About38 箱根分科会 & 2008/6例会メモ

1.日 時:2008622日(日)〜23日(月)
イベントA 紫陽花観賞(箱根登山電車車窓より)
イベントB About382008/6例会
「箱根塔ノ沢温泉・福住楼」宴会場)
イベントC
小田原城址観光・白昼小宴会
小田原城址公園及び蕎麦処「本家・東喜庵」)
3.参加者(敬称略・五十音順):
浅香泰三(イベントA〜C中途)、岡田亘弘、岡田夫人、
緒方堅吉(イベントB〜C、久保田正彦、松本寿弘(イベントB)山口善弘、山田邦昭、山田夫人、吉峰敏行(イベントA〜B)、佐々木洋(議事録捏造)


イベントA:紫陽花観賞会レポート
2008年6月22日(日)  

箱根路紫陽花満開の証か観光客満開の箱根湯本

所定の集合時刻(12:50)までにはまだ間があるので、幹事が所定の集合場所(箱根登山鉄道「小田原駅」改札口)に向けてゆっくりと歩を進めておりますと、目ざとくそれに気づいたメンバーがいて遠くから手招きして歩をせかせます。なんと、幹事を除くイベントA参加予定のメンバー8人が既に勢揃いしていたのでした。それでもって、吉峰兄に「この紫陽花の時期は電車が込むんだから」と更にせかされてプラットフォームに向かい、先ずはめでたく、予定通り小田原駅13:01発の電車に余裕を持って乗り込むことができました。
「板橋」を過ぎ、箱根駅伝の通る国道1号線沿いに、「風祭」、「入生田」という子どもの頃から慣れ親しんできた名前の駅を通ると、本当に久方ぶりに乗った「箱根登山鉄道」に対する懐かしさがこみあげてきました。しかし、いつの間にか、この「箱根登山鉄道」も変わっていて、小田原始発で「強羅」駅まで直行だと思い込んでいたのですが、現在乗っているのは「小田急」の車両であり、「箱根登山鉄道」の車両には「箱根湯本」駅で乗りかえなければならないのだということが分かりました。
そして、先刻の小田原駅での吉峰兄の「この紫陽花の時期は電車が込むんだから」という台詞も実は「箱根湯本」駅にこそ当てはまるのだと思い知らされてしまいました。「強羅」行きのプラットフォーム上は紫陽花観賞の観光客で満開の状態で、辛うじて「最後尾」の看板で行列に並ぶべき位置が確認できたほどでした。しかし、これは箱根路紫陽花満開の証。タイムリーなイベント企画ができたことをほくそ笑みながら、一便見過ごして次の電車に乗り込んで、思い思い窓際座席を確保して、車窓からの紫陽花観賞に準備万端整えました


艶やかに雨に滲むや紫陽花の花

「箱根湯本」駅を出るとすぐに車窓に色鮮やかな紫陽花が姿を見せ、登山列車車内に歓声が上がります(下写真左)。梅に鶯、紫陽花に雨で、窓ガラスについた雨滴も趣を添えています。そして、煙る小雨に艶やかな紫陽花の色が滲んできたかと思うと(下写真中央)、やがて下写真右のような“芸術写真”しか撮れなくなってきてしまいました。そう、色が滲んで見えたのは雨のせいかと思いきや、登山電車が速度を上げていたためだったのです。


花咲か爺さん健在
です

しかし、好事魔多し紫陽花間悪しで、「塔ノ沢」駅より上は時期尚早らしく、時たま小ぶりの花が車窓に姿を現すのがせいぜいで(下写真左)、やがて、咲きそろった姿は“心眼”でしか見ることができなくなってきてしまいました。登山列車車内に広がる失望感。しかし、我らAbout38一同は意気消沈する人々をよそ目に、紫陽花談義や登山鉄道論に花を咲かせ、花咲か爺さんの健在ぶりを示していました。ことによると、終点の「強羅」駅で鉢植えの白い紫陽花(下写真中央)や顎紫陽花(下写真右)が大輪の花を咲かせていたのも、我々花咲か爺さんのせいかも知れません

紫陽花めぐるいい加減な一家言

山田兄は「紫陽花は同じ酒飲み仲間なり 青くなったり赤くなったり」などと戯れ歌を詠っていましたが、誰の言やら「紫陽花はリトマス試験紙の如し」という説も聞こえてきました。紫陽花の花は、土壌の酸性度によって、赤(アルカリ性)〜青(酸性)に変化するそうですから、“いい加減な一家言”にしては上出来な方なんじゃないでしょうか。しかし、同じ株の花でも、蕾の頃には緑色がかっていたものが、やがて白く移ろい、咲く頃には水色または薄紅色になり、更に、咲き終わりに近づくにつれて花色が濃くなっていくというように、花の色が変わります。紫陽花に「移り気」という少々不名誉な花言葉が与えられているのはこのためなのでしょうか。
また、紫陽花の花びらに見えるものは実際には「顎(がく)」であって、しかも、一つの“花”を構成する顎は一つ一つ違う形をしているのだそうです。「紫陽花の顎のそれぞれに個性がありながら全体として調和が取れているところはAbout38とそっくりだ」という吉峰兄の言も“いい加減な一家言”と片付けてしまうのには口惜しいものがあります。しかし、その場合には、「移り気」ではなくて、紫陽花の別の花言葉である「謙虚」や「辛抱強い愛情」をAbout38の“花言葉”としたいものです。
ところで、「あじさい」がどうして「紫陽花」と漢字表記されるのかよく分からなかったのですが、もともと唐の詩人白居易が別の花に名付けた「紫陽花」を、平安時代の学者源順が「あじさい」にあてはめたことから誤って広まったのだのだということが分かりました。源順先生の方が我々よりはるかに“いい加減な一家言”の持ち主だったわけです。紫陽花の学名"hyderangea"は、"hydro(水)+angeion(容器)"というギリシャ語が語源だそうですが、やはり「あじさい」に似合うのは“陽”ではなくて“水”ですよね。ですから、私が前言した“紫陽花に雨”も、“あじさいに雨”と平仮名表記でもしないと“いい加減な一家言”とされてしまいそうです。

勇気ある撤退

しかし、雨が添え物になる“あじさいに雨”なら風情があって良いのですが、次第に雨の方が強くなってきて“雨にあじさい”状態になってきてしまいました。しかも、登山電車の高度が増すに従って紫陽花が時期尚早状態になってきたので、幹事も「どうしようか(紫陽花)」と頭を悩ますことになってしまいました。そこで、「アジサイの敵をバラで討つ」こととし、強羅公園のローズガーデンを訪れるべく「強羅」駅から雨中に飛び出しました。しかし、そんな我々を待ちかねていたかのように、雨足が急に勢いを増し、かねて“あじさいに雨”用に銘々が持参してきた傘を叩き始めてきました。そして、遂にはアスファルトの坂道が流れ下ってくる雨水で浅瀬の状態になってしまったので、残り僅か徒歩5-6分だというのに、我々は撤退して「強羅」駅に戻る決心をしました。そればかりでなく、後刻、宴会を早目に切り上げて実施する予定にしていた箱根登山鉄道「塔ノ沢・強羅」間往復による「夜あじさい観賞」のイベントも取り止めることとし、本日は我らが投宿先である箱根塔ノ沢温泉「福住楼」にて、じっくり酒を酌み交わし、とっぷりと温泉につかることとしました。

“すべらない”登山電車の話

鉄道についてはちょいとウルサイ山田兄によると、鋼索線で引き上げるケーブルカーと違って、鉄道線で傾斜地を上下する登山電車は滑り止め対策が大変なのだそうです。特に、2本のレールの間にあるギザギザの歯型のレール(ラックレール)を敷設し、車両の床下に設置された歯車とかみ合わせることによって急勾配を登り下りする「ラック式鉄道」(よく耳にする“アプト式”もこの一種なのだとか)と違って車輪とレールとの摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う「粘着式鉄道」の場合には並大抵の滑落防止対策ではすまないのだそうです。そのため、箱根登山電車には、電気的に車輪の回転をとめる電気ブレーキの他に、機械的にレールを“鷲づかみ”にするブレーキや、強力な電磁石でレールと車体を“合体”させてしまうブレーキ、空気の圧力で特殊な石をレールにおしつけて電車をとめるレール圧着ブレーキといった4種類のブレーキが取り付けられているのだそうです。山田兄が“鷲づかみ”や“合体”などの身振りを交えて熱弁をふるうものだから、話はスベルことなく、一同「たかが登山電車」から「されど登山電車」に洗脳され、秘められた登山電車の技術の一端に感嘆するところとなりました。なお、登山電車には散水タンクがあって、走行中、車輪とレールの間に水をまきながら走っているのだということも初めて聞きました。レールの磨耗を防ぐためで、普通の鉄道なら油を塗るところを油では急勾配で車輪がすべって危険なため水をまいて走るのだとか。散水タンク方式の採用に当たっては、往時の担当技術者の間で大いなる「水掛け論」が交わされたことでしょう。

世界の登山電車についての受け売り話

ところで、「塔ノ沢」駅までの下りの登山電車車内で、♪登山電車ができたので…行こう行こう火の山へフニクリフニクラ♪の「フニクリフニクラとは何ぞや?」という甚だ“学究的”な質問が出た時には誰からも答が出なかったので、後日調べてみたところ、「フニクリフニクラ」はイタリア原産の歌の名前なのだそうです。もともとは、1880年に敷設されたナポリの東方にあるヴェスヴィオ火山の山頂までの登山鉄道(フニコラーレfinicolare)の宣伝用に作曲されたものであって、これが世界で一番古いコマーシャルソングとされているのだそうです。
世界云々といえば、「箱根登山鉄道の勾配は80/1000(80パーミリ:1,000m走る間に80mの高さを登る勾配)で世界第2位」といった旨の車内アナウンスがありました。これについても「では、世界一はどこにあるんじゃ?」という詮索がしきりだったのですが、「多分スイスの…」程度のアバウトな結論で終わっていましたので後日調べてみました。どうもこの場合は“粘着式鉄道としては”の注釈が必要なようで、粘着式鉄道ではオーストリアのペストリングベルク鉄道の世界一の最勾配(105パーミル)に次ぐもののようです。しかし、ラック式鉄道」の部には最大勾配480パーミルで最高地点2070mのピトラウスクルムまで登るピトラウス鉄道という世界チャンピオンがスイスにいます。
スイスには、この他に、最高地点3454mのユングフラウヨッホまで登るユングフラウ鉄道(最大勾配250パーミル)や、ツェルマットと最高地点3089mのゴルナーグラードの間を上り下りするマッターホルン展望で有名なゴルナーグラード鉄道(最大勾配200パーミル)など、いずれもラック式鉄道」の“猛者”たちがいます。


自然との調和度では世界一

さはさりながら、車輪とレールとの摩擦力(粘着力)だけが頼りの粘着式鉄道の箱根登山鉄道にとって、80パーミリ(しかも80パール級の急勾配が何箇所もあります)の急坂の交通を制御するのは大変な事業です。何しろ、3両編成の場合、1両目と3両目とでは、建物にすると1階と2階ぐらいの高さの差になってしまうのですから。このため、箱根登山線では、出山信号場、大平台駅、上大平台信号場の3箇所でスイッチバックをやって車両の進行方向を逆向きにしジグザグ走行にすることによって傾斜角を減じています。スイッチバックをする都度、運転士と車掌が“コートチェンジ”するというのも何とも牧歌的な感じがします。
基本的なは、国立公園・箱根の外輪山と内輪山の間を走るのですが、自然の景観をそこねることのないように建設されており、13ヶ所、延べ2kmにおよぶトンネルが掘られている他、国の有形文化財になっている「出山鉄橋」をはじめとする26ヶ所の鉄橋も自然と調和するよう架けられています。実際、走行中に線路脇の紫陽花の葉が車窓に触れるところが何箇所もありました。また、沿線に棲むウサギ、タヌキ、リスなどの動物たちとも共存しているらしく、「イノシシ出没地帯注意」と書かれた標識も随所に見ることができました。自然との調和という面では、この箱根登山鉄道が文句なしに世界一と言えると思います。昨年、ユングフラウ鉄道とゴルナーグラード鉄道に乗ってきたばかりの私が言うことですから間違いありませ…いや、これも“いい加減な一家言”だったかな。


イベントB:About382008/6例会
2008年6月22日(日)

下の再生(右向き三角)釦をクリックすると現地で録音した"早川の濁流音"が聴こえます



文人墨客ゆかりの宿のレトロな雰囲気を満喫

箱根登山鉄道の「塔ノ沢」駅から九十九折れ状の道を下って国道1号線に出て、幹事が右往左往、結局一迷いして「福住楼」に着きました。雨の中、一同を“路頭に迷わせてしまった”のは、登山電車の「塔ノ沢」駅で降車したのが初めてだったからなのですが、日曜日の午後だけあって渋滞が激しい“下り”の国道1号線の状態を見れば、途中からバスを利用せず、ずっと登山電車で“下山”してきたのはやはり賢明だったのかなと思います。玄関の構え(下写真上段左)は、さすが、夏目漱石、島崎藤村など文人墨客が常宿とした箱根でも屈指の老舗宿と思わせる古式ゆかしいものでした。
“名門”小田原市城山中学校と神奈川県立小田原高校で幹事と同窓同期生の経営者・澤村恭正兄の出迎えを受けた私たちは、これも古式ゆかしい螺旋状の階段(下写真上段中央)を上がって、かつて坂東妻三郎が新婚旅行で泊ったという部屋(下写真上段右)に招じ入れられました。
すぐ近くを、普段は清流のはずの早川の濁流(下写真下段左)が激しい音を立てて流れています。明治の創業以来、福沢諭吉や幸田露伴なども、この早川の畔に佇む宿を訪れ定宿としていたそうです。「レトロ」とはこういうものだという雰囲気がそこはかとなく漂ってくるお陰で、凡人ながらいっぱしの文人になったような気分にさせてもらいました。
予定を前倒しにして早目に着いた我々とほぼ同時刻に「福住楼」に現れた松本兄は、ちゃっかりと、澤村社長の案内を受けて、かつて川端康成が逗留執筆していた部屋、(下写真下段中央)と、その外部(下写真下段右)まで見学して撮影してきておりました(因みに当項目の写真は全て松本兄撮影によるものです)。



一度は泊ってみたいホンモノ温泉宿

「箱根温泉」というのは総称であって、この塔ノ沢温泉も箱根温泉のうちの一つで、江戸時代には湯本・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯とともに「箱根七湯」に数えられた温泉なのだそうです。この箱根七湯は早川沿いに点在していて、これらの温泉地を結ぶ道はかつて「箱根七湯道」と呼ばれたのだとか。これが現在は国道1号線の一部となり、この「福住楼」の玄関先の道を箱根駅伝のランナー達が駆け上り駆け下っているわけです。
この塔ノ沢温泉は、酒井、藤堂、毛利などの諸大名や家族が湯治入湯したことが知られていて、将軍家への献上湯樽がこの地から運ばれたこともあるそうですが、その中でも「福住楼」の温泉は高く評価されているようです。似非温泉に対して厳しい見方をしておられる温泉辛口評論家の松田忠徳“温泉教授”著による「一度は泊ってみたい癒しの温泉宿」では「平成温泉旅館番付」を発表していますが、この中で「福住楼」は東前頭十三枚目に格付けされています。箱根の温泉旅館多しといえど番付入りしているのは「福住楼」だけで、その単純温泉の泉質と、神経痛・関節痛・疲労回復の効能とともに“ホンモノ温泉”ぶりが評価されているのです。
かつての文人たちと同じ気分になったつもりで私たちも、この「一度は泊ってみたい癒しの温泉宿」の“ホンモノ温泉”で、雨に煙る対岸にある山の緑を眺めながら、銅で縁どった檜づくりの大丸風呂にとっぷりと浸かって心豊かな一時を過ごし、心身の疲れを癒しました。

清く正しく、美しい「会席料理」を堪能

やがて到着した緒方兄も含めて、思い思い温泉入浴を楽しんでから、宴会会場となる“板妻部屋”に三々五々集合し、例によって例の如き「乾杯の練習」が始まります。例によって例の如きでないのは入浴直後であること。やはり湯上りのビールに勝るものはありません。そうこうするうちに、「水無月献立」に則って、逐一料理が供され夕餉の卓に彩が添えられてきました。天子香り蒸(アマゴはヤマメの痴呆症、じゃなくて、地方称です)や巻き海老などが盛られた「前菜」の皿と敷き紙にも紫陽花の装いが配されている(下写真上段左)のが季節感を表していて素敵です。箱根の良いところは相模湾に近いことで、新鮮な島鯵、福子(出世魚スズキの“出世過程”のフッコ。因みに、不出世魚ササキは煮ても焼いても食べられません)、アオリ烏賊、牡丹海老の「刺身」(下写真上段中央)が、山にありて“海”を味あわせてくれました。次いで、時鮭塩焼きの「焼き物」(下写真上段右)、足柄ローストビーフの「洋皿」(下写真下段左)、茄子に素麺の「冷し鉢」(下写真上段中央)や、あいなめ唐揚げの「揚げ物」(下写真上段右)などが頃合良く運び込まれ、我々の杯持つ手の動きを加速してくれました。因みに、「懐石料理」が“茶を楽しむためのもの”であるのに対して「会席料理」は“酒を楽しむためのもの”なのだそうです。私たちは、清く正しく、美しい「会席料理」を食したことになるわけです。

談 話 収 録

人間到る処青山あり
(佐々木)

この度(6/14)の岩手・宮城内陸地震の際には、は揺れが激しい上に長かったので、さすが“太っ腹”な私も2階の窓を開けて、不慮の事態にはそこから庭に飛び降りようと覚悟を決めたほどでであった。いくら芝生とはいえ、85キロのメタボ物体が落下していったとしたら、地揺れも加わり骨折り損ということになったことであろう。
ショックだったのは、小名浜の海岸で釣り人が崖崩れの岩に押しつぶされて落命したことであった。過去に何回も同じような釣り場で釣り糸を垂れた経験があるだけに、とても他人事とは思えない。
しかし、「人間到る処青山あり」、人間はその気になれば何処ででも死ねるのだからと開き直って、今後ますます積極的に出かけるようにしようと自らを督励している。

幹事の地縁と血縁に感謝
(緒方兄)

昼の紫陽花は昨年満喫しているので、今回はイベントAをスキップして、夜の紫陽花観賞に期待していたのだが、計画が変更されてしまって残念な限りだ。しかし、インターネットで検索してみて、この「福住楼」が由緒ある旅館だと知って、改めてこのイベントの実現に結びついた佐々木の“地縁”に感謝している。明日行く予定の小田原の「本家・東喜庵」も、昨年大学時代の友人と訪れて大満足したので、今回の行程に組み込むよう提案させてもらった。こちらは佐々木の実家筋。幹事の“血縁”にも感謝している。
緒方・久保田両兄の熊本“地縁”コンビは、互いに向かい合って末席(隅)に座したため、私語を交わすことが多く、「こら、クマモト!」というイェローカードが再三呈されることとなった。しかし、元をただせば、この「福住楼」も、「塔ノ沢福住」を元熊本藩士の澤村高俊が買い取ったのがルーツで、いわば熊本の“地縁”緒方・久保田両兄の“地縁”コンビは「隅に置けない」存在だったのかも。

小田原は鮮魚といえばチキンなり(久保田兄)

集合時刻(12:50)までに時間があったので、鮮魚料理の「魚国」に行って昼飯を食べようと思ったのだが、ひどい雨の中なのに待ち行列ができているので、やむなく隣の洋食屋に飛び込んだ。しかし、思いがけず、そこのメニューに「本日の鮮魚」があったので躊躇わずオーダーしたのだが、供されたのは鮮魚ではなくて実はチキンであった。九州では「酒といえば焼酎」だが、小田原では「鮮魚といえばチキン」なのかもしれない。
「塔ノ沢」駅から浅香兄に次いで二番手で降りてきたのだが、国道1号線を誤って右に曲がった浅香兄の後を黙ってついていってしまった。この「疑うことを知らぬ」付和雷同振りに、久方ぶりに反省らしきことをしている。

負うた親に教えられ(山口兄)

6歳になる母親を介護していると、長生きした人なればこその悲哀や苦労なども共感することができ、苦労も多いが良い勉強になる。短期入所のケアサービスを受けても仲間とのコミュニケーションがうまく取れず、人間関係で苦労しているのも年齢格差が拡大したからなのだろう。「“後期”高齢者」の線引きが問題になっているが、96歳ともなるともはや“超後期”なのだ。それぞれに相応の対応を要するはずの“初後期”高齢者(75歳)、“中後期”(85歳)と“超後期”(95歳)を一緒くたにした介護制度には問題があると思う。
また、「ボケ」を英語では"Second Childhood"というらしいが、意識的なのか無意識的なのか分からないが、子どもに戻って甘えているような節も見える。やたらに「死ぬ死ぬ」と口走ったり、ちょっとした呼吸困難状態でも我慢できずオーバーな表現で散々人を慌てさせた挙句、少し間をおくとケロリとしたりしている。今回、一泊旅行に出かけてくるのは心配であったが、本当の臨終でない限り「2-3日では絶対死なない」と思わせられる経験を何回もしてきているから旅行に参加できたのだ。そうは言っても“本当の臨終”とはどんなものなのか。いずれにしても明日は我が身。「負うた親に教えられ」の心がけをもって介護に当たり続けていくことにする

水と油の夫婦関係(岡田夫人)

夫婦で入っている絵画クラブ「光彩会」の展覧会が終わったばかりで一段落しているところです。一般に、混ざり合わず分かれてしまうことを「水と油」と申しますが、私たちの場合は、“水”彩画の主人と“油”絵の私がいつも一緒で、スケッチ旅行などもともに楽しんでいます。
明日も、イベントCの皆さんとは「水と油」の関係にして、夫婦だけで紫陽花のスケッチをしようと考えていたのですが、小田原の花菖蒲観賞に同行させていただくことになりました。明日もよろしくお願いします。

  
<円満なる夫婦関係に関するいい加減な一家言>
夫は“油”ぎり過ぎぬこと。妻は“水”くさきことのみ言わざること

清濁併せ呑む“文学青年”に(松本兄)

来しなに土木遺産に指定されている「千歳橋」を渡り、その下を早川が濁流となって流れ下っている迫力のある光景を見てきた。年に何回かしかない大水量だそうだが、今こうして、あたかも頭の上の方から聞こえてくるような濁流の咆哮を聞いているとワクワクとした気持ちになってくる。清流だけでなく濁流の姿や音まで堪能できるようになって、「清濁併せ呑む」ことができるようになったのかもしれない。
昔ながらの螺旋階段や1本の木を栗くり抜いた浴槽など、この「福住楼」で目にするすべてが、かつてここを愛した人たちの息吹を感じさせてくれ、自分もその歴史の1頁へ織り込まれたかのような、心地よい錯覚に落ち込んでいるような気がしている。先刻は、澤村社長に川端康成が逗留執筆した部屋を見せていただいた。今日は、これまでの“技術者以前”の域から大きく脱して“文学青年”になった思いでいる。

身も心もボーダーレスで(浅香兄)

実際には、70歳が“後期高齢者”との間のボーダーラインになっているのではないかと思う。出入りしているスポーツジムには、70歳を過ぎてやめていくメンバーが多い。海外旅行も、パッケージ・ツアーに頼ることなく、自分の好きなところに行けるのは70歳まで。自分も“後期高齢者”になる前に精一杯海外旅行をしようと思い立ち、昨年はエジプト観光と地中海クルージング、今年4月にはヨーロッパ旅行をし、その中で、ルーブル美術館で2日間を過ごすという贅沢な時の過ごし方をした。今後の旅行先としては、南米とアフリカに照準を合わせている。
家内の母親は、“超後期高齢者”の90歳で、頭がボケるとともに脚が弱くなってきている。かつてヒューストン在勤中に見聞したところによると、アメリカでは“超後期高齢者”をベッドに寝かせておかず歩かせるようにしている。フロリダでも、歩いている“超後期高齢者”を数多く見かけた。“後期高齢者”との間にボーダーラインを引こうとする日本のやり方には問題があると思う。身も心もボーダーレスの姿勢を保っていかなければ、目指すPPK(Pin Pin Korori)も実現できないのではないかと思う。

奥が深いフラのフリ(山田夫人)

岡田さんご夫妻と違って、同じ趣味を持つことは無理なので、夫とは「水と油」でフラダンスに興じています。始めてみて実感しているのは、フラダンスは奥が深いということです。言ってみれば“手話の始め”のようなもので、全て身“振り”をもって思いを伝えます。その思いというのも、嫉妬や恨みといった類のものは一切なく、「花が咲いてい香りがします」といったような単純なものばかりですが、“振り”について考えることが何よりのボケ防止になります。
しかし、こんなに一生懸命“振り”に取り組んでいる私を、夫は少しも“振り”向いてくれません。これは、私が夫の趣味に対して少しも“振り”向いてあげていないせいなのなのかもしれません。「人の振り見て我が振り直せ」で、少しは私の方から夫の趣味を“振り”向く“振り”でもしてみようかと思っています。

「ロープ」と「ひも」の違い(山田兄)

箱根登山鉄道がらみで湯河原ロープウェイの仕事をしていた昭和43年の、忘れもしない12月25日、トラブル処理をしていて現場に取り残されてしまったことがある。電話をすれど、なかなか迎えに来てくれず、「ひもじい」思いがした。
改めて考えてみれば、ロープウェイの場合は、ゴンドラ自体はしがみついているだけで「ロープ」が動くのだが、「ひも」の場合は、自らは動かず女性を働かせて貢がせる。だから、トラブルで休止してしまえば、「ロープ」は「ひも」同然になり、「ひもじい」思いがするのは当然なのだ。更に、先刻来のいい加減一家言流に悪乗りすると、「ひもじい」は、「歳をとって(爺になって)貢物が少なくなった“ひも”の状態」が語源なのかもしれない。
この手の「いい加減一家言」が、いかにもアバウトらしいところであり、実は「一番良い加減」なのかもしれない。

「聞く耳」と「利き耳」(岡田先輩)

最年長だけあって、身体の老化という面でも皆さんの先陣を切っているようだ。私の場合、“歯、○○、目”という俗説順位とは一線を画していて、老化の波が先ず「耳」に来ている。若かりし頃に「耳に胼胝ができる」ような経験をし過ぎたせいだろうか、左耳が聞こえなくなり右耳を「利き耳」にせざるを得ない状態になっている。
しかし、この片手ならぬ「片耳落ち」の状態も良し悪しで、About38の集いには「耳寄り」の話が多いので、「聞く耳」をもって聴く価値があるので顔を“右顧左眄”させて「利き耳」を傾ける必要があるが、「耳障り」な話や雑音の類は、「耳が遠いから聞こえなくても仕方がない」という開き直りの姿勢で「聞き流し」することによってシャットアウトすることができる。
老カップルで絵を描くために海外旅行にも出かけ、特に右脳の賦活に努めているが、一方の左脳が耳と同様に利かなくなってはいけないので、今後とも気合を入れてAbout38の一員になりすまして刺激を受け続けていきたいので、この“なりすまし偽装”をご容認いただきたい。

敏行法師法話(吉峰兄)

人脈を活かしながら、この時期にこの企画を立てられるのは、日本ヒロシと言えども佐々木ヒロシしかいない。共通の価値観に基づいた企画を立ててくれたおかげでサッカー並みの11名が集い、サッカーならでは感得し得ない"One for Eleven, Eleven For One"の連帯感まで味合わせてもらった。但し、主(紫陽花)客(温泉と酒)の転倒は想定外のことであった。“名門”小田原高校出身者にも読み違いはあるものだと知った。牧野、佐久間の両俳人に本格的校正指導をご放念いただくよう、敢えて俳句“風”として一句。
   紫陽花や過ぎたる雨に恨みあり
元技術屋の変貌振りに舌を巻いている。“技術屋以前”の松本兄はもとより、“生涯技術屋”として会社生活を全うした山田・浅香両兄も一層アバウトな人格に磨きがかかっている。久保田兄に至っては、“技術者以上”の尊称を呈したいくらいだ。歳月は人を老化させるばかりでなく、なお進化させるものなのだと実感している。

天真爛漫、宴の後先


坂東妻三郎ゆかりの部屋に集ったアバウト・イレブンの後方に掲げられた額には「天真爛漫」とありました。ここで吉峰兄が、坂妻ゆかりの田村正和(坂東妻三郎四兄弟の三男)が東芝提供TV番組で演ずる古畑任三郎の物まねと大河内伝次郎版炭坑節を熱演・熱唱・捏造(?)し、山口兄がこれに歌舞伎の声色で応じて、「天真爛漫」な宴会の締めくくりをしてくれました。
更に、この後、吉峰・山口“両優”の熱演が点火薬となって、仲居さんに誘われるまま三々五々スナックに乱入。岡田夫妻、山田夫人を除くアバウト・エイトによるカラオケ大熱唱会という更に想定外の展開となり、夏至(6/21)直後の最も短い夜を思い切り「天真爛漫」に過ごしました。

「アバウト憲章」の第1章「現在について愚痴っぽい話は一切しない」と第3章「同期生との集いを積極的に楽しもう」は、この「天真爛漫」と一脈相通じるものであるに違いありません。

イベントC:小田原城址観光・白昼小宴会
2008年6月23日(月)
鳴る電気蚊取り器の怪

早川の濁流の轟音の前には、さしも大音量を誇る鼾も気になるまいと、同室のY2SM(山口、吉峰、佐々木、松本)カルテット安心して床に就いたのですが、翌朝目覚めると、思わぬ騒音事件が発生していたということが分かりました。犠牲になったのは松本兄で、早朝4時頃から何やら断続的に物音がして都度安眠を妨げられたとのこと。そして、我慢がし切れなくなり、思い余って音源を探ってみると、寝ぼけ眼の先に電気蚊取り器が見つかったので、にじり寄って電源を引っこ抜いたところ騒音が止まったとのことでした。でもヘンですよね、この話。電気蚊取り器が音を発するなんて。実際、電源を抜かれた電気蚊取り器のすぐ隣りに私の携帯電話が横たわっていました。そう、アラームが4時に設定してあり、松本兄が電源を引っこ抜いたタイミングが、たまたまスヌーズ(自動的にアラーム信号を断続的に反復発生する)機能解除の時刻と一致しただけの話でした。松本兄、いよいよもって“技術者以前”の境地まっしぐらのようです。

朝湯、朝酒に朝開き

さて、第2日目のスタート。箱根での寝覚めとあれば、先ず温泉入浴となるに決まっています。この「福住楼」では男女交代制になっているのでしょうか、男子用浴場は、昨日の檜造りの大丸風呂と小丸風呂から岩風呂に変わっていました。こんな日替わり温泉というのも楽しいものです。そして、朝風呂から上がるとこれまた定番の朝酒。夜だろうと朝だろうと湯上りのビールの心地よさに変わりはありませんが、「朝っぱらから」という罪悪感に近いものが加わって心地よさが倍化します。そこへ供された朝餉は右の写真の通りで、一見変哲がなさそうに見えますが、相模湾直産直送の鯵の開きが圧巻でした。小田原で鯵尽くしで育った私が言うのですから間違いありません。この厳選された鯵の開きの上品な味付けは、地味ながら、「福住楼」の売り物の一つと言ってもいいように思えます。

菖蒲で勝負

澤村社長自らの見送りを受けた私たちは「福住楼」を後にして、「塔ノ沢」駅から箱根登山鉄道にのって「小田原」駅に降り立ちました。ここで、かねての予定通り、松本・吉峰両兄とはバイバイ。浅香兄は、「時間が許す範囲で」という条件で引き続き参加ということになりました。さて、小田原駅の西口を出た私たちは、不肖・佐々木が卒業した“名門”城山中学校の真下を通り、東海道線をまたぐ「青橋」を渡って小田原城址公園を目指します。紫陽花で不発に終わった花見を花菖蒲で勝負のし直しをする算段です。元野球場のあったところは駐車場になっていて、地元出身なのに、ここで右せんか左せんかの一逡巡する私。しかし、岡田先輩は委細構わず我が道を突き進みます。ことによると、岡田先輩は蜜蜂の生まれ変わりなのでしょうか、忽然として、雨中にも鮮やかな赤い欄干を背景にした花勝負の世界が眼前に現れました(下写真左&中央)。そして、想定外だったのは、花菖蒲より華やかに紫陽花がここで咲き競っていたことでした(下写真右)。


有り難う、我がふるさと・小田原!

花菖蒲から傾斜地に目を移してみると、色とりどり形様々な紫陽花たちが今が盛りとばかりに咲き乱れていました。梅、桜、躑躅に藤といった花々が小田原を彩る風物詩だということは幼い頃から知って育ったのですが、この「小田原の紫陽花」は全く私の脳裏には存在しないものでした。箱根路での紫陽花観賞の企画が挫折し、花菖蒲での勝負に苦戦していた地元出身の幹事を、こんな“裏技”で城址公園が救ってくれたのです。有り難う、我がふるさと・小田原!感謝の気持を胸に秘めながら、小田原城天守閣に面々をご案内して記念写真をパチリ(下写真下段右)。これをもって“門限”となった浅香兄は帰路を急ぐことになりました。


有り難う、みんな。また来て、皆さん

小田原城址公園から下ってからの道すがら、我が出身校である“名門”三の丸小学校(城内小学校と併合するまでは本町学校でした)の自慢話をしてまたぞろ一同を鼻白ませてから、花紫蘇白昼小宴会の会場に決めている箱根口の「本家・東喜庵」に到着。ここで、北海道母子里直仕入れの蕎麦粉を用いた蕎麦に、蕎麦豆腐、蕎麦味噌に蕎麦湯と蕎麦焼酎の“親子”コラボレーションなどを思い思いに堪能してから堪能して白昼の小宴会も終了。
徒歩で小田原駅に向かう途中で通ったお堀端は、春は桜が咲き乱れるところなのですが、折柄の雨天で濁った水に楠の並木を映した地味な佇まいで、去り行く私達を見送ってくれました。
有り難う、私たちを迎え入れてくれた箱根と小田原のみんな。皆さんも、また是非来てください。

以 上
                                      
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