USA / MIT 見たまま感じたまま

 

MIT(マサチューセッツ工科大学)と三井の間には、往年の三井グループひいては日本産業界のリーダーであった団琢磨男爵がMITを卒業して以来の古くて深いつながりがあります。このため、三井業際研究所にはMIT会があり、三井グループ各社に対するMITの窓口となっており、私は三井業際研究所に出向してその事務局を務めていました。MIT会の活動は、MITの先生をお招きしての講演会の開催、MITの研究関連動向情報の紹介、MIT教授の三井グループ企業訪問斡旋など多岐にわたりましたが、三井グループ各社から希望者を募ってボストンに派遣するMITミッションはMITの最新の研究調査実績に触れ、更にこれを通してアメリカの動向を探るために最も有力な機会となるものでした。特にインターネットとリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)はMITが実質的にアメリカの推進拠点となっていただけに、MIT Mission ’94とMIT Mission ’96のプランニング・コーディネーターとして参加することによって「IT革命」の現場に臨んで動向を観察することができたと思っています。ですから、MITとアメリカの現場に“臨んでみたまま感じたまま”書き綴った以下の文章は「IT革命進行中の現場レポート」としてお読みいただけるのではないかと思います。

 

なお、以下の項目は、「三友新聞」に「USA見たまま感じたまま」シリーズとして掲載されています。

   ・謎の美女          1996/9/12    ・いざボストン          1996/9/19

学際性と国際性      1996/10/3   姿を消した“アメ車”  1996/10/10

オープンで自由な世界  1996/10/17    ジョン万次郎の教え    1996/10/24

Telecommuting の時代  1996/11/7   「経営と情報」の格差  1996/11/14

これからはICの時代(?) 1996/11/21  ・似て非なるもの         1996/11/28

まさにアジアの時代      1996/12/5     中継地化の光景         1996/12/12

 

MITミッション'94 vs '96

 

94/11 以来 19 ヶ月ぶりのMITミッション'となる。前回と異なり今回はボストンのベストシーズンといわれる 6 月を選んだ。この時期は卒業式シーズンに当たるため、ホテルの予約に難渋した上に、肝心のMIT教授陣のスケジュール確保が困難を極め予定変更も再三再四に及んだ。また、好むと好まざるとによらず各メンバが全てのセッションに参加せざるを得なかった前回の寺子屋式とは異なって、パラレル・セッションを多く取り入れるとともに、プログラムを自由に選択し参加して頂けるよう、参加メンバーの自由度を重視してコース設計を行った。従って、事前準備は前回に倍する煩雑さであったが、こと事前の添乗員業務となると前回より順調にこなすことができた。これは一つには業際研のOA化の進展に依るところが大きい。前回はPCを用いる者は異端児扱いされるほどでわずかにワープロ機能が利用できるだけの環境であつたが、この 19 ヶ月の間にようやくPC装備が進み、遅れ馳せながら導入された表計算ソフトが威力を発揮した。また、MIT-ILP Japan が間にたってのコーディネーションにも大いに助けられた。前回は小職一人で見立ててヨロヨロと持ち運んだMIT教授陣への土産品も、日本製鋼所から参加の小崎・小林両氏に助力していただいた。もともと業際研活動は主査担当会社の頑張りに支えられるところが大きいのだが、MIT会も近藤主査以下日本製鋼所メンバの支援に支えられていることがここでも判る。更に、レポート作成に当たって録音テープからの聴覚に頼るのには限界があるとの前回の反省に基づいて今回は小崎・小林両氏と三井海上の植松さんにもビデオカメラをご持参頂くことにした。事務局「業務」への支援に感謝するとともに、現地では全てのメンバが「研修」に専念できるよう裏方業務一手引受の覚悟を新たに 16.00 成田発のノースウェスト機に乗り込んだ。

 

謎の美女

 

ノースウェストでのシカゴ経由ボストンへの長旅。幸いなことに通路側の座席がとれた。しかもスチュワデスと真向かいの席、ここなら思い切り足を伸ばせる。更に隣にうら若き美女。すらりとしていて顔立ちがエキゾチック。スペイン系か、それとも日本人でモデル?・・・モデルとしたら、どうせエコノミークラス搭乗だから、あまり売れていないモデル?・・・勝手に憶測していると米国人スチュワデスがやって来て「この座席の者は連邦の規約により非常時にクルーの手助けができなければならない。ところで英語はできるのか」といった趣旨をペラペラ。当方が゙"A little."と答えると、くだんの彼女も"Not much."頼りないとみたかスチュワデス、今度は小さい字のインストラクションを手渡し「これを読め」という。やおら老眼鏡を取り出して読みはじめたものだから一層まどろこしく思えたのだろう、あえなく二人とも中央座席の通路内側の席に"連行"されてしまった。その時、隣からふと「あそこだとトイレに行きやすかったのに」。これで謎の美女が日本人であることが初めて知れた。ところで、くだんの彼女に後刻手渡された米国入国審査カードはスペイン語版であった。風貌からヒスパニックと判断されていたのである。「英語が判らぬのに米国内にのさばる不逞の輩 Japanese Hispanic」という米国民の感覚を期せずして垣間見た気がした門出の空旅であった。

 

寡黙なアメリカ人

 

さて右隣の通路側座席がアメリカ人。これがヘッドホンを耳に目を閉ざして専ら自分の世界にひたっていて声もかけにくい風情である。「この男が席を立った時自分もトイレに行けばよい」と決め込んでいたのだが、この男には一向に自然が呼びかけぬらしい。辛抱できなくなり目を開けさせ通路に出させてもらったのをきっかけに会話が成立したのは、とうに日付変更線を越えた時刻であった。てっきり日本への商用の帰途かと思い日本での滞在日数を問うたところ、既に3年間も日本で生活しているという。米軍座間基地の軍属で、3週間の休暇の帰国途次であった。しかし、このアメリカ人、3年間も居るのに日本をまるで知らない。町田市と横浜の中華街にそれぞれ一回行ったきりだそうである。いったん基地の外に出ると、円高と物価高のお陰で諸経費がかさんで仕方がない。そこで日常物資の調達には不自由しない基地の中に篭らざるを得なくなる。道理で閉鎖的になるわけである。京都旅行など夢の中の夢というから気の毒な気さえする。思えば小生が米国系企業と取引きしていた頃、その企業は米国からの駐在員一人当たりの住居費として 80-120 万円支払っていた。日本人にしては贅沢にみえるが、それでも本国での住居環境に比べると劣るのだからやむを得ざる支出であったのだろう。それかあらぬか、その企業はなりふり構わず米国人から日本人スタッフへの大幅切替えを始めた。臨席の寡黙な男の存在から連想をつなげた「東京から姿を消すアメリカ人」。これは東京のタクシー・ドライバーに聞いても確かな傾向のようだ。

 

いざボストン

 

成田を飛び立って約 13 時間でボストンのローガン空港に到着。緯度が 42.5 度前後であるから日本なら北海道の室蘭あたりに相当する。梅雨のない北海道とまるで同じで、ボストンも 6 月がベストシーズンとされる。約 57 万人の人口を擁するボストンがマサチュセッツの州都だが、我がMIT(マサチュセッツ工科大学)は残念ながらボストンにはなく、美しいチャールズ川をはさんで隣接するケンブリッジ市にある。ケンブリッジ市はマサチュセッツ州で7番目の小さな市だが、MITと並び称されるアメリカ最古の大学のハーバード大学もここにあり学園都市として名高い。ともかく 60 以上の大学があるから、ボストン一体の平均年齢は約 26 歳で全米で最も若いそうである。アメリカは 6 月が卒業式のシーズンであるから、ボストンの周辺には全米から卒業生の家族が集まったり、各種の同窓会が行われたりで、ホテルが書き入れ時を迎える。前回のミッション'94の時にはMITディスカウントが利用できて 135 ドル程度であった宿泊料だが、今回はディスカウントが利かず 210 ドルという高値である。予約にも宿泊者のクレジットカード・ナンバーを明示せよという高姿勢ぶりで、ミッション参加メンバが確定せぬ段階だったので、困ったあげく MIT-ILP メンバのクレジットカード・ナンバーを借用して仮予約をせねばならなかったほどである。しかし何はともあれ最も美しいシーズン。心身のコンディション最善のなかでミッション・メンバ各位が最大の研修成果を挙げることができればこれに越したことはない。   

 

1996年6月1日(土)

非ホワイトの世界

 

時差解消にはこれが一番とばかり、早朝4時にホテルを出て魚釣に出かけた。小生にとってははじめての大西洋でのフィッシングである。乗り込んだ釣舟のつくりは観光汽船さながら。甲板は高さ1m位の舷側で囲まれ、その鉄板の内側に筒状の竿立てが1m程の間隔で取付けられている。乗せる釣り人の数は100名にも及ぶだろうか、肩を接してならび立つ釣り人の釣竿が甲板の全周囲から海に向けて突き出ている様は壮観である。遊漁料は35ドル(4千円弱)だから日本の同種の釣舟料(湘南地区で78千円程度)に比べるとかなり安い。釣客は黒人やアジア系ばかりで白人は殆どいない。船主とその子女の兄妹と思しき白人家族が、陽気な"有色人種"のために、釣餌・釣道具の世話に飲食物の販売に、口数少なくせっせとサービスしている姿が印象的であった。肌の色ばかりでなく、殆どの釣客の職業は、どう見てもブルーカラー系で、ホワイトカラーらしき姿を探すのに苦労する。白人よ、ホワイトカラーよ、一体どこへ行ってしまったんだ。そんな気がする程「非ホワイト」が元気で明るく、しかも同じ船上でうちとけあっている。ほんの断面にすぎないが、現代のアメリカの一局面の縮図を見ている気がした。

 

「遥か欧米」意識

 

 

MIT会メンバは年輩者が多いのにも拘わらず殆どがエコノミークラス利用という質素さである。ほぼ同じこの時期に欧州視察に出かけているエコマテリアル委員会が全員ビジネスクラスで統一しているのと好対照である。今回の小職のボストン往復はビジネスクラスなら約420千円で約3倍の出張旅費がかかってしまうが、エコノミーなので約130千円ですむ。アメリカは交通経済的にも以前とは比較にならないほど近くなった。日本人がいつまでも「遥か欧米」の意識を捨てきれないでいると、対米コンタクトの上でアジア他国の後塵を拝する結果となる。今回のミッションが「低コストで実現可能なMITの知的資産の活用」の好事例となり各社のより積極的なMITへのアプローチのトリガーとなることを願ってやまない。

 

1996年6月2日(日)

 

Vest 総長とバッタリ

 

早朝、ホテル自室でメンバ各位の Personal History 29式と胸名札を整理した後、朝食をとりにレストラン(ホテル2階)に行ったところ、Vest 総長にバッタリ。どうやら当方を覚えていて下さった様子で軽く握手。居合わせた若手メンバもつられて握手。後で「あれが Vest 総長」と告げたところ、「えっ、あんなに気軽に握手して良かったのかな」と心配する若手。しかも、そのささやかな出会いを後刻の正式訪問の際のスピーチに織り込まれるほど Vest 総長は気さくなお人柄である。それともこれもMIT経営のための民間企業からの資金収集に必死な姿と見た方が正しいのか。恐らく両方正解なのだろう。軍からの資金援助が乏しくなったMITの経営は楽なものではなさそうである。

 

ミッション活動スタート

 

前夜各室にメモを配布し連絡した通り、ホテル・ロビーに 8.10a.m. 集合。参加メンバ各位にPersonal History 集を配布。Personal History の本来の用途(MITに提示するためのもの)とは異なるがメンバ間の相互交流も業際研の大メリット。相互理解にこれを活用しない手はない。全員揃ったところで駐米勤務者も含めたメンバの紹介に次いで近藤団長の挨拶で、いよいよミッション活動がスタート。米国側のアレンジ役を一手に担ってくれた MIT-ILP Accardo“爺さん”筆頭にMIT入りである。“爺さん”老いて益々盛ん。前週も同様なイベントがあった由で「疲れた」を口にしながらも元気旺盛。相変わらず頼りになる存在である。

 

三井側から情報発信

 

Program No.6 のビュッフェ・パーティーには 40 名近くのMIT教授陣が参加して下さった。折からの悪天候で参加者数を心配していたが、まずまずの人数で一安心。前回の反省から「三井側からの情報発信も」をなんとか実現するための機会をと模索検討した結果設定したプログラムであるからである。MIT教授陣と三井業際研究所各社との絆を強化するのに良い機会と手段であると考えていたので当初の計画ではインターネットのホームページを利用して各社の紹介も行うはずであったが、各社のホームページ(英語版)が充分整備されていないために実現できず残念である。しかし、エスプリに富んだ近藤団長のスピーチをはじめ団員の自己紹介という“伝統的メディア”により当初の狙いは達成できたものと考えている。

 

産学共同に拍車

 

MIT教授陣にもリストラの波が及んでいるようだ。早期退職制度が準備され今回の講演予定者の中にも応募者がおられるので講演予定当日まで在籍されるかどうか、といったきわどい話まで耳にした。MIT経営の原資は大きく言って、学生からの学費と政府の財政支出と民間企業資金とに三分されるが、冷戦構造が終結して以来政府資金のうちのウェイトが高かった軍からの資金援助が激減しているため経費削減によって“出ずるを制する”ことを余儀なくされている。一方、“入るを計る”方の経営努力が「産学共同」強化による民間企業資金収集に向けられている。「産学共同」となれば当然 MIT-ILP (Industrial Liaison Program)の出番となる訳であり、その Director である Mr. Accardo が超多忙なのはこのためでもあろう。しかし、さしものMITにも経営環境の変化に無頓着な“象牙の塔”派も少なくないらしく、民間企業とのコンタクトの絶好の機会であるにも拘わらず、自分の研究や授業を優先して今回のミッションに協力的でない先生が多いと Mr. Accardo はこぼしていた。それでも、教授陣がプレゼンテーションに用いられたOHP資料に三井ミッション専用に作られたものが多いことやビュッフェ・パーティーへの教授陣の積極参加の様子などを見ていると Mr. Accardo の説得力が功を奏しているように見える。

 

1996年6月3日(月)

 

学際性と国際性

 

MITが日本の東京大学、スイスのETHの2大学と連携して展開しているAGS (Alliance for Global Sustainability)がMITの特質を表している。このプログラムに技術系の教授陣とともにスローンスクール(経営学部相当)等の人文科学系の教授陣が参加され活躍されている。テーマが環境問題であるから東京大学側の Counterpart は生産技術研究所であり、これに経済学部の教授陣が参画しているとは考え難い。アカデミックな問題と違って実践的な問題の解決には本来学際的な協働体制を欠くことはできない。MITの実践的問題解決志向体質が見事な学際的体制を機能させていると言えよう。学際間の異質のふれあいと融合という面は「業際間」にも同様の効果が期待できるところであるし現に業際研活動を通して一部実現できているところでもある。MITに学んで実践的問題解決志向度を高め相応の協働体制を整えれば、より強力な業際活動効果を享受できる可能性がある。また、文字通り Global な視点に立つAGSも、異質のふれあいと融合の志向が豊かな国際性をもたらしているMITの主導がなければ実現可能であったかどうか疑問である。ミッションの "China Day" の諸プログラムが物語るようにMITの目は日本を超えて中国を見据えており、そのために多数の学生・教授陣を中国から招き入れている。中国から多くを学ぶことによってより多くのリターンを中国、ひいては世界に与えるのだというMITのスタンスには筋金入りものが感じられる。

                                                                             

1996年6月4日(火)

 

姿を消した“アメ車”

 

ようやく早朝に寸暇をつくることができたので、かねての希望通りホテルを出てMITキャンパス周辺を散策した。卒業式当日のためのケンブリッジ訪問客が多かったせいもあってか、MITキャンパスをめぐる長い路上には乗用車が長い列をつくって駐車していた。試みに日本車の所有シェアをざっと勘定してみようとして気が付いたのは、接近して見なければ日本車かどうか判別し難い乗用車が圧倒的に多いことである。かつて“アメ車”の見本のようなものであったクライスラーもシボレーも、すっかり小型化してしまってホンダ、トヨタと見分けがつかなくなっており、いわゆる“アメ車"には遂に1台もお目にかかることが出来なかった。改めて気を付けて見れば走行中の乗用車にも“アメ車"を見かける確率はおよそ低い。小型化した“アメ車"は、徹底したリストラクチュアリングとリエンジニアリングによって lean and agile な体質を身につけたアメリカ産業界の象徴のように見える。

 

本日をもって、ようやく短くて長いミッション工程を終了した。本日が卒業式当日となるMITの学生と同様に、安堵感と一方で一抹の寂寥感を感じている。卒業式は両脇の通路に石楠花の咲き競うグレートドームの芝生の上で行われていた。芝生上にベンチが整然と並べられ黒マント(?)姿の卒業生達が列座している。記念スピーチはゴア副大統領とのこと。しかし声はすれども姿は見えずの盛況ぶりである。

 

MITの律儀と妖艶と社交性

 

早朝 8.15a.m. 我がミッションはノーベル賞受賞の Molina 教授を迎えることになった。メキシコ大統領の要請により急遽メキシコ出張することを余儀なくされ当方のアジェンダ(当所予定では6/3)を修正せざるをえなかったこともあってか、真摯な態度でかつ精力的に、短時間ながら密度の濃いプレゼンテーションをしてくださった。やはりノーベル賞は律義でないと受賞できないのか、などとつまらないことまで考えさせて下さるほどのお人柄ぶりである。続くプログラムはChoucri教授。「これがMIT教授?」と訝しく思う程お洒落で妖艶な女性教授だが話の内容にはさすがに説得力がある。そして、大詰めは宮川教授。気鋭のビジネスマンを感じさせるあかぬけた応対と低姿勢の受け答え。日本の財界に支持者が多いとうかがったが宜なるかなである。最終日に至るまでMITは多様にして多彩な教授陣を我々のために準備してくれた。Wrap-upでの Mr. Accardo言の「50 名もの教授陣を1企業(グループ)で動員したのは記録破り」なのも事実に違いないが、教授陣の数より質的な多様性に感銘を受けたメンバも少なくないはずである。「あらゆる角度からのアクセスにも応え得るMIT」を形の上でも示してくれたMITに対して改めて心強さを感じた。

 

オープンで自由な世界

 

ミッション活動の全行程終了後、東芝から MITに留学していて今回のミッションに現地参加した森さんに Media Lab. の内部を見学させていただいた。それぞれの研究室は閉鎖されておらず外部から素通し状態である。同行した正畑さんは東芝からコロンビア大学に留学していてミッションに参加したのだが、同じアメリカの大学でありながらMITがコロンビア大学とあまりに対照的に過ぎる程オープンなのに驚いていた。オープンな関係を外に向かって築くためにはまず自らをオープンにせねばならない。オープンシステムの時代の寵児WWW(World Wide Web)の推進体制がMIT内に根づいたのも故なしとしないようである。また、コンピュータ制御により玩具同士にダンスをさせる実験が行われている現場を目の当たりにした。現実の延長線上からは改革も発明も生まれない。非現実からの発想に Media Lab.は成果を積み重ねてきたのだろうか。一方に於いて実践的な問題解決を志向しながらも、一方では遊びの効用も忘れていないMITの懐の深さを感じさせるシーンであった。

 

ジョン万次郎の教え

 

近藤団長にご招待頂いたレストランでの慰労会でのことである。ウェイターがオーダーをとる時にサラダのドレッシングの好みを聞いた。いつもながら苦手な質問である。早口でよく聞き取り難い上に聞き取れたとしても、どれがどのようなドレッシングなのか選択できるだけの知識が乏しいからである。今回も「どうでもいいや」の心境で、ウェイターの口調を真似て「花魁でねえが」とくずれた日本語で答えた。後で考えてみればウェイターは "Oil and Vinegar"とか何とか言っていたのだろうが、この日本語が見事に"通用"したので一同ドッとなった。この一幕に「掘った芋いじるな」の話が続いた。これはジョン万次郎が帰国後漁民たちに英語で時刻をたずねる時に用いるように教えたという知る人ぞ知る言葉である。しかし、受験英語で育った多くの日本人にとっては、あくまでも "What time is it now?"であり、「掘った芋いじるな」の効用のほどについては半信半疑であった。そこで「花魁でねえが」の成功に自信を得て実験してみることになった。そこで早速先刻のウェイターを呼び寄せて"By the way, hotta imo ijiruna?"。するとウェイター、ごく自然な動作で腕時計を見て時刻を告げてくれたものだから一同「やった、やった」の大喜び。「読・書」中心の日本人の英語教育を「聞・話」へ重点をシフトすることの大切さを、はしなくもジョン万次郎ゆかりの地・ボストンで身にしみて実感した一幕であった。

1996年6月7日(金)

 

MITミッション'96の経費清算と書類・テープ類の仮整理を済ませて慌ただしくボストンを発ちワシントンD.C.に入った。さすがに疲れが蓄積しておりボストンからの機上も殆ど居眠り状態であったが、ホワイトハウスをはじめとする美しい建物が整然と立ち並ぶ緑豊かなワシントンD.C.に来て、ようやく頭の中に残っていたダルさが取れたような気がする。

 

旧来の米国人の友人カルロス・ピチャルドさん(元AT&T)と4年ぶりに再会した。同氏が現在勤務している Pocket  Communications 社は、AT&TばかりでなくMCIや Northern Telecom など電気通信業界のリーディング企業から要人を集めてPCS(Personal Communication Service)事業を展開している一種のベンチャービジネスである。移動体通信市場における勢力地図が決定しようという重要な時期にあり、旧来の大手通信事業社とベンチャービジネスとが市場参入をかけて鎬を削っている。

 

ピチャルド氏宅にはワシントンD.C.から45分程度のドライブで到着することができる。一見すると別荘地かと見まがう程の閑静な森と林の中に豪邸が建ち、テニスコートが 7-8 面も出来そうなその敷地には2頭のシェパード系のつがいの成犬と7匹の子犬が放し飼いにされている。住宅地の道路なのにハイウェイで時々見かけられる "Deer" の注意標識があり、現に早朝の散策中に自動車にはねられて死亡したと見られる子鹿の脚部を目撃した。日本で言えば、東京都心から見てさしずめ浦和あたりになるだろうか。文明から近いところに緑豊かな自然がある。アメリカというダムの包蔵水量はとてつもなくデカイ。

 

Telecommuting の時代

 

ピチャルド氏宅のファクシミリを拝借して、東京の事務所宛にアンケート原稿を送付して清書とコピー配布を依頼した。 ミッション'96参加者の体験直後感を得て今後のMITミッション活動改善のための参考情報とするためである。ピチャルド氏宅には執務室がありファクシミリの他にPCとプリンタが装備され E-Mail による交信もできるようになっている。滅多に訪問することのない米国人ビジネスマンの自宅だが、以前フロリダの米国人友人のアンダーウッドさんのお宅を訪れた時も同様の装備がされていたのを思い出す。この調子だと、SOHO(Small Office Home Office)の時代の到来が喧伝されてから久しい日本を差し置いて、いつの間にか米国のホワイトカラーの間では在宅勤務が常識化しているのかも知れない。ピチャルドさんは職業柄もあってか乗用車内からも移動体通信を多用して、本格的な Telecommuting の時代到来を身近に実感させてくれた。こんな表面からは見難いところでも日米のホワイトカラー間の生産性格差は確実に拡大しているようだ。

 

1996年6月8日(土)

 

ワシントンD.C.からサンフランシスコに飛び東芝アメリカ社サンフランシスコ支社の菊池支社長に会った。東芝アメリカ社の本社がニューヨークにあるので本社との行き来に長時間を要する上に本社地域との間に時差が4時間もあるので内部のコミュニケーションに難渋されている。しかも日本側からは「同じ米国内」と見られていて地理的な懸隔の問題が理解されていないので無理難題が持ちかけられがちであると聞いた。自分自身にも心当たりがあることであり些か耳が痛い。

 

「経営と情報」の格差

 

時差といえば以前にMIT教授から聞いた事例を思い出す。米国オハイオ州のT社がインド企業に発注し、24 時間フルタイム稼働体制を利して開発コスト 1/10 納期 1/2 でソフトウェアを開発したという話である。経度的にアメリカとインドの間の時差がフルタイム稼働体制のために最適であるという。衛星通信システムのような最新の情報技術を用いれば、グローバルな視点から優秀なR&Dリソースと経済的に協働することができる。情報化がグローバリゼーションを加速している。今や日本企業が気づかぬところでアメリカとアジア諸国の間にコンピュータ・ネットワークが張りめぐらされるというのが非現実的な話ではなくなってきている。

一方、日本でも情報技術活用度は進展してきているが国際的に見るとそのレベルは低い。移動体通信の普及率は、シンガポール、台湾の後塵を排して世界 12 位であるし、「人口当たりサーバ数」をインターネットの普及率指標としてみても、シンガポール、香港等より低く世界 23 位である。グローバルな視点から「経営と情報」を見直さないと、経済的な国際提携の機会を逸し、日本企業の国際市場での競争力が一層脆弱化することが危惧される。

 

これからはICの時代(?)

 

菊池支社長から「アメリカはこれからICの時代」と言うセリフを聞いた。この超LSIの時代に何故今頃ICなのか。訝る間もなく「I」が Indian で「C」は Chinese であることが判った。はしなくも、1ヶ月余り前に小職が新技術部会企画委員会のR&D視察で中国を訪れた際に中国の研究者達がインドをライバル視して対米アプローチに腐心している様子をあらわにしていたのと符合する。かつてはJJの時代と呼ばれ Jewish と並び称されていた Japanese にはもはや米国で活躍する舞台がないのであろうか。日本車にならって小型化したアメリカ車が象徴しているように、かつて日本のお家芸であった製造技術はアメリカの追随を許すところとなり、米国にとって日本から学ぶべきところは無くなっている。米国、アジア諸国とのより良きパートナーシップを築くために日本は何をなすべきなのだろうか。この2ヶ月間に偶々続いた中国と米国への出張により一段と危機感が募ってきた。徒に国内に視野を限ることなく、冷戦後の世界経済の構造変化を見据えて新たなお家芸を模索して編み出すことにしか活路はないのではなかろうか。海外を転戦するうちに日本人の体力でも使えるライジング打法を武器として取り入れて世界のトップに躍り出たテニスの伊達公子が良い手本になると思う。

 

1996年6月10日(月)

似て非なるもの

 

代休をとり、旅行代理店主催のパッケージ・ツアーに単独参加してヨセミテ国立公園に出かけた。サンフランシスコのセンターから金門橋を渡ってバスで Emeryville 駅に行き、AMTRAK の列車に乗って Merced 駅で降りると、そこでヨセミテ国立公園行きのバスがピックアップしてくれる手筈になっているという、なかなか複雑な行程である。AMTRAK で間違った列車に乗ってしまったら、Merced 駅で降りそこねたら、ピックアップのバスを見分けそこなったら、たちどころに軌道をはずれてOBとなり広大なアメリカの大地でロストボールとなってしまうこと請け合いである。そこで信頼に足る人物の後にそれとなくついて行こうと決め参加メンバより“ターゲット”を物色した。白羽の矢を立てたのは、如何にもアメリカ人といった中年の男性であった。この手のExcursion に慣れているらしく、いでたちもジャージのスポーツウェアの軽装である。身長も高く目印にするのには打ってつけである。この人選は正しかったようである。無事ヨセミテ国立公園にたどりつくことができた。ところが、帰途のピックアップの時刻をガイドが説明しているのに、この標的氏にはまるで理解できていない様子である。ガイドがただすと英語まるでだめのブラジル人だったのである。結果的にはとんでもない選択だったわけで目的地に無事到着できたのは幸運だったとしかいいようがない。なまじ外観がアメリカ人的だから英語が話せないことはアメリカで生活しているこのブラジル人にとって苦痛であろう。その点、外観からして英語がだめでも不自然ではないアジア人の方が余程気楽である。同じことは、日本人と風貌が似ていて日本語ができない中国人にとって日本よりアメリカでの生活の方がいっそ気楽だということになろう。中国人が日本の頭越しにアメリカに目を向けたくなる気持ちが良く判る。

 

1996年6月11日(火)

まさにアジアの時代

 

サンフランシスコ発のノースウェスト機中はアジア諸国語が飛び交い賑やかであった。小生の通路側の座席の左隣は若い日本人男性であったが、その左の窓際座席にはカンボジア人の女性が居た。その女性の友人と思しき女性がやって来て小生の斜め前の通路に立ち、我々二人の日本人の迷惑顔をものともせず、頭越しに声高にカンボジヤ語で長話。かと思えば、前の3座席には台湾系と見える中学生か高校生のグループが居て、同じグループの男女メンバーが行ったり来たり出入りして、何の屈託もなく楽しそうに談笑している。隣り合った我々二人の日本人の「機中で一眠り」はすっかり目論見倒れに終わってしまって、静かな自分達が何か場違いな存在であるかのような感じさえしてきたほどである。見回せば我々だけではない。日本人乗客は総じてアジア諸国語の不協和音の中で肩身狭そうに耐えているように見える。アメリカで自由闊達に活動するアジア諸国人の生活がそのまま機内に持ち込まれている感がある。まさにアジアの時代。アジア他国人は実に元気がいい。それに比して日本人は心なしか元気がない。

 

1996年6月12日(水)

 

中継地化の光景

 

長い空の旅を終えてようやく成田に帰着。Baggage Claim への道を急ぐ。飛行機から吐き出される人の流れに従って進むと、長蛇の列があったので思わず足を止め最後尾につこうとして気がついた。そこは Baggage Claim への出口ではなくアジア他国へのトランジット客の列だった。ノースウェスト機乗客の中にこんなにも沢山のアジア他国人が居たのである。しかも彼らは日本はトランジットするだけで米国から直接アジア諸国に行ってしまう。日本は彼らにとって単なる中継地にしかなっていないのである。現在はまだ成田がアジアのHUB空港として機能しているがアジア他国にHUB空港が移れば日本は中継地でさえなくなってしまう。「アジアの時代」はアジア他国と米国との関係を通して実現したのであり、日本はその構造の中に組み込まれていない。アジア他国からも米国からも敬遠されながら世界の孤児と化してしまうのではないか。そんな戦慄に似た予感をまざまざと感じた中継地化の光景であった。

 

「改善」から「改善」へ

 

「変化の時代」、「激動の時代」の表現は飽きるほど耳にし目にしてきている。しかし、今回現場に赴いてはじめて、些事の端々にまで臨場感をもって変化・激動の程を感得することができた。「激動」の背景には日本国内でよく用いられる「バブルの崩壊」の表現に感じられるような一過的なものではなく構造的なものがありそうである。「アメリカ産業の蘇生」、「アジアの時代」、「日本の低迷」等々といった現象はたどって行くと、「冷戦構造終結という歴史的な世界政治の構造変化がもたらした世界の経済構造変化」という本質に逢着しそうである。更にこの激動を加速させているのが「情報革命」であり、かつて蒸気機関の発明が産業革命を惹起したように、コスト・パフォーマンスを劇的に向上させた情報通信技術の発明が新たな産業革命を惹き起こし、新たな国際関係の形成を促進している。翻って顧みて、日本企業はこの激動の時代に対応すべくどのように自己改革を果たし、また、向後どのように変わって行こうとしているのだろうか。現状は斬新な活動を展開しているとは言い難く、歴史的激動期に実践すべき「改革」とは縁遠い存在になりきってしまっているように見える。「改善」レベルの努力にとどまることなく、企業運営の枠組み自体を再構築するほどの「改革」に踏み切ることが今求められているのではなかろうか。

1996年6月13日(木)

 

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