い わ き 便 り

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いわき便りPart1

 

勿来の関を越えて

 

3月末に東芝を定年退職してから、しばらく身の回りの残務整理をした後、4/21に妻方実家のある福島県いわき市に移転して来ました。四男一女の子供たちの家を順々と渡り住んでいるうちに心身の衰えが目立ってきた老義母には、実家で暮らして頂くのがベストなのではないかという判断がありました。そしてこれにお付き合いするのには定年退職を機会に「鳥のように自由になった」私と妻が移転してくるのがうってつけであるということになり、私どもの勿来関越えが決まったのです。基本的には、雇用保険依存の生活ですので、4週間に一度の藤沢市ハローワークへの出頭日前後を「帰省期間」を決めて辻堂との間を行き来しながら、日本語教師または翻訳士としての就業機会を探そうという算段です。

 

知られざる「いわき」

 

「いわき移転」の話をしますと、青森県の岩木山と間違えて「遠く寒いところまで大変ですね」と頓珍漢な慰めをうけることがたまにあります。これとは逆に、「ああ茨城県のね」と勝手に“首都圏内移転”を軽く考えられてしまうケースもかなりの頻度であります。確かに、行政区域的には福島県内で東北地区の一部なのですが、住民のもつ心理的な距離からすると東北地区の中心・仙台より首都圏・東京の方が近いように見え、東北地区の中では異端で、位置付け不詳のあまり目立たない土地柄であるように思えます。ですから、次のような話をすると、「えっ」というような顔をされてしまうことが度々あります。

     いわき市は仙台市に次いで東北で二番目に人口が多い都市なんですよ。

     いわき市の面積は日本一広いんだぞ。

     日照時間だって、いわき市は日本一なんだから。

 

本当に「平」なんです

 

福島県は、浜通り、中通り、会津地区と南北の縦割り状に三つの地域に分かれていて天気予報も別々になっています。いわき市は、太平洋側の浜通りに属しています。市の面積が広く人口が多いのは、いわき市が平、内郷、常磐、磐城、勿来の五市と周辺の町村が合併してできた市だからであり、この中の平地区がいわき市、ひいては浜通りのセンターに位置しています。海洋性気候のせいか、夜昼の寒暖の差が小さく、テレビで見る一日の気温変化を示す折れ線グラフが驚くほど「平」なのです。展望できる阿武隈山系の山々の姿も何ともなだらかで尖ったところがなく、いかにも「いわき市」の「平」仮名表記が似つかわしい広々とした地理的な環境にあり、結構市街地や住宅地に起伏はあるのですが総じて「平」な地形です。人々の話す言葉にも抑揚がありません。茨城・栃木に共通する「平」板アクセントで、この点でもいわゆる東北弁が優勢な会津、中通り地区とは同じ福島県でも違う文化圏なんだなと思えてきます。話し言葉に尖ったところがないのが象徴するかのように人々の心も「平」で穏やかなように思えます。

 

平周五郎の登場

 

私が居住している「自由が丘」は平地域の郊外部にあります。当初は何かと「不自由が丘」だったのですが、近場にある清貧生活にうってつけのショッピング・ポイントを覚えるに従って段々と居心地が良くなってきました。特に4/27「いわきニュータウンテニス倶楽部」に入会できてからは、早くも「住めば都」の心境になり、時として永住願望の気持さえ頭を掠めるようになってまいりました。素浪人の利点を活かして平日の鬼と化して週5回のペースでコートに通い、勝手に「平周五郎」なる異名を付けて一人悦に入っております。テニスコートの周辺は深い森で囲まれていて時折キジの声を聞くことができます。湘南地区より東に位置していて日の出時刻が早いせいもあって、起床時刻が更に早くなって3時半になりました。ですから、午前中10時半頃まで日本語教師または翻訳士になるための自己啓発の時間をたっぷりとって、弁当を携えてのコート通いです。空気清浄の中ですので昼飯のうまいこと。多少コート上の勝率が悪くたって…そう、平周五郎なかなか勝たせてもらえないのです。名前を変えようかな、もっと強そうなのに。

 

山の幸に海の幸

 

コートの周辺でワラビのほかタケノコも取れ何回もこれを弁当のおかずに供して頂きました。テニスクラブのオーナーは3年前の定年退職まで高校の英語教師をされていた薗部さんで豪農のお生まれです。何かと親切にして下さって、いつぞやはご自宅の山の竹薮に連れて行ってもらい、タケノコを採ってそれこそ山のように持たせてくださいました。こちらに来てから大好物のタケノコの食べ放題でしたのでササ大好物のパンダになったような気持になりました。また、こちらに移りたての頃にはお向かいの小林さんに採れたてのタラノメとワラビをお裾分けして頂いたこともあります。先日は小名浜で新鮮な中小アジを一箱500円也で買って来ました。何と72尾も入っており、刺身・塩焼・てんぷら・干物とアジのオン・パレードを楽しむことができました。お近くの釣好きな大越さんならお持ちしても迷惑になるまいとお裾分けしたところ数日して釣りたての見事なハナダイのお返しを頂き、とんだエビタイならぬアジタイをしてしまいました。清貧にして豊かな山の幸に海の幸。知られざる「いわき」はシルバー・リゾートの穴場と見受けました。

車社会の進展と「緑の桜」

 

たまにくる翻訳の仕事には、近くにあるいわき明星大学の図書館を使うことができます。慶応の湘南キャンパスをもう少し田舎っぽくした感じと言ったらいいでしょうか。ここも「平」で広大なキャンパスをもっており、日本の大学としては珍しい開けた雰囲気が感じられます。ここでは若者たちと並んで辞書をひもとく至福の時を過ごすことができます。先日は創業100年目にあたるという「大黒屋」が倒産しました。浜通りで唯一のデパートだっただけに地元に衝撃が走ったようです。車社会の進展で駐車も不便な鉄道駅の周辺が商業施設地域としては取り残されてしまったからなのでしょう。我が「自由が丘」も「いわきニュータウンテニス倶楽部」も「いわき明星大学」も常磐線いわき駅から常磐線に直交する形で小名浜に向かう鹿島街道にあります。最近はこの鹿島街道にそって商業施設の集積が進んでいるようです。小名浜にある海産物モール「ララミュー」もバス仕立ての観光客も含めて遠方からの買い物客でいつも大賑わいです(穴場・掘り出し物狙いの地元清貧族には無縁ですが)。車社会の進展は一方で、浜通りと会津・中通り地区との行き来も容易にしています。ゴールデン・ウィ―クには当地に来ていた次女と中通りの三春にドライブしました。当然桜の時期は終わっており葉に覆われた「緑の桜」を見るという初めての体験をしましたが、樹齢千年と言われる「滝桜」の樹容は見事なものでした。今後とも東西南北へ行動半径を伸ばして行くのが楽しみです。

 

                                                     (2001.6.17)

 

いわき便りPart2

 

二度目の夏がすぎて

 

さすがに東北の片隅だけあって、東京界隈とは4-5℃の温度差があるようです。この夏の盛りの日中に「30℃を越えて物凄く暑い」と東京のオフィスで勤務中の鳫義次さんに電話したところ「こちらは35℃ですよ。30℃になればこちらではむしろ涼しいと感ずる位なんですから」と私めの贅沢をたしなめられてしまいました。確かに「いわき」は涼しいし、にもかかわらず暑がる「いわきの人々」はなんて贅沢なのだろうと、私自身も昨年は思っておりました。しかし、この1年間半で、身も心もすっかり「いわきの人」になりきってしまったのでしょう。この夏は先住民たちと一緒になってしきりに暑がっておりました。しかしさすがに最近は朝晩が涼しく確かな秋の訪れを感ずることができます。老犬介護の一環として、早朝4時散歩を始めましたが、一頃より日の出の時間がずっと遅くなり、当たりは真っ暗で空にはオリオンが鮮やかに見えます。ショートパンツ姿では肌寒いくらいです。これまでは少しでも涼しいところを求めて臥せっていた老犬ポポ君も陽だまりに身を横たえるようになりました。

 

じゃんがら踊りの夏

 

じゃんがら念仏踊りは安土桃山時代に磐城国の学僧袋中上人が創始し江戸時代に名僧祐天上人が広めたと伝えられています。南無阿弥陀仏の六文字を節回しの面白い歌に変えて唄い踊らせ人々の心を「自安我楽(自ら安んじ我を楽しむ)」の境地に導いたというのが「じゃんがら」の名の謂れだそうです。「自安我楽」、いいですね。「清貧」の境地と近いものを感じます。地区の若い男女15名程のグループが浴衣に襷がけで、めいめいに太鼓や鉦を打ち鳴らして踊ります。自由が丘地区では自治会が取り纏めて、じゃんがら踊りの一行を招き今年新盆を迎える霊を弔います。8月15日夕刻、折からの土砂降りの雨のため公民館内で行なわれたじゃんがら踊りの弔い札の中に「千代操」の名前がありました。ちょうど1年前の2001814日に義母は他界したのです。享年84歳でした。私どもが移転してきた当初はボケがひどかったのですが、やはり我が家で娘と生活をしたのが良かったのでしょうか、暫くすると「あらっ、わたし、杖をどこにおいたのかしら」というセリフが目立って増えて来ていました。これは、ボケが進行して忘れっぽくなったと言うより杖無しでも歩けるまでに回復したということの証ですので、私達夫婦は移転してきて本当に良かったと喜び合っていたものでした。しかし、そんな矢先の緊急入院で、そのまま闘病空しく帰らぬ人となってしまいました。

 

東北の湘南

 

老義母の介護のため湘南の地・辻堂を離れて移転してきた私達にとって、その早すぎる他界は無念であるとともに、心に大きな空洞を開けるものでした。しかし一方で、その短い時間の中で、亡義母が何ゆえ当地いわきと我が家を愛していたのかが分るような気にもなっていました。“東北の湘南とも呼ばれる当地いわき市ですが、「湘南ボーイ」と称されるほどのシティーボーイ感覚を持ち合わせていない私にとっては東北の付きの方が馴染みやすいせいかも知れません。すっかりこの土地柄が気に入ってしまったのです。また、義母の葬式が終わってから、どこからかウィスキー用のアイスペールが取り出されていたのが見つかった時には胸が熱くなりました。皿に氷を入れて済ませていた私のために、緊急入院直前に義母が不自由な体で戸棚から探し出してくれていたのです。「こんなにまで私たちの移転を喜んでいてくれたのだ」と思うと、親孝行も果たせぬままこのままこの地を離れてはならない、義母の分まで当地いわきとこの家を愛し続けなくてはならないという思いが強くしてきました。

 

いわき湯どころ巡り

 

私たちがこの地を離れたら義母が愛していたこの家を人手に渡さなければならなくなってしまう。千代義教/操の四男一女の子供たち、孫たちが気楽に立ち寄れる拠点は何としてでも死守せねば。そこで、思い立ってなけなしの金を投じて、築後約30年で老朽化した家屋を改築することにしました。改修工事は、屋根の葺き替え、床の張替えに、台所・浴室・トイレのリフォームが伴うかなり大掛かりなものとなりました。さすがに浴室が使えない時期は不自由でしたが、災いを福に転じて、この機会にかねてやってみたかった「いわき湯どころ巡り」をすることにしました。よほどスパ・リゾート・ハワイアンズ(元の常磐ハワイアンセンター)のイメージが強いのでしょうか、「いわき」と言うと「山の幸に海の幸」に次いで「温泉」という言葉が返ってきます。自分も「温泉を語らずして“いわき”を語ることなかれ」という思いになっていましたので、この機にとばかりの夫婦揃っての「神田川シリーズ」となりました。

さはこの湯   三和ふれあい館  日本のブリスベーンより  天心の湯

この他にも、昨年8月、当時まだ東芝にいた恵畑耕造さんと菊地康夫さんが我が家を訪れてくださった時一緒に行った“市内の秘境”吉野谷鉱泉や、蟹洗温泉、神白温泉などまだまだ「いわき湯どころ巡り」のネタは枚挙の暇がないほどたくさん残っています。

 

優しく手強きアマゾネス達

 

しかし、何と言っても、いわきニュータウンテニス倶楽部がなければ、私のいわきに留まる決意は鈍っていたことでしょう。オーナーの薗部晃・千恵子ご夫妻のお陰でどんなにか私達夫婦のいわき生活の便宜が図られたことか。また、オーナーご夫妻のお人柄を受けて、メンバーそれぞれが親切で心優しいのです。しかし、一旦コート上に出ると、その親切さと心優しさは一変します。実質的に平日会員ですから、主婦メンバーが多いのですが、コート上ではアマゾネスと化し、なかなか素浪人・平周五郎に勝ち名乗りを挙げさせてくれません。特に同じ巳年(「私より3回り下」ということにしたら本人はお喜びでしたが)ながら、同じ巳でもツチノコ状でずんぐりむっくりの私とは対照的に長身ですらっとした後藤展子さんの伸びやかなフォームから繰り出すストロークは強烈でした。密かに「後藤コーチ」と崇め、フォームを真似ようと常々盗み見していたのですが、この夏ご主人の転勤で札幌に移転されてしまったのが残念です。現在は後藤さんに勝るとも劣らないほどの強打の持ち主である坂本美穂子さんをコーチとして崇めフォームの“窃盗”を試みているのですが、小柄で細身で時として鶴の姿を思わせるような優美なフォームはツチノコには真似ができず悩んでいるところです。ところで、いわきニュータウンテニス倶楽部にも「馬鹿」がいることを最近知りました。ひたむきにテニスの道を志すと言う点では“貴い馬鹿”で、道志倶楽部及び六馬鹿会と変わるところがありません。それぞれに良妻賢母振りを発揮しながら、ことあらばテニス遠征も厭わない江井由美さん、鈴木ひとみさん、藤田恵美子さん、前山修子さんに相川淑子さんを加えた5馬鹿女史連。近く行なう予定の道志倶楽部いわき分科会での“馬鹿対決”実現が楽しみです。

 

再び山の幸に海の幸

 

今年も、いわきニュータウンテニス倶楽部のお土産にタケノコを随分頂きました。昼食時にメンバーが持参してお裾分けしてくださる漬物、果物の類も実に時期折々で豊かですし、オーナーやメンバーのお取り計らいによって三和産の大豆を使った豆腐や平窪産のもぎたての梨を安価に入手することもできます。自宅で自生しているツクシ、フキや篠竹のタケノコを賞味することもできましたし、簡単な菜園を作って、獲れたてのエンドウ、キュウリ、ナス、トマト、ニガウリ、ミョウガ、シソを食卓に乗せることもできました。昨年の秋には、ラケットと釣竿をもって家を出て、テニスを終えた後に小名浜の岸壁に通って、良い時には15-16尾のアジを釣り上げ持ち帰って即調理するという日々も続きました。魚釣りを趣味としていますから、数時間前まで生きていた魚を食すというのは珍しいことではありませんが、数分前まで泳いでいた魚を食べるというのはあまりできるものではありません。暖流と寒流がぶつかる土地柄だけあって、魚屋さんの店頭に並ぶ魚種も実に豊富です。亡き義母が常々口にしていた「ここはカツオが美味しい」は中之作港の水揚げ。“いわきの魚”目光や、ドンコ、アンコウといった“非ビジュアル系”。寒流系のソイ、クロガラにアイナメ。これからのシーズンはサンマの刺身が気軽に求められるというのも「東北の湘南」ならではと喜んでいます。魚だけでなく貝も一念発起とばかり、魚類保護のための底引き網禁漁の時期には地元のホッキ貝が出回り、ホッキご飯、天ぷら、吸い物、刺身のホッキ・オンパレードが楽しめます。

 

バーチャル民宿ササキ1号客

 

我が家の改修に伴って「バーチャル民宿ササキへどうぞ」と繰り返し各所にお誘いの言葉を発しました。冗談の通じない向きから「佐々木さんは民宿を始めたのですか」と聞かれることもありましたが、もちろんリアルではなく、「民宿のつもりで気軽に我が家をお使いください」が真意なのです。しかし、バーチャル民宿はしばし開店休業状態でした。そこで、「北茨城からのハナダイ釣行」をコマセにして釣魚隊筋に誘いをかけてみました。これに早速アタリがあり、バーチャル民宿ササキ1号客が決りました。いざ意気揚揚と勿来関を越えてきたのは、吉武隊長に矢口ネット班長、清水ロッド班長、渡辺広報班長の釣魚隊三役。しかし、天気予報によると、台風の方も意気揚揚と北上中。嫌な予感は当たって、予定していた大越名人にご同行頂いての船釣りは断念せざるを得ず、夕方一刻の小名浜港岸壁でのアジ釣りで憂さを晴らすしかありませんでした。しかし、転んでもタダでは起きない面々。小名浜港近傍の魚屋さんでお「釣り」をもらって買ったヒラメ、マゴチ、ビンチョーマグロを、吉武隊長持参の出刃包丁と刺身包丁を駆使してさばいて超贅沢な刺身パーティーを開き、バーチャル民宿ササキは大いに盛り上がりました。贅沢とはいっても、ヒラメ、マゴチ、ビンチョーマグロ、合わせて5,400円、一人当たり1,000円強で食べきれないほどの海の幸を満喫できるのですから、まさに精神的な贅沢であり「これぞ清貧ではないか」とはバーチャル民宿ササキ店主敬白でした。

 

杜の都いわき

 

先日は遊びに来ていた次女の知子に誘われて「石炭化石館」にいってきました。忘却の彼方に去ろうとしていた炭鉱の現場状況を目の当たりにして、日本の産業の勃興を陰で支えてくれていたのが、この今でいう3K産業の炭鉱業だったのだという思いを改めて感じ、しばし感懐に耽りました。確かに、結婚したてにここを訪れた時には、まだ炭鉱の町の面影が色濃く残っており「グレイの街」という印象が強かったのを覚えています。しかし、最終閉鉱が26年前だったということですから、まだまだこの界隈には炭鉱労働者がご健在で実際の体験談に触れる機会もありそうだというのに、いわきの街はすっかりとグリーン豊かな土地柄に変身しています。当時のズリ山(当地ではボタ山と言っていなかったようです)にも草木が生い茂り、どれがそれであったのか分らないようになっています。杜の都と言われる仙台にも住んだことがありますが、ここはもっと緑が深く「杜の都仙台」は「杜の都いわき」に名義を変えても良いくらいです。緑が深いだけでなく近いこともあって、特に8月に入ると急に、ヒグラシの声が耳を聾するほどになり、時としてこれにホトトギスの声が混じって朝が始まるようなります。

 

平+白水=平泉

 

そんな自然に恵まれた立地に場違いのように、当地いわきには平安末期に建立された白水阿弥陀堂という国宝があります。いわき市は、奥州「平泉」の藤原氏から岩城氏に“降嫁”された場所柄だそうで、地名の「平」とともにこの「白水」も「泉」を分かち書きし「平泉」を取り入れたそうです。いわきと岩手の取り合わせが妙で、栄華を誇っていた「平泉」からなぜ「平」くんだりまでと思ってしまいますが、岩城氏は奥州の南の要衝に位置する有力豪族で、藤原秀衡が重要視していたそうですから、その娘徳姫の“降嫁”は一種の政略結婚だったんでしょうね。それで未亡人となった徳尼が、故郷を偲んで中尊寺金色堂を模した阿彌陀堂を建てたのでしょう。そして、これが福島県唯一の国宝なんだそうです。8月には、これも平泉の毛越寺の庭園を模したものと思われる阿弥陀堂の平安朝浄土式庭園の池に見事なピンクの蓮が咲き競います。私だったら、堂はどうでもよくて蓮の花を国宝に指定したいくらいです。もっとも、こんな文化音痴なことを言ったら“はすっぱな(蓮っ花)男”と蔑まれてしまいそうですが。

ノーブラ福島

 

さて、これから秋が深まって参りますと、グリーンの「杜の都いわき」は黄や赤の装いになります。市内をドライブしていても紅葉は随所に気軽に姿を見せてくれるのですが、昨年11月初旬に夫婦で早朝ドライブをした時には小泉サン並みの「感動した!」でした。いわき市の内陸部へ、磐越東線と交差し合いながら延びる41号線のドライブでしたが、ここは箱根や日光のようなブランド性のある土地柄ではありませんので道が空いていて、車窓から「日本の山里の秋」を存分に堪能することができます。後続車に何回も道を譲ってゆっくりとドライブしていますと、カーブの都度次々と趣の違った紅葉のシーンが展開し、夫婦揃ってWaaWooの歓声のあげ続けでした。「夏井川渓谷」、その夏井川に注ぐ「背戸峨廊」、そしてこれは厳密に言うと滝根町ですから惜しくも「いわき市OBライン」のちょい外になりますが鍾乳洞の「あぶくま洞」といった“ミニブランド”もあることはあるのですが、ここでも実は洞はどうでもよくて、41号線や、これもいわき市の海岸部と内陸部をつないで新潟県まで延びる国道49号線沿いの随所に見られるノーブランドの景観が清く美しいのです。国宝というブランド物がたった一つしかない福島県はノーブラで清く美しい

 

清貧の原点にて

 

有り難いことに、昨年末に東京で日経連がらみの国際IT研修の企画・コーディネーションに携わっている間にいわき地元企業のアルパイン(株)から日本語教育の仕事の話を頂きました。これにより、韓国や中国の若者たちとの接点が広がりました。みんな向学心に燃えていて目が澄んでおり純真に夢や希望を語ります。現在の日本の若者が失っていて、40-50年前の日本の学生がもっていたものを目の当たりにしているような気がします。現在の“教え子”は主に大連・瀋陽から来ている若手男女技術者ですが、人口は大連がいわき市の10倍を超すのに対して物価はいわき市が大連の10倍見当だそうですので、金銭的に楽ではなく日々質素な生活をしております。しかし、貧しくともいじけずに一途な彼らの姿は如何にも美しく清清しく映ります。まさに”Teaching is Learning.”であり、「清貧の原点はここにあり」を“教え子”達から教わっているような気がしています。ノーブラ福島の地に、かつての日本人が立っていた清貧の原点を見つけて、「いわき便りPart3」の序章をスタートさせようとしております。

 

(2002・9・11)

 

いわき便りPart3

 

2003年新年のご挨拶

 

明けましておめでとうございます。

平素は、生来の筆不精に加えて、「本家の湘南」辻堂を離れ「東北の湘南」いわきに居住しておりますために、ご無沙汰の限りを尽くし、大変心苦しく存じております。この年末年始も、両「湘南」間を行き来して慌しく過ごし、ようやく一段落したところです。

この4月でポスト東芝ライフ3年目を元気に迎えようとしておりますが、お陰様で元気でおります。素浪人が内職でする寺子屋教育さながらではありますが、外国人技術者十数名に対する日本語研修に携わっていて、「教えることは学ぶこと」を実感しながら、日々新鮮な緊張感を味わっております。また、時には、翻訳の仕事が入ってきて、創作の苦しみと喜びを感ずることもできます。また、日中は週5回のペースでテニスクラブ通いも続けておりますので、貧しいながら心豊かで、まさに清貧の暮らしを享受しており、すっかり「東北の湘南」に居着いてしまいました。何もかも、学生時代及び東芝在籍時代以来の皆々様のご支援の賜と厚く感謝致しております。

ここ「東北の湘南」いわきは、何もない退屈なところだと思っていたのですが、住んでみると、なかなか良いところです。昨年末には、首都圏地区から旧友が多数訪れてくれたのですが、私自身「添乗員」として応接しながら「知られざる福島県いわき」の色々な面を発見することができました。その時の模様を「勿来ようこそ」と「いわき分科会」のレポートに取り纏めて、本日マイホームページに掲載致しました。文字ばかりで読み難いホームページですが、以下のURLで流し読みして頂ければ「清貧の郷いわき」の概要をご理解頂けるのではないかと思います。

   http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/kiguukai2.htm#B0201

   http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/Doshikurabu3.htm#B00501

少なくとも、来年の3月までは当地に留まる予定にしておりますので、どうぞお気軽にお越し下さい。来年の今頃、皆様のご来訪の模様がマイホームページでご紹介できますよう楽しみにしております。

なお、本日同時に「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」を取り纏めて、マイホームページに掲載致しました。これも文字ばかりで読み難いホームページですが、少しは皆様のご旅行計画のお役に立つところがあるのではないかと思っております。以下のURLで併せてご笑覧いただければ幸いです。

   http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/CanadaAmericaDrive3.htm

先ずは以上、お年賀とともに、近況をご報告させて頂きました。

末筆ながら、本年が皆様にとって一層素晴らしい年となりますようお祈りいたしますとともに、倍旧のご交誼とご支援を下さいますよう心よりお願い致します。

草  々

            2003/1/5  福島県いわき市より 佐々木 洋 拝

 

本家・湘南からの使者達

 

現在の東芝ライテック(株)の前身である東芝電材(株)の本社が三田国際ビルにあった頃、私を含めて、東海道線「辻堂」から通う者が多かったので、これをサークル化したのが「湘南中央会(略称:湘中会)」でした。勝手に「辻堂が湘南の中央である」と宣言したのですが、「たまには焼酎(ショウチュウ)でも飲みながら…」という意味合いを込め、略称として「湘中会」を付けたかったというのが本音のところでした。

最近は、年末恒例の「湘中会忘年会」を開く他は、雑喉康祐会長からの「たまにはチクっと如何ですか」というお声掛かりで少数メンバーが集まる程度なのですが、「蝦夷地探検隊」が結成されたのは10月17日に辻堂の小料理店「小福」で開かれたそんな“チク分科会”がきっかけでした。雑喉会長が多忙な現役には遠慮してお声掛けされていませんので、“チク分科会”の常連は私も含めた“退役軍人”が主体となることになり、当日も小野孝樹さんと菅野治夫さんが参加メンバーでした。以下のメールは「お礼&お詫び&お誘い」と題して、雑喉、小野、菅野の「湘中会年寄りトリオ」に宛てて送信したメールです。

 

先日は、タイミング良く、「湘中会チク分科会」をご設営頂き有難うございました。にもかかわらず・・・、宴たけなわにもかかわらず、途中で家人に拉致されるという不埒なところをお見せしてしまいました。恥じ入り恐縮しつつ心よりお詫びいたします。

結局は、酎の場を中座したものの、後遺症を翌日に持ち越してしまい、ついに早朝出立によるワカサギ釣りは実現することができず、なんとも酎途半端で埒の明かない仕儀となってしまいました。やむなく山中湖畔で獲れたてのワカサギを売っている魚屋さんを探して“釣っていって”ようやくテニス合宿での「ワカサギてんぷら奉行」の“職責”を全うすることができました。

10/18-19の道志村テニス合宿の後で山中湖に戻って、今度は本当に自分でワカサギを釣って帰り、翌日の10/20が嘉悦での講義と大河内ゼミ仲間との飲み会。ようやくこれで“死のロード巡業”を終えて、昨日ようやくホームに帰還し、夕刻寺子屋日本語教室を済ませて一段落したところです。

「湘南」を看板に掲げる以上は、“東北の湘南”といわれる当地で「湘中会いわきチク分科会」を開催しないというのでは片手落ちというものです。幸い、バーチャル民宿ササキには、4名様までは寝転がるスペースがあります。「酒はうまいしネーチャンは綺麗」はあまり期待できませんが「魚はうまいし紅葉は綺麗」な秋が特にお勧めです。

民主党が政権をとるまでは高い高速道路代(片道合計7,500円位)を払わなければならないのが難点ですが、3−4人で割り勘すれば経済的ですし、回数券を使えば高速バスで東京駅から片道2,750円でお出でいただくことができます。ノー宿泊費、ロー・ゴルフ料金を勘案していただければ絶対にモトが取れるのではないかと思います。菅野さん、小野さんとお揃いで勿来関を超えてお越しください。秋刀魚の刺身、鮟鱇鍋が皆さんのお出でをお待ちしております。

                                       草  々

2003/10/22 いわきに帰還して 佐々木 洋 拝

 

そんなこんなで11/19-20実現したのが本家・湘南からの使者達による「蝦夷地探検」で、先ずは、バーチャル民宿ササキ(VMS)へのご来訪です。仙台出身で仙台での勤務歴も長い菅野さんにとっては、40年前に出張して以来のいわき入りです。VMSで供した地元の銘菓「じゃんがら」に「本当に懐かしい!」と涙を流さんばかりの感動振りでした。「食い物の恨みは恐ろしい」と言われますが、食い物の喜びもいつまでも残っているものなんですね。翌日、昼食を摂りに訪れたレストラン「メヒコ」でオーダーしたカニ・ピラフにも「昔と少しも変わっていない!」とご満悦の様子でした。一方、山形出身の小野さんも来訪歴があるとのことで、一層の「東北の湘南」シンパになってくれそうです。

 

蝦夷地探検による2日間にわたる「いわきならでは」の探検行程は以下のよう「海・魚・湯シリーズ」になりました。

・海…海岸線ドライブによる現地検証によって、「本家・湘南」からの探検隊として「東北の湘南」の認証を行なう。ついでに、塩屋崎の美空ひばりの歌碑の前で「乱れ髪」を熱唱する。また、水平線を眺め、「地球は丸いんだ」と確認しながらシーサイド・レストラン「マユール」にてネパール料理。この「マユール」は、私が勝手にテニス・コーチとして私淑している坂本美穂子さんのお姉さん夫婦が経営しているお店で、オーシャンいわきの眺望とヒマラヤの味覚との不思議なフュージョンを楽しむことができます。

・魚…小名浜の魚屋で自分達で見立てて好きな魚介類を買い漁ってバーチャル民宿ササキ(VMS)にてタラフク食す。魚ばかりでなく卵までイクラ・ウニ丼にして食っちまう。魚介類じゃないかもしれないがレストラン「メヒコ」の絶品カニピラフも堪能。お帰りには「ララミュー」で海産物のお土産も調達でき家庭の円満にもつながる。VMSでの酒はもちろん、鮭の天然遡上の風景を見て酒の肴にするサケサケ・サカナサカナ・プラン込み。

・湯…「いわき七浜」ラインのドライブをして、楢葉町・木戸川の鮭簗場(天然の鮭の遡上現場)の観光をした帰途に、いわき/浪江線林間ドライブの途中で「大滝」に立ち寄り、薬湯の露天風呂に浸かる。鮭遡上も紅葉も時期的にtoo lateかと思いましたが、木戸川にはまだかなりの残り鮭がいて、猟師が投網を打つたびに2−3尾とかかって銀鱗を踊らせ探検隊員の歓声を誘ってくれました。「大滝」の木々も赤と黄の華やかや装いで探検隊を迎えてくれました。大滝旅館の露天風呂から見下ろす浅見川渓谷の紅葉絵図は絶品でした。「大滝」とは名ばかりで、小さくてこじんまりとした滝ですが、滝壺のほとりに立って見た姿は錦の彩りを背にした清冽なものでした。

 

2004年新年のご挨拶

 

明けましておめでとうございます。首都圏より多少朝の訪れが早い「東北の湘南」で新年を迎え、景勝地・塩屋崎に出かけて初日の出を撮って参りましたので添付メールにてお送りします。これで、私も写メール族の仲間入りです。新年のご挨拶とともに、本日をもちまして私のモバイル・コンタクトがPHSから以下のケータイ・アドレスに変わりますことを先ずご案内いたします。

090−6545−7496

 

先年中は、平素ご無沙汰の限りを尽くし、大変心苦しく存じております。しかし、皆様より永年にわたって頂きましたご厚誼のお陰をもちまして、充実した1年を過ごし、無事新年を迎えることができました。新年に当たり、感謝の念を込めて以下の通り近況をご報告させて頂くとともに、本年も倍旧のご交誼を下さいますようお願いいたします。

 

昨年末は、大学非常勤講師、日本語教師、似非浮世絵師の三“師”で「師走」の真似事をして、大層忙しぶって過ごしました。なかでも、昨年4月から毎月曜日に上京して行なった嘉悦大学(花小金井)でのTT講座は、慣れぬことでもあり、準備に講義に、大きな生活部分を占めることになりました。私の38年間にわたる企業人体験によって得た知識や考え方を若者達に少しでも役立ててもらいたいという一念からお引き受けしたのですが、なにぶん日進月歩の領域ですので、多くの方々に教えを乞いながらの授業でした。まさに「教えることは学ぶこと」なのだと実感いたしております。テキストは、このようにして学びながら書き下ろして準備しました。以下のURLのマイホームページに掲載しております。お目通しの上、コメントや校正指導等を頂けましたら、一層学び教えることに大いに役立ちます。忌憚のないご意見をお寄せ頂ければ幸いです。

   前期「インターネット・ビジネス論」

        http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/InternetBusiness.htm

   後期「コミュニケーション・メディア論」

 http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/CommunicationMedia.htm

 

日本語教師は、江戸時代に素浪人が内職でしていた寺子屋教育さながらの小さな規模のものです。主体は、2002年4月に来日した中国人技術者に対するものであり、火曜日から金曜日まで連日夕刻の2時間(時として3時間)はこれに費やすことになりました。東芝の同期生で韓国在勤経験のある友人が「日韓間にはオリンピック開催時期の差(東京1964:ソウル1988で24年間)ほどのタイムラグがある」と申しておりましたが、この仮説はそのまま日中間にも当てはまるのではないかと思っています。仕事を終わった後にもかかわらず目を輝かせて日本語レッスンに臨む中国人の若者達の姿を見ていますと40余年前(東京1964:北京2008)の「アメリカに追いつき追い越せ」と目を輝かせていた私達の学生時代の日本人の姿が彷彿としてきます。中国人留学生達からの熱心な説明攻めに遭ううちに、私自身が日本語に対する新たな気付きを与えられたことも何回もありました。ここでも「教えることは学ぶこと」を実感したわけですが、このような未熟なヘボ教師であるにもかかわらず、向学心が強い教え子達の成
長は著しく、中にはJITCO(日本国際研修機構)主催の海外研修生作文コンクールで最優秀賞を受賞する者さえ現れるほどになりました。しかし、そんな彼らも、春一番が吹く間もなくやがて大連に帰っていってしまいます。その後に残された心と時間の空洞を如何に埋めてゆくかが今年の課題の一つになっています。

 

例年のことながら、年賀状用の木版画制作のため、似非浮世絵師は多忙な年末を過ごすこととなり、つい昨日の大晦日の正午まで手を絵の具で汚しておりました。今年の年賀状には、モチーフとしてミニカトレアを選びました(恥ずかしながら、この解説なしには金輪際それと分からぬお粗末な出来栄えですが)。花姿が美しいだけではなくて、その花言葉が「恥じらい」だったからです。現在の殺伐たる内外の情勢は、この「恥じらい」の心がかけていることによるところが多いような気がしています。軍事大国のアメリカ、経済大国の日本、それぞれの首脳に少しでも「恥じらい」の気持ちがあれば、世界の情勢も日本の将来も違ったものになったようになったと思えてなりません。自分自身の驕る気持ちを自戒するとともに、国際平和への願いを込めた似非棟方志功の心をお汲み取りください。どうぞ、皆様にも実り多くて平和な1年となりますように。

 

千客万来だった一昨年に比べますと数は減りましたが、それでも何人か昨年も勿来関を越えて「東北の湘南」を訪れてきてくださいました。それぞれ口々に「いわきがこんなに良いところだったとは思わなかった。佐々木が住み着いてしまう理由が分かった」という趣旨の感想を残されています。新鮮な海の幸と山の幸、温泉もあれば紅葉狩りもあり、テニスやゴルフを楽しむ環境もあります。どうぞ、だまされたと思って(?)一度“現地査察”においでください(バーチャル民宿「ササキ」店主敬白)。

草  々

    2004/1/1  福島県いわき市より 佐々木 洋 拝

 

若鳥たちの北帰行

 

日本に飛来してきて冬を過す渡り鳥たちは春一番の頃から吹き始まる強い南風に乗って北へ帰るのだそうです。2002年4月に来日した当初は、慣れない日本語環境でおどおどしていて幼鳥のようであった中国人研修生達も技術研修を積んで逞しい成鳥に育ち北帰行の時を迎えました。この間、我が家にも何回か訪れてきてくれていますので、家内も夫婦間の間で時折、我が子に対するのと同じように、「あの子達」と口にするほど親しくなっています。初来宅の時には満足に日本語会話が成り立っていなかったのに、最近ではほとんど日本人同士の会話と同じように聞こえ、家内もかなり難しい日本語を平気で使っています。ですから、私たち夫婦にとって、若鳥たちの北帰行は、巣立ちを迎える親鳥のような思いのするものでした。

上の写真は、新年会兼送別会(1/4)で、李旭さんが撮ってくれたものです(左から、石磊、欒峻、霍秋虹、潘冬潔、私、劉雪晶、家内、邵飛、張王番の皆さん)。沿海の都市・大連から来ている若者達にとっても「いわき七浜」ラインの海岸線ドライブで見た“マリーンブルーいわき”の海浜風景は感激ものだったようです。更に、四ツ倉(限りなく新舞子に近い)のシーサイド・レストラン「マユール」で昼食を摂った後、楢葉町天神岬の「天神の湯」の水平線を見渡しながらの露天風呂入浴で“いわき湯どころ”を体験してから、いわき/浪江線に回って途中で立ち寄ったのが写真の「大滝」(“小さな大滝”が彼らのつけた名称)です。帰途の林間ドライブでは、往路の海岸風景とは打って変わった“農村いわき”の光景を目の辺りに、常々口にしていた「いわきは大連より緑が多い」という印象を更に強めてもらうことができたのではないかと思っています。

そして、1月17日、まだ春一番も吹かぬ日に、若鳥たちは機上の人となり、大連の空へ向けて飛び立っていってしまいました。思えば、私が当地いわきに居着いてしまったのも、この清くて明るい中国人の青年達との出会いに恵まれたことが大いにあずかっています。言ってみれば、大連からの若き使者達が私たち夫婦にとっては相当に多きな「いわき市の一部」になっていたわけです。まだ行ったことのない大連の街をあれこれと想像しながら、「あの子達は今ごろ…」と思いをめぐらせて、ポカリと空いてしまった心の空洞を埋めようとしている昨今です。

 

日本のモントレーに日本のペブルビーチ

 

「本家・湘南」からSGTCのイワキ先遣隊が来訪したのは2月14−15日のことでしたSG本隊の派遣を望む」)。一行の「ゴルフ+温泉」のための拠点候補とした「小名浜スプリングス ホテル&ゴルフ倶楽部」は、長く南北に伸びる小名浜港の最南端にあるヨットハーバー「いわきサンマリーナ」に続く岬の上にあります。岬から少し離れた沖合には、岩肌がむき出しになった箱状の離れ小島「照島」があって、その足もとを太平洋から打ち寄せる波が洗っています。この島は天然鵜の生息地だそうですが、ヨットハーバーができる前の「照島海岸」も日本一砂が細かい“鳴き砂の浜辺”として知られていたそうです。私たち夫婦が下見に小名浜スプリングスを訪れたのは2月7日。折からの雲ひとつない晴天で、まさにサンシャインいわき。クラブハウス兼ホテルの総ガラス張りの喫茶ルームからは、フィニッシング・ホールと、群青の光る海、水平線を背に孤立する照島が一望できて、まさに一幅の絵でした。ゴルフ・コースの謳い文句に「福島県いわき市の太平洋に面して積雪もなく一年中プレーできる海沿いのコースです。海岸線がコース沿いに1.6kmもあり、冬暖かく、夏涼しい所で”東北の湘南”と呼ばれております」とありました。また、クラブハウスからは見えないのですが、海越えのホールが二つあると聞いていたのでペブルビーチのようだと思っていたのですが、果たして「西海岸の“ペブルビーチ”をイメージした本格的なリンクス」という触れ込みもありました。以前に道志倶楽部いわき分科会が訪れた塩屋崎は、小名浜港を挟んでこことは反対の北側にありますが、そこで渡辺ナベ彦兄が絶句した「これは“日本のモントレー”ではないか!」をここでも実感することができました。

 

清貧のゴルフ

 

いわきニュータウンテニス倶楽部が、毎週月曜日がお休みなので、月曜日は有志が集まって市営コートでテニスをしていた時期がありました。市営コートの“地元民”である私とともに積極的にコート取りをしていたのが、相川淑子さん、奥山弘子さん、それに鈴木ひとみさんで、いずれも何くれとなく私に親切にして下さっていたメンバーです。ところが、この“佐々木親衛隊”(おこがましくも自称しているだけなのですが)が、それぞれご主人の転勤で次々と当地いわきを去ってゆくことになりました。先ず、三人で八戸に去る奥山さんの送別会をした後、昨年の夏には相川さんが仙台に移転していってしまい、今度は毎年のように転勤を口沙汰にしていた鈴木ひとみさんの須賀川への移転が本決まりになったのです。なんと、いわき市新参の私が三人を追い出してしまったような形ですので、倶楽部で「佐々木さんに親切にすると、いわきに住んでいられなくなるわよ」という冗談が交わされるような羽目になってしまいました。

 

さて、鈴木ひとみさんの送別会をどのような形でしようかと迷っていたところに、声を掛けてくれたのが鈴木紀子さんでした。「ひとみさんの送別ゴルフをするんだけど、佐々木さんも仲間に入りませんか」というお誘いでした。しかし、私は「ゴルフは清貧の生活に似合わない」と決め付けてバッグに封印してしまっています。金輪際、華美で贅沢な遊戯はすまいと堅く心に決めて。ところが、「男子に二言なし」と頑なに構えていた私は、鈴木紀子さんの「バイキング形式の昼食付きでワンラウンド5,500円」の一言で大きく揺らぎました。ゴルフは二の次で、昼食送別会をゴルフ場でするつもりになれば良いのではないか。そこで、もう一人のTG(Tennis & Golf)プレイヤー中由美子さんを加えて実現したのが2月25日、塩屋崎カントリークラブ・ラウンドの場でした。何しろ、「今どき金属製スパイクのシューズを履いている人なんていませんよ」と笑われて慌ててソフトスパイクのシューズを買い求めてきたほどですから、7−8年間はゴルフ場にご無沙汰だったということになります。練習らしい練習もしていなかったので、ひたすらTG女戦士3人に迷惑を掛けすぎないようにと念じながらのラウンドでしたが、久方ぶりのゴルフの楽しさもなかなかのものでした。清貧の地いわきには、こんな清貧のゴルフもあったのだ。今後の私のいわきライフに「ゴルフ」の1アイテムが加わりそうです。塩屋崎カントリークラブは手入れが行き届いている上にフェアウェイも広く、“ゴルフ界復帰”の私を温かく優しく迎え入れてくれました。

 

愛犬ポポの死

 

AT&Tにお勤めの頃からお付き合いいただいていて、現在はフロリダはフォートローダデールにお住まいのアンダーウッド(旧姓・沼口)睦さんは、「うちの猫なんか、きっとものすごい徳のあった人の生まれ変わりじゃないかと思います」という面白い表現をされています。言われてみると、我が家の愛犬・小柴のポポも、「きっとものすごい徳のあった人の生まれ変わりじゃないか」と思えるほど、温厚で我慢強く、時として品格さえ感じさせてくれるワンちゃんで、我が家の娘達が未だ小学生だった頃に妹の家から引き取って以来、すっかり家族の一員になりきっていました。幸い、自動車に乗るのも好きでしたので、3年前に私たち夫婦が「本家・湘南」の辻堂から「東北の湘南」いわきに移転してきた後に両湘南間を行き来する際には、進んで後部座席の“指定席”に乗り込んできて、ともにドライブを楽しんでいるかのように見えました。そして、両方の家の来訪者と隣人の皆さんにも「ポポちゃん、ポポちゃん」と可愛がられていたのですが、この3月10日に享年約18歳(血統書が見つからないので正確な年齢は不詳です)で息を引き取りました。“ドッグイヤー”とも言われ、人間の1歳が犬の6−7歳に相当するそうですから、人間の年齢に換算すれば、2度目の還暦を迎えるほどの超高齢で天寿を全うしたと言えるんじゃないかと思います。年をとるのが早い分、老いによる衰えが進むのも早く、目が見えなくなくなるかと思うと、ついで耳が聞こえなくなり、足も衰えて歩行もままなくなってきていました。

 

心臓が衰えていて、そのために呼吸が困難になり、喉に何かがつかえているような苦しそうなしぐさを繰り返していたのもつい23ヶ月前のことでした。獣医の先生にいただいた薬を飲まないので、缶詰ドッグフードにまぶしてやっていましたが、あの時のポポの貪るような食べ方は忘れられません。健康本位で(そして、実際にこれが長寿の一因になったと思っているのですが)、来る日も来る日も同じ固形のドッグフードを食べさせていた私たちは、「あー、本当は美味しいものが食べたかったんだ」と胸を詰まらせる思いがしました。薬の効果は現われて、息苦しそうな吠え声は止まりましたが、その代わりに寝ている間も「ワン」という優しい吠え声を断続的に発するようになり、体が日に日に痩せ細ってきました。そして、ついにあの大好きだった缶詰ドッグフードどころか、水さえも摂らなくなってしまいました。今から思えば、自分の死期を知っていたのかもしれません。例の吠え声がひとしきりした後で珍しく「ワンワン」という続いた声を発したのが最期だったのでしょう。11時少し過ぎ、テニスに出かけようとして階下に下りて行った時に、玄関で動かなくなっているポポの姿を見つけたのです。本当に高徳犬に相応しい穏やかで静かな死でした。「優しい言葉で吠えていたのは、この世で可愛がってくれた人たちにお礼を言っていたんですよ」と、同じようにペットを亡くした友人達が言ってくれました。実は、翌日の11日にどうしても夫婦で辻堂に戻らなければならない用件があったので、「万一移動中に息を引き取ることがあったとしてもやむを得ない。一緒に連れて行こう」と決意していた矢先のことでした。何か、そんな気配を察して「迷惑を掛けては申し訳ない」と気遣いをしたかのようなポポの急逝でした。翌日の辻堂行きは“指定席”にいるべきものがいない寂しい限りのものとなってしまいました。

 

ポポは今、気に入ってくれた「湘南の東北」いわきの我が家の庭の陽春の陽だまりの土の下で眠っています。今年の庭の梅は例年になく花を一杯につけて香っていましたが、これがポポの見納めになってしまいました。これからは、ポポのいない桜のシーズン。河口恭吾クンの「桜」の一節が口をついて出てきます。♪♪♪僕がそばにいるよ 桜舞う季節かぞえ 君と歩いていこう♪♪♪愛犬ポポの死によって、また一層いわき永住への思いが募ってきたようです。

 

(2004・3・31)

 

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