コミュニケーションメディア論

第2課 コミュニケーション・メディアの系譜


「人間」は「人」は人と人の「間」の関係に依存する社会的な動物ですから、人と人の出会いの際に行なわれるコミュニケ−ション(通信)の歴史は人間の歴史とともに古いということができます。情報通信技術の革新によってコミュニケーション・メディアの状況が大幅に変化し、しかも、それが政治、経済、社会、教育、文化を根本的に変革させてきています。しかし、一方で人類の発生以来変わらないコミュニケーションの原理があります。今後、コミュニケーション・メディアがどのように進化して、それがどのように政治、経済、社会、教育、文化を変革してゆくのか展望するためにも、情報メディアの歴史をたどって、どの点がどのように変わったのか、また、どの点が変わらぬまま残っているのかを見極める必要があります。


1.非言語メディア

一部の野生動物には言語を持っているものがあると言われていますが、精々仲間同士で危険を知らせ合うため、あるいは、異性に求愛するための本能的な発声であり、人類が用いている多彩な語彙と体系化された文法をもつ「言語」とはとても比べ物にはなりません。しかし、人類が地上に現れた時点では、ほとんど一部の野生動物と同じ状態であり、コミュニケーションは非言語メディアによらざるを得なかったものと考えられます。

第1課で、「コミュニケーションの主役はあくまでも“人”であり、その身体メディアである」と述べましたが、非言語コミュニケーションでも主役は「人」の身体メディアでした。但し、言語を介さぬ身体メディアによる表現は極めて直接的であり、内容や情報の到達範囲も極めて限定的なものだったに違いありません。

喉や舌を発達させた人類が、現在の乳幼児が発生するような分節化されていない「声」(というより「音」)メディアを「口」メデイアから発し、「手足」メディアによる「ゼスチャー」メディアや「顔」メディアよる「表情」メディアを交えながら何らかの「情報」を発し、これを相手が「耳」メディアで聞き「目」メディアで見て「脳」メディアで理解してコミュニケーションが成立するという光景を想像することができます。

この場合、情報の発信者と受信者の間を取り持つメディアは「音波」、「光波」といった自然メディアだけであり、その意味では原初的なコミュニケーション形態と言えます。これが時を経て、コミュニティーが形成され、そこで敵の来襲や火事の発生を告げる狼煙や警鐘がメディアとして取り込まれた一種のプロトコル(通信規約)が採用されるに及んで情報の到達範囲も拡大していったのでしょう。

「狼煙」の意味について

「狼煙」は「のろし」と読み、「煙をたいて遠くから情報を伝える手段」です。読売新聞「日本語日めくり一日一語」でも、私の講義と同じように“いわば最古の光通信”“光通信の元祖”としています。声(音波)が届かないような遠方から、例えば「敵の来襲」という情報を、煙を上げることによって、光波で味方に知らせていたのですから原初的コミュニケーション・メディアの一種と言えるわけです。
では、なぜ「狼」の字が当てられているのかというと、「日本語日めくり一日一語」には次のように書かれています。この例は、多少尾篭な話ですが、この本にはトリビアの泉流の「へえ〜」がたくさん紹介されていますから一読お勧めです。

火種に狼の糞が使われているため。狼など肉食獣の糞には、硝酸分が含まれ、(燃やすと)風があっても煙がまっすぐ上がったという。しかし、日本では狼の糞が入手しにくかったので、わらや杉の葉が使われたようだ。


話は横道に逸れますが、人類の歴史から見れば、通信技術の発展の過程の中で電話、FAX、放送などがアナログの技術で構築されたのも、それがデジタル化したのもホンの最近のことです。ところが、時代を遡って大昔の狼煙になると、これがまたデジタルの世界なのです。煙が上がるときが“1”、上がらぬときが“0”、この組み合わせ(例えば“1”を“敵の来襲”として理解しあうよう取り決めたのが
プロトコル)情報を送っていたのですから。また、光ファイバーを使って光信号を送るのは最新の通信技術なのですが、狼煙もまた一種の光信号であったということは「歴史は繰り返す」が思い出されて興味深いことのように思われます。話を本流に戻しますが、コミュニケーション・メディアが発達した現在でも「人」と「情報」とのヒューマン・インターフェースの部分だけは「音波」、「光波」といった自然メディアが支えているということには変わりがありません。

また、現在でも、非言語コミュニケーション(non-verbal communication)は相変わらず用いられています。意思疎通が難しい外国語環境では、「手足」メディアによる「ゼスチャー」メディアに頼らざるを得ませんし、スポーツにおけるサイン交換(例えば、野球の投手・捕手間)も身体メディアによるコミュニケーションに他なりません。ビジネス・シーンでも「目は口ほどにものを言い」と言われるように、時と場合によっては「表情」メディアによって与えられる情報の質量の方が勝りますからコミュニケーション・メディアのみによるドライ・コミュニケーションよりもFace to Face のウェット・コミュニケーションの方が効果が大きくなる場合があります。

なお、人類がまだ言語を獲得していない紀元前2-3万年からいち早く、「手指」メディアを使って描いた洞窟壁画に見られるように、「絵図(イメージ)」メディアを描くことによって、何らかのコミュニケーションを行なうとともに記録に残していたことも、「イメージ」メディアによるコミュニケーション効果の大きさを示唆するものとして注目に値します。

<こぼれ話>
大いなる中国・大いなる北京動物園

早朝(7.30a-m.)から開園しているホテル近傍の北京動物園に出かけたが、親子連れの大盛況で切符売場は先を争う喧曄状態。ちなみに切符は3(39)。悪いことに7人分の切符が欲しかったのだが英語の”seven”が通じないので、左手を広げてこれに右手指2本を添えて「7」の意思表示。しかし、日本式「7」は中国では「12」の表示になるらしい。ようやく、前日通訳の張さんから教えてもらっていた、親指と人差し指、中指の先を合わせる中国式「7」の指表示を思い出して何とか難を逃れた(後で思えば、その昔連日の麻雀“修行”で覚えていたはずなのに、うろたえていたせいか「チー」の言葉が出てこなかった。)さて入園。しかし、今度は「パンダ」が通じないので第一のお目当てのパンダ舎を探すのに一苦労。子どもの群の流れについて行けば間違いあるまいと歩いていったが、そこにはパンダの姿は無く、子供達の人気を集めていたのは孔雀などの綺麗な鳥たちであった。やむなく、メンバーの一人が指で丸を作って両目に押し当てパンダのゼスチャーをして教えてもらって漸く辿り着いたところには我々日本人だけ。次いでのお目当ての金糸猴(孫悟空のモデルとされる猿)も、ゼスチャー作戦を試みたのだが教えられたところにいたのはオランウータンだった。しかし、誰かがポケットに忍ばせていた旅行ガイドの「金糸猴」の文字を指し示して教えてもらって散々苦労して辿り着いた金糸猴のエリアにも我々を除いて観客なし。どうも中国人と日本人とでは関心や好みが大きく違うようだ。集合時刻(8.30乱o.)前の一時、広い動物園内をアタフタと駆け巡り目的物を探し回る我々の姿は、広大な中国大陸を限られた情報を頼りに模索して奔走する我々視察団の動きを象徴しているように思えた。
(1996/5 三井業際研究所「中国R&Dレポート」より)

2.音声言語と文字メディア

ゼスチャー交じりで発せられていた声が分節化され、その意味がコミュニティーの中で共有化されると共通の記号としての単語が成立し、更に単語間の関係や語順についての同意ができてくると文法が成立して、コミュニティー内の情報メディアとしての音声言語体系ができあがってきます。同じ身体メディアの「口」と「耳」を使った対面コミュニケーションではあっても、共通の語彙や文法の知識がお互いの「脳」メディアに「保管」されているかどうかによって、コミュニケーションの効率と範囲には雲泥の差が生じます。

都度、「ゼスチャー」を“開発”して意味合いを持たせて「脳」メディアにある想念を直接外部化しなければならなかったところが、既存の普遍的な音声言語メディアを用いることによって、「脳」メディア内部の想念は容易に「音声」メディアに転換して「口」メディアから外部化することができ、受け手はまた「耳」メディアで受信した「音声」を「脳」メディアに内部化できるようになったのです。ゼスチャー・ゲームというのがありますが、あれを見れば、音声言語メディアを使えないことの不便さやもどかしさが理解できると思います。

いずれにせよ、音声言語の獲得によって初めて、人類は他の動物には見られないコミュニケーション能力を身につけ、本当の意味で社会的な動物となったのです。これによって、コミュニティー内の意思疎通も円滑になって、分業・協働も容易になったため生産性も向上し、人類が厳しい自然環境の中で生き抜き発展する基盤が形成されたのです。また、音声言語体系は、コミュニティーの成員が、親から子、子から孫へと口伝えの形で伝承されることにより、世代をわたるコミュニティーの維持・拡大に寄与するメディアともなったのでした。

人類は、「音波」、「光波」という自然メディアを介した直接的な「身体メディア」間のコミュニケーションの過程に音声言語メディアを介在させることによって社会的な能力を飛躍的に向上させましたが、これと並ぶ表現メディアとして文字メディアを発明しました。そして、対面的状況でしか用いられることのなかった音声言語メディアの枠を超えた記録媒体(蓄積メディア)としての特性を有する文字メディアの開発によって、言語メディアを中心とする人間社会のコミュニケーション体系の基礎が確立し、身体メディアの「目」、「手指」、「耳」、「口」によるそれぞれ「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」の四言語技能がコミュニケーション・スキルの中核を占めるに至ったのです。

文字の起源は「絵図(イメージ)」にあると言われ、これが絵文字に発展していったのですから、「書く」の原型は「描く」にあったわけです。絵文字の流れからは象形文字が生まれ、ここから個々の文字が個々の意味を持つ表意文字ができてきました。しかし、初めて汎用性のある記号としての文字を発明し使用したとされるメソポタミヤのシュメール人は、モノを話し言葉の音で表現する方法を編み出していたそうですから表音文字を既に開発していたものと考えられます。

但し、洞窟壁画を「描く」ための伝達メディアが洞窟の壁であったのに対して、シュメール人の時代には石、さらに粘土板に変わっておりましたが、文字メディアが表現メディアとしての機能を発揮し始めるためには、時を下って伝達メディアとして「紙」が発明されるのを待たねばなりませんでした。紙メディアに記載された文字メディアは、記録された情報として、時間を超越して後代にまで伝承されるようになったばかりでなく、日本では
飛脚、後に郵便などのメッセンジャー(通信伝達者)を介した遠距離コミュニケーションを可能にしたのです。

3.活字メディアと映像メディア

しかし、「紙」メディアにも情報の伝達範囲に問題がありました。「手指」による写本や木版印刷技術には、文書メディアの複製部数に限界があったからです。この限界を打ち破ったのが、15世紀半ばのグーテンベルクによる活版印刷の技術と機械の発明でした。このコミュニケーション過程に初めて用いられた機械メディアの活版印刷により、同じ情報が不特定多数に伝達されるようになり、特に科学・技術や文化の発展が促進されました。特に、僅か26文字で構成されているので活字鋳造が効率的にできるアルファベット言語を使用していたヨーロッパでは、グーテンベルクの印刷機が発明されると、たちまち各地に普及していきました。

印刷機メディアが新たに介在することによって、文字メディアによる情報が大量生産されることになり、広い範囲で「口」メディアによる音読の慣習を引きずりながら、「目」メディアによる視覚的信号の受信と「脳」メディアによる思考・記憶活動とが支配的なコミュニケーション形態となっていったのです。図書出版業や後の新聞発行業が生成し、情報が商品として大きな市場を持つに至ったのも活字メディアの発明無しにはあり得ないことでした。

「絵図(イメージ)」メディアの複製技術も、木版や彫刻凹版の形で進化してきており、活字用・木版用の印刷機による最古の絵は15世紀末の図書の挿絵として用いられていたそうです。しかし、精密な印刷画を得るに至るには写真術の発明を待たなければなりませんでした。対象物を機械的に写し出す技術は、とりわけ光学と化学のそれぞれの発達と相互の連携という基盤を必要としたからです。その写真術の発明は、視覚対象をレンズによって捉えるカメラ(機械メディア)の発明と、視覚対象の投影像を感光紙に定着させる感光定着材(化学メディア)の発明とによるものでしたが、木版や彫刻凹版では「イメージ」メディア情報の生成に必要であった「手指」メディアによる「描く」、「彫る」という動作を「撮る」という簡易な動作に置き換えるとともに、「刷る」という情報加工の過程を機械メディアと化学メディアに委ねることによって、「イメージ」メディア情報の利用を簡素化し普及させる契機となりました。更に、写真製版技術や、写真電送技術の開発によって、雑誌、次いでは、新聞に写真が掲載されるようになり、「文字メディア」と「イメージ」メディアの混載によるマス・コミュニケーションの形態が成立するに至りました。

映画は、「連続的な像の写真の投影」であり、「イメージ」メディアの延長上に位置づけられますが、人の視覚過程で起こる残像現象を利用して「動画」として見せるところがあくまでも「静止画」である写真メディアと違う点です。初期の映画は、白黒無声でしたから、モノトーンであるとともに「イメージ」だけのモノメディアでした。そのため、欧米では、セリフをテロップにして映像とは独立した画面上に表示する方法を取っていたそうですが、日本では弁士がスクリーンの傍らにいて映画の登場人物のセリフをしゃべるという独特な方法がとられていました。映画が現在のような、マルチメディア情報の伝達メディアになったのは、音声を収録する技術と、それをフィルムに移す技術が開発されてトーキーが実現してからのことです。また、色彩を表現するためのカラー写真の技術が開発されてカラー映画が実現してから、特に、絵画、文学、演劇、音楽などの諸芸術との関係が一層密接になりました。そして、機械的複製により、活字メディアが出版産業を、写真メディアが報道産業を誕生させたのと同様に、映画メディアの機械的複製により巨大な映画産業が生成されました。

4.電信・電波メディア

モールスによる実用的な電信機の発明によって、メッセージはメッセンジャー(郵便などの通信伝達者)よりも早く伝達されるようになりました。つまり、遠距離コミュニケーションが、もはや交通手段に束縛されることがなくなったのです。モールスが開発した送信装置は、「手指」メディアで電信キーを操作し電流を断続させることによって受信機の電磁石が動き、これに対応して取り付けたペンが「紙テープ」メディアの上に記録していくというものでした。

ここでは、電信を効率的に伝送する方法として、長短二つの符号の組み合わせでアルファベットと数字を表すモールス信号が使われていましたから、「手指メディア→機械(電信キー)メディア→電信メディア→機械(電信キー)メディア→紙テープメディア」というメディア変換の過程を経て文字メディアが伝達されることになります。伝送路には鉄よりもはるかに電気抵抗が小さい銅線が用いられましたが、伝送路も遠隔地間での電信を仲立ちする伝達メディアですし、モールス信号も表現メディアの一種と考えられます。

いずれにしても、コミュニケーションの過程に初めて電気メディアが介在することによって、メディア間の重層構造は一層複雑になりましたが、情報の遠隔地間瞬時移動が初めて可能になりました。ここに、電話(
Telephone = Tele 遠隔地にphone音声信号を送るメディア)と電報Telegram = Tele 遠隔地にgram文書信号を送るメディア)を中軸とした社会インフラとして確立するに至った電気通信Telecommunication = Tele 遠隔地とcommunication通信を行なう)ネットワークの原点を見ることができます。

<こぼれ話>
電報あれこれ

モールス符号は、文字や数字を短い符号と長い符号の2種類だけで表していますから、基本的には二進法表示によるものということができます。全部で26文字しかないアルファベットには二進法で符号化しやすいという大きな利点があります。例えば、遭難信号の「SOS」は「・・・(S)−−−(O)・・・(S)」(トトトツーツーツートトト)となりますが、これが1912年のタイタニック号の遭難事件で初めてが使われたというのはあまりに有名な話です。

現在では用途が主に祝電か弔電用に限られて、マイナーなコミュニケーション・メディアになり下がってしまっている電報も、かつては「電電公社(電報電話局)」の名前で示唆されている通り、電話と並んでコミュニケーション・メディアの主役的な存在だったのです。むしろ、各家庭に「電話」がゆきわたっていない当時は、緊急連絡用メディアとしては「電報」の方が主流だったといっても過言ではありません。

この電報の送受信に使われていたのがカタカナでした。日本語のひらがなとカタカナは日本人によるすばらしい発明であるといわれていますが、カタカナの利点が電信にも活かされたのです。常用漢字だけでも1945字ありますから、これを個々に符号化するのは大変ですが、どんな漢字でも五十音図に収まる範囲のカタカナに変換することができ、カタカナを符号化しておけば済むからです。ひらがなやカタカナといった表音文字のない中国語では、漢字をコード化しておかなければなりませんから、電報の送受信の際に一字ごとにコード化して送り一字ごとにコードを解読して読み取る必要があるのですから、カタカナの有り難さの程が分かろうかというものです。

当時の電報は、送信者が「頼信紙」にカナ文字で書いて持ち込んだものを電報局の係が1字ずつモールス符号で「トン、ツー」とキーをたたいて電信で送り、受け取った電報局の係が、またカナ文字に戻して宛て先に届けるというシステムを採っていました。濁点や句読点等も1文字扱いにされ文字数が多いと料金が高くなりますので、一般的には分かち書きせずに送る形がとられました。ですから、「金送れ。頼む」の願いを込めて送った「カネオクレタノム」が「金を呉れた。飲む」と曲解されてしまったなどという笑い話もありました。「シンダイシャ」も「寝台車」と「死んだ医者」ではまるで違ってしまいます。こうしてみると、通常の仮名漢字まじり文をそのまま送ることのできる現在のEメールの有り難さが良くわかると思います。

しかし、仮名漢字まじり文でも、句読点の位置によって意味が違ってくることがあります。老舗メーカー「がまかつ」の糸付き釣り針のケースに「1本ずつ楽に抜けてもつれない針」というキャッチコピーが印刷されていた時期がありました。読点の入れようによっては「もつれない針」が「つれない針」になってしまうのにと他人事ながら心配していたものです。

 

モールス電信とこれを応用した電報信号を乗せていた銅線を使って音声信号を伝え合うようにしたのが電話システムです。そして、時代を下って、高い周波数に対応する伝送路の工夫が積み重ねられ、銅線は新しい伝送路メディア用資材として開発された同軸ケーブルにその地位を譲っていくことになります。電話は、「口」メディアから発せられる「音声」メディアを機械(送話機)メディアで「電気信号」メディアに変換して伝送路メディアを通して送り、これを再び機械(受話機)メディアで「音声」メディアに変換して「耳」メディアに伝えるための伝達メディアです。

「電話
(Telephone)」の文字通り、電気エネルギーを使って「遠隔地の(Tele)」「音(phone)」を、瞬時に、しかも、モールス信号のような別個の記号体系を介すことなく「音声言語」メディアによる「話」そのものの形で伝えることができるのです。「口」メディアと「耳」メディアの機能する空間的範囲を一気に拡大した電話メディアの登場により、「人」のコミュニケーション能力は革命的な進化を遂げました。有線電気通信メディアの主役として躍り出た電話ネットワークは、「人」の中枢神経系統をそのまま外在化させたものと言ってもよいほどの存在になりました。

なお、当初の
電気通信ニ―ズの主体は電話=「音声の伝送」を行なう通信サ―ビスであったのですが、次第にファクシミリ・デ―タ伝送等の非電話系通信サ―ビスに対するニ―ズが拡大し、電話網を用いるファクシミリ・データ伝送技術の開発(モデム・カプラ―等)に伴って、ディジタル・データ網(DDX)、ファクシミリ網、ビデオテックス網が非電話系通信専用網としてそれぞれ構築されてきました。

ところで電話がいかに便利なメディアかを考えてみましょう。今、東京と大阪にとてつもなく声が大きい人がいて、東京〜大阪間で直接話ができたと仮定しましょう。そのときモシモシ〜ハイハイだけでどれ程の時間が掛かると思いますか。東京のどこ、大阪のどこに居るのかによって違いますが、「音波」の媒体は「音速」を超えることはできませんので、東京から発した声が大阪に到着するのに約27分、それを聞いて発した“ハイハイ”という答えが東京に着くまでには何と54分もかかってしまうのです。

私たちは国際電話によってたとえ地球の裏側にいる人であっても、直ぐ隣にいるかのように話をすることができているのです。放送の世界においても今、イラクで何が起きているのが、イランで何が起きているのか、世界の多くの人々が目の前のTV画面で同時に情報を得ることが可能なのです。新しいコミュニケーション・メディアの発達によって「人」は距離と時間を超越する力を備えるに至ったのです。話を元に戻しましょう。

電話で実現することのできたテレコミュニケーションの伝送路を有線から無線へ拡張する試みがなされて第一に実現したのがラジオでした。19世紀末にマルコニーが実用化に成功した無線電信によって、モールス信号が無線で送れるようになると、今度は無線によって音声を送ることが当時の研究開発者達の最重要課題となったのです。そして、電磁波科学や特に真空管に関する電子技術の発達により20世紀初頭に放送実験に成功したラジオ無線通信が待たなければならなかったのはその需要の高揚でした。

当時はまだ見知らぬ人や遠方の人とコミュニケーションする必要性が認識されていなかったからです。そのラジオ無線通信の需要は、先ず、鉄道、船舶、新聞といった業界で顕在化しました。いずれも、有線メディアでは届かない遠隔地との交信、または、移動途上での情報交換が求められる業界です。産業界が注目したラジオ無線通信のこのような特性は、特に戦争時に戦略的または戦術的な移動を繰り返す戦線基地との交信に関する軍部のニーズにも合致するものでした。

ですから当初は、軍部も産業界も、ラジオ無線通信をもっぱらテレコミュニケーションのメディアとしか見ていなかったのであり、エンターテインメントやニュースのメディアとしての効能は認められていなかったということになります。マスコミュニケーション・メディアとしてのラジオ放送は、無線通信士として第一次世界大戦に従事したアメリカ市民が草の根的に立ち上げられたものと伝えられています。大衆(マス)を受信者と想定し、産業活動の一環として定時放送を行なう放送局としては、
1920年にウェスティングハウス社が自社製のラジオ受信機セットの販売促進を兼ねてピッツバーグに設立したのが最初のものでした。

受信機能と送信機能を併せ持っていたラジオ無線通信装置を受信機能だけに特化させ、ラウド・スピーカーを標準装備したラジオ受信機が大量生産され家電製品としての姿を整えたのには、その後相次いで放送局が設立され、放送内容が大衆に認知され受け入れられるというプロセスが必要だったのです。同じ電信から発生した電話とラジオでしたが、電波メディアを用いるラジオ放送は、不特定多数の大衆(マス)に対して同一のコンテンツを同時に発信することができるため、受信者の生活文化を一様化し、定時的な放送番組によって生活時間をコントロールする側面まで現れました。

テレビは、ラジオと同じ電波メディアを利用した伝達メディアですが、放送メディアとしての特性(ラジオとの親近性)の他に、映像メディアとしての特性(映画との親近性)、通信メディアとしての特性(電話との親近性)を持ち合わせていました。そして、現実に通信業界による「見える電話」や映画界による「シアターテレビジョン」へのアプリケーションも試みられていたのですが、行き着くところはラジオと同じ放送メディア路線となりました。これは、ラジオとテレビの以下のような共通性によるものと考えられています。

無線機器というハードに番組というソフトを乗せる
送り手から受け手への一方向の形で無線サービスを行なう
不特定多数の一般大衆を対象に無線サービスを行なう
家庭の中に導入された情報機器
生活時間に従って編成
娯楽とニュースを提供

そして、ラジオと同じマイクロホンとスピーカーの入出力メディアと電波送受信メディアに、ラジオにはない撮像管とブラウン管の入出力メディアを加えることにより、新たな「映像」メディアを含むマルチメディア伝達メディアとしてマスメディアの主役の地位を確保するに至ったのです。

5.デジタル技術によるコミュニケーション革命

デジタル技術のコミュニケーション領域への適用は、むしろ他分野に後れを取って進行しました。しかし、デジタル化は、電気通信とコンピューターとの融合を促進したばかりか、伝送路や記録メディアのデジタル化にまで及んだので、ネットワ―クの様相を一変せしめる程の根源的な影響を及ぼしました。電気・電子通信は以下の要因によって情報の選別・処理・伝達の改革をもたらしたのですが、デジタル化によってこうした要因の水準が更に大幅に向上し、新規メディアに主導権が移行する「コミュニケーション革命」が生起したのです。

1. 高速性
2. 大量性
3. 記録性
4. 多重性
5. 同報性
6. 双方向性
7. 自動交換性
8. 集中性・分散性
9. 入力・出力の簡易化・高速化
私達が仮に「情報通信技術(電気通信+情報+放送)によって実現される機能である」と定義した「コミュニケーション」の革命的進化はデジタル化を主要な契機とするものでした。コンピューター・ネットワーキングの進展とマルチメディア化の進展を誘い、これがインターネットの出現に結びついたからです。更に、ブロードバンド技術の開発やモーバイルネットワーク化が進展してユビキタス・ネットワーク化の動きが進行する傍らで、デジタル放送ネットワークの商用化により、通信と放送の融合も本格化する兆しを見せてきました。こうした、デジタルメディア出現後に起きた諸事象については、次項以降で逐一考察していきたいと思います。


(Ver.1 2003/ 9/28)
(Ver.2 2004/ 9/12)
(Ver.3 2005/ 1/ 1
)
(Ver.4 2006/10/ 1)

「コミュニケーション・メディア論」トップページへ戻る
「東芝38年生の酒記」トップページへ戻る