中国“昔”話
ー北京・上海駆けある記ー


首相の靖国参拝に対する中国首脳の反発がおさまらないのと併せて、時折中国で起こる反日デモでの若者達の盛り上がり振りを見て心を痛めております。この原因を単純に中国に於ける「反日教育」に求める向きが多いようですが、果たしてそうした見方が正しいのかどうか聊か疑問に思っています。
「反日教育」と称されるものが“昔”から行われているのに対して、何故これが“今”対日感情の悪化に結びついているのか説明できそうにないからです。いっそ、“昔”の現場状況を振り返ってみれば“今”につながる流れの源流が見つけられるのではないか。これがここに「中国“昔”話」をご紹介する所以です。
私が、以下のレポートを書いたのは、1996年のことですから充分“昔”のことになりますが、ときあたかも「TT革命」勃興の時です。インターネットを中心としたTT革新と、これを用いたグローバル・ロジスティクスの革新によって、アメリカを頂点とし中国を「世界の工場」とする新しい世界経済の秩序(私はこれを「国際的BPR」と呼んでいます)が急速に出来上がりつつある時期でした。
僅か1週間の滞在ではありましたが、目と耳と口を総動員するとともに無い知恵を絞って考えて纏め、三井業際研究所「中国R&D視察レポート」に投稿したのがこのレポートです。しかし、ここに認めた事柄は、たまたまその1ヵ月後に訪れたアメリカのMITの中国観と照らし合わせてみると符合するところが多く(「USA / MIT 見たまま感じたまま」)正鵠を得ていたものではないかと自認しております。「日本の頭越しに、中国とアメリカが接近し、日本が取り残されてしまうのではないか」という“昔”に感じた感想が“今”また現実味を帯びて強まってきているように思えます。
また、“昔”ながらの中国が“今”なお存続しているところも多いものと思われます。ご笑覧の上、気楽にコメントなどしていただければ幸いです。

視察活動雑記「"添乗員"日記より」


三井業際研究所の事務局員の中心的なミッションは、それぞれの調査研究テーマを持つ委員会のメンバーの活動を支援することにある。我々はこれを“添乗員”として擬えており、旅人(委員会メンバー)がより実りの多い旅行(調査研究)を享受できるように心がけている。
中国R&D視察旅程の裏方業務を通して見聞きした事柄について現地よりデイリーに東京の事務局宛に報告を行っていた。この記録に加除修正を加えて公式の視察レポ一トの行間に秘められている現地体験・見聞の一端を披瀝することとしたい。

1996年4月27日(±)

黄土の帳を超えて

もうとっくに中国上空にさしかかっている筈なのに中国大陸はなかなか姿を現そうとしない。黄土の厚い層が上空を覆っているためか地上へ目が届かない。やはり中国は我々の視線を遠ざけているのだろうか。何も見ることはできないのか。R&D視察の冒頭にあたり不吉な予感が脳裏をよぎる。だが、機体が高度を下げたとき突如それは眼下に展開した。ただひたすら広く平坦な中国本土との初対面の瞬間であった。黄土色の平面にきちんとした長方形の中に何本もの直線の畦道が走る緑の麦畑。さすがに条里制の元祖・北京の郊外、平坦にして直線的な世界で簡潔に見える。中国は足を踏み入れた者のみに表情を示してくれる。やはり来て良かった。先ほどまで感じていた不吉な予感が他愛もなく消えていった。

再び視野を妨げる柳じょ

北京空港に降り立った私達は柳じょの不意打ちを受けた。柳やポプラの花が発するという、タンポポの綿毛に似た白い浮遊体である。タンポポの綿毛が楚々とした風情で風に舞うのに対して、こちらは真綿上の浮遊体で大挙して風に混じり吹雪の如く吹き付ける。前途の視野が再び遮られた。あくまでも中国は我々の視察を拒むのだろうか。初の海外R&D視察旅行の企画当事者として視察の成果の程に一抹の不安を覚えていただけに、ふとしたことにも暗示を受けやすい。しかし、柳じょはたった今が盛期であり、しかも視界を閉ざすほど浮遊しているのは北京空港周辺だけであることがやがて判った。いわば我々にとっての中国入国のための関所だったのであり、関所を過ぎてしまえば視界は俄に明るくなる。無理矢理自分にそう思いこませた。

今は静穏でオープンな天安門広場

55万人もの人が集結することができるという天安門広場に、あの忌まわしい流血の惨事の面影を残す物は見当たらない。中国各地からだという観光客に混じって、軍服を身にまとった若者も広場をゆったりと散策しているように見える。天安門に並ぶ博物館の前には大きなディスプレイがあり、香港復帰までの残り時間が秒単位で刻々と表示されている。中国人民の香港復帰をこいこがれる気持ちを見る思いがする。広大で四囲に向かってオープンな天安門広場に解放後の中国の姿が重なって見える。

1996年428()

4/28()発のフライトが予約できなかったため4/27発となってしまったわけであるが、怪我の功名で、日曜日一日を中国の中心・北京の概要理解に費やすことができ、結果的に今後の視察活動にプラスになったものと思う。北京市内、明の十三陵、万里の長城などのExcursionを通じてR&D視察に際しての背景事情を把握することができた。また、この間に視察団のチームワークを熟成できたのもハッピーであった。

長大な壁・万里の長城

アメリカの宇宙船飛行士が月から見てただ一つ存在を確認する事ができた人工の構築物であるという。入り合った山並みの尾根道の上をくねりながら長大な壁を形成しており、その外壁は世界一流の棒高跳びのジャンパーが平地で助走をつけてもクリアできかねる程の高さである。実態は長「城」ではなく"Great Wallの英語表現の方が当を得ている。何故この山間地に、彩しい量の石、煉瓦、土等の土木資材と、人足とそのための食糧を運搬し「壁」を構築しなければならなかったのだろうか。この構築物は農業の時代の覇者の威を示すチャンピオン・ベルトのようにも見える。しかし、今でこそ多くの観光客が訪れているものの、構築当時はこの人里離れた山間地に足を運ぶ者も少なく訴求頻度が限られているので、国威を示す手段としては余りにもコストフォーマンスが低すぎる。この軍事防御インフラ構築への巨費の投入に駆り立てたのは北方の遊牧民の侵略に対する恐怖感であったのではなかろうか。先進農業国として文化を築き豊かな財政を享受しながら軍事的には遊牧民族に対して弱点を曝していた中国の支配者にとっては身を守るために欠くことのできない「壁」であったに相違ない。略奪者である北方の遊牧民にとって垂涎の的であった農村は、農民にとっての収奪者である支配者にとって巨費を投じてまで守りきる必要のある存在基盤だったのであろう。

内なる壁・明の十三稜

17代のうち13代の皇帝の墓稜は北京市街の西北500の地に点在しており、「皇帝は死後も全てを支配する」という思想に基づいて、それぞれ遺体が地下深い宮殿に安置されている。現在までに発掘されているのは定稜のみであるが、これもふとしたきっかけから所在が確認でき発掘が可能になった由である。地下20数メートルの深さと言えばビルディングにすると78階の高さに匹敵する。掘り下げたところに増築された地下宮殿は堅固なドーム状の天井と壁とで形成された密室となっている。しかも、その出入口が秘密とされているから発掘もできない状態になっている。中国人には、秘められた所に壁を築きオープン化を拒むという特質があるのだろうか。今日はとかく「壁」が気になる一日であった。

自転車・踊り・職佳混在

北京の市衝で最初に気付くのは自転車の数である。時として雲霞のごとき自転車の群に遭遇することもある。自動車の数もかなり増えたとのことであるが主導権は未だに自転車にあるようであり、自動車はクラクションを鳴らし続けて自転車の流れの中でもがきながら前進しているようにも見える。職住接近どころか北京市街には職と住が混在しており、これが自転車通勤主体の交通事情の原因となっている様子である。また、早朝に広場や公園に人々が集い踊りに興じている様も日本では殆ど見かけない光景である。フォークダンスのようでもあり、エアロビクスのようでもあり、そのどちらでもあるような。これも職住混在なれぱこそできる出勤前の地区住民の集団行動なのであろう。

1996年429()

いよいよ視察活動のスタート。まず、「863プログラム」の推進母体である国家科学技術委員会を訪問し、引き続き実行機関を順次訪問する。北京市は郊外部も含めると四国とほぼ同じ広さ。従って、訪間先機関間の移動には大変時間がかかる。その上、人口12,000千人で一人一自転車だから貸切小型バスは自転車をきわどく交わしながら進むので市衝地脱出には時間がかかる。

国家科学技術委員会

863プログラムの、いわば大本営。糞司長(Dirttor General)以下の幹部が多数参加して、中国初のハイテク国家プロジェクト「863プログラム」の意義・成果などにつき熱弁を振るった。先端技術面での立ち後れが国家経済力に及ぽす由々しき影響に対する危機感が「863プログラム」の引き金となっており、集中と分散を巧みに取り混ぜて一元管理のもとにハイテク先進国キャッチアップが成果を挙げている様子である。今後の実務遂行諸機関訪問でこれを検証する。

清華大学CIMS中心

「863プログラム」がスタートしたお陰でCIMSに関するシステム開発を当所に集中することができたので、リソースを無用に分散することなく、それなりの開発実績を挙げているようだ。企業のQCD改革を直接サポートしている点は日本の大学と違ってアメリカの大学に近いように見える。

1996年4月30日(火)
北京視察の第2日目は郊外部にある中国原子能院から始まった。中国北京市内は自転車と自動車・自動車同土がせめぎ合い、混雑・混沌を極めているが、一旦郊外に出るとハイウェイが整備されていてドライブは快適。右側通行である上に、緑も豊かなので、グリーンの道路標識上の漢字さえなければ、米国Garden Stateニュージヤージーあたりを走っているかのように錯覚してしまう。午後は市街地にとって返して国家光電子中心の視察。本日をもって北京の視察を終え明日は上海への移動日となる。

中国原子能院

「能」はエネルギーを意味する。諸幹部が民間レベルで初の「863プログラム」関連視察団である我々を熱烈歓迎。欧米諸国が揃って原子力発電に対して腰を引いた形の中でなおも前向きに取り組んでいる日本は中国にとって数少ない味方に見えるのかも知れない。「もんじゅ」の事故に対しても客観的にして正当な評価を下している。「863プログラム」のスタートとともに原子力関連の技術開発が促進された様子が分かる。デモルームに863表彰状「第3等賞」が誇らしげに飾られている。

国家光電子中心

「中心」は文字通りセンタを示す。オプトエレクトロニクス関連の高価な装置・機器類が装傭され、一元的に中国全土の技術開発をサポートしている。ここでも863プログラムが推進の機動力となっている。
1996年5月1日(水)
ゴールデンウィークのない中国でも本日はメーデーでこちらも休み。ただ、メーデーだからといって特に何かある訳ではなく一般の休日と同様なものとなっているようである。視察団としてはこの休日を北京から上海への移動日にあてている。忙中の閑を利して、有志で北京動物園を、それこそ走り見た後、故宮・北海公園を見字して北京を後にした。

大いなる中国・大いなる北京動物園

早朝(7:30a.m.)から開園しているホテル近傍の北京動物園に出かけたが、親子連れで大盛況で切符売場は先を争う喧曄状態。ちなみに切符は3元(約39円)。しかし、英語・日本語が通じないのでパンダ舎を探すのに一苦労。子どもの群の流れについて行ったがそこには無く、ゼスチャーで教えてもらって漸く辿り着いたところには我々日本人たけ。次いで、ゼスチャーがオランウ一タンと間違えられたりして散々苦労して辿り着いた金糸猴(孫悟空のモデルとされる猿)も我々を除いて観客なし。どうも中国人と日本人とでは関心や好みが大きく違うようだ。集合時刻(8.30a.m.)前の一時、広い動物園内をアタフタと駆け巡り目的物を探し回る我々の姿は、広大な中国大陸を限られた情報を頼りに模索して奔走する我々視察団の動きを象徴しているように思えた。

故宮に見る壁の中の栄華

故宮は北京市の中心に位置し天安門の北にある。いわば巨大な人工の台地の上に築カ)れた壮大な城郭である。人を寄せ付けない高さの外壁に囲まれた城内には賛を尽くして建立された宮殿群が整然と配置され栄華の気を今なお艶やかに放っている。外敵そして民衆からも隔離した世界を築き支配者である皇帝は我が世の春を謳歌していたのであろう。北京に滞在した短時日の間、心のわだかまりとなっていた「壁」の本質が理解できるような気がしてきた。この「壁」が農業社会に於ける豊かな富を守り、工業社会との交渉を途絶してきたのではないだろうか。今、海外からの観光客を含めた民衆に開放された故宮は、門戸を開放して工業化の立ち後れのリカパリーを急ぐ中国の姿を写しているように見える。

南船北馬

上海への移動はAir China。折からの強風で北京空港離陸時には機体が大きく揺れ・沈み、思わず目をつぶる瞬間が何度かあった。機窓から見た中国大陸は平坦かつ広大で、何の変化もない景色の連続に見えた。しかし、上海上空にさしかかると北京近郊とは様子が違うのに気がつ.く。川、池、沼といった水の風景、これは北京には無かったもので、思わず南船北馬という言葉を思い出してしまった。北京では散在していた高層ピルも隣接してみえ、''ダウンタウン"らしき風貌を備えている。民家も二階建が主体で、平屋ばかりであった北京より民度が高そうな印象を受けた。降り立ってみると、空港周辺の道路脇には家電製品や自動車、それに高弥夫(これでゴルフ)の大看板が目だつ。日本だけでなく、現代・大宇といった韓国勢の国際都市・上海への進出ぶりも盛んなようである。人口も1,300万人で北京を凌いでおり、ビルの建築現場があちこちに散見でき、中国大発展の息吹が感じられる。
1996年5月2日(木)
視察旅程も後半を迎え上海の大学・研究機関機関の訪問視察となる。上海には北京で見た「壁」がない。歴史も浅く、小さな漁村から発したこの国際都市には本来守るぺきものが無かったからに違いない。むしろ、外に向けてオープンで進取の気風が漲っている。しかし、ここでも交通手段の主役が自転車であることに代わりはない。ホテル周辺の朝市にも露店が並ぴ生きたままのアヒルや鳩までが売られている。ここでも、自動車と自転車、職と住とが混在し奇妙な調和が保たれている。

上海交通大学

名前が示す通り、本来は自動車、列車等の交通機関設計のための研究機関として設立されたのだそうだが、現在は技術系だけでなく文科系も取り込んだ総合大学となっており、江沢民などの偉材を輩出している。863プログラムに関しても、ロボット、CIMS、新素材の分野でリーダーシップを発揮している。来訪者に対する応接も手慣れたもので、日本語版のピデオでの大学紹介が済んだ後、各分野担当の教授陣から、予め当方からお送りしていた質問状にそって簡潔な説明が行われた。既に、三菱重工、日立、湯浅電池などの連携も進んでいる。内輸で、「MITにお金を出すよりも」の発言も出るくらい一同好印象を受けた様子である。

復旦大学

863プログラムでは、バイオとCIMSに対応している。まったく異質のテーマにつきプレゼンテ一ションと質疑応答が交錯して行われ甚だ疲れるミーティングであった。突如、バイオ関係の教授から業際研の活動概要の説明を求められ、ここに来てようやく、業際研・阿部顧問にお力添えいただいた「新技術部会活動概要」の資料が役に立った。しかし、全般的には日本語が通用せず、重い思いをして持参した資料のかなりの部分が無用になってしまいそうだ。
1996年5月3日(金)
上海光機研究所

最後の訪闇先・上海光機研究所へ早朝7.45am.スタート。上海の南西部にあるレーザと光電子の研究所である。緑豊かな環境で、国際的にも高評価されるR&D活動が行われている様子である。午前中はビデオ放映を交えた先方からのプレゼンテーションと、当方からは参加メンバ各社の紹介を含めた三井業際研究所/新技術部会/企画委員会のプレゼンテーション。後半になって急に事務局の"非添乗員業務"が増えてきた。

高い"添乗員"依存度

今回の一団には"添乗員"が多すぎる様に思える。まず、日本の旅行社からの添乗員、北京からずっと参加しているガイドの張さん、これに通訳と、上海語対応のため上海から加わっている若い女性ガイドの徐さん、そして小生。各社研究視察メンバ11名に対して何と5名の重装備である。通訳はもちろん、863プログラム関連書記官とのインターフェイス役であり今回の視察のアレンジャーである張さんは欠くことができないが、小生を含めた後3人は必要なのか、特に業際研事務局からの参加にはどのような意義があるのか確認しながらの旅程だったが、「業際研内部ならでは」の"添乗員業務"があり、かなり多忙な日々であったことは間違いない。これが来月のMITミッションとなると、通訳を除く"添乗員業務"を小生が一手に引き受けることになる。25名余に対して2名の軽装備になるわけである。事務局員の体力消耗度は前回のMITミッション'94で経験したとおり、今回の視察を遥かに上回るものとなるが、なにより軽装備ですますことができるのは言葉と情報量の差によるものと考えられる。日本人は英語は話せても中国語はほとんど話せない。また、中国事情にも疎くてほとんど単独行動をすることができない。従って、現地"添乗員"依存度が高くなる。今後ビジネスを展開する際にも留意を要するポイントの一つである。


中国一口メモ

中国の教育事情

教育制度は6・6・4制で義務教育年隈は9年間である。初等教育の就学率は97.8%とまずまずだが(日本は100%)、中等教育となると進学率が40.6%に低下する(日本は95.6%)。これが影響してか成人の識字率も73%である(日本及び米国は99%)。大学に進学するものは10人に1人の割合である。科挙制度の伝統を引き継いで厳正な入学試験が行われると言うことであるから中国の大学生はエリート中のエリートと言えそうである。大学進学率は低くても総人口が12億人であるから、その1割、ちょうど日本の総人口と同等の超エリートを中国は擁していることになる。工業社会化、更に情報社会化の推進に必要な知的資源の蓄積は充分ありと見た。

一人っ子政策

中国の総人口は約12億人であるから我が国の約10倍に当たる。食糧生産が資源的限界に逢着することが予測され、また、急増する新たな労働人口に就業機会を提供することの至難さを鑑みて、厳しい「一人っ子政策」をとっている。"総領の甚六"は中国でも同様なのか、「愚鈍な長子ばかりになると中国人のレベルが低下してしまう」と或る教授は嘆いていた。労働人口の68.4%が第一次産業に従事している(日本は約6.5%)。農村に1〜2億人の余剰労握があると言われているが、第二次・三次産業の吸収力未だしといったところなのだろう。しかし、論争の的となりがちな産児制限政策を国家の強い意思で押し通してしまうところが凄い。863プログラムの推進に当たっての政府の方針の徹底ぶりと一脈通じている。
春のスイカ

北京では市街地でスイカを運ぶ荷車を再三目撃した。秋田とほぽ同緯度というのに何故春にスイカが収穫できるのか。バイオテクノロジーの成果なのだろうか。朝市でも売られていたほどだから、それほどの奢侈品でもなさそうである。聞いて見れば遥か南方の海南島で獲れるスイカが運ばれてくるとのことである。中国には閉鎖的な農村社会が散在しているものと考えていたが、これは誤った先入観であり、少なくとも、こと農産物に関してはロジスティクスもかなり整傭され、広域な国内統合市場が形成されているのかも知れない。また、民の十三稜では、近傍で梨の花が咲くこのシーズンに梨の実が売られていた。昨秋の収穫物とのことである。輸送のみならず、保管のインフラも存外整傭が進展しているのかも知れない。
汽車が自動車

筆談によって中国人との間でコミュニケーションできたケースが何度かあった。同じ、漢字を用いている日本人の利点である。しかし、同じ漢字でも意味が異なるケースがある。「汽車」は日本語で「自動車」であるし、「手紙」は「トイレットペーパー」を示す。「牙」の字を街角の看板に見かけて驚いたがこれは「歯」医者の看板であった。また、略字体が多用されているので、知っている漢字でも判読できぬケースが多い。逆に「請勿」は素直に判読すれば「請(p1ease)」「勿(do not)」の意味が取れるのだが、これが「請」が略字体だと「勿」も略字体だと思って「中国には"漬物"の看板がやたらに多い」という誤解を生んでしまう(実話である)のも無理はない。笑い話で済んでいるいる内はよいがビジネスの場で起こり得る行き違いを考えると同じ漢字民族だからといって安心はできなくなる。英会語に中国の人名・雄名が登場すると日本人はほとんどお手上げ状態になってしまう。江沢民の英文表記はJiang Zeminであって日本人の「コウ・タクミン」は中国では通用しない。こうなると同じ漢字民族であるがために逆にコミュニケーション障害が生ずることになる。
所得水準・物価水準

サラリーマンの平均月収は2-4万円であると北京では聞いた。上海市の数字によると一人当たり月収は700元(約9,100円)だそうで、大学の教授でも1,000元(約13,000円)程度であるという。数字の整合性は不明であるが、1991年の統計で、日本の一人当たりGNPが26,920ドルに対して中国は370ドルであるから、この驚くほどの低所得水準もむべなるかなである。一方、物価水準も驚くほど低い。北京では家賃が月1,000円程度であるとのことである。上海で乗ってみた地下鉄の運賃は2元(約26円)であったし、北京一の目抜き通りである王府井のレストランのメニューを見たら麻婆豆腐が6元(約98円)、肉料理は15-16元(200円程度)、飛びぬけて高い魚料理でも40元(約520円)であった。もっとも奢侈品となると話は別で、北京・上海では必需品である自転車は400-500元(約5,200-6,500円)なのに対して乗用車(サンタナのクラス)は170.000元(約2,210,O00円)払わなけれぱ手に入らない。中国人の所得水準からすると高嶺の花であるから、数が増えたという乗用車もナンバープレートを見ると大半が企業用かタクシーかである。しかし、全般的に物価水準が低いのは確かであるから、日本企業から中国駐在員として転勤してくる日本人は住みこごちの良さの余り日本へ戻りたくなくなるという。逆にいえば、中国人の所得水準で日本で生活することは不可能に近いので、仮に中国の研究者を日本に誘致するとしたら、日本人並みの所得を保証する必要があり、「経済的に利用可能なR&Dリソース」には大きな制限が加わることになる。
中国に於ける日本語教育

英語が中学校から教育される第一外国語である。日本語は英語に次ぐ第二外国語的存在であり、146の大学で日本語が教育され、そのうちの52校に専攻学科としての日本語科が設置されている。高校・中学や小学校でも部分的に日本語教育が行われ、推定二十数万人の生徒・児童が日本語を勉強している。テレビやラジオの講座で学んでいる人達も多く、放送大学でも日本語は英語に次ぐ人気で中国全土にオンエアされている。日本に留学する学生に対して派遣前に日本語の集中教育を行う制度を設けるなど、政府も日本語教育を後押ししている。にもかかわらず、中国で日本語の通用する範囲は極めて限られており、大学・研究機関内でさえ日本語でのコミュニケーションは至難であるので、視察団が持参した日本語の資料も結局は無駄になってしまったほどである。土産物売りのSurvival Japaneseはともかくとして、今後中国人が日本語にどこまで目を向けてくれるのか。日本人の中国語学習意欲にも限度がありそうだから、日中の研究者間のコミュニケーションは英語を基軸とせざるを得まい。
職住混在

中国の住宅は2DKが標準的だという。自宅にバス・トイレをもつ者が少なく、公衆浴場、公衆トイレが用いられている。現に朝早く公衆トイレで順番を待つ人の列を何度も目撃した。広大な土地を持ち恐らく建築コストも低いであろう中国で何故こんなに住宅事情が悪いのだろうか。原因の一つとして交通インフラの未整傭が考えられる。郊外の工場との間を結ぶ企業用のシャトルバスはあるが、郊外から市街地へ通勤するための公共的な交通機関がない。従って、さしも広大な郊外の土地も住宅地としては機能していない。かくて、限られた面積の市街地にひしめき合って住まい、同じ市衝地の勤務先に自転車で通勤するという"職住混在"状況ができあがっているのではないだろうか。市街地の至る所に日常の食生活をまかなう青空市場もあり、日本の50年程前の姿が彷彿とする。日本企業が、低コストであってもバス・トイレ付きの住居を提供すれば中国の研究者にとっては大きなインセンティブになろう。

似た者同士の問題

民族的には、満州民族、モンゴール族、チベット族等々52民族で構成されている由であるが、なんと言っても主流は漢民族で全体の80%(別統計によると95%)を占めている。ガイドの張さんの観測によると我々の歴訪先でプレゼンテーションやデモを行った数々の研究者はモンゴール系とおぼしき女性一人を除くと全部漢民族だそうである。北京・上海という都会地では特に、日本人と見分けのつかない漢民族しかいないという状態に近いので、中国に滞在中であることも忘れてしまって日本語で語りかけ怪訝な顔をされたことも再三再四である。逆に、中国人としても、様子もわからぬ日本へ行って、なまじ同じ容貌をしているために、当然の如く日本語で話しかけられて当惑するよりも、欧米圏へ行って「アジア人にしては上手な英語」をほめられる方を選ぶだろう。それかあらぬか、超一流は欧米先に留学し、日本に留学するのはその下のレベルであるそうである。国際的な情報通信、交通インフラが発達し世界が狭くなった今日、距離的近接のメリットは薄れ、この隣人も似た者同士の不利を避けて遠方のパートナーとの絆を強めてしまうかもしれない。

北京と上海

「北京」は"Peking"から"Beijing"に変わっているが日本人は相変わらず「ペキン」の一点張りである。このままで行くと「東京」を「江戸」と呼び続けるような変なことになりはしないだろうか。
北京市は上海、天津と並んで中央直轄市であり、人口は1,200万人と東京都と同等で、面積が東京都の8倍強であるから、数字的には四国に東京都の住民が住んでいる形になる。中国では「県」が「市」の下にあるから北京市と言えば日本の首都圏程度に相当する。だから、例えば市街地から中国原子能院へ出かけた我々の半日間の視察工程は、東京から筑波への往復にも匹敵しようか。
この秋田県とほぽ同緯度にある古都にも古都には似つかわしからざる活気を感じたが、今や発展度では上海の後塵を拝する形となっており、人口も1,300万人という上海市にNo.1の地位を譲っている。北京住民はこれを、江沢民をはじめとする上海出身の要人が増えたせいだとぽやき気味に語っていたが果たしてそうであろうか。むしろ、揚子江河口の南岸に開かれた新進都市・上海の、外部に向かって開かれた開放的で進取の気に富んだ風土に発展の源が見えるような気がする。“建築の槌の音絶えず"の形容そのもので、突貫工事の高層ピル建築現場をあちこちで目にすることができた。R&Dの連携を開始する場合も、国際都市・上海の方が門戸が開けているように見えるが、一方それだけに強い競合が将来的に生ずる可能性も見える。

インドをライバル視

中国では英語が第一外国語とされ中学校から教育されているとのことであるが、所得水準の高い英語のネイティブ・スピーカを教師として招曙するには限度があるから、教育法は日本での英語教育と同様に中国人教師による文法訳読法(grammar translation method)が中心になっている筈である。従って、中国人の英語も「読」「書」は強いが「聞」「話」には弱いという傾向があるようである。現に我々の歴訪先のインテリ達の中でさえ、欧米留学経験者こそ流暢な英語を話すものの、欧米では一応理解してもらえる当方のbroken Eng1ishが通用せずこまったことが何回かある。この点が英語を公用語の一つとするインドと違うところである。アメリカの中国に対する感情がインドに対する感情よりも悪いことと併せて、英語力をR&Dでの対米関係強化のうえでの障害であると無念さをあらわにされていた教授がいらした。日本の頭越しにアメリカとの関係強化を競うインドと中国の姿を垣間見たような気がした。

中国・日本・アメリカ

日本出発前には「中国人とのビジネスはアンダーテーブルの世界だ」と聞かされていた。また、海外企業との取り引きを通じてリッチになり高級車を乗り回している中国人ビジネスマンも増えたそうである。しかし、我々の歴訪先でであった教授・研究者達の身なりは総じて質素であり、駆け引きを一切感じさせぬどころか、当方の質問を真撃な態度で受け止め、現状を直載的に説明し目標を語ってくれた。
レストランでの夕食時となると決まって現れる物売りも、売上高の3%が取り分だという出来高制という貧しさのためか、その売り込みぶりは喧しいほどであるが、総じて明るく暗い駆け引きはまるでない。何人かの若者に「今何が欲しい」の質問を投げかけてみたが、答えが期待していた「物」ではなく「×Xをもっと勉強したい」や「XXが上手になりたい」ばかりなので意外な感を受けた。かつて貧しい日本の若者も向上心に燃えてアメリカから少しでも多くを学ぼうとしていた。日本人が失ってしまったものを見せつけられているような気がする。かつて日本語も学ばず来日する米国人に対して日本蔑視の反発感を感じた日本人も少なくないはずだが、いつの間にかその日本人が中国語も学ばずに中国に平気で土足で乗り込んでいる。折からのゴールデンウィークに大挙中国に渡り、ホテルに泊まりながら観光地を回って土産物を買い漁って中国を理解した気持ちになっている日本人は中国人から心底尊敬されているのだろうか。中国人の志は高いので、日本は中国の師ではなく精々兄弟子でしかなく、中国人の向上心に燃えた目は遠くアメリカに向けられているように思える。日本人が傲慢さを捨てずにいると、かつて後進国・日本のキャッチアップを許したアメリカの二の轍を踏むことになりかねない。


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