コミュニケーションメディア論

第11課 メディア・リテラシー

これまで私たちは、「伝達メディア」としてのコミュニケーション・メディアの進化によって、「いつでもどこでも」情報を利用できるユビキタス情報社会実現の条件が整ってきた過程を考察してきました。「リテラシー」を「使いこなす能力」と定義するならば、「人」の持つ「伝達メディア・リテラシー」のレベルは、究極的な段階にまで向上してきたということができます。しかし、「伝達メディア」はあくまでも道具であり、文字、音声、グラフィックス、静止画、動画などの「表現メディア」で伝えられる情報のコンテンツ(内容)を使いこなす能力がなければ「メディア・リテラシー」が身に付いたとは言えません。最終の当課では、こうした表現メディアのリテラシーについて焦点を当てて考察したうえで、その習得に向けて若干のアドバイスをお贈りして、当講座の締めくくりをしたいと思います。

1.マスメディア・リテラシー

1−1.マスメディア論

メディア・リテラシー論の系譜は、ナチスがラジオ放送を効果的に悪用した1930年代に、大衆的メディア(ラジオ、映画et)の及ぼす爆発的影響力に対する危機感を反映して興ってきたマスメディア論に端を発しています。その後、マスメディア論は、1960年代から「テレビ等の大衆的メディアの社会的意味の分析」に焦点が移ってきました。マスメディアが登場して、人々は豊かな情報を容易に入手できるようになりました。しかし、多くのマスメディア(特にテレビ放送)に対しては比較的受動的に接しがちになるために、人々の考え方や感覚がマスメディアにより均質化される傾向があり、かつてナチスが行ったようなマスメディアの世論操作への悪用が更に大規模に行われる余地が生まれ、その社会的意味が問われるところになったのです。

1−2.メディア・リテラシー

メディア・リテラシー運動全米指導者会議(1992)では、「メディア・リテラシー」定義の前半部で、「市民がメディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力を指す」としています。これは多分にマスメディアを意識した部分ですが、マスメディアに対する受動的な情報接触に慣れた我々が、マスメディアによる報道をそのまま鵜呑みするのではなく、能動的に「分析・評価」することの重要性がここに示唆されているように思えます。更に能動的に、「コミュニケーションを創りだす」ことまでできなければ真のマスメディア・リテラシーがあるとは言えないということを、ここに銘記する必要があると思います。

1−3.使いこなすこと

特に、「創りだす」のは、分析・評価」した上で、自説を「創造」することですから、マスメディアによる報道を「こなす」(自分なりに消化して身につける)過程に相当し、この分を欠いていたら、真の「使いこなす能力」(リテラシー)があるとは認められません。インターネットを検索すれば、必要な情報をいつでも手に入れられるようになりました。

これからは、何事につけても、マスメディアで知識を得て覚えることよりも、それを情報源の一つとして活用して、自分なりに筋道を立てて考えてゆくことの方が、ますます重要になっていくものと思われます。この講座でも、再三にわたって「
仮説」を設けることの重要性を論じてきましたが、「仮説」とは、このような「自分なりに論理的に考えた結果の話の筋道(ストーリー)」のことを指していたのです。現在持っている「仮説」で説明できないような出来事があれば、必要に応じて、新しい情報を採り入れて仮説を修正していけば良いのです。


1−4.分析・評価してみること

「日本人は活字に弱い」と言われます。新聞の記事や本に書かれると真実だと思ってしまう性向があるからです。しかし、活字メディアに限らず、マスメディアのいわゆる“ジャーナリスティックな”表現は要注意で、先ずは「仮説」に照らして分析・評価」してみる必要があります

例えば、日本経済新聞でも使っている言葉ですが、「
IT革命」はどのように定義されているでしょうか。私の知る限り、IT革命」とIT革新」とをきちんと使い分けているメディアはないようです(マイホームページの「IT革命に関する考察」参照http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/Itkakumei.htm)。

昨年来イラクで行われていたことも、果たして本当に「戦争」であったのでしょうか。
「ベトナムでも湾岸でもユーゴでもアフガンでも、アメリカに爆弾一つ落とせない国に対して、宣戦布告も無しに攻撃を仕掛けるのは“戦争”ではなくて“鎮圧”である」という考え方があります。ほとんどマスメディアでは取り上げられていませんが私はこちらの仮説の方を支持しています。「戦争ではないからイラク側も敗戦宣言ができない。従って、抵抗戦力が尽きるまで戦闘は終結しない」という考え方でないと「筋」が通らないように思えるからです。

「テロ」も同様で、これを「レジスタンス(抵抗運動)」または「ゲリラ」と峻別しているメディアにお目にかかったことがありません。これは、単なる言葉の問題ではなくて、現象をどのように本質に結び付けて考えるかという「筋」の問題と裏腹の関係にあり、「筋」の立て方によって行動パターンが決定してしまうところが重要なのです。

「レジスタンス」も「ゲリラ」を混ぜこぜにして「テロ」と見るのは、「国家間の戦争は終わった」という考えが背後にあり、これが「終戦後のイラクに大使館を再開し外交官を派遣する」という「筋」になったのではないでしょうか?装備のある自衛隊でさえ少しでも安全な地帯を探して派遣しようとしているのに、「レジスタンス」または「ゲリラ」活動が続いている「抗戦中の国家」に丸腰の外交官がまさか派遣されていたとは驚きでした。

1−5.報道内容のバイアス

70 年代以降、メディアはあらゆる局面でテレビが中心になりました。特に、「現場」からの映像の即時配信が可能になったことが大きく、実際に起きていることがリアルタイムで見られる臨場感の点では、テレビに勝るメディアはありません。以前の「アフガン」や今回の「イラク」でも、テレビに映し出された映像の衝撃の強さに世界中の人が釘付けになっていたようです。これも、見ていることが重要で、見たことは確かに事実なのですが、衝撃の強さとは別に、映し出されたシーンは大きな局面のほんの一部にしかすぎないということも忘れてはなりません。

イラク報道でも、同じテレビ・メディアでありながら、アメリカのCNNが「輝かしい戦果」を中心に報道していたのに対して中東のアルジャジーダは「惨めな戦禍」に焦点を当てていたように、価値観によって視角が違います。円錐が側面から見れば三角形、上面から見れば円にしか見えないのと同様に、視角が違えば物の見え方と見せ方は違ってきます。

ですから、良し悪しではなくて、報道内容には当然メディアごとのバイアスがかかるものなのです(この点は、養老孟司先生が著書「バカの壁」で、“公平・客観・中立”をモットーとして掲げているNHKを「NHKは神なのか」と批判されているのと一脈通じていると思っています)。

映像情報は、文字情報と比べて格段に情報量が大きいだけに、コンテンツがそのまま安易に受け入れやすい素地があります。しかし、やはり鵜呑みは禁物。
Why/Because/Why/because……の自問自答を繰り返しながら、映像の裏にある「筋」を探求して自分の仮説を育ててゆく心がけが必要だと思います。かつて日本を経済大国の座に導いたTQCでは、表面的な現象から本質を究明するためのアプローチとして「Whyを5回繰り返せ」と指導しています。自分の論理的な考え方を育ててゆくためにも、このTQCの指導理念は教訓として役に立つと思います。


1−6.コンテンツ編集の功罪

「ナイターのテレビ中継が大好きな子供を野球場に連れていったゲームを生で見せてやったところすぐに退屈されてしまった」というエピソードがあります。テレビの映像は、それぞれのアングルから高度の映像技術で被写体を追う多数のカメラマン(取材者)の捕らえた映像の中から更にスポットを絞って編集されたコンテンツです。従って、球場で目にすることのできる夥しい数の光景の中から、雑音(noise)を取り除いた信号(signal)のみがテレビ画面に現れる訳ですから、視聴者は極めて効率的に有効な情報を入手することができるのです。その上、アナウンサーや解説者がゲームの「筋」を音声で伝えてくれますから、視聴者は単純にストーリーの展開を楽しんでいればいいわけです。

しかし、一方、球場の現場でゲームを観戦する場合は、雑音(noise)と信号(signal)の取捨選択は観客自体が行なわなければならない作業になりますし、時には、座席によって信号(signal)が視覚に捕らきれない場合さえあります。つまり、観客は信号(signal)と思しき光景にスポットを当て見えない信号(signal)を補うことによって、自ら取材し自らコンテンツを編集しなければならなりませんし、アナウンサーも解説者もいませんから「筋」を読むのも全部自分でしなければなりません。テレビ画面の編集されたコンテンツに慣れた子供が球場で退屈してしまう原因はここにあるのです。これは、生でゲームを見るだけの目(身体メディア)のリテラシーが未熟な場合には、コンテンツを編集して伝えるテレビの方がメディアとして有効であることを如実に示す事例でした。

東芝府中のラグビー部がトヨタを破って日本一の座についた時のゲームを、国立競技場に足を運んで生で観戦したことがあります。東芝府中のラグビーのゲームはテレビでは何回も観戦したことがあるのですが、ニュージーランドから来て東芝府中の主力選手になっていたマコーミックを肉眼で見るのは初めてのことでした。マコーミックの動きを注意しているうちに妙なことに気が付きました。ボールの位置から遠く、一見ソッポの方と思われるポジションにいることの多いマコーミックが、ボールを持つ機会も多いということです。どうやら、ボールが次に来る場所を予測していたり、味方にボールを送るよう指示していた場所に待機していたりしたためのようなのですが、このようなマコーミックの位置取りはテレビでは放映されたことがなく、現場で生のゲーム観戦をしなければ知ることができないものでした。テレビの放送するコンテンツは、ボールの現在位置の映像を中心に編集されるものだからです。

また、サッカーのゴール・シーンでも、絶妙なセンターリングを挙げたアシスト役と、ゴールを決めたストライカーしかテレビ映像には映りませんが、フェイントによって相手のディフェンダーを引き付けてアシスト役とストライカーを活動しやすくした陰の立役者であるミッドフィルダーが画面には登場しないというようなケースがあります。これもテレビカメラの焦点がボールの現在位置に当てられるからです。
目(身体メディア)が肥えていて、チームの組織的な動きを楽しむことのできるファンにとっては、物足りないコンテンツの編集になるわけです。

2.身体メディアの情報リテラシー

2−1.主役は「人」

第2課「コミュニケーション・メディアの系譜」で考察したように、「人」が初めて地上に現れた頃のコミュニケーションの形態は、ほとんど一部の野生動物と同じ状態であり、発信者から受信者に情報を伝えたメディアは、ゼスチャーなどの非言語表現メディアであって、伝達メディアは手足や目、耳などの身体メディア同士で、直接に情報をやり取りする形でした。やがて、言葉と文字という表現メディアを発明することによってコミュニケーション能力を向上させた「人」は、新たに開発した活版印刷機などの機械メディア、電話・ラジオなどの電気・電波メディアをコミュニケーション過程に介在させることによって、情報伝達の範囲と形態を拡大してきました。

更に、ITの革新によってコミュニケーション・メディアが進化してユビキタス情報社会の到来を迎えるに至ったのですが、この間に情報の発信者と受信者の間に介在するハードウェア・ソフトウェアの類の数は増える一方で、コミュニケーション・メディアの重層構造は複雑さの度を増すばかりであったといっても過言ではありません。しかし、ユビキタス情報社会になっても、最終的な情報の発信者と受信者が「人」であり、情報活用の主体があくまでも「人」であることには変わりがありません。コミュニケーション・メディアが重層化し、情報の種類と流通ルートが多種多様化しただけに、特に「読む・書く・聞く・話す」の言語活動上の四技能を司り、表現・思考・判断・記憶の機能を制御する諸身体メディアの情報リテラシーの重要性が更に増してきたということを充分に意識する必要があります。

2−2.情報リテラシーの本質

改めて「リテラシーとは何か?」を自問してみますと、リテラシー(Literacy)は語源がliterature(文学・文献)にあり、その意味は「(文字を)読み書きできる能力」であることが分かります。「文字の文化(リテラシー)」は、歴史的に、「声の文化」に次いで現れ、更に、電話・ラジオ・テレビ等の電気電子文化の「二次的な声の文化」に展開してきており、その過程で「文字文化」は、「無文字文化」の時代に次いで出現し、グーテンベルクによる活版印刷の技術と機械の発明によって、「活字印刷文化」に発展してきたものです。テレビ、ラジオ、映画、写真等による音声、画像、映像といった表現メディアは文字によって大きく影響されているとはいっても「文字」ではありませんから、これらをリテラシーの対象として考えることは、語源的には「Literacy」と自己矛盾していることになります。

コミュニケーション・メディアが多彩化し高度化する過程で、「リテラシー」の定義も「(マルチメディアを)読み書き話し聞くことのできる能力」に拡大してきたわけですが、語源的にもみても「読み書き」が「リテラシー」の基本であることが示唆されているように思えます。この点は、日本で習得すべき基礎的技能を「読み書きソロバン」と伝統的に称してきたのと符合しているようです。なかでも、文化の水準が人々の「リテラシー」の程度によって測られ、「文盲率」または「識字率」がその指標として用いられることがあるということは「読む」能力が基本の中の基本であることをしめしているものと考えられます。

「書く」ことは、もとより、積極的な情報発信の行為ですが、能動的に「読む」ことができなければ「リテラシー」即ち「市民が“マルチ”メディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力」の中核部が欠けてしまうことになります。「行間を“読む”」、「文脈を“読む”」、「先手を“読む”」といった積極的な「読む=考える」過程がなければ、例えマルチメディアにアクセスできたとしても、「分析し評価する」ことはおろか、「コミュニケーションを創りだす」ことは期待できず、単にコンテンツを鵜呑みにして記憶し知識を増やすのが関の山になってしまうでしょう。養老孟司先生が著書「バカの壁」で、「日本人は“常識”を“雑学”のことだと思っているのではないか」という外国人からの指摘を肯定して、「日本には“分かっている”のと“雑多な知識が沢山ある”というのは別のものだということが分からない人が多すぎる」と述べられているのは日本人にありがちな“鵜呑み症候群”を戒められたものだと考えられます。

2−3.論理的思考の重要さ

「読む・書く・聞く・話す」の四技能を十全に機能させるためには「考える」技能が不可欠であるということからすると、四技能を担うそれぞれ目・手・耳・口といった身体メディアの活動の制御を司る大脳という身体メディアによる「考える」能力次第で情報リテラシーの程度が決まるということが分かってきます。従来、「頭の良さ」は、大脳の「覚える/思い出す」能力を表す指標としての知識量の多寡を測るペーパーテストの結果によって評価されてきました。「学力=知識量」が豊富で、ペーパーテストの成績の優秀な者が「秀才」、「エリート」としてもてはやされ、続々として行政の中軸に座す高級官僚への道を辿るという構図ができていたのです。そして、これが過去の事例に関する知識の量が物を言う前例踏襲の官僚主義をはびこらせる原因にもなりました。確かに、経済・政治・社会が一つの線の延長線上を動いている状態では前例踏襲が最も安全で効率的な方法ですから官僚流のやり方が効を奏していました。

しかし、今や、「IT革新」によって「IT革命」が起こり、経済・政治・社会の動きが過去からの延長線から外れて、新たなパラダイムが模索されているのです。過去の栄光の実績にこだわって過去の方法論を踏襲することが逆に大きなリスク要因となっており、「過去の成功者ほど大失敗をおかしやすい」とさえ言われています。過去の事象についての知識が“バカの壁”になる可能性があるのです。色々な局面で前例踏襲が通用しなくなっていて、新しいソルーションが求められている現代では、自分なりに「考えて」、マルチメディアのコンテンツを「分析・評価」して、自分で最も納得ができる仮説(論理的なストーリー)に組み上げて、「多様な形態でコミュニケーションを創りだす(創造的な情報の受発信を行う)能力」をどの程度もっているかということが「頭の良さ」を表す指標になるでしょうし、それが本来の姿なのだと私は考えています

3.情報リテラシーの向上へ向けて

情報リテラシーが未熟で、まだまだ鍛錬の余地が多い私が助言するなどというのはおこがましい限りですが、以下に東芝在籍38年間で私自身が得た教訓をもとに、情報リテラシー向上のポイントと思しき事項を列挙してご紹介します。参考にして頂ければ幸いです。

3−1.情報の収集段階

どんなにコミュニケーション・メディアを充実させてデータを収集する体制をしいていても、情報は座して待っていて入手できるものではありません。「欲しい情報は何なのか」が明確になれば「そのために必要なデータは何なのか」が明瞭になるわけですが、それ以前に「自分は何がしたいのか」を明らかにしておかなくてはなりません。これは、家庭生活でも同じことが言えて、例えば「家を建てたい」や「車を買いたい」という意思をはっきりと持っていないと、折角の不動産データや新車データなども気付かれぬまま目の前を通り過ぎてしまい、意思決定のための知識(情報)として役に立たなくなってしまいます。

3−1−1.5W2H・・・情報の総合的把握

「私は1週間のうちに二つ4000m級の山に登ったことがある」と言いますと、大抵の人は「へえー」と驚いた顔をします(なかば、驚かせるのが目的なのですが)。情報を受発信する場合には、5W1H(What:Who:When:Why:Where:How)を明確にする必要があると言われます。この私の話も、“マイルシティー”と呼ばれ、それ自体の標高が1,600mもある「デンバーで」(Where)、しかも、山頂まで自動車道路が通じているので、「乗用車で」(How)登ったという情報があれば、実はあまり驚かなくてもいい話なのです。オフィスで議論をする場合には、更に、もう一つのH(How much)を加えた5W2Hを明確にすることが重要です。小泉首相の「構造改革」も個別の施策(What)を、誰が(Who)責任を持って、何時までに(When)どのように(How)実行し、どのくらいの経済効果(How much)が得られるのか明らかになれば国民の支持・支援を得やすいものになるのではないでしょうか。


3−1−2.なぜ裸足なのか・・・調査による情報収集

学生時代に私は「調査は仮説の検証のために行うものだ」という教育を受けていました。実際に、調査によって事実関係についてのデータをいくら集めても、「ではどうするのだ」ということの結論につながらなければ「情報=意思決定のために必要な知識」になりません。例えば、よく引き合いに出されますが、南洋の裸足の生活習慣の話があります。「南洋では靴を履いている人がいない」という事実だけが分かったとしても、靴の販売業者は、「靴の効用が知られていない未開発市場だから積極的に進出すべきだ」という仮説を採れば良いのか、「靴を買うだけの購買力がないのだから市場進出は止めるべきだ」という仮説を採れば良いのか意思決定をすることができません。このような場合には、例えば、靴に対する認知度や購買力レベルなどの「どうして靴を履いていないのか」の理由を明らかにする市場調査アイテムを加えることによって、どちらの仮説が妥当なのか検証する必要があります。

3−1−3.KFS仮説・・・意思決定志向の調査

また、調査の結果次第で、これに見合った対応をするだけの潜在能力があるかどうかについても予め仮説を準備しておく必要があるケースもあります。ある時に実際にあった話なのですが、技術者のグループが調査をした結果、「この製品の市場の規模が極めて大きいから積極的に事業展開をすべきだ」と提案してきたことがあります。しかし、つぶさに検討してみると、その市場でのKFS(成功のための要因:Key Factors for Success)は「多種多様な仕様の製品の短納期供給」であり、実際に、無数にある中小零細なメーカーが柔軟かつ俊敏に小回りをきかせて供給対応することによって市場が成り立っていることが分かりました。残念ながら、「小回りがきく」というKFSに対応するのには東芝は規模が大きすぎて潜在能力が無かったのです。KFSに対する配慮を欠いた技術者グループの提案に対して私は「それでは、“市場が大きいから東芝は即席ラーメンの事業に乗り出すべきだ”といっているのと同じようなものではないか」と揶揄したのですが、やはり、調査に当たってはKFSに関して分かっている限りの知識を動員して仮説を構成し、仮説を検証するための調査にして欲しかったというのが本音でした。

3−2.情報の分析・評価段階・・・統計解析の勧め

コミュニケーション・メディアを駆使してデータを集めて集計しても、ただそれだけでは有用な情報になりません。単なる事実や数字の羅列だけでは折角収集したデータも宝の持ち腐れになってしまいます。統計解析を加えてデータの持つ「意味合い」(だからどうした)を探って、仮説の構成や検証に役立てる必要があります。また、逆に、データの見方を誤ると、誤った仮説を持ち、それが関係者をミスリードすることがありますから要注意です。統計解析の素養を身につけることは情報リテラシーを高める上で重要であり、社会人として家庭人としての生活の様々な局面で有力な武器になりえます。

3−2−1.木を見て森も見る

これも私が東芝在職中に某銀行で実際にあった話です。女子行員の定着率が低く、入行して実務研修をしてもすぐに離職してしまうのに頭を痛めた某銀行が早期離職者の特性を分析した結果出した結論は「早期離職者は長女が圧倒的に多い」であり、「翌年からは長女の採用は手控えよう」というのが意思決定の内容でした。もともと「次女のいない長女はいても長女のいない次女はいない」のですし、少子化の傾向が進むさなか「子どもは長女一人だけ」というケースさえあるのですから、母集団(日本の女性全体)自体からして長女の割合が圧倒的に高いのです。ですから、統計サンプル(早期離職女子行員)で長女の構成比が圧倒的に高かったのは至極当然のことだったのです。当面の問題に悩む当事者は、どうしても「木(統計サンプル)を見て森(母集団)を見ず」の弊に陥りがちです。

テレビのニュース・ショーで元検察庁の幹部とやらのK氏が、中国人による殺人事件に触れて、「外国人犯罪者の比率が高まってきた」とコメントした後、「外国人犯罪者では中国人の比率が圧倒的に高い」と続けて「中国人を見たら犯罪者と思え」と言わんばかりの口調と態度を示しました。私はこれを聞いてムッとしました。日頃日本語研修で優秀で熱心で清々しい中国人の若者達に接しているため中国びいきになっているためだけではありません。ここにも「木を見て森を見ず」の見解が見られ、しかも、影響力の強いマスメディアを通じて世論をミスリードする懸念を強く感じたからです。出生率の低下に伴って日本人人口が増えていないのに対して、外国人の日本への流入は増加しているから母集団(日本在住人口)自体が統計サンプル(犯罪者)と同様に「外国人の比率が高まってきた」のではないか、しかも、在日外国人(母集団)のうちでも外国人犯罪者(統計サンプル)と同様に「中国人の比率が圧倒的に高い」のではないかという疑問が生じます。基礎的な統計解析による検証を欠いた発言が著名人の口から不用意に発生したものであったとしたら、国際間の友好関係を無用に損ねるものになるのではないかと懸念しています。

3−2−2.多変量解析で得られる新たな気付き

物には形や色、大きさなど多くの変量があります。色や形などは本来アナログ特性のあるものですから数量化できないものでした。しかし、統計解析の世界に多変量解析や数量化理論が確立して以来、大量データから法則性を探り出そうとする試みがされるようになりました。私も、電設資材関係の仕事をしていた時に天井直付照明器具の出荷実績について多変量解析を試みたことがあります。夥しい数の機種の照明器具の変量(Xi)と総出荷台数(Y)の関係を次のような等式で表して、販売統計データベースから機種別に変量と総出荷台数の実数を代入することによって、どの変量が総出荷台数と相関関係が高いのか割り出すのが目的でした。これが分かれば、最も総出荷台数が多くなるような変量を持った新製品を設計して販売できるからです。

         Y=A11 + 22 +A33 ・・・+Aii

多変量解析の結果、意外なことに、「天井直付け部分のフレームが目立たない」という変量が最も総出荷台数と相関関係があることが分かりました。照明器具のデザイナーはフレームの部分を如何に美しくするかということを重点にデザインしていましたし、照明器具のカタログにも器具の水平方向から撮影してフレームの美しさをアピールする写真を掲載していました。天井直付照明器具に対するユーザーの目線は下から上へ向かうものであり、器具の水平方向からのものではなかったのですが、ユーザーの目線を度外視して、目立たずすっきりとさせなければならない部分を目立たせようとしてデザインをしていたということが分かったのです。眠っていた膨大な統計データに統計解析を加えることによって、新しい気付きが得られたわけです。私が試みた時期には、大型コンピューターでなくてはできず、従って、IS部門のサポートも必要だったのですが、現在では性能が大幅に向上していますのでパソコンでも多変量解析をすることができますし、多変量解析用のパッケージ・ソフトも市販されています。今後ますます、利用が容易になったTT環境を実地に利用するかしないかによって、企業の情報リテラシーに大きな差がついていくことでしょう。

3−2−3.情報を採掘する

生データを解析し、その中に潜む項目間の相関関係やパターンなどを探し出す技術に「データマイニング」があります。「発見型データベース活用法」であり、データベースに埋もれている膨大なデータの中から、ある相関関係などの法則性を持ったものを選び出して抽出するところが鉱山から鉱石を採掘(mining)する作業に似ているところからこの名前がつけられています。

例えば、購買履歴などの顧客データに、回帰分析、相関分析などの統計的解析を加えて、法則性を見つけ出してマーケティング上有益な仮説を構成することができます。有名な事例にアメリカのウォルマートが行った統計的解析があります。相関分析を行ったところ、「金曜日に紙おむつと缶ビールを一緒に買う男性が多い」ということが分かりました。これによって得られた「紙おむつを買うよう頼まれた男性がついでに缶ビールを購入している」という仮説が実地に検証された結果、「紙おむつと缶ビールを近接して陳列する」という販売促進情報が全店舗で共有されることになり売上増進が実現できたのです。同じようにして、「コーンフレークなどのシリアル類の売り場にバナナを売る棚を置く」という販売促進策が導き出されました。データマイニングを行った結果、「朝食用にシリアルを購入する来店客は同時にバナナを買う例が多い」という仮説が得られこれを実地に検証することができたからです。

紙おむつと缶ビール、シリアルとバナナ、それぞれ一見何の関係もなさそうなところに実は重大な相関関係があったのです。大規模データベースの山から眠っていた情報資源を掘り起こし、全社的で共有・共用した典型的な事例といっていいでしょう。経験・勘・こつの3Kに依存しがちな営業の世界に、統計的解析などの科学という新しいKを導入すれば、共有・共用しやすい情報が入手でき、真の「マーケット・イン」を実現することが可能になります。


3−3.情報の発信の段階…図表化訴求の有効性

折角入手した情報を提案などの形にして発信しても、受信者に関心をもって受け入れられて、その意思決定に役立てられなければ無駄なことになってしまいます。「第9課メディア間の競合と融合」でご紹介した「AIDMA5段階の購買心理」が、以下のようにモディファイしてそのまま「情報発信者の心得として使えそうです。

A:   Attention  注意 「おやっ、何だろう」と注意を向けさせる
T:   Interest    関心 問題の所在に関心を向けさせる
D:   Desire      欲望 「何とかしたい」という当事者意識をもたせる
M:   Meditation  熟慮 情報の吟味・代替案との比較検討を促す
A:   Action      実行 最終的な意思決定に導く

ここでは、意思決定を促進するのに有効な情報伝達の方法として図表化による情報発信をとりあげて考察したいと思います。

3−3−1.グラフ化の利点

経営企画の業務に従事し選択経営を推進しようと努力していた時に、不採算を理由に縮小または撤退の候補とした事業部門(ビジネス・ユニット:BU Business Unit)から、「このBUの製品は圧倒的にマージン(利益)率が圧倒的に高いのだから現状のまま存続させるべきである」という反論を受けました。確かに、マージン率が他のBUに比べて圧倒的に高いのは事実でした。しかし、この議論は、回転率が圧倒的に低い(コストを投下してから売上高として回収するまでの期間が長い)という反面の事実を無視したものでした。このように、一つの軸(この場合は「マージン率」)のみによる一次元的な議論は誤った結論につながる恐れがあり大変危険です。このような場合はもう一つの軸(この場合は「回転率」)と合せて二次元でグラフに表示してみれば、各BUの「マージン率×回転率」(これを「交差主義比率」ということもあります)が一目瞭然で分かります。

本来なら、「立体的に考察する」ことが重要であり、二次元では不十分なのですが、平面上に分かりやすく表現できるのは二次元の世界までですし、三つ以上の軸があった場合でも、必要に応じて個々に二つの軸を組み合わせて平面上のグラフに展開して表示すれば充分事足りることなのです。以下のような、グラフの利点を活かして、二次元思考による総合的な情報活用を推進する必要があります。

     「計数や数字に弱い」と思っているメンバーにも親しみやすい

     様々な比較・対象をすることができる

     全体のバラつき(分散)の状態などを観察することができる

     細かい数値にとらわれず大局的な判断ができる

     関係者が同じ情報を共有しやすくなる

3−3−2.図表化の場合の留意点

ある営業所に出張したところ、営業マン別の営業成績の状態を示すグラフが壁にはってありました。今月の販売予算をどこまで達成できているかを示すグラフでした。営業所長としては、このグラフを掲示することによって、営業マン同士の競争心を刺激して、営業所全体の販売実績を高めようという狙いがあったのでしょう。しかし、以前から知っていた優秀営業マンの反応は営業所長の思惑とは違うものでした。聞けば、販売予算達成率だけを表示するところに問題があったようです。営業マン別の販売予算を決める場合に、意欲的な営業マンが高い目標(従って、達成し難い目標)を設定する場合もありますが、できるだけ達成の見込みが立てやすい販売予算になって欲しいと願うのが人情です。そうした場合に、意欲的な営業マンが対前年同月伸長率(業績改善度を示す指標)は高くても当月の販売予算達成率が低いのに対して、そうでない営業マンはその逆になるというケースが起こる可能性があるわけです。業績改善度を度外視し当月の販売予算達成率だけをグラフ化して示すだけで本当の士気高揚ができるのだろうかと思います。こういうことを繰り返していたら、販売目標を低いレベルに設定する傾向が強くなりますので、営業マンの成長の動機付けが弱くなり、グラフの使用が結果的に逆効果を生んでしまう可能性があります。

PowerPointのようなプレゼンテーション用のソフトウェアも充実してきましたし、イントラネットから必要なデータを取り出してグラフィック機能が強化したパソコンを用いて綺麗な図表が簡単に作成できるような環境になりました。しかし、逆に、綺麗なだけで何を訴求したい「グラフのためのグラフ」が安易に作られる傾向が強くなってきたのは残念なことです。図表をもって情報を伝達する場合には以下のような留意点を念頭にして取り組む必要があります。

A.ポイントが一目瞭然であること

「何を言いたいのか」という訴求点が見る人に分かりやすい図表でなければなりません。そのためには、一つの図表であれもこれも訴求しようとせず、図表ごとに一つの訴求に絞る必要があります。図表ごとに「ワンポイント・コメント」を付けるのも良い方法です。筋道を立てて、一つ一つの図表の訴求点をつないだ形で視覚的な提示を行えば、仮説を効果的に訴求することができます。

B.適切なグラフ種を選択すること

グラフには、棒グラフ、折れ線グラフ、帯グラフ、円グラフ、レーダーチャートなど様々な種類のグラフがあります。訴求する内容によって適切なグラフを選択しないと有効な訴求ができないばかりか見る人をミスリードしてしまう場合もあります。例えば、折れ線グラフは、時系列の変化を表現するためのものですから、一時点における数値の大きさを対比させたい場合には棒グラフなどを選択しなければなりません。また、折れ線グラフにも、半対数グラフがあって、率的な変化を表現する場合には好適です(通常の方眼目盛では量的な変化が長さで表現されます)。

C.表示ルールを守ること

前述のように、グラフ表現を用いれば関係者が同じ情報を共有しやすくなるという利点がありますが、逆に言うと、訴求力が大きいだけに関係者全員に同じ誤解をもたらす可能性がありますから注意する必要があります。中でも、目盛間隔を不均等にしたり、部分を誇大表現したりすると、無作為であったとしても、見る人に誤った印象を与えてしまいますから、グラフ作成のルールはきちんと守らなければなりません。

3−3−3.図表による状況分析

図表によって情報を発信するのとは別に、データを図表化してみて、そこから問題点や対策案に関する情報を得ることもできます。下図は、その一例で、私が設備機器事業の販売促進業務に従事していた時に行った「リーケージ(漏れ)分析」をモディファイしたものです。

上の図は、「需要」100に対して「受注」が100ならば市場占拠率100%なのですが、実際には、「引合」、「見積」、「受注」の各段階でリーケージ(漏れ)が生じたために市場占拠率20%に終わったという状態を示しています。先ず、「引合」の段階の「漏れ:L1」は、顧客または設計事務所の当社製品に対する認知度の低さが主な原因になっているものと考えられ、このL1のために当社製品が商談の土俵に登れたのが60%に止まったという結果になっています。次に、「見積」の段階で「漏れ:L2」が発生していますが、これは「引合」がありながら、当社製品のラインナップの不足などから要求仕様に対応することができず見積を提出できなかったのが主な原因と考えられます。そのため「見積」に参加できたのは全体の40%に止まることになり、更に価格競争に敗れるなどして「漏れ:L3」が生じ受注20という結果になったのです。このように、リーケージ(漏れ)が起こった段階を確認し、それぞれに仮説として考えられる「漏れ」の原因を検証して、それぞれに対する対策を立案して実行すれば受注率(市場占拠率)が改善できる可能性が高まります。漠然と「受注率(市場占拠率)の改善」を目標に掲げて活動しても、適切な対策が打たれるとは限らず、目標が単なるスローガンに終わってしまう可能性があります。




結    び

以上、全11課にわたって、自分なりの「コミュニケーション・メディア論」を組み立てて書き綴ってきました。日進月歩の世界で最新の動きが捉え難い上に、「コミュニケーション・メディア」の範囲が広大なので、率直に言って、こんな小論を纏め上げることでも私にとっては難事業であり大きな負担でもありました。まだまだ、自分自身でも満足できていないところが数々ありますが、皆さん自身の情報リテラシー向上のために少しでも役に立てていただけたら願ったりかなったりです。

最終章でも述べましたように、今後ますます「覚える能力(記憶力)」よりも「考えて情報を受信し発信する能力(情報リテラシー)」の方が重視されていくと考えられます。「能力」には、アビリティー(論理的に考える力:Ability)とコンピテンス(実現する力:Competence)とがあると言われます。ですから、「覚える能力(記憶力)」だけではアビリティー以前であって、これだけでは物の役に立つものではありません。また、更に「アビリティーだけではダメで、知識を使って物事を解決するコンピテンスが必要だ」とも言われます。自分なりに考えることによって得られる「意思決定に役立つ“知識”」こそ情報であり、「物事を解決する」のに中心的な役割を果たすのが情報発信であることを考慮すれば、「情報リテラシー」はアビリティーとコンピテンスの両面を含むものであると考えることができます。そして、これまで重視されてきた「記憶力」が、どちらかというと先天的な素養であるのに対して、「情報リテラシー」の方は訓練次第でいくらでも強化できる点に留意する必要があります。「考える能力」も「情報を発信する能力」も主体的に使ってみなければ発揮できない能力であり、使ってみて試行錯誤を繰り返しているうちに身に付き強化されていくものだからです。

東芝の土光敏夫・元社長は、社内報で「トップ指針抄」を流しておられました。その中から、当時人事開発部長をされていた本郷孝信さんが百か条を選んで編集して出版されたのが「経営の行動指針」ですが、その第一項に「活力=知力×(意力+体力+速力)」という式が紹介されています。「活力(バイタリティー)」は「知力(知識+創造)」が基本になり、これがゼロなら活力は生まれない。しかし、知力だけでは不十分であり、「意力(やる気)」と「体力」と「速力(スピード)」の総和と「知力」の相乗効果があってこそ豊かな「活力(バイタリティー)」が生まれるのだということがこの式に示されています。「活力」こそコンピテンス(実現する力)の源ですし、「知力」はアビリティーに他なりませんから、この式は「コンピテンス=アビリティー×(意力+体力+速力)」と書き換えることができそうです。

私は更に、“土光方程式”をモディファイした能力=意力×(知力+体力+速力)」を皆さんにお贈りしたいと思っています。私自身、現役サラリーマン時代「忙しくてできない」とか「する時間がない」という言葉を禁句にしていました。忙しい中で、何をするか決定するのは優先順位の問題であって、「する時間がない」と言うのは、突き詰めて考えてみると、その事柄の優先順位が低くて「やる気がない」のが本当の理由になっていることが多いからです。「意力(やる気)」がなければ「能力」は発揮できず、折角の「知力+体力+速力」も宝の持ち腐れになってしまいます。また、「意力」と「知力+体力+速力」の相乗効果によって「能力」は向上します。そして、「やる気」というのは、根底に「××をしたい」という強い願望がなければ生まれてくるわけがありませんから「意力」は「願力」と言い換えることができるかもしれません。

「流れ星が消えるまでに願い事を唱えると願いがかなう」というのは一面の真実だという人がいます。流れ星が消えるまでの短い時間に願い事を唱えられるということは、常日頃から願望を強く心に抱いていないとできないことだからです。「どんな勉強/どんな仕事をしたいのか」なかなか思い悩んで決めにくいことだと思います。しかし、ここでも「仮説」を設定する意味と必要性があります。「当面自分が一番したい勉強/仕事は××だ」と決めておくことです。こうしておけば、××に関する情報やデータに自然に目が行くようになりますし、それらを分析・評価」する力がついてきますし、自説を新たな情報として「創造」できるようになり、情報の使い手になることができます。仮説を持つことの重要さは、勉強や仕事に限らず、余暇の過ごし方などの日常の事柄を考えてみてもよく分かることだと思います。予め「余暇はテニス/読書/ハイキングをする」と決めておけば、関連する情報は集めやすくなりますし、余暇の当日も時間をフルに活用できますが、迷った挙句行き当たりばったりになったのでは有効な余暇の過ごし方はできません。人生、生活の色々な局面で、仮説を立てて強い「願力」を持つとともに、「考える」訓練によって「知力」を向上させることによって情報の使い手となって、充実した日々を過ごされることを祈りつつ当稿の結びと致します。

以  上

(Ver.1 2004/ 1/29)
(Ver.2 2004/ 9/12)
(Ver.3 2005/ 1/ 1
)

(Ver.4 2007/ 1/20)

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