還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行

 

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旅行の概要

 

 

行ってきました。我ら高校同期の還暦カルテット、走行距離9,000キロに及ぶカナダ・アメリカ西部ドライブ旅行。車の影もまばらな辺鄙な土地の道路を走りながら、「今までにこの道を走ったことのある日本人は何人あるだろう?」と考えてみました。そして更に、「六十歳の年齢で」、「3週間も続けて」となると、殆ど類例が無いのではないか、もしかして僕たちの旅は前例の無い快挙なのではないかと思えるようになってきました。勿論、怪挙の類いもいくつかありました。そんな紀行、奇行の類をとりまとめて順次ご紹介してゆきたいと思います。

 

まずは「旅行の概要」のご紹介

 

還暦を前向きにとらえる

 

僕たちの旅の企画の第一のポイントは「還暦記念」にあります。「大自然にビックリして人生の何かを考える」という副題をつけましたが、ここには還暦を終着点と考えずに新たな人生の出発点としてとらえようという姿勢があります。事実、海外ドライブ旅行自体がそうなのですが、行程を通じて、これまでの六十年間に経験したことのない体験をいくつもしました。しかし、「還暦」は欧米人には分りにくいので、問われた際には「日本では60歳でhappy retirementを迎えるのだ」という答えることにしました。これは説得力があり重宝な説明にもなりました。「どうして細君を帯同しないのか」という欧米人からありがちな質問に対して、「まだ60歳になっていないから」と答えてすましていられたからです。

 

清貧を楽しむ

 

「年金生活者でもできる旅行にしよう」というのが僕たちの狙いの第二のポイントでした。都合で、渡航費の比較的安い6月は逃してしまい7/10-8/1のハイシーズン挙行となってしまいましたが、それでもなんとか総経費を45万円也で抑えようと計画しました。しかし、使うべきお金まで削ってしまっては何のための旅行か分からなくなってしまいますので、本当に「清貧を楽しむ」ことになりません。そこで、宿泊費が経費削減のメイン・ターゲットとなりました。「ホテル」と名のつくところは極力避け、モテル、イン、ロッジといった簡易宿泊施設で、しかも4人で1室という形が中心になりました。日本の旅館のような座敷にごろ寝というスタイルではなくて、2ベッドで大の男4人が寝る形になるのですから、先方からはstrange strangers と見られていたに違いありません。

 

手作りドライブ旅行

 

第三のポイントは「手作りプラン」であったことだと思います。勿論、旅行ガイドブックは参考にしましたが、いわゆるパッケージ・ツアーのようなお仕着せではなくて、「いいとこどり」をしてこれを一筆書きの形で連ねた旅程に纏め上げました。JTB出身で現在「企業組合シニア旅行カウンセラーズ」を共同で立ち上げている畏友の本荘大紀兄に事前に旅行プランを示したところ、「これでは車の運転しっぱなしになってしまうんじゃないか」と心配しておりました。確かに、1箇所当たりの滞在時間が短くて、とても「人生の何かを考える」暇がないという側面はありましたが、それでもパッケージ・ツアーではとても回りきらないところまで脚を伸ばすことができました。レンタカーによるドライブ旅行のメリットを存分に発揮できたと思っています。

 

還暦カルテットの行跡

 

一行は小田原高校同期で丑寅辰巳会メンバーの水口幸治、中澤秀夫、山本哲照と僕のカルテット。このうち記録・会計係を担当した山本兄を除く三人がハンドルを握りました。行程はざっと以下の通りです。

 

 7/10  シアトル経由でバンクーバー(泊)へ

 7/11  バンクーバーからジャスパー(泊)への850kmのロング・ドライブ

 7/12  ジャスパー(泊)で軽トレッキングとマリーン湖上で遊ぶ

 7/13  コロンビア大氷原、ペートー湖、レイクルーズ、モレーン湖を経てバンフ(泊)へ

 7/14  バンフ(泊)を拠点にヨーホー国立公園に遊ぶ

 7/15  カルガリから南下して米加国境を越えモンタナ州へ(グレート・フォールズ泊)

 7/16  グレート・フォールズからイェローストーン入り(ガーディナー泊)

 7/17  イェローストーン観光を楽しんでグランドティートンへ(モラン泊)

 7/18  グランドティートン・ジャクソン湖を周航してからソルトレークシティ(泊)に

 7/19  宗教の街ソルトレークシティから一転して奇岩のアーチーズへ(モアブ泊)

 7/20  デッドホースポイントからメサベルデを経てモニュメントバレー(泊)へ

 7/21  モニュメントバレーのジープツアーの後グランドキャニオン(泊)へ

 7/22  グランドキャニオン(泊)でヘリコプター・ツアーを堪能

 7/23  ザイオンに次いでブライスキャニオン(泊)を探訪

 7/24  ラスベガス(泊)入りしてショーで眼福

 7/25  フーバー湖を訪れた後ベーカーズフィールド(泊)へ

 7/26  ヨセミテ(泊)に入り巨木と巨岩にビックリ

 7/27  北ヨセミテのドライブを楽しんだ後サンフランシスコ(泊)へ

  7/28  サンフランシスコ市内観光からモントレイ(泊)に

  7/29  モントレイから海岸線を南下してサンタバーバラ(泊)へ

  7/30  ディズニー・トリオと別行動でロングビーチの友人宅を訪ねる(サンタモニカ泊)

  7/31  大満足してロスアンゼルスより機上の人となる

 8/ 1   旅の無事を祝って空港で別れる

 

(2001・8)

 

還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行

紀行・奇行

 

期 待 に 高 鳴 る 胸

シアトル経由でバンクーバーへ

 

アメリカで「明るい日本」に触れる

 

アメリカでは「人生は60歳どころか80歳にして始まる」という元気な年配者が増えているという。我々も負けてはいられない。還暦こそ第二の人生のスタート点、平均寿命が大幅に延びた現在では60歳が不惑の年だ。惑うことなく、新しい経験に立ち向かって行こう。そんな気合を込めて企画した我々の「還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行」の振り出し点はシアトルだ。トランジットとは言え、この地に立ったのも早速の新しい経験であった。折しも、翌日にアメリカの大リーグ野球オールスター・ゲームが行なわれるとあって、空港の中にもそこはかとない賑わいが感じられる。まして、地元マリナーズで見事なデビューを果たしたイチローが大活躍しているとあって、空港内のイチロー・グッズを置いたショップのお姐さんは「私、イチローの友達なのよ」などと大はしゃぎだ。また、空港には、背中に漢字で「友情」と書かれたグリーンのシャツを着た高校生と思しきアメリカ人男女の群があちこちと歩き回っていた。聞いてみると、全米各州から募られた高校生の集団で、交換留学のために日本に向かうのだそうだ。IT革命によって、国際的な地位が著しく低下してしまい、日本はアメリカから見向きもされなくなってしまったのではないかと懸念していたのだが、未だに日本から学ぼうとするアメリカの若者がこんなにたくさんいるのだ。日本もまだまだ捨てたものではない。斜陽の日本だが、数少ない明るい側面に現地で接することができ救われた思いがした。

 

カナディアン・ロッキーが見えた

 

シアトル空港では、乗客の乗降口との行き来に地下鉄が使われている。シアトルだけでなくこの手のシャトル方式も初体験である。「地下鉄」は空港と市街地との間の交通機関とばかり思い込んでいたので、いささか慌てた。しかも、この地下鉄が乗り換えの連続で分り難くて面倒くさい。イチローもダイマジンも慣れるまでは大変だったろうなあと“先達者”達の苦労を偲ぶ。さて、乗ったバンクーバー行きの飛行機は35人乗りの双発プロペラ機。いつもながら、プロペラ機はなんとなく頼りなげでプロペラの騒音もうるさい。しかし、航空高度が低いので下界の景色を存分に楽しむことができる。この日も快晴。真下に広くて穏やかな海が広がっている。海岸線は、緩やかにカーブしているかと思うと、複雑に入り組んだ形となり静かな入り江を形づくる。目を陸地に転ずると、豊かな田園地帯で様々な形をした畑が見え、川が蛇行し、あちこちに湖沼も点在している。更に右手遠方に雪を頂くカナディアン・ロッキーが見えてきた。山と湖と平原の国に入ってきた!我等が行く手を思い期待に胸が高鳴る。

 

Enjoy Troubles!

 

バンクーバー空港内のハーツ・レンタカー営業所で予約していたミニバンを借りる。“ミニ”とは言っても、日本人の感覚では決してミニではない。我々一行4名の大きなスーツケースを考慮に入れて、水口隊長が7人乗りを手配してくれていたのだ。車はFordWindstarで当然左ハンドル。「故障まみれのアメ車」の暗い予感が一瞬頭を掠めるが、ここは一蓮托生を決め込む他にない。予約したはずのカーナビ付きの車がないということも分った。しかし、全くノー・プロブレム。そもそも旅とは何ぞや。どっぷりと浸っている日常からの脱却ではないのか。慣れ親しんだ日常生活をしていればトラブルは少ない。だから、旅先でトラブルに出会うのはごく当たり前のことなのだ。トラブルさえも「未知との遭遇」と捉えて楽しめないようでは本当の旅人とはいえないのじゃないだろうか。かつて東芝同期の吉武紳吾兄が贈ってくれた言葉”Enjoy Troubles!”を改めて胸に刻む。実際、カーナビで宿泊地を指示されるのにはお仕着せ感があるので、多少道に迷ったにせよ自分で宿所を捜し当てる方が楽しみがあって良い。人生60年カルテットの勘ナビの出番である。

 

「海」を食して海とお別れ

 

早速”Enjoy Troubles!”は、最初の宿舎European Bed and Breakfast(北バンクーバー)探しから始まった。日本びいきの女主人マリアンヌおばさんが営むこじんまりとしたB&Bだから、大きな看板があるわけがないが、我等がカンナビの精度は高く僅かな道間違いがあっただけで無事18時半着。緯度が高いためかまだ明るく、マリアンヌおばさんが丹精して整えた庭と草花を愛でてしばし長旅の疲れを癒す。我々の今回の旅行には数々の協力者がいて、小田原高校同期の大野英市兄もその一人である。熱海ローマ風呂「大野屋」の社長でもある大野兄はバンフでホテルを経営しているので、バンクーバー事情にも詳しい。当然今夜も大野兄の推薦する中華街で旅行初日の夕食を摂る予定にしていたのだが、ライオンズ・ゲイト・ブリッジが工事中で行き来が至難だということが分った。そこで、夕食はマリアンヌおばさんが薦めてくれたいくつかの店の中から、北地区にある「中南海飯店」を選んで行くことにした。「これからしばらく山の中暮らし」の意識がどこかにあったせいだろうか“シーフード”の言葉が魅力的に響いた。料理する前の顔見世ではハサミを振りかざし見得を切っていた大きなロブスターと4匹のダンジネス・クラブは瞬く間に我々の胃袋の中に消えた。さてこれで海とはしばらくお別れ。あすからは山と湖と平原の人となる。

 

(2001/7/10)

 

カナディアン・ロッキー山麓にやって来たぞ

ジャスパーにてPart1

 

早朝の旅立ち

 

今回の旅行は、私が多少の提案と情報提供はしたものの、後の企画と準備は水口隊長にオンブにダッコである。行程設計に合わせて各地の宿舎も、幹線道路との出入りがしやすいところに予約してくれている。北バンクーバーのB&Bもルート1号に入りやすいところにあった。いきなり行程中で最長の850kmを走ることになるので、出発予定を2時間早めて早朝スタート。あらかじめマリアンヌおばさんがマフィンとジュースを用意しておいてくれたので腹ごしらえも簡単にできる。このように、早朝に出立すれば朝の道路の混雑も避けることができる。さすが還暦カルテットのすることにはソツがない…と自己満足を感じながらルート1号を走り始めたつもりが、なかなか道路標識が現れず、正しい道を正しい方向に走っているのかどうか自信がもてなくなってきた。折よく、路側帯に駐車していた女性ポリスに尋ねたところ、何度聞き返しても”Stay on the road.”の一点張りであり、我々が余計な心配をしていたことが分った。後になって地図で調べてみると、ルート1号は、我々が進んでいる風にしか進みようがなかったのである。地図で客観的に見られるうちは良いのだが、一旦路上の人となると自分の存在場所が分らなくなってしまう。日常生活でも、渦中の人となると前後左右の見境がつかなくなるのはよくあることである。特に、幹線道路への入り口が錯綜していがちな都会地では、念を押して確認するのは無駄ではない。ここでも”Enjoy Troubles!”。お陰でカナダの女性ポリスと会話することができた。

 

初の海外ドライブ体験

 

先発ドライバー水口のナビゲーター役として助手席に座り、窓外の移り行く景色の中にビックリを求める。都会地を出ると、両サイドには農村地帯が広がり、様々な形状をしたスプリンクラーが目に入る。干草を束ねたヘイ・キューブも、ここではキューブ(立方体)状ではなくて円筒形に束ねられている。「へー、面白いもんだね」と、しきりに後部座席の中澤と山本にビックリを促すのだが反応がない。どうやら、今後遭遇する大自然の大景観のためにビックリを温存しているようで反応が乏しい。そうこうするうちにホープ(Hope)の街に到着。ここで私に、海外、右側運転、左ハンドル、いずれも初のドライブ体験の機会が訪れた。半ば以上は心配が占めていたのだが、スタート・ポイントが「ホープ」とは縁起がいい。既に、人里を離れて山道に入ろうとしているところだから、車も少なく運転しやすい。格好のデビューの場を設けてくれた水口隊長の配慮に感謝しながらハンドルを握り、「右小回り左大回り」の呪文を唱えて路上に出る。道は段々と山間の道らしくなってきて車は針葉樹の林の間を進む。あたりに人家はない。カナダの人口は日本の1/4だが、面積は27倍だという事実を実感することができる。さすがに木材の国だけあって、長い丸太を積んだトラックと何回もすれ違う。存外に軽快なFord 車のハンドルタッチを楽しむ余裕もできて、先ずは最初のおつとめを無事終了。

 

ロッキーのご挨拶

 

道路の左右の随所に岩山が見えてきた。いよいよロッキーは近し。しかし、道路の脇を流れている河は水量も豊かで、日本の山道で見かける沢とは趣が違う。山にしても河にしても細工がでかい。ロッキーの水を集めて流れる川面を滑るようにくだる水鳥の姿を愛でつつ小休止してから再び車上の人となる。ジャスパーに向かう道に道路工事の現場があった。長い車の列ができていて、通行できるようになるのを、みんな大分長い時間待ち続けているようだ。先を焦る気持を抑えがたく車外に降り立つと、忽然と目の前に雪を頂き青空を背に聳える岩山の雄姿が見えた。一同期せずして感嘆の声を発する。主峰の名はロブソン山(Mt. Robson)。岩肌には水成岩特有の水平方向の層線が走っている。白く雪と見えるものは、積もった感じのものではなく岩肌に貼り付いているから小氷河または氷田なのであろう。紛れもないカナディアン・ロッキーの一峰である。左右に同じく白化粧の山並みを従えている姿は歌舞伎舞台のお披露目口上の場を思わせる。道路工事中のための15分停止のトラブル。しかし、またしても”Enjoy Troubles!”。たまには立ち止まってみるのもよいものだ。思わぬところで、カナディアン・ロッキーのお出迎えを受けた。

 

雄大なる序章

 

なおも山道を進むと、国立公園ゲートがあって、いよいよカナディアン・ロッキー山麓の街ジャスパーである。幹線道路はアサバスカス河と並行に走っていて、近く世界陸上が開かれるエドモントンにつながっている。忽然として視界が開けると、我々はロッキーのサークルの真っ只中にいた。四方を取り巻く岩山また岩山。それぞれにグレイの岩肌をさらし、控え目な白化粧と山裾に這う針葉樹林のダーク・グリーンとがアクセントを添えている。アサバスカス河は、青みがかった乳白色をして蛇行しており、川辺にはスリムで姿勢のよい樅の木状の針葉樹が立ち並んでいる。ピラミッド状の山があって、標識を見ると案の定”Mont Pyramid 2,763m”とある。思ったほどには高度が高くない。岩山の白化粧が控え目に見えるのはこのせいかもしれない。その意味ではここはまだカナディアン・ロッキーの序章なのだ。序章にしてこのスケール。明日からのクライマックスへ向けてますます期待がふくらむ。

 

野生との遭遇 

 

幹線道路からジャスパーの市街に入る道はいくつかあるのだが、景観を楽しんでいるうちに我々は通り過ぎてしまい、大分エドモントン寄りに来てしまったのに気がついた。今来たこの道を引き返して、ここと思しき道を右折してしばし前進。しかし、どうやらこの道は行き止まりらしい。スイッチバックさせた車の前にヒョイと現れたのが痩せた犬…と一瞬思ったが、よく見るとコヨーテであった。またしてもまたしても”Enjoy Troubles!”。道に迷ったお陰で、初めてロッキーの野生動物と巡り会うことができた。ともかくも、1時間850kmのロングドライブを終り、本日の宿舎Lobstick Lodgeに到着。”Lobstick”は何やら昨日バンクーバ―で食べたロブスターを思わせるが、河川を渡渉する際に目印として立てる木のことだそうだ。ロッジには瀟洒なレストランがあって、自称グルメ・カルテットがオーダーしたのはマス料理。あのアサバスカス河で獲れたての野生のマスに違いないと思い込んで舌鼓を打つ。明日もこのロッジ泊だ。ここをベースにジャスパーを満喫することにしよう。

 

(2001/7/11)

 

湖、ス

ジャスパーにてPart2

 

端然として凛として

 

Lobstick Lodge フロントから外に出ると、正面遠方に青空を背にした美しい山容が見える。ロッジの女子従業員に尋ねると、あれがエディス・カーベル(Mt. Edith Cavell)だと言う。そうかあれが今日の最初の目的地なんだ。双峰の山に見えて、「どっちがエディスでどっちがカーベルなんだ」と余計なことを考えていたが、第一次大戦の際に身を尽くして傷病兵を救ったイギリス人従軍看護婦エディス・カーベルの名を称えて、この地の山岳協会長が命名したのだそうだ。夜目遠目と言うが、遠目に美しかったエディス・カーベル山は、麓から見ても一層美しく、従軍看護婦の如く端然として凛としている。岩肌は頂きの濃いグレイから麓の黄土色へと見事なアンジュレーションを見せている。横方向には真っ白な線が幾条にも走っていて、岩肌と鮮やかなコントラストをなしている。山腹のあちこちにはまた白い塊が見え、上部がせり出して庇状をしていて、その最も大きいものがエンジェル氷河である。我々が軽トレッキングを楽しんでいる間に突然大きな音が轟いた。氷河のせり出した部分が割れて断崖から滑落したのだった。落ちた部分から続いて氷の小片と融けた水が小さな滝となって流れ落ちていた。エンジェル氷河の下には、そうして落ちてきた氷と水をたたえた水溜りがあり、うぐいす色をした水面に氷の小片が浮いている。軽トレッキング・ルートを降りてくる途中で「ピー」という声がした。振り向くと小岩の上にマーモットの姿があった。

 

ウィスラー山上にて

 

バンクーバーの近くにスキーの名所として知られるウィスラーがあるが、ジャスパーにもウィスラー山(Mt. Whistlers)がある。山の姿を見ていると、如何にも吹き降ろしの風がホイッスルのような音を立て(whistle)そうである。ロープウェイTram Wayで山頂駅まで7分、そこには「7,472フィート 最も高所にある」と表記されたレストランがある。ロープウェイから下を見ると岩また岩の瓦礫地帯であり、ロープの中吊り塔も頂上の巻上げ機も大きな岩に空けられた穴の上に立てられている。巻上げ機には、大きな水平の輪があって、これがきしめくように回転してロープを巻き上げ重いTramを引上げているのだ。岩質が脆弱そうに見えて安全性が気になるのだが、余り頓着している様子には見えない。ジャスパーの町並みが眼下に一望できる。こじんまりとした山麓の町といった感じである。蛇行しているアサバスカス河の乳白色は源流の部分の氷河が含んでいる成分が溶け込んだためだそうだ。しかし、これから向かうマリーン湖(Maligne Lake)は遠方に青く澄んだ色を見せて佇んでいる。そして、更に遠くに目を転ずると、昨日仰ぎ見たロッキーのパノラマが今日は同じ目線上に広がっている。そして、ふと足元に目をやると、白い七弁の楚々とした花をつけた高山植物がそっと顔をのぞかせている。岩だらけの山頂にふっと一息安らぎを感ずる。

 

海外マス釣初体験

 

マリーン湖(Maligne Lake)は、以前にカレンダーの写真になっているのを見て、いつかきっと訪れてみたいと思っていたところである。湖畔を囲む針葉樹林のダークグリーンが、様々な形をした山々の黄土色がかったグレイと調和して、群青色の湖面の背景をなしている。遠景となっている山並みの随所に見られる氷河の白色がアクセントを添えて“カナディアン・ロッキーの湖”を演出している。僕はこの美しい湖で、思ってもいなかった初の海外マス釣体験をすることになる。湖上遊覧船の出船タイミングには合わず、手漕ぎボートを借りるのも高くつくので、フィッシング用のバッテリー・エンジン付きのボートを借りるのが最も経済的であるということが分ったからである。そんな訳で、代表選手として一人だけ貸し竿を借りて、ボートの赴くままにトローリングの真似事をする。もとより、大雑把な仕掛けであるし、ポイントを弁えている訳でもないから、当然の如く釣果はゼロ。夢見ていたカナダでのトラウト・フィッシングの雰囲気が味わえただけで大満足なのだ。ロッジに戻ってから出かけたレストランVilla Carusoのアルバータ牛のステーキ、バンクーバー近郊産のカナダワイン、気さくで陽気なカナダ娘ウエイトレスのサービスにも大満足。山に湖に、目に口に、充実した一日であった。

 

(2001/7/12)

 

ジャスパーからバンフへ

 

熊が近くに

 

ジャスパーからバンフへ向けてアイスフィールド・パークウエイ(Icefield Parkway)を行く。この道は、いわばカナディアン・ロッキーの花道である。車を止めては左右に連なる巍巍とした山並を観賞し、脇道に入っては点在している湖の佇まいを打ち眺める。道路の両脇には深い針葉樹の原生林が続く。小休止した休憩所に”Bear-proof bin”と書かれたゴミ箱があった。「何とかプルーフ」と言うと、「〜に耐える」(fireproof)、「〜を防ぐ」(waterproof)または「〜にも安全な」(foolproof)を意味するものと理解していたが、ここには”keep bears wild”と添え書きがしてある。熊が人間に及ぼす危害について警告を与えているのではなくて、人間が出す生ごみによって熊の野生を損ねないように、注意を呼びかけているのである。つまり逆に、人間が及ぼす危害から熊を守ろうとしているのだから、野生に対する ”Human-proof” なのである。こんな些細なところにも徹底した自然保護の姿勢が見て取れる。いずれにしても、パークウエイの路傍にありながら熊の存在が近いのを体感する。何も知らずに、針葉樹林に入っていったら、熊と出会ってビックリというとなるに違いない。ついでながら、出発以来剃らずにいた中澤のヒゲも大分伸びてきて熊さんのようになってきた。だが、こちらの熊さん、野生とは程遠く、やたらと人なつこくて、”I’m from Japan.”を繰り返してはカナディアン達と親交を深めている。

 

水と岩とのせめぎ合い

 

「耳を聾する」という表現はアサバスカ滝(Athabasca Falls)のためにあるようなものである。アイスフィールド・パークウエイに沿って流れるアサバスカ河にできた滝で、水量豊かな激流が入り組んだ形をして立ちはだかっている岩にぶつかり断崖をなだれ落ちている。真っ白に泡立った水が激しくなだれ落ちる様は凄まじく、これぞ“瀑布”であり轟く音は“爆音”としか表現できない。まさに水と岩とのせめぎ合いである。しかも、せめぎ合いはあちこちで繰り広げられているので、“爆音”が方々から聞こえて相当な大声を発しないと会話が成立しない。水も岩も負けていない。滝頭にある岩は必死に孤塁を守って激流に抗し、水の流れの両サイドにある絶壁状の岩は激流の幅を狭めようとして頑張っているようにも見える。歴戦の岩達には一様に幾層もの層線が走って皺を刻み、無骨な表情で凄みを利かせている。しかし、長い年月を経るうちには紆余曲折があり勝負の趨勢が決することもあるようだ。水の流れていない箇所について、「昔は水が勝っていたが岩に負けて水路でなくなった」という解説書きがあった。かつて敗れた“水友”のための弔い合戦なのだろうか、水の報復攻撃は激しく、勢い余った水が霧となって頬にかかりひんやりとする。

 

コロンビア大氷原に降り立つ

 

時あたかも夏休み時期でアウトドア・ライフのハイシーズンとあって、ハイウェイを行き来するキャンピングカーも多い。途中で立ち寄ったハネムーン湖(Honeymoon Lake)にもキャンプサイトがあって、多数のキャンピングカーが陣取っている。しかし、何故ここが“ハネムーン”なのかなあ。答を考え付く間もなくハイウェイに戻り、バンフへの道を進む。段々と高度が増してきたようだ。Mt. Kitchener 3,505m”と標識にある。山肌を覆うシュタットフィールド氷河(Stutfield Glacier)もかなり分厚い。やがて、コロンビア大氷原(Columbia Icefield)に到着。アサバスカ氷河(Athabasca Glacier)を正面に、左手にアサバスカ山(Mt. Athabasca)とアンドロメダ山(Mt. Andromeda)が連なり、右手の山にはスノー・ドーム(Snow Dome)と、こちらにも別の氷河(Dome Glacier)が見える。でっかいタイヤを履いた雪上車に乗って急傾斜地を下り降りて氷河ドライブを数分、アサバスカ氷河の中央部で氷上に立つ。僕は以前にここを訪れたことがあるので、セーター・ジャンパー類の携行を勧めておいたのだが、アドバイスに素直に従った中澤と山本はまだしも、そうでなかった水口は可哀想なことに震えている。バンフでホテルを経営している大野英一兄の勧めに従って成田で買って携行してきたウィスキーと紙コップの出番だ。氷上の細い流れに身をかがめて水をすくって大氷河の水割りウィスキーの出来上がり。水いやがうえにも冷たく喉いやがうえにも快い。こんな希有な体験ができるのも素直にアドバイスに従ったからこそなんだぞ。なっ、水口。昼食を混雑したセンターのレストランで摂る。支払いはキャッシュ・オンリー。経営者の方針によるのだろう。しかし他にレストランがないのだから仕方がない。カード万能と思えた北米にもこういうところがある。

 

高木限界(timberline)に立つ

 

以前にバンフから観光バスでコロンビア大氷原を訪れた時には、山肌の潅木の中を登ってゆくブラック・ベアの姿を、止まってくれたバスの車窓から目撃することができた。あの時のアメリカ人ガイドによると、ブラック・ベアは珍しいことではないが、グリズリー(ヒグマ)となると、毎日のように通っていても姿を見かけるのは2週間に1回あるかなしかだということであった。そのガイドに問うたところ、バンフからコロンビア大氷原への行き来の間に見られる針葉樹は、ほとんどがスプルース(spruceトウヒ・マツ科常緑針葉樹)ヨレハマツ (lodge-pole pine)であり、後者の“lodge-pole pine”の名前の由来は「先住民がロッジを建てる時にポール(柱)として使っていたパイン(松)」にあると教えてくれた。今回、現地で購入したガイドブックによると、植生分布は次のようになっているようだ。

高度1,460(南向き斜面では1,520m)まで

cottonwood          ヒロハハコヤナギ   

aspen poplar        ポプラ            

lodge-pole pine      ヨレハマツ             

limber pine          フレクシリス(マツの一種:五葉松系の常緑樹)

Douglas fir          米マツ(マツ科の針葉樹)

white spruce        シロトウヒ

高度2,200m (高木限界)まで

Engleman spruce   トウヒの一種  

alpine fir            高山モミ

lodge-pole pine      ヨレハマツ            

alpine larch         高山カラマツ

whitebark pine      マツの一種

高木限界超

shrub                潅木

grass                

高木限界(timberline)を超えると風が強く温度も低いので、植物の生育期間が年60日程度しかなく喬木は育たないそうだが、見渡せばこのあたりの高所は白化粧をした岩肌ばかりで「さすがロッキー」潅木や草さえ生えていない。

 

森と湖に囲まれて

 

ミステア湖(Mistaya Lake)のほとりで小休止した後、ペイトー湖(Peyto Lake)に向かう。湖という湖が、それぞれ源流のある氷河が含む鉱物質を溶かし込んでいるので、それこそ十湖十色、湖ごとの美しさである。ペイトー湖も、近くに聳え立つ岩山からせり出している氷河から流れ込む水をたたえ、鮮やかなコバルトブルーを見せている。湖畔はここも一面の針葉樹の森。ついで立ち寄ったハーバート湖(Herbert Lake)は、一転して澄明な水面に対岸の山々と湖畔の針葉樹の木々を逆さに映している。森と湖に囲まれて、幾たびかそれぞれに趣の異なった静謐と耽美の時を過ごす。そして、この極め付けが、ルイーズ湖(Lake Louise)とモレイン湖(Moraine Lake)だ。深いV字形をなして左右から山が稜線を青緑色の湖面に落とし、その背後にビクトリア氷河(Victoria Glacier)を抱く白く神々しいばかりのロッキーな岩の高壁が広がるレイクルイーズの上品な佇まいもさることながら、モレイン湖の湖面の色は形容し難いほど鮮やかで「綺麗」の域を脱して「物凄さ」さえ感じられる。サファイアブルーとコバルトブルーと…どんな絵の具を使ったらこの色は表現できるのだろうか。前回訪れた時に、僕は密かに、モレイン湖に金、ペイトー湖に銀、レイクルイーズに銅のメダルをそれぞれ呈していた。再訪した今回も、モレイン湖は期待に反することなく“金メダリスト”の姿を見せてくれた。しかし、水口によると、レイクルイーズこそ金メダルだという。昨年、亡くした最愛の妻・紀久子さんを胸に帯同してきている水口には、二人で訪れることを熱望していたレイクルイーズの景観を目の当たりにした紀久子さんの歓喜の声が心に聞こえているのだろう。

 

望外の「新鮮」を賞味

 

水色が朱色っぽく見えるところから名づけられたバーミリオン湖(Vermillion Lake)につけばバンフの街はもう程近い。バンフには、我々と小田原高校同期で熱海ローマ風呂「大野屋」の社長をしている大野英市兄がInns of Banff Rundle Manorを経営しており、今回は2泊ともRundle Manorの方を予約してもらった。清貧旅行のため「自炊設備付き」をリクエストしていたからだ。そこで、到着後早速、近くのスーパーSafe Wayに食材の買出しに行く。天候が急変して、帰途に大雨に降られ、あわや濡れネズミ。調理進行中もなお雨は降り続いていて、茹でたアスパラ用のマヨネーズを買い忘れたのに気がついたが、再度外出にはみんな二の足を踏む。しかし、やむなくマヨネーズ無しで食べたアスパラの香りと味の良かったこと。乙女に化粧が不要な如く新鮮な素材には調味料は要らない。調味料が逆に本来の香りと味を殺してしまうことがあるのだ。これも”Enjoy Troubles!”のうちだ。買い忘れしたお陰でカナダ産アスパラの「新鮮」を賞味することができた。やがてすると、我々の行程に合わせて前日バンフ入りしていてくれた大野兄が、支配人をしている尾崎さんを携え、ワインとビールを抱えて登場。久し振りの再会を喜び合いカナダ/バンフ談義に花を咲かせる。Rundle Manorは、買い物に便利で調理施設が利用できる上に、ソファーに引き出し式のベッドが仕込まれていて宿泊者に親切な設計になっている。

 

(2001/7/13)

 

ヨーホー国立公園にて

 

人工にもビックリ

 

前夜、大野英市兄と尾崎さんに観光先を推薦してもらった際に、“スパイラル・トンネル”を提案してもらったのだが、「我々は大自然にビックリするために来たのだから」と豪語して、折角の人工物観光の提案を退けていた。しかし、我々が選んだ提案の“ヨーホー”へ向けてトランス・カナダ・ハイウェイに車を進めていると、右側に平行して走っているカナダ・パシフィック・レイルウェイ(CPR)をゆっくりと進む貨物列車が見えた。あんなに豪語していたくせに「これはことによると」の期待が胸をよぎる。果たして、列車を追い越してなおも車を進めるとスパイラル・トンネル(Spiral Tunnels)のビューポイントがあった。ここで待っていれば先刻の貨物列車の運行が眺められるはずである。このスパイラル・トンネルは、難関キッキングホース峠の急傾斜を避けるために文字通り螺旋状に掘られたものであり、ビューポイントからはトンネルの入口と出口を同時に一望することができる。やがて期待通り列車の音が聞こえ、先頭がトンネルの入口を入って行く。以前にバンフを訪れた時にも感じたことであるが、CPRの貨物列車は無闇に車両数が多くてスピードが遅い。見ていると、長蛇がゆっくりと山中に飲み込まれていくようだ。見守ること暫し、胴体が依然として飲み込まれている間に長蛇の頭がトンネルの出口からでてきた。目に見えぬスパイラルの内部を通して、列車が全部と後部とでトンネルを貫き通しているのである。一同この“人工”の景観にビックリ。しかし、自然の規模が大きいからこそ人間の挑戦も大きなものとなるのである。純自然だけではなく、自然と人間の接点部分にもビックリのネタはあるものだと一同“偏見”を改め、改めて“人工”にも目を向けなおすようになった。

 

Awsome=Yoho!

 

カナダの先住民の用いた言語も、日本語と同じように、開音節(子音+母音)を基調としていたのであろうか、地名が聞き取り易くて親しみ易い。「ヨーホー」もその一例で、yohoは先住民族クリー族が英語のawesomeに近い意味をもたせて使っていた言葉らしい。先住民族クリー族にさえ「驚き・畏怖」を感じさせた“手付かずの自然”がここにあり、今も豊かにawesomeさが残っているわけである。トランス・カナダ・ハイウェイを右折してタカカウの滝に向う。車は狭くて急な道を上る。急カーブの箇所にはスイッチバックが設けられていた。この急坂が手付かずの自然を守る要塞なのであろう。急坂を越えて暫く行くと、静かな清流があり、忽然として滝の音が聞こえてき、これがタカカウ滝(Takakkaw Falls)である。規模としてはナイヤガラについでカナダ第2位だそうだが、落差390mはナイヤガラを凌いでカナダ第1位。しかも、滝壷の近くまで行くことができるので、のけぞって仰ぎ見る形になるナイヤガラ・カナダ滝と違って、形はいたってシンプルであり、灰褐色をした断崖の最高所から勢いよく落下する真っ白な水隗が、直ぐ下にある岩盤の張り出しにぶつかって砕け、夥しい水量のシャワーを降らせ轟音を響かせている。この「タカカウ(takakau)」もクリー族の言葉が語源で「すばらしい(magnificent)」という意味らしい。手付かずの自然に踏み入って初めてこの滝に出会った時にこの言葉を発したクリー族の人々の気持がよくわかるような気がする。周囲には、文字通り聖堂の形をしたCathedral Mountain (3,189m)や、手付かずの自然にしてはおかしな名のVice President (3,066m)などの山々を展望することもできる。

 

エメラルド!実にエメラルド!

 

つい昨日まで、モレイン湖、ペイトー湖、レイクルイーズにそれぞれ金銀銅のメダルを呈していた私だが、この湖を見て順位の変動が起った。エメラルド湖(Emerald Lake)の名前そのままの神秘的なエメラルド・グリーン。宝石そのもののような美しさは、サファイア・ブルーのモレイン湖と並んで堂々の金メダルものである。湖岸の針葉樹林のダーク・グリーン、取り巻く山々のグレイと淡い褐色、それに青空までがエメラルド・グリーンに良く映える。森と岩山と湖と。これぞ、カナディアン・ロッキーの湖。ヨーホーの宝に見入り幸せな気分に浸っていると、中澤が柄にもなくロマンチックな提案をした。「カヌーに乗って昼食を摂ることにしないか?」見れば、湖上を滑るように進むカヌーの姿がいくつか。しかし、この提案は、突然現実的になる癖のある山本の拒否権発動によって退けられてしまった。そこで、湖畔のベンチで軽食をとることとなった。ところが、この軽食の手配の段で軽い悶着が起った。軽食スタンドがカードを受け付けないのである。一同が両替していたカナダ・ドルはもう手持ちが乏しくなっており昼食代を賄うには足りなくなっていた。美しい湖のほとりで食いっぱぐれになってしまうのか。そこで、機転を利かせたのが水口隊長であった。「佐々木、米ドルを持っているだろう。あれなら大丈夫じゃないか」。はたして、米ドルは全くのノー・プロブレム。晴れて、かねて見定めていたベンチにパンとジュースを運び、エメラルドの眼福に浴しながらの昼食タイムとなった。しかし、見れば見るほどエメラルド!実にエメラルド!サファイア・ブルーで人を寄せ付けない「物凄さ」を漂わせていたモレイン湖と違って、深く穏やかなエメラルド・グリーンは人を誘う。エメラルドの魅惑に抗しきれなくなった我々は、昼食後カヌーに乗って湖上に出ることにした。水口・山本、中澤・佐々木の2ペアに分かれ、ボートハウスのお姐さんに簡単なパドル操作の説明を受けてから、いざ湖心へ向け出船。カヌーに乗るのも初体験だが、パドル操作も軽くミズスマシのようにカヌーは進む。思っていたより安定性もあり、これなら中澤提案を容れて湖上昼食を摂ることも充分可能であり、あの時に応援演説ができなかったのをチョッピリ悔やむ。湖上に出ても水色の美しさは変わらず、我々はエメラルド・グリーンの中に溶け込み至福の一時を過ごすことができた。

 

“我が町”バンフ

 

エメラルド湖に心を残しながら“我が町”バンフに戻る。私自身前回の来訪時も含めて僅か数日間の滞在に過ぎないが、東西に姿の良いランドル山(Mt. Rundle)とカスケード山(Mt. Cascade)が控えるこの街にいると何故か心が和む。大野英市兄が経営するInns of Banffは、いかにも、このこじんまりとしてカナディアン・ロッキーの麓の街に相応しいロッジ風のホテルである。この街を一望するのには、サルファー山(Sulphur Mountain)のゴンドラを利用するのが一番と知っていたので一同に誘いかけてロープウェイ駅に行く。サルファー山は名前の通り、硫黄が噴出していて、ロープウェイ駅の近くには北米には珍しい温泉があり、それぞれが水着姿で屋外温泉プールにつかっている。ゴンドラのサミット駅に続く展望台は、前回訪れた時より遥かに立派に整備されていたが、その代わり、あの時あんなにたくさんいた野生のビッグ・ホーン・シープに今回は一頭もお目にかかることができなかった。そう言えば、前回はバンフの街並みのあちこちで目にしたエルクの糞もついぞ見かけなかった。急激な観光地化のために野生がバンフから遠ざかってしまったのだろうか。しかし、バンフの街の俯瞰は前回と少しも変わらず、岩山に囲まれ箱庭のように端然とした姿を見せてくれた。夕食は大野兄がバンフ歓迎の意を表して招待してくれ、Inns of Banffの近くのレストランBumpors 14オンスのアルバータ牛のステーキに舌鼓を打つ。何故アルバータ牛がおいしいのか理由は定かにならなかったが、前回訪れた際にも地元にお住まいの萱沼さんの自宅に招かれシャブシャブ用のアルバータ牛を生で頂き感動を覚えたことがある。そう言えば、あの時には、まだ小学校に通っていたお子さんから「馬のように大きなエルクが校庭に現れたので今日の体育の時間は中止になった」と聞いたし、萱沼さんにInns of Banffとの間を送迎して頂いた時にも大きなエルクを見かけたものだ。バンフは最早、野生の動物たちにとっては“我が町”でなくなってしまったのだろうか。

 

(2001/7/14)

 

モンタナ州へ

 

カナダの大平原へ

 

バンフを発った僕達を道路の両サイドから見送ってくれていた岩山のつながりも途切れ途切れになり、ついに姿を消した。これでカナディアン・ロッキーとお別れである。高度も下がってきたのだろう、いつしか針葉樹から落葉樹の世界に変わっている。車の行く手目の前いっぱいに緑の牧草地も開けてきた。巍々とした山岳地帯から一転して、あくまで広くて平らなカナダの大平原の出現である。“牛の街”のニックネームで称されるカルガリーでは折柄“カウボーイの祭典”スタンピードが開かれているが、幸いまだ朝早いので道路が混んでいない。街並みを過ぎて南下すると大きな住宅街がある。木材王国だけあって、ふんだんに木を使った大きな木造家屋ばかりだが、お互いにひしめき合って建っていて建蔽率も高そうなのが“広大なカナダ”にしては意外な感じがする。

 

南進のつもりが…

 

更に南下してルート2号を米加国境へ向けて一目散…のはずであった。ところが、様子がおかしくなってきた。再びロッキーのような山容が現れ、再び針葉樹の世界に入ってきた。とうとう、一瞬「あれれ、行き止まりか」と思えるようなカーブした地点にさしかかった時に、牛らしきものまでが3頭路側に現れた。よく見るとマウンテンシープの類のようだ。ここでようやく、めいめい行く手に疑念を抱いていた一同、間違いなく道を間違えていたことを確認した。幸いこのあたりはサイクリング・ルートの休憩点に当たるらしく、何人か憩いを取っている人の姿が見えた。迷っている僕達の車に近づいてきてくれたスパッツのサイクリング姿の女性に地図を見せたところ、やはり、あらぬ方向を目指してあらぬところを走っていたことが分った。南進していたつもりが、工事中の分り難い交差点があったために、いつの間にか西へ向けてまっしぐらに進んできてしまったのである。実際、車を走らせていると方向が分らなくなることは間々あることである。僕達は、このためにわざわざ日本から携行してきた磁石を使っていなかったのをチョッピリ反省した。しかし、ここでもEnjoy troubles.だ。スパッツ姿の親切で美しい(親切な人はすべからく美しいのだ)カナダ女性にめぐり会うことができた。

 

偉大なり中華料理

 

ルート2号に戻って、フォート・マクロード(Fort Mcleod)に着き、レストランを紹介してもらうためにインフォーメーション・センターに飛び込む。望みは中華料理店。連日のステーキの夕餉。昼食はせめて胃にやさしいものにしたいからだ。しかし、こんな田舎の町ではいくらなんでも中華料理店はあるまい。…しかし、僕達のこんなダメモトの願いがあっさりかなえられたのだから中華料理は凄い。中華料理店のくせに、お店の名前が「ジョニーズ(Jonny’s)」だというのも変わっているが、入っているお客も殆どがアングロサクソン系と思しきカナダ人なのだから、これはもうすっかり中華離れしている。こんな辺鄙なところまで入り込んで中華料理を伝えた上、カナダの地に溶け込んで同化してしまうという中国人のすさまじいまでの適応力の強さに改めて感じ入る。その後の行程でもわかったことだが、日本料理店は大都会にしかないが、中華料理店はどんなに小さい街にでもあるようだ。有り難いことに、大半は看板が漢字なので、漢字を探してキョロキョロしながら市街地を走れば、たいてい胃に優しい昼食にありつくことができる。因みに、“ラーメン”を期待してメニューの”Lomen”をオーダーすると、これはむしろ焼きソバで、「チキン・スープ・ヌードル」”Chicken Noodle Soup”がラーメンに近い。また、餃子は「ダンプリング」”Dumpling”で殆ど通ずるので、副食としてオーダーしてシェアすると良い。

 

初の陸路国境越え

 

さて、いよいよ米加国境は近い。若緑の大草原のまっただなかを道路が真っ直ぐに伸びる。やがて、その若緑が黄土色に変わり、そして茶褐色の荒野の様相を呈してきた。こんな人気のない不毛の高原でも道路が走り、送電線が張られている。アメリカ・カナダのインフラストラクチャーの整備は行き届いている。そして、ようやく遠方に国境管理事務所と思しき建て屋が見えてきた。このようにして陸路国境線を超えるも初めての経験であり胸の高鳴りを覚える。車を止め一同車から降り立ったところ、警備員が物凄い勢いで飛び出してきて圧しとどめ、乗車したままゲートに入るよう指示された。こちらとしては、敬意を表して歩いて窓口に向おうとしたのだが、先方にしてみれば難民が駆け込んでくるような風情に見えたのかもしれない。かくて、車ごとゲートを越えたところで停車を命じられ事務所内へ招じ入れられることになった。対応に当たった黒人女性係官の腰には重たげな拳銃が黒光りしており、「銃の国」アメリカ入りした実感が凄みを伴って感じられる。止せばいいものを、中澤が事務所内のビデオ撮りの許可を求めたが、答えは無論「ノー」で、あらぬことか中澤だけ三人と別の場所に隔離されてしまった。ビデオ撮影の許可を求めただけなのにお仕置きとはご無体なと、成り行きに気を配っている間に三人の出入国手続は終って無罪放免。この間、中澤は放置されたまま。何のことはない、中澤だけがシアトルからバンクーバーに向った際にきちんと出入国手続を済ませていたのであって、お仕置きどころか一人だけ優等生であったのである。

 

モンタナの夜

 

グレート・フォールズの市街に入ると「カジノ」の看板が目に付き「アメリカに来た」という感じがいや増す。アメリカ最北端のモンタナ州は”Big Sky Country”のニックネームで呼ばれている。アメリカ第一泊目となるThe Great Falls Innのフロントの壁にはオーロラの絵が数点掲げられている。太目で親切な(太った人はすべからく親切なのだ)フロント・レディーによると、秋冬になるとここでもオーロラが見られるという。「それじゃ、秋まで居ようかな」と大した冗談でもないことを口にしたところクスリときた。へタッピな英語で笑いを取れることなど滅多にないのでチョッピリ太目ちゃんが気に入った。そこで、なおもコイン・ローンドリーの使い方を尋ねるは、コインの両替を頼むは、洗剤を調達するはで、“太っ腹同士”の親睦を重ねていざ洗濯の開始。だが、コイン・ローンドリー使用に当たっては予め所要時間を確かめておいた方が良い。結局は、洗濯物を入れたまま放置しておくこともできないので途中で取り出し、みんなと一緒にステーキハウスJaker’sに繰り出すことにした。この店も、ホテルの太目ちゃんに「貴女はいつもどの店に行くの?」の質問を浴びせて聞き出したものである。地元の人が好む店へ行けば概ね「美味くて安い」が保証されて間違いがない。そんな満足感を今回も覚えて店を出て帰途についたところ中澤のパスポート紛失事件勃発。ホテルと店の間を更に一往復した結果、結局はホテルの部屋にバッグを置き忘れていただけのことと分り事なきをえた。最初のうちは、初めての北米大陸旅行で気が張り詰めていたのだろうが、慣れてきて気が緩んだのか。一騒動の後、「人災は忘れた頃に」の教訓を得た。

 

(2001/7/15)

 

今ここに遥かなりしミズーリ

イェローストーン入り

 

複数形と最上級

 

モンタナの朝はBig Sky も青く透きとおっていて、”clean””crisp”そのものである。今朝もフロントは昨夕と同じの太めちゃん。グレートフォール“ズ”Great Fall”s”と複数形になっているのが気になって聞いたところ、果たして滝は幾つかあって、かつての最大級(used to be the greatest)は今は水が涸れていて最大の滝ではないという。そこで、またしても太めちゃんのお薦めに従って、現在の最大級ライアン・ダム観光に行くことにした。車を進めると、広大な麦畑の地帯に入ってきた。見渡す限りの広さに、「これはいちいち麦踏みなどしていられないな」とか「アメリカは“米国”と書くが“麦国”に改めるべきではないか」といった馬鹿な思いが(しかし実感を伴って)頭に浮かぶ。麦畑をキツネが横切る姿を見かけると、もうすぐそこがライアン・ダムであった。ミズーリ川にかかる滝をできたダムだそうで、なんだか自然と人工が組み合わさったような形で最大級Greatest!のビックリを感ずることはできなかった。しかし、あちこちに可愛らしいウサギの姿を見ることができ、幼少の頃から耳に目に親しんできた“遥かなるミズーリ”のほとりに初めて立って憩いの一時を過ごすことができた。

 

トンネルが無い

 

更に南下すると麦畑のスケールがますますでかくなる。遥か遠くに低くて裾が広い台形をした、いかにも「砦」を思わせるような台地が見えるが、そこまでずっと小麦色が続いている。しかし、牧柵らしきものやヘイ・キューブも見られるところから、実際には麦畑と牧草地が混在しているのだろう。ともかく広い。ともかく平だ。気が付いてみれば今日に至るまでトンネルをくぐったことが一度もない。改めて考えてみれば、平野ばかりでなく山岳地も走破してきたのにトンネルが一つも無いということはどういうことなのだろうか。一方、こんな平地でも“Deer!”(鹿に注意!)の交通標識がある。畑・牧草地(人工)の中に鹿(自然)が出没し、山岳地帯(自然)の中に自動車道路(人工)が無理なく融合している。北アメリカの自然と人工、それぞれの懐の広さをまざまざと感ずる。

 

自動車と鉄道と自然の共存

 

車が山間部に入って暫くすると、「ビッグベルトマウンテン(Big Belt Mountain)」という標識のある低い山並みが現れた。読んで字の如しでもあるが、岩の見え方からして恐竜の尻尾のようだ。このあたりから様々な造形をした、巨大な粘土細工を思わせる岩が次々と見えてくる。再び山間地に姿を見せたミズーリは静かに緩やかに流れ、時に蛇行し、釣人の姿も散見できる。赤みを帯びた岩山の麓をミズーリが流れ、これと並行して鉄道の線路と自動車が走る。無理やりにトンネルをこじ開けなくても、自然と人工が無理なく共存できているのだ。要するにアメリカの自然は造作がでかい。相当な山間地でも山岳の“糊しろ”部分の平地があって、ここにトンネル無しでも幹線道路を敷く余地ができているのである。共存といえば、自動車王国といわれるアメリカで、未だに鉄道が共存しているのは意外なほどである。このような山間地にもレールが走っており、鉄道も陸運の一翼を担い続けていることがよく分る。長い列車編成で、ゆったり進行している貨車を時折見かけるところから、重量物や不急の資材の運搬は鉄道が分担する形で自動車との棲み分けができているのであろう。グレートフォールズで見たミズーリ上流はここに来て更に川幅を狭めて益々細くなってゆく。

 

かつての地獄の咆哮

 

今日の泊りはイェローストーン国立公園の一角ガーディナー(Gardiner)で我等が宿はComfort Inn Yellowstone North。到着してフロントの周囲を見渡してみると、キツネ、リンクス(山猫)、クロクマにグリズリーと馬よりでかいエルク、それにガラガラヘビの剥製までが並べられており、「野生近し」を実感することができる。夕食前に、宿から程近いマンモス・ホット・.スプリングス(Mammoth Hot Springs)見学に行く。温泉が常時噴出していて、そこに含まれる白い沈殿物が長い年月をかけて重なり合い段々畑状の美しいテラスを作り出している。だが、確かに美しい造形ではあるが、「マンモス」の名に期待していたほどの迫力は感じられず、随所に大湧谷やら地獄谷やらがある温泉王国からの旅人がビックリするほどでもない。もっとも、宿のある周辺の地名はHell-roaring(地獄の咆哮)というそうだから、昔は地底から間欠泉(ガイザー)が唸りをあげて噴出していたのかもしれない。それとも地獄の咆哮は野生動物たちのものであったのか。

 

友情あっての清貧旅行

 

かつての地獄の咆哮はさておき、連日連夜地獄の咆哮に悩まされていたのは、他ならぬ僕自身であった。連日就寝タイムになると真っ先に咆哮を立てるのが山本で驚くほどに寝つきが良い。次いで委細構わずこれに咆哮を重ねるのが、これまた決って水口隊長。早々の地獄の咆哮開始に寝そびれて「参ったなあ」と中澤に同調を求めるのだが空しくも答がない。これも決って静かに白川夜船の世界に入っていたらしい。また、ようやく寝付けたとしたところで、“同衾”相方の寝返りの振動が伝わってきて目を覚まされることもしばしば。そんな訳で、夜な夜な、孤独感を感じながら寝不足を続けてきたのであった。さて、strange strangersの我等、今日も1室4人。今晩はエクストラベッドも借りられないかダブルベッド2台で4人が寝なければならない。ああ、今宵も地獄の咆哮…と観念して床についたのだがこの夜ばかりは聊か様子が違い熟睡することができた。僕の連日の寝不足を見かねて山本がベッドから降りて窓際の床の上に寝ていてくれたのである。翌朝、心地よい目覚めの中にさり気ない友情の発露を見ることができた。

 

(2001/7/16)

 

イェローストーンからグランド・ティートン入り

 

「いつか」が今日に

 

さて、今日はイェローストーン国立公園のまっただ中に行く。初めてのアメリカ出張の際にマンハッタン郊外のスカースデ―ルにあった本荘大紀兄宅に泊めてもらった時に話を聞いてから「いつかはきっと」と思い続けてきたところである。当時JTBインターナショナルに勤務していた本荘兄はもとより旅行のプロである。その旅行のプロが、私の訪問の直前にイェローストーンとグランド・ティートンに家族旅行をしており、その素晴らしさについて感懐を込めて語っていたからである。野生動物、間欠泉、山火事などなど、本荘談に現れ僕の脳裏に刻み込まれていたキーワード達が頭をよぎる。いよいよ今日…

 

渓谷のお出迎え

 

ガーディナー川(Gardiner River)はところどころにポンドを形作りながら草原を流れ、岸辺には釣人の姿も散見できる。車から降り立ってみると草むらには小さな野ネズミ達が動き回り、コヨーテの姿も見えた。昨日、ガーディナーの宿で予兆を感じた“野生動物王国”はもうすぐ目の前なのだろう。「イェローストーン」への期待がいや増してくる。しかしこの当たりは土地が痩せているのだろうか、淡いグリーンの草地を蛇行する川の辺にこそ針葉樹の喬木は見えるが、そこからなだらかに高まる丘の部分は瓦礫まじりの黄土色をしていて針葉樹の潅木しか生えていない。青く澄明に見えていた川の水が急流になって白さが混じってくるのにつれて、川辺の丘も次第に急峻になり山の様相を呈してくる。いつの間にか見える川の名前がイェローストーン川(Yellowstone River)に変わった頃には、岸は絶壁をなし見事な渓谷が出来上がっていた。川は遥か眼下に白いしぶきを立てて絶壁の狭間を走っている。目を転ずれば、薄茶色をした岸壁が眼前に迫り、あちこちで滝が白く迸り落ちている。Hanging Valleyと書かれた標識も見つけた。イェローストーンはまず、僕のキーワードには含まれていなかった「渓谷」で出迎えてくれた。

 

最古で最広?

 

赤茶けた断崖の部分と裏腹に道路の両サイドは緑が濃い。時折、山火事の跡が車窓に現れる。短く育った幼木の中に、自らは焼け焦がれながらなおも立ち続けている親木の姿が、子どもの成長を見取るまで倒れまいとして踏ん張っている親の姿を思わせて憐れである。気がつけば、道路際に白、黄、ピンク、紫の花々も咲いている。みんな小さくて控え目である。切り立った断崖、山火事による世代交代といった厳しい自然の中で、さりげなく優しさを示し、心を和ませてくれる。イエローストン国立公園は世界最古の国立公園で、総面積8900平方キロメートルと四国の半分の広さがあるが、主役の渓谷から脇役の小さな花々まで“出し物”の層も広そうで、行く手が益々楽しみになってきた。さすがに集客範囲も広く全米にわたっており、インスピレーション・ポイント(Inspiration Point)の駐車場には次のような州名とそれぞれのニックネームが書かれたナンバープレートを見かけた。

オハイオ (Birthday of Aviation) / ワシントン (Evergreen State) / アイダホ (Famous Potatoes) / ニューヨーク(Empire State) / ユタ (Greatest Snow on Earth) / コロラド(Centennial State) / ミネソタ(1,000 Lakes) / イリノイ(Land of Lincoln)ウィスコンシン(America’s Dairy Land) / フロリダ(Sunshine State) / アリゾナ(Grand Canyon State) / ミズーリ(Show-me State) / ワイオミング / オレゴン / テキサス / テネシー / カンサス

 

野生の登場

 

車が進むにつれて、渓谷はいよいよ深く凄みを増してくる。激流はますます勢いを増し、真っ白に泡立ちながら峡谷を流れ落ち両岸の岩肌を削り続けている。イエローストーン・グランドキャニオン(Grand Canyon of the Yellowstone)と名付けられた渓谷には落差90mに及ぶ雄大な滝が真っ白なネクタイの形をした奔流を垂直に落下させている。これがローワー・フォール(Lower Falls)で、滝はこの他にもアッパー・フォール(Upper Falls)など随所に見られ、それぞれの造形美で渓谷を飾っている。滝はサンズイに「竜」と書くが、こうした滝をみているとこの字の由来がよく分かるような気がしてくる。イエローストーンには「竜」という野生が棲んでいる。渓谷にはチョウゲンボウによく似た鳥が飛翔しているのを見た。ガイドブックには ”Osprey” とあった。後日調べてみるとワシタカ科でミサゴという鳥らしい。後刻イエローストーン湖(Yellowstone Lake)の湖畔の道をドライブしている時には、先行車が次々と徐行を始めたので、時ならぬ渋滞状態を訝り見習って道路わきの樹上を見上げるとオオワシの巣がありオオワシが大きな羽を広げていた。イエローストーンは空にも野生がある。ドライブ中といえば、道路からほんの5−6メートルのところに巨大な動物を発見したときもビックリした。負傷でもしたのであろうか、地に臥せっているバイソンであった。

 

湖畔でタラを食う

 

やがて車は平地に出る。高度にしては豊かな水を湛えた川が緩やかに流れ、若緑の草原の中を蛇行している。あちこちで釣人が川に立ちこんでフライフィッシングをしている一方で、バイソンの群がゆったりと草を食んでいる姿も見える。年に何件か、バイソンの自動車襲撃による事故もあるそうだが、こうして見ている限りは誠に平和で穏やかな光景である。イエローストーン湖(Yellowstone Lake)の辺にあるレストランに入った。レストランといっても大きなロの字形のテーブルが設えてあって客はこれを囲む形で席を取る簡易給食施設である。フライフィッシングの途中の腹ごしらえなのだろう、ウェーダーを付けたままの釣人が二人いた。本日の釣況を尋ねたところ「今日は不漁で…」の反応であった。釣師との問答に東西の差はないようだ。ヘッポコ釣師の私自身も何回も同じように尋ねられ同じように答えている。Alaskan Pollock という魚が使われているとのことだったので、”Mammoth Combo”というメニューを選んだ。「近くの湖か川の獲れたて」を勝手に期待したのだが、食べてみたらタラのような味がした。 後で調べてみたら、案の定、北大西洋産の食用魚でスケトウダラに近いらしい。大体において、アメリカ人は魚の名前には無頓着なので、魚種を聞いても満足な答を得られることは少ないから期待しない方が良い。

 

なぜ“イエローストーン”?

 

僕の席の左側にはアメリカ人観光客一同が座っていた。退屈紛れにすぐ隣のご婦人と目が会ったのを機に「どうしてここはイエローストーンと呼ばれているのかご存知ですか」と質問を発してみた。意外な質問だったのだろう、「えっ」と一瞬息を呑んだ後で「ちょっと待って」と言って、隣の隣のご婦人に「あんた知ってる?」と情報検索。結局はお二人とも分からずじまいで「ソーリー」のデュエットが帰ってきた。後で調べてみると何のことはない、イエローストーン・グランドキャニオン(Grand Canyon of the Yellowstone)のローワー・フォール(Lower Falls)の回りの黄色い岩がこの公園名の由来だそうだが、こんなことは知る人ぞ知るであって、馬鹿な質問をしたものである。「ここはどうして“箱根”って呼ばれるんですか」と聞かれてまともに答えられる人がどれほどいようか。それにしても黄色い「岩」なのに“ストーン”とはこはいかに?思えば、イエローストーン湖にしても、カナディアン・ロッキーでみてきた数々の湖に比べると、比較にならないくらい広大に見える。僕が大好きなモレイン湖(Moraine Lake)もアメリカ人が命名していたとしたらモレイン池(Moraine Pond)という情けない名前になっていたかもしれない。

 

真打ガイザー独演会

 

さて、イエローストーン公園の真打は間欠泉(ガイザー)の登場である。いくつかの噴出口を遠巻きに囲んだ柵がありそこに階段状のベンチが並べられている。インフォメーション・センターで確認したところ、一番近くにあるこんもりと盛り上がった噴出口がやがて“出演”する予定だというので一同特等席に陣取って待つ。「オールド・フェイスフル」(Old Faithful)のニックネームが付けられた通り、時間に忠実な(Faithful)噴出の仕方をするので“出演”時間がほぼ正しく予測されるのだそうだ。それにしても「フェイスフル」の方はまだしも「オールド」の方がいただけないような気がする。忠実な老僕がこまめに働いている有様が想像されるだけで、若々しいガイザーが勢い良く噴き上げてくるイメージに結び付け難い。それでも、観客は次第に数を増しベンチの空席が埋まってきた。どうも大リーグの野球場のような雰囲気だなあと思っていたら、案の定始まりました、スタジアム風のウェーブの動き。野球場も同様だが、このような動きが、どこからともなく起ってきて全体に広がってゆくところがアメリカらしくて良い。そうこうして時間つぶしをしているうちに、噴出口のあたりに湯気が立ち始めて噴出の兆候が見えてきた。観客一同固唾を飲む。次の瞬間、噴出が起った。高く立ち上る水蒸気のきのこ雲。これが僕のキーワードの一つであった「間欠泉」なのだ!しかし、“出演”時間は長くは続かずすぐに幕引きとなった。そこへ、空がきのこ雲に刺激されたせいでもあるまいが、大粒の雨が降り出した。一同這う這うの体で車に戻って、今夜の宿泊地モラン(Moran)へ向けて出発し、僕のメイン・イベントであったイエローストーンの場はあっけない終演を迎えた。

 

グランド・ティートン入り

 

1時間強でグランド・ティートン公園内のジャクソン湖(Jackson Lake)湖畔に到着して暫し休憩。これまたイエローストーン湖に輪をかけたように大きく、紛れもない「アメリカ流Lake」である。様々な水色を湛えて佇むカナディアン・ロッキー地域の湖に慣れ親しんでいた先住民族クリー族が見たら「これはLakeではなくてSeaではないか」と思うことだろう。やがて、明日の再会を心に約して湖に別れを告げ今日の投宿地モラン(Moran)に向かう。宿の名前はHatched Hotel。どうして” Hatched”なのか分からないがログハウスなので野趣が会って良い。あたりに建造物は一切なく夕食もモーテルのレストランで摂ることになったが、これがまたこじんまりしたログハウス仕立て。その上に熊の剥製か何かが配してあり、いやがうえにも野趣をそそる。フロントの青年が人懐こい奴で、やたらと日本とに日本語に興味を持っているらしく、片言の日本語を交えていろいろ話し掛けてくる。実は、この旅行は海外での日本語教師生活を目指す僕にとっては日本語教育需要サーベイの旅でもあったのだが、とんだ辺鄙なところで“需要”にであったものだ。問われるまま、日本語教育ごっこをしながらしばし談笑の時を過ごす。今夜はエクストラベッドを二つ追加してもらったので楽に寝ることができそうだ。こんなささやかなことに対してでも有り難さを感ずることができるのも清貧旅行ならではのことだろう。

(2001/7/17)

 

 

               

グランド・ティートン国立公園からソルトレークへ

 

これぞアメリカ版の「山と湖」

 

再びジャクソン湖畔に立つ。映画通の山本のウンチクによると、ここは映画「シェ―ン」のロケ地だったそうであり、湖の対岸に聳え立つ山脈がそのタイトルバックとして使われたのだそうだ。紺碧の空と真っ白な浮雲を背に湖上に影を宿す山々の中でも一際高いのが右にモラン山(Mt. Moran)左にグランド・ティートン(Grand Teton)の両横綱。山肌は“ロッキー”で、ところどころに白い氷河が見えるところは同じだが、カナディアン・ロッキーの横方向の地層と違ってここでは縦に襞が走っている。「グランド・ティートン」の名前は、フランス系カナダ人の猟師が地上からいきなりそびえ立つ山々をみて“まるで大きな乳房のようだ”と形容したフランス語からきているとのことだが、僕にはこんな巍々とした山並みを乳房に例えられるような元気がない。しかも清貧のみとしては許される比喩でもない。湖畔には一面に濃緑の針葉樹林が繁り、空の紺碧、山肌のグレイと湖面の群青とのコントラストの間をとりもっているように見える。アメリカ版の「山と湖」のパノラマに暫し息を呑んで見入った。

 

ジャクソン湖周航

 

山中湖畔の住人である水口は、最近4級小型船舶の免許を取っていた。ジャスパーのマリーン湖(Maligne Lake)はバッテリー・エンジン付きのボートだったので不要だったが、ここではこのライセンスが物を言い、一同モーターボートでジャクソン湖周航をすることができた。水口はいかにもホンダ出身らしく車のハンドルを握っている時は生き生きとしているがモーターボートの運転も実に楽しそうにやっている。動いているもののハンドルなら何でも良いのかもしれない。ボートは半島を右に回って湖の中央部に向かう。モラン山(Mt. Moran)、グランド・ティートン(Grand Teton)の両横綱の直下を走っている感じがする。釣をしているプレジャーボートのそばを通り越す。狙いはトラウト、それともサーモン?こんなに大きな湖のことだから相当な大物が潜んでいそうだ。ボートはなおも直進し“湖尻”を目指すが、行けども行けども行き着かない。折悪しく風が吹き始めて来た。ボートの貸し出し時間も気になる。そこで、道半ばにしてUターンすることにした。風の勢いが増し、風波も立って、ボートが揺れ船足が遮られる。また、悪いことに、水平位置からみるから、先刻回ってきた半島が遠景の陸地とつながって見えてどこが出発点だったのか判別できない。大いに焦ったが、“ホンダ流ハンドル操作”による冷静沈着なぶっ飛ばし(?)のお陰で何とか予定の2時間以内ぎりぎりで周航を終えることができた。ジャクソン湖は本当にでかかった。

 

若くて素朴なアイダホ・ポテト達

 

ジャクソン・シティでバーボン・ウィスキーとツマミを買う。行く手のソルトレイクは禁酒の町と聞かされていたからだ。ジャクソン・シティはいかにも“西部の町”といった街並みだが、ここにも中華料理店はあって、酒屋で教えられた「香港」で昼食をとる。街を出ると豊かな緑の牧草地が広がっている。ここでは遠くの山もなだらかで頂きまで緑なので、日本のどこかをドライブしているような錯覚にとらわれる。いつの間にかワイオミング州から再びアイダホ州に入っている。アイダホと言えばポテトのはずだがジャガイモ畑なんかどこにあるんだろうなんて、きょろきょろしているうちにソルトレイク方面への岐路が分からず道に迷ってしまった。一同がそれこそ路頭に迷っている時に後に一台の車が止まった。地元の青年なのだろう、親切に迷える東洋人を救おうとして”Are you lost?”と声をかけてくれたのである。行く先を告げると、道を教えてくれたばかりでなく分かり難い道を自分の車で先導していってくれ、我々が“軌道”に乗ったのを確かめると車窓から手を出して”Bye.”の合図を送ってくれた。ソーダ・スプリングス(Soda Springs)の分れ道には道路工事現場があった。道路工事現場にはオジさんが定番なのだが、そこには「エッ」と驚くような可愛らしくて若い女性のフラッガーがいて交通整理をしていた。こんなのを掃き溜めの鶴と呼んでいいのだろうか。この鶴嬢がまた陽気で人懐こく、勉強したことがあるという日本語の「コンニチハ」や「イチ、ニ、サン」などの片言を披露してくれる。こんなフラッガーなら、多少交通が渋滞したとしてもむしろ歓迎できるほどだ。かくて、迷い道と工事中による交通渋滞もEnjoy Troubles。それぞれに若いアイダホ・ポテト達の素朴な人情味に触れられたような気がする。

 

様々な大平原

 

やがてアイダホ州からからユタ州に入る。右は丘陵の牧草地、左には平野で緑の畑が広がっている。ここでは山肌が茶色をしている。一見すると大平原が延々と続いているように見えるが、ところによって微妙に様相が変わってくるので面白くて決して退屈しない。しかし、このような“ブランド価値”のない土地柄には関心がないのか、僕以外の三人様は、ドライバーまたはナビゲーター役がお役ごめんになって後部座席に引きこもると程なくして寝息を立てる。道の両側に見える村落も次第に増えるとともに大きなものとなってきた。人口密度が高くなってくるのを感じながらなおもキョロキョロを続けていると右手前方の山に大きな白煙が上がっているのが見えた。この白煙はI-15走行中かなりの時間我々の視界に留まっていた。それだけ平野部の奥行きが深く、山までの距離が遠いということなのだろう。あるいは、このような山火事は日常茶飯事なのかもしれない。対岸の火事ではないが、緊迫感らしいものは目に伝わってこなかった。今度は小麦畑と牧畜地。広い牧場に放牧されているのは何故か白と白黒混じりだけである。近景が牧草の薄緑、中景が広葉樹の真緑、そして遠景が針葉樹の濃緑で、見事な緑のグラデュエーションを堪能する。しかし、後部座席席からは相変わらずスヤスヤの寝息。山肌が茶色からグレイに変わってきて、地質の変化をうかがわせる。ナッツ畑も姿を見せ、のどかな牧畜風景とともに、すっかり情景が平野そのものになってきたなと思った矢先に左手に山が見え、スキー場のコースが相次いで現れてきた。ソルト・レイクはもうすぐそこなのだ。

 

モルモン教の聖都へ

 

イントラステートI-15がR84と合流すると渋滞が始まり、右手にソルト・レイク湖(Salt Lake)が見え始めてから一層車の進みは遅くなった。バンクーバー以来、久方ぶりの都会地渋滞だ。ソルトレイクシティ(Salt Lake City)に入ってからも宿探しが“渋滞”を来した。番地を辿って、それらしきところを何度行き来してもCavanau’s Olympus Hotelなるホテルがない。「ここっきゃない」とWest Coast Hotelsに飛び込んだところ、果たして我々が予約した6月以降経営者が変わり、この名前に変っていたということがわかった。しかし、予約はきちんと引き継がれていたので、哀れな無宿とはならずにすんだ。予約者、しかも遠く日本からの旅人が訪れるのを知りながら、当然予想される宿探しの“渋滞”に頓着しないアメリカ人のずぼらさには憤りを越えて驚きを感ずる。交通にしろ宿探しにしろ、このような“渋滞”は、いくら Enjoy troubles! だといっても歓迎できるものではなく御免蒙りたい。しかし、我々の道中では数少ない「ホテル」宿泊の機会であり、建物の造作もホテルの名に恥じないものである。久々にエレベーターに乗って、久方ぶり建物の高層階13階のレストランに行って、またしてもステーキとワインでウダを上げた。モルモン教の聖都なので禁酒と聞いていたので恐る恐る「アルコールは駄目なんでしょうか」と問うたところ、ウェイトレスに「何を心配しているの?」という顔をされ全くのノー・プロブレム。”Compliment”(無料サービス)で、どっさり大皿に盛られて供された茹でエビも美味かったし、クラムチャウダーもなかなか美味しかった。塩辛いソルトレイクにもエビや貝が棲んでいるんだ!旅の疲れとワインで朦朧となった頭はしっかりと混乱していた。

 

(2001/7/18)

 

モルモン教の聖都にて

 

 

僕の内なる「ソルトレーク」

 

コロラド州デンバーにあるAT&T工場出張の帰途、トランジットのためサン・フランシスコに向う機上から見たのが僕のソルトレークのすべてであった。飛行機が深い雪化粧のアメリカン・ロッキーの上空を飛んでいる時に、隣席にいたAT&Tの友人アル・レッサ―が下界を指差し、「ミスター佐々木、あれがソルトレークだよ」と親切に教えてくれたのだった。指差された先には確かに湖面の大半が白色で覆われた「小さくて白い湖」が見えた。何しろ「ソルト」の湖である。当然のように「白=塩」の等式が成り立った。だから物知りなアルが続いて「あそこは良いリゾート地なんだよ」と説明してくれた時には、勝手に「リゾート地=キャンプ場」の等式を作って、「あの辺は塩辛い水ばかりだろうから真水を手に入れるのが大変だろうなあ」という余計な心配までしてしまったほどである。僕の頭の中は完璧に「ソルトレーク=山間地にある小さくて白い湖」という先入観に支配されてしまっていたのである。

 

山間地にある小さい湖?

 

それが、「ちょっと変だな」と思えだしたのは昨日R84をドライブしている途中に“思いもかけず”右手にソルトレークが見え始めた時のことであった。少しも「山間地」ではないではないか。しかも、見え始めてから相当な距離走行したはずなのに依然として右側にソルトレークがあるようなのである。おいおい、「小さい」どころか相当に大きな湖じゃないか。実際に調べてみると、ソルトレークは琵琶湖の9倍の広さがあるという。また、これを擁するソルトレークシティーはユタ州の州都であり、中心部だけで17万人、周辺部も含めると人口80万人の中堅都市であることが分かった。それに、標高が1,300メートル余りあり周辺には富士山級の高さの山があるそうだが、中心部は平坦で広く、決して「山間地」の風情ではないのだ。

 

白い湖?

 

今日は今日で、皆にあの「白い湖」を見せてあげたくて、ホテルのギフトショップの店員さんに道順を聞いたところ、怪訝な顔をされてしまった。「湖が白く見えるところに行きたいだけど…」の質問自体が分からないらしいのだ。「えっ、うっそー」と若者ばりの声を発して“物証”を示そうとあたりを見回した。だが、来年の冬季オリンピック開催を控えてオリンピック・グッズの並ぶ中に、ソルトレークの絵葉書は見つかったものの、どこにも「白い湖」の写真はなかった。そうすると、僕が機上から見たあの「山間地にある小さくて白い湖」は何だったのだろう。あの時はまだ晩春だったので「白=塩」ではなくて「白=雪」が正しく、雪化粧が“グレート” ソルトレークの部分をあらかた覆い隠していたからだろうか。それとも、水が乾いて塩だけになったグレート・ソルトレーク・デザートという砂漠の部分があるそうだから、そこを見ていたのだろうか?はたまた、単に僕の英語ヒヤリング能力の貧困さが誤解のもとだったのか?「百聞は一見にしかず」”Seeing is Believing.”というが、誤ってSeeing したものをBelieving することの恐ろしさを痛切に感じた。

 

「ソルトレーク・シティ=モルモン教=禁酒」の誤解

 

「こんな都会に住む大勢の人々が禁酒を守らせ通すとは!モルモン教の戒律はかくも厳しく徹底する力のあるものなんか」と、“思いもかけなかった大都会”を走りながら感じていた「ソルトレーク・シティ=モルモン教=禁酒」の誤解は昨日のうちに解消していた。こんなことなら、予めジャクソン・シティの酒屋でウィスキーを買い込んでくる必要なんてさらさらなかったわけである。因みに酒については「アメリカのほとんどの州で日曜日にはアルコール類が購入或いはレストランで飲む事が出来ない。このためビールなどは予め買っておく必要あり」というアドバイスだけ心得ておけば良いようだ。このアドバイスは、僕より一回り下の巳年生まれのテニス友達で、ケンタッキー州のBardstown在住のアメリカ“先住民”椎野実さん(通称ミノさん)がメールで送ってくれたものである。ミノさんがもう一つ与えてくれていたアドバイスは「スピードには注意。出しても10マイルオーバーが限度。パトカーが結構見張っている」であったが、実はメール受信と僕の出立が相前後したため開封が帰国後になってしまった。しかし、結果的には二つのアドバイスともお世話にならずに済んだ。こと酒に関しては過剰なまでの反応を示し周到すぎるほどの事前準備を怠らなかったせいだろう。

 

英語の話せないアメリカ人

 

ホテルのルームにベッドメーキングに現れた娘さんに対して中澤が ”Where are you from?”を発したところ、キョトンとした表情をされてしまった。ヒスパニック系で英語が話せないのだそうだ。「アメリカ人なら英語が話せる」というのも誤解で、ヒスパニック系を中心に「英語の話せないアメリカ人」が増え始めてからかねて久しい。AT&Tの友人のジェームス・ナイトが、かつてドジャース時代剛球投手の名を馳せたメキシカンのバレンズエラが知っていた英語は契約金がらみの”1 Million Dollar”だけだったと教えてくれたのをまざまざと思い出す。そうなのだ、重要なのは言葉ではなくてコンテンツなのだ…とまたしても自分の英語下手を自己弁護しようとするヘキが出てくる。いずれにしてもヒスパニック系住民の大量流入はアメリカの労賃レベル引き下げに大いに寄与しているものと考えられる。空洞化現象に悩む日本もこのような他民族の流入を積極的に推進すれば労賃レベルを大幅に引き下げることができるはずだ。そうすれば、僕達日本語教師の就業機会も大幅に増えるはずだ…と、はたまた我田引水の理屈が続く。

 

” Greatest” は「最上質」

 

さて、「白い湖で自然にビックリ」の思惑が完全に外れてしまった以上は、気は進まないが“世論”に従ってモルモン教大本山(?)の施設巡りについて行くしかない。なにしろここはモルモン教の聖徒なのだから、義理も立てなきゃならないか。それで、ホテルを出て程なくしてついたのがテンプル・スクエア(Temple Square)。境内(?)には豪壮な建物が建ち、広い庭には花が咲き競っている。僕達のガイド役に当たってくれた二人の日本人シスタ−によると、ここでは「教会」(Church)とは呼ばずに「神殿」(Temple)と称しているそうだから受験英語で覚えた「Temple=寺」も誤解の一つなのだろう。「戒律の厳しい荘厳な雰囲気」と思っていたのだが、これも誤解であり、のどかな空気が流れている。信者の結婚式なのだろう、ウェディング・ドレス姿も見られる。場違いとも思われるようなシースルーのドレスを着た若い女性がゆったりと散策していて、目のやり場に困りながら(?)時ならぬビックリを感じたりもする。「モルモン教」はニックネームであり、正式名には”The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints” と称するのだということも初めて知った。しかし、日本人シスタ−に当地での暮らしぶりについて聞いた時に分かったのが誤解の仕上げとなるものであった。ユタ州のニックネーム” Greatest Snow on Earth” ” Greatest”はパウダー状で「最上質」の意味らしい。「Great Snow =大雪」と勘違いして「冬場は大変でしょうねえ」なぞと慰めごとをほざいてしまった僕がオロカだった。世界一上質な雪が降るソルトレーク。冬季オリンピック会場として指定される道理である。

 

(2001/7/19)

 

アーチーズの奇岩にビックリ

 

 

引きずる誤解

 

水口隊長運転、僕がナビゲーターでテンプル・スクエアを発つ。ソルトレークの市街地図は込み入っているので、いつもの老眼鏡に加えて虫眼鏡が必要だ。道路の本数が多いので次々と通り過ぎる交差点の標識と地図とを照合するのが大変な作業になる。しかも道路標識の方は老眼鏡を外さないと見えないから、目と手と首の動きが大忙しになる。四苦八苦しているうちにイントラステートI-15に出るルートを見失ってしまった。しかし、やがて「Int」の標識が現れた。水口隊長すかさず「あれがI-15だ!」。大体からして水口隊長は即断ヘキがあるのだが、土地勘が鋭くて判断が正しく、これまでにも何回かその即断に救われてきている。しかし、今回ばかりは様子が違った。我々の行く手にあったのがソルトレイクのエアポートだったからである。「Int」は ” Intrastate” のそれではなく、”International Airport” のそれだったのである。「誤解だらけのソルトレイク」を未だに引きずっている感じだが、このような都会地ではナビゲーター役を地図担当と標識担当の二人にしておけばこのトラブルは防げたかもしれない。しかし、ここでもEnjoy Troubles!。道に迷ったお陰で、ソルトレイク空港に降り立つことができた。数ヵ月後には、オリンピック出場の世界の名スキーヤーやら名スケーターやらが“僕達の後を追って”ここに現れるはずである。

 

信じられない大迂回

 

イントラステートI-15を南下して行くと右手にユタ湖がある。このあたりの山並みは禿山だが、優しい黄土色で山肌もなだらかだ。やがてI-15と別れルート6に入る。アメリカの道路標識はここの「R6E」のように末尾にNEWSがついているので、「E」なら東方を目指しているのが確認できていい。グリーン・リバー(Green River)へ向かう途中、貨物列車と併走する。貨物列車の方はゆっくりと走っているから追い越すのはたやすいはずだがななかそうではない。併走してみて改めてアメリカの貨物列車の車両編成が「長〜い」のを実感する。周辺の土地が赤味を増して車が山間部を走っていると道路工事現場があり、ここには定番のオジさんフラッガ―がいて旗をもって交通整理をしている。こちらに近づいてきて ”Stop”だか”Slowly”だかよく聞き取れないことを言った。「日本の常識から言えば ここは”Slowly” に決っている」と判断して、そろりと車を発進させたところ、今度は血相を変えて旗を振りかざして続けざまに ”Stop” を叫んで迂回すべき道を指し示してきた。自分のリスニング能力の貧しさを棚に上げて「発音の悪い旗手は困りもの、これがほんとのハタ迷惑」なぞと駄洒落で気を紛わせて、指示されたルート89に車を進めた。しかし、地図で確認してみると、これが“日本の常識”では想像もつかないほどの大迂回の始まりなのである。同じ目的地に着くのに、予定のプライス(Price)経由ができず、5−6時間もまるっきり別の方角の道路を走らなければならないのだから。

 

アメリカの“おふくろの味”

 

大迂回を強いられたお陰で、事前に調べていない道順を、地図を見ながら辿る羽目になってしまった。しかし、これも良いではないか。旅にハプニングはつきものだ。Enjoy troubles!ここも迂回を愉快に換えなくちゃ。そんなこんなで、地図で見て何となく名前にそそるものを感じていたフェアビュー(Fairview)に到着。ところが、何が「フェアビュー」なのかさっぱりわからない何の変哲もない村である。しかし、「何の変哲もない」ということは「典型的」と言い換えることもできる。実際、こんな小さな典型的なアメリカの村で暫しその長閑な雰囲気に浸るのも悪くない。そして、これまた何の変哲もない、いかにも定食屋といった感じの“食堂”に入って手作りのハンバーガーで昼食をとる。こんなお店に入ったことのある日本人は先ずいないのだろう。観光客向けの店ではないことも明らかで、先客達からも“地元”の雰囲気が感じられた。しかし、決して空腹のせいではなくて、手作りハンバーガーの“おふくろの味”はなかなかのものであった。店でビーフジャーキーが売られていたので、「このような地元民の日常品をお土産にするのが最高なんだよ」と、いっぱしの“通”ぶって購入に及んだが、他の三人は誰も追従しなかった。どうやら、このようなノー・ブランドの土地、店、製品はお気に召さぬらしい。

 

“西部の荒野”へ

 

ルート70Eに入ってモアブを目指す。途中、これまた名前に惹かれてグリーン・リバー・ミュージアムに立ち寄る。ミュージアムの傍を流れる川がグリーン・リバーだそうだが、色がグリーングであるわけでもなく、コロラド河の上流にあたると聞いた割には水量も乏しい。それでも、担当の品の良いおばちゃんがいて、「春には水量も豊かで綺麗なグリーン・リバーになるのよ」としきりに弁明している。ここでも「日本人の訪問は3年ぶり」だそうだ。なかなか日本人の力が及ばないところで僕達は着々と日米友好親善の実を挙げている…と思う。小休止した後、再び路上の人となる。運転に疲れてくると、どういうわけか車が右側に余って行って、時として路側ラインを越え、これと外側に並行して走っているキャタピラ跡状の凸凹ラインを踏み「右傾」ドライブを気付かされることになる。学生時代、安保闘争デモの常連として嫌っていた「右傾化」現象がここに来て我が身に出てきてしまうというのはどういうわけだろう。運転開始当初頭に叩き込んだ「右側通行右側注意」の想念が薄れてしまって、日本国内での「左側路側注意」が頭をもたげてしまうのだろう。いずれにしても「右傾化」を2−3回繰り返すうちに、周囲は昔西部劇でよく見た荒野の様相を呈してき、インディアンの狼煙でも上がりそうな岩山や、低くて広い台形の丘陵が視界に現れてきた。

 

幌馬車が登って来そうな

 

だんだんと西部劇の舞台らしさが本格化していくうちに、駐車場があったので車を止める。右側には、手前が白っぽいグレイのテーブル状の岩が並び潅木と草が生えた岩地があり、これが断崖となっていてその先には茶褐色をした荒野が果てしなく地平線までつながっている。道路の行く手は下り坂になっているのだが、左から赤褐色、右からは黒褐色の岩塊の稜線がV字型をなしており、道路の下りきった当たりを「出入口」として狭め、あたかも巨大な扉のように前途に立ちふさがっている。このあたりの岩山の岩肌は、上部は巍々とした岩で縦方向に皺が走っているが、下部は砂状で、中間部は横方向に幾条もの筋が走り瓦礫交じりの地質をしている。道路は遥か遠く下に見えるV字の底の部分にある「出入口」へ向って荒野の中をS字形をなして下降して行くのだが、今すぐにでもドアの向こうの荒野から出入口を通って幌馬車がこのS字形の道を登ってきてもおかしくなさそうな光景である。この場所も取り立てた名前のあるビューポイントではないのだろう。大迂回を強いられたお陰で、ブランド地・アーチーズ国立公園に到達する前に体験することのできたノー・ブランド・シリーズの極め付きであった。

 

芸術作品のオンパレード

 

アーチーズ国立公園では先ずゲートの部分でビックリさせられた。目の前に岩壁が立ちはだかっているのだが、その上部が幅広い横長の一枚岩となっており、あたかも巨大な城門のように目を圧する。急坂を登ってゆくと広大な台地があり、ここが造物主の芸術作品のオンパレード展示場である。のっけから巌が眼前に現れて息を呑む。岩肌の茶褐色が紺碧のユタの空に映えて美しく神々しい。岩質は赤砂岩と聞くが、赤茶色をしているので巨大な粘土の塊に見える。更に、車の行く手の前方左右に様々な形をした奇岩が姿を見せ、それぞれにニックネームがつけられている。「パークアベニュー」は、その落とす日陰がマンハッタンの摩天楼を思わせるところからつけられたらしい。三人が噂話をしている風情の「スリー・ゴシップス」。危うい均衡を保っている「バランスド・ロック」等々、どう見ても“アーチ”には見えない奇岩たち。勿論、“アーチーズ”の名に偽りはなく、「サウス/ノース・ウィンドウ」、「ランドスケープ・アーチ」、「ダブル・アーチ」等々が広い公園内の随所に“展示”されている。なかでも「デリケート・アーチ」は“代表作品”としてユタ州のナンバープレートにも描かれている。ユタ州の北部のナンバープレートには ”Greatest Snow on Earth” とあるが、南部は「岩の国」(State of Rock)と呼ばれているらしい。ここではすべてが赤砂岩の侵食され風化された結果と聞くが、それぞれの造作にに“誰か”の“作意”が感じられ、また随所に、どう見ても天然のものとは思えない直線や平面が“用いられ”ている。偉大なアーチスト(Archist)でもあった造形主の存在が感じられる。

 

ここにも“ソルト”があった

 

広大なアーチーズ国立公園には往復40マイル強の道路が走り、歩行者用のトレイルも何本か整備されているので、じっくりと奇岩を探勝するのには数日を要しそうである。また、朝景や夕景を楽しんでみたいポイントも随所にある。ここは、在米生活経験のある我が畏友・浅香泰三兄が是非にと薦めてくれたので僕が進言して旅程に組み入れたのだが、確かに探訪する価値のある所である。道路は、アップダウンしながら右曲左曲しているが、その中に浅く帯状に陥没したようなところがあり、標識に「ソルト・バレイ(Salt Valley)」とあった。太古に海底であったところに塩分が沈殿したまま地層ができあがっていて、これが大地殻変動で隆起して地上に現れたのであろう。すると、ソルトレイクはこのような地層が湖底にあるから水が塩辛いわけなのか。ようやくここに来てソルトレイクの誤解を塩らしく反省して、自分を納得させることができた。塩梅もよくアーチーズを堪能したところでルート191Eに戻り、アーチーズ国立公園のゲート・シティと呼ばれるモアブ(Moab)に到着。街に見つけた中華料理店「榮四川」で摂った夕食も四川料理特有の塩辛さで快く、ソルトに始まりソルトに終る一日を閉じた。

 

(2001/7/19)

 

自然と人の接点部分にビックリ

デッド・ホース・ポイントからメサ・ベルデへ

 

グランド・キャニオン前奏曲

 

ルート191を少し引き返してからルート313に入りデッド・ホース・ポイント(Dead Horse Point)に行く。車が坂を登りつめると、そこはプラト―(台地)状になっていて平坦な道が続いている。駐車場から歩いてビュー・ポイントに着いた僕は思わず「あっ」と声を発した。“グランド・キャニオン”がそこにあったからである。対岸に切り立った赤茶色の断崖が幅広く展開している。しかも、岩肌には幾条もの層線が走り、縦方向の黒い岩陰が鮮やかに見え複雑な地形であることを示しているのだから、錯覚するのも無理はない。しかし、展望台から下を見てみると、茶色に濁り、川沿いに茶色一色の中で鮮やかに見える緑の草地の間を蛇行している川が思いのほか近く見えた。グランド・キャニオンではコロラド川がようやく見えるほど、もっともっと谷が深くて切り立っている。しかし、今眼下に見えている川も同じコロラド川だそうだから、これは間違いなくグランド・キャニオン前奏曲である。前奏曲とはいえ、断崖の下部には175百年前というナバホ砂岩(Navaho Sand Rock)層、更にその下にはリコ(Rico)層という275百年前の地層が見えるからビックリである。「デッド・ホース」なる恐ろしげな名前は、昔野生馬(ムスタング)をこの地に追いたて柵囲いしたカウボーイが、良馬だけ連れて売り払い、数日後再びこの地に来てみたら残された馬達が渇死していたという故事に由来するものらしい。海抜1,800メートルのこの場所から標高差600メートル下に流れるコロラド河の水を見ながらにして水を飲むことができず命を絶った馬たちの無念さのほどが偲ばれる。コロラド川と別の方向に目を転ずると、遠方にコロラド川の濁りとは対照的に真っ青な池が見える。あまり青過ぎて不自然に見えるのでインフォーメーション・センターで尋ねたところ、案の定、”Potash water mine” だとのことであった。カリウムを水に溶かして採取しているらしい。

 

インディアン≠アメリカ先住民

 

次の行程メサ・ベルデへ向かう途中、モンティセロ(Monticelo)の街を過ぎると、道路脇にロッキング・グラス(rocking grass)の姿が目に付くようになる。芳香性のハーブで化粧品にも使われるそうだが、その白っぽい緑の葉は痩せ土に妙に似合ってうら寂しい風情に見える。しかし、ユタ州からコロラド州に入る頃には車窓の風景が豊かな麦畑に変わる。まさに麦秋で穂は黄金色。刈り取り作業らしい光景も時折見られる。小麦畑の合間には緑のきれいな牧場もあり放牧風景が展開し、「豊かならざるユタ/豊かなコロラド」のコントラストが目に見えるような気がする。やがてコルテス(Cortez)の街に入る。これもスペイン語系地名と思われ、過ぎし日のスペイン人たちの盛んな進出振りが偲ばれる。ここで、ハンバーガーで軽い昼食を済ませてから、いよいよメサ・ベルデ(Mesa Verde)に向かう。なんと本格的なドライブを開始してから11日目にして初めてトンネルを潜るという体験をしながら長々とした坂道を登ってゆくと、緑豊かな広い台地に出た。「メサ・ベルデ」もスペイン語で「緑の台地」の意味だということを後で知った。このメサ・ベルデにはアナサジ(Anasazi)族の住居跡があちこちにある。「穴匙」とでも書けそうなアジア語っぽい名前の「アナサジ族」は、インディアンのナバホ族が住みつく以前にここに住んでいたというから、「インディアン=アメリカ先住民」としていた僕の“薄識”は脆くも吹っ飛ばされてしまった。

 

アナサジはどこへ行った?

 

ここのアナサジ族の住居跡は世界遺産の一つになっているそうだが、勿論これも僕の“薄識”の中には入っていなかった。いくつかある住居跡の中から、行程時間を考慮して僕達が選んだのは「クリフ・パレス」だ。レンジャーの案内に従って山道を下って突出部を一曲がりすると、まさしく谷越えの向こうのクリフ(断崖)にパレス(宮殿)が忽然として出現した。断崖の最上部は物凄く大きな白い一枚岩が横たわり、これを天井として使うために掘ったのだろうか、真下に相当広いスペースの宮殿(住居跡)が設えられている。キーヴァ(kiva)と称する円形をした囲炉裏場と思しきサークルも幾つか掘られている。居室の仕切も含めてすべて石を黄土色の粘土で塗り固められて造られている。写真で見るインカのマチュピチュの遺跡とイメージが重なる。ここから谷底まではかなり深い。アナサジ族はトウモロコシを栽培し主食としていたそうだが、メサ(台地)の上部のベルデ(緑色)からこれは理解できるものの、水汲みはどうしていたのだろうか。「アナサジ」はナバホ語で「旧敵ancient enemy」の意味らしい。この地に移り住んできたナバホ族と若干の諍いがあったのだろうが、13世紀に襲ったという飢饉でこの地を離れたそうだ。このような苛酷な自然環境に造ったパレスで今に僕たちをビックリさせてくれているアナサジ族はどこに行ってしまったのだろうか。なお、居室部への立入は制限されている。両親に連れられた少年から「居室には入れないの?」という可愛らしい質問に対して「君もレンジャーになればね」という答が返された。松葉杖姿の若者がレンジャーの率いる一行の中に含まれていたのでビックリした。急坂下りや梯子昇りの伴うツアーだから日本だったら間違いなく「ご遠慮ください」だろう。少年も障害者も分け隔てなく一人前扱いし「自己責任」を徹底させているアメリカ流に学ぶところがありそうだ。

 

(2001/7/20)

 

フォー・コーナーズからモニュメント・バレーへ

 

「ナバホ州」の旗があった

 

アメリカ各州の間の、いわゆる州境ラインは直線が多いが、四つの州の州境が直角に交差しているのは、フォー・コーナーズ(4 Corners)だけのようである。だから、ここでは州境の直角交差点を中心にして四つん這いになると、両手両足で、コロラド・ユタ・ニューメキシコ・アリゾナの4州に同時に身をおくこともできる。お祭り好きなアメリカ人らしく、4州を示すサークルがコンクリートの地面に描かれていて、撮影台もしつらえてあり、観光客は様々なポーズで写真を撮っている。傍らにはインディアンが土産物店を出しており、「インディアンの世界へ入ってきた」という実感がする。事実、ナバホ族がインディアンの中で最大の部族と言われるが、「ナバホ州」の旗が掲揚されているのも目にすることもできた。後にモニュメント・バレーのジープ・ツアーのガイドをしてくれたナバホ族のアシュレイに尋ねたところ、「ナバホ州」とはフォー・コーナーズのうちの3州(ユタ・ニューメキシコ・アリゾナ)で、コロラドはこれに含まれないそうである。かつてはアメリカ全土に住んでいたアメリカインディアンは、白人に土地を奪われて白人が見向きもしなかったこのあたりの土地に閉じ込められてしまったのだそうだが、もしかすると、コロラドはインディアンを閉め出した側かもしれない。快活な好青年アシュレイの受け答えの中にふとそのように感じさせるものがあった。

 

「インディアン」という言い方

 

土産物店では、綺麗な石を使ったアクセサリーや焼き物などの民芸品が売られているのだが、それぞれに“インディアン・グッズ”と看板に掲げていた。僕は「インディアン」を差別用語だから使うのは止めるべきだと思っていたのだが、自らがこれを売り物にしているくらいなら、なにもこの慣れ親しんだ呼び方を避ける必要はないんじゃないかと思った。自分が勝手に乗り込んできて「アメリカ新大陸」と名付けておきながら「アメリカ先住民」と呼ばせるのに抵抗を感じていたためでもある。ましてや、先住民という点ではアナサジ族の方が先輩であり、「アメリカ先住民」の後輩として自分たちの ”ancient enemy” と一緒くたにされたのでは面白くもあるまい。カナダでは法律名としても「インディアン法」というのがあり未だに有効であるとも聞く。インド国民が“本家インディアン”商標権を訴求してこない限りは、そして、「インディアン」に対する差別待遇がなくなるのなら、ニックネームだけでなく公用語としても寧ろ大いに使ったらいいんじゃないだろうか。現に、インディアナ州だのインディアナポリスだのという地名は平気で罷り通っているのだし、大リーグにも「インディアンズ」などという人気チームがいる。因みに、一昔前よく店頭に並んでいた“インド・リンゴ”は、「あの熱いインドでリンゴがなぜ?」と思って調べたところ“インディアナ州産のリンゴ”だということが分かった。かほどに、日本でも“本家インディアン”より「インディアン」の方の名が売れているのである。「インド人もビックリの話」ではない…か?

 

喉ごしに「ビール」が快い

 

我々はもう相当に南下してきているので、さすがに日没時間も早くなっている。それでも午後8時を過ぎても空がまだ明るいので時間感覚がだまされてしまう。まさに本日も「日没前宿舎着」の原則遵守の危機に気付いたのは午後8時を過ぎてのことだった。“高速ドライバー”の水口に選手交代してモニュメント・バレーへの道を急ぐ。途中とっぷりと日は暮れて闇の中をひたすら車は進む。ようやくモニュメント・バレーにただ一軒しかない宿泊施設Goulding’s Lodgeにたどり着いたのは午後9時直前のことであった。レストランもロッジのレストランしかないとのことで、しかも午後9時までに入店しなければならないという。そこで、チェックイン手続きは後回しにしてレストランに飛び込んで、取り敢えず食いっぱぐれの危機だけは回避することができた。先ずはテーブルについて、いつものようにビールで乾杯。今日はことのほかビールが喉ごしに快い。次いで、恒例の赤ワインでセカンド乾杯。さすがナバホの酒は美味い…と思いきや、何だか甘過ぎる。「世の中は広い。こんなジューシーなワインもあったのか」と一堂敢えてビックリしなおして杯を重ねているうちに、中澤がボトルを見て気がついた。「ここにジュースって書いてある!」。聞けば、インディアン保護政策の一環として、ロッジがナバホ族の経営となっており、ナバホの方針として酒は販売していないのだそうである。するてえと、さっきの美味かったビールもノンアルコールで実はビールではなかったんだ。日頃ビール通を自認している我々の化けの皮が剥がれてしまった一小間ではあった。

 

真の闇・満天の星

 

これも後にアシュレイに聞いて分ったのだが、ナバホ族も酒を飲まないわけではなく、「飲みたい奴はインディアン保護区の外に買いに行って飲んでいるよ」とのことであった。いずれにせよ、成せば成るで、我々にもアルコール無しで夕食ができることがわかった。しかも、アルコールの風味に惑わされることなく、ナバホ族の郷土料理のラムステーキを賞味できたのだから結果は大オーライ…と言いながら、後刻宿所に行ってからジャクソンで買って持ち込んだバーボンJim Beam できちんとアルコール分の埋め合わせをしたのだから、我々の律儀さには我ながら頭が下がる。食事の後、ルームキーを貰って、ナバホ族従業員の誘導する車に従って行った先には3室付きのコテージがあった。ダブルブッキングか何かをしたせいで、遅着の我々をランクアップしてくれたものらしい。こんな「遅いもん勝ち」なんていうこともあるんだな、たまには。コテージの周りは真の闇。それだけに満天の星が眩いばかりだ。インディアンの人達は、この荒野の星の光を浴びながら、何を思い何を感じてきたのだろうか。

 

(2001/7/20)

 

モニュメント・バレーの朝

 

「巨岩」に代わる言葉が欲しい

 

6時少し前に目が覚めた。ベッドを降りて窓のカーテンを開けると、目の前一杯に、忽然として赤茶色の巨岩が現れた。「おっ、こんなところに泊まっていたのか!」。昨夜の移動が闇の中だったので、まさかこんな巨岩の真下で眠っていたとは気がつかなかった。テラスから赤土の庭に飛び出して、改めてコテージの置かれている環境を見て思わず唸ってしまった。窓から見た巨岩は「巨岩」という表現では、とても言い表せるものではない。高く屹立して背の青空を圧している。

 

凄まじいきしめきの跡

 

これに向かって右に連なる、これも赤茶色の「巨岩」は約300mにも達しようかという幅の広さで、岩壁には何百条もの縦線が走っている。基本的には水成岩特有の水平方向の地層線が走っているから、ここも海底が隆起したのだろう。だから、この縦線は、その隆起の際に起こった摩擦の物凄さを物語っているようだ。どのようにして、このようなアメリカ・カナダの南北に走る超巨大山塊を持ち上げるだけのエネルギーが生じたのであろうか。岩肌に黒く時に白く縦に走る線を見ていると、隆起が起こった時の凄まじいきしめきによる天地の咆哮を、実感をもって想像することができる。きっと宇宙に轟いたことだろう。

 

荒野の日の出

 

目の前の縦に長い巨岩の左にはスペースが開けていて、昨夜ロッジの受付から辿ってきたものと見られる道路が蛇行して走っている。そして、その遠くには様々な形をしているビュートButteが姿良く並んでいる。今まさに夜明け。中央の台形状をしたButteの上の空が赤味を増してきた。そして、太陽が顔を出す。夜明けの空を背にした岩並みのシルエット。昔西部劇で見た荒野の日の出シーンが今僕の目の前にある。感動が走り思わずシャッターを押した。向かって右の巨岩にも生まれたばかりの陽光が届き、巨壁はますますその存在感を高め僕の眼前に立ちはだかっている。

 

大自然の片隅に

 

向かって左は、右側に負けず劣らぬ巨岩で、こちらは少し白みがかっている。水平方向に走る地層線が上部と下部には幾層にも走っているが、中間部は平面の壁状になっており、ここにも縦に軋み跡が残っている。下部は崩れやすい岩質なのだろう、小石まじりの砂状の地質をしている。この大断崖の真下に幅の狭い棚状の平地があって、ここに民家と思しき家が4軒ほどあり、それぞれに自動車が置かれている。大自然のお許しを得て、その片隅で粘り強く生き長らえてきたナバホ族の生き様の一片を見る思いがする。

 

アリゾナも青空だ

 

今、コテージを背に周囲を見回して、今回の旅行を通じて最大の「ビックリ」を体感しながら、臨場感を残したくて庭でメモを取っている。自然はデッケーかなデッケーかな。それに向かい合っている自分の存在のなんとチッポケなこと。ありきたりの表現だが、感動が大きすぎて、こんな言葉しか出てこない。アリゾナで迎えた初めての朝も青空だ。日の出から僅かな時が立っただけだが、早くも少し暑くなってきた。さて、旅装を整えて次の目的地に向かうことにしよう。

 

(2001/7/21)

 

モニュメント・バレーからグランド・キャニオンへ

 

生き別れの兄弟と

 

モニュメント・バレー・ツアーは客席が20人乗りのジープで、僕たちのドライバー兼ガイドがナバホ族のアシュレイだった。ナバホ族は、祖先がアジアからベーリング海峡を渡ってアメリカの地に住み着いたので、東洋人とは ”missing brothers”(生き別れの兄弟?)の間柄になるのだとものの本には書いてあった。アシュレイは、顎にちょび鬚を生やした顔が赤シャツに似合い、ジーパンをはいた脚も長くてなかなかハンサムで日本人からは“兄弟離れ”している。兄弟らしいのは寧ろ、別のジープのガイドを務めていたラリーの方で、ジープの休憩地点で顔を合わせては、僕との”Hi, Brother!”を繰り返していた。しかし、アシュレイにも入ってもらって中澤、山本と四人の写真を撮った時に「これがほんとのBrothers Four だね」といったのだが全然シャレが分かってもらえなかった。さすがの Rolling Stones もこの巨岩地帯では文字通り単なる転石。無視されたって無理もない。あれっ、Brothers Four Rolling Stones とは全然関係ないんだっけ?  

 

伝統的住居ホーガンに立ち入る

 

僕たちのジープが最初に訪れたのは、ナバホ族の「ホーガン」と呼ばれる伝統的な住居であった。外壁はお椀を伏せたような半球状に土が塗り固められており、換気のためなのだろうか、天井のてっぺんの部分には穴が開けられている。よほどこの当たりは降雨量が少ないのだろうか。一同ガヤガヤと内部に足を踏み入れると、薄暗い中にランプを点けて、これも日本の東北あたりの田舎にどこにでもいそうな小柄で華奢なお婆さんが伝統の織物を織っていた。織りながら歌っている唄がこれも日本の東北あたりで歌われている民謡の旋律に似ているような気がして物悲しく、ナバホ族に対して紛れもない ”missing brothers” を感ずる。「ホーガン」と言えば、往年の名ゴルフ・プレイヤーのベン・ホーガンもこの「ホーガン」と関係があって、僕達日本人と“兄弟関係”があるのだろうか。それとも、トイレ用のホーガンが便ホーガン?…この手のジャパニーズ駄洒落はこちらでは当然ながら絶対に通じない。国を出てからもう10日余り。駄洒落環境の日本がちょっぴり恋しくなってきた。病床にいる老義母の容態はどうなっているだろうか。

 

様々なロック・フォーメーション

 

アシュレイがジープを運転しながらのガイドに使う英語はとても聴き易い。その中に、良く出てくる言葉に“ロック・フォーメーション(rock formation)”というのがあった。文脈から考えると「岩質」ではなくて「岩の形」または「岩の組み合わせ」のことを言っているらしい。事実、僕たちの乗ったジープは“モニュメント”が林立する中を縫って進むのだが、それぞれの岩が個性的な形をしている。台形状の大きなメサ(Mesa)と細い尖塔状のスパイン(Spine)と、その中間の大きさで様々な形状のビュート(Butte)と。時として複数の岩が組み合わさって一幅の絵となって現れる。この場所では「駅馬車」を初めとした映画や自動車のCMの撮影がよく行なわれるそうである。初めて来たくせに「いつか見たことのある」と思った“懐かしい”岩も幾つかあった。緯度は北緯37度というから福島県いわき市と殆ど同緯度だが、比べようもなく暑く“灼熱の砂漠”を感ずる。ツアーのルート上に水飲み場がないのでジープに飲み水を積んでいるほどだ。ここは侵食地形と聞いていたが、こんなに水がないのに浸食とは合点が行かない。太古の昔は低地帯であったところにアメリカン・ロッキーから流れ出た沈殿物が長い時間かけて蓄積されるとともに水による侵食が起きて“モニュメント”の原形が形成された。そこに来て、今度は土地の隆起が起こり、風雨にさらされることにより風化が起こり“モニュメント”の整形が行なわれた。…どうやら、生い立ちの記のストーリーはこんなところらしい。

 

砂漠に馬追い唄を聞く

 

どこかアーチーズ国立公園に似たところがあるなと思っていたら、ここにも僅かながら大きな穴の開いた岩がある。「ノース・ウィンドウNorth Window」と呼ばれる赤みを帯びた岩がその一つで、目蓋状の窪みの中に丸い瞳の形の穴があって、その上にアーチがかかっているから全体が巨大な目に見える。人目の向こうにはアリゾナの青い空が見えるので、これはまさに“青い目をした”アメリカ人の目である。これを近くに見ながらジープ・ツアーは小休止をとった。白い小岩に腰掛けているアシュレイに「ここにはガラガラヘビはいないの?」と聞いたところ、真面目な顔をして「いますよ、ほら、そこにも」と僕の足元を指差すので、一瞬「ギョッ」とした。勿論、これは冗談で、雨の日か涼しい日でなければお出ましにならず、こんな暑い日は岩陰で寝ているそうである。「ビッグ・ホーガン」という丸い高天井の大きな空洞部があり、ここにもホーガンよろしくてっぺんに穴が開いていた。アシュレイ・グループとラリー・グループの全員が入ってもなお余裕のある広さだ。ここで、先ずラリーが乗馬する時に歌うという唄、次いでアシュレイがホーガンの中で歌われる唄を披露した。ともに、朗々とした声で、ビッグ・ホーガンの中によく響いたが、片や日本の民謡の馬追い唄、こなた囲炉裏端の唄に似て聞こえないこともない。そうだ、アーチーズになくてここにあるもの、それはこの“兄弟たち”だったのだ。二人とも、きちんとした教育を受けているのだろう、応対も実に感じ良くユーモアに富んでおり、僕の「インディアン」に対するイメージを大きく変えてくれた。ただ、「後で送るね」と二人に約束したBrothers Four の写真がカメラの事故でダメになり、「インディアン嘘つかない」ではなく、インディアン“に”嘘をつく結果になってしまったのが残念だ。

 

いざグランド・キャニオン

 

3時間に及ぶジープ・ツアーでそれぞれ心のうちにモニュメントを打ち立てた僕達一同は、今回の旅行のメイン・イベントである時グランド・キャニオン(Grand Canyon)観光に向う。グランド・キャニオンを訪れたものは人生観が変わるという。実際、僕も初めて、あの大峡谷の縁に立った時にはビックリを通り越して感動で身が震えた。アメリカ人の友人に対して、「アメリカで一番お薦めの観光スポットは?」の質問を発すると、口を揃えるかのように「グランド・キャニオン」という答が返ってくるのもむベなるかなと思った。一刻も早く皆に同じ感動を味わって欲しいという気持が強く、イースト・リムに着くや次々とビュー・ポイントに車を乗り入れ“人生観の変化”を促す。しかし、残念ながら今回は、昨日デッドホース・ポイントで“予告編”を見たばかりのせいか“身が震える”ところまではいかないらしい。そうは言いながらも、サウス・リム(South Rim)上を西に進むに従って谷は深くなり、グランド・キャニオン本番らしくなってくる。僕達は、ここで本番を明日に残して、グランド・キャニオン・ビレッジ(Grand Canyon Village)にある今夜の宿舎Yavapai Lodge に急ぐことにした。見る者は感動のあまり涙するというグランド・キャニオンの落日を見るためだ。ビレッジの“大食堂”でそそくさと軽食を取ってシャトルバスに乗り込み、ヤバパイ・ポイントで別のシャトルバスに乗り換えて、ウエスト・リムにある夕日の名所ホピ・ポイントに着く。このように、特定のポイントではマイカーの乗り入れが禁じられていて、シャトルバスを共同で利用する形になるので無用な渋滞が起こらずに済む。日光いろは坂なんかも少しはこれを学んでカイカクすればいいものを。日光では結構ですなんて言われちゃうかななどと、例によってつまらないことを考えているうちに西の空が下の方から茜色を帯びてきた。眼下に見えていた大峡谷の景観も次第に闇に中に消えてゆき、対岸のノース・リムが漆黒の壁と化す。そして平坦な壁の向こうに黄金色をして沈む夕陽。感動の一瞬である。…が、涙まではでなかった。涙が出る前にあっけなくショウが終ってしまった感じだ。もう一度出直して涙の出番を設けることにしよう。

 

(2001/7/21)

 

グランド!そして静謐と荘厳も

グランドキャニオンの諸相

グランド過ぎてカメラに収まらず

 

グランド・キャニオンは、平坦な台地が南北間最大約10マイル(16km)にわたって断崖絶壁状に切り取られた形の峡谷であり、南北の垂直な断崖の縁をそれぞれサウス・リム(South Rim)、ノース・リム(North Rim)と呼んでいる。断崖には数え切れないほどの岩層が見られ、最古のものは5億年も昔のものだといわれる。サウス・リムには、リムと並行する形で自動車道路が走っており、ところどころにある上部台地の突出部のビューポイントから、対岸の断崖と峡谷を見下ろすことができる。どこで見ても規模がどでかくてとてもカメラには収まりきらない。僕はいまだかって“これぞグランド・キャニオン”という画像・映像のお目にかかったことがない。ギフトショップで売られている絵葉書の類もグランド・キャニオンの断片の断片に過ぎず、残念ながらこれによって臨場感をお土産として伝えることはできない。やはり、この世界の七不思議の一つに数えられるこの大峡谷は、実際に自分でリムに立って見て感じなければ、その凄さが分からない。この壮大な景観はコロラド川の浸食作用によるものだそうだが、実際に断崖の縁にたってみると、そんなことは俄かには信じられなくなってしまう。僕は進化論者だが、ことここについては造物主論を支持したい気持になる。「グランド・キャニオンを訪れると人生観が変わる」と言われるが、僕自身初めてここを訪れた時には戦慄にも近い感動を覚え、ほとんど放心したまま立ち尽くしていたのを覚えている。

 

生まれて初めてのヘリコプター搭乗

 

以前は峡谷の中を軽飛行機で冒険ツアーをすることが許されており、実際にそのような映像も見たことがあるが、事故が多いため禁止されたそうである。そこで代わって、水口隊長が僕たちのために準備してくれていたのがヘリコプター・ツアーである。費用の約2万円/人もきちんと“清貧予算”の中に織り込んでくれているから流石だ。朝食後胸弾ませてへリポートヘ向かいヘリコプター会社Air Star Helicopterフロントでチェックイン。ヘリコプターは6人乗りで、僕たちの他は外国人男女が1人ずつ。自分たちのことを棚に上げて言えば、二人ともいわくありげの一人旅で、限りなくアヤシイ。フロントではめいめいが自分の体重を申告しなければならない。ヘリのバランスを取るためだ。6人を見回してみると僕を上回る重量級はいない。これでは“重心”の地位に座らされてしまうなという嫌な予感が当たり僕のシートは窓際ではなくて左右の二人の真ん中に決ってしまった。しかし、ともあれ、生まれてはじめてのヘリコプター搭乗の期待に胸が躍る。一方、極度の高度恐怖症の自分が耐え忍ぶことができるかどうか不安に胸が騒ぐ。やがて、ヘリコプターが搭乗口に現れ、乗り込んだ僕たちを乗せ、期待も不安もお構いなく、いとも軽くふわりと飛び立った。

 

絵画が彫刻になった

 

ヘリコプターはまず、サウス・リムから峡谷とは反対の南側に進路を取り、カイバブ・フォレストの上空を飛翔する。眼下に平坦で広大な台地が広がっており、これを松林が覆っている。グランド・キャニオン国立公園全体の面積はスイス一国の広さに相当するらしい。右手遠方に見える高度4,000メートル級の活火山のバンフリー山以外は平坦そのものであった視界が、サウス・リムに戻り峡谷の上空に戻った途端に一変する。リムから見ても、遠景の対岸に立ちふさがる絶壁の壁から近景の足元から急に落ち込んで切り立つ岩壁までの遠近感を伴った「人生観を変える」に値する壮大なスペクタクルには違いないが、近景と中景と遠景とが重なるのであくまでも「絵画」にしか見えない。しかし、このようにして上から見ると立体感の伴った壮大な「彫刻」に見える。峡谷の中央部も思っていたよりもずっと込み入った地形をしていて、巨大な“彫像”が複雑に入り組んで立ち並んでいる。巍々とした黄土色と淡い褐色のカスケード状をして連なる台地の狭間を縫って濁った小コロラド河が蛇行してコロラド河に合流し、ここから水色に青みがかかってくる。随所に河岸段丘が形づくられているところを見ると、未だにコロラド川による浸食作用は続いているようだ。ここはサウス・リムのレベルより150メートル高く、峡谷の最深部はサウス・リムと1,200メートルの標高差があるというから、1,350メートル上空から侵食現場を目撃していることになる。岸辺には、ラフティングを楽しむ人々の憩う姿も小さく見える。グランド・キャニオンにも色々な楽しみ方があるものだ。最深部の川で遊ぶ人、リムから川をのぞく人、それをまた上から見下ろす人。その見下ろしを続けるうちにヘリコプターはノース・リムに近づいてきた。こちらはサウス・リムより460メートルほど標高が高いのでヘリコプターは高度を上げてノース・リムの上空に出る。この当たりはポプラが立ち並んでいる。秋の紅葉シーズンになれば、グランド・キャニオンに一際鮮やかなアクセントを添えることだろう。

 

大いなる「自然の胃」

 

1時間の飛行を終え、昨日見残しておいたイースト・リムのデザート・ビュー(Desert View)やモラン・ビュー(Moran View)などのビューポイントを見て回った。ヘリコプターで俯瞰した後だっただけに感激もイマイチかと思っていたが、全くそんなことはない。対岸に広がる巨大な壁を奥深く広く見渡すことができて、しかも、眼下に切り立つ岩壁を覗き込んで足がすくみそうな感じを味わうのも実際にリムに立って見なければできないことである。信じられないことに、眼下の岩肌には僅かな足場を縫ってコロラド河畔に降る道がつながっていて、ロバによるツアーまで用意されているそうである。後日、ブライス・キャニオンで出会った日本人の若者は11時間のトレール・ウォークに参加したという話であったが、急傾斜の道を降りながら「自然の胃の中に飲み込まれている」という感じがしたと言っていた。言われてみないと気がつかないほどのトレールを足をすくませながらのぞき込んでいた時のことを思い出すと「さもありなん」と思う。そんなこんなでロッジに帰着。午後の残りの時間はフリーにして思い思いに時を過ごすことになった。中澤と僕はたまりにたまった洗濯物を袋につめ、サンタクロースのような格好でビレッジのビジターセンターに足を運んだ。コイン・ランドリーの場所を聞くと「すぐそこ」との答があり、二人は指し示された方向に足を向けた。ところが、なかなかそれと思しき場所が見つからない。どうやら、僕達が当然車で行くものと思っての「すぐそこ」だったようだ。折からのカンカン照りのもと、二人のサンタクロースならぬ“洗濯苦労す”は汗みどろになってようやくキャンプ場内に設けられたコイン・ランドリー・ルームにたどり着いた。そこでまた、コインや洗剤の入手に“さんざ苦労す”した後、遠路ロッジの部屋に帰還したが水口と山本は高いびきの真っ最中。

 

小さな静謐の世界も

 

そこで、椅子に腰を下ろして何気なく窓の外を見ると大きな蝶が花の蜜を吸っていた。「あまり見たことがない蝶々だな」と訝って目を凝らした途端、そいつは飛び去ってしまった。瞬間「ハッ」とした。蝶と思っていたそいつは実はハチドリで、ついそれまでホバーリングしていたのだった。初めてこの目で見た“生”ハチドリに感激して再来を待ちわびていた。あいにくハチドリは二度と姿を見せてくれなかったが、小さなリスが愛らしい仕草でそちこちを動き回り、雷鳥に似た鳥まで窓際の「僕の箱庭」を訪れてきてくれた。グランドキャニオンには壮大なパノラマのすぐ近くにこんなに小さな静謐の世界もあったのだ。宿舎Yavapai Lodge の部屋を出てみると、草地があり、アザミに良く似た花が咲いていた。傍らには芳香を放つ小さな花も咲いており、羽根に黒と茶色の紋の入った蝶が蜜を吸っている。見上げれば松の枝が背後の青空に映えて見える。これも「グランドキャニオン」という大ブランドには似つかわしくない、さりげなく静かで奇麗な昼下がりの情景である。隣室から出てきた三人の少女が松笠拾いに興じていて、長女と思しき女の子が二人の妹を甲斐甲斐しく面倒を見ている。隣室の前に駐車してある車は母親がドライブしてきた様子で、この家族に父親の姿は見えなかった。父親のいない家庭に現代アメリカの世相の一端を見せられたようで物悲しい思いがした。

 

サンセット・アゲイン

 

夕刻少し早めの夕食を取ってから、今日は車でヤバパイ・ポイントまで行ってシャトルバスに乗り換えて昨日と同じウエスト・リムにあるホピ・ポイントに夕日を見に行った。大体において僕たちはアチーブメント・テスト世代だから受験勉強の癖が残っていて、「ここで有名なのは何と何。何と何を見たからもうここは“分かった”」として次の目的地に向うというのが常だから、このように同じ場所に、しかも同じサンセット観光の目的で再度訪れるのは例外的なことなのである。どうやら「グランドキャニオンの落日を見ると涙がでんばかりの感動を覚える」というフレーズが僕たちの脳裏に刻み込まれていて、しかも昨日は涙を流しそこなったのをみんなが悔やんでいたかららしい。そこで、日が沈んだ直後に現場を去ってしまった昨日のことを反省して、今日は帰りのバスも最終にしてゆっくりと残照を楽しむことにした。居合わせた日本人観光客などと談笑したりしているうちに、日が沈んで行き、突出した部分が夕陽を受けて茜色に染まる一方で陰の部分の翳りが黒みを増し、大峡谷の中の凹凸模様がくっきりと見えてきた。やがて、次第に黒の部分が広がっていって、日が沈む西側には大きな地平線を上辺とする黒い壁ができた。そしてその地平線の上空にはトワイライト・ブルーのなかに一条の雲が水平方向にたなびいている。この黒とトワイライト・ブルーの間に映える茜色の層の中を、黄金色をした夕陽は静かに沈んで行き、地平線に没する瞬間、漆黒の壁の最上部まで照らす煌めく光を発した。壁の向こうに没した太陽は、なおも過ぎ行く一日を惜しむかのように、更に茜色に明るさと赤さを加え、雲の白さを引き立てている。これぞグランドキャニオンの残照。僕たちは、トワイライト・ブルーが紺色に変り、やがて全てが闇に飲み込まれるまでその場を離れず荘厳な一時の雰囲気を堪能した。まさに涙がでんばかりの感動であった。

 

(2001/7/22)

 

グランド・サークルを行く

ザイオンからブライス・キャニオンへ

 

 

曇天もまた良し

 

連日夕日ばかり見ていては朝日が気の毒というものである。そこで今日は、マザー・ポイント(Mather Point)のサンライズを見に行った。ここから見る朝日が最高という折り紙つきのこのポイントには、かなりの人出が見られたがサンセットに比べると一段と少ない。灼熱の昼間と違って夏なお寒い早朝なので、みんな結構厚手の長袖を着こんでその時を待っている。空は快晴だった昨夕とは違って、雲の層が厚く、しかも何層にもわたって空を覆っている。遠方の漆黒の壁をなす地平線は一直線に走っているのだが、小さなU字形の窪みがあって、そこから向かって右側に姿のよい台形のメサ状のシルエットができている。やがて、その窪みあたりを中心に空が淡い茜色に染まってくると、上層の雲の白と陰のコントラストが鮮やかになり、漆黒の壁より手前の世界にも、峡谷内の岩壁のおぼろげなグレイの姿が浮かび上がってくる。そして、空の茜色が濃くなってくると中心部分が白く光り、やがてその中に黄金色の太陽が昇ってきた。燦光を放ち、周囲の茜色も輝く。燦光はダイヤモンドのような形で八方に向き、光が達していないはずなのに壁のこちら側まで上部が煌いている。下層の雲は茜に染まり、白とグレイの中層の雲、真っ黒な上層の雲との間のグラデュエ―ションが淡青の空に映える。月にむら雲は良からぬことの表現だが、日にむら雲の取り合わせもなかなか乙なものである。いずれにしても、僕たちはこれで、朝昼夕のグランドキャニオンを堪能したことになった。

 

“交通事故”に遭遇

 

様々な姿を見せてくれたグランド・キャニオンに別れを告げて、次の目的地ザイオンに向う。グランドキャニオン、ザイオン、ブライス・キャニオンとラスベガスを結ぶ線をグランド・サークルと呼ぶのだそうだから、僕たちはサークル上を動き始めたことになる。当面の目的地ペイジ(Page)に至るR89Nは平坦な道で両側に畑地が広がり民家が点在している。一本道なので迷う心配もなく、ナビ役の手もかからないので、ひたすらこのあたりの人々の生活ぶりを想像しながら、移り行く田園の光景を楽しんでいた。と、いきなり、左前方の畑地から大きな黒い犬が飛び出して来た。右側の畑地に何か見つけたのだろうか、嬉しそうに身を躍らせて道を横切ってくる。アッ、危ない!慌ててブレーキをかけて減速。しかし、犬が車の前を横切るのに僅かに間に合わず、右前方に軽い衝撃を受けた。振り返ってみると路上と路側に犬の姿は見えなかった。後で調べると右フロントが大分へこんでいたところからみても、多分、吹っ飛んで絶命してしまったのだろう。アメリカの道路は慨してそうなのだが、交通信号もなければ、道路と畑地の間の柵もない。横切る犬も命がけだが運転する側も命がけである。もし、もっと激しく急ハンドルを切ったり急ブレーキをかけていたりしたら、車の方がもんどりうって横転して、こちらの方が絶命していたに違いない。しかも、大きいとはいえ犬だから軽い衝撃ですんだが、以前にバンフで見たあの馬みたいに大きなエルクだったりしたら、車の方が大破ということにもなりかねない。罪もない動物を死に至らせてしまったので、僕達の間には気まずい雰囲気がしばし流れていたが、アメリカの道路交通の恐ろしさを思い知らされた一瞬であった。

 

アメリカかぶれしてきた

 

やがて車はペイジ(Page)でコロラド川を渡る。ここは、コロラド川の源流部分に当たり、グランドキャニオンのサウスリムとノースリムの間がコロラド川1本を挟んだ距離に縮まっているところである。向って右手がパウエル湖(Powell Lake)になっているから、橋の下はダム状態になっており、赤褐色に切り立った両岸の壁の間に濃紺の水がたたえられ静かに流れているように見える。アメリカ大陸初体験という中澤も大分アメリカかぶれしてきていて、ラス・ベガスを「ベガス」などと呼ぶようになっていたが、山本の英語力も上達したのだろうか、「やあ、外人に橋の上からの撮影場所を教えてもらっちゃったよ」とはしゃいでいた。行ってみると、端の両サイドを覆った金網の中に小さく開いた長方形の穴があった。のぞき下ろしてみると、紺碧の水の中をくだるラフティングのボートが見えた。いつの間にか僕たちはユタ州に戻っていた。アメリカには、東側から、東部、中部、山岳部、太平洋という四つの時間帯がある。僕たちは山岳部時間帯と太平洋時間帯を出入りしているから、州境を超えるたびに両時間帯の間にある1時間の時差を調整しなければならない。更に地図をよく見ると、州境ラインと時間帯ラインが必ずしも一致しておらず、例えば、同じユタ州でも一部は太平洋時間帯に属しているようだから、州の集会の集合時刻なんかどのようにして決めるのだろうかと他人事ながら心配してしまう。大アメリカのことだから、僅か1時間の差など問題にせずアバウトに済ませてしまっているのかもしれない。大分アメリカかぶれしてきた僕たちは「時差の誤差のうちさ」とか何とか言いながら、ランチタイムにしては早過ぎる1130分、カナブ(Kanab)の街で見かけた中華料理店The Wok Innに飛び込んだ。実は早朝の出立だったため相当腹が減っていたのである。

 

ザイオン序曲はウメボシ岩

 

ザイオン(Zion)国立公園着で僕たちを最初に迎えてくれたビックリは巨大なウメボシ岩であった。「なんじゃこれは!」と言いたくなるような奇妙な岩肌をしている。これも山全体が一つの岩なのだろうが、上部と下部は薄い褐色がかった白っぽいグレイ、中間部はグレイがかった褐色と、微妙なグラデュエ―ションをなしている。奇妙なのは岩肌に、右上りだったり左上りだったりする無数の細い線が刻まれていることである。形自体はなだらかな円錐形をしていて奇麗だから、「遠目で見たらスタイルのいい女性だったが近づいてみたらとんでもないウメボシ…だった」ということになりかねない。ここザイオンにある岩山の上部の白っぽい部分は、カーメル石灰岩層といって海洋性生物の化石が多いところだそうだから、この巨大なウメボシも海底で侵食された後に隆起してからも様々な侵食と風化を受けて出来上がったのだろう。しかし、自然もずいぶんと手の込んだことをしてくれるものだ。ウメボシのしわしわの間には、点々として小さな草むらが生えていて、緑の胡麻を振りかけたように見え、山裾の岩場にはとってつけたように松や広葉樹が数本生えていて、グレイと褐色の世界に緑の領分を主張している。グランドキャニオンの地形の形成が終った時期にザイオンの地形形成が始まり、ザイオンの地形の形成が終った時期に次に訪れるブライス・キャニオンの地形形成が始まったのだそうだ。ザイオンは、グランド・サークル・ツアーのセカンド・ステージで僕たちに何を見せてくれるのだろうか。期待を一杯に膨らませてくれるザイオン序曲であった。

 

ザイオンの「摩天楼」たち

 

坂道を登ってゆくとトンネルに入った。メサ・ベルデで潜って以来初、これまでの行程を通じてようやく二つ目のトンネルである。メサ・ベルデと言えば、ここザイオンにもその昔アナサジ(Anasazi)族が住んでいて、やはりこの土地を捨ててどこかへ去ったそうである。そして、トンネルを出ると雪国…じゃなくて岩国であった。車はカーブとアップダウンを繰り返して進んで行くが、まず右手に現れた大きな岩穴の開いた岩山を初めとして道の両側に様々な岩肌をした岩山が立ち並んでいる。このあたりの岩は、先ほど見たウメボシ岩と、白っぽいグレイと褐色のコンビネーションは同じだが、褐色はずいぶん赤みが増しているようだ。やがて、ビジターセンターで駐車して、フリーのシャトルバスに乗る。シャトルバスは、2両編成で、立ちならんでいる岩山の裾をゆっくりと走る。それぞれの岩山は屹立していて、上から覆い被さっているように見える。まるで、ニューヨーク・マンハッタンの摩天楼の立ち並ぶ街を歩いているような感じがする。「摩天楼」の高さは300-500メートルに及ぶものもあるから、仰角は75度ほどに達することもあり、次から次と現れる岩山の頂上を見続けていると首が痛くなるほどである。このあたりの岩は、褐色がかっており、これに濃いグレイの紋様が混じったり横方向に細い線が何本も刻み込まれていたりする。時折、岩肌に焦げ付いたような赤紫色の紋様が縦に走っているものがあるが、これも隆起した際の岩と岩の軋轢による“やけど”の跡なのだろうか。

 

見残しに心残し

 

シャトルバスのテンプルス・オブ・シナワバ(Temples of Sinawaba)が終点であり、そこから引き返しになる。「テンプルス・オブ・シナワバ」は、ここにある山の名前だそうだが、「シナワバ」なんて何となくアナサジっぽい感じがする。「テンプル」は、ここがアメリカ原住民に神として崇めていた聖地だったことの名残なのだろうか、他にも「ウェスト・テンプル」や「イースト・テンプル」といった名前の山もあり、更に、「エンジェルス・ランディング」もある。しかし、名前にはだまされてはいけないものだ。「ここ“へ”エンジェルがランディングした」ような優しい山容かと思いきや巍々とした姿で屹立している。どう見ても「ここ“から”エンジェルがランディングした」としか思えない。傍らを清流が流れるテンプルス・オブ・シナワバは、リバーサイド・ウォークのトレイルの始点にもなっている。途中で小川全体が道になるから、ジャブジャブと水の中を歩かなければならないそうだ。更に行くと「ナローズ」というザイオンのザイオンたる観光ポイントもあるそうだ。このように、南の公園だけでも見残したところが多いのに、この他に北の公園もあるそうだ。伝聞形の「そうだ」尽くしなので、この地を去り難い思いが一杯のままビジターセンターからの帰途のハンドルを握っていたせいか、右側の道路にはみ出して駐車していた車に軽くコツンとやってしまった。何の傷跡もついていなかったが後部の右側座席に座っていた山本には、この“ニアミス”は恐怖だったようだ。ほんの一部しか見ることができず、しかもニアミスによって掉尾を飾ることもできなかったが、僕はザイオンの虜になってしまった。「もう11箇所だけ行くとすればどこか」と問われたら、僕はためらいなく「ザイオン」と答えるだろう。

 

Hoodoo!  Who do?

 

こと今日の行程については、畏友の本荘大紀兄が日本出発の事前に僕たちの旅行プランを見て心配して言った「これでは車の運転しっぱなしになってしまうんじゃないか」というコメントが半ば当たっていそうな気がする。何しろ、グランド・サークルのうち、グランドキャニオンを出てから、ザイオンを経てブライス・キャニオンにまで足を伸ばそうというのだから、これでラスベガスまで行こうものならグランド・サークルがグランド・スラムになるところである。それでもって、夕刻5時過ぎに、ブライス・キャニオン(Bryce Canyon)Best Western Ruby’s Innに到着し、小休止もそこそこにブライス・キャニオン観光に出かけた。ここで僕たちは本日2度目の「なんじゃこれは!」に遭遇した。フードゥー(Hoodoo)と呼ばれる直立した円柱状の岩である。ビュート(Butte)より細くて尖塔状のものをスパイン(Spine)と呼ぶというから、これもスパインのうちに入るのだろうか。まさにヨーロッパにあるお城の尖塔状のものがあるかと思うと、頭が四角いコケシのようで形の変わった埴輪のようなものもある。そして、尖塔状のものが相接して並んでいる様はまさに城壁を思わせ、埴輪上のものが立ち並んでいる場所は中国・西安の兵馬俑を思わせる風情がある。粘土質の堆積岩だからこのような様々な形ができたのだそうだが、見たところは堆積岩というより粘土でできた彫像そのものに見える。色合いも、バーミリオン、赤褐色、赤紫などの層が様々に取り合わされており、それぞれの“彫像”に横方向の“粘土”の刻み目が走っている。レインボー・ポイント(Rainbow Point)、アクア・キャニオン(Aqua Canyon)、インスピレーション・ポイント(Inspiration Point)などいくつかビュー・ポイントがあるが、フードゥー(Hoodoo)達はそれぞれに違った壮観なシーンを演じてくれている。フードゥー(Hoodoo)達のステージの演出は誰がしているのだろうか。思わず駄洒落交じりだが ”Who do?” の疑問が湧いてくる。

 

南ユタの総集編

 

ブライス・キャニオンは実は「キャニオン」ではないのだそうだ。そう言えば、グランド・キャニオンにはコロラド川、ザイオンにはバージン川が、それぞれ流れていたが、ここには川らしいものがない。ヨビンパ・ポイント(Yovimpa Point)は、他のビューポイントとは違って「キャニオン的」な景観がない代わりに、眼前180度に広がる大パノラマが見ものである。ここは北米大陸でも最も空気が奇麗なところであり、かつては322km先まで眺望できたそうだ。そう言えば、左手遠方遥かにナバホ山(Mt. Navaho)が見え、右手にはグランド・キャニオンのカーバブ・プラト―(Karbab Plateau)まで遠望することができるが、かつてはもっと先まで見えていたのだろう。「大気の汚染が進んだせいで眺望が悪くなった」という恨みがましいことが看板に書いてあった。だったら「京都議定書」にサインすればよいものを、アメリカったら我が侭なんだから。そんな看板の地図上に、英語力上達の著しい(?)山本がめざとく ”Molly’s nipple” という表示を見つけて ”nipple” の意味の講釈に及んだ。なるほどそう言えばナバホ山とカーバブ・プラト―の間でずっと手前に見える丘の上にある突起は乳首に見えないこともない。それにしても、知っている英語の語彙に偏りがあるんじゃないかね山本クン。因みに、このあたりの樹木の植生は「white fircommon juniper がせめぎ合いをしている」旨の表示があったが、これは山本だけでなく僕たち全員の語彙の中に入っていなかった。後で調べてみて、それぞれコロラドモミとセイヨウネズだと分かった。いずれにせよ、アーチーズ他のユタ経験も併せて、「バーミリオン+針葉樹+青空=南部ユタ」の方程式は確実に成立しそうだ。サンセット・ポイント(Sunset Point)でブライス・キャニオンの落日を見ながらそう思った。僕たちのサンセット・ウォッチもこれで3セット目だ。駄洒落第2弾のお粗末で忙しかった一日が「お後が宜しいようで」になった。

 

(2001/7/23)

イルージョンの街の歓喜と幻滅

ラス・ベガスの一日

 

朝飯後の“プライス交渉”

 

カナダでもそうであったが、ここアメリカでも国立公園入口にはゲートが設えてあって、それぞれで20ドルずつ支払う仕組みになっている。これで、車1台の同乗者が1週間国立公園の中で過ごすことができる訳だから一種の利用料である。国立公園からの受益者が利用料の形で応分の負担をして、これが国立公園内の環境・施設の保全経費に充当されるというのだから合理的である。日本でも取り入れたらよさそうなものだが、国立公園内住民のゲートの出入りが頻繁なので渋滞が一層ひどくなるだろうし、道路網も煩雑だからゲートが幾つあっても足りないということになりそうだから、小泉クンに提案するのは止めることにした。ところで、この国立公園利用料だが、50ドルのNational Parks Pass を買っておけば、365日どこの国立公園にでも入れるということを、ようやく昨日になって知った。知らぬこととは言え、ドライブ旅行を開始してから無慮23日間、都度20ドルずつ払ってきた僕たちがオロカであった。そこで朝飯後の一仕事とばかりブライス・キャニオンの国立公園ゲートにとって返して、各国立公園で支払った利用の領収書を並べ立てて“ブライス交渉”におよんだが、National Parks Passが入手できただけで支払済み金額の返済までには及ばなかった。最初からナショナルにしておけばよかったのに100ドルのソニーになった(?)

砂漠の中に忽然と

さて、僕たちのグランド・サークル上の最終ポイントであるラス・ベガス(Las Vegas)に向って出発、やがてI-15に乗る。イントラネットのトラフィックも多いが、さすがイントラステーツ15号の交通量は大きく、特にトラックの往来が激しい。車窓からは広く広がる平原が見えるだけなので、ここを通っただけだと、まさかこんな近くにブライスキャニオンなどの巨岩地域があろうなどとは思いもつくまい。しかし、その車窓風景もネバダ州に入ると一転して砂漠の光景になる。青空を背景に遠く広く横たわる薄茶色の山並みからこちらの地べたは一面が黄土色をした砂地であり、白っぽい草がまばらに生えている中に砂漠に定番のサボテンが見えるだけである。僕たちは、この砂漠で竜巻が起こる現場を何回も目の当たりにした。ごく気軽な感じで地表に渦巻きが現れて竜巻に成長してゆくのである。砂漠が大きいだけに、中には大規模な竜巻に成長するやつがいて、その被害が時々報道されるのだなと合点が行く。いずれにしても、アメリカでは竜巻と住民との精神的距離も近いのだろう。かのメジャー・リーガー野茂英雄投手に、日本では考え難い”Tornado”なるニックネームが付けられたのもむベなるかなと思う。そうこうするうちに、遠方に忽然としてラス・ベガスの街が姿を現した。まさに「灼熱の砂漠に建てられた街」を実感する。

灼熱の屋外・爽快な屋内の屋外

僕たちの宿はホテルParis Las Vegasだ。何しろ僕たちの旅は宿泊費節約シリーズだから「ホテル」と名の付いたところに泊まるのは滅多にないことである。このホテルはパリを模したテーマパークホテルで、エントランス際には、相当に高い“エッフェル塔”が建っている。ここは、フランス在住歴のある水口隊長が、僕たちにパリ疑似体験をさせようとして選んでくれたのに違いない。Paris Las Vegasから通り一つ隔てたところにある中華料理店「華館」で昼食を済ませた後の自由時間を利用して、そこで聞いたナイキNIKIのアウトレット・ショップに向った。どこのホテルも、室内のグランドフロアは、天井に青い空と白い雲が投影されていて屋外っぽい感じを出しながらも、空調が利いているから爽快な散策ができる。しかし、実際の屋外に一歩出てみると、さすがそこは灼熱の砂漠地帯で、いきなり地面に出たモグラ状態になってしまう。ナイキ・ショップのあるモールまでは大した距離ではないのだが、すぐに汗みどろになり、都度「ホテル・シェルター」に駆け込む仕儀となる。そして、これによって、どのホテルも申し合わせたように1階全体が、どでかいカジノになっていて、それぞれ真昼間からかなり賑わっているのを知った。肝心のナイキ・ショップにお目当てのテニス・シューズはあったものの、さほど安い値付けにはなっていなかった。やはり、ここの商業施設は、気の大きくなったカジノの勝者がターゲットであり、僕のような清貧生活者は目じゃないんだろう。

 

限りなく嘘っぽく

予約しておいたショウの時間までは大分時間がある。この時間に市内観光もしてみたいのだが、遠慮会釈なく照りつける太陽の下で、汗たらたら歩き回る元気はない。そこで、これも水口隊長の発案で、タクシー・クルージング・ツアーとしゃれることとあいなった。さいわい、面白くて親切で教養までありそうな黒人ドライバーに乗り合わせたお陰で、僕たちは短時間のうちに「ラス・ベガス市街概況」を知ることができた。我等がエッフェル塔の他に、ピラミッドやスフィンクス、ニューヨーク・エンパイヤ・ステート・ビル等々“ブランドもの”の建造物のミニチュアが街の随所に設えられていて、それぞれがテーマパークホテルになっている。僕はニューヨーク・エンパイヤ・ステート・ビルの他は実物を見たことがないから分からないが、マンハッタンの摩天楼の惨めな「縮尺度」から見ると多分他も似たようなものだろう。限りなく嘘っぽく見える。また、ドライバー氏は、街の危険エリアに近い結婚用施設の集まった地区まで案内してくれた。ここが全米一安価で手軽に結婚できるところだそうだ。賭博といい、偽物といい、ラス・ベガスは誠に胡散臭い街である。しかし、人間の射幸心も恐ろしいものだ。50年ほど前に、灼熱の砂漠のまっただなかに賭場として建設され、それが人を引き寄せ続けた挙句、このような嘘っぽい大都会になっているのだから。「空港と道路さえ封鎖してしまえば犯罪者に逃亡されることがない」というのが、この巨大なギャンブルシティの立地条件だそうで、これは「離島には犯罪者が出ない」のと同じ道理である。日本でも、空路と架橋経由の陸路が開けて、嘘っぽさを恥じる心さえ捨てれば、ギャンブルアイランドが実現できるかもしれない。

イルージョンの街ラス・ベガス

ショウは23時30分から始まった。僕たちの今回のテーマは「大自然にビックリ」だから、胡散臭いラスベガス訪問を織り込むこと自体が胡散臭い計画であった。しかも、このショウは僕たちの売り物である「清貧」にはどう見てもなじまないストリップ・ショウである。まあ、毒食わば皿までだ。ショウのタイトル「Jubilee!」はJリーグ「ジュビロ磐田」の名前から察して「歓喜!」かそんなもんだろう。しばし嘘っぽく歓喜してしまえとばかり乗り込んでいったバリー・ホテルのシアターにはしかし、めっけ物の歓喜が待っていた。「アメリカ娘も大してボインじゃないなあ」とか「意外に年増が多い」とか、「清貧」にあるまじきコメントが混じったことは白状せざるを得ないが、華やかな光と音に彩られた歌と踊りのステージは清く正しく美しく、最前列に陣取った僕たちは邪心の入る隙間もないほど圧倒され、すぐ目の前に展開するイル―ジョンのような世界に歓喜させられてしまった。それ以上にめっけ物の歓喜だったのは、添え物として演じられたダーク・アーサー(Dirk Arthur)の文字通りイルージョン・ショウであった。大きな白い虎がステージに現れたのだけでもビックリなのに、これが突如姿を消すのでまたビックリ。次いで、自動車や、あろうことかヘリコプターまでステージに持ち出され、それが姿を消す。ヘリコプターがステージから姿を消した次の瞬間、ステージの向って右手の中二階のあたりに現れた時などはビックリの極致であった。ともにイル―ジョンの街ラス・ベガスにふさわしいショウであった。ショウが終わってからホテルに戻り、今度はカジノのイル―ジョンの世界をのぞく。日本を出発する前に、東芝で同期で在米経験もある浅香泰三兄が「あそこで立っているだけで、バニーちゃんたちがフリーの酒をサービスしてくれるよ」と言っていたので、ルーレットに挑戦している水口隊長を見ながらフリーの酒のサービスを楽しみに立っていた。しかし、「参加せざる者飲むべからず」とでも言わんばかりで、ただの傍観者には振り向いてもくれない。その上、どう見ても、夜目遠目でも隠し通すことが難しい「オバーニーちゃんたち」が多くて愛想も悪い。こちらの方のイルージョンは文字どおりの幻滅に終わり、飲み物の恨みでもないが「やはりラスベガスは胡散臭い」の結論で一日が終った。

(2001/7/24)

緑 を 求 め て

ネバダ州からカリフォルニア州へ

 

脱「脱ダム宣言」

 

ラス・ベガス市街地を出るとすぐに黄土色をした荒地が続いている。しかし、フーバー・ダム(Hoover Dam)との間には幾つかの街もあって、道は大きなトラックも含めて交通量はかなりある。フーバー・ダム寸前の山道ではちょっとした渋滞ができていたほどである。フーバー・ダムはラス・ベガスの東南東にあり、ネバダ州とアリゾナ州に位置している。氾濫と洪水を繰り返していたコロラド川を堰きとめて作った世界最大級のダムで高さが218mもあり、ビジタ−センターの展望所から見下ろすと、その規模の大きさにビックリする。1931年から1935年にかけて当時の最新技術を駆使して建設されたそうだが、両岸の切り立った岩壁と、満々と湛えられた濃紺の水から、峡谷の深さをうかがい知ることができ、さぞや難工事だったのであろうと慮られる。しかし、難工事の甲斐があって、氾濫がなくなった上に、広域にわたって灌漑用水が供給され、ネバダ州、アリゾナ州、カリフォルニア州の電力の供給源にもなっている。ラス・ベガスが不夜城を誇っているのだって、このフーバー・ダムなかりせば、あの絢爛のネオンは輝かないのである。更に、フーバー・ダムのついでにできたミード湖(Lake Mead)というアメリカ最大の人口湖があって、ここから2,500万人分もの飲料水が供給されている。はたして、長野県の田中某知事はこのダムを見た後になお「脱ダム宣言」なるものを発したのだろうか。当時の31代大統領ハーバート・フーバーは凡庸な大統領であったと伝えられているが、このダムに名前が残されているほどだから、信望の厚い人だったのだろう。しなやかでなくて凡庸でも良いのです。信望さえ厚ければ。

 

治にあって遊を忘れず

 

送電線を中継する鉄塔が崖に斜めに立てられているのも奇妙な光景であったが、これは曲がったことの嫌いな日本人が見るから奇妙に見えるのかもしれない。日本人なら几帳面に天に向って垂直に立てるが、ここでは鉄塔の足元の傾いた岩盤に対して垂直に立てられているだけの話で、こちらの方が「斜面のボールには斜面なりのスタンスをとれ」というゴルフの理論にマッチしている。それとも、これもアメリカ人特有の遊び心かもしれない。もともとは治水が主目的だったのだが、治にあって遊を忘れず。「遊び心なければ国も企業も将来が危うい」というのは、かねてから唱えられていた議論である…不肖私によって。かたや鉄塔傾かず国傾き、こなた鉄塔傾いて国傾かず。ミード湖の方も水とともに遊び心に満ちていて、飲料水供給という実利を果たしながら、国内有数のフィッシング・ポイントとして釣人を集め、青く美しい湖上のクルージング・ツアーで観光客を楽しませる格好のリゾート地になっている。フーバー・ダムとともに、砂漠地区に貴重な水の景観を呈して人々の心も癒す巨大な人造のオアシスなのである。さて、人工にビックリした僕たちは来た道をラス・ベガスまで取って返して、I−15に乗る。途中俄かに雨雲が広がり、雷鳴とともに降り出した雨は、荒野の荒天の様相を見せていたが、ラス・ベガス市街地を通過する頃には上がって青空が見えていた。荒天から好天への瞬時の身代わり。誠にもってラス・ベガスは胡散臭い。

 

異郷で知る花々の美しさ

 

やがてプリム(Primm)という街があって、ここで灼熱のネバダ州におさらばして気候温暖なカリフォルニア州へ…と思いきや、人生そんなに甘くはない。道路脇にあった温度表示計の「華氏108度」(なんと摂氏42度!)を見た気のせいか却って一層の暑さを感ずる。車窓の風景も、砂の色が淡いグレイに変っただけで、サボテンが点在する砂漠が続いている。しかし、R58Nに入ると丘陵地帯になり、やがてするとハイウェイ左手前方の丘の上に風力発電機が林立しているのが見えてきた。前回僕がサンフランシスコからヨセミテに向うバス・ツアーの途中で無数にプロペラが回っているのを見て感じたビックリを三人にも共感してほしいので停車して暫しのプロペラ・ウォッチング。しかし、あの時うるさいほど草山に散っていたプロペラの白は今は見えず、若緑色をしていた草山も今は乾燥期なのだろうか枯れて茶色に姿を変えていた。「気候温暖なカリフォルニア」にはいまだ道遠しなのか。だが、今日の宿泊予定地ベーカーズフィールド(Bakersfield)に入ると様相が一変する。緑が多く、住宅街はバンクーバーのそれに似ている。中央分離帯には、モミの木だろうか、三角形を三つ重ねたクリスマス・ツリーのような木が植えられている。路側には、赤、白、ピンクの夾竹桃が咲き競っている。日本の夾竹桃の並木に比べるとピンクが多いので、コスモスの群落が続いているように見えて華やかだ。「へー、夾竹桃って、こんなに奇麗だったんだ!」と今更ながらビックリ。車窓で満開の赤い花が優雅に見えたので、Best Western Hill Houseに着いた後、歩いて行って確認するとサルスベリであった。ここでまた、「へー、サルスベリって…!」となったのだが、優雅な姿に似つかわしくない無風流な名前を付けられたサルスベリに対して妙なところで“義憤”を感じたりもした。中華レストラン「ライスボウル」で夕食をとった後8時頃宿舎に帰着。夜になっても暑い。「気候温暖なカリフォルニア」はイルージョンだったのかもしれない。

 

(2001/7/25)

 

「神 の 庭」 に 入 る

マリポサ・グローブとヨセミテ・バレー

 

 

変る景色の面白さ

 

さて、今日はドライブ旅行の最後のクライマックスであるヨセミテ(Yosemite)行きである。僕自身はこれが三度目のヨセミテ紀行となるが、一度目より二度目の方が趣深かったところからして、今度もまたきっと新しい姿を見せてくれることだろう。宿を出て緑豊かで癒し感のあるベーカーズフィールドの街を行くと、踏切があり、貨物列車が通過しているところであった。数えてみると何と83輌の長い編成であり、走行スピードも遅いから待ち時間が長く、一度貨物列車が通過中の踏切にさしかかったら百年目である。99Nに入っても、暫くの間は、道路の両側の“夾竹桃のコスモス畑”は続いていたが、やがて車窓風景はアーモンドなどのナッツやブドウ畑などの果樹園に変った。360度に地平線が見渡せる大平原で「これぞカリフォルニア」を実感する。ヘイ・キューブを満載したトラックと何回も行き違うところからすると、このあたりは有数な牧草地帯でもあるのだろう。トウモロコシ畑も見え、緑の世界が続いていたが、すれ違うフレスノ(Fresno)ナンバーの車が数を増すに連れて、田園風景は次第に変り、ついにはキツネ色が全面を占めるようになってきた。更に、遠景にシェラネバダ山脈(「シェラ」は「山脈」の意味だそうだから、これはICを「IC回路」と呼ぶのに等しい)が見える頃になると、まさに大平原は茶色のシンフォニーの世界になった。焦げ茶色から黄色に近い茶色まで、さまざまな形と色調をした茶色が見事なアンジュレーションを見せている。

 

世界で最大の生物にビックリ

 

フレスノから41Nに入って、いよいよヨセミテ(Yosemite)国立公園入口料金所に着く。先ずはR41を右に折れて、マリポサ巨木森林(Mariposa Grove of Big Trees)に向う。道の両側には高い杉木立が立ち並び、何となく落ち着きを感ずる。「やはりヨセミテはいいなあ。日本の風景に近いからだろうか」などと思っていたのだが、やがてマリポサ・グローブに一歩足を踏み入れた途端にこの印象は一転した。トラム・シャトルで回るマリポサ・グローブの木々は、「日本の風景に近い」どころではない迫力で眼前と頭上に迫り、僕たちには「落ち着き」どころかビックリの連続であった。セコイア(Sequoia)とレッドウッド(Red Wood)が「世界で最大の生物」であると言われているが、ここのジャイアント・セコイア達には世界一の金メダルの四つや五つ与えても惜しくないような気がする。森の中には樹齢2千年を超えるジャイアント・セコイヤが群生しており、中でも、最長老にして最高最太でグリズリー・ジャイアント(Grizzly Giant)というニックネームのジャイアントは樹齢2,700年で高さ64m、根元の直径8.7mだと言うから、ビックリするなというほうが無理である。トラム・シャトルのガイドが、とある木き指差して「あの木はまだ80歳、幼稚園児のようなものだ」と説明した時は、トラム・シャトルの同乗客一同どっと来た。還暦を過ぎたばかりの僕たちなど、セコイアの世界では幼稚園児以前なのである。精々気持だけは、若くジャイアントでいたいものである。なお、セコイアは、シェラネバタ山脈の西側にしか生えていないそうである。セコイアややレッドウッドといった巨木が生育するのにはアメリカ西海岸沿岸の太平洋上で発生する霧がもって与っているということだが、「霧のサンフランシスコ」が「ヨセミテの巨木」につながると言うのは「風が吹けば桶屋が儲かる」に似ていて面白い。

 

神の神による神のための箱庭

 

再びR41Nに戻ってから、グレイシャー・ポイント・ロードに入り、グレイシャー・ポイント(Glacier Point)に着く。このポイントは海抜2,200mの絶壁上にあるから、つい目の先に、ほぼ水平の位置に文字通りドームを縦に真二つに割ったような美しいハーフ・ドーム(Half Dome)の姿が見え、眼下にはヨセミテ・バレーの全貌をとらえることができる。ハーフ・ドームは、ヨセミテ・バレーの中心部に標高差1,400m 境の高さで聳えているので、ヨセミテの随所から眺望することができ、その威容はヨセミテの山々を統べている姿に見える。ヨセミテ渓谷は氷河の侵食によってできたのだそうだが、ここの岩山には茶色や褐色の装いがなく、グレイのモノトーンであり、これが「神の庭」と呼ばれるのにふさわしい荘厳さを醸し出している。そして、空の青と針葉樹の深い緑と、あちこちに迸り落ちる滝の白がアクセントを添えている。ハーフ・ドームをはじめとした岩山や、見え隠れしてヨセミテ・バレーを蛇行して流れるメルセド川(Merced River)などの調度が意図をもって配置されているかのように思え、神が自ら設計された巨大な箱庭のように見える。「日本の風景に近い」という印象をもったのは、この箱庭的な景観によるものかもしれない。僕のこれまでの二度にわたるヨセミテ訪問は、いずれもサンフランシスコからメルセド(Merced)経由の忙しいワンデイ・パッケージ・ツアーであったから、マリポサ・グローブどころか、このグレイシャー・ポイントまでも足を伸ばすことができなかった。お陰で今回はハーフ・ドームやヨセミテ・バレーを違う角度から展望することができた。自分の気の赴くまま行動することができるドライブ旅行の有り難さを身にしみて感ずる。

ヨセミテ滝に無常を感ず

 

さて、僕たちはここからR140を通ってグレイシャー・ポイントから眼下に見下ろしていたヨセミテ・バレーに降る。早速、ヨセミテ・ロッジからヨセミテ滝(Yosemite Fall)に三人を“案内”した。グレイシャー・ポイントから見ると、枯れ細った滝のように見えたが、あれは絶対に見誤りであったということを現場で実証するためである。何しろヨセミテの滝と言えば、アッパー、カスケード、ロウアーの三段構成で、その合計落差は740mは世界第3位というシロモノである。現に僕が過去に二度、ごうごうと轟く瀑布の音に誘われて滝壷際に足を運んだ時にはいずれも、水しぶきを浴びるほどであったし、滝壷から音を立てて奔流が流れ出していたのだから、あの枯れ細った滝がヨセミテ滝だけであるはずがない。しかし、ヨセミテ・ロッジ近くでガイド役をしていた青年に水量を聞いてみると、気の毒そうな表情を浮かべて、”Very little.”と答えた。なおも、その言を信ずることができず、滝壷への道を急いだが、あの瀑布音は聞こえず、実際目にすることができたのは、老いさらばえてやせ細ってしまったかのようなみすぼらしい姿であった。奢れる滝も久しからず。無常を感じた一こまであった。しかし、ヨセミテではご機嫌を取り結び損ねてしまったご三方も、次いで試みたシャトルバスを利用した公園内周回の「神の庭」ツアーで、エル・キャピタン(El Capitan)やハーフ・ドームを見上げながら、メルセド川の流れる森とメドウの緑豊かなヨセミテ・バレーを堪能してくれたので、「ヨセミテ探訪」の提案者としての面目は保つことができた。


「神の庭」の荘厳さ

 

なかでも、ワオナ・トンネル(Waona Tunnel)際にある展望駐車場トンネル・ビュー(Tunnel View)からのヨセミテバレーの展望は、ここを訪れるのが三回目になる僕にとっても素晴らしいものであった。左手は、近くにそそり立つエル・キャピタンとそのすぐ右側遠景に見えるクラウド・レスト(Cloud Rest)の峰とハーフドーム、右手にはカセードラル・ロックス(Cathedral Rocks)とその中腹部分から白く流れ落ちるブライダル・フォール(Bridal Fall)。これらが目の前の一大パノラマを構成して神々しくて静かな姿を見せている。このポイントは、世界で最も数多く写真が撮影されるところだそうだが、僕自身が同じ構図で通算3回目のシャッターを押すことになった。この谷間には、3、4千年も昔からアファニチ族インディアンが先住しており、ここを「神の庭」と呼んだのもインディアンだそうだが、恐らくこのポイントに立った時にこの言葉が浮かび上がってきたのだろう。時代が下ってゴールドラッシュが始まって入り込んできた白人達とインディアンとの抗争が起こって、出動してきたマリポサ司令隊の軍隊さえ、ここの眼前に広がる荘厳な景観を見て、全員無言のうちに銃を地面に置いたという。ヨセミテ・バレーは、周りが切り立った岩壁で囲まれており、このトンネルのある山も、インディアンたちの平和な生活を守る天然の要塞の一つであったのに違いない。エル・キャピタンは、ヨセミテ・バレーの谷底から1,100m弱の高さをもって垂直に屹立する花崗岩としては世界最大の一枚岩だそうだが、その姿にかつて外部からの進入を阻んでいたヨセミテの厳しさの面影が宿っているよう思える。

 

ヨセミテで迎える初めての夜

 

そうこうしているうちに夕刻になったので、僕たちはシャトルバスに乗ってヨセミテ・ロッジに戻り、今度はR140Wを通って、国立公園区域の西端からすぐ外側にある今夜の宿Yosemite View Lodgeに着いた。夕食はロッジ内施設の一つとして開店されているイタリアン・ピザ・ハウス。レストラン流の形式ばったところがなく気楽でいい。ビールのジョッキを運んでくれる青年も短パンというカジュアルないでたちで、陽気に話しかけてくる。ついつい愉快になり、ビールの追加発注を重ねると、短パン青年、僕たちの酒量に驚きながら、「もっとゆっくり飲んだ方がいいよ」と親父を諭す息子のような調子で僕たちの急ピッチぶりをたしなめてくれた。かくて、3度目の訪問にして、メルセド川のほとりにある宿で、初めての夜を迎えた。一泊するお陰で、明日は、北ヨセミテにまで脚を伸ばすことができる。再び、ドライブ旅行によるカバレッジの広さに有り難さを感ずる。

 

(2001/7/26)

岩 と メ ド ウ と 湖 と

ヨセミテ裏街道ドライブ

 

 

 

「神の裏庭」を行く

 

メルセド川沿いに昨日来たR140を引き返して、ヨセミテ国立公園西ゲートを通る。通過の際に、係官の若者が陽気に「おじさんたち、僕を覚えてる?」と声をかけてきた。よく見ると、なんと昨晩イタリアン・ピザ・ショップで、僕たちにビールのサービスをしていたあの短パン青年であった。昨日とは打って変わった制服・制帽姿だったので一瞬誰かと訝ったが、凛々しい出で立ちの中に、人なつこい笑顔を見せてくれたので、すぐにそれと分かった。どちらかをアルバイトでやっているのだろう。朝の出がけに、思わぬ好青年との再会があり、すがすがしい気分になった。ゲートを通って、トンネル・ビューのあたりで西に切返して暫く山道を進み、R120に出て右に曲がると、そこからがタイオガ・ロード(Tioga Road)の別名で呼ばれる道路で、ハイ・カントリーと呼ばれるヨセミテバレー北部の高原地帯を走り、タイオガ峠(Tioga Pass)に続いている。北ヨセミテは、「神の庭」ヨセミテ・バレーからすると、さしずめ「神の裏庭」と言えよう。上から(グレイシャー・ポイント)、下から(ヨセミテ・バレー)、横から(トンネル・ビュー)に「裏から」を加えて、“四勢見て”観光の掉尾を飾りたい。

 

粗忽者の氷河の爪痕

 

ホワイト・ウルフ(White Wolf)、ヨセミテ・クリーク(Yosemite Creek)などの標識を横目に見ながら針葉樹の森林地帯を暫く走ると急に展望が開け、そこにオルムステッドポイント(Olmsted Point)と呼ばれる展望台があった。雲ひとつない青空の下、ヨセミテバレーの岩峰が連なり、中心部にはハーフドームがヨセミテの盟主然として鎮座しているのが見える。ここはヨセミテバレーの裏奥座敷のようなもので、ハーフドームを挟んでヨセミテバレーと対角になる場所だから、見えるハーフ・ドームも後姿で、昨日は左半分が欠けていたが今日は右半分が欠けて見える。裏奥座敷からのパノラマもなかなかのものだが、更なるビックリは、すぐ足元の巨大な花崗岩の一枚岩である。白っぽい色をしていて、緩やかな傾斜の丘の形をなしているのだが、大きな岩畳の随所に、縦横に直交する線が走っていて、お餅の切れ目のような長方形が並んでいるのが奇妙な光景である。これも氷河の爪痕の一つなのだろうが、縦横に傷跡をつけたこのあたりの氷河はどんなやつだったのだろうか。一枚岩の上にはまた、あちこちに「氷河の忘れ物」と呼ばれる大小の岩がごろごろしている。縦横に動き回る暴れ者であった上に、迷子石を忘れていってしまった粗忽者でもあったのだろう。なお、展望台の標識には”weathering process (exfoliation)”とあった。後で調べると、「風化過程(剥落)」という意味らしい。アメリカ人観光客達は、こんな難しい単語の意味が分かっているのだろうか。

 

癒しの湖とメドウ達

 

氷河の爪痕にビックリさせられた僕たちを癒してくれたのはテナヤ湖(Tenaya Lake)であった。水は清く澄み切っており、手を入れてみると手が切れるように冷たい。湖畔は花崗岩の岩山に囲まれていて、プルシアン・ブルーの水面に湖岸に密集して生えている針葉樹林が映って見える様はなんとも神秘的である。鵠沼グリーンテニスクラブのテニス仲間でアメリカ在住歴のある丸尾嘉住子さんが、「摩周湖みたいに奇麗な湖があるから是非行ってみるといいわ」としきりに勧めてくれていたのは、きっとこの湖に違いない。水の澄明さと神秘的な佇まいは摩周湖にそっくりであり、僕たちが回ってきたイエローストーン湖やジャクソン湖のような、だだっ広い“アメリカ流”の湖ではなくて、“カナディアン・ロッキー地域流”にこじんまりしている点も似ている。ここは湖畔の近くをタイオガ・ロードが通過しているためアクセスが容易である上に、摩周湖と違って湖岸が切り立っていないので湖面へのアクセスも簡単にできる。タイオガ・ロードの道路脇にも小さな池沼やメドウはあちこちに見られ僕たちの心を和ませてくれるのだが、メドウの極め付きは僕たちが次いで訪れたトゥオルム・メドウ(Tuolumne Meadow)であった。乾燥期に入ろうとしているからだろうか、若緑からキツネ色に変りつつある草原が広がっており、一瞬「ヨセミテの尾瀬ヶ原」の幻覚にとらわれる。しかし、メドウの奥には、レンバートドームという白っぽいドームが青空の中に聳えており、その手前には花崗岩の低い丘が横たわっているのが、いかにも「神の裏庭」らしいところである。花崗岩の丘の麓にはセコイアのような樹形の針葉樹が立ち並んで高原の草原に深緑の装いを添えている。

 

もともとは熊の楽園

 

ヨセミテ最大の高地草原トゥオルム・メドウで癒された僕たちだが、ビジターセンターを過ぎて少し行ったところのキャンプ場に立ち寄り再びビックリを味あわされることになる。DON’T BE BEAR CARELESS!”という熊の絵入りの看板が掲げられており、文字通りイェローカードの”WARNING! – YOU ARE ENTERING ACTIVE BEAR COUNTRY”と書かれた黄色いチラシが渡された。キャンプ場は木立に囲まれていて、チラシの”Bears frequently enter campsites when people are present.”が実感として迫る。そうだ、ここはもともと熊の国だったのだ。「ヨセミテ」もインディアン語で「熊」を意味するのだということも読んだことがあるような気がする。そんな熊の楽園に人間が闖入してきて、挙句の果てに熊を人間の食物に慣れさせてしまった。チラシによると、1998年には1,300台もの車が食物あさりの熊による“車上荒らし”にあって破損されたそうである。人間側の被害もさることながら、人間の食物に慣れてしまうと「熊が”unnaturally aggressive”になり、殺されなければならなくなってしまう(must be killed)」という熊側の損害の方が強調されており、”KEEP BEARS WILD”の姿勢が保たれているのはさすがである。キャンプ場のあたりは9,000フィートの標高があり、真夏なのに雪田なのか氷河なのか、万年雪らしきものが見られ「シェラネバダ山中まっただなか」を実感する。

 

つわものどもが夢の跡

 

タイオガ・ロードを更に行くと、ライエル湖(Lyell Lake)があった。ここの南方に聳えるヨセミテ最高峰(3,997m)のライエル山(Mt. Lyell)から流れ出た水を湛えたこの小さな湖も、水清く深部は美しいプルシアン・ブルーをしているが、湖畔の岩山は巍々とした様相を呈しており、一部は氷河の跡と思えるガレ場になっている。そして、やがてタイオガ峠(Tioga Pass)で、標高は9,945ft(3,000m)とある。ここが、カリフォルニア州の車で通れる舗装道路の最高地点だそうだ。その昔は、金鉱を求める男達がこの峠を通ってヨセミテに入ったとのことだが、さぞや難所だったことだろう。ここはもう、高原ではなくて高山なのである。黒ずんでさえ見える濃紺の空を背にヨセミテ第二の高峰(3,979m)デーナ山(Mt. Dana)が荒々しい岩肌を晒して聳え、峰と峰の間には大きなカールがありガレ場が小砂漠状に広がっている。東方のリー・バイニング(Lee Vining)の街を発してきた男達は、この黄土色の世界に見果てぬ黄金の夢を描いて、山々の中腹の崖を縫って開かれた道を喘ぎながら登ってきたのだろう。ヨセミテ公園東口ゲートに立ち、東方に山腹をうねって走るR120を眺めていると、場違いにも芭蕉の句「つわものどもが夢の跡」が浮かんできた。さて、僕たちはここで、今来たこの道帰りゃんせとなり、針葉樹林の間を走って戻る。路傍には、若緑の小さなメドウや薄紫に咲く花が代わる代わる現れ、木々の合い間に白く見え隠れする岩たちとともに僕たちを見送ってくれた。

 

船頭多くしてニアミスを起こす

 

ヨセミテに別れを告げてメルセド川沿いのR140をくだる。この川は、夏のためか以前にここを2回往復した時に比べると遥かに水量が少なかったが、水は清く川底の石がくっきりと見えていた。時に白波を立てて早瀬を作り、時に深い緑の縁を作る川の岸辺には時折渓流釣師の姿が見られ、時には川辺に憩うビキニ姿も目に飛び込んできた。やがて、山間地から放牧地帯を通って平地にくだりメルセドの街に出る。最初にヨセミテ旅行した時にはAmtrak乗り継ぎのパッケージツアーに一人で参加したものだから、ここのメルセド駅ではでずいぶんと心細い思いをしたものである。あの時はちっぽけな街だと思っていたが、メルセド駅が街外れにあっただけで、メルセドは実はそれなりの大きさの街であったのだということを改めて知った。やはり、「一を知って十を知る」には危ういところがあるものだ。さて、高山から降りてきたばかりの僕たちは、地方小都市メルセドを通って、いきなり大都会サン・フランシスコ(San Francisco)を目指す。そして、暫くして、誰かが叫ぶ。「あっ、海だ!」。車窓遠くに、バンクーバーを離れて以来17日ぶりの海が見えていた。ベイブリッジを自分で運転して渡るのも初めてのことだ。いよいよサン・フランシスコ市街に入る。しかし、ここで問題が起こった。ナビゲーターの指示に従ってICを降りようと右にハンドルを切ったところ、後部座席の俄かナビゲーターから「いや、次のICだ」の再指示。慌てて左にハンドルを切ると、すぐさまナビゲーターからの「いや、ここでいいんだ」という再々指示により、再び右に方向変更したところ、サイドミラーに後続車が右を通りすぎようとするのが見えたので急ブレーキ。一瞬こちらが左に膨らんだ間に後続車が急接近していたのである。生き馬の目を抜く大都会では、このように一瞬の迷いも躊躇も許されない。「船頭多くして」は、「船山に登る」ならまだしも、とんだ事故の元になりかねない。ナビゲーター/ドライバー間の意思疎通のあり方について反省させられたニアミス事件であった。

 

(2001/7/27)

 

サンフランシスコにて

 

「チャイニーズ」につい釣られ

 

今日の宿はChelsea Motor Inn。このフロントで夜景観賞の仕方を尋ねている時に聞いた「チャイナタウンでの中華料理付き」の言葉に飛びついてしまったのが敗因であった。やがて現れた大型バスは、他のホテルからのツア―参加者のピックアップを続けながら市内の目抜き通りを走ってチャイナタウンに到着。ここで、案内役は小柄で陽気なバス運転手から待ち合わせていた中国系の中年女性に代わる。そこで、中国茶などのショッピング・ツアーが始まり、何店かに付き合わされる。同乗した米国各地からの観光客は中国物産を興味深げに見、時に買い求めてゆくが、あいにく日常目にする機会の多い当方には興味が薄い。「仕方ない、これも空腹度を高めて、おいしく中華料理を食べるため」と割り切って退屈なツアーに付き合った。

 

初心者コースであった

 

待ちに待ったディナータイム。一同が招じ入れられたのは、何の変哲も無い中華料理店。2台の大型回転テーブルに思い思い席を取って料理が供されるのを待つ。メニューはツアー用のお決まりコースらしく、アルコール類の他は一切リクエストを聞きに来ない。やがて運ばれて来た料理を銘々の小皿に取って、さてこれぞチャイナタウン本場の食味…と思いきや、これが一向に美味しくない。見ると、箸を使っている米国人観光客は一人もいない。スープのカップもテーブルの上に置いたままで、スプーンでこれを口に運んでいる。要するに欧米流マナーなのである。この中で箸を使い、カップを持ち上げて口に近づける我々日本人四人は異彩を放っていたようだ。物珍しそうに“中国流マナー”を見守っているかと思うと、恐る恐るこれに追随する者も現れた。何の事はない、我々は中華料理初心者の米国人の手本役を務めていたのである。料理その物が特に美味しいものでなかったのも初心者コースだったのだからやむをえないところであった。

 

心残して

 

物足りない思いでバスに戻ると、先刻のバスの運転手が待機していて、さて今度こそ“本物の”サンフランシスコへ。ベイブリッジを渡ってトレジャーアイランドからサンフランシスコの夜景を楽しもうという算段である。しかし、妙なところへ“本場の”霧のお出ましである。僅かに海岸周辺の明かりが見えるだけだから百万ドルの夜景は心眼で見るしかない。ネオンで彩り豊かな香港に比べてここの夜景は貴婦人の面影を示す上品さが称えられているのだが霧とあっては見る影もない。まさに霧に消えた夜の夢であった。バス運転手の余り上品には思えない歌だが、歌詞が妙に心にうずく。♪♪♪ I left my heart in San Francisco …♪♪♪

 

ちょっぴり反省

 

どうやら夜景の方は、天候を確かめた上で、夜景ツアーを利用するかタクシーで出かけた方が良さそうである。3年前にサンフランシスコを訪れた時に利用したナイトツアーは良かった。ツウィン・ピークスから賑やかな街の夜景を見下ろした後にケーブル・カー搭乗経験をさせてくれた上に、トレジャーアイランドからじっくりと貴婦人の姿を堪能させてくれた。食事は食事で、やはりフィッシャーマンズワーフで“本場の”シーフードを楽しめば良かった。仲間に提案はしていたのだが、漁師町でもある小田原に育った面々には「フィッシャーマンズワーフ」がアピールしなかったようだ。また、同じチャイナタウンに行くにしても、お仕着せコースは避けて“本場の食味”を追求したかったところである。

 

(2001/7/27)

西 海 岸 を 行 く

サンフランシスコからモントレイへ

 

懐かしのサンフランシスコ・シールズ

 

僕たちのドライブ旅行も、文字通り山場を越えて、西海岸シリーズを残すばかりとなった。そしてその振り出しはサンフランシスコ市内観光だ。宿のChelsea Motor Innからほど近いスナックでそそくさと朝食をすませた後、先ずはバスに乗ってケーブルカー乗り場へ行く。やはり、サンフランシスコと言えば、何と言っても♪♪♪where little cable cars climb halfway to the stars♪♪♪で、ケーブルカー搭乗は必須科目だ。それでもってユニオン・スクエア(Union Square)まで行って、今度はタクシーに乗ってのフィッシャーマンズ・ワーフ(Fisherman’s Wharf)行きという定番コースである。そこでピア39(Pier 39)に住みついている アザラシ(Seal)たちのユーモラスな仕草を眺めて暫し時を過ごした。僕たちが小さい頃に「サンフランシスコ・シールズ」というチームがやって来て、日本のプロ野球球団と試合をしていたのを懐かしく想い出す。昔から、サンフランシスコはアザラシの“フランチャイズ”だったのだろう。ところで、縦看板によると、数列並んで浮かんでいる筏の上で、這ったり寝たり奇妙な声で吼えていたりするアザラシ達は何故かみんなオスばかりだそうである。「さすがシスコはホモの街だ」と、変なところで中澤がガクのあるところを見せる。

 

駆け足の架け橋観光

 

さて、フィッシャーマンズ・ワーフと言えばシーフード。エビとカニでビールをグイッ…といきたいところだが、真昼間からそうはいかない。それに、今日の道中は先が長い。そこで、レストランの外に立ち並んだ屋台でめいめいオーダーして立ち食いランチという仕儀となった。結構出し物が揃っていて結構値段が安い上に結構味も良い。特に、クラム・チャウダーは、なかなかの美味であった。しかし、やはり、「ビールをグイッ」ができないのはやはり寂しい…と思いきや、すぐにはドライバー/ナビゲーター役の予定のない山本と中澤は、しっかりと缶を握ってうまそうに傾けていた。この飲み物の恨み晴らさないでか今夜にも、と生唾だけ飲んで耐える。昼食後タクシーでインに戻って、ドライブ旅行を再開して、先ずは金門橋(Golden Gate Bridge)に向う。ここも定番コースだけあって観光客が一杯で駐車場に車1台停めるスペースもない。やむなく、運転を交代しながら駐車場内を巡回している間に順繰りにビューポイントまで駆け足で行って、金門橋と眼下のサンフランシスコ湾の景観をめいめいに楽しんだ。さらにその後、橋を渡って対岸へ行き、すぐに来た道を取って返して、文字通り駆け足の架け橋・金門橋とサンフランシスコ市内観光を終えた。

 

面目丸つぶれ

 

R1を南下して行くと、山は緑で、山容も穏やかになってくる。通りかかったハ―フ・ムーン湖(Half Moon Lake)も「カリフォルニアの青い空」に映えて紺碧の湖面を見せる。やがて行くと田園地帯に入り、野菜畑があるかと思うと、風景が一面のイチゴ畑に変わる。このあたりが正真正銘の「気候温暖なカリフォルニア」なのであろう。イチゴも正真正銘の露地栽培である。松葉菊も咲いていて、なんとなく日本の田園風景と似ているが、違うのは灌漑方式で、ここでもスプリンクラーが使われている。週末のためか渋滞があったが、ようやく西海岸シリーズ第一目的地モントレイ(Monterey)に到着。ここは、以前に訪れて海の美しさに魅せられた僕が推奨して旅程に組み入れたところである。さて、みんなにあのサファイア・ブルーの海を見せてあげられる…と思った矢先、山本が第一声を放った。「わっ、きたねえ!」。見ると確かに、真っ先に立ち寄ったヨット・ハーバーの近くの海面にはゴミが集まっている。なおもよく見ると、それはゴミではなくて海藻が海面一杯に広がっていたのだが、いずれにしても、いつの間にかどんよりとしまっていた空のせいもあって、「あのサファイア・ブルー」どころではないことは確かである。推奨者の面目丸つぶれの一幕であった。明日はきっと「カリフォルニアの青い空」が「これぞモントレイの海」を演出してくるだろうと失地回復を明日に託す。

 

シーフードでリカバリー

 

リカー・ショップでアルコールを調達しながら、親父さんに「地元の人がよく行くシーフード・レストランはどこ?」と尋ねてみたところ、3店ほど名前と所在地を教えてくれた。話の様子からして、一番良さそうなMonterey’s Fish House を選ぶ。その店は僕たちの今夜の宿Monterey Bay Lodge から車で10分ほどのところにあるはずであり、教えられた場所にそれらしき建物は確かにあった。しかし、そこには店の名前や「シーフード」を表す看板もない。入口の木のドアも閉ざされたままであり店の内部を窺い知ることもできない。僅かに入口のところに「カプチーノ」とか書かれた小さな看板があったので、「ああ、ここはコーヒー・ショップだったのかいな」と思いながら、念の為恐る恐るドアを開けてみると、そこは紛れもなく教えられた通りのシーフード・レストランであるということがすぐに分かった。結構繁盛しており、所狭しと並べられたテーブルはほぼ満席で、めいめい連れ立った客達が談笑しながらシーフード料理に舌鼓を打っている。僕たちも一席を占めてめいめいにオーダーしたが、それぞれモントレイの海の幸にご満悦の様子であった。僕がとったブイヤベースもお世辞抜きでうまかった。やはり、このような、観光客には一見して気が付かないが地元民が行きつけという店は期待を裏切ることがない。この店はメキシカン風の兄弟が経営しているが、母親が日本人だそうで、僕たちを日本人と見定めて人なつこく話しかけてきて、母親の写真を嬉しそうに見せてくれた。更に、日本人向きのお薦め料理をいくつか親切に説明してくれたので、僕たちはベスト・チョイスをすることができた。つい最前“シー風土”では一同を失望させてしまったがシーフードでリカバリー成功といったところであった。

(2001/7/28)

 

 

モントレイからサンタ・バーバラへ

 

第2号落下さん

 

ネット際にボールを落とされた。ダッシュしてボールに追いつき、ラケットを伸ばしてスライディング・キャッチ。しかも返球が見事なスーパーショットになってポイントを奪った。もんどりうって腰は打ったが、痛みを感ずるどころか、ラケットを持つ手も伸ばしたまま、しばし自らのファインプレーの余韻に浸っていた。しかし、現実に気付かされるのにそれほどの時間はかからなかった。テニスの夢を見ながら、ベッドから床に転落していたのであった。後刻聞くところによると、「ドスン」という大きな音がしたので他の三人ともとっくに目が覚め「佐々木のやつ、やりおったな」と同情していたそうである。何しろ、80kg級の物体が50-60cmの高さから落下したのだから、そりゃそうだろう。それなのに、ようやく現実に気付いて「落ちた」という寝ぼけたセリフを発したものだから、みんな同情から転じて必死に笑いを噛み殺していたそうである。中澤がラス・ベガスのホテルで“落下”した時には、「ベッドから落ちる前に気が付きそうなものを」と内心呆れていたのに、我が身が第2号落下さんになってしまった。しかし、夢とは面白いものである。ベッドから落下という現実が始まってから瞬間的に夢ができたのか、それとも夢をみてから落下という現実が始まったのか。落下事故は、元はといえば、2ベッドを4人で共用という僕たちの「清貧」予算が原因であるが、これもEnjoy troublesのうちである。お陰で、「夢と現実のはざま」というテツガク的なコーサツまですることができた。

 

海岸と林間と

 

今日も「カリフォルニアの青い空」は姿を見せてくれず、僕たちのスタートは霧の中。だから「あのサファイアブルー」も五里霧中。しかし、モントレイ海岸ドライブでは、磯辺の岩の上あちこちにアシカが姿を見せ、「西海岸の野生の詩」序節で僕たちの機嫌を取り結んでくれた。もっとゆっくりここで時を過ごせば、前回訪れた時と同じように、野生のラッコが湾内に上向きに浮かんで音を立てながら貝を割る姿も見えるはずである。日本を出掛けに長女の愛子が勧めてくれたように、パシフィックグローブ(Pacific Globe)なるところへ行けば、海辺にピンクの絨毯のように咲き乱れるアイスプラント(Ice Plant)を愛でることができるかもしれない。しかし、「あのサファイアブルー」を三人に見せてあげることができず前科一犯となってしまった僕はひたすら恭順の意を示すことにした(それにご三方とも野生の動物や植物にはあまり興味がなさそうでもあるし)。そこで、流れのままに17マイルドライブウェイ(17-Mile Drive)の林間ドライブへ。このあたりの並木にはイトスギ(cypress)が多いんだなと窓外の景色を楽しんでいると、やがて車はペブル・ビーチ(Pebble Beach)ゴルフ場にさしかかる。せっかく来たのだから名門コースならでは雰囲気だけでもということになり、クラブハウスに付帯したギフト・ショップに立ち寄る。ここには、車腹にヘバラギ観光(Hebaragi Sightseeing)と大書した観光バスも立ち寄っていた。「ヘバラギ」はハングルで「ヒマワリ」を意味する。太陽の国カリフォルニア州にふさわしいヒマワリ(州花はポピーだが)を冠した韓国系の観光会社のバスなのだろう。このように、ドライブ旅行のあちこちで団体旅行をしているコーリアン達を見ていると、一昔前の日本人の姿が重なって見える。東芝同期で韓国在勤経験もある藤澤完治兄が「韓国は、オリンピック開催時期(東京/ソウル)の時間差をもって確実に日本の後を追ってきている」と言っていたが、いまやその時間差はますます短縮しているような気がする。

 

サファイアブルーと象アザラシ

 

次いでカーメル(Carmel)の街に入る。ここは、交通信号や街路灯が一切ないことで知られているが、並木道にはおしゃれでシックな店舗が並び、上品な佇まいをしている。前回モントレイを訪れた時に案内してくださった現地在のデーナ・ヒデコ夫妻に勧められて買って好評であったコーチ(Coach)の店に三人を案内して一緒にハンドバッグのお土産買いをする。レストランもそうだが、ギフト・ショッピングも地元民の推薦を得ると期待が裏切られることがない。さて、お土産の買い足しができたところで僕たちは南下のドライブに戻る。道は山道に差しかかり、右手は崖ですぐ下が海だというのにガードレールの一つもない。「運転者責任」の考え方が徹底しているのだろうが、運転者過保護に慣らされた僕たちにしてみれば恐い気がする。そんな山道を走っているうちにルチア(Lucia)に1軒だけぽつんとレストランがあったので選択の余地なくここに飛び込む。海側の崖の上に建てられているので、ベランダの屋外テーブルに座を占めて太平洋を一望しながらのランチタイムとなる。天気もいつの間にか回復してきているので青みを取り戻した海原の景観が何よりのご馳走だ。昼食を終えて走り始め海岸沿いの道路に降る頃には、「カリフォルニアの青い空」が戻り待望の「あのサファイアブルー」が随所に見られるようになった。たくさんの車が停まっている場所で、僕たちも訳もなく駐車した場所ピエドラ・ブランカス(Piedra Brancos)もサファイアブルーで海が奇麗。人々が眺める先に目をやると、なんとサファイアブルーの手前の砂浜には象アザラシ(Elephant Seal)の群れがいた。実は今朝ほどベッドから落下した80kg級の物体は「象アザラシ」と揶揄されることがあるので、鈍重にうごめくやつらの姿を見ると自己嫌悪に近いものを感ずるのだが、ここではサファイアブルーに馴染んで、いかにも「西海岸の野生の詩」の一断片になりきっているように見えるから不思議である。

 

冷水に身も心も縮んで

 

今日の泊りはサンタ・バーバラ(Santa Barbara)Blue Sands Motel。夕食は引き続きシーフードと行きたかったが、「恭順の意」を通し続け、みんなについて、ミッションストリート(Mission Street)にある寿司バーKaiに行く。案の定、寿司は寿司だが、アメリカ人流にアレンジされており、ボリュームだけは大層なものだが、ナマの魅力に欠ける。日本から来ているご主人によると、このあたりの海は真夏だというのに井戸水のように冷たくて、身が縮まりそうで長くは入っていられないそうだ。「トップレスのアメリカ娘たちと海水浴したい」などと言っていたくせに、明日の午前中に予定していた海水浴の計画の方も段々と身が縮まってきて、旅行計画時に断固却下したはずのディズニーランド行きのプランが頭をもたげてきて、ついに「半日海水浴で半日ディズニーランド」の線に行き着いた。僕は勿論「操を守って」半日は明日の宿泊地のサンタ・モニカ(Santa Monica)に居残る旨主張しみんなの納得を得た。しかし、更にカウンターバーの隣席に居合わせた僕よりもずっと象アザラシ体形で僕よりずっと陽気なアメリカ人と話が弾むに及んで「ディズニー」のウェイトが大きくなった。本場象アザラシ氏が同伴してきていた奥さんと二人の男の子から「ディズニーランドランドに行くなら道路が混むから朝早くスタートしなければならない」と聞き込んだからだ。とうとう「サンタ・モニカ早朝7:00発、深夜22:30帰着」という“法外な”話になって僕は慌てた。半日なら何とか過ごせるが、機動力もないまま一人で丸一日過ごせとは、あまりに酷じゃありませんかお代官様。昼食だけならともかく夜食まで一人でシンネリムッツリと食べろと仰るんですかい。しかし、そんな僕に「地獄に仏」が現れた。急な連絡の失礼も省みず電話をしたロングビーチ在住の長野慧さんと夜10時半になってようやくコンタクトが取れたのだ。月曜日であるにも拘らず、都合をつけて明日行動をともにしてくれるというのである。何たるホスピタリティー!お陰でベッド落下後遺症もなく安眠の床につくことができた。

(2001/7/29)

 

西

ロングビーチにて

 

残存兵の悲哀

 

いよいよ僕たちの3週間にわたる「還暦記念カナダ・ドライブ縦断ドライブ旅行」もフィナーレを迎える。早朝サンタ・バーバラを発って、霧雨の中、最終宿泊地サンタ・モニカ(Santa Monica)に向う。小田原育ちの僕たちは、ごく当たり前のように「海岸=海水浴」の恒等式をもっており、更にこの度は年甲斐も無く、これを「西海岸=海水浴+トップレス米国娘」という“荒唐式”にまで拡張していたのである。しかし、僕たちの妄想はここ西海岸を流れる親潮に文字通り冷水を浴びせられ、まさに「年寄りに冷や水」の図式となってしまった。とは言いながらも、急遽予定変更して実現することになったディズニー・ランド行きにご三方とも満更でもなさそうである。もともと水口には昨年亡くなった紀久子夫人とのフロリダのディズニー・ランド行きの想い出を回想したいという意向があったし、中澤もディズニー行きを希望していて山本も反対はしていなかったのだ。僕一人が、今回の旅行の趣旨「大自然にビックリ」を振りかざして、ディズニー提案を却下したのだが、考えてみれば僕たちは、ラスベガスでのショウ観劇を初めとして、もういい加減「不自然にビックリ」を繰り返してきてしまっている。「毒食わば皿まで」の思いもあったのかもしれない。サンタ・モニカの最後の宿Pico Boulvard Travelodgeに到着して早朝チェックインとフリーの朝食サービス利用という特典を得るやいなや、僕一人を残していそいそとディズニーに向けて出立してしまった。そこで残存兵の悲哀を感じながら、昨日アポイントのとれた長野慧さんがピックアップに来てくれるまでの間、サンタ・モニカの街を散策することにした。しかし、車の無い悲しさ、海岸はさほど遠くはなさそうなのだが、歩いて行ける距離では無さそうだ。天気も回復して陽射しも暑くなってきた。近場のレストランやショップの概観を眺めながら歩いていると汗が噴き出てくる。そこで、「99セント・ストア」に入って暑さを凌ぐ。日本の100円ショップのようなものだろうが、日常必需品が売られているところが違う。カップラーメンも含めた食品やシャツやソックスなどの衣料品が並んでおり、あまり上等な身なりとは言えない人々が買い物をしている。「西海岸の庶民の生活」を垣間見たような気がした。

 

九州男児アメリカ人との再会

 

長野慧さんは、東芝で僕より1年後輩だが、東芝退社の面では僕より大分先輩で、アメリカに移住してからかねて久しい。もともとは東芝日吉独身寮の頃の遊び仲間だったのだが、渡米後もお付き合い頂いて、僕自身がロング・ビーチの長野邸にお伺いしたことがあるばかりでなく、我が家の長女・愛子と次女・知子がコンビでカナダ・アメリカ旅行した際にも泊めてもらっている。3年前に僕たち夫婦で西海岸旅行をして、ロス・アンゼルス中心部のホテルから突然電話した時にも、みどり夫人ともどもロング・ビーチから駆けつけてくれて歓待してくれた。今回もまた全く突然のコンタクトにもかかわらず、喜んで“残存兵救出”に出向いてくれるという。まさに「地獄に仏」で、仏様に対するような有り難さを感じながら3年ぶり再会の時を待つ。フロントから長野さん到来の報が入ったのは、街角散策から戻って帰国に備えて荷物や土産品の整理を終えてから程なくしてのことであった。相変わらずスリムで日に焼けていて陽気な「九州男児アメリカ人」は心からの歓迎の意を表してくれ、早速ロングビーチ長野邸に招待してくれた。10年以上前に訪れたロングビーチも美しかったが、今日は「カリフォルニアの青い空」のもとで一際クリーンで美しく見える。以前に比べると、商業施設がずいぶん増えたようだが、それでいて緑の多さが保たれている。久方ぶりにお伺いした長野邸も模様替えされて昔よりずっと奇麗になったように見え、これも更に若返ったように見えるみどり夫人が招じ入れてくれた。中庭にはブドウ棚があって、淡い緑の熟した房が垂れ下っている。「少しはmocking bird 達も残しておかないとね」と言いながら、長野さんは無造作に2,3房切り取ってテーブルの上に載せてくれる。まさに、獲れたて。こんな新鮮なブドウを賞味できたのも生まれて初めてだ。いいなあ、西海岸。なお、長野さんは「mocking bird とはモズのことだ」と言っていたが、もともと細かいことには拘らない「九州男児アメリカ人」の言うことだから真偽の程は定かではない。

 

西海岸シーフード・オン・パレードでフィナーレ

 

しばし静かな一時を散策した後に長野夫妻が僕を招待してくれたのは日系シーフード・レストランTodaiであった。開店時刻を待ちかねて人が入り口に屯しているところを見ると相当に評判のいい店なんだろう。”All You Can Eat”、つまり、食べ放題なんだそうである。「佐々木さんのお好みはとっくに分かっていますもんね」と長野さん。実際、三つに仕切られたコーナーには豊富な魚介類の品揃えがされていて、それこそ選り取り見とりで大好物のシーフードの食べ三昧。因みに三つのコーナーの出し物は次のように表記されていた。

1.     寿司(Sushi)

イカ(Cuttlefish)、タイ(Seabream)、ウニ(Sea Urchin)、サケ(Sermon)

サバ(Mackerel)、ホッキ(Shell / Hokki)、イクラ類(Fish egg)

2.     シーフード・アペタイザー(Seafood Appetizer)

      タコ(Octopus)、ロブスター(Lobster)、エビ(Shrimp)

   貝類(Seashells)、カニの足(Crab legs) 

3.     揚物類(Fried Items)

       ソフト・クラブ(Soft Crab)、貝類(Seashells)

僕のようなフィッシュ・イーター(fish eater)には魚介類の新鮮さが良く分かる。エビ・カニ類もさることながら、寿司はサンタ・バーバラで食べたあのAmericanized Sushiではなくて、ネタは江戸前寿司も真っ青の生きの良さ。サバなどは、いかにもサファイア・ブルーの海育ちといった感じで生き生きしている。いやー、西海岸は素晴らしい。やはり、ディズニー・ランドにいかなくて良かった。お陰で「西海岸シーフード・オン・パレード」を堪能して旅のフィナーレを飾ることができた。Thank you, Satoshi & Midori Nagano!

(2001/7/30)

 

ビックリの大都会で終章

ロサンゼルス・ビーチ巡り

 

長そうで短かった僕たちの3週間の旅も今日が最終日。12時50分UA897便ロサンゼルス空港発までの時間の許す限り、海岸線を走って精一杯アメリカを見納めることにした。何しろここには世界に誇るビーチ群があるのだ。先ずは“地元”のサンタ・モニカ・ビーチに出て、ここからパシフィック・コースト・ハイウェイをマリブ(Malibu)へ向かう。更に、R1を経由して空港に途中には、イタリアのベニスを意識して街造りされたベニス・ビーチ(Venice Beach)、マリン・レジャーのリゾートとして有名になったマリナ・デル・レイ(Marina Del Rey)のビーチ、続いてビーチ・バレーのメッカとして知られるマンハッタン・ビーチ(Manhattan Beach)があり、砂浜のあちこちにビーチ・バレー用コートのネットが張られている。昨日訪れた長野さんの家があるロング・ビーチ(Long Beach)はここからもう少し南に下ったところにあり、文字通り長くて美しい白浜が続いている。更に、メキシコ国境に近いサンディエゴまで大小さまざまなビーチは続いているが、今回はそこまで足を伸ばすことができない。ロサンゼルスは、ニューヨークに次ぐアメリカ第二のビジネス都市だけあって、片道5―6車線のハイウェイを走る車の数が多く、しかもスピードを競い合っているようで、ただ乗っているだけでもビックリで怖い感じがするくらいである。しかし、そんな生き馬の目を抜くような大都会から、ニューヨーカーがセントラル・パークに行くのとあまり変わらないような軽い感覚で郊外のビーチ・リゾートに行くことができるのだ。僕たちの走行距離8,900kmに及ぶドライブ旅行は、ビックリの大自然に始まり癒しの自然に囲まれたビックリの大都会で終った。

(2001/7/31)

 

還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行

随想

 

 

 

高速にして無料 

 

中澤がハンドルを握りながら呟いた。「日本の道路の半分の時間で行けちゃって金もかからないんだから敵わねえな。」私にはこれが、割高な自動車輸送コストに悩まされている日本企業の嘆き節のようにも聞こえた。道路事情の良いアメリカでは、高速道路でなくたって、日本では制限時速50km/Hに相当するような道路を100km/H超のスピードで走って行ける。その上に、道路通行料がかからない。現に、我々はカナダ・アメリカを9,000km近く走行したのだが、この間に払った道路通行料はゼロである。因みに私が住んでいる福島県いわき市から本拠の神奈川県藤沢市辻堂までは、約280kmであるが片道ドライブに要する道路通行料は、常磐自動車道、首都高速道路、横浜新道と、しめて7,550円にのぼる。その上に、ガソリン代が、アメリカの2倍かかると来るから、定年退職した清貧生活者としてはどうしても長距離ドライブに二の足を踏んでしまいがちになってしまう。低燃費でかつ定年費であると良いのだが。少なくとも道路通行料に関しては「デフレデフレと言ってるけどほんとなの?」と言いたくなってしまう。より高度の顧客満足度を得るためにQCD(Quality/Cost/Delivery)を競う企業にとっても、自動車輸送事情は企業実績に多大な影響を及ぼす。特に、製品・サービスのクオリティの要素として「新鮮さ」が重要視されるようになった昨今、配送時間の短縮が市場競争力確保のためのKFS(Key Factors for Success) となっている業界が多くなっているはずである。しかし、高速道路を使ってDを改善してQを高めようとしても、Cが馬鹿高になってしまうから、結局QCDも顧客満足度も高めることもできず、結果として企業実績も改善することができなくなってしまう。一方、東京一極集中現象を無くそうとして、一大消費地である首都圏から離れた地域に生産拠点を分散させようとしても、道路交通コストがかくも高ければ、自ずから限界が生じてしまう。まして世の中はボーダーレス化の時代である。低自動車輸送コストのアドバンテージに恵まれた外国企業の製品・サービスのQCDに日本の企業は太刀打ちできなくなってしまう。

 

ネットワーク観の違い

 

カナダ・アメリカをドライブしながら考えた。どうして日本の道路通行料は高いのか?第一に考えられるのは、誰しも想起する道路敷設に要する土地代の高さだろう。実際、我々は「只でも入手したくない」ような、使用価値の無い荒野の中や山間地帯を走ってきた。しかし、逆に考えてみると、そんな物流ニーズの低い土地にさえ、しっかりと道路が敷設されているということである。特定の地域を陸の孤島とすることなく、道路ネットワークで結ぶことによって活性化させようとする長期的で腰の据わった道路行政が背後に見て取れるような思いがした。昨今のIT革新も、PCをネットワーク化することにより、PCがPersonal Computer からPersonal Communicatorに変った時点に端を発している。ネットワーク観の日米間格差が、IT格差とともに道路事情格差に影響を及ぼしているのではないだろうか。道路網というが、日本の道路は本当に「網」になっているのだろうか。PC同士がfrom any to any でつながらなければ真の通信「網」と言えないのと同様に、日本中の地点同士を縦横無尽に結ぶものでなければ真の道路網とは言えない。また、インターネットの普及によりネットワーク利用料が格安になったのと同様に、物理的な接続だけでなく経済的な接続ができなければ道路はネットワークとして機能しない。実際、僕たちはイェローストーン国立公園の駐車場で、全米各地のネームプレートを目撃した。日本の観光地でもずいぶん遠隔地のネームプレートを見かけるようになったが、高速道路料金の高さを考えると、まだまだ“貴族専用”ネットワークにしかなっておらず経済的接続とは程遠い。

 

トンネルの有無

 

ドライブの途中で、トンネルの数がやけに少ないのに気がついた。恐らく、我々の車がくぐり抜けたトンネルは合わせて四つか五つ。それも、国立公園内の支線であって、幹線道路のトンネルに出会った記憶が無い。ロッキー山中を始めとして、日本の山を遥かに凌ぐ高さの山間を走る幹線道路にもトンネルが無いというのはどうしたことなのだろう。幹線道路と、列車の線路と、山岳地方にしては川幅もあって流れも緩やかな河の三者が並行している光景を散見したことからも分るように、かなり急峻な山岳地方でも、その麓には幅の広い平地があるためであると考えられる。要するに、箱庭状で山間または山海間の“糊しろ”が乏しい日本に比べて、北米大陸は国土のつくりからしてゆとりがあり、トンネルを作らずに済んでしまうのではないだろうか。日本でも勿論トンネルの無い道路区間はある。国道6号線の福島県いわき市から茨城県常陸太田までは平坦な海沿いの道路であり、この間には一つもトンネルが無い。しかし、“糊しろ”が乏しい悲しさで、住宅地を通るこの道路の道幅を広げるのには莫大な道路用地買収コストがかかってしまう。また、住民の交通安全を守るためには、交通信号は必須であり、この道で自動車交通の高速化を実現する手立ては無い。そこで、内陸の山に無理やり穴を開けて貫通させてつくったのが常盤自動車道なのであろう。同じ、いわき/常陸太田間に実に14ものトンネルがある。トンネルの建設コストの要否も道路使用料の多寡に大きく響く要因となっていそうである。

 

運転者責任と運転者過保護

 

日本の道路には、高速道路に限らず、道路標識がやたらと多い。どんな山中に行っても律儀に道路標識は見られるし、何の目的でつけられたのか俄かには分りかねる標識も多いようだ。北米大陸の道路標識密度の低さに比べると段違いであり、これによって日本の道路標識業者の懐はかなり豊かになっているに違いない。ガードレールについても然りであり、北米大陸自動車道路のガードレール敷設率は日本に比べて、かなり低いものと思われる。西海岸沿いの切り立った山の山腹を走る道路にさえガードレールが無いのには驚いた。どうやら北米大陸の道路行政のコンセプトとしては、道路情報にせよ道路安全にせよ、かなりの部分を運転者責任に委ねており、道路管理当局としては必要最小限のサービス提供で留めているのであろう。これに比べると、日本の道路は運転者に対して過保護であり、過保護が過剰な道路コストの一因をなしているものとも思われる。

 

道路行政のあり方

 

しかし、自動車輸送コストにおける日米間格差の最大の原因は、道路行政のあり方、なかでも高速道路の運営主体の違いにあると思われる。アメリカでは道路建設コストは税金で賄われているという。従って、「低自動車輸送コスト→米国企業の国際競争力向上→米国企業の収益増による事業税増収→道路インフラ投資財源増大」といったスケールの大きな経済循環サイクルが実現できる。一方、日本では、道路公団なる中途半端な存在があって、高速道路の建設運営も営利事業とみなされ投資額回収のために高い道路通行料が設定される。おまけに、中央官庁界からの天下り幹部に対して支払われる過分な報奨や退職金も、道路公団の経営コストに含まれることになり、挙句の果てには運転者及び赤字補填財源となる税金の納入者である国民にツケが回されるのだからたまったものではない。日本では自動車を奢侈品と考えていた頃の名残が色濃く残っていて、道路及び自動車が経済の拡大再生産に果たす役割が軽視されているようだ。奢侈品は一旦購入されると経済循環過程から退き拡大再生産には寄与しなくなる。高速道路の料金ゲートなどは流通を妨げるだけであり経済の循環や拡大再生産には何の寄与もしない奢侈品そのもののように見える。

 

民営化路線に対する疑問

 

かといって、小泉サンが唱えている道路公団民営化によって問題が解決するとも決して思えない。道路投資回収期間の短縮化によって経済循環サイクルが一層小さくなるだけのことであろう。採算が過度に重視されることになり、交通頻度が高くて渋滞常習犯になる高速道路しか建設されなくなるということにさえなりかねない。民営化によって経済循環過程が改善されるのは、保有する経営資源が複数企業に分割されて、企業間に競争原理が導入される場合のみである。国鉄が民営化されてJRに名前は変ったものの、これによってサービスのQCDのレベルがどの程度向上したのか振り返ってみれば自明である。そもそも、高速道路の建設と運営が民間の営利事業として成立している国があるのだろうか。アメリカでは、Amtrakなどの例外はあるが、長距離顧客輸送は飛行機または自動車に依存しており、鉄道は貨物輸送に特化してきている。日本では、新幹線を初めとする鉄道に長距離顧客輸送の大半を委ねており、道路と飛行機と競合しながら、いずれも赤字問題に悩んでいる。道路は道路族、鉄道は旧国鉄族、飛行機は航空族とセンセイ達が相互の脈略もなく我利を主張しあっていて、本当に「三つ子の赤字」は解消されるのであろうか。「国土交通省」の名にふさわしく、国土のネットワーク化を原点とした道路、鉄道、航空の最適ミックスによる全体ベストを追求しなければ小泉サンのカイカクの道は開けてこないのではないだろうか。カナダ・アメリカの道を走りながら日本の道に思いを寄せた。

 

還暦記念カナダ・アメリカ西部ドライブ旅行

日々の記録

(原稿)記録係・山本哲照/(補筆・監修)隊長・水口幸治/(編集)佐々木洋

 

710日(火)

 

成田発シアトル経由で…

 

成田空港で手荷物検査のとき山本が財布を落とした。本人は全く気付かずに相当歩いたとき背後から空港係員が何か叫びながら走ってくるので振り向いたら自分の財布だったので初めて落としたことを知る。成田18時発UA876便に乗る。座席は真中5席の内の4(C-F)。機内食はチキン・ライス・稲荷鮨。機内で佐々木がサングラスを落とすも自分のものかどうかの確認に時間がかかる。シアトル時間10日午前1035分タコマ空港に到着。わかりにくい地下鉄シャトルを乗り継いでバンクーバー行きの待合所へ。1355分発UA6971便は35人乗りのプロペラ機で乗客は全部で14人。飛び立ってすぐ右手はカナディアン・ロッキーが雪に輝いている。ただ一人通路側の席だった佐々木がたまらず空いている窓側に移ってくる。

 

出発点・バンクーバー到着

 

バンクーバー(Vancouver)着は1445分。予約しておいたミニバンを借りるため空港内のハーツ・レンタカー営業所へ。日本での予約表を見せて、レンタル料金に組込まれた強制保険に追加して、対物/対人/自車/盗難の任意保険をフルに掛ける。JAF経由で手に入れたAAA会員の特典20%割引が付けられていることを確認する。このAAAのメンバー特典は、その後のホテル、モーテルでも10%割引を受けられて大いに助かった。営業所内のカウンターで模型を使って色々カーナビの説明を受け、車のところへ案内された。車はFordWindstarだが肝心のカーナビが付いていない。間違いなくカーナビ付きの車を予約したはずだがこの営業所にはカーナビ付きはないらしい。通りが碁盤の目の様に分かりやすいカナダでは、カーナビ付きのレンタカーは一般的ではないと友人から聞いてはいたが、キャシュカードでデポジットした後でカーナビがないというこの手続きの悪さは?と思ったが、引き落としはナビ無しにするからとの掛りの太鼓判で、結局カーナビはあきらめそのフォード車で行くこととする。走行メーターは20,150kmを指していた。

 

クラブとロブスターとワインで壮途を祝う

 

そんなこんなで時間がかかり出発したのは16時半。市内の渋滞もあり、今夜の宿泊先のNorth VancouverにあるEuropean Bed and Breakfastに着いたのは18時半。マリアンヌおばさんの歓迎を受ける。ご主人は釣りに出かけていて留守とのこと。夜間8時から、ライオンズ・ゲイト・ブリッジが工事で閉鎖されるので、中華街行きすると帰りは大回りで戻って来なければならないとの話である。そこで、夕食はマリアンヌおばさんお薦めの北地区にある「中南海飯店」に行くことにした。大きなクラブとロブスターにかぶりつき、ワインを3本あける。行き帰りともタクシーを使う。

 

7月11日(水)      出発時のメーター表示:20,200km

 

いきなりの長丁場へいざ出立

 

昨夜のうちに次の宿泊地ジャスパー(Jasper)までどの位の時間掛かるか聞いたところ、予定していた11時間を越えるような話だったので、ジャスパー到着予定が18時過ぎにならないように、出発予定を2時間早めて5時に起床。マリアンヌおばさんが用意しておいてくれたマフィンを食べてすぐに出るはずだったが、佐々木・水口の泊った部屋のキーが見つからない。二人ともトランクを引っ掻き回して探したがとうとう出てこない。今日の行程はジャスパーまでの850kmと今回の旅で一番の長丁場、グズグズしてはいられない。後でよく探して見つかったら電話してから送ることにして625分出発。

 

雪山の美しさに初のビックリ

 

ドライバー(以後Dと表記)は水口、ナビゲーター(同N)は佐々木。高速に入りやすいようにと、宿をルート(以後R)1の出発点の北バンクーバーに取ってあったので、高速の入り口でちょっと迷ったがその後は順調、平均120-140kmのスピードで走り続け、8時半に、ホープ(Hope)の街に到着した。R5に入ってからD佐々木、N中澤に交代。10時半カムループス(Kamloops)に到着し、ガソリン補給。11時にハンバーガーとチキンヌードルスープで早い昼食をとる。1315分D水口、N山本に交代。15時道路工事のため15分停止。前方に見える雪を頂いたロブソン山(Mt. Robson)はじめ連なる山々の美しさにまず最初のビックリ。

 

ジャスパーでコヨーテに遭遇

 

山というより、大きな岩山が連なってそそり立っている感じで、日本の山の趣とは、大分違っているが、標高だけは、3,000メートル以上と富士山並の高さがある。道路の脇を河が流れている。水量も豊かで、勾配がある為か流れがやたらと速い。ジャスパー手前100km5からR16に入り、D水口。N佐々木に交替する。ロッジを探すのに若干手間取ったが、お蔭で野生のコヨーテに遭遇する。林の中で車をストップさせてUターンする時で、コヨーテとにらめっこする形になったしまった。17時半に到着。11時間850kmのロングドライブを終る。今日・明日と2泊するロッジはLobstick Lodge。フロントで予約の確認後、250号室の4人部屋に落ち着く。ダブルベッドが二つなのでもう一つエクストラベッドを追加する。夜は、ホテルでマス料理の食事。食後部屋で翌日の予定を相談。エディス・キャベル山、ウィスラー、レイク・マリンへ行くことに決定。今日の行程の途中でバンクーバーのマリアンヌに電話して、キーが見つからなかったこと、急いでいたので黙って出発したことを詫び、もう一度よく探して見つかったら送ることを連絡しておいた。

 

7月12日(木)      出発時のメーター表示:21,050km

 

軽トレッキングを楽しむ

 

7時起床。ブッフェ方式の朝食。845分出発、D水口、N佐々木。945分エディス山(Mt. Edith Cavell)の駐車場着。Edith Cavellさんは、第一時大戦の英人の従軍看護婦であり、連合軍の多くの兵士を救ったそうで、その栄誉をたたえて命名したそうだ。途中エンジェル氷河を右手に見る地点で休憩に入った。水口はしばしの休憩を希望したが、佐々木・中澤・山本はそのまま登り続ける。この辺りで対岸のキャベル山の絶壁を見ると、斜めに何層にも縞が入っている。地層の違いの為なのか、氷河が削り取って行った跡なのか分からないが、不思議な大きな縞が幾縞にも見られる。11時頃まで登ったが先がまだありそうなので3人は引き返し、駐車場へ戻る。引き返す途中でマーモットを見る。13時にそこを出て、ウィスラー(The Wislers)へ向かう。

 

ジャスパーの山上と湖上に遊ぶ

 

1345分ウィスラー駐車場着。ケーブルカーで山頂駅まで7分。眼下にジャスパーの町並み、ロブソン山、マリーン湖などを見ながら買っておいたサンドウィッチなどで昼食をとる。ウィスラーからはD中澤、N山本で1515分に出発。マリーン湖(Maligne Lake)へ向かう。1640分マリン湖に着き、17時半から18時半までバッテリー・エンジン付きのボートで遊ぶ。水の色がエメラルド色(うぐいす色)をしている。D水口、N山本で帰路につき、1915分ロッジ帰着。20時から20時半までジャスパー市内のレストランVilla Carusoで、佐々木が推奨したアルバータ牛のステーキで食事。バンクーバー近郊産のカナダワインも美味しく、明るいカナダ人のウエイトレスのサービスも良く、夕食を満喫できた。就寝は22時半。この日佐々木のトランクから紛失していたバンクーバーのEuropean Bed and Breakfastの部屋のキーが出てきた。早速電話して見つかったことを告げ、送ることにして決着。

 

7月13日(金)  出発時のメーター表示:21,160

 

滝の爆音にビックリ

 

D水口、N佐々木で8時半に、アイスフィールド.パークウエイ(Icefield Parkway)と呼ばれるR93経由でバンフ(Banff)に向けて出発。すぐにガソリン補給。95分アサバスカ滝(Athabasca Falls)に着く。この滝は、パークウエイに沿ってバンフに向かって流れているアサバスカ河にできた滝で、水量豊かで落差が100m以上ある。対岸の崖は鋭く切り取られて、幾層もの違った地層のヒダを見せて、歴史を感じさせる。爆音を伴って流れ落ちる迫力に、かなりビックリした。9時半に出て945分から10分間途中のハネムーン湖に立ち寄る。D佐々木、N中澤に交代。

 

夏なお寒しコロンビア大氷原

 

1055分コロンビア大氷原(Columbia Icefield)に着く。11時半から約1時間雪上車に乗りアサバスカ氷河(Athabasca Glacier)の上を散策。持参したウィスキーに雪解け水を入れて飲む。風強く寒い。万一のために持っていった羽毛ジャンパーが役に立った。薄着の水口が震えている。雪上車の運転手は若い男性、乗客の国を聞いてはその国の言葉で挨拶。日本語も達者だった。説明の途中でもジョークを飛ばす。動き始めてすぐに「シートベルトを締めてください」と言われたときはほとんど全員がベルトを探すしぐさをし、いくら探しても見当たらないのでやっとジョークだったと気付いて大笑い。1245分からセンターで昼食。13時半D佐々木、N中澤で出発。

 

湖ごとの美しさ

 

1425分ミステア湖(Mistaya Lake)で小休止。1450分ペイト湖(Peyto Lake)に着く。D中澤、N佐々木に交代して15時半に出発。ルイーズ湖(Lake Louise)着は1625分。邦人観光客もかなりいる。1715分出発。1732分モレイン湖(Moraine Lake)着。鉱物質を含む為か、水の色がエメラルド色をしている。途中見たアサバスカ河も同様水はエメラルド色だった。ここで米国に在住しシリコン・バレーに勤務する邦人夫婦に会う。D水口、N佐々木に交代して1820分同湖を出発、熱海ホテル大野屋経営のバンフのRundle Manorに到着したのは1915分。今夜と明日の宿Rundle Manorに荷物を置いてから、近くのスーパーSafe Wayに買い物に出かけ、今夜と明日明後日の食事を買う。買い物の帰り、旅に出てから快晴続きだった天候が急変して雨が降り出し、慌てて宿に駆け込む。20時過ぎに買ってきたウィスキーで飲み始める。21時にワインとビールを持って大野と尾崎さんが来訪。歓談後両氏は23時頃に帰ったが我々はまた飲み直し、結局ウィスキーとワイン各1本が空になった。

 

7月14日(土)   出発時のメーター表示:21,500

 

バンフ郊外の不思議なトンネル

 

D水口、N佐々木で850分スタートしてすぐにガソリンを補給して、昨日来た道を戻って、ヨーホー(Yoho)国立公園へ向かう。950分スパイラル・トンネル(Spiral Tunnels)のビューポイントに着く。5分後列車通過。峠から列車を見るのは、今回は自然を見る旅だからと予定コース外だったが、ラッキーにも兆度列車が近づいてきた。車両連結が長い貨物列車が、スパイラル状に登りながら幾つかのトンネルをくぐるのだが、先頭はトンネルを潜り抜けているのに、お尻の車両は未だトンネルに入っていない。列車が来なければ、只のジグザグした線路が所々に見えるだけだが、長い車両連結が通ると絵になる。それにしても、この大陸横断鉄道は単線なのに、貨物連結が100輌以上とやたら長い。貨物車ばかりで、客車を見る機会が極端に少ない。

 

これぞカナディアン・ロッキー

 

1035分タカカウ滝(Takakkaw Falls)に着く。落差400m近い滝の迫力にビックリ。カメラのレンズが水しぶきで濡れてしまった。1110分にそこを出て、エメラルド湖(Emerald Lake)着は1145分。水の色は名前の通りのエメラルド色だった。二人ずつに分かれてカヌーに乗る。カヌーに乗ろうとしたとき水口がビデオカメラのバッテリーを湖に落とす。バッテリーは2個持っていたが容量の大きい方を落としてしまう。係員が拾っておいてくれたが結局以後使用不可になってしまった。昼食後1325分に出発。1420分ランドル山(Mt. Rundle)、サルファ山(Mt. Sulphur)、カスケード山(Mt. Cascade)、サンダンス山脈(Sundance Range)、ハワード・ダグラス山(Mt. Howard Douglas)など3-4千メートル級の山がずらりと並ぶカナディアン・ロッキーを見渡せるビューポイントで写真をとる。山とは言っても、大きな岩山に近い。だからロッキーと言うのだろうが、山(岩)によって色が違っている。ある山(岩)はグレイだし、別の山(岩)はブラウンである。また、山(岩)にできている幾層もの縞も、切れている方向は同じだが、それぞれの縞の高さが一様ではないので山岩毎の連続性が分からない。

 

アルバータ牛のステーキに舌鼓

 

カナディアン・ロッキー並びにアメリカ西部のいわゆる北アメリカ西部は、昔海底だった処が、15千年前程前にマグマの圧力で隆起し、その後火山活動や更なる変動が繰り替えされた。特にカナディアン.ロッキーの山々の地形は、約150万年前の氷河期に、氷河の移動によって、今の厳しい地形が形造られたそうだ。我々がこれから行く北アメリカ西部の旅では、15千年前に隆起した地層の、ところによって違ったその後の変化を、行く先々で見ることになりそうだ。バンフに帰りサルファ山のロープウェイ駅に1440分着、1510分から1615分までサルファ山の山頂で眺望を楽しむ。1620分にバンフの街に着いたが、中澤が知人にベルギー産のチョコレートの買い物を頼まれた店が見つからず時間を大幅に消費してしまい、泳ぐ予定だったBanff Innのプールはあきらめることになった。1830分大野が予約してくれたBumpors (The Beef House)で尾崎さんを交えて会食。14オンスのアルバータ牛のステーキに舌鼓を打つ。日本への御土産にスーパーSafe Wayでビーフジャーキーを買って置いたのは良かったと改めて思う。2030分に店を出て大野の私邸に招かれてまた飲む。カナダ産ワイン2本とブランディーのナポレオンVSOP一本を空にしてしまった。

 

7月15日(日)   出発時のメーター表示:21,710

 

カルガリーを過ぎて道に迷う

 

825分スタート。D水口、N佐々木でR1経由でカルガリーへ向かう。出発後20分位でカナディアン・ロッキーとはお別れ。910分頃から道の両側はカナダの大平原となる。9時半頃カルガリーを通過、右手に冬季オリンピックで使用されたスキージャンプ台を見る。1015分D中澤、N佐々木に交代。1050分頃道を間違えているのではないかと車を止める。前方で乗用車から降りてサイクリングの支度をしている若い女性がこちらを見て親切に声を掛けてくれたので、地図を見せて訪ねたところやはり間違えていてそれもかなり進んできてしまったらしい。カルガリーを過ぎてR2に入るべき地点が、工事中で標識が分かり難かった為に間違えてR22に入ってしまい、そのまま走り続けて山間部のフィッシャーズ(Fishers)公園まで来てしまったようだ。間違ったまま50km程来てしまった。来た道を戻り1130分間違えた分岐点に着き、そこで佐々木から水口にNを交代し、R2経由でフォート・マクロード(Fort Mcleod)へ向かう。

 

米加国境を越える

 

1145分ガソリン補給。1310分フォート・マクロードに到着、インフォーメーション・センターに寄り情報収集、そこで教えられた中華料理店Jonny’sで昼食、ラーメンに近いチキン.スープ。ヌードルを頼む。野菜もたっぷり入っていてご機嫌。この経験に味をしめて、昼はできるだけ中華にすることに衆議一決する。人口が3千位の街には、中華料理屋はかならずありそうだし、中国語で看板を出してあるので、見つけ易い。昼食後1410分D佐々木、N中澤で出発。1435分レスブリッジ(Lethbridge)に到着。ここからR4を経由し、カナダ・アメリカの国境に着いたのは1555分。様子がわからず全員が車から出て歩き始めると、事務所から警備員が出てきて激しい調子で”in the car!”と何度も言う。モタモタしていると腰のピストルに手をかけそうな勢いに押されて皆慌てて車に戻る。事務所の中で中澤がビデオ撮影の許可を求めると腰にピストルをぶら下げた黒人の女性係員があっさり「ノー」。パスポートを提示すると中澤だけが「席に座っていろ」といわれて壁際の席に座らされる。他の3人は入国税の支払いなど手続きが順調に進んだが、中澤のみは一向にお声がかからない。さっきのビデオの一件がまずかったのかとちょっと不安になってたたずんでいると、女性係員が「そこで何をしているんだ?」という顔をしたので恐る恐る聞いてみると「手続きは全て終った」と言う。結局中澤が除かれたのは彼だけがシアトルからバンクーバーに着いた時に書かされた入国カードを持っていたからだったらしい。そのおかげで入国税もとられず一人得をしたわけで、そうとも知らず何か悪いことをしたのかとずっと待っていたことがわかってホッと一安心。

 

グレートフォールズでUSA第一泊

 

1625分国境管理事務所を出発。ここから道はアメリカ高速道路Intrastate(I-15)となった。17時D水口、N山本に交代し、1820分、グレートフォールズ(Great Falls)の今夜の宿The Great Falls Innに着く。1920分車で食事に出る。ホテルで教えられたステーキのうまい店Jaker’sへ行くと満席で30分待ちと言われバーでビールを飲みながら待つ。間もなく、30分後に席に着きステーキで乾杯。2030分店を出て市内のスーパーのATMで米ドルを引き出そうとしたができずホテルに戻って車から出た時、中澤がパスポートを入れたバッグを店に置き忘れたことに気付く。水口とそのまま車で店に戻り探したが見当たらず、青くなって帰ってくる。ところがバッグは部屋においてあった。パスポートをなくすと少なくとも1週間は足止めを食らうことになるので、その場合は中澤を置いていくしかないところだった。

 

7月16日(月)    出発時のメーター表示:22,490

 

イェローストーンに入る

 

D水口、N佐々木で8時半スタート。ドルを引き出そうと銀行へ寄ったが開店前で不可。ガソリンを補給する。今日は時間の余裕があるので、街の名前の謂れとなったグレートフォールGreat Fallsを観光することにした。ミズーリ川にかかるグレートフォールを利用してできたライアン・ダムに910分から30分まで立ち寄る。途中の麦畑やビッグベルトマウンテンなどで写真を撮りながら進み、1230分D中澤、N山本に交代。1355分ボーズマン(Bozeman)の中華食堂「華城」で昼食。ガソリンを補給して、1445分に出発。道はI−15と分れR90に入る。1520分リビングストンからR89に入った所でD佐々木、N水口に交代。1615分ガーディナー(Gardiner)の今夜の宿Comfort Inn Yellowstone Northに到着。

 

ステーキに口も肥えてきた

 

米ドルをATMから引き出すのが思ったほど簡単でないので、ここで中澤・水口・山本の3人があらかじめドルを用意してきた佐々木に日本円と両替してもらう。アメリカのATMは、カードを上から、摩り下ろすタイプが多いが、これだと日本で用意してきたVISAは、マッチしないようで、お金が出て来ない。日本の銀行のATMのように、口の中に飲みこむような方式でないとダメみたいだ。次回は飲みこみ式のATMでトライすることにする。スーパーみたいな処でなく、銀行なら飲みこみ式のATMの用意があるだろう。17時近くにあるイェローストーン(Yellowstone)国立公園のマンモス・ホット・.スプリングス(Mammoth Hot Springs)見学に出発。D水口、N佐々木。ホテルには1820分に戻る。1835分ホテル前のレストランYellowstone Mineでステーキの食事。色々ステーキの種類を試みるが、スティーブリブ(?)かニューヨーク・カットが口に合いそうだ。焼き方は店によって違っているから一様に言えないが、一般的に焼きが強いので、ミディアム・レヤーが日本のミディアム位かと心得る。

 

7月17日(火)    出発時のメーター表示:23,050

 

バイソンも見た

 

D水口、N佐々木で820分スタート。途中数箇所のビューポイントで写真撮影しながら進み、1020分ガソリンを補給。1050分キャニオン・ビレッジ(Canyon Village)のインスピレーション・ポイントに着く。そこからさらにLower FallsUpper Fallsと進み、Yellowstone Lakeの湖畔の道に出る。1210分D中澤、N佐々木に交代。直後道の両側にバイソンを見る。1245分から1355分までハンバーガーなどの昼食をとる。間欠泉のオールド・フェイスフル(Old Faithful)に着いたのは15時。インフォーメーション・センターで確認したところ1543分に噴出するとのことで大勢の観客とともに待機。9分遅れの52分に噴出が始まったが期待したほど高くは上がらず、ちょっとガッカリ。なんでFaithfulという名前かと言うと噴火の時間が極めて正確であることから、Faithful(正確な)と言う名前を頂いているそうだ。にわか雨も降り出したのでD佐々木、N山本で1620分に出発、次の目的地グランド・テートン(Grand Teton)国立公園に向かう。

 

グランド・テートン入り

 

1730分ジャクソン湖(Jackson Lake)に到着。写真・ビデオなどを撮って今夜の宿モラン(Moran)Hatched Hotelに着いたのは185分。1830分から1930分までモーテルのレストランで夕食。フロントの青年が日本語に興味を持っていていろいろ聞いてくる。日本語教師佐々木の格好の出番となった。エクストラベッドを二つ追加してもらったので楽に寝ることができた。

 

7月18日()  出発時のメーター表示:23,330

 

「シェーン」の気分で湖上散歩

 

D水口、N佐々木で8時半スタート。9時ジャクソン湖に着き、モーターボートで湖上へ。水口が最近取った4級小型船舶の免許が役立った。1953年の映画「シェーン」のタイトルバックに使われた山々、グランド・テートン山(Mt. Grand Teton)やモラン山(Mt. Moran)などが湖のすぐ近くに聳え立ち、2時間の湖上散歩を十分に楽しんだ。1130分に湖を出て1210分ジャクソン・シティ着。バーボン・ウィスキーとツマミを買った店で教えてもらった中華料理店「香港」で昼食。1310分D中澤、N佐々木に交代し、ガソリンを補給してR89を出発。ジャクソン湖まではあった地図が1枚紛失していることに気付き、ガソリンスタンドでワイオミング州の地図を買う。15時にD佐々木、N山本に交代。そのままずっとR89を走り、1650分R89と分れてR34に入り、州名もアイダホ州となる。D水口、N中澤に交代。R34の途中ワヤン(Wayan)の部落で道が分らなくなったら、若い青年が車で案内してくれた。ソーダ・スプリングス(Soda Springs)のR34からR30への分れ道では、工事中の交通整理をしていた若い女性が、片言の日本語を口にした。R34は全くのローカル線で分かり難い処があったが、色々嬉しいこと(人)に遭遇できた。

 

ソルトレイクシティで“欣酒”

 

マッカモン(Mccammon)でI-15に入ってから20分くらい走ったとき右側に山火事らしきものが見えた。かなり大きな白煙が上がっていた。間もなくアイダホからユタ州に入り、I-15はR84と合流し、渋滞が始まってきた。右手にソルト・レイク湖(Salt Lake)が見えてから渋滞は一層ひどくなったが、1750分には、道幅が広くなったお蔭で車の流れが直ってきた。ソルトレイクシティ(Salt Lake City)に入ってから今夜の宿Cavanau’s Olympus Hotelを探したが、何度行き来しても当該番地にそういうホテルはない。なんとそのホテルは6月に名前が変っていたのだ。新しい名前はWest Coast Hotels。これでは見つかるわけがない。1820分、ホテル13階のレストランに行きステーキとワインで食事。モルモン教の聖都なので禁酒と脅かされていたが、ビジターの我々は、特に問題なかったので、マタマタ痛飲することになってしまった。旅の1日予算は、ホテル代と食事代とガソリン代込みで1万円/人だが、心配になってきた。

 

7月19日(木)   出発時のメーター表示:23,850

 

モルモン教の通になった

 

810分D水口、N佐々木で出発。820分テンプル・スクエア(Temple Square)着。9時から、各国からのボランティアのガイドによる説明が始まるとのことで、大寺院やライオンハウスを見ながら、日本人ガイドを待つ。Visitor Center で日本人シスターの大久保さんと市橋さんの説明を受けながら1010分まで同所を見学。モルモン教はアメリカで19世紀にモルモン氏によって始められたが、正式名はThe Church of Jesus Christ of Latter day Saintsと言うそうだ。迫害を受けて、信者を連れてこの地にやってきた指導者ブリガム・ヤング氏を称えていて、大聖堂の天辺には、氏の大きな銅像が乗っかっている。氏には27人の奥さんと57人のお子さんがいたそうだが、今は一夫一妻制が取られていること、また、信者の収入の10%は献金されるということの説明は日本人シスターからはなかったが、後で旅行案内書で知った。1015分に立派な建造物が建ち並ぶスクエアをスタートしたが、ハイウエイI-15に出るルートがわからず、ソルトレイクのエアポートに迷い込む。今まで走って抜けてきた街は、いかにも小さかったが、このソルトレイクの街は、はじめての大都市だった。空港も大きく立派だった。貰った空港地図を見ながら、やっと正しいI-15に入ったのが1050分。

 

工事中で遠回り

 

1110分ガソリン補給。1135分I-15と別れ、R6Eeast、以下E)に入りグリーン・リバー(Green River)へ向かったが、途中道路工事のためR89Eに無理やり行かされて大きく遠回りすることになる。1220分フェアビュー(Fairview)でハンバーガーの昼食。13時D中澤、N山本に交代してR89Eをそのまま進む。1415分R70Eに入り、15時D佐々木、N水口に交代。155分ビューポイントで撮影。1610分グリーン・リバーの手前でガソリン補給。地名の由来のグリーン・リバーを探して、1620分グリーン・リバー・ミュージアムに立ち寄る。ミュージアムの傍を流れる河がグリーン・リバーでやがてコロラド河と合流するのだそうだが、スケールの小さな河だったので、一寸ガッカリするが、日本人の訪問は3年ぶりとのことで品の良い受け付けの小母さんと友好親善をして分かれる。そこから、再びR70Eに戻り、アーチーズ(Arches)国立公園を目指す。

 

アーチーズの奇岩の連続にビックリ

 

1650分R191Sに入った所でD水口、N佐々木に交代。1715分アーチーズ着。砂(サンド)が固まった岩を砂岩(サンドストーン)というのだそうだ。15千年前に大きな地殻変動があって海底から隆起した後、更に25百万年前頃に隆起を繰り返したそうで、その海底から隆起した砂岩が風化して、色々なアーチを形造っている。その数2千個とも言われ、今未だ新しいアーチが生まれたり、形を変えたりしているとのことだ。奇岩の連続にビックリしてアーチーズを出たのが1950分。R191Eに戻り、モアブ(Moab)の今夜の宿Big Horn Lodge20時到着。夕食はモアブの街の中華料理店「榮四川」。

 

7月20日()    出発時のメーター表示:24,440

 

グランドキャニオン予告編

 

830分D水口、N佐々木でスタート。R191NからR313に入ってデッド・ホース・ポイント(Dead Horse Point)には930分に到着。まるで写真で見るグランドキャニオンのようだ。初めて見る光景にまたまたビックリしたが、近くの外人がグランドキャニオンは崖がもっとそそり立っていて、谷がもっと深いと説明してくれる。それではグランドキャニオンの小型版かと理解し、グランドキャニオンへの夢を一層膨らませる。デッド・ホース・ポイントの見晴台は海抜1,800メートルの位置にあり、海抜1,200メートルの処を流れるコロラド河までの高さ600メートルの間に、海底から隆起した約3億年間の地層の変化を見せてくれている。デッド.ホース.ポイントと言う地名は、昔ムスタングをこの地まで追いたててきたカウボーイが、良馬だけ連れて行き、数日後再びこの地に来てみたら、残された馬達が谷に流れるコロラド河の水を求めて谷を下り、水の一歩手前で折り重なるように亡くなっていたという故事に倣って地名が付けられたと言う。また、伝説的なフォード車の名車Mustangは野生馬という意味かと始めて知った。

 

メサ・ベルデの世界遺産を訪れる

 

1030分R313、R191Sと来た道を戻り、1150分モンティセロ(Monticelo)着。ガソリンを補給しD中澤、N山本に交代して12時出発、すぐにR66Eに入る。途中ユタ州からコロラド州に変わり、1325分コルテス(Cortez)のバーガーキング(Burger King)でハンバーガーで昼食。Burger Kingのハンバーガーは美味しく手軽だった。その後昼食は中華かハンバーガーが定番になった。1350分R160Eに入りメサ・ベルデ(Mesa Verde)へ向かう。このハイウエイでカナダ・アメリカに来て初めてのトンネルを抜ける。このメサ・ベルデはアメリカ.インディアンのナバホ族が住みつく以前の6世紀から13世紀までこの辺りに住んでいたアナサジ(Anasazi)族の遺跡で、世界遺産の一つになっている。とうもろこしを栽培、主食としていたそうだが、13世紀に襲った飢饉で、この地を離れたそうだ。1434分メサ・ベルデ・ファー・ビューセンターでクリフ・パレスの見学ツアーのチケットを買う。切符を売っている小母さんに、メサの意味を尋ねたら分からなかった。案内人がテーブルの意味だと教えてくれた。英語で言うPlateau(台地)の意味と同じと理解した。つまり、メサ・ベルデは緑の台地と言うことだ。ここからD水口、N佐々木に交代してクリフ・パレスに向かう。この地には、アナサジ族の色々な遺跡があるが、時間の関係で、案内人が薦めてくれた、大きな岩穴に造られた住居群跡のクリフパレスを選んで車で現地に行く。クリフ・パレスでは買ったチケットの見学時刻には1時間以上あったので水口が、我々は日本からわざわざ来たのであること、今日はこのあともモニュメント・バレーまで行かねばならず時間に余裕がないことなどを訴えて、一つ前のグループに入れてもらうことに成功。

 

ナバホ族の砦にたどり着いて

 

1634分にメサ・ベルデを出発。1725分R160W(west、以下W)に入ってしばらくR160とR660とを合わせた道を走る。18時R160だけの道となり、1820分、コロラド・ユタ・ニューメキシコ・アリゾナ4州の州境が直角に交差する地点フォー・コーナーズ(4 Corners)に着く。かっては、アメリカ全土に住んでいたアメリカインディアンは、白人に土地を取られて、最後は、白人が見向きもしなかったこの4州に閉じ込められたようだ。1850分D佐々木、N水口で出発、R160を進み205分R163Nへの角でガソリンを補給して、D水口、N佐々木に交代しR163Nをモニュメント・バレー(Monument Valley)へ向かう。時間を気にしつつ午後8時を過ぎてもまだ明るい空のもとあちこちで写真やビデオを撮りながら進んだのでモニュメント・バレーのロッジGoulding’s Lodgeに着いたのは2050分。ホテルのレストランの入店締切時刻は21時とのことでチェックイン手続きは後回しにして慌てて駆け込み間一髪セーフ。インディアン保護政策の為に、ホテルは土地のナバホ族の経営だった。ナバホは酒を飲まないそうで、ホテルの飲み物は全てノンアルコールだった。喉が乾いていたのでノンアルコールビールを美味しく頂き、郷土料理のラムステーキとジューシーなワインの夕食を頂いた。ナバホ族は、もとは言えば、アラスカを越えてアメリカに住みついたアーリアン系で、インディアンの中で最大の部族であり、現在も15万人程生存しているとのことだ。22時食事を終って係員の誘導する車についてコテージに行ってみると、部屋は三つに居間、キッチンが付きバスルームは二つある。ベッドが三つなのでジャンケンをし、負けた中澤が居間のソファで寝ることになった。遅く着いたので、通常の部屋がなくなって、VIPルームを都合してくれたようだ。遅い到着で得をした感じ。皆久々にゆっくり寝られた。夜空を仰ぐと真上には北斗七星が大きくかかっていて北極星も輝き、久しく忘れていた満天の星に感嘆。

 

7月21日(土)  出発時のメーター表示:25,060

 

モニュメント・バレーでジープ・ツアー

 

630分モニュメント・バレーに素晴らしい朝日が昇る。8時5分D水口、N佐々木でコテージを出てレストランへ。朝食後9時発のジープツアーに参加。ナバホ(Navajo)インディアンの生活様式見学を皮切りに奇岩怪石の中を進む。奇岩の呼称もサンドストーンの地層と風化の違いで、大きく分けて、MesaButteSpineの3種類の形をしていた。メサは平たい台地だが、ビュートはそれより小規模な平たい丘状で、スパインは更に風化が進んで細く剣状になった岩と簡単に理解した。映画監督ジョン・フォードが好んで撮影に使ったといわれる場所John Ford’s Pointではカウ・ボーイの扮装をしたナバホ族の男が馬に乗って記念写真撮影のサービスをしていた。我々の泊まったGoulding’s Lodgeは、白人としてこの地で初めて交易所を開いたグールディング夫妻の名前を取って名付けられているが、夫妻は1930年代のアメリカ不況時代に、この地を映画撮影地として初めてハリウッドに売り込んだそうで、その最初の作品が「駅馬車」だったとのことだ。ジープには屋根があり、冷水も用意されていたが、この3時間ツアーはとても暑かった。時々ジープから下ろされて、現場近くまで歩かされるが、暑さでしんどかった。案内人のナバホ族の青年はナカナカ好感の持てる青年で親切だった。教育を受けていると見えて完璧な英語で説明してくれた。銀のネックレスに青いトルコ石のペンダントを胸に下げていて、銀とトルコ石はナバホの好みの装飾品と説明してくれた。12時半ツアー終了後ホテルのレストランで食事。御土産屋さんで、早速便で縁取りをしたトルコ石のペンダントを購入する。挙げた人から、今日本で流行っていると喜ばれた。良い御土産品だった。

 

グランド・キャニオンの落日

 

1345分D中澤、N山本でR163Sから出発、145分R160Wに入り、155分D佐々木、N山本に交代。1525分R89S1540分R64WWに入る。17時グランド・キャニオン(Grand Canyon)国立公園入口に到着。D水口、N山本に交代し、ホテルのあるGrand Canyon Villageに向けてR64を走行する。この道は17時グランド・キャニオンの渓谷のサウス・リム(South Rim)に沿ってイースト・リムから西に向かって走っている。イースト・リムの数カ所のビューポイントに立ち寄る。先に進む程渓谷は深く広くなり、すばらしい景観をみせた。時間の関係もあって、途中ではしょって明日観光することにして先を急いだ。18時(現地時間17時)Yavapai Lodgeに到着。今日の落日は1940分とビレッジの掲示板に出ていたので、早速有名なグランドキャニオンの落日を見に出掛ける。19時シャトルバスに乗車ヤバパイ・ポイントで乗り換えて、ウエスト・リムにあるホピ・ポイントで下車する。このポイントが落日を見る最高な場所で、乗客皆下ろされる。西の空が段々と赤くなって行き、やがて太陽は地平線に沈んで行った。落日が何時だったか正確な時間は分からなかった。迎えのバスに観光客皆が乗り出したので、我々もバスに乗って1950分頃、我々もバスに乗って帰る。夕日は日没後暫くの間が一番綺麗なのに、引き揚げるのが早すぎたと言う人もいて、明日はもう少し残って見続けることにした。ロッジに戻りウィスキーで乾杯後、翌日のグランド・キャニオン上空を飛ぶヘリコプターを予約のみで確認するのを忘れていたことに気付く。慌てて電話したが夜9時を過ぎており、相手は当然いない。留守番電話にメッセージを残しておいたが不安のまま寝ることに。この夜も北斗七星が真上にあり、見事な星空だった。

 

7月22日(日)     出発時のメーター表示:25,350

 

空から見るグランド・キャニオン

 

朝食後すぐにヘリコプターの会社Air Star Helicopterへ電話したところ、予約どおりでOKとのこと。850分D水口、N佐々木で出発、920分へリポート着。105分から11時までヘリでグランド・キャニオン上空を遊覧飛行。同乗者は我々4人と外国人男女各1人の合計6人。費用は一人当たり日本円で2万円。事故を恐れて、観光客が多いビューポイントを避けて、イースト・リムから先の渓谷の上を飛ぶ飛行だったが、サウス・リムは勿論、対岸のノウス・リムも上から見下ろせ、渓谷の中を流れるコロラド河と合流する小コロラド河との水の色の違いや両岸の地層の変化もハッキリと見せてくれた。サウスリムとノウスリムの一番離れた処は約10マイル(16km)あり、渓谷の最大の深さは1,600メートルとのことだが、ヘリコプターからは、その全体像を一望にすることができ、変化に富んだ地層、地形の大パノラマの連続は素晴らしかった。コロラド河に切り取られた地層は、約5億年に亘る地層の歴史を見せてくれてるが、河底では、8億年前の地層を、今でも100年に20cmのスピードで、削り取っているそうだ。このヘリコプターツアーは、期待通り、この旅最高のビックリを提供してくれた。1時間の飛行を終え、ヘリコプター前で撮影した記念写真を貰って、昨日見落としたイースト・リムのビューポイントの観光に向った。

 

残照に感動

 

125分デザート・ビュー(Desert View)で昼食。1330分モラン・ビュー(Moran View)により、1410分マーケットでウィスキーなどを買い、1415分ロッジに帰着。水口と山本は17時頃まで昼寝、佐々木と中澤は買い物と洗濯に行き、17時頃に帰ってくる。マーケット脇にバンクがあって、飲みこみ式のATM機があったというので、VISAカードを使って、100ドル引出しをする。バンクに手数料を1.5ドル取られたが、やっと成功した。ヤレヤレ。ホテルとレストランと大概の中華料理店もキャシュカードが通用したが、昼食で良く使うバーガー・キングだけは、キャッシュオンリーだった。チップの必要もあり、多少の現金は身に付けて置く必要があった。18時に早めの夕食を取ってから、車でヤバパイ・ポイントまで行き、シャトルバスに乗り換えて昨日と同じウエストポイントにあるホピ・ポイントに夕日を見に行く、今日の予定は1分遅れの1941分だった。今日は、帰りのバスも最終にして、落日後の赤く映える空を、ゆっくり見学した。渓谷の西の先はさえぎる物がなく、夕日が地平線を赤く染めながら沈んで行く。沈んだ後に、空は一層明るくなった。これこそが、有名なグランド・キャニオンの沈む夕日なんだと実感した。本日は、近距離の為、ドライバー、ナビゲーターの交代はなし。

 

7月23日(月)  出発時のメーター表示:25,470

 

コロラド河の源流へ

 

10日にカナダ入りして以来ずっと快晴続きだったが初めての曇り空。D水口、N佐々木で7時半出発。マザー・ポイント(Mather Point)で日の出を見るために早出をしたが、期待したきれいな日の出は見られなかった。人出も夕日と比べると、一段と少なかった。磁石を持参したので、計ってみたが、日の出は真東と言うより、北東に近かった。グランドキャニオンの早朝は夏でも結構寒かった。R64Eを走ってグランド・キャニオンとはお別れ、820分R89Nに入る。855分、ナバホ族部落の近くを通った時に、いきなり左側から、黒い犬が飛び出して来た。車は時速150kmで走っていたので、此方が危険を感じてよけきれずに跳ねてしまった。後で車を調べたら、右フロントが大分へこんでいたので、多分御陀仏さんだったろう。合掌。940分ガソリン補給。ヤバパイ・ロッジをチェックアウトせずに出てきてしまったことに気付き、そこから電話して了解を得る。10時D中澤、N山本に交代。1020分ペイジ(Page)でコロラド川(Colorado River)を渡る。パウエル湖(Powell Lake)からコロラド河に注ぐ地点で、橋はサウスリムとノウスリムの間に渡っている。橋の下はダムになっていた。ここはコロラド河の始まりで川幅もさほど広くなくて、両崖の形状も複雑でないから、橋が掛けやすかったのだろう。

 

ザイオンにはザイオンの…

 

1130分カナブ(Kanab)の中華料理店The Wok Innで昼食。1220分D水口、N佐々木に交代、1235分R9Wに入り、1250分ザイオン(Zion)国立公園着。この公園は南と北に分かれているが、我々は南の公園だけを訪れることにした。山道を登り始めると、次々に不思議な奇岩が現われる。碁盤状の模様付きの大きなグレイの岩が出現する。間もなくトンネルを越える。今度は右手に大きな岩穴を見て、ビジターセンターに到着する。1345分ビジター・センターの前から出るシャトルバスに乗車。清流に沿って登って行く。赤いサンドストーンの岩山と良いコントラストになっている。雨季に、この清流が濁流になって、サンドストーンを侵食して、鋭い岩山を残したのかなと思う。上流のビジター・センターで下りて、暫く散策後、帰りのシャトルバスに乗る。南のザイオン・キャニオンをぐるっと一回り。ここで女性3、男性1の日本人グループに会う。女性たちは高校の同期生で、男性はそのうちの一人の夫。運転手と案内役を仰せつかっているそうな。1515分D佐々木、N水口でザイオンを出発。R9Eを元に戻る。1520分狭い道で対向車が来たときスピードをかなり出していた佐々木、右側に道路にちょっとはみ出して駐車していた車に接触しそうになった。左ハンドルに慣れていないと、右のスペースを勘違いし易い。16時R89Eに入り、1655分D水口、N佐々木に交代しR12Eに入る。

 

ブライスはブライスで…

 

1710分R63Eに入り1712分今夜の宿、ブライス・キャニオン(Bryce Canyon)Best Western Ruby’s Innに着く。1730分D水口、N佐々木でブライス・キャニオン観光に出発。1815分レインボー・ポイント(Rainbow Point)とヨビンパ・ポイント(Yovimpa Point)、アクア・キャニオン(Aqua Canyon)、インスピレーション・ポイント(Inspiration Point)などいくつかのビュー・ポイントにより、2030分サンセット・ポイント(Sunset Point)で落日を見る。同じ侵食した岩山でも、ザイオンやアーチーズとは違った景観だった。赤茶けた尖塔が連なって、そそり立っている。21時ホテルへ戻りレストランで夕食。先ほどインスピレーション・ポイントで出会った横浜の一行とコンダクターと出会う。我々と同じくグランド・キャニオンを廻ってラスベガスに行くそうだ。このグランドキャニオンーブライスキャニオンーザイオンーラスベガスと廻る一周コースをグランド・キャニオン・サークル・ツアーと呼ぶのだそうだ。ラスベガスも偶然同じホテルを予定しているとの話で再会を願った。部屋で少量のウィスキーで乾杯。また時差があり、1時間進ませる。表記した時間は進ませていない時刻。(17時→18時)

 

7月24日(火)   出発時のメーター表示:26,060

 

ラスベガスにやって来た

 

840分ガソリンを補給し、D水口、N佐々木で出発。まず。昨日のブライス・キャニオンの国立公園ゲートに行って、払い戻し交渉をする。各地の国立公園入園料は20ドルで、その都度払って来たが、各国立公園入園フリーの50ドルのパスを買えば、その都度支払い不要と昨夜初めて知る。既払い領収書を見せて払い戻しを交渉するが既払い分の返還は無理だった。代わりに50ドルの入園フリーパスをくれた。最初から知っていれば、100ドルは節約できたのに。“ぐやじい”。95分R63NからR12W920分R89N955分R20W10時R15Sに入る。1035分D中澤、N山本に交代。ネバダに入ってからしばらく経過した12時、写真・ビデオを撮ってからD佐々木、N水口に交代。1250分彼方にラス・ベガス(Las Vegas)が見えてきた所でD水口、N佐々木に交代。1310分ラス・ベガス市内のフラミンゴ東通りに入るつもりが間違えてフラミンゴ東通りに入ってしまったが、フラミンゴホテル内でUターンして、西通りに入り直す。ホテルParis Las Vegasにチェックインして入室できたのは14時。このホテルはパリを模したテーマパークホテルで、玄関口にエッフェル塔が建っていて、室内のグランドフロアは高い天井全体を青い空と白い雲で彩色して、いかにも屋外の感じを出している。通り(廊下)では、パリの大道芸人が道行く人を笑わせている。通り(廊下)の両脇には、パリのカフェーやレストランやブティックが営業している。グランドフロアのコーナーは大きなカジノが陣取っていた。夜のディナー・ショウの予約をして1430分から1545分まで中華料理店「華館」で昼食。昼食後、グランドフロアの通り(廊下)で、昨日の横浜一行とコンダクターに出会う。

 

ショウを楽しみカジノも少々

 

その後19時まで自由行動、20時から2130分までタクシーで市内観光。タクシーは30ドルだったが、ラスベガス大通りをダウンタウンまで案内してくれた。面白い黒人ドライバーで、色々説明してくれたので、大通りに並ぶ色々なテーマパークホテルを車の中から観光できた。これはアタリだった。ラス・ベガスは暑い!剥き出しの太陽が真上から遠慮なく照りつけてくる。2130分から23時までカジノ内のレストランで最高のステーキとワインで夕食。2330分から1時までショウJubilee!を楽しむ。パリのClub Lido と同じ趣向のショーだった。どちらが本家だろう?ショウ終了後、カジノに立ち寄る。水口が100ドルと決めて、ルーレットに挑戦するが、敢え無く敗退。ネバダ州に入ってからまた時差があり、1時間遅らせる(18時→17時)。我々の旅は、ホテルの部屋とベッドは、予算の関係で、通常一部屋4人の相部屋のTwo Queen Bedsで予約してあった。鼾で寝られなかったり、男二人で一つのベッドは寝苦しいとのクレームが出てエクストラベッドを入れられる場合には、エクストラベッドを頼むことにしたが、どのホテルもエクストラベッドは一つしか入れられなかったので、毎夜ジャンケンでベッド取りや組合せをして来た。ラスベガスはエクストラベッドが一つも許可されなかった。そこで、この夜は水口・中沢/山本・佐々木がペアーになって休んだ。夜中に、中沢が遠慮してベッドの脇に寝すぎて、ベッドからドスンと落ちてしまった。音は大きかったが、幸い怪我はなかった。

 

7月25日(水)     出発時のメーター表示:26,480

 

フーバー・ダムの人工にビックリ

 

1010分D水口、N佐々木でスタート。朝は快晴。I-15Nから1015分R515S1040分R93からすぐにR951050分R931115分フーバー・ダム(Hoover Dam)に着く。コロラド河を堰きとめてできたダムで、高さが218m/深さが198mの巨大なダムで1936年に完成したそうだ。地下にある発電機を見せてくれるツアーは、時間がないので省略したが、ビジタ−センターで建築のご苦労ビデオを見てから、センターの屋上に上がる。ダムを見下ろすと、その巨大なコンクリートの大きさに改めてビックリした。近くの送電線の鉄塔が岩に垂直に立てられているが、水面には垂直でないのは、不思議な光景だった。1225分ダムを出発し、車内にてサンドイッチなどで昼食。来た道をラス・ベガスまで戻る。1245分頃R515Sを走っているとき見る見るうちに雨雲が広がり、雷鳴とともに雨が降り出した。135分I-15Sに入り、1310分ラス・ベガスを通過。雨雲の範囲を通り過ぎたらしく、1315分には雨上がる。

 

摂氏42度!

 

1345分ネバダ(Nevada)州からカリフォルニア(California)州に入ったところで、D中澤、N山本に交代。1435分ガソリン補給。このとき道路脇にあった温度表示計によると華氏108度(摂氏42度!)。1535分R58Nに入って間もなくD佐々木、N水口に交代。17時頃ハイウェイ左手の丘の上に風力発電用のプロペラが林立している地点を通過。175分D水口、N佐々木に交代。1745分ベーカーズフィールド(Bakersfield)市に入る。AAAのガイドブック(Tour Guide)に出ていたアドレスが少し違っていたので、ホテル探しに手間取ってしまった。1810分今夜の宿Best Western Hill Houseに着く。エクストラベッドを頼んだら、インド系のフロント・マネージャーがもう一部屋を安くオファーするからどうかとセールスして来た。言い値を値切って、今日は二部屋確保する。1830分から1940分まで市内の中華レストラン「ライスボウル」で夕食。珍しく一人当たりビールの小ビンを2本飲んだだけで終る。水口と山本は同室になり、9時頃就寝したが10時半頃フロントからの「FAXがきている」との電話に起こされる。しかし電話を取った水口は半分寝ていたので受け取りに行かず、そのまま寝てしまう。

 

7月26日(木)  出発時のメーター表示:27,060

 

今度は巨木にビックリ

 

昨夜のFAXは佐々木宛で、入院中の義母の様子を伝えてきたものだった。大事ではないと言うことで一安心。D水口、N佐々木で730分にスタート。出てすぐに市内の踏切で長い貨物列車の通過にぶつかり、ガードをくぐれる道路に進路を変える。740分ガソリン補給。ハイウェイに出るときちょっと道に迷ったが8時R99Nに入る。道路の両側は緑が多く、カリフォルニア州に入ったことを実感。920分R41Nに入り、フレスノ(Fresno)を通過。1040分ヨセミテ(Yosemite)国立公園入口料金所に着く。マリポサのセコイヤ(Sequoia)の森の観光の為にR41を右に折れる。駐車場でパークさせて、トラック・ツアーに参加することにして乗り場までシャトルバスで行く。1120分から1時間ほど観光客と一緒にトラックの荷台に乗り、セコイアの森の中を進む。森の中には樹齢2千年以上のセコイヤ杉の直径7-8m高さ50m以上ある大木が群生している。特に大きな木はグリズリー・ジャイアント(Grizzly Giant)と呼ばれ、高さ64m、樹齢2,700年である。燃えた跡が残っている木が所々にある。セコイヤ杉は自然火災に耐えられた木だけが生き残って二千年を越えて生きられるらしい。火災は自然を守る働きをもするらしい。その為に、保護だけでなく、木の強化と間引きの為に、計画的に火災を発生さで燃やすとのことだ。キリストが生まれる前から生きている生物が群生している事実は、セコイヤ杉の生命力の強さを感じさせられて、ビックリした。

 

ヨセミテの渓谷と巨岩を一望

 

1240分サンドイッチなどで昼食。1330分R41Nからグレイシャー・ポイント・ロードに入り、1350分グレイシャー・ポイント(Glacier Point)に着く。このポイントは海抜2,200mの絶壁上にあり、下に海抜900mのヨセミテ渓谷やヨセミテ滝を見下ろし、見上げると美しいハーフドームの全貌を捉えることができた。1440分までそこにいて、1510分R140を通ってヨセミテ・ロッジに向かう。ヨセミテ・ロッジからヨセミテ滝(Yosemite Fall)を見に行ったが流れ落ちる滝の水は一番下の方にほんの少しちょろちょろと流れているだけ。そこでシャトルバスに乗り公園内を1時間ほど周回する。渓谷は氷河でできた谷ではあり、両崖はエル.キャピタンやハーフ・ドームの岩や崖やヨセミテ滝があって、美しい姿を見せてくれる。盆地は、メルセド(Merced)河が流れ、森の緑豊かな平地であった。18時にヨセミテ・ロッジを出発。R140Wを通って1815分今夜の宿Yosemite View Lodgeに着く。ホテル近くのイタリアン・ピザの店で夕食。ビールを運んでくる青年が陽気で愉快。 今日のコースは道の狭い山道が多かったので、運転になれた水口が一人で運転した。

 

7月27日(金)  出発時のメーター表示:27,450

 

北ヨセミテに脚を伸ばす

 

8時D水口、N佐々木でR140をタイオガ峠(Tioga Pass)へ向かう。ヨセミテ観光は昨日見てきた南ヨセミテと渓谷の北側を東西に走っているタイオガ道路周辺の北ヨセミテとがあるが、大概の観光客は北を省略している。昨日時間を稼いだので、半日予定で予定外であった北ヨセミテを廻ることにした。820分R120に入り840分ガソリンを補給。950分美しいテナヤ湖(Tenaya Lake)105分緑の平原メドウズ(Meadows)に着く。そのまま進んだが峠を越えたことに気付かず来た道を戻る。このタイオガ峠はゴールドマインを求める男達の難所だったそうで、道は崖のサイドを曲りくねって走っていた。やがて観光道路として買収され経過があって、歴史的にも有名らしい。1220分R140に入った所でD中澤、N山本に交代。1320分から1355分までマリポサ(Mariposa)のキング・バーガーで昼食。1445分ガソリン補給、1450分R99Nに入る。1525分D佐々木、N水口に交代。1545分R120W1555分R5S1557分R205Wに入る。この道は1615分R580Wになる。

 

サンフランシスコの寒い夜

 

サンフランシスコ(San Francisco)に入ってしばらくハイウェイ(R580W)を走り、165317日ぶりに海を見る。ベイブリッジ手前で道はR80になり、17時ベイブリッジを渡る。ハイウエイから市内に下りる出口を一瞬戸惑って出ようとしたところ後続車とぶつかりそうになり、慌てて左に避けて難を逃れた。1710分市内に入った処で、D水口、N佐々木に交代、1730分迷わずに今夜の宿Chelsea Motor Innに着く。市内を走っているときに見た町を行く人々の厚着と、髪や衣服が風にあおられている様子から気温が低いことを予想していたが、車から出るとハッとするほど風が冷たい。サンフランシスコは海流の関係で、夜は冷え込むそうだ。1830分市内観光のツアーバスでチャイナタウンとベイブリッジの夜景見学に出発する。油断して薄着で来た水口は、フィッシャーーマンズ・ワーフで慌てて、セーターを買う。チャイナタウンで中華の夕食。同席はオハイオから来たバイクの老夫婦とアリゾナから来た釣り好きの中年夫婦。ベイブリッジの夜景は、霧が深くて、残念ながら良く見られなかった

 

7月28日(土)   出発時のメーター表示:28,000

 

金門橋も行きつ戻りつで

 

昨晩は水口と佐々木はそれぞれベッドとエクストラベッドに寝たが、しらみに猛爆された。強烈なしらみで、日本に帰国するまでずっと痒かった。中沢.山本は無傷だった。ホテル近くのスナックで朝食後、バスでケーブルカー乗り場へ。ケーブルの終点ユニオン・スクエア(Union Square)まで行き、銀行でドルを引き出したりして、タクシーに乗りフィッシャーマンズ・ワーフ(Fisherman’s Wharf)へ行く。ピア39(Pier 39)に住みついているトド(Sealion)や帆船、沖合いのアルカトラズ島(Alcatraz Island)などを見て、ワーフに並んだシーフード・レストランで、席がないので立ちながらシーフードの昼食をとる。山本/中沢はビール付きだが、次のD/Nの水口/佐々木はビールなし。タクシーでホテルへ戻る。D水口、N佐々木で13時にスタート。R101Nが渋滞。1315分金門橋(Golden Gate Bridge)のビューポイントに着いたが駐車スペースがなく、車を止めずにドライバーが交代しながら写真やビデオを撮る。橋を渡って対岸へ行き、すぐに来た道を戻る。

 

モントレーのシーフードに大満足

 

1345分D佐々木、N水口に代ったが、予定のR1に入りそこねる。地元のマイカー運転手に正確、丁寧に教えて貰って、本線(R1)に復帰する。D水口、N佐々木に交代。1420分R280S15時R17Sに入り、1520分D中澤、N山本に交代。1550分モントレー(Monterey)手前70kmの処で、R1Sに入るも渋滞。1650分ガソリンを補給してD水口、N佐々木に交代。1740分モントレーのMonterey Bay Lodgeに到着。車で10分ほどのシーフード・レストランMonterey’s Fish Houseで夕食。ここのシーフードレストランは、外見は小さく、入り口も冴えなかったので、恐る恐る覗いたが、内は客も多く、雰囲気も良そうだったので、思いきって入ってみた。経営者兄弟の母は日本人だそうで、写真などを持ち出して熱心に説明してくれた。料理も美味しく、値段も高くなく“当たり”だった。

 

7月29日(日)   出発時のメーター表示:28,240

 

西海岸を行く

 

午前4時「ドスン」という大きな音で皆目を覚ますと、佐々木がベッドから転落していた。本人「落ちた!」とひとこと。テニスの夢を見ていてネット際までダッシュしてスーパーショットを決めたところだったという。815分D水口、N佐々木で昨日に続き霧の中を出発。内陸部に比べると西海岸は天気が上々とはいえないようだ。モントレー市内の海岸をドライブし、9時入場料を払って17マイルドライブウェイ(17-Mile Drive)に入り、ペブル・ビーチ(Pebble Beach)のゴルフ場で休憩。1010分カーメル(Carmel)着。素敵な並木道におしゃれなブティックが並び、有名ブランド品を売っていた。佐々木が家族に頼まれたCoachのハンドバックを買ったので、水口、中沢も相乗りしてお土産買いをする。ショッピングを楽しんで、1110分に出発し、1120分R1Sに入る。1145分D中澤、N山本に交代。1230分から1340分までルチア(Lucia)でシーフードの昼食。15時海岸に象アザラシの群れが見える地点でD佐々木、N水口に交代。1550分R101Sに入り、1630分ガソリン補給。18時サンタ・バーバラ(Santa Barbara)Blue Sands Motelに到着。20時日本料理店Kaiで寿司の夕食。隣席に奥さんと二人の男の子と来ていた肥満したアメリカ人と話が弾む。この店に週2、3回は来ると言う。日本語にも興味があるということなのでいくつかの言葉を教えてあげるとすっかり喜んで連発していた。ハイネッケン・ビールをおごってもらう。

 

7月30日(月)  出発時のメーター表示:28,650

 

年寄りも冷や水すぎては

 

事前の計画では今日の午前中はサンタ・バーバラの海で海水浴をするはずだった。しかし西海岸は親潮で水温が冷たく海水浴には適さないということがわかり、予定を変更せざるを得なくなった。かねてからディズニー・ランド(Disney Land)へ行くことを願っていた水口の提案に中澤と山本は昨夜の内に同意する。善は急げと、早朝サンタ・バーバラを発つ。霧雨の中、D水口、N佐々木で645分スタート。この霧雨では日光浴にも適さない。海での遊びを中止して正解と納得。サンタ・バーバラ市内の踏み切りで今度の旅行で初めて客車の運行に出会う。655分R101S85分R405Sに入った途端に渋滞、朝の通勤ラッシュにぶつかったらしい。850分旅の最後の宿サンタ・モニカ(Santa Monica)Pico Boulvard Travelodgeに到着、チェックインしてホテルの朝食を利用させてもらう。

 

急遽ディズニー・ランドへ

 

佐々木は東芝時代の友人と再会したいということで別行動になった。夜ホテルで合流することにして佐々木と別れ、940分D中澤、N水口でディズニー・ランドへ向けて出発、950分I-10Eに入る。105分D水口、N中澤に交代。1015分I-5に入らずR60を走っていることに気付き、右に出て、R19に入り1035分I-5Sに入って、115分ディズニー・ランドに着く。ディズニー・ランドへ着く頃から天気は快晴。真夏の暑さが戻ってきた。ディズニー・ランドでは「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」「スペース・マウンテン」「ホーンテッド・マンション」「ジャングル・クルーズ」「デイビー・クロケットのカヌー探検」「ディズニー・ランド鉄道」などを楽しんだ。インディー・ジョーンズとスペース・マウンテンはジェット・コースター並のスリルとスピードがあってビックリしてしまう。水口はスペース・マウンテンに乗っているときに、慌ててペットボトルの水をシートにこぼしたり、ペブル・ビーチゴルフ場で買ったばかりの野球帽を紛失してしまう。最後にパレードを見て1745分D水口、N中澤で出発、I-5S、I-10Wを通って、サンタ・モニカに帰着。時間があったので繁華街を散歩。マリナーズの野球帽を買ったりしてショッピング後、海岸の埠頭にあるスペイン料理店で夕食。22時過ぎにホテルに帰る。佐々木は既に戻っていた。20時頃には帰っていたという。

 

7月31日(火)  出発時のメーター表示:28,950

 

無事ロス・アンジェルス空港着

 

820分D水口、N佐々木でスタート、時間があるので付近をドライブすることにしてパシフィック・コースト・ハイウェイをマリブ(Malibu)へ向かう。今日も曇り空の下海岸で写真撮影。R1を経由して、空港に戻る。途中ヨットハーバーで有名なマリナ・デル・レイに立ち寄ろうとして迷ってしまう。ジョギングしている人や歩いている方に尋ねたが、皆いい加減な教え方をする。水口の“カンナビ”が最も正解で、無事R1に戻れた。アメリカ西海岸には、英語のできないヒスパニックも多い。1030分ロス・アンジェルス空港着。水口はレンタ・カーを返しに行き、ほかの3名はUAのカウンターで搭乗手続き。それほど時間はかからないと思っていた水口の帰りが予想外に遅くちょっと心配。レンタカー返却時に、前に並んでいた黒人が料金のことでクレームをつけていて手間取ったとのことだった。フル保険を付けていたので、犬の事故での損傷も賠償ナシだったし、カーナビ無しの分も精算された。返却時のメーターは29,050kmだった。走行距離は8,900kmとなった。空港内で昼食の後、予定通りUA897便で1250分ロス空港を出発、帰国の途につく。座席は中央の4人掛けに全員。離日便とは違ってかなり自由に動ける。

 

8月1日(水)

 

1540分成田空港着。旅の無事を祝って空港で別れる。

 

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