コミュニケーションメディア論 |
第11課 メディア・リテラシー |
これまで私たちは、「伝達メディア」としてのコミュニケーション・メディアの進化によって、「いつでもどこでも」情報を利用できるユビキタス情報社会実現の条件が整ってきた過程を考察してきました。「リテラシー」を「使いこなす能力」と定義するならば、「人」の持つ「伝達メディア・リテラシー」のレベルは、究極的な段階にまで向上してきたということができます。しかし、「伝達メディア」はあくまでも道具であり、文字、音声、グラフィックス、静止画、動画などの「表現メディア」で伝えられる情報のコンテンツ(内容)を使いこなす能力がなければ「メディア・リテラシー」が身に付いたとは言えません。最終の当課では、こうした表現メディアのリテラシーについて焦点を当てて考察したうえで、その習得に向けて若干のアドバイスをお贈りして、当講座の締めくくりをしたいと思います。 |
1.マスメディア・リテラシー
1−1.マスメディア論 メディア・リテラシー論の系譜は、ナチスがラジオ放送を効果的に悪用した1930年代に、大衆的メディア(ラジオ、映画et)の及ぼす爆発的影響力に対する危機感を反映して興ってきたマスメディア論に端を発しています。その後、マスメディア論は、1960年代から「テレビ等の大衆的メディアの社会的意味の分析」に焦点が移ってきました。マスメディアが登場して、人々は豊かな情報を容易に入手できるようになりました。しかし、多くのマスメディア(特にテレビ放送)に対しては比較的受動的に接しがちになるために、人々の考え方や感覚がマスメディアにより均質化される傾向があり、かつてナチスが行ったようなマスメディアの世論操作への悪用が更に大規模に行われる余地が生まれ、その社会的意味が問われるところになったのです。 メディア・リテラシー運動全米指導者会議(1992年)では、「メディア・リテラシー」定義の前半部で、「市民がメディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力を指す」としています。これは多分にマスメディアを意識した部分ですが、マスメディアに対する受動的な情報接触に慣れた我々が、マスメディアによる報道をそのまま鵜呑みするのではなく、能動的に「分析・評価」することの重要性がここに示唆されているように思えます。更に能動的に、「コミュニケーションを創りだす」ことまでできなければ真のマスメディア・リテラシーがあるとは言えないということを、ここに銘記する必要があると思います。 1−3.使いこなすこと 「日本人は活字に弱い」と言われます。新聞の記事や本に書かれると真実だと思ってしまう性向があるからです。しかし、活字メディアに限らず、マスメディアのいわゆる“ジャーナリスティックな”表現は要注意で、先ずは「仮説」に照らして「分析・評価」してみる必要があります。 1−5.報道内容のバイアス 東芝府中のラグビー部がトヨタを破って日本一の座についた時のゲームを、国立競技場に足を運んで生で観戦したことがあります。東芝府中のラグビーのゲームはテレビでは何回も観戦したことがあるのですが、ニュージーランドから来て東芝府中の主力選手になっていたマコーミックを肉眼で見るのは初めてのことでした。マコーミックの動きを注意しているうちに妙なことに気が付きました。ボールの位置から遠く、一見ソッポの方と思われるポジションにいることの多いマコーミックが、ボールを持つ機会も多いということです。どうやら、ボールが次に来る場所を予測していたり、味方にボールを送るよう指示していた場所に待機していたりしたためのようなのですが、このようなマコーミックの位置取りはテレビでは放映されたことがなく、現場で生のゲーム観戦をしなければ知ることができないものでした。テレビの放送するコンテンツは、ボールの現在位置の映像を中心に編集されるものだからです。 |
2.身体メディアの情報リテラシー
2−1.主役は「人」 第2課「コミュニケーション・メディアの系譜」で考察したように、「人」が初めて地上に現れた頃のコミュニケーションの形態は、ほとんど一部の野生動物と同じ状態であり、発信者から受信者に情報を伝えたメディアは、ゼスチャーなどの非言語表現メディアであって、伝達メディアは手足や目、耳などの身体メディア同士で、直接に情報をやり取りする形でした。やがて、言葉と文字という表現メディアを発明することによってコミュニケーション能力を向上させた「人」は、新たに開発した活版印刷機などの機械メディア、電話・ラジオなどの電気・電波メディアをコミュニケーション過程に介在させることによって、情報伝達の範囲と形態を拡大してきました。 更に、ITの革新によってコミュニケーション・メディアが進化してユビキタス情報社会の到来を迎えるに至ったのですが、この間に情報の発信者と受信者の間に介在するハードウェア・ソフトウェアの類の数は増える一方で、コミュニケーション・メディアの重層構造は複雑さの度を増すばかりであったといっても過言ではありません。しかし、ユビキタス情報社会になっても、最終的な情報の発信者と受信者が「人」であり、情報活用の主体があくまでも「人」であることには変わりがありません。コミュニケーション・メディアが重層化し、情報の種類と流通ルートが多種多様化しただけに、特に「読む・書く・聞く・話す」の言語活動上の四技能を司り、表現・思考・判断・記憶の機能を制御する諸身体メディアの情報リテラシーの重要性が更に増してきたということを充分に意識する必要があります。 コミュニケーション・メディアが多彩化し高度化する過程で、「リテラシー」の定義も「(マルチメディアを)読み書き話し聞くことのできる能力」に拡大してきたわけですが、語源的にもみても「読み書き」が「リテラシー」の基本であることが示唆されているように思えます。この点は、日本で習得すべき基礎的技能を「読み書きソロバン」と伝統的に称してきたのと符合しているようです。なかでも、文化の水準が人々の「リテラシー」の程度によって測られ、「文盲率」または「識字率」がその指標として用いられることがあるということは「読む」能力が基本の中の基本であることをしめしているものと考えられます。 「書く」ことは、もとより、積極的な情報発信の行為ですが、能動的に「読む」ことができなければ、「リテラシー」即ち「市民が“マルチ”メディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力」の中核部が欠けてしまうことになります。「行間を“読む”」、「文脈を“読む”」、「先手を“読む”」といった積極的な「読む=考える」過程がなければ、例えマルチメディアにアクセスできたとしても、「分析し評価する」ことはおろか、「コミュニケーションを創りだす」ことは期待できず、単にコンテンツを鵜呑みにして記憶し知識を増やすのが関の山になってしまうでしょう。養老孟司先生が著書「バカの壁」で、「日本人は“常識”を“雑学”のことだと思っているのではないか」という外国人からの指摘を肯定して、「日本には“分かっている”のと“雑多な知識が沢山ある”というのは別のものだということが分からない人が多すぎる」と述べられているのは日本人にありがちな“鵜呑み症候群”を戒められたものだと考えられます。 2−3.論理的思考の重要さ しかし、今や、「IT革新」によって「IT革命」が起こり、経済・政治・社会の動きが過去からの延長線から外れて、新たなパラダイムが模索されているのです。過去の栄光の実績にこだわって過去の方法論を踏襲することが逆に大きなリスク要因となっており、「過去の成功者ほど大失敗をおかしやすい」とさえ言われています。過去の事象についての知識が“バカの壁”になる可能性があるのです。色々な局面で前例踏襲が通用しなくなっていて、新しいソルーションが求められている現代では、自分なりに「考えて」、マルチメディアのコンテンツを「分析・評価」して、自分で最も納得ができる仮説(論理的なストーリー)に組み上げて、「多様な形態でコミュニケーションを創りだす(創造的な情報の受発信を行う)能力」をどの程度もっているかということが「頭の良さ」を表す指標になるでしょうし、それが本来の姿なのだと私は考えています。 |
3.情報リテラシーの向上へ向けて
情報リテラシーが未熟で、まだまだ鍛錬の余地が多い私が助言するなどというのはおこがましい限りですが、以下に東芝在籍38年間で私自身が得た教訓をもとに、情報リテラシー向上のポイントと思しき事項を列挙してご紹介します。参考にして頂ければ幸いです。 3−1.情報の収集段階 「どんなにコミュニケーション・メディアを充実させてデータを収集する体制をしいていても、情報は座して待っていて入手できるものではありません。「欲しい情報は何なのか」が明確になれば「そのために必要なデータは何なのか」が明瞭になるわけですが、それ以前に「自分は何がしたいのか」を明らかにしておかなくてはなりません。これは、家庭生活でも同じことが言えて、例えば「家を建てたい」や「車を買いたい」という意思をはっきりと持っていないと、折角の不動産データや新車データなども気付かれぬまま目の前を通り過ぎてしまい、意思決定のための知識(情報)として役に立たなくなってしまいます。 コミュニケーション・メディアを駆使してデータを集めて集計しても、ただそれだけでは有用な情報になりません。単なる事実や数字の羅列だけでは折角収集したデータも宝の持ち腐れになってしまいます。統計解析を加えてデータの持つ「意味合い」(だからどうした)を探って、仮説の構成や検証に役立てる必要があります。また、逆に、データの見方を誤ると、誤った仮説を持ち、それが関係者をミスリードすることがありますから要注意です。統計解析の素養を身につけることは情報リテラシーを高める上で重要であり、社会人として家庭人としての生活の様々な局面で有力な武器になりえます。 テレビのニュース・ショーで元検察庁の幹部とやらのK氏が、中国人による殺人事件に触れて、「外国人犯罪者の比率が高まってきた」とコメントした後、「外国人犯罪者では中国人の比率が圧倒的に高い」と続けて「中国人を見たら犯罪者と思え」と言わんばかりの口調と態度を示しました。私はこれを聞いてムッとしました。日頃日本語研修で優秀で熱心で清々しい中国人の若者達に接しているため中国びいきになっているためだけではありません。ここにも「木を見て森を見ず」の見解が見られ、しかも、影響力の強いマスメディアを通じて世論をミスリードする懸念を強く感じたからです。出生率の低下に伴って日本人人口が増えていないのに対して、外国人の日本への流入は増加しているから母集団(日本在住人口)自体が統計サンプル(犯罪者)と同様に「外国人の比率が高まってきた」のではないか、しかも、在日外国人(母集団)のうちでも外国人犯罪者(統計サンプル)と同様に「中国人の比率が圧倒的に高い」のではないかという疑問が生じます。基礎的な統計解析による検証を欠いた発言が著名人の口から不用意に発生したものであったとしたら、国際間の友好関係を無用に損ねるものになるのではないかと懸念しています。 Y=A1X1 + A2X2 +A3X3 ・・・+AiXi 多変量解析の結果、意外なことに、「天井直付け部分のフレームが目立たない」という変量が最も総出荷台数と相関関係があることが分かりました。照明器具のデザイナーはフレームの部分を如何に美しくするかということを重点にデザインしていましたし、照明器具のカタログにも器具の水平方向から撮影してフレームの美しさをアピールする写真を掲載していました。天井直付照明器具に対するユーザーの目線は下から上へ向かうものであり、器具の水平方向からのものではなかったのですが、ユーザーの目線を度外視して、目立たずすっきりとさせなければならない部分を目立たせようとしてデザインをしていたということが分かったのです。眠っていた膨大な統計データに統計解析を加えることによって、新しい気付きが得られたわけです。私が試みた時期には、大型コンピューターでなくてはできず、従って、IS部門のサポートも必要だったのですが、現在では性能が大幅に向上していますのでパソコンでも多変量解析をすることができますし、多変量解析用のパッケージ・ソフトも市販されています。今後ますます、利用が容易になったTT環境を実地に利用するかしないかによって、企業の情報リテラシーに大きな差がついていくことでしょう。
ここでは、意思決定を促進するのに有効な情報伝達の方法として図表化による情報発信をとりあげて考察したいと思います。 本来なら、「立体的に考察する」ことが重要であり、二次元では不十分なのですが、平面上に分かりやすく表現できるのは二次元の世界までですし、三つ以上の軸があった場合でも、必要に応じて個々に二つの軸を組み合わせて平面上のグラフに展開して表示すれば充分事足りることなのです。以下のような、グラフの利点を活かして、二次元思考による総合的な情報活用を推進する必要があります。 ・ 「計数や数字に弱い」と思っているメンバーにも親しみやすい ・ 様々な比較・対象をすることができる ・ 全体のバラつき(分散)の状態などを観察することができる ・ 細かい数値にとらわれず大局的な判断ができる ・ 関係者が同じ情報を共有しやすくなる 3−3−2.図表化の場合の留意点 PowerPointのようなプレゼンテーション用のソフトウェアも充実してきましたし、イントラネットから必要なデータを取り出してグラフィック機能が強化したパソコンを用いて綺麗な図表が簡単に作成できるような環境になりました。しかし、逆に、綺麗なだけで何を訴求したい「グラフのためのグラフ」が安易に作られる傾向が強くなってきたのは残念なことです。図表をもって情報を伝達する場合には以下のような留意点を念頭にして取り組む必要があります。 A.ポイントが一目瞭然であること 「何を言いたいのか」という訴求点が見る人に分かりやすい図表でなければなりません。そのためには、一つの図表であれもこれも訴求しようとせず、図表ごとに一つの訴求に絞る必要があります。図表ごとに「ワンポイント・コメント」を付けるのも良い方法です。筋道を立てて、一つ一つの図表の訴求点をつないだ形で視覚的な提示を行えば、仮説を効果的に訴求することができます。 B.適切なグラフ種を選択すること グラフには、棒グラフ、折れ線グラフ、帯グラフ、円グラフ、レーダーチャートなど様々な種類のグラフがあります。訴求する内容によって適切なグラフを選択しないと有効な訴求ができないばかりか見る人をミスリードしてしまう場合もあります。例えば、折れ線グラフは、時系列の変化を表現するためのものですから、一時点における数値の大きさを対比させたい場合には棒グラフなどを選択しなければなりません。また、折れ線グラフにも、半対数グラフがあって、率的な変化を表現する場合には好適です(通常の方眼目盛では量的な変化が長さで表現されます)。 C.表示ルールを守ること 前述のように、グラフ表現を用いれば関係者が同じ情報を共有しやすくなるという利点がありますが、逆に言うと、訴求力が大きいだけに関係者全員に同じ誤解をもたらす可能性がありますから注意する必要があります。中でも、目盛間隔を不均等にしたり、部分を誇大表現したりすると、無作為であったとしても、見る人に誤った印象を与えてしまいますから、グラフ作成のルールはきちんと守らなければなりません。 3−3−3.図表による状況分析 上の図は、「需要」100に対して「受注」が100ならば市場占拠率100%なのですが、実際には、「引合」、「見積」、「受注」の各段階でリーケージ(漏れ)が生じたために市場占拠率20%に終わったという状態を示しています。先ず、「引合」の段階の「漏れ:L1」は、顧客または設計事務所の当社製品に対する認知度の低さが主な原因になっているものと考えられ、このL1のために当社製品が商談の土俵に登れたのが60%に止まったという結果になっています。次に、「見積」の段階で「漏れ:L2」が発生していますが、これは「引合」がありながら、当社製品のラインナップの不足などから要求仕様に対応することができず見積を提出できなかったのが主な原因と考えられます。そのため「見積」に参加できたのは全体の40%に止まることになり、更に価格競争に敗れるなどして「漏れ:L3」が生じ受注20という結果になったのです。このように、リーケージ(漏れ)が起こった段階を確認し、それぞれに仮説として考えられる「漏れ」の原因を検証して、それぞれに対する対策を立案して実行すれば受注率(市場占拠率)が改善できる可能性が高まります。漠然と「受注率(市場占拠率)の改善」を目標に掲げて活動しても、適切な対策が打たれるとは限らず、目標が単なるスローガンに終わってしまう可能性があります。 |
結 び |
以上、全11課にわたって、自分なりの「コミュニケーション・メディア論」を組み立てて書き綴ってきました。日進月歩の世界で最新の動きが捉え難い上に、「コミュニケーション・メディア」の範囲が広大なので、率直に言って、こんな小論を纏め上げることでも私にとっては難事業であり大きな負担でもありました。まだまだ、自分自身でも満足できていないところが数々ありますが、皆さん自身の情報リテラシー向上のために少しでも役に立てていただけたら願ったりかなったりです。 最終章でも述べましたように、今後ますます「覚える能力(記憶力)」よりも「考えて情報を受信し発信する能力(情報リテラシー)」の方が重視されていくと考えられます。「能力」には、アビリティー(論理的に考える力:Ability)とコンピテンス(実現する力:Competence)とがあると言われます。ですから、「覚える能力(記憶力)」だけではアビリティー以前であって、これだけでは物の役に立つものではありません。また、更に「アビリティーだけではダメで、知識を使って物事を解決するコンピテンスが必要だ」とも言われます。自分なりに考えることによって得られる「意思決定に役立つ“知識”」こそ情報であり、「物事を解決する」のに中心的な役割を果たすのが情報発信であることを考慮すれば、「情報リテラシー」はアビリティーとコンピテンスの両面を含むものであると考えることができます。そして、これまで重視されてきた「記憶力」が、どちらかというと先天的な素養であるのに対して、「情報リテラシー」の方は訓練次第でいくらでも強化できる点に留意する必要があります。「考える能力」も「情報を発信する能力」も主体的に使ってみなければ発揮できない能力であり、使ってみて試行錯誤を繰り返しているうちに身に付き強化されていくものだからです。 東芝の土光敏夫・元社長は、社内報で「トップ指針抄」を流しておられました。その中から、当時人事開発部長をされていた本郷孝信さんが百か条を選んで編集して出版されたのが「経営の行動指針」ですが、その第一項に「活力=知力×(意力+体力+速力)」という式が紹介されています。「活力(バイタリティー)」は「知力(知識+創造)」が基本になり、これがゼロなら活力は生まれない。しかし、知力だけでは不十分であり、「意力(やる気)」と「体力」と「速力(スピード)」の総和と「知力」の相乗効果があってこそ豊かな「活力(バイタリティー)」が生まれるのだということがこの式に示されています。「活力」こそコンピテンス(実現する力)の源ですし、「知力」はアビリティーに他なりませんから、この式は「コンピテンス=アビリティー×(意力+体力+速力)」と書き換えることができそうです。 私は更に、“土光方程式”をモディファイした「能力=意力×(知力+体力+速力)」を皆さんにお贈りしたいと思っています。私自身、現役サラリーマン時代「忙しくてできない」とか「する時間がない」という言葉を禁句にしていました。忙しい中で、何をするか決定するのは優先順位の問題であって、「する時間がない」と言うのは、突き詰めて考えてみると、その事柄の優先順位が低くて「やる気がない」のが本当の理由になっていることが多いからです。「意力(やる気)」がなければ「能力」は発揮できず、折角の「知力+体力+速力」も宝の持ち腐れになってしまいます。また、「意力」と「知力+体力+速力」の相乗効果によって「能力」は向上します。そして、「やる気」というのは、根底に「××をしたい」という強い願望がなければ生まれてくるわけがありませんから「意力」は「願力」と言い換えることができるかもしれません。 「流れ星が消えるまでに願い事を唱えると願いがかなう」というのは一面の真実だという人がいます。流れ星が消えるまでの短い時間に願い事を唱えられるということは、常日頃から願望を強く心に抱いていないとできないことだからです。「どんな勉強/どんな仕事をしたいのか」なかなか思い悩んで決めにくいことだと思います。しかし、ここでも「仮説」を設定する意味と必要性があります。「当面自分が一番したい勉強/仕事は××だ」と決めておくことです。こうしておけば、××に関する情報やデータに自然に目が行くようになりますし、それらを「分析・評価」する力がついてきますし、自説を新たな情報として「創造」できるようになり、情報の使い手になることができます。仮説を持つことの重要さは、勉強や仕事に限らず、余暇の過ごし方などの日常の事柄を考えてみてもよく分かることだと思います。予め「余暇はテニス/読書/ハイキングをする」と決めておけば、関連する情報は集めやすくなりますし、余暇の当日も時間をフルに活用できますが、迷った挙句行き当たりばったりになったのでは有効な余暇の過ごし方はできません。人生、生活の色々な局面で、仮説を立てて強い「願力」を持つとともに、「考える」訓練によって「知力」を向上させることによって情報の使い手となって、充実した日々を過ごされることを祈りつつ当稿の結びと致します。 以 上
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(Ver.1 2004/ 1/29)
(Ver.2 2004/ 9/12)
(Ver.3 2005/ 1/ 1)
(Ver.4 2007/ 1/20)
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