インターネット・ビジネス論


第3課 インターネット前夜の状況 

3-1.マーケット・インの今昔

“ Big Blue”と“Bigger Blue”

東芝に入社して以来20年間あまり、国内ビジネスしか経験したことがなかった私がアメリカのAT&T社との提携事業にかかわるようになったのは1985年のことでしたから、まだまだTQC王国・日本の華やかなりし時でした。しかし、当時から、こと情報通信に関してはアメリカの技術のレベルの高さに一目置かざるを得ない状況にあり、東芝は、既に日本市場進出を果たしていたIBMと双璧をなすAT&Tと組んで日本の情報通信システム市場における地位を高めようと目論んでいたのです。会社のロゴ・マーク(*)が同じブルーであるところから、“ Big Blue”と呼ばれていたIBMに対してAT&Tの要人が自社を“Bigger Blue”と称してライバル意識をのぞかせていたのを思い出します。
(*) ロゴまたはロゴタイプとも言う。会社名・商品名などを独特の字体・デザインで表したもの

<こぼれ話>

二日間連続のニュース種

「AT&T」は、American Telephone & Telegraph で、日本のNTT(Nippon Telegraph and Telephone)のようなものですが、自らの工場で製品を設計・製造しているところがNTTと違っていました。また、当時は分割前でしたので、従業員規模55万人という超大企業でした。当時、東芝とAT&Tとのビジネス折衝は大きな注目を浴びており、PBX事業連携契約は、全国紙はもとよりNHKテレビニュースでも報道されたほどでした。

私は東芝側の窓口をしていたのですが、PBX契約前日に「東芝ビル・かにピラフ中毒事件」に遭遇してしまいました。39階建ての東芝ビルの社員食堂で食べたかにピラフの中毒にやられて、生まれてはじめて救急車に乗せられる羽目になってしまったのです。たくさんの救急車が中毒患者をピストン輸送して大変な騒ぎで、これもテレビニュースで報道されてしまいました。ですから私は二日間連続してテレビニュース種になる出来事に関わったことになります。

プロダクト・アウト

そこで、アメリカ市場でナンバーワンの地位を誇っていたAT&T製デジタルPBX(構内交換装置:Private Branch eXchange)System75の日本導入が始まったのですが、実際にアメリカから輸入されてきたPBXは過去にイタリアに輸出された「国際版System75」に日本流の仕様を加味した製品でした。当時、日本の自動車会社はTQCのマーケット・インの考え方に基づいて、米国市場に進出するのに当たってとっくに左ハンドルの「米国版」を開発し輸出していたのに対して、アメリカの自動車会社は右ハンドルの「日本版」を準備することなく“アメ車”で日本市場進出を図ろうとしていました。ですから、AT&T製デジタルPBXの日本市場進出の仕方は、基本的にはアメリカの自動車と同じプロダクト・アウトの考え方によるものだったと思います。
プロダクト・アウトの具体例

企業・学校などの構内の電話交換に用いられる「PBX」に対して、NTTなどの通信事業者(コモンキャリア)
の電話局で用いているのは「局用交換機:CO(Central Office) Switch」と呼ばれます。この局用交換機を通じてかかってきた電話がPBXで切り替えられて宛先の電話機の呼び出し音がなる仕組みになっています。ところが、日本に導入されてきたAT&T製PBXの呼び出し音は、米国式の「1on 4 off方式」(1秒間鳴って4秒間休む)のままになっていて、日本で一般的な「1on 2 off方式」とは違うものになっていました。個人個人の執務デスクがパーティションで区切られていて一人一台の電話があるアメリカのオフィスでは問題がないのですが、グループごとに席を並べ、複数の従業員が複数の電話機を共有する形が一般的な日本では、どの電話機の呼び出し音が鳴ったのか判断できないケースがよくあります。そんな時に「1on 4 off方式」ですと、4 offの後に再び呼び出し音が鳴るのを待たねばならず、電話をかけた人にも受ける人にもイライラ感を募らせてしまいます。これも “アメ車”と根が同じのプロダクト・アウト」の具体的な一例でした。
市場規模の格差

しかし、そのPBX合同事業に従事しながら私は、米国企業の日本市場進出はプロダクト・アウトにならざるを得ないのではないかと考えていました。日本企業が、日本より遥かに市場規模が大きいアメリカに進出する場合には「米国版」製品を開発しても採算が取れる可能性が高いのですが、逆の場合には採算性の確保が制約条件になるだろうと思われたからです。具体的に市場規模の日米間格差を、人口を指標として換算すると、日本とタイとの間の格差に相当することになります。日本の企業がタイ市場に進出する場合に「タイ版」製品を開発して輸出するかどうか考えてみるとこれは自明の理であるように思えました。
高次元なマーケットイン

ところが今や、アメリカのデルコンピュータ社が先鞭をつけて、市場規模の大きさに依存して大量生産が行われていた自動車やPBXなどより遥かに製品単価が安いPCまで受注生産・販売される時代になっているので、まさに今昔の感がしています。CRM/SCM統合システムを実現させたインターネットを中核としたTTの革新が業務プロセスを抜本的に変え(BPR)、TQCのマーケットインの考え方をはるかに高いレベルで実現するに至ったのです。「TT革命」の具体的な局面をここにも見ることができます。
「受注生産」とは受注の都度顧客からの要求仕様に合わせて100%カスタマイズして個別に生産する方式で、東芝では単価の高い発電機などの重電製品の生産がこの代表例でした。これに対するのが比較的に単価の安いテレビなどの家電製品で代表的に採られていた「仕込生産」方式であり、量産効果による製造コスト引き下げを狙って、予め立てた販売計画に合わせて大量生産する方式です。なお、「CRM」や「SCM」については、それぞれ第8課と第9課で詳述することにします。また「デルコンピュータ社」についても第11課のケース・スタディの対象として取り上げる予定です。
当時のトヨタによるTQCの真髄である「マーケットイン」の実践ぶりは聞きしに勝るものがあり、例えば、「トランクを閉める音が大きすぎる」といったクレームが入ると即刻設計、次いで、生産の工程を改善し、次に出荷される自動車のトランクはソフトタッチで閉められるようになっていたのだそうです。当時のトヨタ関係者が、「同じ型式のカローラでも絶えず改善が加えられ、細部の仕様が次々と変わっているから、全く同じ仕様のカローラは存在しないのだ」と豪語していたのが印象的です。しかし、それでも基本的に採られていたのは量産方式であり、100%カスタマイズして生産・販売方式とは遠いものだったのです。これに対して、インターネットを中核としたITを用いてBPRを実現することによって、デルコンピュータ社はマーケットの中の顧客を個別に取り込むという「高次元なマーケットイン」を展開しているのです。

<こぼれ話>

グローバル標準言語となった英語

大学の教養課程でも英語の授業はあったのですが、それは単位を取得するだけの勉強で済みましたので、突然国際ビジネスに取り組むことになって慌てて始めた英会話の勉強は、大学受験時代以来実に“四半世紀ぶり”のものでした。早速、AT&Tの要人12名がアメリカから出張してきて、2週間にわたって日本市場のPBXフィージビリティ・スタディーを実施することになり、東芝側のコーディネーター役を務めることになったのですが、「四十過ぎの手習い」では上達も遅く気持ちばかり焦っていました。

そして、ついに訪れた「言語障害」の日々。会議の場では通訳さんに助けられたのですが、日々の連絡や調整は“四半世紀ぶり”の勉強の成果を駆使して執り行わざるを得ません。その“四半世紀ぶり”も「読む」と「書く」だけであって、「聞く」と「話す」の勉強については生まれて初めての経験ですから頼りないことこの上もありません。なにしろ、フィージビリティ・スタディーの一環として東芝の青梅工場見学を取り入れたのですが、外国人と一緒にタクシーに乗るなどという“大それたこと”はそれまでしたことがなかったのですから。ですから、一日一日が地獄のごとく思われ、なかば「早く2週間が過ぎてこの連中が帰ってしまいますように」と念じながら、それでも精一杯。

ところが、AT&Tのメンバーは揃って寛容でした。特に団長格のケリーさんは、外見もいかにもアングロサクソン系といった紳士でしたが振る舞いもまことに紳士的で、私のまどろっこしい英語にも辛抱して耳を傾けいろいろ協力してくれました。ところが、会社からのノベルティーとは別にケリーさんにだけは個人的にギフトを贈って感謝の気持ちを表そうと思ったのですが、連日時間に追いまくられていて調達する暇もない状態でした。そこで、家中を探し回して何とか有り合わせの民芸品を見つけて会社に持参しました。そして、その朝、いつものように東芝本社のエレベーターホールでAT&T一同を出迎えた時に、ケリーさんをみんなから離して個人的なギフトを手渡そうとしたところ、なんとケリーさんも「実は私も。これはミスター・ササキにだけのものだ」と言ってノベルティーを渡してくださったのです。偶然の一致に驚くとともに「言葉は通じなくても気持ちは通ずるものだ」という自信がつきました。

当時の私は、技術的知識、人脈、英語力のいずれもなく、三重苦のヘレン・ケラーのような状態でした。それなのに、こんな困難な仕事を課す上司は鬼かと思いました。しかし、仕事をやり通してみれば本人に自信がつくのですから、重課主義というものは人を育てる上で本当に大切だと実感しました。今では、その鬼上司に心から感謝しています。

更に、この小さな出来事によって、「もっと英語を勉強して欧米人との交流を深めてゆきたい」という気持ちが強まったのは事実です。「革命によって覇権を握った国の標準がグローバルDFS(De Facto Standard)になる」の仮説の正しさを裏付けるかのように、技術の世界ではUSスタンダードがグローバル・スタンダードとしてまかり通っています。英語も同様にグローバル標準言語として確立し、今後も英語の時代は永続しそうです。私の“四半世紀ぶり”の愚を繰り返さないように、大いに英語リテラシイも高めてください。


3-2.日本に追いつけ追い越せ

「品質」観の相違

品質に対する考え方にも日米間で大きな違いがありました。PBXは電話網の中核ですから、日常の企業運営の生命線です。ですから、これが機能停止したとなると、日本では一大事になるのですが、当時のアメリカ人にとっては自動車にしてもPBXにしても「所詮は壊れ物の機械」であって「当たりはずれがあって当然」のものだったのです。事実、納入したAT&T製PBXのクレームは相次ぎ、東芝からのクレーム報告事項リストがページを重ねる状態になっていきました。腹立たしさのあまり、「“米”国というくらいだから、工業は日本に任せてアメリカは“米”を生産する農業国になったらどうだ」と、受講していた会社の英会話レッスンで暴論を吐いてしまいました。しかし、米国人の先生も含めてクラスに反対論者が現れないほど、TQC王国・日本の自信の程は揺ぎ無いものだったのです。


日本にキャッチアップ

しかし、そうこうするうちに、AT&Tも品質のあり方について反省し、日本の企業の品質管理手法を学んでいきました。AT&TのPBX工場はコロラド州デンバーにあったのですが、工場内で開かれたAT&T/東芝品質ミーティングの席上で、女性管理者でリーダー格のアンドレア・ローズさんが、「最近自宅で買ったアメリカ製の自動車もクレーム事項だらけで日本車の品質と比べると雲泥の差がある。当社のPBXも同じような状態であったと思うと恥ずかしい」と発言されていたのが印象的です。そして、デンバー工場内を巡回してみると「QCサークル」関係の掲示や「Kaizen」のポスターが目に付くようになりました。日本製品のアメリカ市場への激しい流入ぶりを表現するために使われた「Tsunami」とともに「Kaizen」は米語の語彙の中に採り入れられたとのことですから、AT&Tに限らずアメリカ企業では1980年代に世界に誇った“Japan as No.1”からTQCを学び、1990年代中盤には、特に製造技術に関しては日本企業のレベルにキャッチアップしていたものと考えられます。

以下に掲げるGM関連の記事もこうした米国企業に広く見られた「日本に追いつけ」の風潮を端的に現したものといえそうです。

トヨタの「効率」学ぶGM

「GMは生産性、開発速度、品質のどれをとっても勢いがある。ビツグスリーの中で最もトヨタ自動車に肉薄している」。自動車リサーチセンター(ミシガン州)のデビッド・コール所長はGMの競争力が急速に回復していると指摘する。

ビツグスリーが日本車メーカーに攻め込まれた1980年代後半。GMには官僚主義がはびこり、倒産の危機すらささやかれた。ひん死のGMを救ったのが今年退任するジョン・スミス会長とワゴナー社長のコンビだ。

各社が20%以下のシェアで競い合う欧州で事業責任者を務めた経験を持つ二人は「以前の経営陣と異なり、学ぶ姿勢を持っていた」(コール所長)。旧世代の経営陣は宿敵トヨタが米国に持ち込んだカンバン方式に見向きもしなかったが、スミス会長は「気が遠くなるほどの時間をかけてトヨタの経営を学んだ」。

2003/2/6 日本経済新聞(抜粋)

「効率」「改善」vs「効果」「改革」

日本の品質管理活動において最も権威のある賞のひとつである「デミング賞」の名前がアメリカにおける品質管理推進の第一人者であったW・E・デミング博士に由来していることからも分かるように、もともとアメリカから管理手法として導入されたQCが日本で経営思想としてのTQCに昇華し、それがアメリカに再輸入されて「日本に追いつけ」の基盤形成に役立っていたのです。そして、「追い越せ」の方はTT革新と経営革新によってもたらされました。世界に冠たるトヨタのカンバン方式でさえ、TT化の検討が始まるまでにはまだかなりの年月がある時期のことでした。投入する経営資源のコストの成果産出「効率」の「改善」にとどまっていた日本企業に対して、革新的ITの導入によって経営を「改革」し成果産出「効果」を劇的に拡大するところに「追い越せ」の鍵があったのです。

3-3.「革命」の現場に立つ

1993年(株)東芝の委員として三井業際研究所の情報関連投資委員会に参加したことは私にとって大きな転機になりました。それまでは、情報通信システムの供給者・東芝の一員としての顧客先としてしかお付き合いして頂けていなかった三井系各企業の情報通信システム部門の要人たちとともに同じテーマの下に調査研究活動に携わることによって「異質の交流」を享受することができたからです。
更にその後、自ら志望して三井業際研究所に出向することによって、自他の「異質の交流」の範囲を拡大するともに、「IT革命」の生起する現場を色々な角度から目撃し総合的に考察する機会を与えられる結果となりました。
・情報関連投資委員会(1993/4-1995/3)

「情報技術の活用と情報リテラシーの改革による経営革新」への流れを「新潮流」として捉え、技術要素としては「ダウンサイジング」、「クライアント・サーバ・システム」、「エンド・ユーザー・コンピューティング」、「電子メール」や「EDI」等に焦点を当てて調査研究していますが、「インターネット」のイの字も1995/3三井業際研究所発行の「情報関連投資委員会調査研究報告書」には登場していません。但し、「新潮流」の経営戦略要素として「リエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)に焦点を当てて「変化と競争の時代に顧客を維持・拡大し企業が存続するのに必須の経営手法」と規定しています。また、同報告書では「IT革命」の言葉がマスコミに登場するより5年以上も前にその実態を正しく捉えていますが、これは後述のMIT会の関連で接点のできたピーター・テミン教授が大恐慌とその教訓について書かれた『Lessons from the Great Depression』における考察から大きな示唆を得られたことが大いにあずかっています。

・MIT会(1994/101996/9)

MIT(マサチューセッツ工科大学)と三井の間には、往年の三井グループひいては日本産業界のリーダーであった団琢磨男爵がMITを卒業して以来の古くて深いつながりがあります。このため、三井業際研究所にはMIT会があり、三井グループ各社に対するMITの窓口となっており、私は三井業際研究所に出向してその事務局を務めたわけです。MIT会の活動は、MITの先生をお招きしての講演会の開催、MITの研究関連動向情報の紹介、MIT教授の三井グループ企業訪問斡旋など多岐にわたりましたが、三井グループ各社から希望者を募ってボストンに派遣するMITミッションはMITの最新の研究調査実績に触れ、更にこれを通してアメリカの動向を探るために最も有力な機会となるものでした。特にインターネットとリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)はMIT
が実質的にアメリカの推進拠点となっていただけに、MIT Mission 94とMIT Mission 96のプランニング・コーディネーターとして参加することによって「IT革命」の現場に臨んで動向を観察することができたと思っています。

・新技術部会企画委員会「中国R&D視察」(1996/5)

本来は、三井系各企業の中国におけるR&D活動の機会を探るための視察旅行でしたが、副産物的に
「IT革命」後「世界の工場」の地位にのぼりつめた中国のIT革命前夜の模様を現地で感得することができました。

・リエンジニアリング特別委員会(1996/4-1996/9)

日本におけるリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)の権威であられた梅沢豊教授(当時、東京大学経済学部)のご指導の下に、日本のインターネット前夜におけるリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)の先進事例を見聞するとともに日本企業の制約条件を観察することができました。

3-4.1994年のアメリカと日本

MIT Mission 94 (19994/11)の主要研修テーマの中には「インターネット」と「リエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)」が含まれていましたが、当時はこの両者が結びついて「TT革命」につながるという仮説は思いも寄らぬものでした。たまたま、この二つの領域でMITが指導的な役割を果たそうとしていたので、それぞれの現状を現地でつぶさに把握し、動向の予測に役立てようというものでした。

インターネット黎明期

「インターネット」については、CERN(欧州合同素粒子原子核研究機構)でネットワーク上にハイパーテキストを構築するプロジェクトを提案し90年に世界初のWWWサーバーを開発したティモシー・ バーナーズ=リー博士を94年にMIT陣容に加え、同博士を機軸とした「ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム(W3C)」を立ち上げて、MITがまさにインターネットの標準化を推進しようという矢先でした。MIT内での実用化もかなり進んでおり、イェロー・ページ検索実験も見せてもらい、「MIT近辺」と「シーフード」、「中華料理」などのキーワードで、所望のレストランを検索することができました。しかし、大方の三井ミッション・メンバーは、インターネット情報の利用者の受ける便宜は理解しつつも、「実験用ならともかく、このようなレストラン情報のようなデータベースに喜んで入力する者がいるであろうか」と情報提供者側の採算性を問題にしてインターネットの商用化を疑問視していたようです。

既に、MITではEメールの使用は常識化していたのですが、ミッション活動期間中のヒューレイ教授の講義の際に質問されて三井メンバーにEメール常用者が一人もいなかったという“デジタル・デバイド”が彼我の間にあったことを思えば、インターネットの発展性を理解することができなかったのもやむをえないところだったと思います。また、ビクター・ズー博士は、「音声による航空機券予約システム」のデモンストレーションをして、実際に「サンフランシスコ/成田」などのチケットを予約して見せてくれました。この時も、英語の発音に自信のある三井メンバーの一人の発音を正しく認識してくれなかった点などを取り上げて、三井メンバーの目は寧ろシステムの未熟さの方に向いてしまったように思えました。私自身も実際に、帰途のフライトをフロリダ経由に改める必要がありましたので、ズー博士にお願いしたところ「予約変更はまだできない。君が今度MITに来るまでに開発しておくよ」とのことでした。そこで、すかさず、「実は明日またMITに来るのですが」と切り替えしたところ、ズー博士は苦笑されていました。つまらないことですが、滅多にウケタことの無い英語でのジョークの一つでしたので鮮明に覚えています。いずれにしても、このような逸話類を総合してみると、インターネットはアメリカでも夜明けの段階にあり、日本はまだまだ真っ暗闇の状態であったということがわかります。

リエンジニアリングは模索中

「リエンジニアリング」もMTTが発祥の地であり、1993年に元MITのマイケル・ハマーが経営コンサルタント会社社長J.チャンピーとともに著した「Reengineering the Corporation」(邦題:日本経済新聞社刊「リエンジニアリング革命」)が日本でも注目を集めていました。1989年には、これもMTTの産業生産性調査委員会が報告書「メイド・イン・アメリカ」をまとめ、米国の産業界が経営戦略、人材育成等について抱えている課題を抽出するとともに、製造業8分野のパフォーマンスについて日・欧との比較を行っていました。これを基点として、MITを中心に「メイド・イン・アメリカ」という形の生産性向上キャンペーンが国民運動的に展開されてきていたのですが、リエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)もその流れから生まれてきたものだったのです。MIT出自である上に、実際にMIT内部でもリエンジニアリングが実践されているということも知らされておりましたので、MIT Mission 94 のメンバーのリエンジニアリング研修に対する期待はいやがうえにも高まっていました。しかし、期待が大き過ぎたせいでしょうか、いささか当て外れの失望を感じてしまいました。「大学でのリエンジニアリング」ということで注目していたMIT内部のリエンジニアリングは、大学だからこそという特性のない事務センターでの、しかも、日本ではとっくに職場改善運動で済ませているようなテーマに取り組んでいるだけのものでした。また、MIT教授陣の中にもアメリカにおけるリエンジニアリングの効能を疑問視される向きがおられ、「メイド・イン・アメリカ」に加担されていたはずのスーザン・バーガー教授でさえ、むしろリエンジニアリング実施によって生ずる中間管理職や従業員の余剰の方を重視して、「リエンジニアリングによる士気の低下」をアメリカ産業の低迷の原因の一つとして挙げられていたほどです。要するに、エンジニアリングもインターネットと同様にアメリカでもまだ夜明けの段階であり試行錯誤が繰り返されていたということなのでしょう。

3-5.1996年のアメリカ、日本、アジア

犬の1年は人間にしたら7年に値するといわれるように、I Tの世界の1年は一般業界の7年に値するスピードで発展していることから「ドッグ・イヤー」などと言われますが、1996/619ヶ月ぶりのMIT Mission ’96 で訪れたアメリカはMIT Mission 94の頃とはすっかり様変わりしていました。

インターネットは離陸期を迎えており、ビジネスだけでなく教育にも実用され始めていましたので、スティーブン・ラーマン教授による「遠隔地教育(Distance Learning)」や宮川繁教授による「マルチメディアによる言語・文化教育」も研修アジェンダに加えておいたのですが、ビジネスでの実用も緒についていない日本の企業にとっては時期尚早のテーマだったかもしれません。参加メンバーのうちのEメール常用者の割合が、ようやくMIT Mission 94の時のMIT教授陣のレベルに達したことや、インターネット離陸期の違いから察して、日米間には2−3年間(17-21 dog years)の差がありそうだと直感しました。1996年にアメリカで見た姿を日本経済新聞の記事の収集を始めた1999年の日本に見たような気がしました。逆に言えば、現在のアメリカを見れば2−3年先の日本の姿がほぼ確実に予測されそうですが、未だに「アメリカに学ぶべきものなし」という過去の栄光にすがった高ぶった考え方の持ち主が後を絶っていないのは残念なことです。

一方、リエンジニアリングの方も19ヶ月の間にアメリカの企業の中では進展して一般化していたので、MIT Mission 96の「リエンジニアリング」にMITとの関連で出講してくださったCSC Index社のテムキン女史は「リエンジニアリングに伴う様々なストレスに対する対処の仕方」という極めて実践的なテーマを重点に講義をしてくださったほどでした。MITのあるケンブリッジやボストンの路上から「消えた“アメ車”」が象徴するように、リエンジニアリングやM&Aを含めた本来のリストラクチュアリングによりlean and agile な体質を身につけたアメリカ企業に対して、日本には未だにリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)の夜明けが訪れておらず、従って経営改革のために必要なストレスも大方の日本企業には生じていなかったのです。その後も日本企業は“リストラ”に明け暮れするところが多くリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)断行に踏み切った企業は数限られているようです。インターネット格差より経営革新格差の方が、「IT革命」のより有力な要因になったのではないかと見ています。

姿を消した“アメ車”

ようやく早朝に寸暇をつくることができたので、かねての希望通りホテルを出てMITキャンパス周辺を散策した。卒業式当日のためのケンブリッジ訪問客が多かったせいもあってか、MITキャンパスをめぐる長い路上には乗用車が長い列をつくって駐車していた。試みに日本車の所有シェアをざっと勘定してみようとして気が付いたのは、接近して見なければ日本車かどうか判別し難い乗用車が圧倒的に多いことである。かつて“アメ車”の見本のようなものであったクライスラーもシボレーも、すっかり小型化してしまってホンダ、トヨタと見分けがつかなくなっており、いわゆる“アメ車"には遂に1台もお目にかかることが出来なかった。改めて気を付けて見れば走行中の乗用車にも“アメ車"を見かける確率はおよそ低い。小型化した“アメ車"は、徹底したリストラクチュアリングとリエンジニアリングによって lean and agile な体質を身につけたアメリカ産業界の象徴のように見える。

「USA/MIT見たまま聞いたまま」よりhttp://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/MIT-USA.htm

“アメリカ・日本・中国”関係の推移

私自身は中国には19965月に新技術部会企画委員会の「中国R&D視察」で行ったことがあるだけです。しかし、たまたま、その1ヵ月後にこのMIT Mission 96で今度はアメリカに行きましたので、“アメリカ・日本・中国”関係の推移を、臨場感をもって観察することができたと思っております。中国では、僅か1週間の滞在でしたが、大学教授から土産物売りの若者に至るまで、極力多くの中国人と接してナマの声を聞いてみました。最も強く感じたのは、“反日”どころか日本は中国人に“軽視”されているのではないかということでした。現に、一流の研究者・学生の留学先として選好されていたのは日本よりアメリカなのではないかと思われる節がありました。また、アメリカから中国大陸への資本流入も相次いでおりましたので、中国人の対アメリカ接近の意欲も旺盛で、英語に堪能なインド人を強烈に意識してライバル視していたのも印象的でした。視線は日本列島を越えてアメリカ大陸に向けられているかのようでした。一方、MITの方でもクルーグマン教授も含めて中国研究が盛んに行われておりました。MIT Mission 96の準備のためMITを訪れた時には驚きました。”China Study”の表示が広いキャンパスのあちこちに踊っていたからです。今度は、アメリカの方からも日本列島を飛び越して中国に関心を向けていたわけです。我々は1週間のMIT Mission 96セミナを組んでMIT教授陣に入れ替わり立ち代りの出講をお願いしたのですが、そのうちの1日は「中国問題」に特化したほどでした。また、その機会にアメリカ人の中で「これからはICの時代」と取り沙汰されているという話も耳にしました。今時IC(集積回路)とはおかしいなと思ったのですが、果たしてI はIndia、Cが China でした。たまたま1ヶ月前に数人の中国人から聞いたICライバル関係に符合する話でした。

新しい世界経済構造の成立

インドについては、ちょうどその時期にMIT会が東芝本社ビル講演会にお招きしたスコット=モートン教授から聞いた事例があります。米国オハイオ州のティムケン社がインド企業に発注し、米印間の24 時間フルタイム稼働体制を利して開発コスト 1/10 納期 1/2 でソフトウェアを開発したという話です。経度的にアメリカとインドの間の時差がフルタイム稼働体制のために最適であるという。このように、インターネットを用いれば、グローバルな視点から優秀なR&Dリソースと経済的に協働することができる。インターネットがグローバリゼーションを加速していて、今や日本企業が気づかぬところでアメリカとアジア諸国の間にコンピューター・ネットワークが張りめぐらされるというのが非現実的な話ではなくなってきたのではないかと、その時感じたものでした。そして現実に、アジア諸国にアメリカ資本が流入して、BPRを中心とした経営技術やQC手法とともに、インターネットを中核としたITを駆使したグローバルなロジスティクス・システムが導入・構築されることによって、覇権国アメリカを頂点とする新しい世界経済構造ができあがってきました。「中国がハードウェアで、インドがソフトウェアで、それぞれ“世界の工場”になる」という漠然とした仮説を描いていたのですが、少なくとも中国については仮説が正しかったようです。インドについては、以下に新聞記事の抜粋をご紹介します。

インド、米欧の脅威に

1990年代以降の世界の大きな変化の一つはインターネットなど情報技術(IT)の普及。その恩恵を最大限に受けたのがインドだ。理数系教育が発達、豊富な英語人口を抱えつつも世界の経済成長から取り残されてきたが、ITの活用で潜在力をフルに生かせるようになった。脱製造業の動きを強める欧米にとって最大の脅威は中国ではなく、むしろインドともいえる。

2003/4/23  日本経済新聞)

「国際的なリエンジニアリング」

「ロジスティクス」は「兵站」と訳されていることからもわかるように、もともとは軍隊用語で、「車両・軍需品の前送・補給・修理、後方連絡線の確保」などを表す言葉です。現在では、経営用語として「企業が必要な原材料の調達から生産・在庫・販売までの物流を効率的に行うこと」を表す言葉として使われています。

ITとビジネスは車の両輪のようなものですから、ITが進化しなければビジネスは進化せずビジネスが進化しなければITも進化しません。私は、インターネットを中心としたITの進化によって世界のロジスティクスのあり方が大きく変わったことがIC(インドと中国)台頭のきっかけになったと見ています。

そして私はITを駆使したグローバルなロジスティクス・システムの導入・構築によって実現された現象を「国際的なリエンジニアリング」として位置づけています(第4課参照)。従来、各国間で文書をベースに行っていたロジスティクス関連の仕事のやり方(Business Process)を抜本的に変える(Reengineering)ことによって、製品またはサービスのQCDを同時的に大幅改革しているからです。

3-6.改革は先進者からは生まれない

日本でも、非公式に実施していた大学間ネットJUNETというインターネットの前身のようなものがあり、1987/5にKDDが国際通信回線の共同利用組織として立ち上げたIネットクラブがその海外接続支援を継承したそうです。更に、1987/1に東京大学がアメリカの学術ネット「CSネット」と国際パケット通信で独自に接続しましたので、JUNETにつながった民間企業の情報はKDDを通り、大学の情報は東大を通して海外に行くという棲み分けができていたわけです。しかし、インターネットの夜明けは遅く、アメリカに遅れをとってしまいました。

インターネットに限らず、日本のインターネットの夜明け時点での情報技術活用度の国際的レベルは低く、移動体通信の普及率は、アジアでもシンガポール、台湾の後塵を排して世界 12 位でしたし、人口当たりサーバー数(コンピューター・ネットワークの普及状況を示す指標と考えられます)も、シンガポール、香港等より低く世界 23 位でした。日本は電電公社時代からの電話網の建設が進んでおり、固定電話ネットワークの世界的先進国だったのです。また、オフィス・コンピューターや、電話回線をベースとしたデータ通信やFAXネットワークも高度に進化していたため、その分だけサーバー・コンピューター・ネットワークに対するニーズが顕在化していなかったということが言えると思います。「改革は先進者からは生まれない」という仮説がここでも生きていたようです。

リエンジニアリング特別委員会にて、国内のリエンジニアリング事例を探し出してケーススタディしようにも、これぞリエンジニアリング(BPR:Business Process Reengineering)による経営改革という事例が見つからず苦労しました。
改革には、既存の体制を一度破壊する作業が必要なのですが、TQC王国としてその成功体験を謳歌していた日本には既存の企業内外、更には国内外の業務プロセスを壊すことができなかったのです。これまでに、「インターネット」と「リエンジニアリング(BPR)」というキーワードを取り上げながら、「IT革命」というのは単なる「IT革新」とは違って、歴史的社会的出来事であったのであり、日本はこれによって世界のトップの地位から引きずり下ろされてしまったのだということをお話してきました。先進者の地位から滑り落ちてしまった今こそ、歴史に学んで、IT革新と経営革新を車の両輪として失地回復を図るべき時なのではないでしょうか。

<こぼれ話>

インターネット格差を痛感

関西大地震が起こったのは、忘れもしない199517日で月曜日のことでした。当日はMITからの要請で、来日中のグレイMIT理事長と当時の東芝社長の青井さんとの早朝ミーティングを組んでいました。午前7時からホテルオークラで行われる予定になっていましたが、早起き早朝出社の私には苦になることなく、いつものように545分頃に家を出ました。関西大地震が勃発したのは5時46分でしたから、ちょうど家を出た頃に起こったわけですが、関西の揺れが神奈川県藤沢市にまで伝わってくるはずもありません。東海道線も平常通りで、何の支障も無く予定通りホテルオークラに到着。MITと東芝の当事者も全員時間通り集まり互いに挨拶を交わした後、ミーティングも定刻に始まり予定通り9時に終わりました。

実はグレイMIT理事長一行は、前週末に大阪・神戸を訪問していて前日の日曜日に東京に帰ったばかりだったのですが、ミーティング中は、関西の話題は出こそすれ地震のジの字も出ませんでした。ミーティングが終わって、理事長に同行されてきたアカルドさんに「私の部屋に来ないか」と誘われてホテルオークラの一室に入ってみると、A4版の受信紙一杯に「Are you OK?」と大きく書かれたファクシミリが届いていました。早速、送信者の息子さんに電話したアカルドさんは私に、「関西で地震があったそうだ」と教えてくれました。関西訪問の計画があることを知っていて心配した息子さんがボストンから送ったファクシミリだったのです。

しかし、地震の規模が大きそうだと私が知ったのは、アカルドさんの部屋を辞して赤坂見附にある三井業際研究所のオフィスに戻るタクシーのカーラジオでしたから、かれこれ10時頃のことだったと思われます。それでも、「高速道路の橋脚が倒れて被害を受けた自動車がある模様」といった程度の報道でしたので、正午のテレビ・ニュースであの惨事の実情を知ったときにはびっくりしてしまいました。インターネットを通じて、関西での情報が遥かボストンまで達していたのに、マスコミさえ地震発生後4時間余り実情を把握できずにいたのです。インターネットの威力を実感するとともに、その日米間格差の程を痛感した出来事でもありました。


(Ver.1 2003/ 3/28)
(Ver.2 2004/ 7/14)
(Ver.3 2006/ 7/16
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