道 志 倶 楽 部 の ペ ー ジ

道 志 倶 楽 部 の ご 紹 介

Since about 1973

笑いっこなしで

東大文科系で、昭和38年東芝同期入社者は、稲垣、岩沢、浮貝、岡田、角坂、工藤、小林、坂本、佐々木、高橋、瀧口、長谷山、牧野、矢野、吉田の15名であったが、このうち工藤兄だけは早々に方向転換し通産省官僚の道に転じていた。そんな工藤兄を囲む同期の会(19734年頃?)で隣り合わせに座ったのが小林公直(通称:コーチョク)兄であった。同期の会が退屈だったのか二人は私語を交わした。「俺最近テニスを始めたんだ」。「えっ、俺もだ」。何しろ、ゴルフ談義全盛の頃のことである。お嬢さんスポーツと思われがちであったテニスの話題を口にするのには辺りが憚られ、畢竟会話はヒソヒソ声になった。だから引き続き小声で、「だけど、まだヘタクソなんだよ。」「俺だって」。「じゃ、今度お互いに笑いっこなしでやろうよ」。こんなコーチョク兄とのやり取りが現在の道志倶楽部の発端となった。 

38テニス青年団

 「昭和38年東芝同期ヘタッピテニス同好会」の形で(19734年頃?)スタートし徐々にメンバーも増えていったのだが特に会の名前はなかった。これに「38テニス青年団」と名づけしてくれたのは、ニックネーム作りに長けた吉武紳吾(通称:シンゴ)兄である。因みに、道志倶楽部の当初からのメンバーである牧野正弘兄に"ブキラ"なる愛称を賜ったのもこのシンゴ兄であった。「ブキラ大統領」などアフリカあたりにでも実在しそうな名前だが、如何にも大統領然とした牧野兄の挙措動作を見ると、この愛称が言い得て妙なのが分る。そのシンゴ兄は現在、厳寒の地・モンゴルにJICAより派遣されて明るく相変わらず陽気に過ごしている。「好奇心は若さのバロメータ」と言われるが向上心も然りだろう。還暦を過ぎて、新たにモンゴル語を習得するという向上心豊かなシンゴ兄は間違いなく"青年"である。

恒例の道志合宿

 「38テニス青年団」は、当初は矢野弘典兄、コーチョク兄と上月清史兄の三人がメンバーとなっていた「武蔵野ローンテニスクラブ」で、後にはブキラ兄が所属している「上用賀テニスクラブ」で“大会”を開いてきた。そのうちに、メンバー間のライバル心が燃え上がり、ワンデイ大会だけでは物足りなくなって、合宿をしようということになった。会場として設定した道志村民宿「北の勢堂」は、近くにテニスコートを保有している上に、アフターテニスを楽しむのに格好の場所であった。囲炉裏を囲んで、猪鍋、ヤマメの串焼、青竹の燗酒を楽しみながら、秋の夜長、団欒にふけることができるからである。ボールのラリーだけでなく、会話のラリーも「38テニス青年団」に欠かせぬ要素なのである。一遍に「北の勢堂」が気に入ったメンバーはここを定宿とすることになり、かくて秋の道志合宿が恒例行事となることになった。

ひたすら「道」を「志」す

 つい最近まで使っていた「38テニス青年団」の名前を替えざるを得なくなった。(1999-2000年頃?)私は大いに気に入っていたのだが、還暦前後でこの名前を使うことに対して"世間体の悪さ"を感ずるメンバーが出てきてしまったのだから仕方がない。但し、単に合宿地の道志村を名前の由来とするのでは何の変哲もなくて面白くない。そこで、 "ひたすら「道」を「志」す仲間"と解釈することにした。「青年」のもつ、老成者からみると"馬鹿馬鹿しいまでの"「ひたむきさ」を大切にしてゆきたいと思ったからである。「38テニス青年団」の中核メンバーの"テニ馬鹿"である渡辺孝彦(通称:ナベ彦)兄、コーチョク兄、ブキラ兄、シンゴ兄に浅香泰三(通称:タイゾー)兄が加わった「六馬鹿会」ができたのも根は同じである。そして私は、"名幹事"などとおだてられて両会の常任幹事を務めており、横浜ベイスターズにいた大魔神・佐々木投手にちなんだ「大明神」なる尊称を賜っている。しかし、この非魔神、火消役は得意ではなく、逆にしばしば火付け役を演じて顰蹙を買っている。

因みに私のホームページのURLは「非魔神」"himajin"にしたかったのですが、世に私同様の「暇人」が多いせいか既登録であっため、たまたま未登録であった「大魔神」"daimajin"にしたといういきさつがあります。エラソーであまり気に入っていないのですが。 

“規格外”の混入

 もともと「昭和38年東芝同期ヘタッピテニス同好会」が"規格"であった筈なのだが、"規格外"メンバーが混入してきた。まずは、決して「ヘタッピ」ではない桜木丈爾兄。40歳を過ぎてテニスを始めながら独特の科学的分析と練習法によって八王子市のベスト4にまでのぼりつめたこの工学博士殿は、誰一人文句をさしはさむ余地もなく我等が師範格である。しかし、近年はゴルフに"身を持ち崩して"しまってなかなかテニス・コートに姿を現さなくなってしまった。そこで、これも「ヘタッピ」規格外の野中孝弘(通称:ノンチャン)兄と正木泰裕兄が師範代を務めてくれている。正木兄に至っては、「昭和38年同期」でも「東芝」でもないのだから、三重に規格外なのである。これも同様に二重三重に規格外の河本憲三兄や折田常孝兄と同じく、かつて東大駒場寮硬式庭球部室でブキラ兄と同室だったという間柄なので、同室が異質の混在を招くという駄洒落的な関係が成り立っている。しかし、今や会の名前も変わり、"ひたすら「道」を「志」す"が新しい規格になった。多士済々うち揃いコート内外で異質の交流を楽しんでいる。

道志倶楽部憲章

メンバーにはもう一人「ヘタッピ」規格外で師範代格の小見山岡兄がいる。その小見山兄語録「真のテニス愛好家とは」(Copyright, Komiyama)がこよなく「青年」及び「馬鹿」特性を表しているので、これを骨子として無断借用して以下の通り「道志倶楽部憲章」としている。

1 テニスをこよなく愛し,そのための言動が他人から見ていかがなものかと思われても気にしないこと
2 インテリジェンシーが高く一、ニ手先を読む予測能力と飽くなき向上心を有していると思いこんでいること
3 他人の見た目より著しく若いと自負していること
4 安価な飲食でも紳士の交わりが出来ること
5 メンバーは産地、生い立ち、外形、思想、趣味、価値観、性癖等を問わず全て平等とする

 “大会”の後に決まって行なう「反省会」も、この第4章に則ったものである。一切反省抜きのアルコール入りの昼食会は、第5章に則った自由闊達な会話のラリーで盛り上がり、第1−3章の精神の健在ぶりを確かめ合っている。南ア駐在経験のある川口正兄をはじめ国際経験豊かなメンバーが多いのも特徴であり、「反省会」の話題は、いつも国際色豊かなものになる。

強いWeの意識

 道志合宿こそ定宿を用いているが、“大会”のためのコート予約となると必ずしも容易なことではない。貸コートのある「上用賀テニスクラブ」をアジトとしていた時代は長く続いたが、ここが利用し難くなると、今度はシンゴ兄が在住の神奈川県二宮町町営コートを“大会”会場として予約し提供してくれるようになった。ここでの“大会”の名称には何故か「国際」が冠されたが、外国人が参加したのはたったの一回であった。またここでは、新たに二宮に移転された河本兄やシンゴ兄義弟の浅野兄が加わった“二宮在郷軍人会”が結成されたのだが、いかんせん東京都心から遠隔地に過ぎた。そこで今度は、二宮を“辺境の地”と称して“大会”参加に二の足を踏んでいた八王子在住の秋丸康彦兄が、会社の研修センター(横浜・港北区)内のコートを我等がアジトとして提供してくれるようになってから現在に至っている。秋丸兄は、恒例の道志合宿でも決まって“焼芋奉行”をつとめ、アフターテニスの囲炉裏端に一段の趣を添えてくれる公徳心の強い人である。各“コート奉行”に限らず、メンバーの強いWe意識に基づく公徳心は旺盛であり、これが定例大会場をもたぬ我ら流浪の民の活動を長く下支えしてきてくれている。

メンバー(敬称略)

 “大会”や合宿にご無沙汰が続くと幹事から「そろそろ除名だぞ」と脅されるが、実際に除名処分になったものはいない。音信が途絶えてしまったメンバーが自動的にリストから消えていっただけである。現在、行事案内の送付先リストには以下のメンバーが載っている。中にはテニスから“足を洗った”幽霊会員もいるし、合宿等と併せて企画するゴルフ分科会にだけ出て来る稲垣宏一兄や「家内が希望すれば一緒に参加する」といった可笑しなメンバーがいる。要するに、“お付き合い”で参加するのではなくて、メンバーが楽しむために好きな時に参加すれば良いのである。だから、行事不参加のメンバーからは、「参加できず申し訳ない」ではなくて「残念だ」と言われるような行事を企画し続けていかねばと思っている。

   秋丸康彦 浅香泰三 稲垣宏一 折田常孝 川口 正 河本憲三 上月清史

小林公直  小見山岡 桜木丈爾  斉藤靖雄 進藤重典  野中孝弘 幡谷紀一

藤澤完治  舟橋拓夫  牧野正弘  正木泰裕 矢野弘典 山本直樹  吉田達郎

吉武紳吾 渡辺孝彦 佐々木洋

                         (2001/2)

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