About38大倉山分科会 & 2008/2例会メモ

1.日 時:2008年2月23日(土)
PartT.大倉山分科会 13:00  東横線「大倉山」駅改札口集合
PartU.2008/2例会 18:00  正式開始
2. 場 所
PartT.大倉山分科会 大倉山梅林、大倉山記念館、熊野神社
獅子ヶ谷横溝屋敷
PartU.2008/2例会 横浜・中華街「順海閣本館」
3.参加者(敬称略・五十音順):
秋丸康彦(PartUのみ)稲垣宏一、太田直史、緒方堅吉、表尚志
開發敏光
久保田正彦、小林公直(PartUのみ)斉藤靖雄
清水英男(PartUのみ)高田俊雄、高橋昭、野中孝弘(PartUのみ)
藤沢完治、松本寿弘
山口善弘、山田邦昭(PartUのみ)、吉峰敏行
佐々木洋(議事録捏造)


PartT.大倉山分科会レポート

大 倉 山 駅 前

梅の前に楡ニ連

前日(2/22)「楡の会」なる集まりがあったのですが、幹事であるにも拘わらず酩酊してしまい、当日朝になって梅花撮影のために持参するつもりでいたマイカメラを紛失してしまったのに気がつくという体たらくでした。そこで、集合時刻(13:30)より早く東横線「大倉山」駅について、駅前の商店街に使い捨てカメラ(レンズつきフィルム)「写ルンです」を求めにいきました。実は私も、ほんの短い間ですが、大倉山に住んでいたことがあるのですが、昔日の面影がまるでありません。浦島太郎のような心境になってファッショナブルなお店が建ち並ぶ商店街を彷徨いながら地味な写真屋さんを探すのは大変なことでしたが、その商店街の名前が「エルム通り」だと聞いて聊か驚いてしまいました。「楡(ニレ)」にかこつけて2月22日と2が連なる昨日に「楡の会二連の日会」を設定して今日の「梅」につなげる「楡梅(ユバイ)シリーズ」にしようと内心思っていたのですが、思わぬところで「エルム(楡)」が入ったお陰で「楡楡梅(ユユバイ)シリーズ」になってしまったからです。

由々しく(楡楡)やばい(梅)幹事のチョンボ

さて、集合場所である「大倉山」駅改札口で待ち受けていますと、定刻より大分早く山口兄が姿を現しました。そして、その口から、藤沢兄が強風による運行停止により「戸塚」駅で足止めを食っているという旨の連絡がありました。「酒席ではいつも我先に集まるのに今日の梅見はアバウト諸兄の出足が遅いなあ」と少々気にしながら待っておりますと、そこは皆さん決してアバウトではなく、定刻までに三々五々集結し、藤沢兄と川口兄の到来を待つことになりました。結局、川口兄が現れぬまま見切りスタートという形になりましたが、これは後日、川口兄からのエントリー取り消しの連絡メールがあったのを私が見落としていたためだとわかりました。昨日のカメラ紛失に続く「楡楡梅(ユユバイ)シリーズ」の“由々しく(楡楡)やばい(梅)幹事のチョンボ”でした。かりそめにも「無届ドタキャン」という無実の罪をお着せしてしまいました。また、PartU2008/2例会では一人分過剰予約していたためにご参加の各位に余分な割り勘負担をさせてしまいました。本当にごめんなさい。

因みに、紛失したと思っていたマイカメラは、実は「楡の会二連の日会」に置き去りにしてきたのだということが後になって分かりました。小林コーチョク兄とともに同会に参加していた秋丸兄が保管してくれていたのです。マイカメラを肩にして笑顔でそれを指し示しながらPartU2008/2例会に入室してきた秋丸兄が神様のように見えました。本当にありがとう。

怪しい異様な集団、いざ出陣

さて、PartT.大倉山分科会参集したのは15名。このため、道中何回も“ツアーコンダクター”役として「15」を点呼することになったのですが、この数はこの日行われていた「大倉山観梅会」を訪れた梅見客の中でも飛びぬけて大きな集団だったようです。それぞれに精一杯スポーティーないしは若作りな出で立ちをしていたようですが、誰かがいみじくも「ハローワークに向かう人の群れみたいだ」といっていましたが、いかんせん還暦過ぎの男ばかりで華がありません。その上、表、開発、久保田のOKKトリオなどはマスクまでしているのですから、どうみても怪しい異様な集団と見られたに違いありません。しかし、そんなことは意に介さず、我らアバウト15いざ出陣です。


大 倉 山 記 念 館

「大倉山」のルーツを尋ねる

エルム通りを少し行ったところを右に折れた坂道を登って行くと白亜の大倉山記念館が眼前にそびえ立っています。

この大倉山記念館は、実業家で東洋大学学長をつとめた大倉邦彦氏が、我が国の精神文化を研究するため大倉精神文化研究所として昭和7年に建設されたもので「かながわの建築物100選」にも選定されているそうです。「大倉山」の地名も、この建物に由来したそうで、駅名も元は「太尾駅」と呼ばれていたようです。

「ギリシャ神殿風」という触れ込みの外観だけでなく、内部もエントランスからのホールや吹き抜けなど重厚で豪華な作りでなかなかのものでした。ギャラリーでは、例年「大倉山観梅会」と併せて開催されるという「大倉山エルムフォトクラブ写真展」が開催されていて、アバウト一同は観梅をする前に、高橋兄解説のもと、美しい写真を観賞して眼福の一時を過ごすことができました。


都会の梅と田舎の梅

大倉山記念館の横を通り越して行くと、すぐ近いところに大倉山梅林はあります。私の郷里・小田原にも郊外に「曽我梅林」があるのですが、同じ梅林でも雰囲気が大きく違います。先ず第一に、曽我梅林の方は“梅の実”が「小田原の梅干」として梅実(ウメジツ→名実)ともに名高いのですが、大倉山の方は「大倉山の梅干」などというものを聞いたことがありません。
ここの梅は“実をとらず”専ら観賞用として植え込まれたのでしょう。要するに曽我の方が「樹園」であるのに対して、こちら大倉山の梅林はもとから「公園」として設えられているのです。畑地狭しと奔放に咲いていた曽我の「田舎の梅」に対して、瀟洒な佇まいの公園の中に咲いていた「都会の梅」たちも瀟洒な雰囲気を漂わせていました。
瀟洒な佇まい(開発兄撮影)

また、かつて訪れたことのある曽我梅林では、咲き競う「田舎の梅」達が強烈な香りを放っていました。そのため、「梅見は香りを楽しむもの」という先入観を持っていたのですが、ここ大倉山梅林の「都会の梅」たちは、よほど自分の姿かたちに自身を持っているのか、「向こう」意気が強くて全くの「無香」です。こんな戯れ歌を作ってみたのですがこれも「無効」だったでしょうか。

   ひたすらに花の姿を目で愛でん 実もなく香なし大倉の梅

曽我の梅林が総本数35,000本というのに、ここ大倉山の梅林は150本の規模です。しかし、数が多ければいいってものではありませんよ、梅の木だって髪の毛だって…(あれれ?)。その代わり、白梅しかない曽我に比べて、ここは20種類もの梅の木があります。いわば、曽我の梅見が大盛りどっさりで野趣豊かな田舎料理であるのに対して、大倉山の梅見は皿数豊かな都風の懐石料理と言ったところなのでしょう。本日集うAbout38メンバーも約20人ですが、それぞれに野趣豊でなおかつ個性豊か。曽我と大倉山の良さを兼ね備えているのがAbout38なのです…よね。そのうち、Part1参加のアバウト・フィフティーン、竹林で酒をくみかわしながら清談を交わしたという「竹林の七賢人」と同じ自由人の身を謳歌しながら、「梅林の十五賢人」を気取って、セイ談を交わしながら梅林内徘徊の一時を過ごしました。

白梅がほぼ満開 紅梅も負けじと
(開発兄撮影)
梅林の五賢(変?)人
(松本兄撮影)


急傾斜石段の“登頂”に成功

梅林から大倉山駅まで戻り、駅を通り過ぎて綱島街道を左折して200m位行ったところにある「熊野神社入り口」の交差点を右折して暫く歩いたところに「熊野神社」があります。この間に風が強くなってきて、黄砂のせいか空も怪しく黄色い色になってきましたが、アバウト・フィフティーン誰一人として文句も言わず歩いてきたのですが、辿り着いたところで神社の急な石段を目の前にするとさすがに登って行く気が失せてしまっています。

「ここに来ただけでお参りしたということにしちゃおうか」と“お参り偽装”を決め込もうとしていたのですが、「よし、行くぞ」の声もろとも石段を登り始めた男が一人。一同の前で軽快なステップを見せたのは山法師こと斉藤兄でした。「法師がどうして神社に…」と呆れていたのですが、やがて一同、斉藤兄の勢いに引きずられる形で登段開始。全員無事登頂(?)したところで、お互いの健脚ぶりを称えあいながらの記念撮影の運びと相成りました。
熊野神社登頂(?)記念(開発兄撮影)

因みに、どうでもいいことですが、この熊野神社は、熊野山の中腹に鎮祭された和歌山県熊野三社の祭神と御一体で、旧社格は「郷社」、横浜北部の「総鎮守」とされていたそうです。明治維新以降に制定され、第二次世界大戦後、政教分離によって廃止された「近代社格制度」によると、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける「官社」の他に、府県社・郷社・村社・無格社に分類される「諸社」というのがあって、府県社が府県から奉幣を受けていたのに対して、「郷社」は府県または市から奉幣を受けたていたということですから、この熊野神社は、大学であれば「市立大学」くらいの位置づけなんでしょうか。「郷社」は社格であると同時にある特定の行政機能をもつ神社でもあり、江戸時代の宗門改の檀那寺にかわるものとして設定されたそうですから、「市立神社」でありながら戸籍を管理する「市役所」の機能も果たしていたようです。その上、熊野神社は「総鎮守」で「地域の土地神をまとめ、地域全体(横浜北部)を守る働きをする神社」でもあったのですから、“地方交付税”上の取扱いなどはさぞや面妖を極めたことでしょう。


熊野神社の社務所で「獅子ヶ谷横溝屋敷」の所在地を聞くと、神主見習と思しき若い神官殿からあまり感心できない説明が返ってきました。「この下の道を左に行って、環状2号線を渡るとすぐです」といった甚だアバウトなものでした。アバウト精神は以って銘ずべきものですが、超アバウトはボケと同値でいただけたものではありません。案の定、私たちは環状2号線を渡ったあたりで、道に迷ってボケ老人の徘徊状態になってしまいました。しかし、折り良く通りかかった野球少年たちの“介護”を受けながら歩いて、辿り着いたところにあった茅葺き屋根の家が「横溝屋敷」でした。もうここは鶴見区の獅子ヶ谷。大倉山梅林(太尾町)から熊野神社(師岡町)までは港北区だったのですが、何時の間にか港北区と鶴見区の間のOBラインを越えて来てしまっていたわけです。野球少年たちのお陰で、我ら東芝OB一同、ロスト・ボールにならずに済みました。

昭和61年に横浜市に寄贈されて正式には「旧横溝家住宅」となったわけですが、この横溝家というのは16世紀末の慶長年間に獅子ヶ谷村の名主を務めて以来、江戸時代を通じて代々名主を務めた家柄だそうです。しかし、今時の代議士諸侯と違って偉いのは、単に世襲を続けるだけでなく、江戸時代には鶴見川の沖積地を開墾して水田を拓き、二ツ池や溜井を確保し、村内に本覚寺を建立するなどインフラ整備に多大な貢献をしたり、明治期には養蚕や製茶業などの新規事業に乗り出したりの“正”しい歴“史”(これぞ横溝正史)を積み重ねてきているところです。

広い庭に、主屋と蚕小屋、表門(長屋門)、文庫蔵、穀蔵が建っています。このうちで最も年期がいっているのは、脱穀や食品の加工・貯蔵に使われていた穀蔵で、天保12年(1841年)の建築とされていますから築167年ということになります。主屋は、途中で建て替えられたのでしょうか、最も“若く”明治29年(1896年)頃の建築だそうですが、それでも築112年で2回目の還暦を迎えようとしているわけです。これに比べると、ようやく1回目の還暦を迎えたばかりの我々アバウト・メンバーなどはヒヨコみたいなものです。いずれの建物も決して華麗ではありませんが見事な加齢ぶりで端然かつ矍鑠としており、“未だ若造”である私たちに「良い歳のとり方」を示唆してくれているようです。

主屋では折柄「ひな祭り」が行われており、ヒナ(鄙)にはまれな美形のヒナ(雛)が飾られていて、ようやく得意の“婦”人撮影の機会に恵まれた開発兄のカメラがこれをとらえていましたが、この他にも四季折々、七草粥、端午の節句、十五夜などの年中行事も行われているそうです。また、一同が階段を上って、ギシギシと軋ませながら歩き回った主屋の2階には蚕小屋もあって俄か歴史文化派カメラマンの松本兄が往時用いられていた農機具類を撮影し、我々のPartTイベントが立派に歴史的かつ文化的なものであったということの証(偽装?)を残してくれました。横溝家の主が去った今も「主なしとて春な忘れそ」と律儀に端正な花を咲かせている緑顎の梅の姿を愛でてPartTイベントはフィナーレとなりました。

表門(長屋門) 主屋 蚕小屋(松本兄撮影)
雛人形(開発兄撮影) 主屋2階の展示品
(松本兄撮影)
緑顎の梅


PartU.2008/2例会議事メモ

A.近況報告(リレー指名順):

(1) 案ずるより梅が易し(佐々木)

・  前日(2/22)いわきを出立した時には庭先の梅が一輪も咲いていなかったので、時期尚早かと思ったが、「案ずるより“梅”が易し」で、大倉山の梅は満開に近い状態であった。昨年の三春観桜イベントの際にも開花時期に気を揉んだが、さすが“花咲か爺さん”揃いだ。次回予定の箱根分科会(2008/)6でも紫陽花を見事に咲かせてくれることだろう。
・  白梅や紅梅の侘び寂びを愛でる枯淡の境が程遠いものなのだろうか、梅林の中を鼻息荒く歩きすぎる我々一同は場違いの異様な集団と見られたに違いない。少なくとも精神的にはstill youngだということが判明し、これも「案ずるより“梅”が易し」であった。更に、梅林を出て、熊野神社、獅子ヶ谷横溝屋敷と回る異様な集団による強風中行軍の際にも、一人として落ちこぼれる者もなく健脚振りを競い合い、身体的にもstill youngで「案ずるより“梅”が易し」であるところを示してもらい、幹事の取り越し苦労を払拭してくれた。
(2) スペインは大倉山に如かず(太田兄)
・ 

大倉山には20年前に住んでいたのだが、本日は久しぶりの来訪で、長年行きたいと思っていた梅林、熊野神社、獅子ヶ谷横溝屋敷を初めて訪れることができて満足している。それに引き換え、昨年4月に初めて訪れたスペインは長年憧れていた割には期待外れだった。男の料理を始めてスペイン料理が得意になり、パエリアなどを作っては、なおも未練がましくスペインに拘っている。

昨年7月には、白内障の手術を受けた。驚くほど物が良く見えるようになると聞いていたのだが、これも期待外れでスペイン旅行のようなものだった。「片手落ち」という言葉があるが、目もことによると片目でなくて両目を手術しなければならないのかもしれない。
 
ことによると、白内障ではなかったのかもしれない(緒方兄)。
何事も“白眼視”しがちな心の目の方に問題があるのかも(佐々木)。
(3)“世間”と“物差”(緒方兄)
NHKの番組の「謎かけ」に、「“世間”とかけて“鯨”と解く。心は、“昔は物差”でした」というのがあった。確かに、鯨尺が死語になるのと同じように世間も規範を示すものではなくなり“世間知らず”が横行するようになってしまったようだ。そこで、せめて“世間”並みの「謎かけ」を試みてみようと思って「“About38”とかけて」シリーズを習作してみたのでご披露したい。
(a) “高級寿司店の勘定”と解く。心は、“アバウトのように見えてアバウトにあらず”
(b) “与野党の国会論議”と解く。心は、“議事録が欠かせない”
バードウォッチングを始めて30種類くらいの鳥が見分けられるようになってきた。ところが、ここにも、自然の鳥を、餌付けをすることによって近づけておいて写真を撮る“世間知らず”のカメラマンがいる。これでは、鳥の世界の“物差”である就餌能力を失った“世間知らず”ができてしまうこと担ってしまって野鳥たちが気の毒だ。自分自身も、ゴルフをしていて“物差”である目の打球方向探知能力が急速に衰えてきたのを実感している。そのうちにもっと大切な“物差”の認知機能が低下してくるとこれが、「行く先は見えた。だけど覚えていない。」という“世間”体の悪い事態になってしまう。
(4) とてもボケてはいられない(野中兄)
東大の本郷キャンパスで行われた環境問題のシンポジウムからの帰途の根津の坂道は強風で目を開けていられない状態であった。こんな時期に突風が吹くのも、東京湾の水位が上がったために通常の屋形船では橋の下をくぐれなくなったり熱帯魚が東京湾に住みつくようになったりしているのとともに温暖化現象の一つかもしれない。改めて「京都議定書」の何たるかを考えてみると、とてもボケてはいられないと思えてくる。  
テニスの方も、とてもボケてはいられない状態になっている。昨年に続いて七大学OB対抗戦に出場することになったからだ。環境問題では「モッタイナイ」がキーワードになっているが、阪大卒在住者が少ない首都圏環境でも、私のようなテニス経験者をリユースしなければ「モッタイナイ」ことになるらしく、今後とも常連メンバーとしての参加がリサイクルされていきそうだ。こちらにとっても「モッタイナイ」機会なので、団体戦でもあり、出る以上は「ミットモナイ」試合だけはしたくないと思っている。実際にメンバーと交流してみると、それぞれに練習方法も違っているので、刺激を受け、考え方も変わってきた。
(5) “艶”なし「観梅」は“いかんばい”(山口兄)
例年なら2月と9月に歌舞伎小芝居の興行を行っているのだが、今年は目先を変えて325日に深川江戸資料館で「八王子車人形深川公演」を行うことになった。もともと「日本伝統芸能振興会」なのだから歌舞伎にばかり偏してもいられないのだ。日本舞踊の公演も含まれているが、私も司会・解説役としてそこに踊り出ることになっている。吉峰兄は「物くるる者」を評価しておられるが、私は物を上げられないので、日本伝統芸能その他エロエロについて「情報くるる者」として評価されるようにしたいと願っている。
本日の「観梅」には、残念ながら、昨年の三春滝桜「観桜」の時のような「感激」を感ずることができなかった。やはり、「観劇」を趣味とし「官能」派でもある我が身にとって「観梅」はどうも“いかんばい”。ハードウェアそのものを比べても、梅には桜のもつ“艶”が無い。やはり、“艶”があればこそ「感激」もし「官能」も満たされるのであろう。枯淡の境に達していない身にとっては、静かに観梅し続けているのは却って体に毒だ。ところで、「梅毒」は「梅」とどのような関係があるのだろうか。この言葉のために「梅」は不当に低い評価を得ているかもしれない。梅には気の毒は話だと思う。
(6) “色気”をなくしちゃ世も“末”だ(秋丸兄)
「緑の八王子」をモットーとする里山活動に参加しているが、その中で行われる竹取の作業が難しくてなかなか永続きしない。もっぱら竹取の翁になりきっている松崎兄は偉い人だとつくづく思っている。「松竹梅」とあるが、やはり「松」が「崎」なのだろうか。そうすると、「竹」は中で「梅」が“末”。
山登りにも「松竹梅」があって、「梅」クラスの高尾山に始まって鹿島槍ガ岳・五竜岳にも足を伸ばし、赤岳ではバカでかい五右衛門風呂に入る体験もした。ついでながら、その風呂にも「松竹梅」があって、赤岳の五右衛門風呂で出るのは“垢だけ”だが、別のものを出してくれる「柔らかい手」の風呂などもある。このたび、同名の映画を見て、人間いくつになっても色気を無くしちゃいけない、“色気”をなくしちゃ世も“末”だとつくづく思った。
秋丸兄の言う“色気”は読んで字のごとく「“色”気か」の“艶”と相通ずるものがある。映画の「柔らかい手」は「ラスト・コーション」とともに“色気=艶”レベルにおいて「松」クラスなので、是非“色気=艶”枯渇寸前の諸兄には感賞されるようお勧めしたい(情報をくるる者こと山口兄)。
(7) 梅の花よりボケの花(藤沢兄)
俳句を作りながら歩くのを「ハイキング」と言うは、二カ国語ができる梅林のギャルを「バイリンガル」というが如し。しかし、白梅に紅梅が混じる今日の梅林には、色気=艶が枯渇し尽くした乾燥梅(つまり梅干)もどきの元ギャルは数多見かけたが、「紅梅の花重なりて春近し」のような“ハイキング”が似合いそうな現役の“バイリンガル”はいそうもなかった。 
「まだ現役でいるのか。いつまでも一体なにをやっているんだ。」と親戚縁者からも呆れられていたが、更に、心無い(有る?)知己達からは「ボケ老害を撒き散らしているだけなのではないか」という声さえ聞こえるようになってきた。そこで、自分でも気になって親会社筋に進退伺いを打診してみたところ、親会社自体が存亡の危機にある現在、子会社の自立化は必須の要件であり、その推進役として自分も必須の存在だとして慰留されてしまった。ここ暫くは、梅の花の如く見事に散ることができないので、せめてボケの花の如く密やかに存在感を示しつつ枝にとどまっていることにする。
(8) “危機感”と“機器感”(高橋兄)

最近急に「歳」を感じるようになった。これからの10年間もあっと言う間に過ぎてしまうのだろうが、80歳〜90歳になった時の自分の姿を考えてみると危機感を感ぜざるを得ない。この「危機」感に拍車をかけているのがコンピュータやケータイなどの情報通信「機器」の日進月歩の進化ぶりだ。今まではなんとかキャッチアップしてこられたが、とてもついていけない状態になってきている。

特に、我々電話族にも馴染みやすかった「携帯“電話”」が、考えられないような機能まで備えた多機能端末「ケータイ」になり、“通話”が副次機能の一つに成り下がってしまっているのだから手に負えない。また、複雑な回路構成を持っていながら最も扱いやすい家庭内「機器」であったアナログTVも、デジタル化して多機能化するのにともなって俄かに扱い難いものになってしまった。だからと言って「アナログの時代は良かった」などと呟いていても「アナクロだ」と馬鹿にされるだけで、このまま行ったらTVを見ることもできなくなってしまう。「気力の面でも知識の面でもキャッチアップに限界がある」とする“機器感”が「このままでは姥捨て山状態になってしまう」という“危機感”の根底にあるのだと思う。
(9) ガラパゴスに徹する(開発兄)

ガラパゴス島を訪れて、ダーウィンの進化論の跡を辿ってみた。そこに、せせこましい「開発」による科学技術の進化が進展しつつある大陸とは裏腹に、泰然自若と時が刻まれている中で自然がゆったりと進化している孤島の姿を見て、「我々もガラパゴスに徹すればよいではないか」という老人生活に対する啓示のようなものを得た。たった一つ、しかも、それぞれに与えられた命なのだから、あれこれクヨクヨせず唯我独尊流でゆったりと心身を進化させていきたいものだと思う。  

昨年、遅れ馳せながら五十肩を経験して、これだけ科学技術が進化しているのに、五十肩には治療に役立つ妙薬や手術が「開発」されていないということを知った。これをそのまま受け入れて放置し、ひたすら体に適応力がついて自然治癒するのを待ったという古人の対処法の中にガラパゴス流に近いものがあるのを感じた。人生のあり方についての考え方を「開発」することに重点を移すべき時期に来ているのだと思う。
(10) 戦闘機オタクの境地に(山田兄)
夫婦で旅行に出かけても、それぞれの趣味が違うのでお互いに不満要素が残ることが多い。女房殿に絵画やオペラなどの芸術指向が強いのに対して、小生は非行(飛行)癖が一向に改まらず依然として、往年のゼロ戦から新鋭のステルス戦闘機まで、世界中の戦闘機の尻(?)を追っかけまわしている。もはや、オタクの境地に達しているので、そのうちに、我が別称も「似非江沢民」から「真正オタク民」に変わるのではないかと思っている。  
戦闘機にはまっているからと言って、決して軍国主義者ではないということは、戦艦に対してほとんど関心を持っていないところからも分かってもらえると思う。英語で”ship”を代名詞で受ける場合に”she”が用いられているように、船は女性的なので本来は愛好の対象なのではあるが、飛行機との間の男同士に似た触れ合いを感じることができない。それに、「大船に乗ったような気分」でいるのは性に合わない。後悔(航海)しているより非行(飛行)を繰り返している方が気が楽でもあるので、ますます戦闘機オタクの道にのめり込んでいきそうだ。
(11) 体力・気力の復元へ向けて(斉藤兄)
腰痛で病院に担ぎ込まれて、独身の若い看護婦の介護を受けた時には結構楽しくて「病院生活もいいものだ」と思って、快癒後も仮病を使ったりして退院時期を引き延ばすようなこともしていた。しかし、現在は、体に気をつけて、努めて歩くようにしている(12,000-13,000歩/日)せいか体ピンピンで、憧れの病院生活に復帰できる見込みが立たない。
しかし一方で、痴呆症の方が大変なことになってきているので、今度はそちらの方の楽しからざる病院生活を強いられるようになるのではないかと心配している。チンパンジーやオランウータン以下の状態で同時に二つのことしか覚えられない。このため、テニスに行ったのにラケットを持っていくのを忘れたこともある。特に5年前に体力・気力が急激に衰えて以来ひどくなっているので、脚を鍛錬して体力を復元するとともに、友達と刺激を与え合う機会を増やすことによって気力面を強化するようにしている。About38はまさに気力充実の好機なのだが、本日はPartT.大倉山分科会の散策によって体力強化に資することもできた。
(12) 名主」が“イナダ”で「庄屋」が“ハマチ”(高田兄)

山登りや謡曲に勤しみながら、時折、読書で時を過ごしている。先日は塩野七生著「ローマ人の物語」を読んだが、「人間とは進歩しないものなのだ」という思いが読後感として残り、特に、指導者が近代になるに連れて小物になったということを感じた。

日本でも奈良時代には花と言えば梅で、梅の花を愛でる人が多かった。アバウト諸兄を始めとして桜の方を愛するようになった現代の日本人の方が奈良時代より進歩したかどうか大いに疑問である。
PartTで獅子ヶ谷町の「横溝屋敷」を訪れた際に「名主」と「庄屋」の違いについてかなりアバウトな議論がされていたので、「関東では名主、関西では庄屋なんだよ」と説明した。すると、佐々木から「なんだ、それじゃ、“イナダ”(関東)と“ハマチ”(関西)の違いと同じじゃないか」と言われてしまった。栃木県の名主の家の出自としては、魚と同列にされるのは面白くないが、指導者階層としては最下層だったのだからブリッ子(出世魚ブリの成長過程)呼ばわれされても仕方あるまい。しかし、それでもなお我が祖の家主様たちは、指導者階層こそブリに近い“ワラサ”(関西では“メジロ”)になっているものの、人物的には小物化して“イナダ/ハマチ”以前の“ワカシ”(関西では“ツバス”)に成り下がってしまった現代の代議士たちより遥かに人間的に大きかったように思う。
(13) 「首色」と「首美一環」(清水兄)

「コクビ」は「小首」だが「オクビ」は「?」で“げっぷ(胃から口に出てくるガス)”の意味なのだとか。コクビが回らないからという理由で観梅会参加を見合わせた手前オクビにも出さないつもりでいたのだが、実は、渋谷・文化村で秋丸兄が先刻お勧めの映画「ラスト・コーション」を既に見ているのだ。「首」を痛めると「酒」も飲めなくなり「色」気をなくすと思われがちだが、「首色」は「酒食」に通じているのだ。

「首」痛のお陰で、「色」気だけは残っているが、「美」的感覚が薄れてしまっているのではないかと、これまた思われがちなので、同じ渋谷・文化村でルノアール展を見て「首美一環」しているところを示した。印象派を代表する画家ピエール=オーギュスト・ルノワールと、彼の息子であり偉大な映画監督であるジャン・ルノワールの二人に焦点を当てた親子丼展示会で、父の絵画と息子の映画を同時に観賞してきた。
(14) 不見識は断じてアバウトに非ず(稲垣兄)

周辺にアバウト過ぎることが多すぎるような気がしたので読書による「脱アバウト」を目論んでみた。そのうちの一つが丸山真男著の「『文明論の概略』を読む」。ご存知の通り、『文明論の概略』は福沢諭吉の著で、当書はこれに丸山真男が論評を加えたもの。朝日新聞に紹介された東芝・西田社長の奥さんの話に触発されて読んだのだが、20年余りも前に(1986)刊行されたこの本をまだ読んでいなかったことを恥ずかしくさえ思いつつ読んでいる。ここでは自分が「福沢諭吉」に対して持っていた認識が如何にアバウトなものだったか思い知らされている。明治時代の初めに、世界的視野をこれだけ広く持って「文明」を論じているのは大変なことだと思う。さすがに一万円札になるだけのことはある。彼が創設した慶応大学のみならず、現代の政財界や官僚たちに先覚者・福沢諭吉の世界観と文明に関する見識が正当に引き継がれているようには到底思えない。我々も、せめて一万円札を使うたびに、現代日本の「不分明論の害悪」を恥じるべきではないかと思う。

もう一つは、「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」という本で、ここでは「イスラエル」に対して持っていた認識が如何にアバウトなものだったか思い知らされた。ご存知の通り、アメリカは欧州での迫害から逃れたピューリタンが興した国だが、彼らが旧大陸から新大陸に渡る際、自分たちの行動を、古代のユダヤ人がエジプトの圧政を逃れて「約束の地」(今のパレスチナ・イスラエル)へと移住する旧約聖書の「出エジプト記」の故事になぞらえたということである。もともと、アメリカとイスラエルには共通項があるのだから、両者の論理が合致しやすいわけである。これに対して、日本はアメリカとの間で因数分解できる要素が無いのにもかかわらず、依然としてインド洋で給油活動を続けているところからも分かるように、専らアメリカの論理に従って動いてきた結果、「アジアにおけるイスラエル」のような存在に成り下がってしまった。ここでも、現代日本の政財界や官僚たちの世界や歴史に対する見識の無さを改めて痛感させられた。思いなおしてみれば、「アバウト精神」は遊び心を伴うものであり、その根底に見識があってこそ生まれるものだ。従って、不見識は断じてアバウトではないのだ。ふつつかにも「脱アバウト」を目論んでいた自分の「不見識」を恥じてもいる。
(15)「大阪」と「東芝」で世間が狭い?(表兄)

よく友人から、「名前の通りで表には裏が無いんだな」と言われるが、表(建前)と裏(本音)の乖離がないところは、私個人ではなくて大阪人に共有の特性で、我々大阪人は、例えばデパートでもなりふり(建前)構わず値切り交渉(本音)をする。今日PartTからこのPartU会場に来るために、バス停で「綱島」行きを待っている我々の目の前の「鶴見」行きのバスが通り過ぎて、対向車線のバス停に停車した。自分は、なりふり構わず道路を横切っていって発車したてのバスを止め、アバウト諸兄を手招きして乗車してもらった(佐々木からは「表がPartTの“裏”の立役者だった」と感謝されたが)。建前(バス運行ルール)にもかかわらず本音の要求に応えてバスを止めてくれた運転手さんも多分大阪人だったのだろう。 

来年開港150年となる横浜港の界隈を始めとして横浜市内には我々世代の大阪人が結構多く、時ならず近所の小学校PTA会長の大阪弁丸出しの大声挨拶を聞いたり、臨海学区にある横浜緑ヶ丘高校のPTAで大阪人に出会ったりすると、大阪人の小生には「世間は狭いものだ」という思いがする。ところで、日仏交流も同じく150周年で、東京、横浜等で催しが活発に行われている。ここでは、小生も日仏交流事業の“裏”方を務めているお陰で、東芝同期の吉田紘之君(府中、Sydney, London)との出会いがあり同兄が夫婦で日仏会館に入会してくれている。また、先日は、ひょんなところで、これも東芝同期の山田宗男君(電子)に出会った。このように、「大阪」とともに「東芝」も小生に「世間の狭さ」を感じさせてくれているが、ことによると、「大阪人」であるとともに「東芝人」でもある小生の行動範囲が広いのかもしれない。
(16)「バラ転換」の勧め(小林兄)

昨年11月末頃NHKのクローズアップ現代で コラムニストの天野祐吉が 「年寄りが元気でないといけない、若者が早く歳を取りたいと思うような世の中が理想だ」という趣旨のことを言っていのを聞いて元気付けられたが、アバウト諸兄の言動を見ていると我が意を得たりの感がする。松本兄が良い例で、未だに渋谷辺りの若者の街を徘徊し、よく女の子から声をかけられると聞く。正に熟年の星だと思う。若者達も松本兄を見たら「早く歳を取りたい」と思うだろうし、自分自身も、徒に馬齢を重ねていないで、松本兄の後にくっついて、渋谷や原宿などの若者の街を歩いて女の子から声をかけられるような熟年になりたいと思う。

有為転変」ならぬ「ウイ転換」という佐々木妙語がある。「十で神童(シンド“ウ”:shinndo"u")と言われた人が二十歳過ぎて並の「しんどい(シンド“イ:shinndo"i")」存在へと身を持ち崩してしまう「東大生にありがち“シンド”ローム」をとらえて妙(チキリン)な言葉だが、自分は更にこれを前向き発想に変換した「バラ転換」を提唱したい。「あの時こうすれ“ば”/ああすれ“ば”良かった」などと考えれば夜も寝られなくなるし、「年甲斐も無くこんなことをすれ“ば”恥ずかしい」などと思っていては気が滅入ってしまう。こうした「バ」発想を「こうしたか“ら”/ああしたか“ら”こそ良かったのだ/今があるのだ」、「こんなことをした“ら”自分も熟年の星になれる」といったような「ラ発想」に転換するのだ。このように「バラ転換」をすれば、心がバラ色になり、その先に元気な年寄りになるバラ色の未来が見えてくるに違いない。
(17) 善人なおもて長寿を全うす?(久保田兄)

大倉山梅園には40年以上前に日吉寮の仲間5名と来て以来だ。その5名はマージャン仲間で片倉信英(電波機器事業部)坪井浄(同)布野修司(同)栗田貢(建設部)と小生。そのうち、奇しくも“東北”大出身の片倉・坪井の2名が早逝している。やはり、善人から先に逝くことになっているらしい。自分も、人吉出身のお人好し(善人)だが、出身が“東北”ではなくて“西南”(九州・熊本)なので、なかなか順番が回ってこず、そのうちに「善人なおもて長寿を全うす」ということにさえなりかねない。“東北vs西南”は“non アバウトvsアバウト”とも見られる。案外、アバウトさが長寿の秘訣なのかもしれない。

大倉山記念館は、外見も立派だが内部にも端麗さが感じられた。大倉邦彦翁も、肖像を見るかぎり外見が立派で、内面的にもひとかどの人物であったらしい。About38のメンバー諸兄も、少なくとも外見は翁に引けを取らない風格を備えておられるし、内面的にも翁を遥かに凌ぐ堂々たるアバウト性を身につけられておられると思う。自分も、負けずにアバウト性を豊かにして内面を高めたいと願っている。今日も、梅見をしながら、俳句という性分でもないので川柳を一ひねりしてみた。諸兄には私のアバウト成長度をどのように評価していただけるだろうか?
      「馬鹿でない証拠に梅を切って見せ」
―  そう言えば、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言う句があったナ(吉峰兄)。

(18) “事故”による“自己”の目覚め(松本兄)

ボケ防止対策をステップアップさせるため、高橋兄に弟子入りして一眼レフの世界に進みたいと目論んだ。そのためには、9年間使ってきたPCではどうにもならないので、東芝のハイエンド機に買い替えたのだが、これがインターネットにもうまく繋がらず機能不全と分かった。それから1週間、「PCサポート」の電話リモコンを受けて、プロバイダ、トレンドマイクロ等々とさんざ調査されまくった挙句、結局、マシントラブルであることが判明し、入手したばかりのPCは技術部隊へ引きあげられることとなった。そしてなおも原因調査中の状態が続いたので、業を煮やして手元にマシンがないまま2週間目でキャンセルしてしまった。

・  “事故”責任が“自己責任”ではなく他社の責任であると思い込んでいたために、機械の販売機会を損失してしまったわけだが、このような後輩たちの姿をOBとして情けなく思いながら見ていてハタと思いつくところがあった。それは、昨年、ゴルフクラブを全面取替えしたあと、絶不調に突入して落ち込んでいた自分の姿であった。あの時、自分も、OBやシャンクなどのショット“事故”を他(ゴルフクラブ)に責任を転嫁していて、実際は“自己責任”なのだと気がついたのはずっと後になってからのことであった。こんな情けないOBがいたからこそ情けない後輩ができてしまったのかと、更に“自己責任”を深く感じた。「艱難汝を玉にす」でもないが、PC“事故”のお陰で“自己”に目覚め、災いを転じて福にすることができたと思っている。

B.敏行法師法話(吉峰兄)
本日は梅の華(大倉山)から中華街に渡り歩く華々しい一日であった。今回は会場奉行(勘定奉行も)を務めた手前、2/4に中華街に下見に来たが、中国・餃子の風評が祟ってか、さしも昔日は押し合いへし合いの盛況を誇っていた中華街も閑散とした状態であった。しかし、人の噂75日が過ぎたのだかどうか、今日は活況を取り戻しつつあるように感じた。
「横浜・中華街」は確固たる存在のように見えるが、有為転変は世の習いで、このように中華街とて例外ではない。因みに20年前の中華街の案内図をみてみたが、かなりの店が無くなっていたり経営者が変わっていたりしている。それぞれに店が絶えず“寂れる危惧”を抱きながらやってきているのだということがよく分かる。
芭蕉は奥の細道の終着点・大垣で芭蕉俳諧の根源をなす重要な発言をしている。有名な「不易流行」の説である。「不易を知らざれば基(もとい)立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」、つまり、「永久に不変なるものを知らなければ俳諧の基本に立ちがたく、常に変化する流行を心得なければ先端的な俳風が得られない」ということだ。
芭蕉は奥の細道の旅の実践を通して「不易流行」という俳諧の究極の在り方を悟ったと言えるのではないかと思うが、「不易流行」は我らがAbout38にもうってつけの言葉であり、About38精神を中華街にも学ばせてやりたいと思う。生誕15年になるが、アバウト精神の「基」は確固としていながら都度「風新たな」雰囲気を保ち続けてきたからだ。About38メンバー各位が持ち前の英知と機転を持ち続ければ“寂れる危惧”とも無縁でいられるはずだ。
以  上
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