですが、この念珠関も有力な対抗馬なんだとか。「念珠」の「ねず」が「鼠」になり、江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれ「鼠」の定印が用いられていたそうで、JR羽越本線にも「鼠ヶ関」という駅名が残っています。「念珠」の方が格好良いと思うのですが、現代のミッキーマウスと同じように当時も「鼠」に人気があったのでしょうか。それとも、関所は明治時代になるまでその役目を務めていたそうですが、鼠ヶ関には港もあるため海上を航行する船をも監視していたため関守の役人達がこま「鼠」のようで、忙しく働いていたからなのか。まさか、それで「ネズの番を続けていた」なんていたんじゃないでしょうね。やはり、こちらは「寝ずの番」で話が纏まらないと、それこそ夜も眠れなくなっちゃいます。ちなみに、全国区で三大古関というと、不破の関、鈴鹿の関と逢坂の関になるのだそうです。しかし、「古関」と言えば日本を代表する作曲家・古関裕而。「長崎の鐘」や「イヨマンテの夜」「白鳥の歌」「君の名は」などの数多くの名曲は福島県人「古関」の作品なんです。「古関」は福島県の宝、福島戸籍のない三大古関なんて目じゃありません。

矢祭山公園

田人「村」にも「霧の根室」があった

さて今日の行程は、勿来に発して、矢祭町から塙町を辿る福島県際南端部の、茨城県との県境OBライン沿いのドライブです。勿来から国道289号線を内陸部に向かって進むと山道になり、「田人(たびと)」という素敵な語感の名を持つ土地にさしかかります。一応は「いわき市」の中の「町」なのですが、人里もまばらなので、はっきり言って「村」です。テニス仲間で、いわき市小川「町」の住人が栽培したジャガイモがイノシシに食われちゃったという話も聞きました。イノシシが出没するような所が「村」でなくて「町」であっていいものでしょうか。ここも「田人村」にすればもっと語感が素敵になるのになどと思いながら進むと、段々高度が上がってきたせいでしょうか、霧が深くなり、とうとうフォグランプの点灯が必要なほどになりました。そんな時、ふと目に入ったのが道路標識の「田人・根室」の地名。思えば、学生時代に旅した北海道・根室の納沙布岬も霧が深かったなあ。「根室という地名は霧に関係があるんだろうか?」という僕の短絡癖にはキリがありません。しかし、後で調べたところによると、北海道の「根室」は古くは「ねもろ」といい、語源はアイヌ語で「ニ・ムイ(木の箕のような湾)」の転訛説や、「ニ・ム・オロ(流木が詰まる所)」、「ニム・オロ(樹木の茂った所)」、「メム・オロ・ペツ(湧き壷のある川)」などの諸説があるのだということが分かりました。そこで「いわき市には昔アイヌ人が住んでいて、流木が詰まる所か何かがあったんだ」と、またしても短絡ということに。

「とんだ県道違い」パート2

霧の中に「田人カントリークラブ」の看板がぼんやりと見えました。「こんな日にゃゴルフは止めだな。霧中では夢中になれないもの」と、今度は情けない駄洒落。今日もカエちゃんの同情を買うことができず同乗者はなし。短絡思考や駄洒落制作でもしていなければ、こんな霧に視界を閉ざされたドライブなんてやってられません。それにしても、舗装はされているものの、何たる道路の狭さ。これじゃ、国道じゃなくて酷道じゃないかと今度は駄洒落混じりの恨み節です。こんなことだから、福島県の各地がネットワーク接続されず活性化しないんだよ…と思う矢先に「矢祭」の標識が見えました。「矢祭町」と言えば、かつては町村合併、近くは住民基本台帳ネットワークの問題で、中央省庁の画一的なやり方に対して矢を向けたことで全国に名を馳せているところです。僕は、事大主義に陥らない矢祭町の凛とした態度が好きで密かな声援を送り続けてきたんですが一方の“矢祭にあげられた”中央省庁の方は矢祭町のことをどう思っているのだろうか?…答えはすぐに明瞭になりました。「矢祭」に向かう道が舗装もされておらず、砂利道になっていたからです。これはひどい。酷道どころじゃなくて非道じゃないか。元の運輸省か建設省か知らないが、ここまでやるのか差別待遇。中央省庁の方針に盲従しなかったばかりに非道な「いじめ」を受けている矢祭町に対して義憤を感じながらなおも進むと…おやっ、「矢塚」なんて書いてある。おっ、今度は「県道11号」に出たぞ。なんだ、「とんだ県道違い」のパート2だったのか。勝手に標識の「矢塚」を「矢祭」と間違えて砂利道に入り込んで、勝手に義憤を感じていただけのことでした。しかし、迷い道をして時を過していたお陰で、中央省庁の地方自治体差別待遇に対する疑惑とともに霧の方もいつの間にか晴れていました。

ここにも義家の足跡

何とか、国道の、今度は349号線に出、更に118号線に入ってたどり着いた矢祭町は、道路も整備されていて清新な雰囲気のある街でした。水戸と郡山を結ぶ水郡線「矢祭山駅」の小さな駅舎も桜の装い。その傍らには久慈川が流れていて、ここを少し下ればもう茨城県です。「あゆのつり橋」が架けられているところをみると鮎釣の名所でもあるのでしょう、確かに水が綺麗です。山に奇岩、怪岩がある上にこの久慈川の清流があるところから「東北の耶馬溪」と自称しているのはヤバイんじゃないかとも思いますが、折柄の桜化粧もあって華やかでいて心のなごむ光景が広がっています。八幡太郎義家という人はよほど感受性豊かな方だったのでしょう。勿来の関だけでなく、ここにも立ち寄ったそうですが、この光景を見ていると義家さんの感動ぶりがよく分かるような気がします。奥州の阿部一族を討伐しての帰路、あまりの美しさに感嘆し、背負った弓矢を岩窟に納め、戦勝報告と武運長久を祈り“矢を祀った”のが「矢祭」の地名の由来なんだそうです。もしかすると、中央からの圧力に屈しない矢祭町の凛とした態度は、義家のご落胤か何かを介して受け継がれた武将の血筋によるものなのかもしれません。そして、矢祭山公園は国道118号線の脇の石段を登って行ったところにあり、公園内にはソメイヨシノを中心とした約100本の桜が咲き誇っています。散り急いだ花びらが降り敷いた小道もあります。公園内の売店のオバちゃんは、この矢祭山の名の由来について、「久慈川の対岸にある山から義家が放った矢が当たったからなんだ」といった主旨の異説を凛とした態度で説明してくれました。やっぱり、武将の末裔の町なんだ、この福島県最南端のこの矢祭町は、きっと。

久慈川河川敷の桜並木(塙町)

“天領の郷”に入る

塙町は、久慈川と水郡線とに平行して走っている国道118号線を、矢祭町から北上すると程近いところにあります。矢祭町が福島県52町のうち人口で37位、面積で17位であるのに対して、塙町はそれぞれ22位、8位ですから矢祭町より大きい町だということができます。特に、面積では堂々のベストテン入りで、矢祭町の北部に東西に広がっていますから、往路で矢祭町目指して迷走しているうちに知らぬ間に塙町を突っ切っていたことになります。後で調べたところ、あの鄙びた「矢塚」も確かに塙町の地内になっていました。ですから「塙」という雅やかな町名にもかかわらず、面積的には「塙村」がかなりの部分を占めているものと思われます。しかし、国道118号線沿いの市街は明るい雰囲気をした押しも押されもせぬ「町」でした。道の駅があって、そこに「天領の郷」と書かれた幟旗を見かけましたので説明書きを読んでみると、「江戸時代に内外交通路の結節点であるこの地に代官所が置かれ幕府直轄領となったことから“天領の郷”の愛称がついた」とありました。

“町”民あげて“村”おこし

道の駅の売店でも、コンニャクなどの「鄙びた村」アイテムのお土産品が並ぶ中にダリア染という「雅やかな町」製品が混じっていました。塙町の“売り”の一つが「湯遊ランド はなわ」という温泉施設で、そのまた“売り”の一つが「ダリア園」なのだそうです。道の駅の店員さんが、ダリアの咲く季節に「ダリア園」を訪れるよう熱心に勧誘し、親切に「湯遊ランド はなわ」のリーフレットを渡してくれました。その三つ折りリーフレットの最終ページの片隅には「国土庁補助事業“過疎地帯滞在型施設整備モデル事業”」と「自治省指定事業“若者定住促進等緊急プロジェクト事業”」という文言が小さな字で書かれていました。因みに人口密度を見てみると、福島県52町のうち矢祭町の43位に次いで塙町は44位。それより下は会津地区の町々がほとんどですから、両町を合わせて「県南過疎地帯」といっても良さそうです。そうか、道の駅にしても「湯遊ランド はなわ」にしても、“町”民あげて“村”おこしに取り組んでいるんだ。しかし、住民が心を合わせて地域振興に取り組んでいるせいなのでしょうか、両町とも活気に満ちているように見え、リーフレットの裏面の「過疎」の文字が逆に似つかわしくないような気がしました。

奥久慈の清流・雅の演出

下流は日本三代名瀑の一つの袋田の滝で名高い茨城県の大子町を通って、同じく茨城県の東海村の河口で太平洋に注ぐ久慈川は、本流延長約124kmの一級河川で支流が52本もあるのだそうです。塙町から程近い茨城県との県境辺りに頂を持つ八溝山が源流ですから、塙町は「奥久慈」ということになるのですが、源流近くの河川にありがちな渓流の風情はなく、ここでは平滑な川床の上を浅く広く透き通った水が豊かな流れを見せています。桜のポイントは「久慈川“河川敷”」とありましたが、あの“忌まわしい”福島市の河川敷(堤防と堤防の間の普段水が流れていない場所)と違って、堤防の上のサイクリングロードに沿って桜並木が立ち並んでいます。そのソメイヨシノの数たるや約200本にのぼりますから、ここも「過疎」どころか桜密度が高く華やかです。また、街の民家の庭先や久慈川の支流と思しき小川の畔にさりげなく咲く桜も“雅の里・塙”の演出に一役買っているようでした。しかし、満足度100%の県南桜狩ドライブの帰途にまたしても「とんだ県道違い」をしてしまいました。後学のために「湯遊ランド はなわ」を回って帰ろうとしたのですが、何時の間にか教えられた道筋からそれていて、気が付いた時には「塙・大津港線」を走っていました。大津港と言えば北茨城市の地内ですから、しばらくの間は福島県道ではなくて茨城県道のお世話になっていたことは確かです。「とんだ県道違い」パート3のお陰で、OBラインを超えて茨城県にはみ出すという「福島風土記ドライブ上の不届きな“汚点”」を残してしまいました。

W.三春町・岩代町・東和町・二本松市・郡山市

(2004/4/15 Thu)

走行距離 266km

三春滝桜(三春町)

「別世界」に来た

いわき市から三春町に行くのには、この間をほぼ直線状につなぐ磐越自動車道を使えば一番速いのですが、高速道路通行料金を徴収する日本流のやり方が大嫌いな(実はビンボーだからでもあるんですが)私は、国道49号線を走って国道349号に折れて田村郡に向かう清貧路線をとり、小野町、大越町を抜けて船引町に入り、更にそこから国道288号で三春町に達するルートを選びました。今日の行程には「三春滝桜」が含まれているだけにカエちゃんも大乗り気です。大混雑が予想されるため早目に出立したのがよく、滝桜有料駐車場(500円也)の車の数もまだまばら。澄み切った青空で、遠方に雪に覆われた山並が見えます。左手に那須連山、右手に磐梯山。「ああ、ここは中通りなんだ!ここで雪が降ってくれてたんだわ」とカエちゃんの感動の声。天気予報も会津地方、中通り、浜通りの地区別に分かれていて、同じ福島県なのに天候も気候もまるでちがいます。スキー場も全県では25箇所ほどあるのですが、浜通りには1箇所もありません。ですから、浜通りに育ったカエちゃんにしては、雪山が見えるのは「別世界」ということになるわけです。ここは、雪のイメージ通りの北国。北国の人々にとって春の訪れは感動的なものになります。冬の寒さを耐えてきた花々が一斉に花開くからです。この「三春町」の名前も「梅と桃と桜の花が同じ時期に咲く」ことに由来しているのだそうです。

待ってました三春屋!

さて、今回の桜狩ツアー全体のなかでもメイントピックとなる「三春滝桜」にいざ見参。以前に桜シーズン外に訪れた時に、葉の生い茂った樹齢千年と言われる見事な樹容の「緑の桜」を見ただけでも感動したのに(「いわき便り」)、今日は正装整った晴れ舞台。いやがうえにも胸鳴りが高まります。そして…、忽然として僕たちの目の前に姿を現した名優・滝桜は見事に期待にこたえてくれました。「待ってました三春屋!」なんて歌舞伎流の掛け声が口から出かかってしまうほどの艶やかさ。日本人は「三大なんとか」が好きで様々な「三大」があるのですが、福島県で「全国区三大シリーズ」にノミネートされるものとなると、残念ながら数限られものとなってしまいます。しかし、この三春滝桜は、山梨県武川村の山高神代桜、岐阜県の根尾谷・薄墨桜と並んで「日本三大桜」の一角をなす堂々のブランド物で、岐阜県の淡墨桜とともに東西の横綱に位置づけている向きもおられるようです。エドヒガン系の紅枝垂桜で、枝の垂れた姿が滝のように見えるのが「滝」桜の名の由来なのでしょう。根元の周囲が約10.5m、枝の広がりが東西約22m、南北約17mで高さが19mにも達するというこの桜の巨木は、大正11年に国の天然記念物の指定を受けた後、平成2年には読売新聞社と国際花と緑の博覧会協会が選定した「新名木100選」に認定されるとともに、人気投票による「名木ベスト10」にも選ばれています。帰途につくころには駐車場も満杯に近くなっていたのですが、川崎、足立、千葉、所沢、栃木、宇都宮、水戸、岩手などのナンバープレートも見られ、全国区での人気の高さが裏付けられている様子でした。

さくらと馬と

三春町は、面積こそ福島県52町中29位の小さな町ですが、人口では6位のハイランクで、市街や周辺をドライブしていても、そこはかとなく「豊かさ」が感じられる町です。美しい湖にも「さくら湖」という名前をつけて「日本三大桜」を売り物にしていますが、この町にはもう一つの「全国区三大シリーズ」ものがあります。それは「三春駒」という馬形木彫工芸品で、これが青森の八幡馬、仙台の木ノ下駒と並んで「日本三大駒」とよばれているのです。馬肉(さくら)と桜では妙な取り合わせですが、三春町は数少ない“福島県ブランド”を二つも提供しているわけですから、福島県人たるもの、もっとその存在に目を「見張る」必要があるのではないでしょうか。馬の方は「全国区三大シリーズ」を東北勢が独占してしまっていますが、それだけ東北には馬産地が多く、しかも各地に木製の民芸品を作る伝統が息づいていたということなのでしょう。かつて仙台市に在勤していた頃には、東北各地への出張の都度、それぞれの土地で独特な「こけし」を買い求めるのが楽しみでした。三春もかつては馬産地であり、三春駒は、遠く坂上田村麻呂東征の伝説に由来する「子育木馬」が発祥といわれ、三春藩下の人々に子育木馬として親しまれて子育てのお守りとされたり、仔馬育成を願って神社に奉納されたり、子どもの玩具に用いられたりしたのだそうです。全国高校駅伝出場の常連校である田村高校も、ここ田村郡三春町にあります。全国の花道を今も走る三春の駿馬たちということになりましょうか。

合戦場のしだれ桜(岩代町)

合戦の場に立ち舞台裏を偲ぶ

岩代町は三春町の北に隣接していますが、もうここは田村郡ではなくて安達郡の領域になります。福島県52町のうちで、人口では29面積でも21位と数値的には何の変哲もない町ですが、ドライブしていると何とも言えぬ長閑な雰囲気が伝わってきます。しかし、春霞の彼方には雪に覆われた安達太良の山並みも見えてきて、長閑さの中にも北国の冬の厳しさを偲ばせるものがあるようです。さて、「合戦場」というのは、三春町方面からの国道349号線から入る国道459号線沿いの高台に付けられた地名で、平安後期にここで武将源義家と阿部定任・宗任兄弟の間で合戦があったと言い伝えられているのだそうです。これで、今回の桜狩ツアーで源義家の足跡に出会ったのは3回目になりますが、車で移動するのでさえ時間がかかる福島県地内の広い範囲をよくも動き回ったものだと感心してしまいます。移動用に馬を用いられる武将はともかく、雑兵達の移動や食糧の運搬まで考えると、合戦のためのロジスティクスを整えるのは並大抵のことではなかったはずです。「武将」、「源義家」、「合戦」と言えば、劇映画や小説の挿絵などを通じて、勇ましくて格好のいいイメージが植えつけられていますが、合戦の舞台裏の現実はこれとは裏腹で、埃まみれで飢餓と疲弊に苛なまれた悲惨なものであったに違いありません。それだけに、その昔は余程の確固たる「大義」がなければ戦に踏み切れなかったのではなかろうか、などと臨場感を持って考えてしまいました。いっそのこと、大量核兵器保有の大国が、ありもしない大量殺戮兵器保有のかどで小国に難癖をつけたうえ、これを侵攻するなどといった不条理なことは止めにして、「どうしても戦争がしたい場合には、昔の合戦に用いた兵器、兵站のレベルで行うこと」を国際ルールにしたら良いと思うのですが。

若さや美貌を比べるなんて

ここのシダレザクラは木が1本のように見えますが、よく見ると2本の桜が寄り添うように立っています。そこで、別名『めおと桜』とも呼ばれるそうです。背後の部分の一段と低いところに畑地があり、その斜面には菜の花が満開ですので、見上げるとまばゆいばかりの黄色とその上部の艶美な淡紅色とを同時に目に入れることができます。高さは18mで枝張りは25m。樹齢は約150年と推定されているそうで、つい直前に見てきた樹齢千年の三春滝桜に比べると「やっぱり、若いだけあってこちらの方が艶っぽくて綺麗ね」とのカエちゃんの弁。ついで、「でも、若さとか綺麗さで比べあうなんて男の人ってひどいじゃないの」…おいおい、自分で言い出しておいて、「男の人って」はないだろが。おっと、こんなところで『めおと』間の『合戦』をしたって様になりません。しかし、同系統のシダレザクラ同士で樹容にも似たところがありますので、「男の人」ならずとも三春滝桜と比較してしまいたくなるというのは良く分かるような気がします。そこで、岩代町観光協会で出している「合戦場のしだれ桜」という二つ折りのリーフレットを見てみると、果たしてこの桜は三春滝桜の孫桜に当たるのだということがわかり、更にここから東1キロのところに福田寺があって、そこに親桜、つまり、三春滝桜の子桜が植えられているということがわかりました。

婦系図三代結ぶ糸桜

そこで、「お孫さんにはお目にかかりましたがお子さんには」というのでは滝桜お祖母さんに申し開きが立ちません(?)ので、福田寺の糸桜にも“ご挨拶”にうかがうことにしました。途中に「新殿神社の岩ざくら」がありました。「新殿」というのは、このあたりの地名のようで、合戦場の所在地も「東新殿」になっています。鄙びて見えるのは岩代町の奥ゆかしさのためであって、実は由緒のある歴史の町なのではないかと思えてきました。福田寺の糸桜は未だ8分咲きでしたが、「糸」と言うだけあって、豊満な親桜(三春滝桜)と子桜(合戦場のさくら)に比べるといささか貧相な感じも受けました。あっ、綺麗さを比べてどれがナンバーワンかなんか言っちゃだめなんでしたね。親桜と子桜を結んだのは「糸」であったわけですし、「糸」にしかない美しさをみせてくれる「いとおかしき」オンリーワンになることだろうと思います、満開の暁には。福田寺には、詳細な資料が残っていて、滝桜が時の天皇に認められていたこと、桜の季節になると見物客で賑わっていたことなどとともに糸桜の枝がその滝桜の子木であることが書かれているそうです。凄いですね、お寺に残った人別帳から人の家系がわかるという話は聞いたことがありますが、ここではお寺の文書から婦系図の“花”系まで分かってしまうんですから。代議士のセンセー達も学歴詐称をとやかく言われたくなかったら、きちんとお寺に記録を残しておけってことですな。

“福福ライン”発見

岩代町をドライブしていて「小浜城」という名前があちこちに出てくるので不思議な感じがしました。こんな内陸部の土地に「浜」があるはずがないからです。後で調べて見ますと、「四本松城」というのが現在の岩代町と東和町の町境辺りにあって、四本松」が「しおのまつ」と読まれることから「塩松」に転じたこと。そして、小浜城は戦国時代には塩松城主石橋氏の執事大内氏の居城であったこと。そして、この大内氏というのが若狭国小浜(福井県)の住人で大崎氏(後に奥州探題大崎氏の祖斯波家兼が若狭国守護だったこともあるとか)に仕えた後に石橋氏の家臣に転じて陸奥国安達郡に至り、当地に築城し旧地の名をとって「小浜」と称したのだということが分かりました。大内氏は三春城主田村氏に通じて下克上を起こし、石橋氏を四本松城から追って塩松地方の支配を確立したのだそうで、小浜城は、ここから南約2キロのところにある宮森城とともに街道筋の要衝であったようです。岩代町に感じていた「歴史」の陰には、「群雄割拠」や「下克上」の生々しい話があったわけです。「二本松」は知っていましたが四本松」は初耳でした。「小浜」の名前に疑問を持ったお陰で、福井県(若狭国小浜)と福島県(陸奥国安達郡小浜城)の間を結ぶ“福福ライン”を発見することができました。

愛蔵寺の護摩桜東和町)

水芭蕉と桜のデュオ

岩代町の北に隣接する東和町も、福島県52町中、人口で32面積でも30位で、いずれも中堅下位の町といったところです。しかし、町名の「東和」から受ける感じもよるのでしょうが、走っていて「新しい町」という気配が漂っていて、道路もよく整備されているような印象を受けました。しかし、お目当ての「愛蔵寺」の知名度は地元でもあまり高くはないようです。探し当てたお寺は屋根の修復工事中で、その境内に推定樹齢300年、樹高9.8m、胸高周囲3.3mというベニヒガンザクラが、心なしか狭苦しそうに花を開かせていました。しかし、ここでも思わぬ発見がありました。足元に目を転ずると、水場があって、そこに水芭蕉が咲いているのです。水芭蕉といえば尾瀬、尾瀬といえば高原の湿地という先入観がありましたから、まさかお寺で、しかも桜の下で咲いている水芭蕉を見ようとは思いもよらぬことでした。なんとも奇妙な、それでも何となく心休まる水芭蕉と桜のデュオでした。

北国の春を行く

東和町から二本松市に向かう道のドライブも素敵でした。安達太良山系との間の距離は縮まっていて、くっきりと見えるようになってきたのですが、山肌は雪で覆われた部分が多く「春いまだし」を思わせる姿です。しかし、道路の両側は、白蓮あり、レンギョウあり、菜の花あり。白梅、紅梅に桃までが一斉に咲き競ってまさに百花繚乱、色とりどりで「これぞ北国の春」です。長くて寒くて暗い冬を耐えた後に、いきなり訪れるカラフルで明るい春を迎えている東和町の人々の感動のほどが偲ばれます。その感動を共感しつつあるかのように進むシビックもご機嫌が良さそうです。

霞ケ城公園(二本松市)

霞か雲か

二本松市は福島県10市のうちで、人口は最下位、面積もブービーという、こじんまりとした市です。しかし、ここで行われる「二本松提灯祭り」は、秋田の「竿燈まつり」、愛知の「津島天王祭」とともに「日本三大提灯祭り」にノミネートされており、秋恒例の有名な「二本松菊人形展」とともに福島県のブランド価値向上に役立っていることを忘れてはなりません。そして、この地にあった二本松城の別名が霞ヶ城城。春は桜が咲き誇り全山霞につつまれたように見えたところから付けられたのだそうです。この城跡を公園にしたのが霞ヶ城公園で花の名所。菊人形展もここで催されるとのことですが、今はソメイヨシノをはじめ、ヤマザクラ、サトザクラなど1,700本の桜が霞の如く満開のはず。♪♪♪さくらさくら弥生の空は見渡すかぎり霞か雲か匂いぞいずる♪♪♪を胸に描けば、♪♪♪いざやいざや見に行かん♪♪♪と心せかされ、駐車場から城跡内への足取りがいやがおうにも速くならざるを得ません。

霞も雲隠れ(?)

その速かった足取りが何時の間にか遅くなります。城跡の頂上には立派な天守閣の石垣が聳えていて、そこにたどり着けば待望の「霞」を目にすることができるのですが、延々と続く登りが結構きつくて「霞」を目にする前に目の方が霞んでしまいそうです。途中には「日本三井戸」として千葉県印西町の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび称されているという「日影の井戸」がありました。「こんな高いところの井戸でお炊事して食事もしていたのかしら。大変だったでしょうね、お城の人たち」とカエちゃん、主婦ならではのコメントです。「そうだね、殿様だって、この段々をどうやって登ってきたんだろ。駕籠を使ったんだろうけど乗り心地悪かっただろうね」と、こちらすっかり駕籠の上の殿様気分でギクシャク、ゼーゼーしながらようやく石垣に到達。早速、「霞」を求めて石垣の上から四方を見下ろしたのですが、これぞ霞という景色は見当たりませんでした。その代わり、安達太良の連山が青空を背にくっきりと見えます。やはり「霞か雲か」というくらいですから、このように雲が隠れている日には霞も雲隠れしてしまうのでしょうか。いずれにしても、ここからは安達太良連山の麓の部分までよく見えます。そして、頂のほうが白い冬の装いであるのに対して、麓の方はすっかり雪も解けて山肌が黒く、春が上へ向けて登っていく様子を見ることができました。

恵子抄詩碑に残る心の温もり

安達太良といえば、詩人・彫刻家の高村光太郎が最愛の妻・智恵子を偲んで詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句の「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」が有名な「恵子抄詩碑」もこの霞ヶ城公園内にあります。「牛石」と呼ばれる、それこそ牛ほどもある大きさの自然石が二つ背中合わせに置かれていて、それぞれの石の外側に銅板が嵌め込まれ、一つの方にこの「あれが阿多多羅山」が彫り込まれています。もう一方には「阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が知恵子のほんとの空だといふ」という詩「あどけない話」の一節が彫り込まれています。「東京に空がないといふ、ほんとの空が見たい」と言った智恵子が愛した”ほんとの空”というのはこの日のような空のことを言うのでしょう。「光る阿武隈川」はここからは展望できませんから「樹下の二人」は別の場所で詠まれたのでしょう。因みに、智恵子はこの二本松市の北東部に隣接している安達町の出身です。そして、今日通ってきた岩代町、東和町の他に、本宮町、大玉村、白沢村も含めた一体が「安達」郡。「安達太良」の「太郎」の方は、関東一の大河である利根川を「関東太郎」と名づけたのと同じ勢いなのでしょう。ともかく、この辺りでは際立って見えて姿の良い安達太良山を望みながら、桜や松や桜の木々に取り囲まれて静かに佇んでいる「恵子抄詩碑」を見ていると光太郎・智恵子夫妻の心の温もりが伝わってくるような気がします。

霞ヶ関に伝えたい霞が城の心

もともと二本松城は、室町時代の中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以後歴代の畠山氏の居城となっていたところだそうです。そして、会津城主となった蒲生氏郷の支城になるなどといった紆余曲折を経てから、初代二本松藩主となった10700石の丹羽光重が入城してきて丹羽氏10代の居城となり、そのまま戊辰戦争を迎えたとのことです。七代藩主・丹羽高寛は名君だったようで、家臣の儒学者・岩井田希夷の献策を容れて、藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻んだ「戒石銘碑」を作り、「諸君の俸給は領民の汗と脂の結晶なのである。それを常に感謝し領民をいたわらなければならない。これに反し、領民を苦しめれば、必ず、天の怒りに触れるであろう」といった主旨のメッセージを藩士たちに伝えています。これを、このまま霞ヶ関界隈の中央官庁前に持っていってあげたいような気がします。霞が城から霞ヶ関へこの心が伝われば、日本の政官界に漂う黒い霞も晴れていくと思うのですが。なお、戊辰の役で戦死者が最も多かったのは、会津若松の鶴が城ではなくて、実はこの二本松城だったのだそうです。戊辰戦争の直前まで藩内少年武士が鉄砲の稽古をした場所でもあり、ここで若い命を散らした二本松少年隊を顕彰するため制作された「二本松少年隊群像」もあります。イラクに例えれば、鶴が城をバクダットとすると二本松城はさしずめサマーワ程度の位置づけだったのではないのでしょうか。サマーワの自衛隊に二本松少年隊と同じようなことが起こらないのを祈るばかりです。

華美に流れぬ爽やかさ

霞ヶ城公園は緑豊かで、桜は自分だけが前面に出るということではなく、他の木々の新緑の中にとけこんで春を演出しています。華やかな桜オンパレードも見事ですが、このようなさりげない桜の佇まいというのも奥ゆかしくて良いものです。公園内の散策の小道に彩を添える桜にも、池の水面に浮かぶ花びらにも、城の外壁の石垣を飾る桜にも、控えめで節度があるようにさえ感じられるところがあります。綱紀粛正の指針を刻んだ「戒石銘碑」の心が桜にまでいきわたっているのでしょうか、全体として、華美に流れず爽やかな印象を与えてくれる公園です。そんな桜と緑の木々の共演の中に、樹齢300年といわれている老松がどっしりと控えておりました。「傘松」または「八千代の松」と呼ばれているそうですが、樹形は大きな傘の形に整えられています。「ああ、これが“二本松”のうちの一本なのか」と一瞬、得意の早合点をしたのですが、これはさにあらずで、昔ここに霊松二本(鶴松と亀松)がありそれが旅人の道しるべとなっていたので、この山が二本松山と呼ばれ、これが“二本松”の地名のもとになったのだとか。

煎じて飲まねば爪の垢

その昔、英文のお礼状を書いた時に、「過剰な(余計なお節介)」に似たような意味があるということも知らずに、“fulsome”という単語を使ってしまって慌てたことがあります。今日の行程は、カエちゃんにとっては、まさに“fulsome”そのものだったようです。「佳惠子は“ほんとの桜”が見たい」と思っていたのは実は三春の滝桜だけであって、その他はバカ殿様のお付き合い感覚でしかなかったということが霞ヶ城公園を出た時点になってようやくわかりました。“ほんとのバカ”ですね、この私。「恵子抄」ならぬ「佳惠子ショウ」のワンデイ桜ショウを完成させるため、この上更に、本宮町、郡山市から須賀川市まで回って“fulsome”を重ねようとしていたのですから。智恵子のほんとの空が見たい」という気持を汲み取り、いたわりの行動を取った高村光太郎の爪の垢が手に入るなら煎じて飲まなくちゃ。「常に感謝し妻をいたわらなければならない。これに反せば、必ず、カミの怒りに触れるであろう」、おお怖、「戒石銘碑」に刻まれたメッセージは、高級官僚だけではなくて、私自身も熟読玩味が必要なものなのかもしれません。

開成山公園(郡山市)

遅かりし開成山

「戒石銘碑」の主旨を汲んで直ぐに我が行動の反省に取り入れてしまうのが、委細に構わぬ大物高級官僚と違う私の気の小さいところなのでもありますが、“fulsome”の非を悔い改めるや心は帰路一心。本宮町、郡山市や須賀川市の桜達に「出直す時まで散らずにいておくれ」という祈りを込めつつ、国道6号線を郡山にある国道49号線との交差点へ向けてシビックを急がせます。しかし、訪れる予定であった開成山公園が、思いもかけずその帰途の道路際に現われました。しかも、「散らずにいておくれ」どころではなくて、既に落花狼藉(?)の悲惨な状態になっているのがシビックの窓越しにもよく分かります。遅かりし開成山。「潅漑用池として造った五十鈴湖の周辺に桜を植えたのが始まりで、現在はソメイヨシノ、山桜、岸山桜、彼岸桜、江戸彼岸桜、フゲンゾウ桜、旭山桜、正月桜、ウコン桜、大山桜、その他の約1,300本の桜が咲き乱れる」というインターネット情報で、1,300本の数もさることながらその樹種の豊かさを楽しみにしていたのに。

郡山市のあれこれ

郡山市は、福島県10市のうち、人口と面積ではともに「いわき市」に次いでの2位ですが、人口密度では堂々の1位ですので「都会度仮説」によれば、郡山市が福島県ナンバーワン・シティーということになります。ナンバーワンの名に恥じず(?)、「全国区三大シリーズ」にもきちんと名を連ねていて、その柏屋・「薄皮饅頭」は、岡山・伊部屋の「大手まんぢゅう」、東京・塩瀬総本家の「志ほせ饅頭」と並んで「日本三大饅頭」の一角を占めています。その昔、700年頃に安積郡の郡役所が清水台に置かれたのが「郡山」の地名の由来だそうですが、「コウリヤ(Korea)」が語源で「朝鮮半島伝来の云々」などという説はないんでしょうかね。因みに、「本家・湘南」の「大磯」は、大きな磯がないのになぜこう呼ばれるのか分からなかったのですが、これが"ooiso"ではなくて朝鮮語の"oiso"に由来したものであることが分かって納得がいきました。朝鮮語の標準語では「オセオセヨ」(「いらっしゃい」の意味)で、現に朝鮮半島の南部では食堂に入ると「オイソ」と声をかけられる由です。そして、大磯には「高麗山」だの「高来神社」だのと朝鮮半島縁の地名や寺社名が残っています。「東北の湘南」の内陸部では、「コウライ→コウリヤ→コオリヤマ」とこじつけるのは無理筋なんでしょうか。なお、「開成山公園」の「開成」の名前の方は、明治初期にここにが結社され、開墾事業を始めた開成社」に由来しているようです。

五百淵公園(郡山市)

水面に映る「花鳥」の光景

開成山公園の落花狼藉の惨状(?)に花の命の儚さを思い知らされ、昔はやった「花はどこにいった」の一節、♪♪♪Where have all the flowers gone?♪♪♪を口ずさみながら、国道49号線を「いわき」に向けて南下し始めた時に、助手席のカエちゃん、道路の右手に「花」を発見。通り過ぎてしまってから、引き返して「花」のもとを訪ねて見ますと、これが当初の訪問予定地に入れておいた「五百淵公園」でした。しかも、ここは落花狼藉どころか花盛り。行きがけならぬ帰りがけの駄賃というには、あまりに大きな望外の喜びでした。この淵は、灌漑用として作られた池だそうですが、本宮町に東北本線の「五百川」駅などというのがありますので、もしかすると昔(今も?)五百川という川があって、そこから水を引いたのかもしれません。池を囲むように約140本のソメイヨシノが咲き並んで水面に映えているのですが、ここは野鳥の宝庫としても親しまれているとのことで、実際に、水面に遊ぶカルガモやマガモの水鳥たちと水面の上に枝を這わせる満開の桜との「花鳥」の光景を楽しむことができました。

X.白河市・泉崎村・須賀川市・本宮町・白沢村・中田町

(April 17,  Sat)

走行距離 326km

かそけき過疎考

勿来の関の地と白河の関の地を結ぶ“関関ライン”は国道289号線。いわき市領域を出ると鮫川村に入ります。地内には「赤坂中野」や「新宿」といった東京っぽい地名の地区もあるのですが、実態は東京っぽさの全くない長閑な山村です。「こんな山奥でなぜ“鮫”川なんだ」と思うのですが、いわき市錦町で太平洋に注ぐ鮫川の源流がここにあることから、地区統合の際に「じゃ、鮫川村にしちゃえ」となったもののようです。ところで、鮫川村と言えば、塙町、矢祭町と同じ東白川郡。両町を訪れた時の馬鹿の一つ覚えで「過疎」のイメージが浮いてきます。そこで、福島県90市町村を、人口密度を指標として「過疎度」をランキングしてみると上位30町村は次のようになることが分かりました。

1. 檜枝岐村  2. 只見町  3. 昭和村  4. 舘岩村  5. 金山町  6. 伊南村  7. 北塩原村  8. 川内村  9. 葛尾村  10. 熱海加納村  11. 下郷町  12. 南郷村  13. 南郷村  14. 都路村  15. 柳津町  16. 山都町  17. 天栄村  18. 飯舘村  19. 西会津町  20. 鮫川村  21. 田島町  22. 古殿町  23. 猪苗代町  24. 塙町  25. 高郷村  26. 矢祭町  27. 大信村  28. 磐梯町  29. 常葉町  30. 会津高田町

過疎度ナンバー・ワンの檜枝岐村は、ご存知の通り“三県分立”している尾瀬を、隣接している群馬県、新潟県とともにシェアしている福島県西南端の村ですが、過疎30町村をマッピングしてみますと、以下の通り、檜枝岐村をはじめとする「市部周辺を除く会津地方(A)」が「過疎地域」に該当することがわかります。

南会津郡全域(檜枝岐村、只見町、舘岩村、伊南村、下郷町、南郷村、田島町)、大沼郡(昭和村、金山町、会津高田町)、耶麻郡(北塩原村、熱海加納村、山都町、西会津町、猪苗代町、高郷村、磐梯町)、河沼郡(柳津町)

東白川郡の塙町、矢祭町、鮫川村トリオも案の定「過疎度上位30位入り」していて、隣接する石川郡の古殿町とともに「県南過疎地域(B)」を構成しています。これに、双葉郡の川内村、葛尾村、田村郡の都路村と常葉町と、相馬郡の飯舘村と南北に連なる「浜通り内陸部(C)」、岩瀬郡の天栄村と西白河郡の大信村「“白河ちょい以北”部(D)」とあわせたA〜Dを「福島県過疎地域」と指定するというのでは、あまりに“かそけき”過疎考ということになるのでしょうか。

白河市のあれこれ

「こんな過疎地にこそハイウェイを通せばいいのになあ。道路用地取得コストも安くて済むし、過疎地は活性化するし、いわき市と白河市の間の交易も活発になるし…。国土交通省や経済産業省、農林通産省の役人も僕を見習ってアメリカの過疎地のハイウェイをドライブしてみたらどうなんだい。“自腹で”なんて言わないからさあ」と、今日もカエちゃんに振られて単独走行の僕はシビックの中でひとりブツブツ。そのうちに、国道289号線は、過疎度20位の鮫川村から39位の棚倉町、更に45位(福島県90市町村の真ん中)の表郷町を通って、車窓に見える光景の都会度(過疎度の反対)がだんだんと高まってきたなと思っているうちに、何時の間にかシビックは白河市に入っていました。白河市は、面積的には福島県10市の内で最も小さい市ですが、人口では第7位ですから、人口密度では郡山市、須賀川市についで第3位(福島県90市町村でも7位)の都会度の高さです。ここは、中通りの南端に位置していて、栃木県に接していますので、東北新幹線と東北自動車道による「東北地方への高速交通ポータル」となっています。有名な「白河以北一山百文」という言葉は、戊辰戦役の際に、薩長の権力者達が武力をもって制圧した“朝敵”東北諸藩を蔑んで、「それだけの価値しかない」という意味をこめて発したのがそもそもの由来だったようです。しかし、開発が遅れていて、著しく「都会度」が低かった当時の「白河以北」の東北地方は地価も安く「一山百文」と誇張して表現されても仕方がないような状態にあったのも事実だったのではないかと思われます。なお、宮城県では、朝日・毎日・読売の三大全国紙を上回るシェアを占めている「河北新報」の名前も「白“河”以“北”」に由来しています。いずれにしても、白河の関の昔から、ここは一貫して東北地方のポータルだったわけですが、高速交通ポータル化されることによって「白河以北」の中通りの「都会度」が格段に向上してきたようです。かつて、東北地方の都市の中で、人口が仙台市についで“ゆうゆう第2位”であった「いわき市」が、第3位の郡山市の猛追を受けて“ぎりぎり第2位”になっていることからも分かるような気がします。これに対して高速交通ポータル化が遅れている勿来の関の“関”任重大というところです。

関跡にひっそりカタクリ、イチゲ

白河関跡へは、白河市に入って直ぐに国道289号線を左折して県道76号線を栃木県との県境に向けて進むのですが、この国道と県道との交差点のところに白河実業高校があります。ここのキャンパスの桜が道路に向けて満開で見事でした。ポータル都市・白河のそのまたポータルの部分で外来者を歓迎してくれているようで、「来る勿れ」などという勿来とは大違いです。「白河」の名前から清冽なイメージが思い浮かびますので、都市好感度テストを行ったとしたら、白河市はきっと上位にランクされるのではないかと思います。しかし、私は一方で「白河」に対して「取り澄ましたような感じ」のイメージも持っていたのですが、この桜を見て即刻私の悪い癖である「思い込み」を反省しました。さて、勿来の関に次いで奥羽三関の二つ目の白河の関も、華やかな桜はない代わりに古関の静かな佇まいをもって私を受け入れてくれました。杉木立の小道を散策すると、両側の草むらのあちこち、カタクリと白い可憐な花がひっそりと咲いていました。白い花の方は、簡単にスケッチしたものを野草販売の露天屋台を出していたオバちゃんに示して教えを乞うたところイチゲだということがわかりました。こんなに静かで、ともすれば見落とされてしまいそうなこの場所を「白河関跡」と考証したのは白河藩主・松平定信公なのだと板書してありました。へえー、学のある人だったんだ、松平定信さんは。「松平定信=寛政の改革」などという問題解決に役立たない“知識”だけ詰め込まされて育ったアチーブメント・テスト世代の僕にとっては新鮮な印象でした。そして、「“知識”の量を測るペーパーテストの覇者達がエリートとして政官界にのさばっているのだから、寛政の改革のような“ほんまもんの改革”が現在の日本では実現できないのだ」と変なところで納得してしまいました。

南湖公園・楽翁桜(白河市)

四民共楽の地

郡山市中心部から西へ約20kmの山あいに位置する「湖南」地区というのがあって、「湘南」ナンバープレート族には紛らわしくて困るのですが、ここは確かに猪苗代「湖」の「南」に位置しているのですから、福島県の外様ものがとやかく言う筋合いではありません。しかし、この公園はなぜ「南湖」なのだろう。調べてみると、「城の南の湖」と李白の詩の一節「南湖秋水夜無煙」とに由来しているようです。でも、「池」より遥かに大きいのは確かですが「湖」というのはちょっと詐称じゃないの?まあ、いいか、北京市内の故宮の近くにある「北海」公園に比べればずっと罪が軽いというものです。この南湖公園も白河藩主“楽翁”松平定信公が1801年に造園したものであり、これが日本最古の公園なのだそうです。すごいですねえ、あの士農工商の身分制度が激しい封建時代にあって、「四民共楽の地」として“庶民”に憩の場として開放したというのですから。

改革学びに白河に行きゃれ

最権力者であった老中の田沼意次が腐敗政治で失脚した後を引き継いでだのが若き老中・松平定信(白河藩主)であり、その定信の主導した寛政の改革に伴う“痛み”に耐えかねた当時の高級官僚どもが気持を託したのが、あの「白河(定信のこと)の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼(意次)恋しき」という有名な戯れ歌ですが、このように為政者側が“痛み”に耐えるのでなければ“ほんまもんの改革”とは言えませんよね。いくら「改革に“痛み”は付き物である」なんて言っても“庶民”にだけ“痛み”を押し付けるのでは。第一、「自民党(もとの濁りの田沼)をぶっ壊してやる」なんて威勢のいいことを言っていましたが、小泉ウジ(似非「白河」)どっぷりと「もとの濁り」に浸かったままじゃありませんか。「もとの濁りが恋しい」なんていう自民党員なんていやしないでしょう?そりゃそうですよ、もとの濁りのまんまなんですもの。念仏のように繰り返される「カイカク」も、「えっ、改革って言葉の意味ってなんだっけ?」と分からなくなってしまうことばかり。外務省の要人の首を何人かすげ替えただけで「骨太の改革をいたしました」なんて嘯いていた川口順子サンも、年金問題について普通なら“数字合わせ”としか言わない「“政策目標を数値化する”のも改革なんです」なんて寝ぼけたことを言っていた竹中センセーも同様ですが、もっと「改革」の本来の意義とその重さを理解してくれなくちゃ。小泉ボッチャン一座よ、定信公に“ほんまもんの改革”を学びにこぞって白河に行きゃれ。

善政の余沢

また、白河楽翁公は、この公園を水利開発と貧困者救済を兼ねて築造したのだそうですよ。きちんと、改革と“公共事業”を両立させているではありませんか。「改革=経費削減」などという“知識”だけでは問題解決(“ほんまもんの改革”の実現)ができないんじゃないでしょうか。冗費の発生は徹底的に抑えながら、一方でインフラの整備や雇用機会の創出によって経済を活性化することをしなければ長期的にはジリ貧になるだけでしょ、政官界のエリート各位よ。日本で盛んな「リストラ」も、実は単なる人減らしに過ぎず、短期的には経費削減ができて利益が上がるかもしれないけど、長期的な成長力が萎えてしまうんじゃないだろうか。「リストラ」は本来「構造改革」なんですから、縮小だけではなくて拡大する分野や部門も考えなくちゃ。かのカルロス・ゴーンが日産の再興に成功したのも、工場閉鎖などの縮小政策とともに製品開発機能の強化などの拡大政策を伴う“ほんまもんの構造改革”をしたからだと思いますよ。縮小と拡大のバランスが取れて始めて「改革なくして成長なし」と言えるんじゃないでしょうか。もちろん松平定信公も、“楽”翁とは称しながらも、楽どころではなく苦衷と“痛み”の日々を過されたことでしょう。しかし、天明の大飢饉が何年も続いた時代に白河藩では一人の餓死者も出さなかったのだそうですから驚きです。また、明治時代になってから、財界の大立者になる前の渋澤栄一は、自分が道路、橋梁、養育院、墓地、ガスなどの公共施設整備に充てた「七分積金」の出所を確かめたところ、「天明、寛政年間の飢饉で大変な時代に行われた老中松平定信公の善政の余沢」だということが分かり深い感銘を受けたのだそうです。南湖を囲むこの回遊式自然庭園には、道路沿いの桜並木も含めて800本の桜が咲いていますが、いずれも華美に流れることなく緑と見事に調和していて、散策している者の目と心を和ませてくれます。これも、楽翁公が現代にまで残してくださった「善政の余沢」なのでしょう。南湖神社の境内で悠然かつ泰然と枝を垂れている「楽翁桜」を見て改めてその遺徳を偲びました。

思いがけぬ福島県知事との出会い

“釈迦の説法”の域

極めて得難い機会に巡り合うことを「盲亀の浮木」などと言いますが、有り難いことに、インターネットは僕のような盲亀にも浮木と出会う機会を与えてくれています。松平定信公のことをもっと知りたくてインターネット検索をしていた時に、思いもかけず「郷土の先人達の偉業を語る」と題した佐藤栄佐久福島県知事の講演録に出会ったのもまさに盲亀の浮木」でした。そして、早速読み始めると、「ひゃー、すげー!」、次いで、「よく勉強しているなあ!」、「こんなに立派な講演ができる知事がいたんだ!」と、もう感嘆符に次ぐ感嘆符でした。しかも、自らも県庁の職員への講話で“知識”“見識”“胆識”の違いについて話しをされているそうですが、率先垂範するかのごとく、本を読んで仕入れた“知識”を鵜呑みにして受け売りするのではなく、“知識”を主体的に採り入れることによって高められた“見識”を示唆に富んだ講演の中に展開されているのが見事です。イラク問題についても、これを「ブッシュ戦争である」と喝破し、議会の所信表明で「戦争が憎しみを生み、憎しみがテロを生み、そしてテロが戦争を引き起こす」と述べられたそうですが、これは“見識”というより“釈迦の説法”の域に近いのではないかとさえ思ってしまいました。沼津市の名刹・乗運寺の住職をされている林茂樹大兄(道志倶楽部)に教えて頂いた釈迦の言葉「もろもろの敵意は敵意によりていつまでも鎮まることなし。ただ敵意なきによりて鎮まる。われらは怨み憎しみ合う人々の中にありて怨みも憎しみもなく安らかに生きたい。刀杖をとれる人々を見よ、刀杖をとるがゆえにおそれを生ず」と一脈通ずるものが感じられたからです。

佐藤栄作=オロカ者≠佐藤栄佐久

もと総理大臣でノーベル賞まで受賞した佐藤栄作が、国民に対して「エイちゃんと呼んで欲しい」と言ったと聞いた時、「この人はなんとインテリジェンスがない人なんだろう!」と呆れてしまいました。自分がどのような過程を踏んで総理大臣になったのかを考えてみれば、大方の日本人が「エイちゃん」と愛称で呼ぶほどの親近感を持っているわけがないということが自明なはずなのに、それが分かっていないのですから。あの調子ですから、確たる表彰理由となる業績もないくせに、臆面もなくノーベル賞も受賞できたのでしょう。「非核3原則を初めて公式に表明した」というのが表向きの授賞理由だったようですが、実は筋金入りの核兵器信仰者であって、それが後に米国務省文書でバレてしまったというじゃありませんか。物事を客観的にみてその本質を見極めることを「観照」という言葉で表すならば、「佐藤栄作は自分自身を観照できない」、「観照力のない者はインテリジェンスのないオロカ者」、従って、「佐藤栄作はオロカ者である」という三段論法が成り立つわけです、オレ的には。福島県知事「佐藤栄佐久」の名前を初めて聞いた時には、この高等(荒唐?)恒等式「サトウエイサク=オロカ者」が思い浮かび、「おや、オロカ者を名乗る者を知事に選んでしまったのかよ!」と今度は「福島県民=オロカ者」の等式をオレ的に成立させてしまうところでした。しかし、いわき市に3年前に移転してきて以来、テレビ報道で何回もブラウン管上でお目にかかるごとに、「栄佐久≠栄作」の不等式が即座に成立し、更に「これはひとかどの人物だ」という思いを強めてきました。

今様松平定信にエール

佐藤栄佐久知事には、「三国人発言」をして歴史観の欠如しているところを露呈した某都知事や「脱ダム宣言」なるマスコミ受けするキャッチフレーズを発するだけで「政治理念」らしきものが全く感じられない某県知事のような小説家上がり(下がり?)のもつ表面的なきらびやかさはありませんが、じっくりと地に足付けながら政治の経験を積んできた者だけが与えることのできる揺るぎのない信頼感があります。そして、この信頼感の背景に、主体的に物を見て考えることによって育んでこられた豊かな“見識”があるのだということを“発見”して、悪友どもに“我が”福島県知事の素晴らしさを吹聴して回りました。しかし、中には、「何だ、そんなこと初めて知ったのか」といったような顔をする輩がいたので、折角の手柄話の腰を折られてしまうことがありました。特に、栗田信治兄(MIKS)や小林公直兄六馬鹿会)は、駒場の教養学部時代の同クラスであったりサークルが同じであったりしたらしく、日常的なコンタクトでのあれこれを思い出しながら、「お前の言うとおり、彼はひとかどの人物に違いないよ」と私の“見識”ならぬ“鑑識”を認めてくれました。そこで、佐藤栄佐久兄(同期同窓と分かった途端に兄呼ばわりです)をすっかり“今様松平定信”視してしまっている私としては、「じゃ、当然、自民党(もとの濁りの田沼)員じゃないんだろうね?」と質問したのですが、案に反して、答えは「いや、自民党だよ」という残念なものでした。しかし、栗田兄か小林兄かのどちらかが「でも“自分はただの自民党員じゃない”って言ってたなあ」と述懐していましたからまだ救いはあります。講義録によると今様松平定信殿は、吉田松陰の「剣は胆力で打ち砕け」という言葉を引き合いに出して、どんなに圧力がかかっても信念を曲げずに邁進するためには“胆識”が必要なのだとされています。いずれの日にか、白河の関を出て霞が関に上り、そこに巣食う「ぶっ壊してやる」一言不実行居士や今様田沼意次一味と対峙して“胆識”のほどを見せて欲しいものと、かすかな声ながらエールを送っております。

城山公園(白河市)

「小峰」と「おとめ」に惑わされ

インターネット情報では「城山公園・おとめ桜」となっていましたので、その所在地を白河市民らしき人に聞いてみると、「城山公園は“こっち”で、おとめ桜は“あっち”」という答が返ってきました。「なんだか変だなあ」と思いながら、先ずは“こっち”目指してシビックを走らせていますと、今度は「山公園」ではなくて「小峰城」という標識が目に入ってきました。「白河城の他に小峰城というのがあったのだろうから、これは城山公園じゃないかもかもしれないけどまあいいか」と思ってたどり着いたのが城山公園」で、「小峰城」は「白河城」の別名だということが分かりました。南北朝期の武将・結城親朝が1340年に築城したのがそもそもで、代々の白川結城氏の本拠となっていたのですが、白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城となったところから「小峰城」という名前で呼ばれる所以だそうです。石垣と三重櫓が端正な佇まいをしていて、なかなか姿のいいお城ですが、このような近世城郭と城下町を築いたのは1627年に十万石を以って初代白河藩主として入城してきた丹羽長重で、この頃から「白河城」と呼ばれるようになったのだとか。丹羽氏はここから二本松城に移ったわけですが、その後は榊原氏、本多氏、奥平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏などの譜代大名が城主を務め、松平定信公は、このうちの久松松平時代の城主だったということで、ようやく白河と松平定信公のつながりが分かりました。明治元年(1868年)に戊辰戦争が勃発した際には、この白河城が政府軍と会津藩を中心とする奥羽列藩同盟軍の争奪戦の的となり、必死に防戦する列藩同盟軍が政府軍の圧倒的火力の前に破れ落城した由。そんなくらい過去があるにもかかわらず、白河市の外来者歓迎の気風はここにも現われていて、親切で熱心なボランティア・グループが城の歴史の説明をしたり、地図を渡して観光スポットを案内したりしてくれました。お陰で、先刻“あっち”にあると教えられたのは実は「おとめ桜」ではなくて「乙姫桜」のことであり、「おとめ桜」はやはり“こっち”つまり城山公園にあるということが分かりました。小峰城築城の際に石垣が何回となくくずれたため藩士の娘を人柱とした。そして、この娘を悼んで城内に植えられたのが「おとめ桜」なんだそうですが、花は満開を過ぎた13分咲き(つまり3分散り)の状態で「おとめ」というより「うば」に近くなっていたのが残念でした。

乙姫桜(白河市)

望外の喜び・乙姫様に接見

「おとめ」と間違えられた「乙姫」様はJR東北本線の南側におられます。城山公園は北側ですから、確かに、“こっち”と“あっち”の位置関係になるわけです。乙姫桜のある開会山妙関寺までは、白河駅近傍に設けられた臨時駐車場から10分ほど歩かなければならないのですが、有り難いことに「乙姫桜」の貼り紙が随所にありますので道に迷う心配がありません。また、通常なら、道案内は往路だけで、帰路は“自己責任”で「来た道を思い出してお帰り」とされるのですが、ここは帰路用の貼り紙もありますので迷うことなく駐車場に戻ることができます。本当に外来者に対して親切です、白河市は。さて、「おとめ」に裏切られた直後だけに過剰な期待は禁物と自分に言い聞かせて接見した「乙姫」様は、樹齢400年といわれる枝垂桜で、「乙姫桜」の名に恥じぬ濃艶な姿を見せてくれました。もともと、ここは巡回コースに入っていなかったのですが、「おとめ」と聞き間違ってくれたお陰で望外の喜びを得ることができました。仙台藩主・伊達政宗が将軍家に桜の苗木を献上する途中に白河で休憩した時に住職がその1本を所望して境内に植えたのだそうです。1本や2本途中でちょろまかしても分からないくらいですから、かなりの本数の苗木が運ばれたものと思われます。将軍家筋には、そちこちに樹齢400年くらいの「乙姫桜」の姉妹達がいて、負けじと濃艶な花色を競っているはずです。

昌建寺(泉崎村)

高人口密度の“真ん中通り”を北上

国道4号線を北上して白河市を出ると、もうそこが泉崎村です。面積的には福島県28村のうちで下から数えて4番目の小さな町ですが、この辺りは「“白河ちょい以北”部」ではありますが、中通りの中の更に“真ん中通り”にあたるせいか、人口密度が高く、福島県90市町村のうち30位になっています。因みに、“真ん中通り”は、どの市町村も人口密度が高く、南端の白河市(7位)から北端の福島市(8位)に至るまで、泉崎村(30位)、矢吹町(12位)、中島村(15位)、鏡石町(7位)、須賀川市(5位)、郡山市(4位)、三春町(16位)、本宮町(3位)、二本松市(17位)、安達町(19位)、飯野町(11位)、保原町(2位)、伊達町(1位)、梁川町(20位)、桑折町(10位)、国見町(13位)と、ほとんど間断なく、福島県90市町村のうちの人口密度上位30位以内の市町村が連なっています。

目には見えない陰の徳

さて、樹齢400年の乙姫桜の妖艶さを見た後だけに樹齢230年の“若さ”に更なる期待を寄せて昌建寺に臨んだのですが、ここの枝垂桜は“若さ”と裏腹に既に「ウバ」になっておりました。しかし、昌建寺近傍に、”Izumisaki Chamber of Commerce”の表記が目立つ泉崎村商工会議所があり、ここで活躍する村人の姿を思わせるような若桜が満開でした。昌建寺の桜も、「ウバ」は「ウバ」ながら、石段や鐘楼の佇まいと調和した枝垂れぶりを見せていました。住職が書かれたのでしょうか、「根が張って枝葉も繁る。目には見えない陰の徳」という立札書きがありました。そうなんだ、枝葉末節の更にその先の花びらだけとらえて「ウバ」だのなんだのと言っていた私がオロカでした。「目には見えない陰の徳」だって「目には見えない枝垂桜の艶姿」だって見極められるような心眼の持ち主にならなくちゃ…。

須賀川市のあれこれ

花と花火の釈迦堂川

さて、今日は4月17日。須賀川市から、いわきニュータウン・テニス倶楽部に遠征してきた鈴木ひとみさんが「満開だった」と言っていたのが4月14日。これはもう完全に「三日見ぬ間の桜かな」の世界じゃないか。そもそも、駄物を陀仏としゃれて「お釈迦になった」なんて言うのも気になるなあ。ぶつぶつと独り言を言いながら、次の目的地「釈迦堂川周辺」を目指して、漠然と須賀川市内の国道4号線を北上していると、突如シビックが川を渡りました。「あっ、これが釈迦堂川なんだ」と気付いてとってかえして橋上から打ち眺めますと、「河川敷の両岸約2キロにわたり282本の桜並木が続き、中でもアリーナ付近の桜の眺めがすばらしい」というインターネット情報通りの光景が…見えるような気がしました、心眼の持ち主には。ついでにこの際、ここで開かれるという釈迦堂川全国花火大会の「一万発の花火の競演」も心眼で見てしまえ。しかし、心眼未熟な私には悲しいかな「花も花火も無かりけり」でした。

小粒ながら県央の覇を競う

こんな調子では、もう一つの目的地翠ヶ丘公園」も多分スカで、須賀川市内の桜ポイントは総スカン。もちろん、「スカ」は“滓(かす)”、「総スカン」は“好かん(すかん)”から、それぞれできた言葉でしょうから須賀川市とは無関係です。福島県10市中で、人口は5位、面積は7位ですが、人口密度では2位の郡山市を凌いで堂々の1位ですからスカスカどころじゃないわけです。ほとんど全国に分布している「須賀」の地名は、川の合流地にできる砂州「スカ(洲処)」に由来しているようですが、この「須賀川」の地名の由来も「阿武隈川と釈迦堂川の合流する地の砂地」にあるのだとか言われています。福島県唯一の「福島空港」も、ここ須賀川市の南に隣接している玉川村にありますから須賀川市からの方が郡山市からよりアクセスしやすく、須賀川市の擁する「須賀川牡丹園」のように“世界一”と評価されるものは郡山市には見当たりません。郡山市の「薄皮饅頭」の向こうを張って日本三大シリーズにもきちんと名を連ねていて、「須賀川の松明あかし」は、京都の「お松明」、石川の「向田の火祭り」と並んで、「日本三大火祭り」の一つとされています。郡山市と北部で隣接している須賀川市は、小粒ながら福島県中央の覇者の座を大都市・郡山と競い合っているかのように見えます。

蛇の鼻遊楽園(本宮町)

白河以北ベルト値千金に

しかし、度重なる「ウバ」や「スカ」にもめげないのが、巳年生まれの執念深いところ。懲りもせず、国道4号線の北上を続けて、郡山市を抜け次の目的地・本宮町に入りました。本宮町は、福島県90市町村人口密度レースでは、須賀川市(5)、郡山市(4)を蹴落として堂々銅メダル受賞の「都会」なのですが、面積的には下から11番目の小さな「町」です。いっそのこと、郡山市にと一緒になってしまえば良さそうなものですが、新興の「郡山」如きに併合されるのでは由緒ありげな「本宮」の名がすたるとでもいうのでしょうか、チビのくせに頑張って独り立ちしています。それどころか、逆に、同じ安達郡の白沢村との併合話が取り沙汰されていましたから、行く行くは大玉村にも触手を伸ばして「本宮市」に昇格しようと目論んでいるのかもしれません。その上で、南部の鏡石町や矢吹町、泉崎村などが併合して「白河ちょい以北市」ができたら、福島県中通りが南北にわたって市部で一気通貫できるんだけどなあ。そうすれば、白河以北の中通りの福島市までが一山百文どころじゃなくて、中核商工業ベルトラインとして福島県の背骨になるんだが…。そんなショウモナイことを考えながら走っていた国道4号線から左折して行ってたどり着いた蛇の鼻遊楽園は、本宮「市」の市街地から少し外れたところにあるのですが周囲は「町」というより寧ろ「村」という雰囲気でした。

桜と鯉のデュオしばし鑑賞

若いテニス仲間に「謝花(じゃはな)」さんという人がいるのですが、この人は沖縄の出身です。この「蛇の鼻(じゃのはな)」も、どうも本土産の名前じゃなくて、沖縄出身の謝花さんが開設したんじゃないかと思っていたのですが、あにはからんや、れっきとした古来の地名なんだそうです。一説によると、源義家(八幡太郎)が前九年の役の際にこの地で戦を交えた際、敵陣に射った矢が花の様に見え、「矢の花」と呼ばれたのが後に訛って「じゃのはな」となったのだとか。そして、もう一つ、公園裏の名倉山に棲んでいた大蛇を退治した時に、その鼻が三つに分かれて飛び散って、それぞれの落下地点に池ができたというおどろおどろしい大蛇伝説とがあって、なんだかんだで最終的に「蛇の鼻」というヘンテコな地名になったと言い伝えられているそうです。謳い文句によると、蛇の鼻遊楽園の10万坪の園内には「安達郡六桜の一つ蛇ノ鼻のシダレザクラの他に桜の古木が点在している」とありましたが、さすがに入園料500円也を支払う段となりますと、「ウバ」や「スカ」のイメージが去来して疑心暗鬼、入園を躊躇して、切符売りのおばさんに「もう1本も咲いてないんじゃないの?」と聞いてしまいました。次いでの「いや、池のほとりの桜はまだ咲いていますよ」の答にも「どうせウバじゃないの?」と内心で。しかし、更に次いでの「この入園券を買えば桜の季節だけでなくていつでも再入園できますよ」の声に背中を押されて入園することにしました。結局はどれが“安達郡六桜の一つ”なのやら分からずじまいでしたが、切符売りのウバ桜殿の言に偽りはなく、蛇の鼻の落下点にできたという池の“現役の”ソメイヨシノが咲いており、水面に散り敷かれた花びらの間を色とりどりの鯉が泳ぎ回る“桜と鯉のデュオ”をしばし鑑賞することができました。

塩ノ崎大桜(白沢村)

孤高にして清清しく

さて、白河に発した今日の行程もようやく終盤。白河と同様にその名も清き白沢村に向います。白沢村は、福島県28村のうち、人口順では西郷村に次いで第2位で、福島県52町の中でも31位の新地町以下を凌いでいます。しかし、探し当てた「白沢村白岩字塩ノ崎」は、いかにも“村はずれ”といった感じのする田園地帯です。そこに小高い岡があって、樹齢600年という根回り直径7.21mで樹高約20mの白彼岸桜が、25mの四方に広がり見事な樹形を見せています。もともと、村人達がこの彼岸桜の開花の時期で農作業の開始期を占っていたそうですから、観光とは無縁の“おらっちの桜”だったのでしょう。私が訪れたこの時も撮影順序を譲り合っているカメラマンが二人いただけで、大桜は孤高に佇み田園風景の中に溶け込んでおりました。白沢村白岩字塩ノ崎の白彼岸桜という“白”尽くしのイメージにもよるのでしょうが、清清しい花姿で一服の清涼剤の感がしました。

紅枝垂地蔵ザクラ他(郡山市中田町)

1里離れた親娘の連携

郡山市域の山あいにある中田町は、お隣りの三春町との境界線も入り組んでいて、今いるところが中田町なのか三春町なのか見分けがつくいところにあります。現に、この紅枝垂地蔵ザクラも三春滝桜の娘といわれていて親子間の距離はわずか4kmですし、「中田町しだれ桜マップ」には地蔵ザクラの他にも、不動桜や五斗蒔田桜などたくさんの銘木が紹介されていますから、中田も三春も合わせて桜の一大名所であり、ここだけでも数日かけてゆっくりと桜狩を楽しむことができそうです。さて、この三春滝桜の娘、紅色に染まる花びらで樹齢400年の“若さ”を誇りながら何ゆえに「地蔵」の名が付けられているのかというと、この桜の根元に地蔵堂(延命地蔵尊)があり昔から地区の信仰の場所だったからなんだそうです。ネームバリューこそ全国区の三春滝桜に一歩も二歩も譲りますが、根周り6.3m、目通り幹周り4.1m、高さ16m、枝の直径約18mというこちらの一本桜の風格もなかなかのものです。例年おおむね三春の滝桜が散り始めたころに地蔵桜が見ごろを迎えるようですから、親娘間の連携もうまく取れているようですよ。

自然の風物との触れ合いの一時

帰りがけの駄賃として、「中田町しだれ桜マップ」から五斗蒔田桜一つだけ選んで見て帰ろうとして道を探していると、道路から少し入りこんだところに姿の良い桜が咲いているのが目に入りました。 歩いていくと農作業を終えたばかりという風情のご夫婦がいらして、不意に訪れた俄かカメラマンと話を交わしてくれました。「誕生記念に植えた孫が中学3年生になったばかりだから樹齢は15年そこそこだっぺ」。「桃の木は邪魔だから切っちまうべえと思ってるんだが」…「うーん、樹齢400年の地蔵ザクラを見た直後だけど、こんな若桜も華があっていいもんですよ」。「いやいや、姿の良い桜と桃の取り合わせが素敵じゃないですか」。みれば、桜と桃の手前に黄色い花まで。「うんにゃ、こりゃミツマタっつう和紙の原料になる木だよ」。更に、足元を見るとすくすく伸びた土筆がびっしり。「わっ、うまそ!」…「こんな物食うだかね。良かったらもって帰られ」。更に目を転ずると、小さな棚田状の仕切りがあって、そこに水芭蕉が咲き並んでいます。先に東和町の愛蔵寺を訪れた時には、“所ならず”その境内に咲く水芭蕉の姿に感動したのですが、実は福島県人にとって水芭蕉はそれほど遠い存在ではなくて身近なものだったようです。続く私の「しかし、水芭蕉なのにここには水がない!」という声に対しては「蛙が卵を産んじまうから水を抜いちまっただよ」とのことでした。街灯もない暗くて静かな田舎の夜の情景が思い浮かぶような気がしますが、さぞや、蛙の大合唱には安眠を妨げられていたのでしょう。束の間の、ミツマタ、土筆、水芭蕉、蛙といった自然の風物との触れ合いの夕刻の一時でした。あり場所を教えて頂いた五斗蒔田桜も既に残照を浴びていて、落日の逆光の中に短い花の命をさらしていました。

Y.会津若松市

(April 18,  Sun)

走行距離 306km

改めて知るNO.4の美しさ

さて、今日は桜狩ツアー初の会津地方遠征ですが、ブランド観光地・鶴ヶ城がメインなのでカエちゃんも大乗り気のご同伴です。日曜日なので混雑を予測して、しかもケチをして磐越自動車道を使わず国道49号線でのお出ましなので、早朝の出立とあいなります。案の定、道は空いていて、郡山市街を抜けるのもスイスイ。やがて、方向を西にとって進むと、やがて猪苗代町に出て猪苗代湖の北側湖畔にさしかかります。知ったかぶりをして、「猪苗代湖は、日本第4位の面積を誇る湖なんだよ」と申しますと、すかさずカエちゃんから、「日本一は琵琶湖なんでしょうけど、2位と3位はどこなの?」との“ご下問”がありました。「えーと、2位は霞ヶ浦で3位はムニャムニャ…」で絶句してしまいました。後で調べてみると、これが北海道のサロマ湖で、このために猪苗代湖が日本三大シリーズ入りを逸していることが分かりました。ここ猪苗代町も、湖水域北側のおよそ半分を占めていることもあって(南側は郡山市域と会津若松市域とで2分されています)、福島県52町のうちで只見町に次いで面積の広い町です(人口では第10)。猪苗代湖は、流れ入る川の水の酸性が強いために酸性湖となっていて、そのためプランクトン等が繁殖しにくく、透明度が高くなっているのだそうです。今までにも猪苗代湖畔沿いの国道49号線を通ったことは何回かあるのですが、じっくりと湖を眺望する機会はありませんでした。改めて湖水を見渡してみると、確かに、水色が良く湖畔の木々の豊かなグリーンがエメラルド色に映える美しい湖です。スキーのジャンプ競技の飛型点のように美景点でも加味すれば、琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖の中に割っていって日本三大湖レースでのメダル獲得も夢ではありません。

河もないのに「河東」とは

国道49号線は猪苗代町を出ると猪苗代湖の北西に位置する河東町に入ります。福島県52町のうちで人口では第28位、面積では第45位という数値的には地味な町ですが、人口密度を指標とした「都会度」では福島県90市町村の上位23位に当たり、隣の猪苗代町の「過疎度」23位と好対照をなしています。それより何より、大きな河もないのになぜ地名が「河東」なのかという疑問が残ります。町の北境沿いに猪苗代湖から流れ出ている日橋川(にっぱしがわ)が流れてはいるのですが、「川」でこそあれ「河」ではありそうもありませんし、よしんばこれを「河」としたところで、「南」でこそあれ「東」ではありません。1957(昭和32)に、日橋、堂島の2村が合併して河東村となり、78年(昭和53年)に町制を施行したというのが故事来歴のようですが、どうやら、合併の際に「“河”沼郡“東”端の町なんだから、日橋も堂島もなしにして“河東”にしてしまおう」という合意が成り立ったのではないかと思われます。新たな合併話が、会津若松市や同じ河沼郡の湯川村との間で進められているようです。市町村制の中で「郡」の位置づけというものは、およそ頼りなくて流動的なものに見えます。郡の名前に由来したものだとしたら、「河東」の名前が今後の市町村合併の動きの中でどのように変わっていくのか興味のあるところです。まあ、こんなことを考えるのも「小人閑居して不善をなす」の類なんでしょうけど。

会津若松市のあれこれ

会津地区の中心都市である会津若松市は、福島県10市のうちで、人口、面積とも第4位で、いわき、郡山、福島のビッグ3の後塵を拝しており、特に人口(約12万人)ではいずれも30万人クラスのビッグ3と比べると大きな格差があります。しかし、人口密度の上では、福島県90市町村のうちの第9位を占めており、同14位のいわき市の上をいっています。人口密度上位30位までを「都会」と定義すると、会津若松市(9位)を中心として、近傍の北会津村(18)、喜多方市(21)、河東町(23)塩川町(25位)、湯川村(26位)、会津坂下町(27位)を含めた“会津市”が展開していることになります。これで、国道49号線と並行するような形で走る磐越自動車道の通行料を無料化して、インターチェンジの数を増やせば、いわき市と“会津市”を結ぶ商工業ベルトラインができ、郡山市で中通り中核商工業ベルトラインと交差させることができそうです。いずれにせよ、現状の会津若松市は、商工業都市というより、猪苗代、磐梯山、鶴が城、飯盛山、東山温泉などの観光資源に多くを依存する観光都市の性格を帯びていますので、県外で福島県の地名の知名度調査を行なうとしたら恐らくNo.1なのではないかと思われます。

鶴ケ城址の桜(会津若松市)

漂い聞こえる♪♪♪春高楼の花の宴♪♪♪

南北朝の頃に芦名氏によって築城された「黒川城」が鶴が城のルーツなのだそうです。それが、文禄元年(1592)に蒲生氏郷が7層の天守閣を建て外郭を築いた頃に、黒川の地が「若松」と改められ、城の名前も「鶴が城」とされたようです。姫路城も「白鷺城」と呼ばれるくらい優美な姿をしていますが、この「鶴が城」にも、鶴が翼を広げて大空に飛翔しようとする時のような荘厳ささえ感じられる美しさがあります。しかし、「鶴は万年」という具合にはいかず、美人と同様に美城が薄命に終わってしまったのはあまりにも有名な事実です。幕末に起こった戊辰戦争は「会津戦争」とも言われるほどで、この城が最大の激戦の舞台となりました。歴代城主(大名)として、芦名氏、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、保科正之などなどの有力人物が名を連ねていることからも分かるように、もともと奥州を押さえために重要で戦略的な価値の高い城であっただけに、戊辰戦争の際にもこの鶴が城が奥羽列藩同盟軍の本拠的な存在になったのでしょう。旧幕府の主戦派である会津藩主・松平容保は自らも、新政府軍に抗戦するため会津軍を編成したのですが、ここでは青龍隊・朱雀隊というふうに軍隊を年齢別に分けており、17歳以下の少年で編成されていたのが「白虎隊」です。松平藩23万石のシンボルであった鶴ヶ城は、約87千坪に及ぶ広大な面積の敷地に、本丸と二の丸、三の丸、北出丸、西出丸を擁する重厚な構成であり、戊辰の役の際にも約1ヶ月間の籠城に耐えることができたのだそうです。土井晩翠が作詞した「荒城の月」も、官軍に敗れた後に取り壊し処分を受け、天守閣まで失って満身創痍になった鶴が城がモチーフになっているそうです。現在は天守閣が復元されていますが、これは蒲生氏郷が建築した7層のものではなく、会津戦争後に取り壊された5層天守を明治初期の写真をもとに復元されたものだということですが、満開の桜のもと城址を散策していますと、どこからともなく♪♪♪春高楼の花の宴♪♪♪の物悲しい旋律が漂い聞こえてきそうな感じがします。

名城花に染まる

広大な鶴ヶ城には、約1,000本のソメイヨシノが咲き競っていました。美しく端正な姿で青空に映える天守閣や、堅牢に高く積み上げられた郭の石垣が桜に彩られて眼前に迫り、土塁の上から眼下を深く見下ろせば、深緑の水を湛えた濠のお堀端も桜の装いで、水面には花びらも浮いています。まさに名城花に染まるで、さすがに、日本の「さくら名所100選」の一つに名を連ねているだけのことはあります。ちょうど、「第20回鶴ケ城さくら祭り」が行われていて(417日〜18日)、帰途につく頃には駐車場が満杯状態になっていましたが、早朝の出立が功を奏して難なく駐車した後、桜の花に導かれるまま、ゆったりと散策することができました。夜にはライトアップされた桜が堀の水面に映る様は幻想的だそうです。さもありなんと思いました。

飯盛山・太夫桜(会津若松市) 

重い史実と軽い史実

いったい、「飯盛山」という名の山は、日本中にどれくらいあるのでしょうか。白虎隊自刃の地で有名な会津若松市の飯盛山も、ご多分に漏れず、ご飯を盛った形をした小さな山です。飯盛山にたどり着いた白虎隊が、鶴が城付近の侍屋敷が大火災を起こし、天守閣も炎と黒煙に包まれているのを見て、主君のもとに馳せ参ずべき最後の望みが絶たれたと知った時の状況を詩吟で詠ったのが「南鶴が城を望めば砲煙あがる」です。しかし、実際には、さしもの花の染まる鶴が城も飯盛山からは小さな点にしか見えず、持参していたバードウォッチング用の双眼鏡の助けを借りてようやく所在を確認できたほどです。ですから、この時の戦いで鶴が城が落城したわけではなく、城の手前の市街地が燃えているのを見て、城が燃えているのだと勘違いして、腹を切ってしまったのが史実だということも現場に立ってみると良く分かります。しかし、17歳以下の少年22人が切腹した悲劇につまらぬ史実を指しはさんで感興をそぐこともありません。城が燃えているのだと勘違いしたにしても天下の形勢は見間違いようがなく、白虎隊が切羽詰った立場に置かれていたということも重い史実だったのですから。ところで、この飯盛山には、高さ約13メートル、周囲5.5メートルというエドヒガンザクラが咲いていました。その昔、いつき太夫という名妓が花見に訪れた折、この辺で兇徒の為に殺害され、いつきの弟が霊を弔うために植えたところから「太夫桜」と称されたという史実まがいの説明が書かれていました。これも悲劇には違いありませんが、白虎隊の史実に比べると歴史的な重みがなく、飯盛山に相応しくないような気がします。それかあらぬか、目立たぬ咲き方をしており、中腹部にある売店の窓から見下ろした方が却って良く見えます。

飯盛山から見る飯豊は良いとよ(?)

同じく売店の窓から、遠く遥かに雪山の連峰を望むことができます。店員さんに問うと「イイトヨサン」という答が返ってきました。ああ、そうか、会津地方の北はすぐに山形県だったんだ。そこで、いつか麓の小国から眺めた飯豊山を想い起こしながら、感懐を込めて「あれがイイデか!」と呟いたところ、店員さん達は顔を見合わせて「私たち、みんなイイトヨって言っているわよねえ」と頷きあっておりました。山の名前などというものは、最初こそそれが見える地方によって呼び方が違っていたとしても、時が経るごとに各地方の人々の交流が進むに連れて色々な呼び方が淘汰されて、一つの名前に統一されているのが普通で、「あちらはイイデ山かもしれないが、こちらではイイトヨ山なんだ」などという“一山別称”は他に例がないんじゃないでしょうか。「飯豊」という漢字表記については合意ができているのですから、山形県側と福島県側の住民間に交流があったことは間違いないのでしょうが、飯盛の「盛」をきちんと「モリ」と読む飯盛山界隈の住人にとっては、飯豊の「豊」を「デ」と読ませるわけの分からないやり方は受け入れ難かったのかもしれません。

石部桜(会津若松市)

田園に孤高を保つ

飯盛山を散策するのには、飯盛山山中にある幾つかの売店のうちのどれかの駐車場に車をとめておき、帰りしなに駐車代金代わりの買い物をその売店でするというスタイルが多いようです。私たちも、「ようこそ」または「いらっしゃいませ」にあたる会津地方の方言「こらんしょ」で売店の女将に招じ入れられて、会津名産だという味噌やら山菜漬けやらを買ってから「石部桜」のあり場所を問うと、「ここを歩いていけば、田んぼの中に立っているからすぐに分かりますよ」とのことでした。そこで、シビックをそのまま駐車場に残して告げられた方向を目指しますと、売店の女将の言葉の通り、観光バスからの団体客も含めて、「石部詣で」らしき人の列ができていました。そして、「田園の中の一本桜」がすぐに視界に入ってきました。「石部桜」は、中世会津の領主・芦名氏の重臣石部治郎大輔の館の庭にあったことから付けられた名前なのですが、館の名残が何もなく、周囲が田んぼに囲まれているので遠くからでもすぐ分かるのです。「石部桜」は、「薄墨桜」、「虎の尾桜」、「杉の糸桜」、「大鹿桜」と並んで「会津五桜」の一つで「会津風土記」にも記されているそうです。樹齢は約600年、樹高11メートル、枝張り19メートルというエドヒガンザクラ種の名木で、地に伏した基幹から8本の幹が立っており、枝もたわわに少し白みがかった花を咲かせています。くそ真面目で頭が固く、融融通の利かない人間のことを「石部金吉」と言いますが、この桜の姿形から察すると、これを植えた石部さんはなかなか洒脱な人ではなかったのではないかと思われます。しかし、石部家にどのような史実があったのか定かではありませんが、その館は跡形もなく、田園の中に一つ取り残された桜が孤高を保っているように見えます。「主なしとて春を忘れず」健気に花を咲かせている姿にはそこはかとない“田園の憂鬱”が感じられます。

Z.小野町・大越町・船引町・岳温泉・会津坂下町・柳津町

(2004/4/21  Wed.)

走行距離 385km

夏井千本桜(小野町)

桜の花咲く水辺

前回の桜狩ツアー(Apr.18)の帰途は、国道49号線を会津若松から磐梯熱海まで戻って、蕎麦の老舗「いしむしろ」でカエちゃんのご機嫌を取り結んでから、高額高速料金を奮発して、磐梯熱海ICから磐越高速自動車道に乗りました。時間に追われていたためでもありますが、「磐越高速道路上から見た夏井千本桜は巣晴らしい」という話を聞いていて「もしや」と思ったからでもありました。そして、小野ICを過ぎて暫くして、この「もしや」が現実のものとしてシビックの車窓に現われたのです。夕景の中にも夏井川の河畔に咲き並ぶ満開の桜が鮮やかに見えました。「すぐ明日にでも駆けつけて」と気は焦ったのですが、あいにく上京の予定があったのでそれもならず、本日「なむさん、まだ咲いていてくれますように」と願いながらの小野町詣でとなったわけです。そして、早朝出立して、JR磐越東線と絡み合うような形で続く磐越街道(県道41号線)を走って「夏井」駅近くにいくと、遠くの堤防に花が残っているのを発見。先ずは一安心。しかし、駐車料500円也徴収されるはずの駐車場は無人です。早朝だからなのか、それとも、桜がウバになってしまっているためなのか。一抹の不安を胸に、線路を渡って河畔に行ってみると、ピークは越していますがまだまだ見ごたえのある状態にあることが分かりました。ここは、夏井川の河畔両岸5Kmにわたって千本のソメイヨシノが植えられているのですが、元はといえば、昭和46年3月夏井構造改善事業完成により河川堤防ができ、この堤防に桜の苗木を移植して桜の花咲く水辺にという計画が発案されたのが発端で、昭和50年4月に地元からの協賛を受け千本の桜が移植されたのだそうです。夏井川を挟んで張られた綱に泳ぐ約70本の鯉のぼりの光景でも知られているのですが、この日はあまりの強風で、さすがの鯉たちも尻尾を巻いている状態でした。

小野小町生誕の地

日本のサッカーチームにも小野伸二というすばらしいミッドフィルダーがいますが、この小野町も、いわき市と郡山市の間にあってミッドフィルダー役を演じているように思えます。福島52町のうちで、人口が第19位、面積が16位ですから、これもミドルで少しトップよりというところでしょうか。平安朝初期、「七里ヶ沢」といわれたこの一帯に、公家の血を引く小野篁(たかむら)がやって来て「小野六郷」と称して治めたのが町名の由来だそうです。そして、篁の荘園に仕える愛子(珍敷御前)という息をのむほどに美しかった娘と互いに文を交し合う仲となり結ばれて、間もなく玉のように愛らしい姫が生まれて名づけたのが「比古姫」で、これが後に都に上って小野小町となったというのが小野町流の“仮説”なんだそうです。小野小町伝説は日本各地にありますが、ここ小野町では現在でも、小野篁を祭神とする矢大神社が人々の尊崇を集めていて、「たかむら踊り」が夏の風物詩として広く親しまれているそうです。権力者や統治者が没した後に、自発的に民衆がその遺徳を讃えて祭り続けるというのはなかなかできないことです。小野篁に対する民衆の支持を理由に私は小野町仮説に一票投じたいと思います。この上で更に、『小野小町生誕の地』というロマンを感じさせるような町づくりがなされたら、もっともっと魅力的なミッドフィルダー・タウンになることでしょう。

種まき桜(小野町)

次の目的地である大越町目指して走っていた国道349号線の路傍にふと見かけたのがこの「種まき桜」でした。シビックを止めて近づいてみると、立て看板があって、「樹齢推定400年(樹高13.50M、目通4.40M)のエドヒガン枝垂桜で小野町指定の天然記念物」になっていて、「母種は“種まき桜”と呼ばれ各地に点在するエドヒガンで、花の形が少し小さく色も少し白味が強い」という旨の説明がありました。インターネット情報に花見スポットとして紹介されるほどの華やかさはありません。しかし、気が付かずに通り過ぎてしまいそうなところでひっそりと花咲かせている様は、貴族の娘である小野小町の雅やかな美しさとは対照的な、鄙にはまれな村娘の楚々とした風情を思わせるものがありました。

永泉寺の桜大越町)

降るように咲く花降り初めて

大越町は小野町と同じく田村郡ですが、福島52町のうちで人口が第44位、面積が49位ですから、小野町より規模がずっと小さいミニタウンです。出掛けにチェックしたインターネット情報によると、大越町の永泉寺の桜は昨日(4/20)が満開とありました。翌日の情報にあったように、訪れたこの日はまさに「散り始め」。幹回り4.1M、枝張16M、高さ12Mで、頭上から降るように咲いている花の花びらは実際に降り始めておりました。樹齢400年と推定される紅枝垂桜で、これも三春滝桜の姉妹樹と言われているそうです。三春滝桜の親族筋といえば、既に「紅枝垂地蔵ザクラ」と「福田寺の糸桜」(子)と「合戦場のしだれ桜」(孫)を見てきました。そして今度はここに姉妹ですから、三春滝桜は“多岐桜”と言ってもいいくらい実に血筋が多岐にわたっているものだと思います。

小沢の桜(船引町)

まさに「日本の原風景」

「小沢の桜」もインターネット情報の花見スポットには含まれていなかったのですが、走っていて随所で「小沢の桜」の立て看板が目に入りましたので、行きがかり上立ち寄ってみました。船引町も大越町と同じく田村郡ですが、福島52町のうちで面積では12位ですが人口は伊達郡の保原町に次いで第2位で、大越町とは打って変わった大きな町です。それかあらぬか、船引町役場の活動も活発なようで、「小沢の桜」の現場にも役場の人が詰め掛けていて、観光係発行による「ふねひき桜マップ」を配布して観光案内したり、駐車場への誘導や交通整理に当たっていたりしていました。随所で見かけた「小沢の桜」の立て看板も船引町役場の熱心な観光誘致活動の現われだったわけです。そこで、「ふねひき桜マップ」によると「船曳町の桜の名所」は13箇所もあるのですが、この「小沢の桜」が一押しのポイントのようです。なだらかで美しい姿をした移ヶ岳を背景に、たばこ畑の中にポツンと1本枝を広げるソメイヨシノ。根元近くには野仏と子安観音の祠があって、まさに「日本の原風景」という風情があります。

どうして「船引」なんだろう?

しかし、こんな奥まった土地なのに地名がどうして「船引」なんだろう?町役場の(と思しき)人に問うてみると、その昔、坂上田村麻呂が大滝根川を遡って「船」を「引」いてここまで来たのだそうです。その大滝根川は、橋を渡る時に見てみたのですが、ほんの細流で、とても「船」を「引」けそうな水量があるようには見えません。昔はもっと大きな川だったんかいなと訝ったのですが、後に「ふねひき桜マップ」の「船引町の桜の名所」のうちの「大滝根河畔の桜並木」の写真を見てみると、もっと上流部には相応の水量があるようです。ああ、そうか、ここだけ水量が無いから船には乗れず「引く」ことしかできなかったんだ、と勝手に判断しています。勝手な判断ついでに、この大滝根川の下流筋に当たるのが田村郡の滝根町なんじゃないかなと思っています。福島52町のうちで人口が第46位、面積が37位の小さな町ですが、日本三大鍾乳洞の龍泉洞(岩手県)、秋芳洞(山口県)、龍河洞(高知県)に次ぐ規模(と勝手に判断している)阿武隈洞があり観光客を呼んでいます。

岳温泉(二本松市)

「えっ、これダケ!」の岳温泉

本日(4/21)のインターネット情報には「岳温泉4/20満開」とありました。そこで、胸弾ませて、“いつか来た道”の国道459号を通って二本松市地内の岳温泉を目指します。通り過ぎた“いつか来た町”岩代町の“いつか来た桜”の「合戦場のしだれ桜」は、すっかり葉桜になって“緑の桜”になっていました。しかし、「葉桜の程近くで満開の桜を楽しめるとは、なんと福島県の素晴らしいことよ」とほくそえみながらたどり着いた岳温泉に咲き残っていたのは「えっ、これダケ!」と駄洒落混じりのため息が出てしまうほど僅かなものでした。岳温泉街から鏡ケ池公園へ、その名も「桜坂」という通路があって、この道の両側に150本のソメイヨシノが植栽されているので、「見頃の時期には桜のトンネルとなり風景は壮観である」というインターネット情報を見て楽しみにしてきたのに!因みに、明くる日(4/22)には「岳温泉4/21葉桜」となっていましたから、きっと岳温泉の桜は日持ちが悪く、満開の翌日には全部散ってしまうということなのでしょう。満開で妖艶な姿を見せていたあの「合戦場のしだれ桜」がおよそ1週間のうちに葉桜になっているのは納得できますが、「三日見ぬ間」どころではなくて一日で満開が葉桜になってしまう岳温泉の桜は散り際が良すぎます。「一日岳温泉の桜」とかなんとかにしておかないと、今後も「えっ、これダケ!族」が後を絶たないことでしょう。

しばし山菜狩人に変身

葉桜の岳温泉だけで終わってしまっては男がすたる。そこで、更に“いつか来た市”福島市地内の土湯まで上り、そこから国道115号線経由で会津地方を目指していって、お口直しならぬお目直しをすることにしました。道は安達太良山を登っていって、その山腹に通された土湯トンネルをくぐります。およそ1週間前には白いものに覆われている部分の大きかった安達太良山の山頂部分もすっかり春模様になっていますが、それでも路傍のあちこちに雪塊が残っていて早春の気配が漂っています。さて、トンネルを出ると、そこは耶麻郡で“いつか来た町”猪苗代町の北部に当たります。タラノメやワラビ、ゼンマイ、コゴミ、コシアブラ、シドケ、フキノトウ、ヤマウドなどの山の幸を売る店が路傍にずらりと並んでいて、そこで桜狩人しばし山菜狩人に変身、安達太良山山頂部に訪れた春を満喫しました。小休止の後、山を下っていくと正面にかの磐梯山がくっきりと見えます。「民謡・会津磐梯山」でも宝の山”と唄われていますが、磐梯山は何と言っても会津地方の至宝。これが無ければ会津地方の絵になりません。「♪もっともだ、もっともだ♪」と口ずさみながら国道115号線を更に下って猪苗代湖畔に出ると、シビック未踏の地に踏み入るため、今度は別名「猪苗代塩川線」と呼ばれる県道7号線に進路を取りました。

会津盆地の中央を行く

最初の未踏の地は同じ耶麻郡の磐梯町でした。福島52町のうちで人口が第50位、面積が34位で、いずれも下から数えた方がずっと速いこの町が会津の象徴である「磐梯」の名を名乗っているのは、ひたすら磐梯山の麓にあるという僥倖(?)に恵まれたため。気の毒なことに、「猪苗代塩川線」上に続くシビック未踏の地「塩川町」などは、人口が第26位と磐梯町を上回りながら(面積は38位)会津に似つかわしくない「塩」付けの名前にさせられてしまっています。檜原湖方面の山々を源とする大塩川というのが阿賀川(大川)に流入していて、この阿賀川をさかのぼって会津では手に入らない塩が、綿花、茶、ニシン、昆布などとともに陸揚げされていたのが「塩川町」の名前の由来のようです。当時は、会津の年貢米は主に塩川から阿賀川に通じる舟に乗り、新潟の日本海に出て下関経由で大阪に運ばれていたそうですから、塩川は会津の代表的な物流拠点だったわけです。また、若松から米沢へと通じる米沢街道筋にあったため、町は船問屋が建ち並び、多くの商人や職人、旅人たちが行き交う商業都市となっていたそうです。現在も、会津若松市(南方へ車で20分…12km)と喜多方市(北方へ車で15分…6km)のほぼ中間地点にあることから、会津地方のベッドタウンとしても位置づけられており、会津地方にしては珍しく年々人口が増加しているとのことです。会津盆地のほぼ中央に位置していることでもありますので「会津なんとか町」を名乗れば良さそうなものですが、地味な町名をそのまま塩漬けにしてかえようとしないところが塩川町民の“塩らしい”ところなのでしょう。あまり“塩らしくない”のに“塩爺”という愛称を付けられていた塩川大臣とはえらい違いです。塩川町に並ぶ喜多方市は、福島10市のうちで人口が第9位、面積が8位でともにブービー争いに加わっている形ですが、堂々と日本三大シリーズにも加わっていて、ご存知・喜多方ラーメンは、札幌ラーメン(北海道)、博多ラーメン(福岡)と並んで日本三大ラーメンの一角をなしています。

杉の糸桜(会津坂下町)

「杉」は「過ぎ」でした

喜多方市を南下すると、福島52町のうちで人口が第8位、面積が23位の会津坂下(ばんげ)町に出ます。ここには、会津五桜のひとつとされる「杉の糸桜」があるのですが、「桜なのに杉の糸とは、こはいかに?」が疑問でした。何のことはない、「杉」は地名で会津坂下町内の杉地区を示すものであり、白い「糸」が垂れるようにさくから「糸桜」の名前が付けられたようです。薬王寺境内に咲く枝垂れ桜で、種類はエドヒガンザクラですが、杉の桜のピークは「過ぎ」ており、葉桜の緑の糸が垂れていてそこに僅かに花の白が混ざっているような状態でした。「例年ならこれから満開なんですが、今年は開花が早“過ぎ”たもので…」と、「杉」の住民がシビックの湘南ナンバーを見ながら気の毒そうに慰めてくれました。

福満虚空蔵尊(会津柳津町)

粟も食わず只見もできず

会津坂下町から国道252号線を西南に走ると、同じ河沼郡ですが、福島52町のうちで人口が第47位、面積が10位の柳津(やないづ)町に入ります。1200年の歴史をもつ円蔵寺の門前町で、本堂に祀られる本尊の福満虚空蔵尊は、大満虚空蔵尊(茨城県東海村)、能満虚空蔵尊(千葉県天津小湊町)とともに日本三大虚空蔵尊の一つに数えられているそうです。この虚空蔵尊は、除夜の鐘を合図に、厳寒の中褌一丁の男衆が本堂の鰐口めざしていっせいによじ登る奇祭が行われることでも有名です。どれがその本堂なのかは分からなかったのですが日本三大シリーズ入りしているだけあって見事な伽藍が揃っているなあと思いつつも「どうしてここが桜の名所なの?」と、桜狩人としてはいささか物足りない思いを感じながら退散し、脇に退役機関車が静態保存されている只見線「会津柳津」駅界隈の桜を見てから帰途につきました。…ところが、翌日(4/22)いわきニュータウンテニス倶楽部で「昨日は柳津の虚空蔵尊まで足を伸ばしてきちゃった」と手柄顔で話したところ、反応がどうもおかしいのです。「じゃ、お土産に粟饅頭買ってきてくれたのね、有難う」。「えっ、粟饅頭?」。「いくつもの茶店があって名物の粟饅頭をふかす湯気が立ちのぼってるからすぐに分かったでしょ」。「えっ、湯気がねえ?」。更に、「下を流れてる只見川が綺麗だったでしょ」とか「巨大な岩があって…」とか、私には訳の分からぬことばかり。その都度こちらは、「えっ、××××?」というほとんど鸚鵡返し状態でした。どうやら、曲がり角を一つ間違えてしまって、円蔵寺の上の方の観光バスの駐車場に入ってしまい、その近辺の境内が円蔵寺の全てだと勘違いしたまま帰ってきてしまったようです。道理で物足りない思いがしたはずです。粟饅頭のお土産の恩恵に浴しそこねたテニス仲間以上に、「粟も食わず只見もできなかった」ことを残念に思っています。なお、宮城県にも柳津、岐阜県にも柳津町があって、船やいかだの発着所であった会津の柳津町と同じように、いずれも川に添っていて水運の便があるところだそうです。そして、発音がいずれも「やないづ」であることから、「梁場」の語源に関係あるといわれているそうです。

[.古殿町

(2004/4/24  Sat.)

走行距離 117km

越代の桜(古殿町)

華麗にして風雅な日本一の山桜

石川郡古殿町は、小野町や大越町に続く阿武隈高地の一隅に位置しているため例年遅い春を迎えます。今日は土曜日、いつものように夫婦揃って「いわき農産物直売所」出かけて行った足で古殿町の遅い春探訪としゃれ込みました。湯本温泉を抜け、「スパリゾートハワイアンズ」の前を通り過ぎて御斉所街道を通って向かう古殿町は、福島52町のうちで人口は第38位ですが面積は11位という“過疎”けき町ですが、「古殿」や「御斉所」といった言葉から、いかにも由緒のありそうな土地柄という感じがします。御斉所街道を走るシビックの車窓から見る山々はもうすっかり春化粧。青空のもと、様々な色調とグラデュエーションをもって萌える若葉が陽に映えています。助手席のマイカーちゃんも感嘆して「秋は油絵だけど、春の野山は水彩画の世界ね!」と一言。まさに至言で、この瑞々しい光景は「舌」には尽くし得ず、水彩画の「筆」ならでは表現できないのではないかと思います。ところで、「越代(こしだい)」というのは古殿町内の地名で、ここに全国巨樹・巨木百選に選ばれるヤマザクラの大木があります。樹高20M周囲7.1Mで、“日本一の山桜”と称されるこの桜は樹齢400年を越えながら、増々樹勢を増してきて、華麗さに風雅さが兼ね備わってきたと言われています。鮮やかなピンクと白の桃の花との取り合わせも見事でした。

\.猪苗代町・会津高田町・下郷町・平田村

(2004/4/28  Wed.)

走行距離 353km

亀ケ城址(猪苗代町)

鶴の出城が亀だとは

さて、本日は桜狩ツアーの最終日。カエちゃんの同乗を得て、会津地方の“見残しの桜”を追って、猪苗代町の亀ケ城址から強行日程のスタートです。「亀ヶ城」は、源頼朝から奥州征伐の論功行賞として会津の地を与えられた佐原氏の一族である猪苗代氏の代々の居城であったので「猪苗代城」と呼ばれていたのが、江戸時代になって「若松城(鶴が城)」の出城という位置づけを与えられるとともに、「亀ヶ城」と呼ばれるようになったのだそうです。もっとも、別説では「佐原氏は会津郡猪苗代を領した」とありますから、“猪苗代”は人名が先なのか地名が先なのか定かではありません。いずれにしても、「亀ヶ城」という名前の城は、日本に他にも幾つかあるようですが、几帳面に「鶴亀」がセットになっているのはここだけではないでしょうか?この度の福島花見ツアーで、はしなくも鶴亀制覇をすることになり、思わず昔の人のネーミングの妙(ヘンテコリンの方の妙)に笑ってしまいました。「鶴」が見事な石垣構造でそれこそ鶴のように優雅な姿をしているのに対して、「亀」の方は土塁仕立てで亀の棲む池のような土の香りがしていました。心なしか咲く花も、鶴が城の方が華やかで雅やかな感じがしたのに対して亀ヶ城の桜には野趣さえ感じられました。ここから見る残雪の磐梯山も絶景でした。

大鹿桜(猪苗代町)

鹿毛色に変わる珍種の桜

大鹿桜は「会津の五桜」の一つで、猪苗代町西峰・磐椅(いわはし)神社境内にあります。菊咲きサトザクラの一品種の八重桜(小菊桜)で、花の色が白から次第に鹿の家の色に変化するところから「大鹿桜」の名前が付けられたのだそうです。また、他の桜よりも花期が長いので別名「翁桜」とも呼ばれています。磐梯山麓の中腹(標高580M)の高地に咲き、花の中心から緑化したおしべが出ているため、花の中から葉が生えているかのように見える珍しい桜です。天暦年間(947957)に村上天皇の勅使が参拝の折に、京都から持ってきて移植したものと伝えられ現在はその子孫の樹だとか。これとは別に、当神社入り口の鳥居杉の中ほどの二股別れのところには山桜の寄生木があり、杉と桜が“縁結び”しているところから「縁結び桜」と呼ばれています。また、近くには、会津松平家藩祖の墓のある土津神社があり、石鳥居を満開のソメイヨシノが飾っていました。

薄墨桜(会津高田町)

会津総鎮守のご神木

猪苗代町から会津若松市を抜けて、北会津郡北会津村を通る国道401号線を行くと会津高田町に入ります。福島52町のうちで人口は第14位、面積では第9位の南北に長い町ですが、ここに「石部桜」、「杉の糸桜」、「大鹿桜」と順に辿ってきた「会津五桜」の残りの「薄墨桜」と「虎の尾桜」があります。「薄墨桜」は、「日本三大桜」の一つに数えられる岐阜県根尾谷の薄墨桜と同名ですが、ここの桜は会津の総鎮守・伊佐須美神社のご神木とされています。オオシマザクラ系サトザクラの一種で、花は葉とともに開き八重に一重をまじえた浅紅色。離れて見ると淡墨をはいたように見えるところから「薄墨」の名が付けられています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、大毘古命(おおひこのみこと)、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)四柱を総称して「伊佐須美大明神」と称するのだそうですが、大毘古命と建沼河別命が当地で行き会ったことにより、当地を「相津(会津)」と称するようになったとのこと。ひょんなところで「会津」のルーツに出会いました。

虎の尾桜(会津高田町)

「虎」の名に似ぬ癒しと寛ぎ感

虎の尾桜は法用寺境内にあります。会津の総鎮守・伊佐須美神社が格式の高さのあまりにか、ふんぞり返った感じさえ与えるのに対して、この法用寺は、会津でも最も古い寺で天台宗の名刹とされながらも癒しと寛ぎ感を感じさせてくれるお寺です。三重の塔というのは雪国には珍しいものらしく、会津地方でもここの三重の塔が唯一のものだとか。観音堂の前にある虎の尾桜はサトザクラの一種ですが、メシベが葉に変形して緑色の細い葉状になり花から突き出ている珍種で、パラパラした淡紅色の八重で非常に美しい珍花なので植物学上も稀な品種とされている由です。「虎の尾桜」の名称については、低く張り出た樹幹を虎が横たわる姿にたとえたとする説と、重弁になる花からおしべが弁化して細く立つ旗弁の形を虎の尾と見立てたとする説があるのだとか。しかし、「虎」の名前と裏腹に、お寺と同様に、癒しと寛ぎ感を与えてくれる桜です。現に、藩政時代にも藩主が姫君を伴って、よくここに花見に訪れたそうです。会津藩領内のことを記した「会津風土記」は藩祖・保科正之が寛文元年(1666年)に撰したものですが、すでにその中に石部桜、薄墨桜とともに虎の尾桜が記されていたとのことです。観音堂と虎の尾桜の取り合わせもさることながら、三重の塔のすぐ脇で桜に負けじとばかり無数の白い花を咲かせていた名も知らぬ喬木も三重の塔と絶妙な取り合わせを見せていました。いずれにしても、これにて会津の五桜“完全制覇”。「どれが一番良かったか」などという詮索は止めにしましょう。SMAPの『世界に一つだけの花』の通りで、「♪♪♪小さい花や大きな花、一つとして同じものはないから、ナンバーワンにならなくてもいい、一番大切なオンリーワン♪♪♪」です。それぞれに独特の趣のある桜たちでした。しかし、それぞれの開花時期に違いがありますから、全てをピークの状態で見るのが至難なのが残念なところです。

ついに見残し小塩の桜

計画では、更に南会津郡の伊南村を訪れて、今が満開とインターネット情報で報じられていた「小塩の桜(うえんでの桜)」を観賞して、これをもって桜ツアーのフィナーレとする予定でした。しかし、やはり、いわきからの日帰りで南会津郡に足を踏み入れるのは時間的に相当な無理があります。同じ南会津郡の舘岩村の民宿で泊るプランを立ててもいたのですが、カエちゃんのお気に召さずキャッカされてしまったために、やむなく日帰り強行日程に切り替えたことがここに来て悔やまれます。今頃満開の花を咲かせているはずの伊南村は小塩の地のオオヤマザクラに思いを馳せながら、今回は「見残し」とすることに決めました。そして、会津高田町と隣接している下郷町に矛先を転じることにしました。下郷町は東端とはいえ南会津郡の一角ですので、ここを訪れれば福島県1014郡“総なめ”走破となり、今回の桜狩ツアーに「南会津郡未踏」の汚点(?)を残すことがなくなりますし、なによりそこには、かねてから一度訪れてみたいと思っていた大内宿があるからです。

ねぎ蕎麦でねぎらう

下郷町は、福島52町のうちで人口は第35位ですが、面積は第4位の広い町です。そして、大内宿は会津高田町から一山越えて下っていった下郷町の北部にあります。その昔、ここ「大内」の地を通る街道は、「会津西街道」、あるいは「南山通り」、「下野街道」と呼ばれ、城下町会津若松と下野(現在の栃木県)今市、日光、さらには江戸とを結ぶ重要な街道でした。そして、交通の難所であった当所を通る旅人や、奥州各藩の参勤交代の大名行列などで行き来する侍たちが旅の疲れを癒していた宿場が「大内宿」で、明治初期に大川沿いに国道が開通するまで大いに繁栄していたそうです。現在も街道沿いに約40軒の茅葺民家が「江戸時代の宿場町」の面影を残して並び、全国でも数少ない貴重な集落として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されるとともに、南会津の重要な観光資源となっています。昔ながらの家屋を活かした宿や食事処があるのですが、私たちはカエちゃんがかねて聞き及んで知っていた「ねぎそば」を試みてみることにしました。ようやく終わった桜狩ツアーの労を「ねぎそば」でねぎらおうという算段です。「ねぎそば」を注文すると、そばとともに長ネギが丸ごと一本器にのって出てきます。このネギが箸代わりになるとともに、適宜小さく噛めば薬味にもなるわけですから、合理的といえば合理的、横着といえば横着な蕎麦の食し方です。会津では昔、客を家に招いて結婚式などの祝い事を行う際に、蕎麦は必ず最後に出されるおもてなし料理だったということです。そして、この「ネギを箸がわりにしてそばをすする」というのも、その頃からの風習だったようです。横着宿、じゃなかった、大内宿では「箸にもネギにもかからない」という言い方をするのかもしれません。

“桜木町”を素通り

さて、「帰途は極力シビック未踏の地を通って帰ろう」と思って選んだのは国道118号線で、天栄村の羽鳥湖の脇を通って長沼町に出ました。天栄村は、福島県28村のうち、人口では第9位ですが面積は第5位の広い村です。「天栄」の名前は、3村合併の際に、村の中央部にある天栄山からとったようです。分水嶺が通っていて、東部は降雪が少ない太平洋側気候で、須賀川市に注ぐ阿武隈川支流の釈迦堂川の源流もここにあります。西部は冬期間最大積雪2mにも及ぶ日本海側気候。那須連山がここまで延びてきており、地勢が急峻な山間地で90%が山林原野となっています。天栄村の東北部に隣接する長沼町は、福島52町のうちで人口は第42位、面積も第33位の小さな町です。「町の木」として「桜」が指定されている通り、ここには、栄泉寺のシダレザクラ、横田陣屋御殿サクラ、古館のサクラ、護真寺のサクラ、長沼城跡のサクラ、藤沼湖公園のサクラといった花見のポイントがあります。いずれも、私が「福島さくら探訪計画」を立てる際に用いたインターネット情報には掲載されていなかったのが残念ですが、来年にでもこの“桜木町”を是非訪れてみたいと思っています。もっとも、須賀川市との合併話が進んでいるようですから、その際には今回総スカンに終わった現須賀川市内の桜と併せての「新須賀川さくら探訪計画」を立てることになるのかも知れません。さて、この長沼町からは、県道28号線で岩瀬村を通って郡山市に出ました。鏡石町は、白河市から須賀川市入りする際に(4/17)国道4号線で横切っていますので、本日の即興ドライブ・プランのお陰で岩瀬郡の全町村を“総なめ”走行することができたことになります。福島県28村のうち、人口第11位面積第19位とさして大きくない岩瀬村の名前が、長沼町と鏡石町の町や、村でももっと規模が大きい天栄村をさしおいて、岩瀬郡という郡の名前に用いられているのは奇妙な感じがします。しかし、岩瀬郡のどの町村でも市町村合併の話が進行しているようですので、早晩、岩瀬郡は消滅して、「奇妙だなんて言わせない(岩瀬ない)」ということになりそうです。

アンコールは芝桜

郡山市からの国道49号線での帰途で石川郡平田村に立ち寄りました。福島県28村のうち、面積では第14位ですが人口は第4位の町で、田村郡小野町とともに、いわき市と郡山市の間でミッドフィルダー役を果たす位置づけになっています。思えば、いわき市「平」地区(4/5)を皮切りにスタートしたこの桜狩ツアーです。終着点も「平」田村ということにしておかなければ、この「福島ふとどき風土記」が平におさまりません。また、「シバザクラも桜のうち」という強引なこじつけも、思い込みとダジャレ漬けの「桜狩人」の放つ最後っ屁としてはまずまずなんじゃないでしょうか。阿武隈山系の高地にありながら、標高500m〜600mのなだらかな山並みを縫うように耕地(平田)が拓かれた、農村風景の残る緑豊かな平田村では直後(5/1から)に開かれる「ひらた芝桜まつり」の準備も大方整っていて、赤、白、ピンクの“桜”が華やかに咲き揃い、桜ツアーのアンコールに応えてくれていました。

桜句にかこつけサクラン総括

以上のように私の桜狩ツアーは、24日間(4/5-28)、総走行距離2,295km(いわき市平地区を除く)での福島県内42箇所の花見ポイント巡回で終わりました。折り良く、俳句をたしなむ牧野正弘兄六馬鹿会)が同好会でまとめた桜の俳句集を送ってくれましたので、以下のような“返句”をメールで送りました。錯乱した桜覧コメントではありますが、部分的ながら「桜狩ツアー総括」の内容が含まれていますので、原文のまま以下にご紹介します。

<福島ふとどき風土記を添えて>

桜の句をたくさん送っていただき有難うございました。私めには選句をする趣味がありませんので、この約1ヶ月間にわたる福島花見ツアーの体験で同感できた句にかこつけて以下の通りコメントさせていただきます。

「滝桜名もなき花が盛立てる」

40箇所超の花どころを回ってきましたが、一つ印象的だったのは、「見事な桜には必ず名もなきバイプレーヤーがいる」ということでした。バイプレーヤーは、寺社や城郭、庵といった類の建造物であったり、山や川、湖といった自然の造形であってもいいのですが、句の三春の滝桜町の場合は、確かに周辺の「名もなき桜」がバイプレーヤーとして盛り上げており私めも同じような感興を抱いて帰ってきました。翻って、我が巨人軍は主砲の滝桜ばかりで、バイプレーヤーなし。しかも、他球団から買ってきた“Buy  Player"ばかりですので感興の乏しいこと夥しいという感じを募らせている昨今です。

「花の城どこで自刃か白虎隊」

春爛漫の鶴が城を訪れた時に、私めも15−6歳の若さ(というより幼さ)で自刃して桜のように散っていった白虎隊の少年達の身の上を思いやりました。正確に言えば、自刃したのは鶴が城を遠く遥かに望む飯盛山ですから、この句の作者は誤解されているように思えてしまいますが、そんな史実との整合性は問題にならないでしょう。問題は何に対して感興を覚えたかであって、きっと作者の胸中には、「戦弾に曝され、家族同朋を戦火で亡くし、白虎隊と同じように帰るべきところを失ってしまったイラクの国民が呻吟している今、平和な日本でのんびり詩を吟じていてよいものだろうか」という思いが去来していたものと思われます。

私めも、桜舞う日本から矢も盾もたまらず敢えて砲弾の舞うイラクに飛び込んでいったあの人はさすが「高遠の桜」(*)だと飯森山に立って思いを新たにしました。「人道的」という形容詞はありますが、「人道」は名詞ですから「人道支援」という言葉のつなげ方はひどく曖昧に思えます。「人道(street)“ストリート・チルドレンを支援する」という高遠流が気高くも正しい解釈であるように思えますが、こんなことを口外したら「自己責任」論が幅を利かせている今の日本、たちどころに「非国民」扱いされてしまいます。クワバラクワバラ。

(*)信州出身の小林公直兄六馬鹿会)は、かねてから「高遠の桜を見ずして桜を見たというなかれ」と豪語しています。私は信州は高遠に赴いて「桜を見た」のですが、「豪語するだけのことはあるわい」と思っています。

「葉桜のほどよきころとなりにけり」

「花の命は短くて」とも「三日見ぬ間の桜かな」とも言われますから、福島県各地の「サクラ咲くらん」情報には心乱され、それこそサクラン状態の1ヶ月間を過しました。カミさんなぞは、そんな状態の私めを見て偏執狂ではないのかと思ったそうです(確かに否定できない側面が多分にあるのですが)。

ですから、「満開」の情報を得て現場に臨んだところ実はもう「葉桜」だったといったような場合には、もう錯乱を通り越して狂気の沙汰でした。こんな嘘っぱち情報が罷り通っているのは政治が悪いからだ!年金未納を無視するなんてミノムシ同然じゃないか!こうなったら、テロリストになって小泉のボッチャン達をサクランさせてやる!・・・???と、訳の分からない怒りの言葉がフツフツと。そんな調子ですから、この「葉桜」を「ほどよき」とするこの句にであった時には、いきなりフツフツが蘇ってきて、「とんでもない句を作る奴だ、非国民め!」と叫びたくなってしまいましたよ。

しかし、一面で、名木は花が散った後の姿も見事だということも知りました。以前写真をお送りした合戦場の桜は、たまたま「満開」と「葉桜」の両方を見る機会があったのですが葉ばかりの緑の桜もなかなかのものでした。さしもの名花・吉永小百合サマももはや「葉百合」になられておりますが、「老」いてますます綺麗、上品で素敵じゃありませんか。

心狭き私めは、中国人の教え子達から「佐々木老師」なぞと呼ばれて当初はムッとしておりましたが、考えてみれば、もともと日本語でも「老」は長老、大老、老中などと尊称に用いられる言葉であり、「豊かな経験を積んでそこから高い見識を得ている」といった意味がありそうじゃありませんか。現に福島花見ツアーの中で白河藩主・松平定信の足跡も辿ってみたのですが老中として行った寛政の改革はまさしく「改革」であり、似非カイカクを念仏として唱えている某ボッチャンに爪の垢を・・・と思いましたよ。

そんなところへ、雑誌「月刊・現代」に日野原重明先生が戦争を語り継ぐ 「新老人」よ、立ち上がれなる一文を載せられているのを知り、早速購読してみました。本来は、単なる馬齢を重ねただけの「高齢者」より「老人」の方が遥かに魅力的な言葉であるはずです。老醜、老廃などという言葉とともに本来の価値を失ってしまった「老人」に「新」を冠した日野原先生の感覚はまさに「新」しく素晴らしいものだと感服しております。

同文中には「創め続ける人は若い」の一節があります。金釘字のため、「短冊に毛筆でさらさら」といった芸当のできない私めは詩歌の世界から足を遠ざけておりますが、絵空事なら描くことはできようかと思い、隔週刊雑誌「水彩で描く」を取り始め、すっかり新しい趣味を「創め続ける」気になっております。なんとも人に影響されやすい私めでありますが、これには古殿町への福島花見ツアー・ドライブに同乗したマイカーちゃんの「秋は油絵だけど、春の野山は水彩画の世界ね」という一言があったことも白状しておきます。

いわきは今、まさに様々な色合いとグラデュエ−ションをもって萌える若葉の季節です。この瑞々しい光景は「舌」には尽くし得ず、水彩画の「筆」ならでは表現できないのではないかと思います。きっと、来年の今月今日のこの若葉は・・・「描く」が「あがく」にならなきゃいいがとも思いつつ。

草  々

2004/5/3  風薫るイワキより 「新老人」めざす  佐々木 洋

福島ふとどき改革提案

桜を追いながら福島県内各地の様々な風物に触れることによって“What is 福島県”が段々と良く分かってくるとともに福島県が好きになってきました。当初の“To be or not to be福島県人”という心の揺れも大分“To be”寄りに傾いてきたように思えます。しかし、一方で、「ここがこうなれば良いのに」と思うところも幾つかありましたので、小泉サンの真似をしてカイカク案を纏めてみました。未だに福島での投票権もない“不届き”住民が発するゴマメのハギシリもいいところの“不届き”な戯言ですから、県政当事者の目には“不届き”の結果になるでしょうが、憂国ならぬ憂県の有権者の一人にでも二人にでもお目通しいただけたらと願っています。

県庁移転

その昔、「河北新報」で、「東北探題」という欄を連日設けて、仙台市内の中央官公庁や全国規模企業の東北地方代表者を日替わりで紹介しようとしたのですが、その企画がボツになったという話を聞いたことがあります。仙台市に東北地方の代表拠点を置いていない中央官公庁は、塩釜と青森にそれぞれの東北地方代表拠点を置く海運局と林野庁だけ。大多数の多国籍ならぬ都道府県籍企業の東北地区代表オフィスも仙台市に集中しているため日刊365日分にとても納めきれないというのが、「東北探題」の企画がボツになった原因だということでした。これほど名実ともに「地方の代表都市」としての形を整えた都市は仙台市の他にはなく、他の地方では代表拠点・オフィスが複数の都市に分散しているのが普通なのですが、このお蔭で、仙台市には強力な求心力が生まれていて「東北としての纏まり」が強固なものになっています。「東京に行かなくても仙台に行けば8割かた用が足りる」ということで、東北各県の人々が仙台市に一目も二目も置いているからです。翻って、福島県に於ける求心力はどのように働いており、「福島県としての纏まり」はできているのでしょうか。何といっても、県庁所在地の福島市が北に偏していて、県庁までが仙台市の求心力に引っ張られているような形になっているのが気になります。福島市と白河市を結ぶ東北自動車道路および国道4号線沿いの地域と、いわき市と会津若松市を結ぶ磐越自動車道と国道49号線沿いの地域には、それぞれ南北と東北の基幹商工業ベルトラインになる潜在力があり、この両ベルトラインの交点に当たる郡山市が実際的にも大きく成長してきています。有機的な補完関係をもった商工業ベルトラインの構築を行政課題として推進していくためにも行政の中核としての県庁を福島市から郡山市に移転したらどうなんでしょうか。郡山市が、行政とともに商工業だけではなく全ての産業の交易のセンターとしての求心力を発揮するようになれば、「福島県としての纏まり」が強固なものになっていくものと思われます。

「東北」地区の移管

県庁が福島市から郡山市に移転するとなると、いわき市や会津若松市から容易にアクセスできるようになります。しかし、一方では、相馬市、原町市、相馬郡の一部からは逆に県庁にアクセスし難くなります。この当たりの福島県「東北」地区には、現状でも福島市よりも「東北」の盟主・仙台市の求心力の方が強く働いているようですから、いっそ宮城県に統合してもらったらどうなんでしょうか。現在、福島県のあちこちで市町村統合の動きが進められていますが、都道府県の間でも必要な統合は推進されるべきではないかと思います。その際には、都道府県とは何か、また市町村とは何かについて本質的な討議をした上で、それぞれの「纏まり」の意義とあるべき姿を自主的に追求する必要があると思います。さて、「東北」地区を仙台市の吸引力のままに任せて宮城県域とするとなると、“我ら”が福島県の地形はますますオーストラリアに近いものとなってきます。福島市から県庁がなくなることでもありますので、「福島県」の呼称もオーストラリアにあやかって「豪州」にすれば田中康夫クンが変えたくても変えられずにいる長野県の「信州」の先を越すことができます。また、これを「ゴウ州」とでも表記すれば、市町村合併と市名の平がな表記で全国の先鞭をつけた「いわき市」の顰に習って、今度は県名のカタカナ表記の点で全国初の快挙になります。まあ、県名の方は小泉サンのレベルのカイカク案でしかありませんから懸命になって討議することもないでしょう。本質的な討議に基づいた真の“改革”が進められておらず、地方自治体の問題も、福島県に限らず、「都道府県ありき」の現状肯定論に立って細部の議論が行われているのが問題なんじゃないでしょうか。行政区分のあり方は、都道府県によって1票の重みが大きく違っていて、限りなく憲法違反に近い現状の選挙区制にもかかわる問題だと思います。「現状のままの都道府県であっていいのか」、「都道府県とはどのような“纏まり”であるべきか」といった本質的な議論が必要だと思われます。福島県「東北」地区の宮城県移管問題は、こうした全国的な行政区分論義の勃興に一石を投ずるものになることでしょう。

フリー・ハイウェイ・ネットワーク構想

福島県内には、中通りを走る東北自動車道と、浜通りから会津に続く磐越自動車道、それに浜通りを南北に貫く常磐自動車道と、多都道府県をまたがる“インターステート・ロード”が3本も通っています。しかし、“フリー”(無料)どころか馬鹿高い交通料金が県内外の人と物のモビリティを阻害しており、また、高速交通の流れをせき止める料金ゲートのある地区にしかインターチェンジが開設されていないことから、せっかく高速道路沿いにありながらこれを“フリー”(自由)に利用できない町村が多い状態にあります。更に、福島県が一つの“纏まり”として機能するためには、県内の各地方がn:nの形のネットワークで結ばれ、相互間の交易が“フリー”に行われる「福島県経済圏」が構成される必要があるのですが、これには現存の“インターステート・ロード”だけではなく、新たな県内高速道路“イントラステート・ロード”の建設が必要と考えます。いわき市、会津若松市、白河市、福島市の東西南北の各拠点間の“過疎”地域に、「いわき・白河自動車道」、「白河・会津若松自動車道」、「会津若松・福島自動車道」、「福島・いわき自動車道」の4本の“イントラステート・ロード”を通して“インターステート・ロード”に接続すれば、県内各地間の交易が促進され県土が活性化すること必定です。勿論、“イントラステート・ロード”の建築も税金で賄いますし、“インターステート・ロード”も含めて交通料金は“フリー”(無料)にし、高速道路沿いの町村から“フリー”(自由)に利用できるようにインターチェンジの数を多くします。場合によっては、これによって“イントラステート・ロード”ないし“インターステート・ロード”と平行して走っている在来の道路は不要になりますから、不要になった道路用地を農商工業用地または住宅用地として売却して新道路建設資金の一部に充当することもできましょう。要は、福島県全体を「経済特区」にして、料金も利用も“フリー”なハイウェイを造って県土を活性化することです。各地間の交易が盛んになった「福島県経済圏」の収益力は格段に高くなりますから、当然それに伴って事業税も増えますから、そこから道路建設費用を償還していけば良いわけです。高速道路の建設運営を営利事業と位置づけ、高い道路通行料をとって投資額回収に充てるといった“先進国にあるまじき”セコイやり方をそのままにして、表面的に形を変えるだけの「道路公団の民営化」でお茶を濁そうとする小泉流カイカクとは違いますから、きっと“我が”「福島県経済特区」は他都道府県から垂涎の的として見られることになることでしょう。

Rev.1:2004/8/25

Rev.2:2005/3/28

Rev.3:2005/4/9

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